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比翼の鳥・連理の枝(2)へ


 半刻ほど過ぎると、丁秦は一声呻いて目を開けた。付き添っていた羽依を認めると、丁秦ははにかんだように微笑んだ。
「気分はどう? 胃がむかついたりはしないかしら?」
 羽依が聞くと、丁秦は否、と言った。身を起こそうとすると鈍痛が走るらしく、丁秦は顔を顰める。羽依は丁秦を寝かせた。
「あなたは、無事だったの?」
 案じる丁秦に、羽依は頷いた。
「あなたが助けに入ってくれたおかげで、何もされずにすんだわ」
「そう、よかった――。僕でもあなたを助けることが出来たんだ」
 心の底から嬉しいようで、丁秦は顔を緩ませた。
「ありがとう。それと――ごめんなさい。わたくしが、無茶なことをしたから、あなたに怪我を負わせてしまったわ。どんなに感謝しても、しつくせないわ」
 謝る羽依の口を、丁秦は遮る。
「僕の怪我なんて、どうでもいいんだ。あなたが無事でさえいれば。
 今回の事で、僕にとって、あなたがどれほど大事な存在なのか思い知らされたよ。あなたが襲われそうになったのを見たとき、無我夢中で飛び出してた。足のことなんて忘れてたよ」
「丁秦殿……」
 丁秦の心が、羽依の胸にじわりと染み入る。今まで、羽依の目には丁秦が男として見えていなかった。己よりも子供のような気がして、丁秦がどんなに想いを告げようと、真正面から受け止めていなかった。今、はっきりと丁秦が等身大の男として目に映る。
「あなたが言っていたこと、なんとなく解ったような気がしたよ。言葉でどれだけ好きと言っても、態度で現わすのでは自分自身でも重みが違う。今、本当にあなたのことが好きだと実感したよ。こうして、僕の傍に付いていてくれるあなたの存在が、とてもありがたいんだ。意地を張って好きと言うのとでは、やっぱり違うよね」
 気恥ずかしそうに丁秦は言う。羽依も照れくさかった。ふたりきりだということを妙に感じて、こそばゆい。一種独特の緊張感がその場にあった。
 羽依は丁秦の体温で温まってしまった手巾を取り、冷水が張られた盥に浸す。布を硬く絞ると、丁秦の後頭部に充てる。丁秦は羽依の為すがままにされていた。
「酷く頭をぶつけたから、今日一日は油断しないほうがいいわ。わたくし、今夜は付きっきりで介抱するから」
「本当に? 嬉しいな」
 喜んで、丁秦は破顔した。羽依も朗らかに笑う。
「頭をぶつけて痛い思いをしたけれど、あなたに付きっきりで介抱してもらえるなら、ぶつけ得かな」
 冗談めかして丁秦は告げた。今の丁秦に邪気は感じられず、羽依は安心する。この丁秦なら、羽依は信じられると思った。
 やつれた玲琳のことも羽依は気にかかる。が、今宵は己のために怪我までした丁秦の心に応えてやりたかった。
 次の停留所に到着するまでの間、羽依は甲斐甲斐しく丁秦の面倒を看た。手巾が温くなると、こまめに交換した。丁秦は羽依の暖かさ、優しさに感動し、かつ罪悪感を感じた。羽依は、玲琳が己のために楚鴎に身を投げ出したと知らない。兄を呷り、暴走させる方向に糸を手繰った己だというのに、羽依は優しくしてくれる。今までは、羽依が玲琳と別れて己に振り向くことだけを望んできた。が、それは羽依の傷心を前提としてである。羽依を傷つけ、哀しませてまで己の欲を叶えることが、果たしていいことなのか、ここまできて丁秦は迷った。
 今からでも、羽依と玲琳の幸せを叶えてやっても、遅くはないのではないか。己の恋が実らずとも、羽依が幸せになってくれればそれでいいのではないかと感じた。そのためには、兄の玲琳への情欲を
なんとかしなくてはならない。
 手巾越しに伝わってくる羽依の手の熱さに、丁秦は目を瞑った。


 夕餉の支度ができても出てこない羽依に痺れをきらし、玲琳はふたり分の食べ物を持って丁秦の天幕に向かった。玲琳が顔を覗かせると、羽依は嬉々とした笑顔を見せる。寝具の中の丁秦に目を送ると、丁秦はわざと目を反らした。玲琳が気に入らなくてそうするというのではなく、どこか後ろめたいといった様子である。玲琳は訝しみながら羽依に夕餉を手渡しそっと目配せした。
 羽依は食事を床に置き、かわりに瓶を手にして玲琳のあとを追う。ふたりは連れ立って森の中に入った。森の中程に、飲用できるくらい水の澄んだ小川があった。小川のほとりに腰を下ろすと、羽依は水を汲んだ。
 羽依の仕種を何気なく見ながら、玲琳は呟く。
「今宵は、わたしを待つつもりはないのだな」
 羽依は振り返る。
「どうしてわかったの? 何も言っていなかったのに」
「先程からのおまえの行動で、そうだろうと思った」
 溜め息まじりに、玲琳は告げる。羽依は苦笑する。
「今宵は丁秦殿を放っておけないわ。わたくしのために怪我をしたのだもの。一晩だけだから、辛抱して、お願い」
 言葉の端々に、甘えが含まれる。それが玲琳の気に触る。
「絶対に行くなと言っても、聞かぬのか?」
 玲琳らしからぬ我が儘に、羽依は呆気にとられる。やがて、羽依はくすくす笑い出した。
「無理を言わないで。この状況で丁秦殿を放っておくのはあまりにも無責任だし無慈悲だわ。あなたにもそれはわかるでしょう? 心配しなくても、今宵の丁秦殿に悪戯をするような力はないわ」
 羽依の言はもっともなので、それ以上玲琳は何も言えなかった。玲琳の胸の内に、行き場のない苛立ちと焦りが渦巻く。
「さ、丁秦殿が待っているから戻らなくちゃ」
 羽依は踵を返す。目の前を通り過ぎようとした羽依の肢体に惹かれるようにして、玲琳は羽依を背後から抱き寄せる。その拍子に瓶が揺れ、中の水が少し溢れる。
 背中から響いてくる玲琳の鼓動に、羽依の息が震える。陶酔とした吐息が漏れる。
「わたしはただ、おまえと供にいたかっただけなのに、どうして思うようにならないのだ!? 李允にここにいることがばれてしまい、自分を殺してまでしたことが無駄になってしまった」
 思い掛けない玲琳の言葉に、羽依は目を見開く。
「――どういうこと? 自分を殺してまでって、何をしていたの?」
 はっとして、玲琳は己の口を押さえる。言うつもりはなかったのに、動揺のあまり己を制御できず、気が付けば胸の閊えを口にしていた。
「この頃、あなたがやつれているのは、それが原因なの?」
「――何でもない。思わせぶりなことを口にしてすまなかった」
 そう言うと、玲琳は先に歩き出す。
「ま、待って! お願いだからちゃんと説明して!」
 羽依は叫ぶが、玲琳の背はみるみる遠くなった。
 ――自分を殺してまで、楚鴎殿と……?
 それしか、考えられない。己の性の過去を嫌悪している玲琳が、再度楚鴎と躯の関係を結ぶなど、不自然だとずっと思っていた。が、玲琳が自分を殺してまで楚鴎に応えていたと言うのなら、一挙に疑問が解決する。
 ――玲琳が、わたくしのために、楚鴎殿と?
 ぶるりと、羽依の躯に悪寒が走る。己を無視して楚鴎と躯を交わし続ける玲琳を恨んだ。その恨みが、まったく筋違いなものだとしたら? 玲琳がやつれている根源たる理由が、己にあるとすれば?
 小刻みに震えながら、羽依は瓶を抱き締めた。


 羽依が天幕に戻ると、丁秦は半身を起こして、虚ろな瞳で遠くを見据えていた。驚いて羽依は駆け寄り丁秦を横たわらせる。
「まだ、無理をしてはいけないわ。今夜は寝ておかないと」
 叱る羽依に、丁秦は淡く微笑んだ。
「――僕には、真似できないな」
「……? 何の?」
 訳が解らず、羽依は聞き返す。
「玲琳王子はあなたを狙って、女の身形をして北宇の後宮に入り込んだんだ。というのに、王子はあなたを愛してしまって、結局、今までの自分の生き方をすべて否定したんだ。とても勇気のいることだよね。今までの僕は、そんな王子が恥知らずで自分勝手だと思ってた。でも、王子の生き方は、自分への誹謗中傷を恐れない、というよりあえて受け止める生き方なんだよね」
 しみじみと、丁秦は漏らす。
「丁秦殿……」
「やっぱり、とても勇気があるんだよね。どちらにしても、僕には真似できない。僕は、あそこまで愛することに全身全霊を掛けられないよ」
 丁秦の言葉は、玲琳に対して己の敗北を宣言しているようである。
「でもね、僕があなたを愛しているのも、本当なんだ。だから、僕は僕にできるやりかたであなたへの愛を見せたい。今からでも、遅くはないよね」
 告げて、丁秦は羽依は見つめる。息を飲んで、羽依は丁秦の変わり様を見守っていた。まるで、子供の我が儘のように見えていた丁秦の恋が、大人のそれへと変貌していく。もう、丁秦を子供のようだとは言えなかった。
「丁秦殿、急に大人になったみたい」
「……そうかな」
 丁秦は照れるが、ふと、真顔になった。
「うん。多分、大人になれたのかもしれない。あなたの言を借りれば」
 大人へと成長した男の眼差しが羽依に注がれる。羽依は少しだけときめきを覚えた。
 ――わたくしの言?
 丁秦を成長させた己の科白など、羽依の記憶にない。記憶するほどの余裕もなかった。が、確かに、羽依は決定付けるひと言を述べていた。
 大人になることは、何かを諦めることだ、と……。


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 苦い嘆息を噛み殺しながら、玲琳は楚鴎の天幕の前に立つ。
 今頃、羽依は丁秦とともにいる。談笑したり、たわいのない四方山話をしているのかもしれない。あるいは、寄り添いあっているのか、と――。玲琳の空想は、嫌悪するほうへ向かっていく。
 丁秦が羽依を庇ったことによって、羽依の心は確実に丁秦に傾いた。蔑ろにしているつもりはないが、羽依に触れることの出来ない玲琳のほうが、丁秦よりも不利である。その上、義族と行動していることが李允に明らかになってしまったというのに、楚鴎は玲琳を足留めしようとする。今、こうして楚鴎の天幕の前に立っていることが、玲琳には無意味に思える。
 ――楚鴎にはっきり言って、はやくここから離れよう。
 もはや、楚鴎が玲琳を縛る枷は何ひとつない。羽依を盾にすることも出来なくなった。このまま、楚鴎との信頼を破綻させてしまうのなら、玲琳は楚鴎と決別したかった。そのほうが、互いのためだ。
 玲琳が天幕の帷を掴んだとき、中から楚鴎と女の話し声が届いた。義族の一員に、女はいない。楚鴎が誰と離しているのか見当がつかなかった。躊躇いながら、玲琳は帷を開ける。
 楚鴎と話していたのは、間者風の女だった。玲琳に気付くと、女は優雅に頭を下げ、軽く跳躍して姿を消した。
「――どこの手の者だ?」
「陶衡の屋敷に忍び込ませていた、俺の手下だ」
 合点がいき、玲琳は頷く。楚鴎が各国の要人宅に間者を放っているのを、玲琳は把握している。
「で、なんの話しをしていたのだ」
 表情を引き締めて、玲琳は尋ねた。
「陶衡に、俺がおまえと昭妃を匿っていることを投げ文した」
「――なんだと!?」
 玲琳の顔色が変わる。玲琳の豹変に、楚鴎は片眉をあげた。
「都合が悪いのか? 李允と折り合いの悪い陶衡ならば、いざというとき使えるだろう」
「陶衡将軍には手を出すな」
「何故だ?」
「――わたしと羽依だけの秘密だ。おまえにも知られたくない」
 玲琳はそう言い逃れる。己と羽依と、陶嬪の捩れた関係は、言っても楚鴎には理解できない。玲琳は口にするのを憚った。
「――ふん、おまえと昭妃の間だけの秘密か。俺には言えぬと? 
 まあ、それも面白い。昭妃との間に秘密があるように、俺とおまえの間にも昭妃には言えぬ秘密がある。それに……」
 楚鴎は近寄ると玲琳の項を撫で上げ、玲琳の結わえあげていた長い髪を解く。楚鴎の指の感触と、首筋に触れる髪に玲琳は咽を震わせる。
「何かあれば、こうやっておまえの躯に聞ける」
 玲琳の衣の袷の中に手を入れると、楚鴎は意地悪く玲琳の乳首を抓った。うッ、と呻き、玲琳は大きく息を喘がせる。
「楚……鴎。もう、おまえと躯を重ねる意味は……ない。放してくれ」
 高まる躯に、玲琳は声を上擦らせる。蠱惑的な玲琳の色香に、楚鴎はたまらず玲琳を押し倒す。手早くすべての衣服を剥ぎ取ってしまい、楚鴎は一糸纏わぬ玲琳の、真珠のごとき肌を愛でる。
「俺は……もう、おまえなしでは生きていけぬ。おまえは媚薬だ」
 玲琳は眉を潜めた。
 楚鴎は己を求めているのではなく、己の躯に浸りきっているだけなのだ。躯を交わすことで、どれだけ己が苦しんでいるのかなどは、楚鴎にとって問題ではないらしい。玲琳は絶望した。
 助けを求められるのは、羽依しかいない。が、羽依は丁秦の傍にいる。何より、羽依には知られたくない。知ってしまえば、羽依は今のように接してくれないのかもしれない。羽依に触れることが叶わなくなる。
 楚鴎に躯を責められ、玲琳は理性を混濁のなかに沈めた。

「麓扶殿、丁秦殿はどこに行かれたのです?」
 天幕の中でたったひとり取り残されていた麓扶に、羽依は問い質した。
 灯火が切れかかっていたので、羽依が油を貰いに天幕から抜け出している隙に、丁秦が姿を消したのだ。痛む頭を抱えてどこにいったのかと、羽依は案じた。
「……頭のところに」
 口数少なく、麓扶は告げる。
「楚鴎殿の天幕に? 一体、どうしたのかしら」
 暫時、羽依は思案するが、油を半分麓扶に預け、もう半分に火を付けると天幕から出た。
 こんな夜更けに、丁秦は楚鴎に何の用があるのだろうか。それに、あまり考えたくない事柄だが、今頃、玲琳は楚鴎の天幕にいるのではないだろうか。が、もしかすると、丁秦は楚鴎に呼びつけられたのかもしれない。
 どちらにしろ、丁秦のことが気掛かりなので、羽依も楚鴎の天幕に向かった。楚鴎の天幕は森の奥まったところにある。灯火を頼りに羽依は暗い森に入る。
 丁秦は、楚鴎の天幕の入り口で棒立ちになっていた。入るに入りづらい様子で、丁秦は当惑した面持ちをしている。音を立てずに羽依は近付いた。
 灯火に照らされた羽依の面に、丁秦はぎょっとした。
「丁秦殿、何をしているの。楚鴎殿に用があるなら、明日でもいいのでは?」
 羽依はそう提言した。が、丁秦は羽依の躯を押しやる。
「い、いいから、先に戻っていて。心配しなくても大丈夫……」
 丁秦がそう言ったそのとき、である。
 天幕の内から、玲琳の一際悩ましい声が聞こえてきた。
「も……う、やめ……ろ。躯が、溶け……る……っ!」
 それは、羽依の内奥を鋭く抉った。羽依の飢餓を真直ぐに刺激し、大きく鼓動を打った。躯中の血潮が一気に引くような錯角がした。あまりの衝撃に、羽依は目眩を起こし、倒れそうになる。丁秦が腕を延ばして羽依を抱きとめた。
「……や、いや……っ!」
 唇を戦慄かせ、羽依は悲鳴に似た声を放つ。声に力が籠っていなかったので、天幕の中には届かなかったが。
「う……羽依殿、はやく、戻ろう……」
 蒼白になりながらも、丁秦は羽依の手を引いた。その間にも、玲琳の喘ぎが耳を突く。平生とはまったく違う、玲琳の熱に浮かされ高く掠れた声が、羽依の生理に突き刺さった。これ以上、羽依を立ち会わせるのは危険だと、丁秦は焦る。
 が――、
「誰かいるのか?」
 天幕の中の楚鴎が、外にいる気配に声を掛ける。びくり、とふたりは金縛りになった。動かない気配に、焦れて楚鴎は言う。
「いい……から、入れ。遠慮はいらん」
 言いながら、楚鴎は呻き声をあげる。羽依は耳を覆いたかった。が、耳を覆っても情交の声が否応無しに入ってくる。
「聞こえ……んのか。いい加減にしないと……」
 楚鴎の声に怒りが孕む。意を決して、丁秦は天幕を開けた。

 信じられない光景だった。
 うつ伏せの態勢になった玲琳の背中に、楚鴎が覆い被さっている。ふたりの男の、交合する生々しい現場があった。人目があるのを憚らず、楚鴎は玲琳の中を刺し貫いていた。天幕中に籠る男の汗の匂いと、言い様のない異臭――。羽依は吐き気を覚えた。
 激しく動きながら、楚鴎が目をあげ、羽依の目とかち合った。楚鴎の目に、酷薄な笑みが浮かび、汗ばむ手が玲琳の顎を無理矢理掴んで、入り口に向かせた。
「――――ッ!」
 打撃のあまり顔を歪ませた羽依の姿が、玲琳の目に映る。あらんばかりに目を開き、玲琳は躯を震わせる。あろうことか、羽依にそれを目撃されてしまった――玲琳の苦痛は、頂点に達した。
「み……見るな……」
 血の気の失せた玲琳の面が、悵然として崩れた。羽依の心に酷い痛みが走る。
「見るなァ――――ッ!」
 玲琳の絶叫が、耐えられず天幕から出た羽依の背を追い掛ける。羽依は耳を押さえ、涙を拭わぬまま走った。
 絶望と諦観に崩れ落ちた玲琳の躯に、楚鴎は劣情を叩き付けた。

 羽依は丁秦の天幕には戻らず、己の天幕に帰った。敷かれた寝具の上に伏し、泣き声を放った。
 玲琳の、哀しみと諦めで彩られた面が、逃げ出した羽依の心を責める。反射的に楚鴎の天幕を飛び出し、玲琳を置き去りにしてしまった。そうしなければ、羽依は壊れてしまいそうだった。
 羽依の頭と心は錯乱し、混迷していた。楚鴎への嫉妬や玲琳への怒り、土壇場で玲琳を見放してしまった己への痛罵、そして理性を抉る訳の解らない衝動――。泣き声を放つことで、激情を出し尽くしてしまいたかった。
 去った己のあとを、玲琳は追ってこない。羽依は秘かに期待していた。躯を交わしている楚鴎を突き放してでも己を追い掛けてほしかった。今の玲琳にはそんな余裕がないことなど解りきっているのに。
 何より、見てしまったことを後悔していた。丁秦に言われるまま、すぐにあの場を去っていればこんなことにはならなかったのだ。すでに遅い、玲琳はもう己を追わないだろう。どんなに己が愛していると言っても信じないだろう。そう思うと余計に涙がでて止まらなかった。
 不意に、帷の滑る音がして羽依は顔をあげる。もしやと思い振り返ったが、思い描いた人ではなく丁秦だった。落胆し、羽依は肩を落とす。丁秦は辛そうに羽依を見た。
「ごめん、僕があそこに行かなければ……」
「喋らないで! 何も聞きたくないッ!」
 羽依は大声で遮った。
「――怒って、当然だよね。僕が勝手なことをしたから」
 悄然とした面持ちで、丁秦が呟く。
「違うわ! わたくしが許せないのは、自分自身よッ!」
 激しく言い切る羽依に、丁秦は面喰らう。
「わたくしのせいで、玲琳は楚鴎殿に抱かれたのよ。わたくしのために無理をして! それなのに、わたくしは逃げ出してしまったのよ! そんな自分が一番許せないの!」
 荒れた表情で、羽依は丁秦を睨み付けた。丁秦はこんな羽依を知らなかった。まったく違う女を相手にしている錯角がした。
「で……でも、玲琳王子はあなたが好きだったから――」
「馬鹿なこと言わないでよ! わたくしは誰にも好かれる値うちはないわ!」
「僕だって、あなたが好き――」
「わたくしの姿形がでしょうッ! わたくし自身ではないわ! どうして、皆、わたくしをわたくしと見ないで形だけ欲しがるの?! わたくしがどんなに嫌な女で、ずるい女か知りもしないで! いいえ、男達にはそんなこと関係ないわよね! わたくしは人形だもの!
 そうよッ、わたくしは男なんて大嫌い! 人間なんて大嫌い! わたくし自身が一番、大嫌いッ――!」
 吐き尽くすだけ吐き尽くして、羽依はその場に泣き崩れる。己を憐憫の目で見る丁秦の事など、もうどうでもよかった。恥も外聞も、どうでもよかった。
「おまえがどんなに嫌な女でも、ずるい女でも、わたしはおまえが欲しい」
 はっと、羽依は頭を起こす。入り口に、玲琳が佇んでいた。乱れた姿はそのままだが、確かに澄んだ瞳で羽依を見つめている。
「玲琳……」
 錯乱する羽依のもとに、玲琳は足を一歩踏み出す。羽依は咄嗟に身構える。
 丁秦は吐息すると、ふたりから背を向け、か細く呟いた。
「結局、あなた達は互いにしか癒されないんだね……。他人がどう足掻いても、無理なんだ……。玲琳王子、あなたがいれば僕の出る幕なんてまったくないよ」
 微笑んで、丁秦は天幕から出た。玲琳は複雑な思いで丁秦を見送った。
「近寄らないで!」
 顔を背け、羽依は玲琳を拒む。
「羽依……」
 哀しい笑みを見せ、玲琳はさらに歩み寄る。
「今のわたくしは、あなたに何をするか解らないわ! あなたを傷つけて、ぼろぼろにするかも……」
「おまえに傷つけられるなら、本望だ」
 優しい声音で、玲琳は告げる。それでも、羽依は頑さを解かない。
「おまえは、わたしが嫌いか?」
 ありったけの思いを込め、玲琳が聞く。間をおいて、羽依は静かに首を振った。
「嫌い……なら、こんなに苦しみはしないわ……。でも、あなたにこんな嫌な女を好きになってほしくないだけ……」
 俯いて、羽依は涙を零す。玲琳の手が、羽依の肩に触れ、向き直らせる。
「駄目……今のわたくし、本当になにするか……。嫉妬や、怒りでぐちゃぐちゃに……」
 必死に顔を背けて、羽依は玲琳を見ないようにした。
「おまえがどんな女だろうと、わたしはおまえのすべてが欲しい。今のわたしは、わたし自身よりもおまえのことが大事だから。
 楚鴎に穢されたが、それでおまえを救えるのなら、わたしはなんの後悔もしていない。今でも、それは変わらない」
 玲琳は羽依の頬を両手で挟んで、自分と真正面に向かせた。為す術もなく、羽依は玲琳を瞳に入れてしまう。玲琳の躯のあちこちに、楚鴎との情事のあとが残っていた。項に、鎖骨に、はだけた胸元に、衣の下に隠された箇所に楚鴎の接吻のあとが赤く残っている。羽依の躯の血が逆流した。熱く駆け巡る血が、先刻の、楚鴎の下で凄艶に乱れていた玲琳を思い出させた。玲琳の姿が、火種となって羽依の激情に火をつけた。
 きッ、と玲琳を睨むと、羽依は己の躯をぶつけるようにして玲琳を押し倒す。呆然とする玲琳を無視して、羽依は鬱血痕に唇をつけ、強く吸う。玲琳の躯が大きく跳ねる。
「う……羽依」
 玲琳の声が掠れる。気にせず、羽依は玲琳の寝衣の帯を解いた。現れ出た光沢のある素肌に、羽依は指を這わせる。玲琳の息が乱れ始めた。たまらず、玲琳は躯を起こそうとするが、羽依に押さえ付けられてしまう。
「わたくしは、あなたを許していないのよ! あなたを犯していいのはわたくしだけなのだから!」
 そう言うと、羽依は玲琳の肩に歯を立てる。痛みに、玲琳は呻いた。
 こんなに大胆な羽依を、玲琳は今まで見たことがなかった。唇と指を玲琳の躯の上で奔放に這わせ、玲琳の躯に今まで味わったことのない性感を呼び起こした。今まで以上に妖しい羽依の乱れかたに、玲琳もまた惑乱した。玲琳は主導権を取ろうと何度も試みるが、その度羽依に押し戻されてしまう。羽依は頑として玲琳を犯すつもりでいた。女は自ら男を昂らせ、己の躯の中に沈めた。女の躯に飲み込まれる感覚に、男もまた溺れた。躯の上で放恣に乱れる羽依が、玲琳にはたまらなく美しく見えた。楚鴎は玲琳を媚薬と言ったが、玲琳には羽依が媚薬に思える。ふたりの男女の情熱が同時に弾け、崩れた。
 己の胸に凭れ、肩で息をする羽依に、玲琳は言った。
「――これで、気がすんだか」
 玲琳の醒めた声に、我に帰った羽依は躯を放す。玲琳も身を起こす。羽依は自分のしたことに衝撃を受け、震えていた。
「ご……ごめんなさい。わたくし、とんでもないことを……」
 玲琳の肌の上に残る新たな唇の痕に、羽依は涙ぐむ。玲琳は溜め息を吐いた。
「あなたにとって一番嫌なことなのに……。あなたの上に残る痕を見ると、どうしようもなく嫉妬に駆られて、止められなかったの――」
 羽依は手で口を覆い、泣きじゃくる。しばらく玲琳は羽依が泣く様を見つめていたが、やおら手を延ばすと羽依の剥き出しの肩を掴み、引き寄せて己の躯の下に組み敷いた。呆気に取られ、羽依は玲琳の顔を見る。玲琳は羽依の唇を唇で無造作に塞いだ。驚いた羽依の声も、執拗な接吻が吸い尽くしてしまう。やっと顔が離れると、玲琳は満面の笑顔を浮かべていた。
「れ、玲琳……?」
 さも可笑しそうに、玲琳は羽依の身体に覆い被さる。己の上で肩を揺らして笑う玲琳に、羽依は当惑した。
「まったく、おまえには驚かされる。わたしは、本当のおまえをすべて掴み切れていなかったのだな。普段のおまえが真実のおまえなのか、それとも、大胆不敵なおまえが真実のおまえなのか……」
 過剰な玲琳の笑いに、徐々に先程の己の行動を克明に思い出し、羽依は羞恥で顔を真っ赤に染める。
面白そうに、玲琳は羽依の熟れた果実のような面と身体を覗き見る。羽依は顔を背けようとするが、玲琳は含羞して火照る肢体を強く抱き締める。
「み……見ないで、恥ずかしいから」
「これが、見ずにいられるか。これほど、妖しく美しいというのに」
 玲琳は巧みに羽依を言葉で責める。益々羽依の顔は赤らむ。
「い……意地悪」
 しばし笑い続けていたが、玲琳は羽依の耳許に甘い言葉を注ぎ込んだ。
「わたしのあのような姿を目撃したのに、おまえはこんな形でわたしを受け入れてくれた。正直、嬉しかった」
 強く抱き締めてくる玲琳に、羽依の胸は高鳴る。ずっとこのままでいたかった。
 この夜、ふたりは倦むことなく互いを求めあった。高まるまま、どちらが先ともなく様々な姿態で結びあった。空が白み始めたころ、ふたりは朝まで束の間の眠りに落ちた。


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 気が付けば、羽依は泥のような闇の渦中に取り残されていた。周囲を見回すが、誰もいない。いつも傍にいると言った玲琳の姿さえ見当たらない。虚無と孤独の恐怖に、羽依は叫ぶ。大声で愛する人の名を呼ぶ。
 無明の闇の中、たったひとつだけ朧なひかりが浮かぶ。ゆらゆらと揺れ、ひかりは羽依の近くまで寄ってきた。羽依がひかりに手を差し延ばすと、ひかりの中から太い男の腕が突き出された。咄嗟に羽依は腕を引っ込めるが、男の腕は羽依の手を掴んで放さない。羽依は悲鳴をあげそうになる。
 ひかりが男の輪郭を形作る。やがて男の顔が鮮明になり、ひっと羽依は息を詰める。
 ――おまえは俺だけのものだ。他のものには渡さぬ。
 皇帝・牽櫂が恐ろしさに引き攣る羽依を抱き竦める。もがいて、男の腕から逃れようとするが、男の力は堅く、羽依を羽交い締めにする。牽櫂は容易く羽依の自由を奪い、女の柔肌に舌を這わせた。怖気と苦痛に羽依は泣き叫ぶ。声が嗄れるほどに玲琳を呼ぶ。が、救いがないまま男の兇器によって躯を割かれる。女は悲痛な声を放った。
 ――終生、おまえは俺の女だ。死によって終わりはしない。
 牽櫂の声が、何度も羽依の脳裏を響かせた。声は呪縛となって消えずに羽依の躯の中を侵食した。

「羽依、羽依――!」
 肩を強く揺さぶられ、羽依は目を覚ました。血相を変えた玲琳が、羽依の躯を抱き寄せていた。たまらず羽依は玲琳の首に腕を廻し縋り付く。玲琳は羽依を強く抱き締めた。
「助けて、恐いッ――!」
「大丈夫、ただの夢だ!」
 落ち着かせるため、玲琳は羽依の頬を軽く叩いた。玲琳の冷静な瞳に、羽依の震えは収まってくる。
玲琳は羽依の背を撫でた。
 夢というには生々しく牽櫂の感触が残っている。まるで羽依の夢の中に牽櫂の亡魂が侵入し、呪いをかけた感がした。羽依は身震いする。
「ゆ、夢の中でまで、陛下がわたくしを犯してくるの。死んでも陛下の執着は終わりはしない、と……」 
 あまりの恐ろしさに、羽依は口に出して忘れようとした。玲琳の目が険しくなる。
「死んでまでおまえを独占しようとは……。否、ただの夢だ。皇帝は死んだのだから現実のおまえになにもできはしない」
 自分に言い聞かせるため、玲琳ははっきり言った。羽依は頷く。
 羽依の躯を抱き締めたまま、玲琳は横たわる。羽依は玲琳にすり寄った。そうしなければ、先程の悪夢に己を喰い尽くされてしまいそうだったから。玲琳の体温が、羽依の内に巣食った恐怖を柔らかく沈静させた。
「たとえ、皇帝の執着が未だ残っていたとしても、わたしが撃退してみせる。おまえを護るためならば、わたしは何者にも負けはしない」
 そう言って、玲琳は羽依の躯を撫でた。夢が残した悪しき感触が、ゆるゆると癒されていく。呼吸が落ち着くまで、ふたりは寄り添っていた。
 いつのまにか空は白んで、すっかり朝が到来していた。頭を擡げた羽依に、玲琳は穏やかな声をかける。
「皇帝と楚鴎の愛しかたは似ているな」
 羽依は玲琳の面を見つめる。
「躯によって愛を繋げると思い込んでいるのだ。そのやり方が、例え相手にとって苦痛以外のなにものでなくとも」
 羽依も牽櫂の記憶を引き寄せる。
「――そうね。あなたの国を滅ぼし、わたくしの両親を殺めてまでわたくしを手に入れたけれど、わたくしには辛さしかなかったわ。あの人は地位や物質でわたくしを満たそうとしてくれたけれど、わたくしが欲しかったのはそんなものではなかったもの。わたくしは愛せる自由が欲しかったのよ。愛を注がれる一方ではなく、わたくしから積極的に愛したかったの」
「先程みたいに?」
 冗談のように玲琳が言う。その瞳が悪戯っぽく輝いていた。羽依は頬を染めたが、否定はしなかった。
「あなたが言ったけれど、奔放なわたくしもわたくしの一部なのよ。わたくしでさえ今まで知らなかった。あなたに向かって激情を解放した瞬間、驚くほど身が軽くなったの。きっとわたくし自身、知らない内にわたくしの一部を封印していたのね」
「他の男はどうかは知らぬが、わたしは先程のおまえに魅了された。わたしが介入することを許してくれるのなら、わたしは奔放なおまえでもかまわぬ。むしろ、そのほうが刺激的だ」
 呷ってくる玲琳の言に、さらに羽依は紅潮する。羽依自身は自分のしたことに羞恥を感じるが、この調子では玲琳の巧みな誘導に引き摺られてしまうだろう。それはそれで、羽依にとっても新鮮だった。牽櫂との間では、羽依に自由はなかった。ただ、牽櫂ひとりが堪能する味気ないものだった。勿論、羽依の躯に快楽はなかった。
「わたくしはあなたに出会って、わたくし自身のことも色々知ったの。あなたがわたくしの知らないわたくしを引き出してくれたから……。あなたに出会って恋したから、わたくしは解放されたのよ。陛下は、わたくしを縛って自分の思い通りにしたかっただけなのよ。あの人は何でもできる立場にあったから、すべての物事が自分の思い通りになると思っていたわ。でも女は違う、女は互いに愛しあって初めて開かれるのよ。あの人のやり方では、わたくしは開かれない」
 自信を持って断言する羽依が、玲琳の目に輝かしく映った。人形のようだった頃とはまるで違う、活き活きとした生身の女人がいた。玲琳は目を細める。
「それをいうなら、わたしもおまえに色々教えられた。わたしにとって性は人を操る手段であって、愛を繋ぐ営みではなかった。だからわたしは特別性愛に感動を覚えなかったが、おまえに触れて初めて心が動いた。ただの性交と愛しあうことがどう違うのか教えられたのだ。おまえを憎み、復讐を遂げていたら、わたしはきっと何かに欠けた人間になっていただろう。愛を知らぬままに死んでいたはずだ。おまえは、わたしが奈落の底に落ちる寸前に救ってくれたのだ。
 楚鴎の言う通り、女に身をやつさなければ復讐を遂げられなかったし、おまえと出会うことはなかっただろう。だが、愛がないままに他人と躯を交わし、心を見失ってしまうことがいいことだとは、絶対に言えない。わたしは、楚鴎を許すことができない」
 あるがままに淡々と告げる玲琳を見て、羽依は涙ぐむ。玲琳は楚鴎を肉親のように思い、楚鴎は玲琳を性愛でもって接した。はじまりから、ふたりは間違ってしまったのだろう。それが、羽依には哀しい。
「それでもね、今にして思えば、陛下が本当にわたくしを愛してくれていたことが解るの。わたくしはあなたを助けるために陛下を刺したわ。それなのに、最期に陛下は笑っていたの。わたくしに刺されて本望だと――。愛しかたは間違っていたけれど、確かに陛下はわたくしを愛していたのよ。きっとわたくしは陛下の最期を忘れない」
 涙ながらに羽依は告げる。玲琳は死んだ牽櫂にうっすらと嫉妬を覚えた。
「楚鴎殿も、それと同じ――。あの人も愛しかたを間違っているだけなの。愛しかたを間違ってしまったせいで陛下はわたくしを永遠に得られなかったわ。でも、楚鴎殿はもう取りかえしがつかないの?
今ではもう遅いの? このまま、永遠に楚鴎殿を失うことに、あなたは耐えられるの?」
 羽依の問いかけに玲琳は口を噤んだ。楚鴎を慕ってきた過去が悲痛な声を漏らしている。が、玲琳は首を振った。
「もう、無理だ。なくしたものを取りかえすことはできない。このまま、足掻いて互いにもっと傷付くのなら、このまま別れたほうが互いのためだ。
 それに、別れは既に昨晩すませてきた。おまえに見られた直後、わたしは楚鴎に永遠の決別を言い渡した。楚鴎が、わたしの浅ましい姿をわざとおまえに見せたことは、決して許せることではない。あの瞬間、わたしは楚鴎に見切りをつけた。今のわたしは、おまえさえいてくれれば満足だ」
 言いながら、玲琳は下着を身に纏う。空しさを噛み締めて、羽依も躯を起こし衣服を身につける。
「そう――あなたがそれでいいというのなら、わたくしは何も言えないわ。ただ、後悔だけはしないで。後悔するようなら、もっと考えましょう。他にいい方法が見つかるかもしれないから」
 玲琳を思いやって羽依は手を差し伸べる。己の腕を掴む柔らかな手の感触を、玲琳は愛しそうに握る。
「明後日、ここから出立する。今度こそ、ふたりだけの逃避行だ」
 玲琳の堅い決意に羽依は息を飲む。が、それ以上言葉はなかった。ただ、今の玲琳は酷く傷付いているだろうと案じられた。黙って、羽依は玲琳の腕に頬を寄せる。
「こうしているだけで、あなたを癒せることができたなら――」
 切なく羽依は告げる。羽依の心が嬉しくて、玲琳は細い肢体を抱き寄せる。
 ――おまえは知らないかもしれないが、おまえの存在がすでに癒しになっている。
 玲琳はそう言葉を思い描いたが、あえて口にはしなかった。触れあっているだけで伝わっているだろうことがわかっていた。
 羽依は自ら玲琳の面に顔を寄せる。いとも自然に、ふたりの唇は重なった。軽く啄み、ふたりは互いに笑みを漏らした。寄り添いあったまま、ふたりは新しい一歩を踏み出すべく天幕をあとにした。


 ふたりが天幕からでてくると、義族の一団に出立の気配はなかった。玲琳は眉を寄せ、通りかかった者に声を掛ける。
「昨日、何か頭にいいましたか? 頭の何だか変なんだよ」
 男も訝しんでいるようで、逆に玲琳に聞き返してきた。
「変とは? 楚鴎に何かあったのか?」
「それがさ、朝っぱらから酒浸りになってるんだよ。浴びるほどに飲んでさ。丁秦殿が止めに入ってくれてるんだけれど、まったく効果がないらしいんだ」
 ひと通り聞くと、玲琳は男から離れた。
「丁秦の言うことを聞かないとは、重傷だな」
 玲琳は嘆息する。
 ――無理もない。
 羽依はそう思う。愛する玲琳から決別を告げられ、楚鴎は自暴自棄になっているのだろう。無気力になって、酒に逃げたくなる気持ちも解らないわけではない。羽依は楚鴎が傷ましかった。同時に、玲琳も。玲琳は平静な素振りを装っている。
 仕方のないことだが、羽依は見ていられない。玲琳と別れて、これから楚鴎はどうするつもりなのだろう。気にかかるといえば、丁秦のこともだ。
 丁秦は羽依のことを諦めたらしく、昨夜は潔く身を引いた。どういう変わり身かは知らないが、羽依が義族から去ると聞くと、丁秦はどう思うだろう。楚鴎と同じように壊れたりはしないだろうか。あるいは、楚鴎から玲琳と訣別したことを聞いているかもしれないので、羽依が離れることを知っているかもしれない。
 羽依は丁秦にだけはきちんと別れを告げたかった。錯乱していたが、昨夜、丁秦が言ったことを覚えている。
 ――結局、あなた達は互いにしか癒されないんだね。他人がどう足掻いても、無理なんだ。玲琳王子がいれば僕の出る幕なんてまったくないよ。
 言葉の内容からすれば、丁秦が羽依を思って玲琳に譲ったということになる。丁秦は事あるごとに玲琳に反発し、玲琳の目があっても平気で羽依に手を出してきた。だから、この変心は羽依の幸せのために身を引いたことになるのか。それならば、羽依は丁秦の心に対して、精一杯の感謝を現わさなければならない。羽依は丁秦の心に感動し、傍らの玲琳の袖を引いた。
「ねぇ、丁秦殿はわたくしのことを思って身を引いてくれたの。あの丁秦殿が、素晴らしいことだと思わない?」
 目を潤ませる羽依に、玲琳は頷く。
「ああ、丁秦も自己本意ではない愛に目覚めたのだな」
 玲琳も、昨夜大人の目をした丁秦を目の当たりにしていた。
「丁秦殿には、ちゃんとお別れを言っておきたいの。いいでしょう?」
 羽依は懇願する。以前の丁秦なら危険なので玲琳は羽依を傍に近付けたくなかった。が、成長した丁秦ならば、信じてもいいような気がする。玲琳は羽依の肩を叩いた。

 羽依は丁秦がひとりになるのを見計らったが、丁秦は楚鴎の傍についたままなかなか離れようとはしない。羽依が焦れているうちに火がくれてしまった。日中、楚鴎の動く気配はまったくなく、完全に忘我しているようだ。
 夜半になり、少ない荷物を纏め終わると、玲琳は食料を分けてもらって戻ってきた。
「今日一日は待ってもいいが、明日にはここを離れる。あまり長く引き延ばせば、楚鴎を刺激してしまうだろう」
 玲琳はそう釘を刺す。羽依は玲琳の心の中を推し量る。本当に、こうするしか方法がないのだろうか。楚鴎に何も言わずに離れて、玲琳は心残りしないのだろうか。しかしながら、玲琳の表情がなかったので、心のうちを推量する術はない。羽依は唇を噛んだ。
「本当に、あなたは後悔しない? ここで離れてしまえば、二度ともとには戻れないのよ。あなたにとって、楚鴎殿はふたりといない大事な人なんでしょう?」
 羽依は念を押すが、玲琳は感情のない瞳で切り返した。
「くどいぞ。おまえこそ、わたし達の間を引き裂いた楚鴎が憎くはないのか。それとも、まったく嫉妬もしないと?」
 慌てて、羽依は頭を振る。
「そうじゃないわ! わたくしはずっと楚鴎殿に嫉妬してきたのよ。あなたがわたくしに手を出せないよう、あなたを独り占めしたりして――。でもね、それとこれとは別問題よ。あなたと楚鴎殿の間には、わたくしなどでは入れない聖域があるはずでしょう。国を滅ぼされて、絶望していたあなたをここまで支えてきたのは、楚鴎殿だけなのだから。ここで楚鴎殿との絆が切れてしまえば、あなたは死ぬまで後悔するわ」
 必死で、羽依は言い縋る。玲琳の眼差しに悲愁が籠る。
「楚鴎が求めているのは、愛人としてのわたしだ。わたしが楚鴎に求めているものとはまったく違う。ここで別れなければ、わたし達の絆は今よりもずたずたになるだろう。わたしが辛くないとでも思っているのか?」
 そう言われて、羽依は目を伏せた。玲琳の中では、すでに覚悟が決まっているのだろう。何を言っても無駄なようだ。
「それに、ここから離れなければならない切実な理由は、もうひとつある」
 羽依は首を擡げる。
「楚鴎が、陶衡にわたし達を匿っていると投げ文した。今頃はもう伝わっているだろう」
「そんな――」
 羽依は困惑した。陶衡なら、困窮している己達を助けてくれるかもしれない。が、陶衡の息女である陶嬪を殺めたも同然の己達が、どの面下げて助けてくれなどと言えるだろう。
「わたしがここを離れたい真意は、もう誰にも邪魔されたくないからだ。おまえが他の男に抱かれるのを見るのは真っ平ごめんだ。わたしも、必要以上に他人に触れられたくない。おまえ以外の人間と躯を交わすのは、もうたくさんだ!」
 らしからず、玲琳は熱情的に吐き捨てる。羽依は玲琳を抱き締めた。戸惑いの目で玲琳が見てくる。
「誰にも見つからないところに行きましょう。探索の人の手が届かないところまで。ふたりきりで幸せに暮らすために」
 笑みを浮かべて、羽依は玲琳を見つめた。玲琳は羽依を抱き竦め、呟く。
「これからは、今までのように楽な旅にはならないだろう。わたし達だけで何度も刺客と剣を交えなければならないかもしれない。それでも、おまえは耐えられるか?」
「あなたがいれば、どんなことでも耐えられる。血を見るのも恐れないわ」
 しっかりと言う羽依がたまらなく愛しく、玲琳は抱く力を強くした。離すと、玲琳は確固とした面持ちで頷いた。
「じゃ、丁秦殿の手が離れたかもう一度見てくるわ」
 羽依は背を向けるが、振り返り、微笑んだ。玲琳も笑い返す。羽依の姿が完全に見えなくなると、玲琳は息を吐いた。
 はっと、玲琳は口元を押さえ、舌打ちする。羽依に言い忘れていたのだ、楚鴎に近付くな、と――。


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 人々が寝静まった頃に、やっと丁秦は楚鴎の天幕から出てきた。少し疲れた様子で、羽依が声をかけると弾かれたように反応した。麓扶に担がれながらも、丁秦は羽依に目を充て続ける。
「――わたくし、行くことになったの」
 丁秦は笑みを造った。
「――知ってる。玲琳王子とうまくいったんだ」
「ええ……」
 小声で会話を交わす。ふたりは互いに気まずく、何を言えばいいのか解らなかった。
「僕、見送らないよ。そこまで出来ていないから」
 羽依は微かに頷く。
「さて、と。少し兄さんが落ち着いたから。僕ももう寝るね。兄さんのおもりに疲れたから」
 笑って丁秦は羽依の横を通り過ぎ、ふと止まった。
「あなた、昨日見たよりも綺麗になってる。やっぱり、愛する人の傍にいると、女の人は見違えるほど綺麗になるんだね。僕なんかじゃ、あなたをそこまで綺麗にはできないよ」
 丁秦の餞の言葉が、羽依の胸に痺れとなって伝わる。感極まって、羽依は涙を流した。
「あ……ありがとう、ありがとう……っ」
 泣きじゃくる羽依に、丁秦は照れたように手を振り歩き出した。
 最後の最後に、丁秦は羽依の心を理解してくれた。始めは辛いことしかしてこなかったが、孤独を埋められず嘆く羽依を目の当たりにして、優しさを見せてくれた。羽依は心から感謝していた。
 これで、もう悔いはない――。羽依が天幕から離れようとすると、中から低い声が響いてきた。
「……誰だ? 丁秦の代わりに俺を見張っているのか? それとも、俺を嘲笑いにきたのか」
 酔いを含んだ楚鴎の声が、羽依の足を縛り付けた。すぐに離れたいが、正体のない楚鴎が気にかかり、羽依は離れることができない。
 少年だった玲琳が慕い、成長する少年に大きな影響を与えた男――恐らく、躯から心まで。そして、大人になった玲琳に少年だった頃の面影を求め、縛り付けようとした男――。羽依にとって、楚鴎は許せる存在ではない。が、玲琳の哀しみを思うと見て見ぬ振りは出来なかった。最後に、丁秦が己に見せてくれたように、玲琳に対して違う愛を見せてほしい。意を決して、羽依は帷を開けた。
 楚鴎は入り口に向かって背を向けていた。盃に溢れる酒が、楚鴎の心の荒み様を教えていた。だらしなく酒を飲み、また零しながら酒を注ぐ。羽依は、急に楚鴎に対して怒りと哀しみの情を抱いた。
「……玲琳を失った哀しみを、お酒で癒そうとしているの」
 ゆっくりと楚鴎が振り返る。険しい眼光に怯まず、羽依は続けた。
「今のあなたを見れば、玲琳はきっと哀しむわ。あなたの姿が、あの人が求めたあなたとかけ離れているので。あの人が求めていたのは、威厳に満ちて男気のあるあなたなのだから」
「恋敵を嘲笑いに来たか。それとも、恋敵であっても慰めようとする、表面だけ優しい女を演じるつもりか」
 羽依は首を振る。
「昔、あなたのような愛しかたでわたくしを愛した男がいたわ。その男はわたくしからあらゆるものを奪い、自分で埋め尽くそうとしたわ。今でも、わたくしを虜にしようと夢に出てくるの」
「――皇帝のことか」
 羽依は応えず、言葉を述べる。
「でも、あの男の愛しかたはわたくしを縛るだけで、愛させてくれないの。自由がまったくなかったもの。わたくしは愛することが空しいことだと思っていたわ。玲琳が現われるまでは」
 楚鴎は何も言わない。
「自我を殺したわたくしの心に、あの人は直接入ってきたの。強引だったけれど、とても優しくて、気が付くとわたくしはあの人を愛していたわ。あの人はすべてをかけてわたくしを癒してくれたの。だから、今は生きて、幸せになりたいと思ってるの」
 不意に、楚鴎は激しく笑い出した。羽依は硬直する。楚鴎は羽依に向き直り嘲笑した。
「幸せにだと? 玲琳を不幸のどん底に突き落とし、北宇の民を苦しめたおまえが、幸せだと。そんなもの、稀代の悪女に似合うと思っているのか」
 羽依は涙を堪えながら楚鴎を見つめた。
「稀代の悪女――確かに、そうかもしれない。自分だけの哀しみに捕われていたから。わたくしを置き去りにして物事が動いていたから、何も知らなかったの。わたくしを手に入れたくて、陛下が南遼を滅ぼしたことや、陛下がわたくしに溺れ込んでしまい、政を擲ったことは、わたくしの罪なの? わたくしは寵愛も、栄華も何も欲していなかった。ただ、自由になりたかっただけなの」
 泣きながらもはっきりと語る羽依に、束の間楚鴎は飲まれる。羽依という女の迫力に負けそうになった。が、残忍な心が楚鴎の中で頭を擡げた。
「女なら何をしても許されると、泣き落しか。そうやって、復讐に燃えていた玲琳を篭絡したのか」
「違うわ、篭絡なんてしていない! わたくしは玲琳を愛して、あのひとと幸せになりたいだけなの! どうして誰にでも許される幸福を、わたくしだけ受けてはいけないの?!」
「大勢の人を殺したおまえに、幸せになる資格はない。おまえの罪悪に玲琳を引きずり込むつもりか」
 羽依は激しく否定する。
「わたくしは、あの人を自分の罪悪に巻き込みたくない。でも、あの人自身が、わたくしがいなければ生きていけないと――幸せになれないと言っているの」
「おまえと生きることが、玲琳にとって幸せになるのか。おまえと生きて、誹謗を受けることが幸せなのか」
「でも、わたくしはあの人と同じ傷を持っているから、あのひとの苦しみを解ってあげられる。愛してもいない人と躯を交わして、あのひとの心は生傷だらけだわ。あなたは、それに気付かないの? 男に戻って、もう性に苦しむ必要がなくなったのに、あなたは酷いやり方であのひとを虐げたわ。どうして、愛しているのにそんなことをしたの?」
 うっと、楚鴎は詰まる。己とひと回りも歳が違う小娘に非難されて、楚鴎の癪に触る。
「愛しているから触れる、それのどこが悪い! おまえと玲琳も躯を交わしているではないか!」
「あのひとが望んでいるから、わたくしはあのひとに触れることができるの。無理矢理では意味がない。心のない交わりがどんなに侘びしいか、わたくしはよく知ってるわ。あなたと躯を交わして、あのひとがみるみるやつれていくのに、気付いていないはずはないでしょう。それなのに――。
 どうして、労る愛しかたができないの?! どうしてあのひとの心を包み込んであげることができないの?! どうして――あのひとの望むあなたでいてあげられなかったの?!」
「う……うるさいッ!」
 凶暴な面持ちで楚鴎が叫ぶ。男の殺気の鋭さに、羽依はひっ、と声をあげた。
 傍らに置いてある剣を引き抜くと、楚鴎は真っ青になっている羽依に向かって斬り付けた。羽依の悲鳴が空を引き裂いた。

 ――悪い予感がする。
 寝床に横になっていた丁秦は、躯を起こすと仮眠している麓扶を揺する。唸って起きた麓扶に、丁秦は玲琳のもとに行くよう指図する。足を引き摺りながら、丁秦は兄の天幕に向かった。
 今宵に羽依は玲琳と供に離れてしまうだろう。それを、兄がみすみす見逃すだろうか。恋に破れた兄が敵の羽依に向ける憎悪は凄まじい。羽依の身に危険が迫る怖れがある。今、羽依は玲琳と共にいるから大丈夫かもしれないが、最悪の場合止めに入れるように麓扶を差し向けた。
 が、羽依は玲琳のもとにはいなかった。玲琳は羽依が丁秦と話しをしていると思っていたので、羽依がすでに丁秦と別れていると聞いて顔色を変える。中々羽依が帰ってこないので、玲琳も嫌な予感を持っていたのだ。
 剣を持って玲琳は天幕から飛び出した。
 今の楚鴎と接触することがどれほど危険か羽依もよく知っているだろう。玲琳は羽依を甘く見過ぎていた。羽依に強気な一面があることをすっかり忘れていたのだ。
 ――無事でいてくれ!
 必死で念じながら、玲琳は闇の中を走った。

 床に、羽依の鮮血が一筋、滴り落ちた。
 羽依は斬られた腕を押さえて荒く息をしている。寸での処で避けたのだが、腕を掠ってしまい、斬られる痛みに慣れていない羽依は恐怖と激痛に混乱していた。柱のところまで追い詰められ、羽依に逃げ場はない。
「――おまえが、すべての元兇だ。おまえさえいなければ、玲琳は俺のものになる。玲琳を惑わした罪が一番重いと、心して逝け!」
 悪鬼の形相で楚鴎がにじり寄ってくる。戦慄きながら、羽依はか細く告げた。
「あ――あなたのやり方は、間違ってる……。そんなやり方で、玲琳は手に入らないわ……。わたくしを殺しても構わないけれど、もっと玲琳自身を見てあげて……お願い」
 息を吸い込むと、羽依は目を瞑る。逃げようがないと、羽依は諦めていた。
 首筋に刃を充てられ、羽依は息を飲む。今しも剣を突き立てられそうな気配に、羽依は堪えた。が、甲高い叫びに我に返った楚鴎は怯み、羽依から目を放す。
「やめて! 羽依殿を殺めたって、何の解決にもなりはしないよッ!」
 丁秦は果敢にも羽依に突き付けた楚鴎の剣を取り上げようとした。楚鴎は丁秦を無情にも振り払う。弾き飛ばされ、丁秦は床に転がった。呻き声を発し、丁秦はぐったりとなる。
「て、丁秦殿! どうして、丁秦殿をッ! あなたの弟でしょう?!」
「黙れッ!」
 言うなり、楚鴎は柱に剣を突き立てる。羽依の髪が幾房か落ち、掠った首筋から新しい血が滲んでいた。痛みに羽依は顔を顰めた。恐ろしさと痛みに、羽依の意識は薄れそうになる。駆け寄ってくる足音に、羽依は微かに目を開けた。足音の主が玲琳だと認めて、羽依は瞠目した。
「だ、駄目ッ、玲琳ッ!」
 羽依の声に、楚鴎は振り返る。玲琳は剣を振り上げていた。羽依は咄嗟に目を瞑る。楚鴎の躯を袈裟がけに斬り、玲琳は羽依を抱き寄せる。楚鴎の躯が、ゆっくりと倒れる。白地の敷物の上に、血溜まりができる。
「れ、玲琳――」
 玲琳の腕の中で震えながら、羽依は楚鴎を見下ろした。玲琳は楚鴎を見ようとしない。楚鴎の肉を斬り付けた感触があまりにも生々しく、血塗れになった楚鴎を正視できなかった。
 びくり、と玲琳の躯が揺れる。楚鴎の手が、玲琳の足首を掴んでいた。恐る恐る玲琳が目を落とすと、血に塗れた楚鴎が微笑んむ。
「……頼む……とどめを、おまえの手で……」
 言うと、楚鴎はごぼっ、と血を吐いた。どちらにせよ、楚鴎の失血は多く、助かる見込みはない。震えながら、玲琳は楚鴎に向き直り、剣を縦に構えた。
「……おまえを、愛していた……」
 弱々しく楚鴎は言う。はっきりと、玲琳と羽依の耳に届いた。
「……ああ、わたしもだ……」
 いつしか、玲琳の頬に涙が伝っていた。剣に力を込めると、玲琳は楚鴎の心臓目掛けて突き立てた。ぴくりとしたきり、楚鴎は動かなくなった。崩れ落ちると、玲琳は楚鴎を抱き締め慟哭する。
 悲痛な玲琳の泣き声に、羽依は顔を覆う。己が楚鴎を呷らなければこんなことにならなかったのだ。楚鴎の激情に火を付けたことで、玲琳に余計な哀しみを負わせてしまった。
「兄さん――そうか、玲琳王子に殺してもらったんだ……」
 はっと羽依が顔をあげると、いつの間にか丁秦が起き上がり、状況にそぐわぬ微笑みをみせていた。
「丁秦殿――」
 丁秦の目からも、涙が溢れ出る。
「すべて、僕が巻いた種なんだ……。羽依殿、あなたを手に入れるためには玲琳王子が邪魔だったから、僕が兄さんの情慾を利用したんだ。兄さんに玲琳王子を犯させ、羽依殿の傷に付け入って手に入れようと……。自分の間違いに気付いて手を引いたんだけれど、自業自得だよね……。僕の汚い策略によって、兄さんを殺してしまったんだから」
 ゆっくりと羽依は頭を振った。聞きたくはなかった。
「謀略であなたを手に入れようとしたつけが今頃廻ってきたんだ。つけは、払わなければいけないよね――」
 そう言って、丁秦は腰に挿していた短刀を抜き、首筋に充てる。
「羽依殿、僕、本当にあなたが好きだったよ……。僕の分まで、玲琳王子と幸せになって」
「嫌ぁッ、やめて――ッ!」
 羽依の叫びは届かなかった。微笑んで、丁秦は頸動脈を掻き斬った。大量の鮮血が吹き出て、麻の天幕を濡らす。丁秦の死に様に、羽依も玲琳も目が離せなかった。緩慢な動きで、丁秦の骸は地に倒れ臥した。
「丁秦殿……」
 茫然と呟く羽依を、玲琳は横抱きに担ぎ上げた。小走りに天幕から出た。真夜中なので、惨劇に誰も気付かず寝入っていた。繋がれた馬に走り寄ると、玲琳は羽依を乗せてから身を乗り上げ、馬を足で蹴りあげた。弾けるように馬は急激な速度で走り出す。
 既に、玲琳の涙は止まっていた。泣いている場合ではなかった。いち早く義族の中から抜け出さなければならない。皆に勘付かれると、自分達の身が危ない。その一念だった。
 急に、腕の中の羽依の重みが増した。見ると、羽依は涙を流したまま意識を失っていた。痛みからか、現実からの逃避か、今の羽依には一番よい方法だったのだろう。羽依の躯をさらに抱き締め、玲琳は夜を徹して馬を走らせ続けた。


 ――羽依、いつまでそこにいるの?
 優しい女人の声が、微睡む羽依を揺り起こす。細く瞼を開けるが、羽依は頭を振った。
 ――起きたくないの。起きれば、また辛いことばかり見なくちゃいけないから。
 羽依は女人の声が懐かしく、甘えてしまう。暗く生暖かいここは、羽依にとってどこよりも心地よい。が、女人は厳しく返す。
 ――起きなければ、何も始まりはしないわよ。それに、あなたの大事な人を放っておくつもり?
 大事な人、という響きに羽依は薄靄のなか躯を起こす。
 ――会わせる顔がないの。あの人を余計に傷つけてしまったから。
 ――逃げるの? 逃げて、愛する人を哀しませるの? あれほどあなたのことを愛してくれているのに。
 女人の声が責める。羽依は目を伏せた。
 ――他のことなら、そうやって逃げても止めないわ。でもね、一度だけでもいいから立ち向かってみなさいよ。他ならない、愛する人のために。あなたも、女でしょう?
 女……だから、愛する人のために戦う? 羽依は目をあげた。
 ――戦い方なんて知らない。
 羽依は嘆き哀しむ。
 せんただ黙って、生き続ければいいの。生きて、愛する人を護りなさい。女は、愛する男を護るために戦うのよ。戦って途中で負けたって、それでいいじゃない。あなたのやり方で、愛する人を護りなさい。
 女人の高らかな声が、空を昇り掻き消えた。思わず羽依は声に向かって手を延ばした。
「待って、行かないで――!」


 頬を伝う雫の冷たさに、羽依は目を開けた。真上に、不安気な玲琳の顔がある。玲琳の腕を枕にして抱きかかえられていた。真暗な森の中で、赤暗い炎が爆ぜている。ふたりは馬の陰で横たわっていた。
「……お母様……」
 細く、懐かしい女人の声を呼んだ。
「夢でも見ていたのか?」
 玲琳が尋ねると、羽依はゆっくり頷く。
「薄闇の中は、とても居心地がよかったけれど、お母様が起こしたの……。現状から逃げては駄目だと……」
「そう……か。二日も目覚めないので、また前のように眠り続けるのかと思っていたのだ。母上に感謝せねば」
 ほっと息を吐き、玲琳は半身を起こした。下着の上に深衣を羽織り、焚き火に薪を焼べる。羽依は玲琳に手を差し延ばすが、激痛が走り、腕を下ろした。淡く玲琳が笑う。
「浅手だったが、剣の傷なので痛むはずだ。怪我の処置はもう済ませた。あとは、丸薬を飲んで失せた血を取り戻すだけだ」
 血と聞いて、羽依は血塗れになって死んだ楚鴎を思い出した。次々に楚鴎と丁秦の死やその夜の惨劇が蘇ってくる。羽依は息をのみ口元を押さえた。
「――どうした?」
「わたくし達は義族の中から逃げ出して、それからどうなったの?」
 玲琳の顔から表情が消え、虚ろな目が羽依を見つめる。
「楚鴎と丁秦が死んだあと、誰も気付いていないのをいいことに馬を奪って逃げたのだ。朝になってから皆異変に気付いただろう。気を失ったおまえを抱えて義族から出来るだけ離れようとしている。頭を殺したわたし達を、義族の者達は決して許しはしないだろう」
 羽依は何も言えなかった。玲琳の心の傷の大きさが手にとるように解ったからだ。
「……ごめんなさい……」
「何が?」
 微笑み、玲琳は聞き返す。羽依には玲琳が無理をしているように見えた。
「わたくしが無謀なことをしたから、余計にあなたを傷つけてしまったわ……。わたくしが、楚鴎殿に面と向かって話をしようとしなければ、あなたが楚鴎殿を殺めるようなことはなかったのだもの」
 玲琳は溜め息を吐き、羽依の隣に腰を下ろした。
「楚鴎がおまえに手を掛け、傷を負わせたことは決して許せぬことだ。ああでもせねば、楚鴎を止めることは出来なかった」
「でも、あなたは平気ではないはずでしょう? 形はどうにしろ、あなたは楚鴎殿を愛していたわ。そんな、かけがえのない人を自分の手で殺めてしまうなど、耐えられることではないでしょう?」
 涙ぐむ羽依の肩を抱き、玲琳は呟く。
「おまえは悪くない。わたしが楚鴎の想いを呷ってしまったからこうなったのだ。今にしてみれば、わたしは楚鴎の想いを知らないわけではなかった。ただ、楚鴎の想いを認めてしまうとわたしの中の楚鴎の像が壊れてしまうようで怖かったのだ。十二の時から、わたしは楚鴎の想いを知っていて抱かれていた。楚鴎の想いに対して、はっきりと答えを出していれば、こんなことにはならなかったのだ。おまえに恋していない、と告げればよかったのだ」
 穏やかな口調だが、羽依の肩を抱く手が震えていた。羽依は玲琳を見つめる。
「今となっては、過ぎたことだ――。おまえを護りたいがために、楚鴎に躯を与えたことが間違いだったのだ。わたしの選択で、おまえを苦しめ楚鴎を狂わせてしまった。おまえを選んだ時点から、わたしは義族の中に戻ってはならなかったのだ。おまえを選んだにも関わらず、わたしは楚鴎とも共にいたかった。わたしの甘えが、すべての歯車を狂わせたのだ。こんなことになるのなら――楚鴎の想いが嵩じる前に、義族から出ればよかった」
「……玲琳……っ」
 羽依は嗚咽を漏らす。
「せめてもの慰めは、死の間際の楚鴎が、安らかだったことだ……。わたしの手にかかることで、楚鴎が救われるのなら、わたしの哀しみなど、幾らでも――」
 言ったきり、玲琳は瞼に手を充て、声もなく啼き始めた。
 羽依は玲琳の頭を抱き締め、一緒に泣いた。泣くことによって、傷が少しでも癒されるのならと、羽依は玲琳を胸に抱きとめた。どれほど、玲琳が楚鴎を愛していたのか痛いほど思い知らせれる。もし、あのとき羽依が正体をなくした楚鴎を無視していれば、何の惨劇も起こることなく義族をあとにしていただろう。そう思うと、楚鴎に斬り付けられた腕の傷が鋭く痛んだ。
「羽依……わたしは、もうおまえの他になくすものがなくなった。今のわたしには、おまえしかいない……」
 涙ながらに、玲琳は羽依にしがみつく。玲琳の腕の強さが、羽依には切なかった。
 ――お母様、わたくしはやはりこの人を護る自信がありません。この人の傷を受け止めるには、わたくしは罪悪が多くて……。
 玲琳の想いとは裏腹に、羽依の心は絶望に向かっていた。






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