食事が終わったあと、玲琳は羽依とともに楚鴎に呼ばれた。話があるとのことだった。
先刻、楚鴎の求めを無視したので、羽依は楚鴎の怒りを恐れた。したがって、足取りも重くなり、先に行く玲琳の歩調を遅くさせた。
「なんだ、楚鴎の機嫌を気にしているのか? わたしがうまく取りなすから大丈夫だ」
安心させるために玲琳は言うが、羽依は緊張した笑顔を見せた。
すでに、片付けられた天幕や荷物が整頓され荷馬車に乗せられている。義族の男達も、それぞれ自分の出立の用意をし始めていた。
「羽依殿!」
楚鴎がいる一団に歩み寄ったその時、丁秦が大男に担がれて近寄ってきた。羽依の前に立つと、丁秦は下ろすように男に命じた。
「おはよう。よく眠れた?」
昼近くなっているが、丁秦は朝の挨拶をした。
「ええ」
改めて、羽依は丁秦の容貌を見る。昨夜は焚き火の炎に煽られて赤黒く映っていた面が、日の光の下でくっきりと現れていた。円らで大きな瞳と、厚くてやんちゃそうな唇は、どうみても十七歳に見えない。玲琳は気を抜くなと言うが、羽依はやはり丁秦を警戒する気になれなかった。
「今から、兄さんと話?」
「今後のことを話し合うのだろう」
玲琳が、羽依を己の肩の後ろに隠し、凍えるような声音で返す。丁秦は気にもせずに羽依に話し掛けてくる。
「羽依殿は僕と一緒に馬車に乗るんだよね」
「え」
まったく思い当たらず、羽依は玲琳と顔を見合わす。
「兄さんが玲琳王子の馬の用意をしていたよ。あなたは女性だから馬車だよね」
「いいえ、何も聞いていないわ」
「じゃあ、そのこともこれから話すんじゃないかな」
嬉しそうに丁秦は羽依の手を握る。玲琳は眉を顰め、丁秦の手を振払う。
「馴れ馴れしく触るな」
鋭い眼差しに丁秦は肩を竦める。
「ちぇっ、けちだよな。ちょっとぐらい触っても減るものじゃないんだし」
悪戯っ子そのものの表情で、丁秦は羽依に向かって片目を瞑ってみせた。玲琳は益々不快げに眼を細める。無理矢理羽依の手を引くと、玲琳は足早に歩き出した。唖然として玲琳の豹変ぶりを見ていたが、やがて羽依は楽しそうに笑い出した。
「笑い事ではない」
振り返りざまに厳しく言い放つ玲琳。羽依の笑いは過剰になる。
「あれぐらいのことで本気で怒るなんて、あなたらしくないと思って――」
その言葉に、玲琳は立ち止まる。
「丁秦は、おまえがわたしのものだということを、まったく気にかけていない。わたしが側にいようが、おまえを口説き落とすつもりなのだろう」
いつもは冷静な玲琳の眼差しに、焦りが滲む。
「でも、わたくしは丁秦殿のことをなんとも思っていないわ」
明るく言う羽依の眼を、玲琳の荒んだ眼差しが捕らえる。
「丁秦が男だということを忘れるな。力で挑まれれば、女の力で勝ちようがない。いつもわたしが側にいるわけではないのだからな」
「え、ええ……」
玲琳の気迫に圧倒されて、羽依は頷く。
楚鴎の前に立ったときも、玲琳は堅い表情を崩さないままだった。わだかまるふたりを後目に、楚鴎は朗らかに玲琳に向き直る。
「話というのは何だ」
取りつく島もなく、玲琳は言い放つ。楚鴎は軽く息をついた。
「なるべく早くここを立つ。おまえは支度が済んだか?」
「ああ、いつまでもここにいるわけにはいくまい」
にこりともせずに玲琳は言う。
「玲琳、李允がおまえを追っているのを知っているか?」
「昨日、街で兵士達が話しているのを聞いた。わたしが落とした南遼の紋章入りの札が李允の手に渡ったのだろう。燐佳羅と玲琳が同一人物だということも気付いているようだ」
「おまえらしくもなく抜かったな」
楚鴎は面を改める。
ふたりの会話が、羽依はどうにも腑に落ちなかった。思ったまま、羽依は疑問を口にする。
「どうして、李允殿は玲琳とわたくしが一緒にいると思っているのかしら。仮にも、李允殿と玲琳は深い関係にあったのでしょう? それを、罪人として捕らえるの?」
暫時、玲琳は息を詰める。楚鴎が羽依に険しい眼差しを充てた。玲琳はそんな楚鴎を目で咎める。ふたりの奥歯に物が挟まったような態度に、羽依は何かあると悟った。
「玲琳、今さらわたくしに隠し事はなしでしょう?」
羽依の詰問に、玲琳は細い溜め息を吐いた。
「李允が欲しがっているのは、羽依、おまえだ」
一瞬、何のことか解らず、羽依はふたりを凝視する。
「――何ですって!?」
「李允はおまえを手に入れるために、燐佳羅を後宮に潜り込ませたのだ。李允は、わたしの敵討ちを黙認するかわりに、おまえを寄越すように要求してきた。だが、わたしは皇帝を討ったのちもおまえを引き渡さずに逃亡している。その上、馬鹿なことにわたしは南遼の札を落としてきてしまった。李允に、わたしがおまえの婚約者だった暉玲琳だとばれたのだろう」
玲琳の言葉に、羽依は顳かみに冷たい汗を滴らせる。
李允はかつて、何度も皇帝・牽櫂の宴席に招かれていた。牽櫂は何時も羽依を傍らに侍らせていたので、李允も羽依の姿を見ていたはずだ。そのつど、李允は羽依に粘りのある目線を送ってきた。羽依の頭の先から足の爪まで、隈無く眺めていた。羽依はいつも李允の視線を不快に感じてきたが、まさか、牽櫂を殺してまで己を手に入れようとしていたなど、夢にも思っていなかった。あの、玲琳との出会いも、すべて李允が仕組んだことなのだ。が、玲琳は李允との契約に背いて羽依を自分のものにした。李允の怒りが手に取るように解り、羽依は悪寒に震えた。
「李允殿は――わたくしを手に入れるために、あなたを使って陛下を殺めようとしたのね」
羽依が弱々しく呟く。玲琳の、己への憐憫の眼差しが、肌に刺さって痛かった。
「いずれにしろ、李允は事がなった暁にわたしを殺すつもりだったのだろう。李允にとって、わたしは駒でしかなかったのだ。それに、李允が皇帝を殺そうとしたのは、己の野望のためでもあった」
「野望……?」
羽依の問いに、玲琳は頷いた。楚鴎も、玲琳を見る。
「おまえのことだ、そのことも調べてあるのだろう?」
楚鴎の言に、玲琳は不敵な笑みを浮かべた。
「皇帝・牽櫂は羽依を思うように出来ず、何人かの女に手を付けた。その中には李允が勧めた女もいた。李允は皇帝の寵を一度でも受けた女ならば、丁重に別宅に囲っていた。
これは、わたしが執事に近付いて口を割らせた事なのだが――皇帝の寵を受けた別宅の女に、男児が生まれたと――。真偽はどうでもよいが、李允のことだ、その男児を皇帝の落胤と言うぐらい訳ないだろう。月数的には丁度、皇帝が女に手を付けた頃に宿った子らしい。
そこから先は、わたしの預かり知らぬことだ。楚鴎、おまえのほうが詳しいのではないか?」
楚鴎は笑顔を見せて、あっさりと玲琳の科白を引き継いだ。
「俺の探索では、今、宮城では皇帝の落胤の噂で持ち切りだ。李允の言い出したことらしい。これが本当ならば、北宇の正統な後継者が現れたわけだが、当然、李允が後見をすると言い出すだろう。そうなれば、北宇は李允の思うがままだ」
ふたりが言い合わせた内容に、羽依はぞっとする。女装の男を後宮に入り込ませて皇帝を討たせ、あわよくば妃を手に入れようとしていた狡猾な男が、北宇を牛耳る――そうなれば、北宇は頽廃を極めるのではないだろうか。宮廷も市井も乱倫に溺れ、秩序が無くなってしまう。世は瘴気が這い血の匂いが立ち篭める地獄と化す――。北宇は、羽依にとって辛い思い出しかない地だが、それでもたったひとつの祖国である。祖国が、狡悪な男に蹂躙されるのはどうしても見ていられなかった。
「それで、落胤説は北宇の廷臣達にどれぐらい浸透しているのだ?」
羽依の陰鬱な面相を気にして、玲琳は楚鴎に聞いた。
「李允は強引な謀略を使って出世した男だ、反対派もかなりいる。際たる人物が目下、李允の部下である陶衡将軍だ。これは内密のことだが、陶衡将軍は北康の皇帝と手を結んだらしい。北康も、李允の手口が目に剰っていたのだろう、内々に北宇の調査をし始め、陶衡将軍が協力しているらしい」
思わぬ名に、玲琳と羽依は瞠目した。陶嬪の父が、己達の為したことの調査に北康と組んで乗り出したとは――ふたりは互いに、深い因果を感じずにはいられない。
「……しかし、よくこのような機密を探ることが出来たな。どういう情報網を持っているのだ?」
半ば呆れ、半ば感心して玲琳は尋ねる。楚鴎は得意げに笑う。
「義族の長・殷楚鴎を甘く見るなよ。あらゆる所に伝手を持っているのが俺だ。実は陶衡の侍女として、俺の子飼いの女が入り込んでいる。中々の遣り手で重宝する」
「そうか……。その女から、他に何か聞いていないか?」
競り上がる息を飲み込んで、玲琳は探る。羽依も、激しい動悸を押さえた。
「……いや」
深く考えずに楚鴎は応えた。ふたりは、とりあえず胸を撫で下ろした。今ではどうでもいいような気がするが、やはりふたりは陶嬪との関係を知られたくなかった。
「李允の目的はわたしを捕らえるというより、おまえを我がものとすることなのだ。李允は陰湿な性質なので、簡単にはおまえを諦めないだろう」
羽依に言い聞かせるために玲琳は言う。頷きながらも、羽依は心の暗さを拭えなかった。
「だから、同じ場所に長く留まれないのね……。わたくしのせいで、ここの人達に追われる辛さを追わせてしまうわ……」
羽依は暗い目を楚鴎に向ける。楚鴎の瞳には何の感情もなかった。
玲琳が羽依の手を取る。羽依は縋るように玲琳を見た。
「どうすれば、この渾沌とした状況を免れることができるのかしら……。すべての発端がわたくしにあるようで、辛いの……」
告げて、羽依は目を臥せる。
「羽依……」
玲琳が己に労りの目を注いでいるのを、羽依はひしひしと感じていた。余計に羽依は顔を上げられなかった。直にその目を見てしまうと甘えてしまいそうで、弱い己を晒してしまいそうで、羽依はいたたまれなかった。
羽依は笑みを作ると、何もないかのように面をあげた。
「ごめんなさい、弱気になってしまったわ。
楚鴎殿。わたくしのこと、足手纏いかもしれないけれど、気に入らないかもしれないけれど、どうか玲琳と一緒に護って下さい」
それだけ言うと、羽依はふたりに背を向けた。不審に思った玲琳が、羽依を止める。
「どこに行く?」
羽依は微笑み振り返る。
「どこにも行きはしないわ。少し、他の方達の様子を見てみたいだけ……」
「それなら、わたしも――」
一緒に行こうとする玲琳に、羽依は断りを入れた。
「大丈夫よ、他の方達がいるから危険ではないわ。あなたも、わたくしがいては楚鴎殿と話しにくいこともあるでしょう?」
羽依が釘を挿すためにそう言うと、玲琳は何も答えられなかった。
義族の一団に混ざっていく羽依を眺めながら、玲琳は舌打ちする。
「わたしも、迂闊なことを……」
「何を?」
玲琳の呟きに、楚鴎は剣呑な声を漏らす。玲琳は楚鴎を睨んだ。
「羽依が己に関わる伝聞の事、何の理解もしていないと思っていたのか?」
「事実を告げたまでだろう。それほどまでに護り庇ってやらなくてはならない女なのか?」
より玲琳の眼差しが険を帯びる。
「羽依は普通の女だ。素で矢面に立てる程、強くはない。幼い頃から運命に翻弄されてここまできたのだ。どれほどに、傷付いていることか――」
「お優しいことだな。あの女が南遼を滅ぼした元兇だというのに」
楚鴎の皮肉な言葉に、玲琳は恫喝した。
「そのことは、もう言うなッ!」
が、楚鴎は変わらなかった。
「昔から甘い奴だったが、未だ変わらぬか。言ったはずだぞ、中途半端な甘さは、命取りになると。現に、おまえは仇であるあの女に魅入られた。つねに冷静さを身につけろと――」
「うるさいっ、余計な口を聞くなッ! 本気で人を愛したことのないおまえに、恋する者の気持ちが解るものかッ!」
己が口にした厳しい内容に、玲琳ははっとして楚鴎を見た。楚鴎は瞠目し、口元を戦慄かせていた。
「す、すまぬ。言い過ぎた……」
玲琳がそう言い終わらないうちに、楚鴎は玲琳に向かって一歩を踏み出し、細身な肩を強く掴んだ。
「楚鴎……!?」
「俺が、人を愛したことがないだと!? おまえこそ、俺の気持ちを知らずに――!」
楚鴎が片手を上げると、玲琳は咄嗟に身を竦ませる。玲琳の怯えを孕んだ面に楚鴎は我に返り、がくり、と振り上げた片手を下ろした。
「……すまぬ、どうかしていた。おまえに手を上げようとするなど……」
悄然として楚鴎は玲琳から目を背ける。少しほっとしながらも、玲琳は胸を痛むのを感じた。脱力した肩に、玲琳はそっと手を置く。楚鴎の臆病な視線が、玲琳を窺う。
「わたしに説教をしてくれる人間は、おまえしかいない。たしかに、わたしは甘いのかもしれないが、羽依を愛する心だけはどうにもならないのだ」
玲琳は手を下ろし、楚鴎を見つめた。楚鴎の目の奥に、言い様のない暗さが潜んだ。
「今、わたしが生きているのは、羽依がいてくれているからだ。皇帝・牽櫂を殺した時点でないはずのわたしの命を生かしているのは、羽依への愛だけだ。
おまえから見れば、わたしのしていることは愚の骨頂かもしれぬ。死んでしまった南遼の人々や我が一族、そしておまえ達を裏切ることだとしても、わたしは引き返すことができぬ。羽依を護るために死なねばならぬのなら――わたしは喜んで、死ねる。
おまえに理解されなくとも、それだけは言っておきたかった……おまえはわたしにとって、かけがえのない兄なのだから」
玲琳は包み隠さずに胸の内をすべて話した。理解されなくともよいと言いながらも、楚鴎にだけは分かってほしいという矛盾を孕んだ告白――。玲琳は卑怯な甘えだと解っていた。心から打ち解けられる兄に等しい楚鴎に見放されたくない一心の、縋るような思いだった。羽依へ向ける激しい熱情とはまた違った、沸き水にも似た穏やかな思いだった。羽依への想いは、相手のすべてを貪らずにはおけない渇えだ。楚鴎に対してはすべてを求めようとは思っていない。また、羽依に弱さを見せるのは抵抗があるが、楚鴎は己より度量が広い分、ありのままに晒け出せる。が、己の過去の苦しみを癒せるのは、羽依しかいなかった。限り無い優しさと温かさで羽依は己を包み込む。己をこの道に導いた楚鴎には、とても苦しいなどと言えない。玲琳は羽依も、楚鴎もともに失いたくなかった。
「我が儘だとは解っている。だが……おまえに見放されたくない」
「勝手だな……。両方とも欲しいなどと、駄々っ子のようだ」
掠れた声で、楚鴎はやっとそう言う。
「そうだな――わたしは駄々っ子、そのものだ」
「解ったから、もう行け。おまえはおまえの姫君を放っておけないのだろう。あれでも、丁秦など油断ならぬ」
楚鴎が促すと、玲琳ははにかんだ笑みを浮かべ、羽依の方に向かって歩き出す。楚鴎は何の躊躇いもなくありのまま語れる玲琳が羨ましかった。欲しいものを欲しいと言える玲琳が妬ましかった。妬ましくて、途方もなく愛しかった。たった一言でも心の内を明かせば、玲琳は己から離れていってしまうだろう。それが手に取るように解るから、楚鴎は黙って玲琳の一方的な懇願を飲み込むことしか出来ない。
寄り添い合う恋人達を目にして、楚鴎は焼け爛れた嘆息を吐いた。
真夏の太陽が陽光の威力を弱めた頃合、殷楚鴎率いる義族の一団は都の郊外にある森を出立した。なるべく早く北宇から離れたほうがよいという楚鴎の判断で皆、馬の足を速めて駆けた。乗馬に慣れた義族の者達はさることながら、玲琳も巧みな手綱捌きを見せた。
羽依は丁秦とともに馬車に乗車している。どういうことなのか、丁秦は他の者とは違い馬に乗らない。先程は余り気に止めていなかったが、丁秦は大男に担がれていた。何か躯の不自由な箇所があるのだろうか。
ちらり、とそんなことを考えてみたが、羽依は玲琳と楚鴎が語っていた内容に心を捕われ、深く詮索する気になれなかった。脳裏に暗い澱が渦巻き、羽依は沈み込んでいた。
李允が己を欲している――多分、躯だけを。そのために玲琳を後宮に潜入させ皇帝・牽櫂を殺めさせた。巧く玲琳に己を盗ませ、すべてが済んだ暁には玲琳も殺そうと――。李允の醜悪な我欲と姑息な手段が羽依の胃の状態を悪化させた。馬車の揺れに吊られて胃の中にあるものが喉元にまでせり上がってくる。
顔面を蒼白にさせ、冷や汗を滴らせる羽依の様子に、横で見ていた丁秦が手を差し伸べた。躯を硬直させ、羽依は丁秦を凝視する。丁秦はかすかに目を細め、微笑んだ。
「そんなに身構えなくてもいいじゃない。どこか躯の調子が悪いの?」
じっと見入ってくる丁秦を鬱陶しく思い、羽依は顔を背ける。
「どこも――変わりないわ」
すげ無い羽依の言葉に、丁秦は苦笑いした。
「顔、真っ青だよ。乗り物に弱いんだ」
「そうではないわ」
そうは言ったが、羽依は元来、後宮に閉じ込められていて、乗り物に乗ることは皇帝・牽櫂の遊びに付き合った時くらいしかなかった。が、丁秦が執拗に詮索してくるのでうんざりしていた。
「兄さんに頼んで、休憩を入れてもらったほうが……」
「お願いだから、構わないで!」
たまりかね、羽依は声を上げた。呆然と丁秦が己を見ているのに気付いて羽依は少し後悔した。
「本当に、なんでもないの……」
弱々しい口調で告げる羽依を眺めて、丁秦は息を吐くと、腰に帯びていた巾着の口を緩ませ折り畳んだ白い布地を差し出した。羽依が訝し気に小首を傾げると、拭いて、と一言付けた。洗い立てで糊がつけられた布地の固い感触が心地よく、羽依は額や頬に滑らせた。
丁秦は単純に己を思いやってくれただけなのだ。それなのに、己は丁秦の暖かい感情を拒否した。ただの八つ当たりで。羽依は己が情けなかった。
「丁秦殿も、色々とわたくしの噂を聞いていたのでしょう? 何とも思わないの?」
布を握りしめ、羽依は独り言のように呟いた。
「北宇の皇帝を溺れさせた稀代の悪女っていうやつ?」
丁秦の言葉に、羽依の躯が軋む。丁秦は横目で羽依を見遣りながら続けた。
「あと、絶世の美貌の持ち主で見るだけで魂を奪われるとか――。たしかに、後者は当たってるよね。僕も、初めて羽依どのを見た時、心臓が止まりそうだった。でも、前者は確実に違うよね」
思わず、羽依は丁秦を凝視する。羽依と目が合い丁秦はにこり、と笑った。
「兄さんなんかは、あの女はこの世を食いつぶす魔物だ、なんて嘯いてるけど、僕はひと目であなたはそんなことできる人じゃないって解った。あなたの心は陶器のように繊細で、真綿のように優しいんだ。人が不幸になるのを笑って見てることなんてできない。そうでしょ?」
丁秦に同意を求められ、羽依は何度も頷く。
「あなたに美しい顔を与えたのは、神の善意なのか、悪意なのか解らないけど、あなたはこの世にふたつとしてないんだ。それを、ひとりの人間が独占しようなんてどうかしてる。北宇の皇帝は間違っていたんだ。ひとりの人間を力づくで従わせることなんて、できるはずないのに。だから、あなたは不幸な半生を送り、玲琳王子は人生を狂わされたんだ」
「陛下の存在がなければ、わたくしは託宣通り南遼の玲琳王子に嫁いでいたわ。こんなに苦しい思いをすることもなくあの人と結ばれることができたのね」
何気なく羽依は言う。不意に、丁秦が羽依に向き直った。
「託宣って、何?」
「えっ?」
そう告げる丁秦の意図を、羽依は飲み込めなかった。
「訳の解らない予言なんかに従って、あなたは玲琳王子に嫁いでいたはずなの? 何の疑問も感じずに?」
「わ――訳の解らない予言って――、わたくし達にとっては一身に関わる重大なことなのよ。現に、託宣通りに履行されなかったから、この世がこんなに混乱しているのだもの」
たじろぐ羽依を鼻先で笑って、丁秦は言う。
「あなたが託宣通りに嫁がなかったから北宇の皇帝が死んで、世界が火種を孕んでいるって? 僕には、皇帝があなたを自分のものにしたからこうなったようにしか見えないんだけれど。あなたを自分のものにするために南遼を滅ぼし、あなたの両親を殺して、あなたを手に入れたのにも飽き足らずところ構わず女に手を付けた。その結果が、皇帝一家の滅亡と落胤騒ぎだ。託宣がどうこうじゃなくて、皇帝があなたを無理矢理手に入れたつけが今になって廻ってきただけだよ」
丁秦の事実を含んだ言葉は羽依を黙らせた。丁秦の言葉と託宣の内容が重なって羽依の頭が混乱する。
「じゃあ、あなたが玲琳王子と愛し合ったのも託宣があったからなの?」
羽依は瞠目し丁秦を見つめる。
「そ、そうではないわ。託宣など関係なくわたくしは玲琳を愛しているもの」
「本当に、そう言い切れる?
あなたと玲琳王子が愛し合ったのが、託宣という運命の流れかもしれないとしても? 託宣の存在が無ければ南遼を滅ぼされた玲琳王子があなたを狙って北宇の後宮に入り込むこともなかったんだから。あなたは運命に縛られるのを快しとしているの? あなたの人生がこうなったのも託宣のせいかもしれないんだよ」
動くこともできない羽依に、丁秦はそれでも微笑んでみせる。いつしか羽依の躯から不快な心象からとは違う冷や汗が流れていた。
己の運命が、託宣という運命によって不運なものとなったのか――。託宣のせいで南遼が滅び、両親が殺されたのか? 託宣があったから己と玲琳は惹かれあったのか? この、狂おしい程に燃え上がる玲琳への想いも託宣が為した運命の一貫なのか?
羽依は否、と言いたかった。託宣がなくともきっと玲琳に恋していただろう。が、言い切れない己もいる。玲琳に焦がれて叶わなかった人間は多すぎる。陶嬪をはじめ、どれだけの人間が玲琳を我がものとできずに涙を流したか。己が玲琳と愛し合う仲になれたほうが奇跡ではないのか?
羽依は苦さを噛みながら丁秦を見た。
「どうして、あなたにそんなこと言われなければいけないの?」
丁秦は複雑な笑顔をして、羽依に告げる。
「どうしてって、あなたが欲しいからに決まっているからじゃない。解らない?」
思ってもみなかった応えに、羽依は目を見張る。手にしていた布を落としたのも気付かなかった。
「あなたが、わたくしを……? どうして? あなたもわたくしの躯が欲しいの?」
羽依の面が醜く歪んだ。慌てて丁秦は否定する。
「そうじゃないよ。あなたの躯だけが欲しいのならこんなこと言わないよ。
このままでは、悔しくて……。僕の、あなたを想う気持ちが託宣に拒まれているような気がしたから。あなたが玲琳王子と結ばれたのが託宣によるものなら、引き裂くことなんて叶わないって……」
丁秦の真摯な熱情に、羽依は戸惑うとともに困惑した。丁秦が本気で己を想ってくれているのはよく解ったが、玲琳を愛している羽依は応えられない。
「丁秦殿……あなたの気持ちはよく解ったけれど、わたくしには玲琳がいるのよ。あの人を愛しているのに、あなたに応えることなどできないわ」
「だから、言ってるじゃない。あなたの想いは託宣によるものだって。託宣がなければあなたが愛したのは僕かもしれないんだよ」
「託宣なんて関係ないわ! たとえ、この想いが託宣によるものだとしても、わたくしがあの人を愛しているのは事実よ」
「愛は、永遠のものなの? 今は玲琳王子を愛しているかもしれないけれど、明日はどうだか解らないよ」
ぐっと、羽依は詰まる。己と玲琳の愛は不滅のものだとはっきり言えない己が歯がゆい。さすがに、そう断言する自信はなかった。
「――もし、わたくしの玲琳への想いが醒めたとしても、次に愛するのがあなたとは限らないわ。こんなふうに言い争って不毛だとは思わないの?」
「思わないよ。少しでもあなたが僕に振り向いてくれるきっかけになればそれでいいんだ」
恥ずかし気もなく言い切る丁秦に、羽依は言葉が出なかった。
今まで、こういう想いのぶつけ方をした男はいなかった。強引に羽依の心の中に踏み込んで、荒らそうとしている。羽依の、玲琳への想いの花を摘み取って、己の花を芽吹かそうとしている。牽櫂のように有無を言わせぬ強さはないが、それでも羽依は丁秦の想いが恐ろしかった。
「丁秦殿……わたくしあなたのやり方、好きになれないわ。あなたは結局、無理矢理わたくしに玲琳を嫌いになるように仕向けているもの」
今度は、丁秦が黙り込んだ。
「人の心を操作しようとしても、そう簡単にはいかないはずよ。あなたのやり方は間違ってるわ」
羽依に拒絶され、丁秦は血相を変えた。
「でも、あなたの玲琳王子を想う気持ちが変わらないように、僕の気持ちも変わらないよ! どんなやり方にしろ、愛してることは本当なんだ。希望がまったく無いと思うと、とても悲しい」
丁秦の表情が、悲壮さを帯びる。
羽依は心が痛かった。愛し合っている己と玲琳もさることながら、一方的だった牽櫂や陶嬪の情も愛だ。愛しているから、相手を強引にでも求める。悲劇のもとだと解っていても、その切なさゆえに止められない。満たされえるのは、愛し合うものだけという不公平が、羽依には哀しく空しい。
肩に丁秦の想いが重くのしかかり、羽依は苦し気に嘆息を吐いた。
太陽が天上から西に数歩ずれた刻、北宇と隣国の境界にある寒村に入ると、楚鴎はこの地で野営をする用意を命じた。玲琳は楚鴎の傍らで義族の者達に手際よく指図をし始めた。玲琳は義族の一団にも信頼されているらしく、誰でも否を言わずに従った。その差配もまったく狂いがなく、完全に日が暮れる前にすべての天幕を立てた。
羽依は丁秦や数人の男達とともに夕餉の支度にかかった。幼い頃、母の教育で幾度か厨房の作業を学んでいたので、一通りの段取りは解るのだが、包丁の扱いになると羽依は初心者そのものだった。調理の係の者は丁秦とともに、羽依に材料の下拵えと煮物の火加減を任せた。
正直、羽依は丁秦と同じ場所で何かをするのが苦痛だった。丁秦の本心が見えてしまった今では、その前と同じように接することができない。緊張したぎこちない手付きで、羽依は野菜を清水で洗った。
「羽依殿、それは僕に任せて。手が荒れてしまうよ」
目敏く羽依の横に座ると、水に浸した羽依の手を取り布で拭く。
「そんなに、気を使わないで。わたくしは特別扱いなんてされたくないわ」
「こんなにきれいで柔らかい肌なのに、ぼろぼろにしてしまうのは勿体無いよ」
丁秦は羽依の肌の手触りを確かめるようにゆっくり撫でる。羽依はその感触に違和感を抱き、乱暴に振り解く。羽依の態度に、丁秦は落胆して溜め息を吐く。
「やっぱり――さっきあんなこと言ったから、僕のこと警戒しているんだ」
「それは、当然でしょう」
丁秦は苦笑する。
「ごめん――警戒するなっていうほうが、無理だよね。いかにも、不自然な告白だったから。
たぶん、僕は焦っているんだ。あなたには玲琳王子という歴とした相手がいるし、僕はこんなだし……」
自嘲して、丁秦は己のふくらはぎを摩る。訝しんで羽依は眉をあげる。
「二年前――丁度、玲琳王子が宰相・李允の屋敷に入った次の年、兄さん達と貴族の邸宅に忍び込んだのだけれど、僕だけ逃げ遅れて追手に捕らえられたんだ。北宇は僕の身柄と引き換えに、兄さんに出頭してくるよう取り引きしたんだ。けれど、流石の兄さんもそれだけは出来なかったんだ。捕まれば、死罪は確実だから。北宇は兄さんへの見せしめのために、僕を拷問した挙げ句、両足の腱を切断したんだ」
衝撃的な丁秦の過去に、羽依は小さな悲鳴を飲む。丁秦はそんな羽依を見て、ふっと笑う。
「おかげで、僕は伝い歩きでもしない限り、ろくに歩けなくなったんだ。今は麓扶に足代わりになってもらってる」
丁秦は傍らに付き従っている大男の肩を叩いた。
「僕は兄さんの策で助け出され、死を免れたんだ。だから、こうやってあなたに会えたんだ」
「そうだったの――北宇のせいであなたはそんな酷い目に遭ったのね。北宇の人間として、わたくしはあなたに謝らなくてはいけないわ」
そう言って、羽依は目を伏せる。
「あなたが激痛に耐えている頃、わたくしは陛下の庇護のもとで悠々と暮らしていたのよ。自分の不幸だけにしか目を向けずに……」
「あなたが自分を責めることはないよ、あなたには何の咎もないのだから。あなたのその心だけで、僕は本当に嬉しいんだ。あなたが優しい人だから、僕は惹かれたのだもの。こんな、普通の人には劣る僕だけれど、心は誰にも負けていないよ」
羽依は頭を振る。涙が空に飛び散った。
「わたくしは、あなたに愛される資格なんてないわ。憎まれて、当然よ」
「憎むなんて、とても出来ないよ。僕は、ただ、あなたに嫌われたくないだけ」
丁秦の瞳が、真摯に羽依の眼を捕らえる。羽依は胸を傷ませた。
「愛しているわけではないけれど、わたくしはあなたのことが好きよ」
羽依の言葉に、丁秦は零れ出んばかりの歓喜を面に溢れさせた。
「僕が、秘かにあなたを愛していても、構わないよね?」
羽依は、ためらいながらも、ゆっくりと頷く。
たしかに、決まった相手がいる羽依は丁秦の想いに応えることが出来ない。が、胸に秘められた想いを殺すことは、丁秦にとって酷である。羽依も、その想いを直にぶつけられるのでなければ、さほど苦痛には感じない。誰かに真剣に想われること自体、悪い気持ちがしないし、正直嬉しい。
感極まって丁秦は羽依の両の手を握りしめた。想いの長けが込められた、手の平の熱がじんわりと羽依の手に伝わってくる。羽依は穏やかに微笑んだ。
昨日と同じように、義族の者達は夕餉とともに大量の酒を飲み始めた。
炙り肉を口に運ぶ羽依に、傍らの丁秦が酒袋を差し出した。昨夜のこともあって、羽依はやんわりと丁秦の勧めを断る。と、丁秦は何故、今宵に限って断るのか詮索してきた。苦笑いして、羽依は己の首領の限度を語る。
「へえ――あなたは酒をあまり飲めないんだ。それなのに昨日あんなに勧めて……。ごめん、気が付かなくて」
収縮して、丁秦は酒袋を引っ込める。気を使わせないよう、羽依は笑顔で返す。
「これほど酒度の高いお酒を飲み慣れていないだけよ。まったく飲めないわけではないわ」
「……じゃあ、果実酒なんかは飲めるんだね」
「ええ」
丁秦の意図が解らず、羽依は小首を傾げる。何か含んでいる模様で、丁秦は嬉々として隣に座る麓扶に指図した。近くで酒を酌み交わしている者達が、一斉にふたりを見比べる。悠々とした足取りで馬車に歩み寄ると、麓扶は瑠璃の小瓶を携えて戻ってきた。
「丁秦殿、これは兄上が大事に秘蔵していた酒では……」
差出しながらも、麓扶は少し咎めた。
「大丈夫だよ。取っておいても、辛口の兄さんにこの酒は合わないから。ずっと残しておくなんて勿体無いよ」
にこやかに応えながら、丁秦は瓶の栓を引き抜き、羽依の酒杯と己の酒杯に注いだ。
「実は、一度兄さんに内緒で一口飲んでみたんだ。かなりの高値で売られていた酒らしいから、どんなものだと。ところが、これ、杏を醸造した酒みたいなんだ」
「えっ……断らなくても、いいの?」
躊躇して、羽依は丁秦を見た。
「いいよ。酒は残しておくためじゃなくて、飲むために造られているんだから」
悠長なもので、羽依が止める隙もなく、丁秦は杯を一気に飲み干した。仕方なく、羽依も一口飲んでみる。甘くて、かすかな酸味が舌先を刺激した。
「美味しいわ。このお酒」
「だろ? これなら飲みやすいだろう?」
「ええ。でも、怒られるわね」
楽しそうな笑いを漏らして、羽依は残りを味わった。
杏酒の爽やかな味覚に吊られて、羽依は何度もおかわりをする。丁秦も調子に乗って求められるがまま酒を注いだ。その光景を、離れた場所にいる楚鴎と玲琳は見逃していなかった。
「まったく……丁秦の奴、勝手なことを」
弟の様子に呆れ、楚鴎は眉間を押さえる。醒めた面持ちで、玲琳は楚鴎の愚痴に切り返した。
「言う程には、怒りを感じられぬが?」
怜悧な口調に、楚鴎は目許を染めて小鼻に触った。
「うむ……。俺も、あの酒を一口飲んだことがある。あの後、あれの始末に困っていたのだ。だから、丁秦が秘かに盗み飲みしているのに気付いていながら見て見ぬ振りをしていた」
「違うだろう。根本的に、おまえは弟に甘い」
苦さの混じった科白を吐き、玲琳は立ち上がった。
「どうしたんだ?」
玲琳が纏う氷の気配に、楚鴎は思わず聞いた。何も言わず、玲琳は大股で羽依に近寄った。気付いていない羽依は酒杯を口元に運んだが、寸前で玲琳が奪った。驚いて見上げた羽依は、玲琳の冷たい怒りを感じ取り息を飲む。
「れ、玲琳?」
困惑する羽依の腕を強引に掴み上げ、引き摺るように立たせる。
「また飲み過ぎる気か」
「な、何を怒っているの? まだ、それほど飲んではいないわ、本当よ」
羽依は弁解するが、玲琳は羽依の肩を抱え、無理矢理その場を後にしようとした。
「う、羽依殿っ!」
ふたりの背を追い掛けるように、丁秦は声をかける。玲琳は刃の一瞥を投げた。その鋭さに、丁秦は言葉が出なくなる。
「おまえの下心に、わたしが気付いていないと思うなよ」
語調の寒さに、一同、皆震え上がる。それほどに、今の玲琳は人を寄せつけない空気を振りまいていた。何も言えない丁秦に薄い笑いを浮かべると、玲琳は羽依を連れて自分の天幕に姿を消した。
――おまえが何を企もうと、羽依は絶対に渡さぬ。
無言で、玲琳はその言葉を丁秦に突き付けていた。人を拒む、冷たく、激しい怒りに怖じ気付いて想いを翻してしまうほど、丁秦は軟弱ではなかった。
人々がざわつく中、丁秦は秘かに唇を噛んだ。
「わたしがあれほど言っているのに、どうしておまえは解ろうとしない!」
天幕に辿り着くなり、玲琳は物凄い剣幕で怒鳴った。
玲琳の怒りの度合いに身を縮ませながらも、羽依は視線を外さず言い返す。
「わたくしに、丁秦殿を無視しろと言うの、あれ程優しくしてくれているのに!?
そんな、恩を仇で返すようなこと、わたくしには出来ないわ」
「丁秦は、おまえに惚れている!」
「知っているわ。だから、どうだというの? あの人はわたくしに好意を抱いてくれている。それだけで無下に黙殺しろというの?
わたくしも、ままならない恋を知っているから、丁秦殿の気持ちが解るわ」
そう言われて、一瞬、玲琳も黙り込む。が、鋭利な眼差しを変えず、羽依を見つめた。
「半端な優しさは、相手の想いを増長させるだけだ。それが、どれだけ相手にとって酷なことか、おまえには解らないのか? 遂げられぬ真摯な愛は、時として人間を破壊する。おまえは身をもってしてそれを知っているはずだろう」
ふたりきりになってある程度、怒りが収まったのか、玲琳の口調に棘が抜けてきた。羽依は言葉に詰まり俯く。
「丁秦の想いが解るから優しくする。おまえの想いは、ただの同情だ。同情ほど、恋する者に与えられる苦痛はない」
冷静な玲琳の言葉に、羽依は言い返すことが出来なかった。すべて、玲琳の言う通りだから。解っていても、羽依は丁秦を突き放せない。丁秦を無視できるほど羽依の心は強靱に出来てはいなかった。
「丁秦殿を突き放すことが、一番よい方法なの? その後、どれほど丁秦殿が哀しむのか解っているのに? 友として接することはできないの?」
潤んだ眼を上げ、羽依は玲琳に問うた。
「――不可能に近い」
間を置きながらも、硬い面持ちではっきりと玲琳は言い切る。少し眼を見開くと、羽依は投げやりな微笑みを浮かべた。
「……そうね。そうでなければ、今、わたくしはあなたとこうならなかったわ」
言葉尻に、羽依の荒涼とした心中が垣間見える。胸に切なさが込み上げ、玲琳は羽依の細い躯を抱き締めた。
「愛を貫くことは、何かを犠牲にすることだ。今まで、幾人もの人間を犠牲にして想いを遂げたのだ。そのわたしたちがどうして綺麗事など言えよう。わたしは、生きると決心したとき、何者への犠牲をも恐れぬと誓った」
玲琳の言葉が一々に羽依の心を射る。己も玲琳と結ばれた夜、強くなろうと己に言い聞かせた。丁秦の想いを知っていながら優しくしようなど、畢竟、己の弱さだったのだろう。まざまざと思い知らされ、羽依は嗚咽に肩を震わせた。
「ごめんなさい……。わたくし、自分の甘さから眼を背けようとしていたわ。わたくしのせいで、今、この世が渾沌に陥っていることを何も知らなかった自分が情けなくて……。真正面から見据える自信が無かったの。丁秦殿のことだって……!」
「もう、いい。わかっている! おまえの身にどんな汚辱が降り掛かろうと、すべてわたしが引き被る。おまえに、苦しみを背負わせない」
震える羽依を強く抱くと、玲琳は熱く接吻した。羽依は玲琳の背に縋り付き、渾身の力でしがみつく。
「いいの、わたくしはあなたがただ傍にいてくれるだけで……」
ずっとずっと、傍にいさせて――。
羽依のその言葉は、再度覆い被さってきた玲琳の唇に吸い取られた。己の身を貪り、ひたむきな情熱を注ぐ玲琳を感じながら、羽依はたったひとりの存在の中にしか見出せない己の生の儚さを心に受け、ゆえに玲琳への愛しさを沸々と燃え上がらせた。
激しかった情交の余韻に浸りながら、羽依は静謐とした夜の音を聞いていた。己の躯をやんわりと抱く玲琳の呼吸だけが、優しく静寂に木霊する。その暖かさに触れたくて、羽依は玲琳の胸にすり寄った。浅い眠りに落ちかけていた玲琳は薄く瞼を開け、羽依の微笑みを認めると、女人の柔らかく波打った髪を撫でた。
「わたくし、一度、楚鴎殿とじっくり話をするわ」
はっきりとした羽依の言葉に、手の動きを止め、玲琳は少し躯を起こした。
「そんなに気を使う必要は無い。すべて、わたしがうまくやる」
己を覗き込んでくる玲琳に、羽依は小さく首を振る。
「楚鴎殿は、やはりわたくしをあまりよく思ってはいないみたいでしょう。だから、直に話をすればきっと解ってくれると思うの。あなたのためにも」
「わたしのために?」
羽依は頷く。
「あなたにとって、楚鴎殿はとても大事な人だから、わたくしもあの人のことを理解したいの。嫌われたままだったら、とても哀しいわ」
暫時、玲琳は羽依が話す内容を聞いていたが、眉を曇らせ、否と説いた。
「……どうして?」
羽依の表情からも笑顔が消える。
「おまえに、昔のわたしと楚鴎のことを知られたくない」
「何故? 今更、何を聞いても動揺なんてしないわ」
「知れば必ず、おまえはわたしに幻滅する」
頑なに玲琳は言い分を変えようとしない。羽依は、玲琳の瞳の中にある憂愁と暗さを思い知り、これ以上掻き口説くことが出来なかった。
「幻滅なんて……。あなたの過去を知って消えてしまうほど、わたくしの想いは脆くはないわ。辛い過去を背負っているのは、わたくしも同じなのよ。あなたは、それでもいいと言ってくれているじゃない」
羽依は玲琳の腕を強く掴む。玲琳の傷の深さの程度は、羽依も察していた。羽依は玲琳の傷をすべて受け止めたいと思っている。受け止めて、癒したいと思っている。それなのに、玲琳は傷のすべてを晒そうとしない。羽依にはそれが、とても哀しかった。
沈み込む羽依を見兼ね、玲琳は羽依の桜色の頬に唇を押し充てた。次いで耳や額にも口づけする。滑らかな背を優しく愛撫すると、硬直していた羽依の躯が弛んだ。
「必要なのは、今まであった過去ではなく、これから供に歩む未来だ。過去など気にしても詮無いことだ。互いが求めあっている、その事実だけで充分なのではないか?」
柔和な口調で説き伏せ、玲琳は微かに開いた羽依の唇を指でなぞり、口吸いした。
己を包む腕の暖かさを、羽依は信じていないわけではない。が、心の最奥に隔てられた傷が、羽依を寂しくさせる。何もかも分け合いたいという想いは、我が儘でしかないのか?
傍らで寝息を発てる愛しい人の寝息を感じながら、羽依は憂悶に沈んだ。
翌日、気兼ねなく声を掛けてくる丁秦に、羽依は惑いを隠せなかった。
助けを求めて玲琳を見ると、離れた処で楚鴎と話し込んでいる。楚鴎が強引に傍に置いているのか、中々玲琳は羽依の近くにいることが少なかった。丁秦と一緒にいると怒りを見せる玲琳だというのに、
傍にいて庇い、護ってくれようとはしない。玲琳と供にいられるのは、天幕に入った宵の頃ぐらいである。それなのに、己が丁秦と仲睦まじくしていると、険しい目線を寄越すのを忘れない。情に脆い質の羽依は、ほとほと困っていた。
距離を置こうとしている羽依の内心に気付かず、丁秦は馬車の中でこう切り出した。
「今日は、羽依殿に送りたい物があったんだ。これも、兄さんに内緒だけれど」
丁秦は懐を探り、細長い柄の物を取り出した。見ると、銀で造られた翡翠のかんざしだった。後宮で扱っていた代物よりは安物だが、それでもかなり値の張りそうな一物である。
咄嗟に、羽依は差し出されたかんざしを突き返した。
「ごめんなさい、受け取れないわ」
素っ気無い態度で、丁秦の好意を断る。丁秦は顔色を変えた。
「どうして、いいじゃない、受け取ってくれたって! ほんの気持ちだよ」
「それでも、わたくしはそんな高価な物を受け取れないわ」
固い表情で、羽依は返す。むっつりと、丁秦は眼を座らせる。
「玲琳王子に気兼ねして? あんな、いつも傍にいてくれない人のために?」
羽依は、押し黙ってしまうが、精一杯円らな瞳を釣り上げた。
「そうじゃなくても、あなたの想いを受け止めることが出来ないわたくしが、このようなもの何の考えも無く受け取れる訳がないでしょう」
「違うでしょう。あなたは、玲琳王子に釘を刺されて、僕を避けようとしているんだ」
ぎくり、と羽依は躯を軋ませる。
「やっぱり、そうじゃないかと思ってたんだ。昨夜の玲琳王子の形相から、そうしていそうな気がしてたんだ」
「……当たり前のことでしょう。玲琳からすれば、あなたの行為は気に触るものよ。わたくしも、このままだと誤解されそうで辛いの。あまりわたくしを困らせないで」
下手に出て、羽依は哀願する。丁秦はふん、と鼻を鳴らした。
「好きなものを好きと言って、何故いけないの。玲琳王子といえど、僕の想いを止める権利はないはずだよ」
居直った風なので、羽依は手を付けられなかった。
「大体、玲琳王子は勝手なんだ。あなたを独占しておきたいくせに、あなたの傍を離れて兄さんと一緒にいるんだ。僕からすれば、玲琳王子こそ危うい処にいるのに」
「……どういうこと?」
聞き咎めて、羽依は問いただす。不機嫌に、丁秦は羽依をちらりと見た。
「知っているのか知らないのか、玲琳王子の行為は兄さんを呷ってる」
「……え!?」
羽依には、何のことかさっぱり解らなかった。丁秦は大袈裟に溜め息を吐く。
「兄さんは、玲琳王子しか眼に入っていないんだ。今まで、これほどひとりの人間に夢中になったことなんてなかったのに」
丁秦の重い一言が、羽依の耳を通過する。馬車が軋む音が、耳障りに混雑する羽依の脳裏を汚した。
「それって――」
呟いて、羽依は固まってしまう。言いかけた続きが、口の中で凝る。
「いくらなんでも、あなたもそれほど鈍感じゃないよね。兄さんがあなたに向ける敵意の正体に気付かないほど、愚かではないでしょう」
「楚鴎殿は、玲琳を、愛しているのね……? どうして、男同士なのに」
羽依の科白に、丁秦は肩をがっくりと落とす。
「そんな、野暮なことをあなたの口から聞くとは思わなかったよ。恋愛に男も女も関係ないでしょう。ましてや、躯だけの関係なら、いくらでも可能なんだ」
丁秦が淡々と語る事実に、羽依は愕然とする。一時は、玲琳と楚鴎の躯の関係を思い巡らせたこともあった。が、認めていた訳ではない。丁秦は、いとも簡単に肯定してしまった。
「それは――昔のことでしょう?」
あまりの生々しさに、羽依の声が掠れる。丁秦は嘆息した。
「それはね。でも、兄さんの想いは今でも進行しているんだ。多分、兄さんは初めて会ったときから玲琳王子に焦がれていたんだ。玲琳王子も、昔から兄さんの言うことだけはよく聞いていたし、油断は出来ないよね」
言って、丁秦は蒼白な羽依を覗き込む。
楚鴎が、玲琳を愛していて、昔に躯を交わしたことがある――。それは紛れも無い事実だとしても、玲琳は己の過去の性関係に傷付いていた。だから、昨夜、羽依が楚鴎と話をするのをあれほど嫌がったのだ。その玲琳が、またも楚鴎と躯を交わすなど、考えられない。
羽依は躯を戦慄かせていたが、やがて、ぎゅっと唇を噛み締め笑顔を造った。
「関係ないわ。玲琳と楚鴎殿が躯を交わしていたとしても、それは過去のことだもの。今さら、玲琳が不必要な躯の関係を持つとは思えないわ」
「関係ないこと無いよ! これからだって、生じうる事なんだよ!」
剥きになって、丁秦は羽依の言葉を翻す。
「玲琳は、昔、多くの人と躯を交わした過去を嫌悪しているのよ。その玲琳が、自ら楚鴎殿と関係を結ぶなんてありえないわ」
「それは、どうかな」
否定する丁秦を、羽依は凝視する。
「兄さんが玲琳王子と離れている間、どれだけ焦がれていたか、僕が一番よく知ってるんだ。兄さんだって、男なんだから何かの弾みで情欲が爆発するかもしれない。あなただって、男の欲情の恐さをよく知っているんでしょう。まあ、玲琳王子も男だから、力でどれだけ抵抗できるかは解らないけれど」 羽依の額に、冷汗が伝う。馬車の振動が気にならないほど、羽依は思考を忘れていた。
このことを、玲琳に知らせたほうがよいものか……。羽依は悩んだ。が、どれだけ玲琳が聞き入れるというのだろう。玲琳は楚鴎を信じきっている。それよりも、丁秦にいいように丸め込まれたと、またも怒りだすかもしれない。それに、玲琳と楚鴎の間の深さはかなりのもので、迂闊に羽依が入り込めるものではなかった。
「わたくしは、玲琳を信じるわ」
「……え!?」
丁秦が眼を見開いて羽依を見入ってくる。羽依は微笑みを浮かべた。
「例え何があったとしても、わたくしだけはあの人を信じるわ」
「……本気で言ってるの!? あなたは、玲琳王子に裏切られるかもしれないんだよ」
それでも、羽依の穏やかな面は変わらなかった。
「信じた結果が裏切りだったとしても、わたくしは構わないの。玲琳が、もし楚鴎殿を愛してしまったとしても、わたくしは止められない。黙って身を引くわ」
感情の欠片もないような声で、羽依は言った。
玲琳の存在の中にだけ己の生の意味があると感じたのは、昨夜の事だ。玲琳の愛の対象が他に向かってしまえば、すなわち己の生きる価値は見出せない。
――それでも、わたくしはこの選択しかできない。たとえ、捨てられてしまったとしても。
本来、皇帝・牽櫂とともに玲琳が殺していたはずの命なのである。ひとえに、玲琳が己を愛してくれたから今、生きていられるのだ。生きてきた中、幸せを感じたのは玲琳と結ばれたあの瞬間しかない。この人生で、幸福を見出せたこと自体、奇跡なのだ。だから、この愛が終わりを迎えたとしても、きっと己はこの幸せを抱き締めて玲琳を恨みはしないだろう。微かに、そう感じた。
丁秦は、言葉を発することも出来ず、羽依を見守っている。
己が口にした内容は、羽依にとってあまりにも残酷だったはずだ。己は、羽依を玲琳から引き離すために解っていてそれを言った。だというのに、羽依は穏やかで、幸せに満ちた笑みを浮かべている。元来、美しいその容姿から、滲むように愛情が溢れてくる。より羽依を甘美な輝きで包んでいる。玲琳への愛だけが羽依をここまで美しくしていると思うと、丁秦は焼け付くような嫉妬を抱いた。
丁秦は躯を起こすと、黙って俯く羽依に近寄り、優美な躯を抱き締める。
はっと羽依が我に返ると、丁秦は羽依の唇を無理矢理奪った。羽依は躯を固くするが、閉じた唇を割って入ってこようとする舌に、思わず丁秦の頬を力任せに殴る。丁秦は薙ぎ倒され、板張りの床に躯を叩き付けられた。慌てて羽依は唇を袖で拭った。
身構える羽依を目の当たりにし、丁秦は傷付いた顔をした。羽依は、少し表情を緩ませる。
「丁秦殿、わたくしはあなたがしたことを絶対に許すことは出来ないわ。あなたは、想っているだけでいいと言ったじゃないの。わたくしは信じかけていたのよ」
目尻に涙を溜めて、羽依は丁秦を詰る。唇の端が切れたのか、丁秦は血を滲ませていた。赤く染まった口元を笑顔の形に歪ませた。
「優しそうに見えて結構、気が強いんだ。さっきの平手打ち、かなり効いたよ」
「茶化さないで!」
眦を鋭くし、羽依は声色を変えた。
「本当に、あなたには玲琳王子しか見えていないんだ。何だか、無性に腹立たしくなって。あなたの愛する人が、どうして玲琳王子なのかって――。玲琳王子は僕から兄さんを奪ったのに飽き足らず、あなたまで手に入れてる。ここの人間だって、玲琳王子が現れてから、彼のことしか見てないんだ」
丁秦の瞳から、玲琳への憎悪と嫉妬が熾きのように揺らぐ。羽依はぞっとして身を竦ませた。
「だって、皆、一度は玲琳王子と躯の関係を持ったんだから。兄さんが科した試練で、嫌々ながら玲琳王子は弄ばれてた。僕は、その頃まだ幼かったから玲琳王子を巡る輪の中に加わっていなかったけれど。皆、いい思いをしたみたいで、それから玲琳王子に一目置いてる。そういう意味では、皆、玲琳王子に恋い焦がれているんだよね」
「嫌ッ、聞きたくない!」
耐えられず、羽依は丁秦の言を遮る。堅く目を瞑り、耳を塞ぐ羽依を見て、丁秦はせせら笑う。
「そうだよ。結局、あなたは玲琳王子の過去に耐えられないんだ。過去は関係ないと言いながらも、玲琳王子の凄惨な過去から眼を背けたいんだ。そんな、都合のいい愛が、強い愛だといえるの? きっと、玲琳王子と兄さんの関係が現実のものになると、あなたの許容範囲を超えてしまうよ。
どちらにせよ、あなたは玲琳王子の傍にいると、幸せになれない。あなたも傷付くし、玲琳王子も傷つけてしまうだろうね」
「――だから、あなたのものになれというの?」
絶え絶えな声で、羽依は辛うじて口をきく。
「僕は、あなたが不幸になるのを黙って見ていられない。どんなに強引な方法でも、僕の方が、あなたを幸せにできる」
羽依は激しく首を振った。
「誤解しないで! わたくしは幸せにしてほしいのではないわ、愛する人と一緒に幸せになりたいのよッ!」
「でも、あなたは玲琳王子の過去を拒絶してる。それなのに、幸せになれる?」
丁秦が、荒ぶる羽依に躙り寄る。羽依は身構えて後部に身体をずらす。が、後ろは柱になっていて、精一杯の箇所まできてしまった。
「大丈夫だよ、僕が、あなたを優しく労ってあげるから――」
「嫌、やめて……」
かたかたと震えながら、か細く脆弱な声で羽依は声を上げる。
涙で濡れたまろい頬に触れると、丁秦は羽依の面に顔を近付けた。抵抗したいが、衝撃のあまり躯に力が入らない。このままだと、唇で唇を塞がれてしまう。羽依はぐっと唇を引き結び、ささやかな拒絶を試みた。
「そんなことしたって、無駄だよ。僕の方が力があるんだから」
酷薄な面相で、丁秦は羽依の恐怖心を直になぞった。
もう、駄目……。羽依が諦めかけたその時、がくっと車体が傾ぎ、馬車は急停車した。重心が崩れ、丁秦は羽依の躯のうえに倒れ込む。丁秦の躯の重さと、己の躯をぶつけた痛みに羽依は呻いた。すると、馬車の入り口を覆う垂れ幕がさっと開けられ、誰かが入り込み丁秦の躯を無理矢理起こした。
「丁秦、おまえは……ッ!」
恐ろしい形相をした玲琳が丁秦の胸ぐらを掴み、拳を丁秦の頬に打ち込んだ。殴られた丁秦の躯は馬車の外に弾き飛ばされる。追ってきた楚鴎が丁秦の躯を抱き起こす。またも殴り掛かろうとする玲琳を、楚鴎が制止した。
「やめろ、玲琳! 冷静になれッ!」
「これが、冷静になれる状態か! こいつは羽依に狼藉を働こうとしたのだぞッ!」
険悪な様相で、玲琳が絶叫する。楚鴎の視線は揺るがない。
「未遂で終わったのだから、それでいいではないかッ! それより、おまえは自分の妻を優先したほうがいいのではないのか!?」
楚鴎の科白に、はっと玲琳は我に返る。振り返ると、小暗い馬車の中で、身を縮ませて羽依が震えていた。焦点の合わない眼で、玲琳を凝視している。急いで玲琳は羽依のもとに駆け寄った。
「羽依、大丈夫か――」
そう言い、玲琳は羽依の躯を揺する。びくり、と躯が硬直したかとおもうと、羽依は泣叫んだ。
「嫌っ、触らないでっ……!」
狂乱し、玲琳の腕から逃れようとする。愕然としながらも、玲琳は力を弱めず羽依の頬を軽く叩いた。
「羽依、わたしだ、解るか!?」
「あ……」
揺さぶられ、羽依はやっと正気に返った。ほっとして、玲琳は羽依を抱き締める。
「よかった……間に合って」
羽依の頬を摩り、髪を撫でながら玲琳が感極まった声で漏らす。おずおずと、羽依は玲琳の背に腕を廻した。
――あなたは玲琳王子の傍にいると、幸せになれない。あなたも傷付くし、玲琳王子も傷つけてしまうだろうね。
丁秦の一言が胸に突き刺さり、羽依は玲琳の胸に強く面を寄せる。
――あなたは玲琳王子の凄惨な過去から眼を背けたいんだ。そんな都合のいい愛が強い愛だといえる?
丁秦が探り当てた、羽依の醜悪な一面。一番見たくなかった一面。己が玲琳を愛していると、断言できる。が、玲琳のすべてを受け入れるといいながらも、玲琳の身の上を過った性の過去を否定してしまいたい己がいる。その耳で聞きながらも、信じたくない己がいる。
――わたくしは、強がっていただけなのか。玲琳の過去も受け入れたいと、できもしない空言を口にしていただけなのか。
玲琳の過去を排除してしまいたい己がいるというのに、玲琳のすべてが欲しい。劣悪で我欲の強い己だというのに、玲琳は己の貞操の無事を喜んでいる。羽依はたまらなく醜悪な己を消してしまいたかった。
「……さしくしないで」
「え?」
弱々しい声なので、玲琳は聞き取れなかった。
「お願い、こんなに嫌なわたくしに、優しくしないで」
先程のような荒れた様子はないが、羽依は静かに泣いていた。涙と供に、絶望と諦観を瞳に溜めて――。玲琳は羽依の涙を唇で吸い取る。
眼を開いて、羽依は玲琳を見つめる。玲琳はどんな笑みよりも優しい微笑みを浮かべていた。余計に、羽依は泣きたくなる。
ふたりは暫しの間、無言で見つめ合っていた。馬車が動きだし、己達の時を置き去りにしたまま道行きが進められていく。
「どうして、あなたはわたくしのような馬鹿で、嫌な女を愛してくれるの?」
言わずもがなな質問に、玲琳は戸惑う。今さらのような羽依の問いに、玲琳は苦笑いを漏らした。
「愛してしまえば、その人間がどんな性格でも関係がなくなる。まして、わたしはおまえが嫌な女だなどと、一度も思ったことがない。おまえを憎んでいた時分でさえ、一度もだ」
「わたくしは、自分のことをよい人間だと思い込んでいたのよ。わたくしに関わる人々がわたくしのせいで哀しみ、死んでいったというのに、わたくしは善人面をしていたかったのだわ」
「羽依――」
玲琳には、羽依が自分の何を恥じて、こんなに自暴自棄になっているのか解らない。が、絶望に取り付かれた羽依を放ってはおけなかった。黙って、玲琳は羽依の華奢な躯を包み込む。堰を切ったように、羽依は嗚咽を漏らし始めた。
「おまえが何故、自分を卑下しているのかわたしには理解できない。ただ、人間は生を歩み始めた瞬間から、綺麗なままではいられない。ならば、自分の嫌な一面もそのまま受け止められなければいけないのではないのか?」
声を出さず、羽依は玲琳の声に聞き入る。
「わたしも、おまえが思っているほど出来た人間ではない。その証拠に、わたしは丁秦に嫉妬し、暴力を振るった。相手が躯に不自由を持っているというのに」
「……知っていたの?」
玲琳は頷く。
「楚鴎から聞いていた。わたしがいなくなってこのかた、義族の一団に何があったのかを。わたしに気を取られ、少しながら丁秦を気に掛けてやれなかったことを楚鴎は悔やんでいた」
「……楚鴎殿は、本当にあなたを愛しているのね」
愛している、の真の意味を考えると、羽依の胸にどす黒い嫉妬がとぐろを巻く。苦しくて、羽依は秘かに息を吐いた。
「丁秦はわたしを目の敵にしている。わたしが現れるまで、楚鴎の関心はすべて丁秦に向けられていたし、一団も特別、丁秦を大事に扱っていた。丁秦はわたしが目障りで仕方がないのだろう。おまえを奪おうとしているのも、わたしへの当てつけかもしれぬが、おまえだけは断固として譲れぬ。楚鴎や一団の者の関心など、いくらでもくれてやる」
「そんなこと言うと、楚鴎殿が哀しまれるわ」
漸く、羽依は笑顔を見せた。
「わたしには、おまえだけいればよい。必要なのは、おまえだけだ。先程も、おまえと丁秦が言い争うのを止めたい一身で道行きを無理矢理止めてしまった」
「そうだったの……」
羽依は玲琳を見上げる。
こんなにも、玲琳は己を愛してくれている。何者をも顧みないほど。たまらなく嬉しく、たまらなく哀しかった。
玲琳の腕のなかで、羽依は彼に悟られないように嗚咽を洩した。
もう少しのところだったのに――丁度、羽依に触れかけたときに、玲琳にかすめ取られ、丁秦の情慾はふつふつと燃えていた。あれから玲琳は、羽依とともに馬車に乗り込み、丁秦は麓扶の馬に跨がっている。
「人目があるというのに、何故あんな無謀なことをしたのだ? 恥ずかしいとは思わないのか?」
夜更けになって楚鴎の天幕に呼ばれ、丁秦は説教を受けた。が、丁秦が反省した面持ちはまったくなかった。むうっと、楚鴎は丁秦を睨む。
「僕は、どんなことをしてでも羽依殿が欲しい。たとえ、恥を晒してでも」
「おまえがよくても、俺の面子が立たん。これからは一切、俺の体裁に傷をつけるようなことをしてくれるな」
厚い唇を吊り上げ、丁秦は皮肉な笑顔を見せる。
「そんな、悠長なことをしていると、玲琳王子に逃げられてしまうよ」
「丁秦ッ!」
楚鴎は怒号を上げた。丁秦は怯まない。
「僕が、何も知らないと思ってたの? 兄さんが僕そっちのけで玲琳王子にのめり込んでいたこと。兄さんの苛々の原因は、玲琳王子を独占している羽依殿の存在だよ」
かっと頬を染め、楚鴎はぎりぎりと唇を噛む。何もかも弟に見すかされ、楚鴎は居心地が悪かった。ふたりの間に挟まって、丁秦の付き人・麓扶ははらはらと見守っていた。楚鴎が何も言えないのをいいことに、丁秦は言葉を続ける。
「僕が羽依殿を手に入れることは、兄さんにとっても好都合なんじゃないの? 羽依殿さえいなくなれば、玲琳王子は兄さんのものだ」
「黙れ、丁秦!」
「ふふっ、強がっちゃって。兄さんは、お綺麗な義族の頭目でいたいんだものね。本能剥き出しの、醜い雄でなんて、いたくないんだものね」
丁秦は嘲笑する。楚鴎は狼のように唸った。
「お、おまえは、人間といえぬほど、汚い」
「汚くて、結構。そうでもしなければ、羽依殿は手に入らないよ。兄さんだって、荒療治をしなければ玲琳王子を手に入れることなんてできないよ」
「俺は、おまえとは違う! 情慾で、玲琳を穢そうなど思ってはいない!」
「そうかなぁ? 言ってるでしょ。兄さんの性質は、弟である僕が一番解ってるって」
ぐうっと、楚鴎は怒りを飲み込む。試練と称して玲琳を抱いたとき、はたして、己の内に情欲が含まれていなかったかどうか――解り切ったことだ。楚鴎の胸が焼けた。
「おまえは、俺まで利用するつもりか?」
やっと、楚鴎はそれだけを告げる。
「利用? 違うでしょう、協力でしょう」
丁秦はにっこりと笑った。
「僕、本当に兄さんが好きだったよ。兄さんは僕だけのものでいてくれたもの。でも、玲琳王子が目の前に現れてから、兄さんは僕のものじゃなくなってしまった。だから羽依殿を玲琳王子から奪うっていう訳じゃないけれど。兄さんが玲琳王子に本気なように、僕も羽依殿だけがたまらなく欲しいんだ。そのためなら、兄さんを玲琳王子にあげたっていい」
「都合のいいことを……思う通りにことが運ぶと思っているのか?」
「兄さんさえ、自分に素直になってくれればね」
楚鴎の眉間が怒りに窄まる。己の弟の、劣悪な内面に薄ら寒ささえ覚えた。それとまったく同じものが、丁秦の言では己の中にもあるという。楚鴎は丁秦に何も言い返すことができなかった。
「僕は、託宣なんてものには負けない。運命は変えられるものだよね。
所詮、運命に操られている分、玲琳王子と羽依殿の愛は本物じゃないんだよ。きっと、僕の方が強い……」
図に乗って丁秦が捲し立てていると、後方の幕がさっとかき分けられ、一陣の風とともに丁秦は突き飛ばされた。
「何だと!? もう一度言ってみろっ!」
激怒した玲琳が、傲然と丁秦を見下ろしていた。慌てて、楚鴎は玲琳の躯を羽交い締めにした。
「れ、玲琳っ、逸るなッ! 麓扶っ、はやく丁秦をここから出せっ!」
咄嗟に楚鴎は麓扶に命令した。玲琳に何か叫ぼうとしている丁秦を抱えて、素早く麓扶は飛び出た。
「楚鴎っ、どうして丁秦を逃がす!? あのままでは調子に乗って羽依に狼藉を働いてしまうぞッ!」
「落ち着けッ! そんなにいきり立ってどうするッ!」
「これが、怒りもせずにいられるかっ!」
楚鴎の鳩尾に肘を入れ、その隙に玲琳は楚鴎の腕から逃れた。楚鴎が玲琳を睨み付ける。
「羽依はわたしのものだッ! このままでは、みすみす丁秦に取られてしまうッ!」
「それほどまでに、入れ込む価値のある女かッ!?」
熱情を露に、楚鴎は玲琳に食って掛かる。玲琳は一瞬怖れ、隙を見せた。
「わ……わたしは、羽依を、愛しているッ! おまえも、愛するものを他の者に渡すようなことなど、したくないはずだろう!」
詰まりながらも、玲琳は叫んだ。が、楚鴎の眼に剣呑の光が宿り、玲琳は口を閉ざす。
「俺は――おまえを愛しながらも、他の者に抱かせねばならなかった。その苦痛が、おまえに解るか?」
ぎくり、と玲琳が眼を見開く。防御する隙もなく、楚鴎は玲琳の唇を無理矢理奪い、貪った。何度も身を捩り、楚鴎の執拗な唇から逃れようとする。楚鴎の力はそれでも緩まず、玲琳の躯の一番敏感な箇所を探り当てた。嬲られ、玲琳の息が乱れる。玲琳の喘ぎをも、楚鴎の口づけは奪った。
堅い躯に押し拉がれ、衣服を剥ぎ取られながらも玲琳は逃れる間合いを窺った。が、玲琳に初めて躯の悦楽を教えた楚鴎の手により、瞬く間に上り詰めてしまう。
――う、羽依ッ!
眼の裏で優しく微笑む羽依に助けを求めるが、躯を引き裂く楔に、叫びは儚く掻き消えてしまった。玲琳は絶望に蝕まれながら、胎内で蠢く楚鴎の熱を感じていた。
ひやり、と異質な冷気が羽依の項を這った。羽依は身を竦ませ、天幕のうちを見渡す。
「……玲琳?」
微かに呼んでみるが、空虚な空間に簡素に設えられた備品しか見当たらない。鼓動が弾むほどの間、玲琳の切なる声を聞いたような気がしたのだが、気のせいだったようだ。
己に迫ってくる丁秦のことで、楚鴎に協力を仰ぐと言って玲琳が天幕を出ていったのは、もう半刻も前の事だ。何故か、妙に胸騒ぎがする。羽依は夜衣も胸を掻き寄せる。
己のことで、あまり無理をしないでほしい――。己と楚鴎の間に立って、玲琳が心をすり減らすくらいなら、羽依はここを出たほうがましなような気がする。
羽依は細く溜め息を吐いた。
楚鴎の激情を躯の内に受け入れ、ぐったりとしている玲琳を、楚鴎は愛しそうに抱き締めた。
「玲琳……やっと、俺の腕の中に戻ってきてくれた」
またも、愛撫で己を苛もうとする楚鴎に、玲琳は切れるほど唇を噛み締める。すでに、強引な情交を耐えるために唇を食い破り、血が滲んでいた。
「あんな小娘では、おまえは満足できぬ。初めての頃のように、俺がおまえを蕩けるくらいに慈しんでやる」
「――何故、こんなことを。既に、こんな無駄なことをする必要は無くなっているはずではないのか?」
掠れて震える声で、玲琳が楚鴎を詰る。楚鴎は額を哀しみで曇らせる。
「俺にとっては無駄ではない。俺は、あの女がおまえに惚れる以前から、おまえを愛していた」
生気の失せた眼を見開き、玲琳は楚鴎に見入る。
「なん……だと?」
「俺は、初めて会ったときからおまえを愛していた。おまえの復讐を成功に導くために抱いたという口実、あれは嘘だ。本心は、おまえをただ抱きたかったのだ」
衝撃に、玲琳の躯が震える。玲琳は楚鴎を信じきって身を任せた。それなのに、楚鴎の内には醜悪な情慾が渦巻いていたのだ。それを知らず、己は楚鴎に弄ばれていた。あまりにも錯乱して、玲琳は吐き気を覚え、胃の中身を敷物の上にぶちまける。楚鴎が背を摩ったが、玲琳は抗った。
「は、放せ、放せッ! 裏切り者ッ!」
楚鴎から離れ、玲琳は脱ぎ散らかしていた衣服を手早く身に付けた。楚鴎の視線が哀しみに歪む。
「わたしは、おまえを信じていた。それなのに、おまえはわたしを穢したかっただけなのか!」
言い捨て、玲琳は上衣を取ると楚鴎に背を向ける。楚鴎は玲琳に追い縋った。
「違うッ! 本気で、おまえを愛しているっ! 偽りでもなんでもなく、おまえを真摯に抱いたのだ!」
「わたしは、望んではいないッ! おまえがそのつもりならば、わたしはここから出ていく!」
極め付けに、玲琳は楚鴎にとって残酷な一言を放った。楚鴎が血相を変えて、笑みを履いた。
「ここを出て、どうするつもりだ? 俺の庇護無しでは、すぐに李允に見つかってしまうぞ!
それでもいいのか?」
玲琳は瞠目した。
李允は血眼になって、己と羽依を探している。見つかれば、羽依と引き離され、己は殺されてしまうだろう。羽依は李允に虐げられ――考えたくもない、悪夢だ。が、楚鴎の言う通り、ここを離れてしまえば、李允に見つかってしまう可能性が高い。
玲琳に与えられた選択は、ひとつしかなかった。
「……わたしに、どうしろと?」
蒼白になりながら、玲琳は呟いた。楚鴎は笑顔を絶やさぬよう、玲琳に話し掛ける。
「心までとは、言わぬ。が、躯だけなら、わたしも触れてもいいだろう? 以前の生活と、変わらないだけだ。おまえに苦痛を与えはしない」
玲琳を抱くことが、既に玲琳にとって苦痛だとを楚鴎は毛ほども気付いていない。ただ、闇雲な愛欲に飲まれていた。
「深夜、わたしの処に来てくれ。それだけで、おまえはおまえの愛するものを救うことができる」
卑怯な、申し出である。羽依を盾に取って、玲琳を言いなりにしようというのだ。玲琳は苦しみに呻いた。
「それで、羽依を救うことができるのなら」
黙って楚鴎に歩み寄り、玲琳は楚鴎の唇に唇を重ねる。啄み、唇を放すと、欲情に煙る楚鴎の瞳を見つめる。楚鴎の腕が再び玲琳を捕らえるまえに、玲琳は離れ、天幕をあとにした。
兄さんと僕は、同類だよ――。聞えもしない丁秦の声が、楚鴎の脳裏に木霊した。
玲琳が戻ってくる気配がないのを案じながら、羽依は鏡を見つめ、髪を梳いていた。生まれつき柔らかく波打った髪を、羽依に関わるすべてのものが愛した。皇帝・牽櫂の妃であった頃はさほどこだわりはしなかったが、玲琳が好むので、念入りに髪の手入れをする。玲琳は、よく羽依の髪に顔を埋めたり、長い髪で互いの躯を巻き付ける。そのときの、玲琳の嬉しそうな表情が、羽依はとても好きだった。
不意に、うしろで大きな物音がしたかと思うと、天幕の中に誰かが入ってきた。弾みで羽依は振り返る。よろけた足取りで入ってきたのは、荒涼とした面持ちをした玲琳だった。羽依は息を飲み、玲琳に駆け寄る。羽依が玲琳の腕に触れると、玲琳は倒れ込んできた。勢いで、ふたりは寝床に転ぶ。
「ど、どうしたの!?」
覗き込むと、血の気の失せた顔で、玲琳は笑った。
「何があったの、苦しいの!?」
羽依が問いつめると、玲琳は力なく首を振る。何も言わず、羽依の胸に顔を埋めた。羽依は戸惑いながらも、玲琳のしたいがままにさせた。
「おまえの胸は、暖かいな……」
玲琳は空いた手で、夜衣ごしに乳房をまさぐる。その手付きは、熱情でもって女の乳房を愛撫するというより、赤子が母の乳を求めているといった様子であった。言うに言われぬ快感が、羽依の躯を突き抜けた。
「柔らかく、甘美だ……。何度もおまえの乳房を愛撫しながらも、気付かなかった」
羽依はくすり、と笑った。
「急に、赤ちゃんに逆戻りしたみたい」
「そうだな。今宵は何もせずに、抱き合って眠りたい」
そう言いながら、玲琳は羽依の胸元を寛げ、直に羽依の乳房に触れてきた。優しく、味わうように乳房に口付けてくる。何も言わず、羽依は玲琳の頭を胸に寄せた。羽依の素肌に触れながらも、玲琳の躯に情欲は沸き上がってこなかった。
玲琳に、何かがあったのは確かだ。が、羽依は何も聞かなかった。聞いてはいけないような気がした。たまには、穏やかに抱き合って眠るのも悪くはないと羽依は思った。
玲琳の寝息を耳にしながら、羽依も弛緩の眠りに落ちていった。