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第六章・比翼の鳥・連理の枝



 和やかな面を見せる丁秦に、羽依は顔を強張らせる。
「昨日は、ごめんね。どうかしていたんだ」
 そうは言うが、羽依はそう簡単に丁秦への警戒を解くことが出来ない。丁秦が己の隙に乗じてよからぬことをしようとしたのは、昨日を合わせて二度目である。自然に、羽依の面が引き攣った。
 丁秦は哀しそうに眼を伏せた。
「いくら弁解しようと、僕も男なんだよね。募る思いに勝てなかったんだ。あなたが、あまりにも玲琳王子に一途だから。僕は、玲琳王子が――羨ましかったんだ。
 でも、もう絶対にこんなことはしない。神に誓ってもいいよ」
 真剣な面持ちに、羽依の心が解けかかる。
「僕は、無理矢理あなたを手に入れてあなたの心を失うのなら、友達でいいんだ」
 熱さの籠った瞳が、羽依の胸に入り込んでくる。羽依は吐息した。
「本当に? つぎに違えると、わたくし達の信用は無くなってしまうわ」
「約束するよ」
 さり気なく、丁秦は羽依の手を握る。羽依は戸惑いながら握り返した。
 その時、天幕を畳み終えた玲琳がふたりの親密な態度を見て駆け寄ってきた。有無を言わせずふたりを放し、玲琳は羽依を腕の中に抱き締める。
「羽依に、触れるな」
「れ、玲琳。喧嘩腰にならないで」
 仲裁に入る羽依を、玲琳が睨む。
「昨日、あんなことがあったばかりなのに、おまえは何故気を許す!?」
 噛み付くように当たる玲琳に、丁秦は不遜な笑みを浮かべた。見逃さず、玲琳は丁秦を鋭い眼光で刺す。丁秦の笑みは崩れない。
「やっぱり、思った通りになったよね。僕より、兄さんの方が危険だったんだ」
 びくり、と玲琳が肩を震わす。羽依も、困惑してふたりを眺めた。
「玲琳王子、僕はみんな知ってるんだよ。昨夜、兄さんと何があったのか」
 蛇のような厭わしい瞳で丁秦が玲琳を捕らえる。
「だ……黙れっ!」
「恐い、恐い。大丈夫、王子が今みたいな邪魔の仕方をしなければ、僕は何も言わないよ」
 くすくすと、丁秦は邪な笑い声をたてる。玲琳はくぐもった唸りを漏らした。羽依にはふたりが何のことを話しているのかさっぱり解らない。物問いた気な視線を受けて、玲琳は羽依を強く抱き締める。寄り添うふたりを見て、丁秦は唇だけ笑みを浮かべたまま馬車に乗り込んだ。
「玲琳、わたくしに隠していることがあるの? どうして何も言ってくれないの?」
 無言のまま、玲琳は羽依に頬を寄せる。
「何も、聞かないでくれ……。おまえを、苦しめたくない」
 痛みの滲んだ声に、羽依は小さく頷いた。
「丁秦殿の事……ずっと避けるわけにはいかないでしょう? 不自然すぎるわ」
 羽依の呟きに、玲琳は目前の美しい顔を凝視する。
「だが、また襲われるかもしれぬ」
「今までは、わたくし自身に隙があったからよ。今度こそ、わたくしは付け入られないようにするわ」
「わたしも、ずっとおまえの傍にいられたのなら……」
 言い濁る玲琳に、羽依は微笑んで端正な頬に手を添える。
「わたくしのことが、信じられない?」
 羽依に言われて、玲琳はしなやかな指に手を重ねる。
「わたくしもあなたのことを信じてる。だから、何も聞かないわ」
「羽依……」
 玲琳が感動のあまり声を漏らす。羽依は背伸びをして玲琳の首に腕を廻し、そっと口づけた。玲琳も抱き締めた腕に力を込め、より深く接吻を交わす。
 顔を放し、玲琳は羽依の耳元に囁いた。
「わたしは、何も打ち明けることが出来ぬ。だが、昨日にも増しておまえが愛しい」
 耳に注がれた想いに、羽依は頬を染める。
 昨夜、楚鴎に抱かれ、玲琳は改めて羽依への想いの強さを思い知らされた。楚鴎の熱い囈言を聞きながらも、脳裏では羽依の美しい笑みがまざまざと蘇り、玲琳を燃え立たせた。ただ、羽依を抱き締めたかった。羽依の香りを、近くで聞きたかった。天幕に戻って、羽依と寄り添いながら眠ったとき、羽依の柔らかさ、暖かさを感じて胸が疼いた。それなのに、己の心の負い目から羽依と愛を交わすことができなかった。
 ――言葉は所詮、まやかし。だが、今のわたしは言葉に縋ることしか出来ぬ。
 羽依を愛する想いの強さを噛み締めるほどに、玲琳は互いの愛の儚さを思い至らずにはいられない。まやかしと解っていても、言葉に縋り、抱き締める腕の強さで愛を伝えたかった。同じく廻された羽依の腕からも、強い愛が伝わってくる。玲琳は震える吐息を吐いた。
 馬車の中から、丁秦は抱き合う恋人達を窺っていた。離れることなく、しっかり寄り添いあうのは、はたしてふたりの絆と同じなのか。丁秦はぎりり、と唇を噛んだ。嫉妬にくぐもって、視界のふたりの様子がぼやけた。ふと見上げると、栗毛の馬上に、己と同じ暗い情念を内に潜ませた兄の姿があった。
「羽依殿……そう簡単に、あなた達を結ばせてなんて、あげないよ。僕と兄さんとで絶対に引き裂いてあげるから」
 丁秦の言葉が瘴気とともに口から吐き出された。


 日が中天に昇った頃合、義族の一行はさらに南下しはじめた。北宇を出、空気がかなり熱気を含んでいる。男達は着衣を減らし、上半身に何も纏わないものも現れた。
 その中で、玲琳は衣服を緩めない。表情は緊張し、ぎこちなささえあった。
「少し前を開けてはどうだ? 暑かろう」
 気遣って楚鴎が提言する。玲琳は眉を顰めた。
「わたしに構うな」
 冷たく、一言で玲琳はあしらう。楚鴎は嘆息し、馬を寄せると誰にも聞こえないよう玲琳に囁いた。「俺のことが許せぬか。暴力でおまえを犯し、脅迫的に従わせようとする俺を」
 楚鴎の言に無視できず、玲琳は怒気を露にした。
「おまえがわたしに為したことは、卑怯以外のなんでもない。羽依を盾にし、わたしを凌辱し続けようとする。おまえは、李允やそれ以外の者達と変わらぬ」
 激しく詰る玲琳に、楚鴎は哀し気に呻いた。
「そう――俺は、卑怯者以外のなんでもない。解っていても、おまえへの想いを止められないのだ。おまえに触れることができるのなら、悪鬼に堕ちてもよい」
 楚鴎の激情のぶつけ方に、玲琳は動きを止め、思わず手綱を緩めてしまう。制御のなくなった馬は次第に速度を落とした。慌てて楚鴎が玲琳から手綱を奪い取る。
「馬鹿、皆に怪しまれる」
 優しささえ籠った楚鴎の恫喝に、玲琳は楚鴎を束の間見入る。
 昔、幾度となく女の素振りをしくじったとき、楚鴎はそう言って叱った。真綿のような愛の温もりに、肉親の死から心を閉ざしていた玲琳は甘えるようになった。初めて躯を裂く苦痛を教えた楚鴎だったが、同時に玲琳を成長させたのも楚鴎だった。共に味わう躯の甘美も、楚鴎となら当然のものだった。だというのに、昨夜は激痛さえ感じさせた情交であった。慣れ切った楚鴎だというのに、躯の上を彷徨う指や唇に玲琳は悪寒した。ただ、羽依の微笑みが頭の中にこびり着き、玲琳を慰めた。
 楚鴎の先程の叱り方に玲琳は懐かしさを感じ、辛さを誘った。どうして昔のままではいられなかったのか……。玲琳は眼を伏せる。
「おまえが李允の元に留まることとなったとき、最後に俺が言ったことを覚えているか?」
 唐突に楚鴎が言う。覚えのない玲琳は首を振る。その反応に楚鴎は小さく笑い、遥か前方を見据える。
「必ず、生きて、俺の元に戻ってこいと……」
 眼を見開き、玲琳は楚鴎に問う。
「そんなことを言ったか?」
「ああ、確かにな。あの時のおまえの顔は、何もかも覚悟した顔だったので」
 楚鴎の科白に、玲琳も過去を手繰る。楚鴎の言った通り、あの時、玲琳はこれから来る復讐に向け、完全に己を切り捨てた。矜持も出自も捨て、どんな醜態でも演じてみせると。すべてが終わったのち、己も死ぬと――。楚鴎がそんなことを言ったような気がするが、死ぬ気でいる己は耳に入れていなかったのだろう。まさか、楚鴎が今まで覚えているなど思いもしなかった。
「おまえが死ぬ気でいたのは、俺も知っていた。初めて出会った瞬間、おまえは死のうとしていたから、何もかも終わるとおまえは死ぬだろう、と――。だから、俺は必死になっておまえを探した。おまえが、昭妃・羽依とともに生き延びているとは思ってもみなかったが」
「どうして、わたしを探して、見つけだそうとしたのだ?」
 真っ直ぐな玲琳の瞳に、楚鴎は顔を少し赤くし、玲琳から眼を反らす。
「おまえを愛していたから。おまえが死のうとする前におまえを見つけだし、おまえを抱き締めてやろうと……。同性同士の、獣じみた交わりだと言われようが俺は構わぬ。心の伴侶はおまえだと……。おまえと、終生、生きていきたかったのだ。だが、おまえは他の者を選んだ」
 熱の籠った楚鴎の告白に、再度玲琳は俯く。
「違う性を持つ者同士が惹かれあうのは至極当然のことだ。もし、おまえが女を愛し、家庭を持ちたいと言っても、俺は止めるつもりはなかった。ただ、その女がおまえを苦しめた昭妃・羽依であることが許せないだけだ」
「わたしが羽依を恨んだのは、何も知らなかった過去のことだ。羽依も皇帝・牽櫂に犯され、虐げられていたのだ。同じ苦しみを持つ羽依だからこそ、わたしだけが羽依を受け止められるのだ。むしろ、出会ってからひとつになれない苦しみの方が大きかった。躯を交わしていても――羽依は、わたしだけのものではなかった。昭妃でいるかぎり、羽依は皇帝のものなのだ。皇帝が死に、わたし達は解放された。今が、真に幸せだといえる」
 安らかな玲琳の面に、楚鴎は唇を噛む。
「昭妃・羽依でなければおまえは幸せになれないのか? 俺では――駄目なのか」
 切羽詰まった楚鴎に、玲琳は憐憫の眼差しを送ったが、意志を変えるつもりはなかった。
「わたしが一番苦しかったのは――望みもしない相手と躯を交わす苦痛だ。復讐のためには仕方がないといいながらも、悪夢に夜も眠れないことが多かった。今でも、時折夢に見る。問うてはいけないと解りながらも、頭から問いが離れないのだ――本当に、躯を使うしか方法がなかったのかと」
 楚鴎は気色ばんで即答した。
「何を言う! ひとりで後宮に乗り込むためには、女に擬態するしかないだろう。後宮に入り込むためには、協力者が必要だ。芸と色香で人を虜にするのが一番手っ取り早い」
「確かに、この容姿と舞に秀でていたことでわたしはすんなり後宮に入り込み、羽依と会うことが出来た。だが、今、生き延びて羽依をも苦しめることになるのなら、いっそ潔く宮城に突っ込んで切り死にでもしたほうがましだったかもしれぬ」
「玲琳……」
 楚鴎は、言葉がない。
「おまえは女を演じたことを後悔しているのか?」
 小刻みに震える楚鴎に、淡く玲琳は笑った。
「時折、息が止まりそうになるのだ――。燐佳羅の存在が大きすぎて。皆、暉玲琳ではなく燐佳羅を見ているのではないのかと。おまえが抱きたいのは、燐佳羅ではないのか? 燐佳羅は、確かにおまえの女だった。羽依でさえも、燐佳羅を求めているような気がする。だが、わたしの本性は燐佳羅ではなく、暉玲琳だ。男のわたしはおまえを性の対象とは見れないし、羽依の前ではただの男でいたい。燐佳羅が、わたしの邪魔をする」
 陰鬱な表情は、玲琳の深淵を蝕む闇の濃さを現わしているようだ。楚鴎は血走った眼で玲琳を凝視していた。
「おまえにとって、俺は邪魔なのか?」
 玲琳ははっきりと首を振るが、その顔は哀しみで彩られていた。
「わたしは、おまえを肉親と同じように見ていた。甘いのだろうか? わたしの想いは……。おまえが初めからわたしを性の対象として見ていると解ったとき、わたしのおまえへの心は行き場を失った。そして、急に思い出してしまったのだ。初めておまえに抱かれた夜、痛みのあまり死にたくなったことを。これからも弄ばれなければならないのかと、絶望したことを。あの一瞬、わたしは確かにおまえを恨んでいた。わたしは、おまえを恨みたくはないが、おまえがわたしを蹂躙しようとすることは、苦痛以外のなんでもない。わたしは、もうおまえを信じることができない」
 哀しみと絶望で陰った玲琳の瞳が、楚鴎の良心に楔を打つ。玲琳を愛しているからこそ、楚鴎は玲琳を抱いた。決して、肉欲から蹂躙しようとした訳ではない。が、楚鴎を恩人以上に思っていない玲琳にとっては、身を切られるほど、酷な情交なのだ。玲琳の瞳はそのことを明らかに物語っている。
「では……俺の心は、どうすればいい? 黙って、おまえが昭妃と睦むのを見ていろと? いつかきっと、俺は嫉妬で気が狂ってしまう」
 掠れた声で、楚鴎は言う。玲琳は暫しの沈黙ののち、重く口を開いた。
「一番よい解決法は、わたし達が義族から離れることだ。巧くすれば、李允の探索の目をかいくぐって逃げおおせることができるかもしれぬ」
「できるかも、だろう。かも、と思っている間は、その選択が危険を孕んでいるということだ。今、何かよい策があるというのなら話は別だが。李允の執拗さを一番知っているのはおまえだろう」
 玲琳は、ぐっと詰まり、黙り込んだ。楚鴎は玲琳の無念の表情を横目で見る。
「もう、心までとは言わぬ。心は昭妃の上にあってもよい。だから、身の安全のためにも俺の我が儘を聞いてはくれぬか。俺は、おまえの躯に触れられるだけで充分だ」
 玲琳は口を閉ざし、一層鬱を纏った。虚ろになっていく玲琳に、楚鴎は己の勝利を感じた。が、空しく辛い勝利だった。


 四日が経過した。
 毎日を逃亡に明け暮れ、一行は馬を飛ばし続けた。羽依は過激な道行にひたすら耐え、疲労を見せようとしない。ただ、日増しにやつれていく玲琳の様子が辛かった。一団の先頭を楚鴎と行く玲琳の後ろ姿にまったくの隙はない。が、夜になって、楚鴎との談義が終わって天幕に帰ってくると、生気のない玲琳に出くわし、羽依は戸惑う。何故それほどまでに消耗しているのかを聞いても、玲琳は覇気のない笑顔を見せるのみだ。
 ――わたしは、おまえさえいてくれれば、どんなに辛いことがあろうと生きていられる。だから、わたしを見放さないでくれ。
 玲琳はいつになく弱気になってそう呟く。日頃は矜持が高く、誰にも弱味を晒そうとはしないのに、まるで幼子のように羽依に取り縋った。それなのに、玲琳は羽依を求めようとはしない。剥き出しの乳房に触れているのに、だ。ただ黙って寄り添いあって眠るのを玲琳は望んだ。
 他にも、玲琳は殊更過敏になって、羽依に素肌を見せようとはしない。この頃、玲琳は夜中によく悪夢に魘されている。気付いた羽依が起こして、汗塗れになっている寝衣を指摘しても、肌を見せるのは憚って着替えようとしなかった。
 それ以外にも怪しいことはある。羽依に何もしてこなくなったかわりに、丁秦は含みのある科白を吐くようになった。義族の一団も、玲琳への視線が変わった。楚鴎と一緒にいる玲琳を見て皆はひそひそと密談を交わすようになった。
 ここまでくると、羽依も思い当たらずにはいられない。玲琳と楚鴎の交わりが復活したと――。玲琳の憔悴しきった様子も、そう仮定すると疑問が氷解した。義族の者達が羽依に取り繕った態度をとるのは、そのせいなのだろう。解ると、羽依も何も知らない素振りをする努力をした。玲琳に、己は何も知らないと思わせなければならない。疲れを滲ませている玲琳を、羽依は笑顔で優しく受け止めた。
 とはいえ、羽依も普通の女だ。
 玲琳の帰りを待つ宵、羽依は侘びしさを噛んだ。誰にも知られないように溜め息も漏らした。寝具の支度をする手を、無意識に止めてしまい、物思いに沈むこともある。
 ――今頃玲琳は、楚鴎殿と躯を交わしている。
 空虚に手繰り寄せた思考に、羽依の身内をざわりとした震えが走る。羽依の乳房から子宮までも貫き、震えは足元に下った。醜悪な震えだった。嫉妬とも焦躁とも、渇えともとれた。
 ――そう。わたくしには許さないのに、楚鴎殿には躯を許すのね。
 理性では玲琳の苦しみを理解しているというのに、羽依の本能は狂暴になっていく。劣悪で粗暴な本能が、いつしか理性を突き破り、玲琳に襲いかかるかもしれない。羽依は己を恐れた。
 ――やめて、楚鴎殿から離れて。楚鴎殿と躯を交わさないで。わたくしから離れないで!
 叫び出しそうになる己を、羽依は必死で止めた。そんなことを言うと、余計に玲琳を苦しめる。今の羽依は、玲琳に嫌われるのだけは避けたかった。
 不意に、鏡を見てみる。羽依はぎょっとして鏡を伏せる。
 鏡に映っていたのは、一番最期に見た、陶嬪の顔である。醜く歪み、崩れた面を涙で汚している。あの日の陶嬪の顔とまったく同質のものだった。羽依は我に返り、苦い笑顔を浮かべる。
 ――わたくしには、嫉妬する資格もない。
 今の己と同じように、陶嬪は身が引き裂けそうなほど苦しみ、死を選んだ。陶嬪を死なせた己が、玲琳を遠く感じたからといって嫉妬するなど、身勝手だ。
 ――そうよ。わたくしは玲琳が他の誰かを選んだとしても文句も言えない立場なのよ。わたくしが陶嬪様から玲琳を奪ったのだから。
 笑わなければ、最後に、玲琳がどういう選択を取ろうと……。羽依は鏡を立てると、無理に笑顔を造った。


「ね、聞いてるの?」
 丁秦に呼び掛けられ、羽依は顔を上げた。むっつりとした丁秦が、羽依をじっと見ていた。
「え、何? 聞いていなかったわ」
 大袈裟に丁秦は嘆息する。
「この頃、上の空でいることが多いよ。何か引っ掛かっていることでもあるの?」
「そういうわけではないのだけれど……」
 羽依は誤魔化す。沈黙の間を挟む馬車の音が耳に痛い。
「もういい加減、嘘を付くのをやめたら?」
 呆れた声に、羽依は丁秦を凝視する。
「嘘なんて付いていないわ」
「そうかなぁ。そろそろ、玲琳王子のこと、何か気付いているんじゃないの?」
「な……何を?」
 慌てて、羽依は問いただした。丁秦は羽依をじっと見てくる。
「気付いてるよね、吃ったもの。玲琳王子が兄さんと躯を交わしているって。それとも、ずっと気付いていない振りをするつもりだったの? 無理だよそんなの」
「それ以外に、わたくしに何ができるというの?」
 冷静になるように努め、羽依は丁秦の言を聞き流した。
「問いつめようとはしないんだ」
「ええ」
 穏やかな態の羽依に、丁秦は肩を竦める。
「みすみす王子を奪われるのを見ているんだ」
「あの人が自ら言い出すまで、待つつもりなの。あの人が楚鴎殿がいいというのなら、それはそれで構わないの」
「ふうん、大人だね」
 嘲りの籠った丁秦の言葉に、羽依は目を瞑る。
 大人になるということは、無理をすることなのか。欲しいものを諦め、生きやすいように生きるということなのか。例えば、本当の大人ならば、何が利益なのかを見極め、不利益ならばあっさりと捨てる。玲琳にとって楚鴎と生きるほうが利益ならば、何の足しにもならない己は捨てられても当然だろう。己も、李允の庇護を受けるほうが己にとっては利益があるのではないか? 無意味な逃亡をする必要もなくなるし、贅沢は思いのままだろう。己の苦痛と玲琳への愛さえ捨てれば、これほど生きやすいことはない。
 ――でも、そうまでして生きて何になるというのか。それが、本当に幸せなのか。
 羽依は自嘲の笑みを浮かべる。
「玲琳が何も言わないのなら、わたくしは黙って信じるわ」
 丁秦は羽依の独白を皮肉な面持ちで聞いていた。が、にじり寄ると羽依の手を取る。
「そう、そのわりにはあまり顔色がよくないようだけれど。無理をしていない?」
 ぴくり、と羽依の肩が強張る。狼狽した羽依に、丁秦はやっぱり、と言った。
「普通は、嫉妬して当然なんだよ。裏切られているんだから」
「う、裏切られてなどいないわ」
 羽依は否定するが、力が籠っていない。
「あなたに秘密で兄さんと関係をもっているんだもの。躯の関係って、愛しあう者同士が交わすものなんだよね。それなのに、王子は兄さんと躯を交わしているんだ。恋人であるあなたに黙って。これが裏切りじゃなくてなんていうの?」
 丁秦が容赦なく斬り付けている言葉に、羽依は目を伏せた。
「玲琳王子は我が儘なんだよ。兄さんと躯を交わしているのに、あなたも放したがらないなんて。玲琳王子はあなたを傷つけ、兄さんを歪ませた」
「やめて、玲琳にもわりない事情があるのよ。あの人も、とても傷付いているもの……」
 遮った羽依を、丁秦は冷笑した。
「あなた、忘れてるの? 玲琳王子がどれだけ長い間、女を演じてきたのか。あなたも騙されていた口でしょう。玲琳王子にとって、自分が傷付いていると思い込ませるなど、簡単なことだよ」
「で、でも……」
 羽依は、丁秦の言葉を否定しきれない。確かに、玲琳には羽依を騙すことなど雑作もないことだろう。それでも、羽依は玲琳が裏切っているなど思えなかった。確証はないが、玲琳の苦しみは真摯そのものだ。
「信じている、ではなくて、わたくしが信じたいの。それが、気休めだとしても――」
 諦めにも似た、淡い笑みを羽依は浮かべる。それを見て、丁秦は溜め息を吐いた。
「本当に――玲琳王子を愛しているんだね。玲琳王子のためなら、自分がぼろぼろになっても構わないほどに。もし、玲琳王子に捨てられたら、そのあとあなたはどうするつもりなの」
 唐突に問われて、羽依の言葉が途絶える。捨てられても構わないといっていたのに、そのあとのことは考えてもいなかった。
「玲琳に、捨てられたら――」
 わたくしは、きっと死ぬ――素直な心で浮かんだのがその言葉だった。玲琳をなくして、己に生きる意味はない。
「死のう……って、考えてるの? すごく、哀しいよ。あなたを愛しているのは玲琳王子だけじゃないのに」
「え……」
「玲琳王子がいなくなっても、僕がいるよ。あなたのためなら、義族から、兄さんから離れてもいい。生きることに、意味がないはずがないよ。哀しみの次には、絶対に幸せが待ってる」
 羽依の肩を掴んで、丁秦は力強く告げた。
「僕は、あなたがいつか僕に振り向いてくれる日を、辛抱強く待ってるから。心に空いた穴を埋められなくても、蓋代わりにはなれるだろ? あなたがいいって言うまで、絶対になにもしないから」
 丁秦の優しい瞳が羽依の、傷んだ心に響いてくる。思わず、涙が滲んだ。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの……? あなたに応えられないわたくしなのに」
 止められず、涙が零れ始めた。
「好きな人には、哀しんでほしくないから……」
 丁秦の気配があまりに優しいので、羽依の涙は止まらない。泣き続ける羽依を、丁秦は黙って見守っていた。


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 丁秦と羽依が、急に親密になり始めたので、義族の者達は皆驚き、どよめいた。丁秦に向けた羽依の警戒が緩やかに解け、信頼さえ向けられる。共に馬車に乗っているので、自然と、一緒にいる時間も多くなった。義族達は、往々にして首を捻った。
「どうなってるんだ? 組み合わせが変じゃないか? 玲琳王子と羽依殿は夫婦の間柄なのだろう?」
 訳知り顔で言い出す者も。
「ああ、それな。玲琳王子と頭がお熱いのだとさ。それに、丁秦殿は目に見えて羽依殿にほの字だろ。まぁ、当然の成り行きだよな」
「そうだよなぁ……、頭も丁秦殿も、欲しいものは諦めない質だしな」
「違いない」
 人目には、朗らかな談笑である。が、玲琳は心底穏やかではなかった。
 楚鴎との情交で精気を一滴残らず搾り取られ、玲琳は羽依を腕に抱いていても抱く気力が出てこない。その上、楚鴎が遠慮なく情事の証拠を躯の上に残すので、迂闊に素肌を晒すことができなかった。心は、既に羽依に向かって開き切っているので、玲琳は障害さえなければ思う存分羽依と愛し会いたい
と思っている。だから、義族達の噂は玲琳の理性に直接訴えてきた。
 夕刻になり、皆で天幕を立て始めた頃、玲琳は楚鴎が他の事に気を取られている隙に、羽依のもとに向かった。幸い、傍に丁秦の姿はなかった。
 逃亡生活に慣れた羽依は、食事の支度も熟れてきた。器用に包丁を操り、芋の皮を剥いているところだった。羽依は玲琳の足音にまったく気付かない。鼻歌を歌いながら振り向くと玲琳がいたので、目を大きく開ける。
「……何、どうかしたの?」
 無邪気に聞く羽依の腕を取って、玲琳は林のなかに連れ込んだ。掴む手の力の強さに、羽依は目が眩む。
 一団の明かりが見えなくなったのを確認してから、玲琳は強引に羽依の唇を奪った。急な展開に呆然としている羽依を置き去りに玲琳は羽依の口腔に舌を割り込ませる。口内を舌でなぞり、羽依の舌に絡めると、羽依の息が乱れた。
 義族の者達が気付かないのをいいことに、玲琳はその場で羽依を押し拉ぐと、女の着物を取り去り弄び始めた。訳を知った唇と指先が羽依を翻弄し、息を吐かせぬほどに責めあげる。
「いやっ……どうし、て……っ!」」
 羽依の掠れた声を聞きもせず、玲琳は衣服を解きもせずに無理矢理女のなかに身を沈めた。一方的に貪り、鬱憤を解き放った男は、冷たいほどの態度で身を放した。 
 隔てをおいた玲琳の背に哀しくなって、羽依は手早く着物を纏うと、思わず問いかけた。
「……どうして、何も話してくれないの?」
 玲琳が振り向くと、真直ぐな羽依の瞳が届いた。玲琳は視線を反らす。
「隠し事をしているのでしょう? 近頃のあなたの態度はどこか、あなたらしくないわ」
「わたしらしくないと? どのあたりが」
 冷静に言い返してくる玲琳に、羽依は俯いた。 
「明らかに憔悴しているのに、隠そうとしているわ。無理をしてもっと自分を傷つけて――。わたくしには、言えないの? そんなに、わたくしが――信じられない?」
 玲琳の心に届くことを願って、羽依は見つめる。が、玲琳の躯には薄氷の膜が張られていた。
「わたしが念を押しても言うことを聞かないおまえだ」
 玲琳の意図が解り、羽依の哀しみが深くなる。
「わたくしだって――寂しいもの。わたくしはあなたを信じてる。でも、あなたはわたくしに何も言ってくれない。どんどんあなたが遠ざかっていくようで……。そんなわたくしに、丁秦殿は優しくしてくれるの。だから、ついつい甘えてしまって……」
 微かに、玲琳は目を細める。涙を浮かべる羽依の表情に、玲琳の心が軋んだ。
「今、あなたがわたくしを抱いたのは、決してわたくしを求めた訳ではないでしょう。丁秦殿への怒りのはけ口をわたくしに求めただけ……。そんな抱かれ方はいやよ。嫉妬するのなら――もっとわたくしを、安心させて」
 言い終わると、羽依は両手で顔を覆って泣き崩れた。己達の間には、いつの間にか隔たりが出来てしまった。楚鴎と丁秦の兄弟が己達の間に割り込んでくる。信じあっていれば、どんな障害も乗り越えていけると思っていた。信じあってさえ、いれば……。その信頼が、どこかに消え失せてしまった。こんなになってしまって、己達は一緒にいられるというのか。玲琳という糸が切れた己は、一体どこに流れ着くのか……。羽依はたまらなく不安だった。
 羽依の絶望が、玲琳には手に取るように解った。玲琳も、また同じことをずっと考えていたからだ。相手が仇というだけで、どうして、許されないのだろうか。愛しあい、触れあいたいと願うのは皆、同じではないのか。それが、どうして己達だけ許されないのだろうか。触れられなければ触れられないほど、想いは熱く燃え上がっている。それなのに、こんな皮肉な形でしか触れることができなかったのか。玲琳も、羽依の存在がなければ行き着く所が見えない。
 羽依の前に跪くと、玲琳は羽依を抱き締めた。羽依の躯が強張る。羽依の緊張を解きほぐすために、玲琳はさらに強く抱き締めた。
「信じてくれ……今のわたしには、それだけしか言えぬ。虫がよすぎるが、おまえがいなければ、わたしは生きてはいけぬ。わたしは、おまえを裏切ってなどいない。いつか……きっとすべて話す」
 耳元で囁く優しい声音に、羽依の心に根付く不安が揺るぐ。羽依は玲琳の腕に強くしがみつく。
「本当に? ちゃんと、話してくれる?」
 頷き、玲琳は羽依の涙で濡れた頬を拭った。腕の中で喜びに震える羽依の温もりが、玲琳には愛しい。このまま、時が止まってしまえばと思えてくる。が、時の流れは刹那のもので、数刻もすれば玲琳はまたも楚鴎の腕に戻らなければならない。羽依との日々が大切だから、どんな苦痛も耐えられる。玲琳はそれが嬉しかった。
 幾分、明るさが戻った羽依の肩を抱いて、玲琳は義族の中に戻った。


 慌ただしい交歓は、玲琳の索漠とした心にも潤いをもたらした。
 骨張った楚鴎の指が肌を這う感触も、羽依の暖かさを思い出せば厭わしく思えない。性急な楚鴎の動きに反して、玲琳の躯は然程に火が付かなかった。楚鴎にはそれが物足りなく、行為の最中に上の空な玲琳を荒々しく揺する。我に返り、玲琳は荒んだ楚鴎を見た。
「……どうかしたのか」
 感情もなく、玲琳は言う。気に入らず、楚鴎は玲琳の頬を叩く。驚きもせずに見返してくる玲琳を、楚鴎は険しい目で睨み付ける。
「何を怒っている?」
 合点がいかず玲琳は問う。楚鴎は戦慄く口元を開いた。
「おまえは、昭妃と躯を交わしたのか。俺の、知らぬ間に」
「それの、どこが悪い」
 当然の事のように言い放つ玲琳に、楚鴎の気持ちは逆撫でされる。凶暴な心で玲琳を弄ぶ。が、玲琳に変化はない。楚鴎は悔しさに唸り、玲琳の躯を放す。無念そうに膝を揺する楚鴎を後目に、玲琳は着衣を纏う。立ち上がろうとする玲琳の気配に、楚鴎は玲琳の二の腕を掴んだ。
「おまえは、俺のものだ!」
 楚鴎の激情を、玲琳は鋭く見据える。
「わたしは、おまえのものではない。おまえに抱かれているのは、すべて羽依のためだ」
「昭妃との愛を貫くためには、俺の助けが必要なのだろう! 則ち、おまえは俺のものだっ!」
「おまえは、わたしを縛り付けているだけだ。卑怯な手を使って」
 冷たささえ感じられる玲琳の瞳に、楚鴎の熱情が激しく暴れる。楚鴎は玲琳の衣服を粗暴な手付きで掴むと、引き裂いた。息を飲み、玲琳は身を竦ませる。蒼白になる玲琳の美しい面と、衣の裂け目から露になった艶やかな素肌が、楚鴎の情欲を呷った。手を突き出すと、玲琳自身を握りしめ、執拗に捻る。玲琳は呻き、息を乱す。
「や、めろ……無駄だ、そんなこと……をするのは」
 喘ぎながら、玲琳は抗う。楚鴎は玲琳の躯を床に押し潰し、四肢を封じて抵抗を緩めた。
「おまえに、俺の想いは届かない。ならば、躯で、思い知らせるまでだ。それしか、方法がないのならば、俺はいくらでも卑怯になれるッ!」
 楚鴎の叫びは、狂気を孕んでいた。目を血走らせ、髪を振り乱しながら楚鴎は玲琳の躯を犯した。玲琳の悲鳴が、静寂を裂いた。


 灯火が爆ぜる音に覚醒し、玲琳は躯を起こした。
 ――楚鴎を壊したのは、わたしだ。
 散々に玲琳を凌辱して、楚鴎は疲れのあまり泥のように眠り込む。玲琳は唇を噛んだ。元々、楚鴎は激情に走るような男ではなかった。知的で統率力があり、侠気に富んだ義族の頭目たる男であった。そのため、誰からも慕われ、信頼を置かれていた。玲琳もそんな楚鴎だから心を寄せ、身を預けたのだ。今では、見る陰もない。恋に捕われ、正常心をなくしている。以前の楚鴎ならば、力ずくで玲琳を犯すようなことをしなかったであろう。
 ――もう、昔のわたし達には戻れないのか。
 玲琳は思ったが、苦い事実に気付き、首を振る。
 ――昔も、躯を交わしていたのだった。楚鴎にとっては、空白を取り戻すつもりだったのだろう。変わってしまったのはわたしなのだから。
 心ならずも仇である羽依に惹かれ、道を踏み外したのは己だ。羽依のために、己は楚鴎の想いを知っていて躯を与えているのだ。それが、残酷でなくてなんだというのだろう。一度、躯を交わしてしまえば、恋情はそれでは足りなくなる。相手の心も欲しくなり、外聞も憚らないようになる。己が、一番よく知っている。楚鴎が荒れるのは、当然なのだ。
 玲琳は寝衣を拾い上げる。が、楚鴎の手によって綻びて、見るも無惨な有り様になっていた。玲琳は薄く笑った。自嘲の笑いだった。
 ――これでは、羽依に怪しまれてしまう。
 手に持った衣を床に落とすと、玲琳は楚鴎の傍らに無造作に置かれている楚鴎の寝衣を手に取った。衣は、楚鴎の汗の匂いが染み付いていた。
 ――仕方がない。
 吐息を漏らすと、玲琳は衣を纏った。

 己の天幕の前まで戻ると、玲琳は深呼吸をひとつした。動悸を押さえ、何事もなかったように内に入る。中では、羽依が長い髪を三つ編みにして束ねているところであった。幕を手繰る音に気付くと、羽依は華やかな笑顔で出迎えた。
「お帰りなさい。今日のお話はどうだったの?」
 出来るだけ柔和に、羽依が訪ねる。玲琳も微笑みを浮かべて、羽織っていた上衣を脱いだ。
「ああ、明日の行程を決めた。更に南下して、南荊まで行くつもりだ」
「南荊? 随分、北宇から離れたわね」
 南荊は、北宇から南にふたつの国を隔てた地にある。南荊は、北宇と交友を持ってはおらず、北宇としても迂闊に干渉できない国であった。南荊なら、北宇からの刺客も入れないだろう。羽依はほっと吐息した。
「これで、少しは安全になるかしら」
「多分な」
 朗らかな羽依に、玲琳も内心も吊られて明るくなった。羽依と供にいれば、楚鴎との憂鬱も忘れることができた。
 羽依は立ち上がると、寝具の横に付けてある盆に向き直り、上に乗せてある瑠璃の瓶子を取った。同じく瑠璃で出来た酒杯に透明な液体を注ぎ、玲琳に差し出す。
「ここの人達に、薬酒を分けてもらったの。近頃、あなた疲れているから。これを飲んでぐっすり眠って」
 羽依の志しを受け取って、玲琳は一息に飲み干した。甘くて苦い薬酒だった。玲琳が酒杯を返すと、羽依は盆の上に酒杯を伏せる。
「あなた、あまり食が進まないでしょう。でも、もう少し食べて滋養をつけなくちゃ。それでなくても過激な道行だから」
 羽依が案じ顔になる。羽依の心配を取り除こうと、玲琳は優しく抱き寄せた。
 ふと、羽依は玲琳の寝衣に染み付く匂いを吸い込んだ。馴染まない匂いだった。よく見れば、楚鴎の天幕へ行くとき身に付けていたものと違う。それに、この匂いは楚鴎が漂わせている体臭だ。草の匂いにも似た汗の匂いだ。反射的に、羽依は玲琳から躯を放した。
「……羽依?」
 愕然としている羽依を、玲琳が問う。
「その寝衣、楚鴎殿の?」
 ぎくり、として玲琳は凝縮した。玲琳の眉間に汗が伝う。はぐらかそうと、玲琳は言い訳を口にした。
「これは、楚鴎の天幕に入ったとき、燈台の先端で寝衣を引っ掛けて酷く綻ばせてしまったのだ。楚鴎が、自分の寝衣を貸してくれた」
 すらすらと玲琳は言うが、羽依の直感は違う、と告げていた。玲琳は、嘘を付いていると――。羽依に見られてはまずい何かが起こったから、寝衣を替えたのだろう、と……。
 だが、羽依は疑念をおくびにも出さず、笑顔を見せた。
「そうだったの。それで、その寝衣は楚鴎殿の天幕にあるのね。直すから、明日にでも取りにいってね」
 羽依の様子に、玲琳は安堵の息を吐く。己が何も気付いていないと思っている玲琳に、羽依もまた胸を撫で下ろしていた。本当は、辛くて仕方がなかった。
「だが、こうしていると、本当に夫婦になれたと実感できる。まるで夫婦の会話だからな」
 そう言うと、玲琳は羽依を抱いて寝具の中に入った。腕枕をして、玲琳は羽依の顔を覗き込んだ。羽依はくすり、と笑う。
「あら、夫婦なのでしょう? あなた、そう言ってくれたじゃない」
「そうだが、正式に結婚した訳でもないので……。本来なら、世間一般のように結婚式を挙げて、晴れて世間に公表したいところなのだが」
 照れながら語る玲琳に、羽依はころころと笑い声を起てる。本当は、互いに胸が痛かった。
「でも、わたくしは世間一般で行われるような結婚式を挙げたことがないのよ。陛下のものになって、いつの間にか妃の位に収まっていたの。他の、後宮に入った女人達のように正式な祭礼もなかったもの。なんだか、わたくしはどこにいっても中途半端みたいね」
 何気なく、羽依は言う。憐憫の情を覚え、玲琳は羽依を強く抱き締めた。
「いつか、世間の人々に認められるよう公表しよう。きっと、そうできる日もくる」
 勇気づけようと、玲琳がはっきりと言った。途方もなく、羽依は哀しかった。そんな日が来るとは、どうしても思えなかったから。まして、一日一日を他人に遮られ、思うように愛せない己達には。
 羽依が物思いに耽っていると、いつしか玲琳は寝息を起て始めた。今宵も、情を交わすことがなかった。
「ねぇ……、本当のあなたの心は、今、どこにあるの? どうしようもなく、遠く感じられるの。でも……信じてる、から……」
 呟くと、羽依は玲琳を起こさないように、静かに嗚咽した。


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 翌日、玲琳の予告通りに南荊の国境に辿り着いた。関門での身柄の検分で、楚鴎は一行を商人だと偽り、身分証明書まで見せた。役人はすんなりと認めると、一行を通した。
 峡谷に沿って、一行は南荊を更に南下する。荒削りで雄大な峡谷の威勢に、世間知らずの羽依は容易く圧された。木窓を開けると顔を出し、羽依は外の空気を吸う。森林の清浄な空気が肺腑に沁みた。
「すごいわ。世の中には本当に様々な場所があるのね」
 丁秦もともに身を乗り出した。
「恐いと思わないの? あんなに険しくて、威圧されるのに」
「恐くはないわ。まるで絵のようだもの。神や精霊が住んでいるかのよう」
「普通の女の人は、ごつごつした岩肌や切り立った崖を見ると、それだけで恐怖して失神してしまうものだんだよ」
「そうなの? わたくし少し変わっているかしら」
 小首を傾げ、羽依は丁秦の意見を求めた。丁秦には、子供のようにはしゃぐ羽依が愛らしく見える。
「僕は、あなたのような喜怒哀楽を素直に現わす女の人がいいな。都にいる澄ました女は人形みたいで好きじゃない」
「あら、そういう女人のほうが男の方の言うことを聞いてくれるでしょう」
 丁秦は首を振った。
「手応えがないから嫌なんだ。あんな女を相手にするのなら、等身大の人形のほうがましだね。初めから心が籠っていないのが解るから」
「わたくしみたいな生意気な女は扱いにくいでしょう。あなたがどんなに迫っても、是と言わない」
「それが、またいいんだ。落としがいがある」
 得意そうに言う丁秦に、羽依は何も言い返さなかった。何故、丁秦が己に執拗につきまとうのか理解したような気がした。木窓を閉めると羽依はふっと笑い、告げた。
「わたくしを征服したら、すぐに飽きてしまうわ。どんなに物珍しいものでも、数日眺めたら見飽きてしまうもの」
 慌てて丁秦は否定する。
「飽きたりなんてしないよ。あなたのこと、好きだから」
「好き、という言葉は連発するものではないわ。あなたは好きだと何度も言うけれど、心が伝わってこないの。わたくしの傍に玲琳がいるから、負けたくなくて躍起になっているだけ」
「どうして、そんなことをいうの! 好きなものを好きと言って、どこが悪いの!?」
 捲し立てる丁秦を、穏やかな目で羽依は眺めた。丁秦が駄々っ子のように見えた。
「好意はね、態度で伝えるものなの。言葉では巧く現せないわ」
 丁秦は鼻白む。
「僕と同い年なのに、子供を諭すように言うんだ。まるで、それだけの人生経験を積んだみたいな言い草だよね」
 言われて、羽依は遠い目をする。確かに、今までに色々な恋の修羅場を潜り抜けてきた。皇帝・牽櫂の圧迫的な愛や旺皇后の哀しい愛、陶嬪が見せた嫉妬、そして、愛のためにすべてを投げ出した玲琳と己の生きざま――。真摯な愛は、言葉の範疇からはみ出す。言葉で現わすようにうまくいかない。
「それとも羽依殿は、好きとか、愛してるという言葉が嫌いなの?」
 丁秦の詰問に、羽依は頭を振る。
「嫌いじゃないわ。むしろ、嬉しいわ」
「じゃ、どうしてそんなことを言うの」
 少し考えて、羽依は応えた。
「言葉はね、呪縛になるの。言葉に魂があるというのが正しいのかしら。乱用する言葉は、相手を縛るだけで伝わりはしないわ。本当に大事な言葉は、一番相応しい瞬間に生まれ出るものなのよ。玲琳は、わたくしが欲しいと思ったときに欲しい言葉をくれるの。その言葉だけで、わたくしは救われる」
 羽依は目を閉じた。玲琳の言葉は、魂を感じられる。心がそのまま言葉となっているように聞こえるのだ。だから、玲琳が話せると思ったときに、隔てを置いた訳を話してくれると信じている。
 丁秦が呻き声を放つ。
「僕の言葉は、真実じゃないんだ」
 荒れた丁秦の瞳を宥めるように、羽依は見つめた。
「今のあなたは、玩具を欲しがって我が儘を言う子供のようだわ。手に入らなければ、手に入れるまで駄々をこね続ける。知恵があるから、そのように見せないだけ。でもね、手に入れたくても決して手に入れられないものもあるのよ。そうして諦めを知ったとき、人は大人になるの」
 丁秦は何も言わない。
「わたくしは生きること事体を諦めていたから……。諦めて、何も望まなくなるのが大人になるということなら、もうなっているのかもしれないわね」
「あなたの言ってることは、矛盾してるッ! あなたは、玲琳王子と生きることを諦めていないじゃないかッ!」
「そのかわり、捨てたものも沢山あるわ。今までの、綺麗なままのわたくしを捨てたの。生きるためには、見たくないものを正視しなくてはならないもの。
 たったひとつの我が儘なの。わたくしは玲琳と――幸せになりたい。そのためには、汚れてもかまわない」
「羽依殿……」
 静かな羽依の涙に、丁秦は何も言えなくなる。涙を拭うと、羽依は微笑んだ。
「黙って王子を信じるのが、あなたの愛なの?」
 ぽつり、と丁秦が言う。
「王子が他のものを見てしまうと、あなたの愛は報われなくなってしまうよ」
 ふふ、と羽依は笑う。
「見返りは求めていないわ。愛に見返りを求めてはいけないもの」
 あまりにも穏やかに話す羽依に、丁秦の良心が揺らいだ。こんなに健気な羽依に、己は酷いことをしている。羽依を手に入れたいために兄を焚き付けたのは己だ。己がすべてを仕掛けたと知ると、羽依は己を愛してくれるのだろうか。丁秦は取り返しのつかないことをしているような気がした。
「……ごめん」
 丁秦が何気なく謝ると、訳を知らない羽依は首を傾げた。
「何を?」
「どうしても、謝りたくて……。訳は、聞かないで」
 疑念を孕まない羽依の瞳に、丁秦は泣きたくなった。
 車輪の音と水の流れが沈黙の間に降り注いだ。


「……昨夜はすまぬ。どうかしていたのだ」
 玲琳の隣に馬を寄せると、楚鴎は密やかに囁いた。激しい水の轟音が、楚鴎の囁きを跡形もなく消した。聞こえているのか聞こえていないのか、玲琳は冷たい表情を崩さず前方のみを見据える。玲琳の、態度による拒絶に、楚鴎は唇を噛んだ。
「今の俺は醜かろう。嘲笑いたければ嘲笑えばよい。みっともないのは、自分でもよく解っている」
「別に、何とも思っていないだけだ」
 視線を変えずに、玲琳は温度の籠らない声で応える。
「おまえとの関係は契約だ。割り切ってしまえば、それほど痛くはない」
「……契約か。そうだな、俺が、昭妃を盾におまえに迫ったのだ。契約以外のなんでもないな」
 楚鴎の科白に苦さが籠る。苦さは、玲琳も感じていた。心はすれ違い、ふたりを挟む間隔はますます広がっていく。もう、どうしようもない。
「……どうして、人間の心は変わるのだろうか。わたしは、おまえが望んだ昔のわたしではなくなったし、おまえもわたしが望んだおまえではなくなった。変わったことを悔やみはしないが、時折――切なくなる。過去は、過去でしかなかったのか、と」
 呟き、玲琳は哀愁を帯びた。楚鴎も、目を伏せる。
 そのとき、背後の木々がざわつき、森に潜む鳥達が一斉に羽ばたいた。玲琳も、迫り来る気配に瞠目する。
「玲琳!?」
 血相を変えて、楚鴎が叫んだ。
「ちいッ! 楚鴎、刺客だッ!」
「何っ!?」
 義族達が血眼になって辺りを見渡す。耳を澄ますと、かすかに複数の馬の蹄の音が聞こえてきた。物凄い勢いで騒音が近付いてくる。楚鴎が合図すると、男達は馬から下り、臨戦体制に入った。玲琳も、腰に帯びた中剣を引き抜く。
 馬車の中では、ただならぬ様子に震える羽依を、丁秦が押さえていた。
「し、刺客が来ているの!?」
 羽依が身を縮まらせる。丁秦は羽依を背に庇った。
「だ、大丈夫だよっ! 僕が護るからっ!」
 振り返って、丁秦が羽依を勇気づける。戦慄きながら、羽依は頷いた。
「丁秦っ、おまえ達は出来るだけ気配を消せ! 絶対に出てくるなっ!」
 楚鴎が馬車に向かって指図した。
 恐ろしい状態に、羽依は堅く目を瞑る。丁秦が羽依を抱き締め、固唾を飲んでいた。
 やがて、鋭い馬の嘶きが羽依の耳に届いた。男達の怒声とともに剣を交わす音がする。外で激しい戦闘を繰り広げているのだ。そう思うと、羽依は他の男達と一緒に戦っている玲琳が気にかかった。居ても立ってもいられず、羽依は丁秦の腕の中でもがく。
「は、離してッ! れ、玲琳が!」
「だ、駄目だよッ! 今出れば、あなたが危ないッ!」
「でも、玲琳を放っておけない! あの人に何かあればわたくしは……っ!」
 半狂乱で泣き出しながら、羽依は馬車の入り口を塞ぐ幕を挙げる。丁秦は羽依を必死に車中に入れようとした。羽依は丁秦の腕を振り払いながら、戦っているはずの玲琳を目で探した。
 土煙に巻かれながら、玲琳は見事な剣裁きを見せていた。突き、薙ぎ払って返す剣で後方の敵を斬った。その姿はさながら、武の舞を舞っているかのようであった。不謹慎ながら、羽依は玲琳の姿に見蕩れてしまう。それが、命取りであった。半分馬車から出かかった人影に気付いて、刺客の一人が馬車に近付いた。ぬっと腕を突き出すと、女のほっそりとした手首を掴んだ。息を飲む間もなく、羽依は馬車から引き摺り出されてしまう。
「う、羽依殿――ッ!」
 丁秦の絶叫が峡谷に木霊した。そこに居るものすべてが、馬車に視線を集中させる。
「女だ……! 昭妃・羽依か?」
 男は埃で汚れた手を羽依の顎に掛け、羽依の頭を覆っている布を掴んだ。
「ち、違う! そのひとは昭妃・羽依じゃないっ!」
 丁秦が否定するが、遅く、羽依の素顔が晒されたあとだった。青ざめた顔も一層美しい羽依の面に、男は無遠慮な目線を注いだ。
「な、なんてぇ女だ……っ。この世のものとは思えんっ!」
 恐ろしさに震えながらも、羽依は男を睨み付ける。その目付きも、男の好色心を誘った。
「いいねぇ。その目、たまんないよ」
 今にも羽依の面に顔を接近させようとしている男に、玲琳は顔色を変えた。
「羽依――ッ!」
 玲琳は羽依に向かって躯の方向を変えるが、他の刺客が襲いかかってきて足を踏み出せない。器用に数人の男を斬り伏せながらも、玲琳は羽依を凝視する。
 男の無骨な手が羽依の乳房に延びかけた瞬間、痛む足を忘れて丁秦が男に体当たりした。が、男はびくともせずに丁秦を投げ飛ばした。地面に頭を強く打ち付け、丁秦は動けなくなった。
「丁秦殿――ッ!」
 ぐったりとしている丁秦を見て、羽依は悲鳴を挙げた。
 襲撃してくる刺客の間をかいくぐると、玲琳は走りながら着物の袷に手を突っ込み、匕首を数本取り出して羽依に襲いかかっている刺客に投げ付ける。得物は過たず、すべて男の背中に突き刺さった。痛みに男は玲琳をねめつける。身軽に跳躍すると、玲琳は男の目の前に降り立ち男の咽首を掻き斬った。傾ぐ男の体躯を避け、玲琳は羽依に手を延ばした。羽依も玲琳に取り縋る。
「羽依、羽依……!」
 震える羽依を強く抱き締め、玲琳は安堵の吐息をした。その間にも、義族の男達は刺客をすべて撃退し、剣に付いた血を拭い取っていた。
 震えが収まってくると、羽依は己を助けるために刺客に襲いかかった丁秦を思い出した。
「……丁秦殿は? どこ、どこにいるの?」
 玲琳の腕から抜け出ると、羽依は楚鴎に抱き起こされている丁秦のもとに駆け寄る。脳震盪を起こし、丁秦は朦朧としていた。
「丁秦殿、丁秦殿……」
 羽依は何度も丁秦を呼ぶ。近寄ってきた玲琳が羽依の肩を抱く。
 楚鴎が、荒んだ目で羽依を睨み付けた。
「おまえが、大人しくしていれば、こうはならなかったものを――!」
 手を振り上げた楚鴎に危機を覚え、玲琳は楚鴎の手を止めた。びくり、と羽依は身構える。
「や、やめて、兄さん……」
 はっとして、羽依は丁秦を見る。
「丁秦殿……」
「僕が、そうしたいからそうしたんだ。羽依殿を責めないで……」
 羽依を見つめながら、丁秦は呟いた。不自由な足を行使してまで己を助けようとした丁秦に、羽依の心は熱くなる。鼻を鳴らすと、楚鴎は立ち上がり、刺客の死体の始末を義族達に号令した。気が付くと、再度丁秦は意識を失っていた。羽依は黙って丁秦の傍に寄り添う。玲琳が離れようとしても、羽依は態度を変えなかった。
「羽依……」
 玲琳が催促を込めて呼ぶ。が、羽依は首を振った。
「わたくし、ずっと丁秦殿に付いていてあげるわ」
 涙ぐんで、羽依は笑顔で応えた。
 男達が丁秦を馬車に運ぶと、羽依は毛布を畳んで枕を作り、丁秦をうつ伏せに寝かせて、冷水で濡らした手巾で丁秦の後頭部を冷やした。
 一団の態勢を立て直すと、楚鴎が全員騎乗を命じる。馬に跨がりながら、玲琳は馬車をちらり、と見る。羽依は玲琳が見つめているのにも気が付かずに、丁秦の頭を優しく撫でていた。
 羽依が刺客に襲われたのを目の当たりにしながらも、駆け寄ることが出来なかった己の不甲斐なさ。羽依の危機に素早く身を乗り出した丁秦への衝撃……。玲琳の心は暗鬱だった。
 玲琳は、丁秦が己への挑戦で羽依に手を出してきたと思っていた。楚鴎が頻繁に玲琳を気にかけるので、嫉妬した丁秦は何度も突っかかってきた。が、羽依を庇った丁秦の態度は、明らかに玲琳への反発以外のものを感じられる。丁秦もまた、羽依に惹かれているのだろう。
 このようなときに、どうして羽依の傍にいられないのか――。玲琳は唇を噛み締める。楚鴎に足留めされているうちに、みすみす羽依を丁秦に近付けてしまう。
 ふと、玲琳は隣で馬を進める楚鴎を見た。楚鴎は顎に指を添えて、何か考え込んでいるようであった。
「楚鴎?」
 玲琳が尋ねると、驚いたように顔を挙げた。
「何か、気掛かりでも?」
 言いかねるといった表情を見せたのち、己を責める玲琳の目線を受けて楚鴎ははっきりと口を切った。
「先程の襲撃は、おまえが俺達と供にいることを、李允に知られたということになるのだろうか」
 玲琳は目を見開く。
「それ以外の事実があろうか。知られたからには、李允は再び追っ手を差し向けるだろう」
 断定し、玲琳は唸る。己達が楚鴎と行動を供にしていると知られたからには、ここは最早安全ではない。楚鴎にも火の粉がかかる。玲琳はそれだけは避けなければと考えた。
「――明日、おまえ達から離れる」
 急な玲琳の発言に、楚鴎は顔色を変えた。
「駄目だ、行くなっ!」
 楚鴎は手を延ばし、玲琳の腕を掴んだ。困惑して玲琳は楚鴎を凝視した。
「――俺に、考えがある。だから、おまえは安心してここにいろ。いいな!」
 強い眼光で、楚鴎は玲琳を縛り付ける。
「おまえに迷惑を掛けてしまう。その前に、ここを出たい。今が機会ではないのか」
 なおも言う玲琳を、楚鴎は一蹴した。
「どんなことがあろうと、俺はおまえを絶対に離さん!」
 鋭い剣幕で、楚鴎は恫喝した。一瞬、玲琳は怖じ気付いてしまう。
「俺から離れようと思っても、そうはいかんぞ」
 執拗な眼差しが玲琳に絡む。楚鴎の強い独占欲に、玲琳はぞっとした。
 ――楚鴎はわたしを助けるためではなく、わたしを縛り付けるためにここにおいたのか。
 悪質な疑念が脳裏に沸き上がり、玲琳は慌てて首を振る。そこまで楚鴎を悪く思いたくはなかった。
「どんな策なのか、わたしには打ち明けられないのか」
 辛うじて玲琳はそれだけ聞くが、楚鴎は応えない。楚鴎の沈黙が恐ろしく、玲琳は顔を背ける。
 楚鴎の考えとは一体なんなのか。それで、李允から逃げられるのか。楚鴎はあくまで己達を匿うつもりだが、玲琳は苦痛だった。一度は撃退できても、それ以降巧く避けられるか確証がない上、楚鴎を巻き込んで追われ続けなければならない。なにより、楚鴎の呪縛が鬱陶しかった。
 丁秦をこれ以上突き進ませないためにも、はやく羽依と供にここから離れるべきだ――。玲琳の心は、すでに決まっていた。






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