第五章・安寧、遥か
北宇の後宮が皇帝や皇子・妃嬪たちを巻き込んで炎上してから、北宇の国内は争乱した。
朝廷内では次の皇帝を決めかねて揉めていた。皇帝・牽櫂とともに後を継ぐはずの皇子まで死んでしまった。もともと、皇帝・牽櫂は先帝のひとり子であったので、直系の血筋が絶えてしまったのだ。先帝の兄弟達や遠縁の親族はすでに老齢で、とても跡目を継ぐに値しない。今や、北宇の帝位を継ぐものは誰もいなかった。
その上、この災害で北康の公主、旺玉蓉皇后も死んでしまった。妹の死を聞いた北康皇帝は激怒し、北宇の廷臣どもに責任を問うてきたのだ。旺皇后は北康と北宇の橋渡し役をするために北宇に嫁いできた。二国の一時的友好の象徴であった。その皇后が焼死してしまったのである。問題を幾重にも抱えて、臣下達は窮した。
日時は後宮炎上の二日後に遡る。
宰相・李允は部下達を連れて焼失した後宮の処理で現場に立っていた。焼け崩れた殿舎、未だ焦げ臭いにおいを残す柱――。数人かはその生々しさに耐えられず、口元を手で覆う。
焼死者の数々も、その日の内に見聞された。とはいえ、侍女や宦官も死に絶えてしまったので、身長や体つきで判断するほかなかったが。
「――足りませぬ」
ぽつり、と李允の傍らで指揮の補佐していた陶衡が漏らす。
「何と?」
李允が聞き返す。
「昭妃様と思われる遺体が、どこにも見当たりませぬ。あと、昭妃様に仕えていた燐佳羅と申す舞姫も――」
陶衡は頸を捻る。
陶衡は娘の陶嬪・硝珠から燐佳羅という舞姫のことをよく聞いていた。硝珠はいたくその舞姫を気に入っていた様子で、娘に会いにくると、毎度といっていい程その話題が出た。だから、羽依の遺体とともに燐佳羅の死骸も発見できないのが疑問であった。
「うむ――もしや、ふたりとも焼け消えてしまったのでは」
ひと声唸って、李允が告げる。
「いえ、それはありますまい。現に、陛下や皇后様と見受けられる遺体は残っているではありませんか」
陶衡は李允の言葉を否定する。
「それとも、何者かの意図で掻き消えたか? 精霊や死霊が攫ったのではあるまいか? あのふたりの廻りには死霊がまつわりついていそうだからの」
李允の科白に、陶衡はむっとする。李允の言うところの死霊とは、己の娘・硝珠と昭妃・羽依の側付きの侍女・揚樹のことであることが、陶衡にははっきりと解った。余りにも酷い言い草である。何故、己の娘があのふたりを掻き消してしまわねばならぬのだ?
「李允殿、このような時に戯言はお止めください」
険しい表情で陶衡が李允に詰め寄る。李允は陶衡の面に薄い笑いを浮かべる。その顔は、陶衡には嫌味に見えた。
険悪な雰囲気のふたりの間に、息を切らした青年の将士が割り込んできた。
「む、何ぞ?」
李允が青年を覗き込む。
「や、焼跡に、このような物が――」
そう言って、青年は鉄の札を差し出した。
「これは……南遼の紋!?」
陶衡は目を剥く。
「だが、たしか南遼ではこの紋を身に付けることができるのは王族だけであるはず――。南遼の王族は、七年前に陛下がすべて滅ぼされたではありませんか……!」
狼狽する陶衡を見向きもせず、李允はその札を見入った。
――たしか、この紋は南遼の第二王子が身に付けていた物……。
七年前、皇帝・牽櫂が南遼を攻めた時に随行した李允は、皇帝が王子・暉玲琳の頸を自ら取ったのを直に見ていた。真っ赤な血を滴らせる玲琳王子の頸を、その目で見たはずなのだ。
――わたくしは、南遼の生き残りなのです。わたくしは、自らの手で皇帝を討ちたい。祖国の恨みを晴らしたい。
不意に、李允は初めて抱いた夜に舞姫・燐佳羅が呟いた言葉を思い出す。
――南遼の生き残り、南遼の……王子?
李允の中で、符号がぴたりとはまる。
――まさか!
李允は目を見開く。慌ただしく人々が立ち働く場で、李允は黙然とした。
その後、李允が今までに舞姫・燐佳羅と関わってきた人間をひとりひとり呼び出した。どの者も燐佳羅が男だとは知っていたが、燐佳羅の正体までは知らなかった。誰もが燐佳羅の存在だけに魅せられ、その本性には興味がない様子であった。
――そうだ、燐佳羅をわしに勧めた義族の長、殷楚鴎……。あやつならば、知っておるのではないか。
それに気付いて李允は部下を飛ばして殷楚鴎を隈無く捜した。が、殷楚鴎の行方は杳として知れない。
――してやられたな。
間違いなく、燐佳羅は南遼の王子・暉玲琳なのであろう。玲琳王子が己の婚約者、昭羽依を連れて惨劇に紛れて姿を消したのであろう。殷楚鴎は、初めから燐佳羅の正体を知っていて己の元に寄越したのだ、利用するために。
「わしも見くびられた者よ――」
くくく、と声を立てて李允は笑う。
李允が今の地位にあるのは、邪魔な者をすべて排除したからだ。上位にいる者を謀略でもってすべて滅ぼしてきた。羽依の父、昭基演を見殺しにしたのも、そのためである。その己が、若僧ごときに騙され、利用されたのだ。欲に釣られたとはいえ、我ながら耄碌したものだと思う。
「たれかある!」
大声で李允は人を呼んだ。
すぐに、帷の影に隠れて膝を付いた黒い人影が現れる。
「お呼びでしょうか?」
「うむ、捕らえてほしいものがいる。南遼の王子・暉玲琳、または燐佳羅と申す舞姫――その者を我が前に引っ立てよ。女を連れているはずだ。男は痛めつけてもかまわぬが、女は無傷で寄越すように」
「はっ」
室内から李允以外の気配が消えた。
「念のため、国の権力も使うか」
李允は腰を上げ、出廷用の衣服に着替えはじめた。
丁度その頃、玲琳と羽依は結ばれた。
南遼の王子・暉玲琳を捕らえるために李允が動き出したのを、羽依と玲琳は知らない。ふたりはやっとの事で成就した恋に酔いしれている。
羽依は空高く上がった太陽の明るさに目覚めた。けだるい躯を起こし見ると、緩い寝息を立てて玲琳は眠っていた。一切の苦しみから解放されたからだろう、幼子のように無防備な寝顔である。
昨夜、枕を共にしながら聞いた玲琳の過去に、羽依は少しも奇異や侮蔑といった感情を持たなかった。それ以上に、愛する人にも己と同じような無惨な過去が羽依の共感をもたらした。己ならば、愛する人と同じ痛みを分かつことが出来るという歓びがあった。今まで、どこか遠くに感じられた玲琳が、身近な存在になった。
満たされた思いで、羽依は想い人の露になった額を優しく撫でる。その感触で、玲琳は目を覚ました。
「……羽依? 朝なのか?」
未だ夢から醒めていない口調で、玲琳は寝床から滑り出た羽依の手を取った。
「もうお昼になってしまっているようだわ」
未練ありげな玲琳の手を柔らかく解き、羽依は床に堕ちていた夜着を拾う。袖を通そうとして、はたと思い当たる。
「玲琳……、そういえば、わたくしの着ていた着物は?」
羽依の問いに、玲琳は躯を起こして立ち上がり、卓子の上に置かれていた包みを開いた。
「おまえが身に付けていた着物は、皇帝の返り血ですっかり汚れてしまった」
そう言われて、羽依は思い出す。突かれた牽櫂の胸から物凄い勢いで血が噴き出し、己の躯を余す処なく濡らしたことを。羽依は口元を手で覆った。
「そうね……、そうだったわ」
小声で呟く羽依を労るように微笑んで、玲琳は包みの中身を差し出した。
「後宮で身に纏っていた物ほど質は良くないが……」
それは、桜色の単衣に白の襦袢、淡い蘇芳の下裙であった。材質は麻で、多少ごわついた感触をしている。が、若い乙女が好むような、花や蝶の紋様が入った代物だった。
さやかに衣擦れの音がするのを耳にして、玲琳も己の着物を身に付ける。幼い頃から、上質の衣装だけしか身に付けていない羽依である。今、どのような心持ちで黙って差し出された着物を身に付けているのか――。玲琳は気持ちが重かった。
「どうかしら? 似合ってる?」
羽依が発した弾んだ声音に、玲琳は振り向く。玲琳が考えていたのと反して、むしろ羽依は嬉々としていた。心の底から喜んで、羽依はその場をくるり、と身体を旋回してみせる。
「わたくし、濃い色目よりも、淡い色調の衣装の方が好きなの。あなたって、本当に目敏いわ」
満面の笑みをたたえる羽依に、玲琳は目を細める。
「いいのか……? 麻のような粗末な代物で……」
羽依は小首を傾げる。
「どうして? あなたも麻の衣装を身に付けているわ」
「わたしは長い間、麻や木綿を身に付けてきた。だが、おまえはこの感触に慣れてはいない」
玲琳の言葉に、羽依は微笑む。
「それは、わたくしが宰相・昭其演の娘だった頃と、皇帝の妃であった頃の話でしょう?
でも、今のわたくしはそのどちらでもないわ。強いて言えば、ただの普通の女よ。街中で見かける女達と変わらない女よ」
「羽依……」
はっきりと言い切った羽依に、玲琳は言葉を無くす。
「わたくしは自由になれたことが嬉しいの。絹の衣装も、わたくしを縛る枷でしかなかったわ。皇帝の妃となって、どんな贅沢な生活を与えられても、自由だなんて感じたことはなかった。窮屈で、息もつけなかったわ。だから、わたくしは今、こうして北宇の宮城の外に居ることが嬉しいの。わたくしは、ただの女になれたのだもの」
切々と語る羽依は、輝かしい光りを放っているようだった。笑みは燐光になり、言葉に釣られて動く手の所作も、明るい空気をふりまいていた。寄せられていた玲琳の眉ねも、弛んだ。
「それよりも、今のあなたの姿、とても素敵だわ。女の姿をしていた時も綺麗だったけれど、やはり、あなたは男の人ね。その姿の方が魅力的よ」
唐突に己の姿を褒められて、玲琳は言葉に詰まる。戸惑いを露にしている玲琳の表情に、羽依は吹き出し、軽やかに笑う。羽依の笑いが戸惑いを余計に濃くし、玲琳は拗ねたようにあらぬ方を向く。その仕種に、羽依の笑いは激しくなった。
玲琳の拗ねた表情は、その面をいつもより幼く見せた。十九という年齢よりも子供のような印象を羽依にもたらした。笑いながらも、羽依の心は少しづつ真実の姿を晒していく玲琳に益々惹かれていく。
「い……いつまで笑っているつもりだ!?」
悔し紛れに、玲琳は声を荒げる。
「だ、だって、あなたがあまりにも可愛くて……」
「可愛いと言われても、少しも嬉しくはない!」
むきになって反抗する玲琳に、羽依の笑いは止まない。機嫌を損ねたように、玲琳はあらぬ方を向く。
ひとしきり笑ったあと、羽依は改めて身に纏った衣を見入った。
「この衣装――あなたが手に入れたものでしょう? それも、紋様がかなり手が込んでいたりして……。街で手に入れた物なの?」
玲琳は頷く。
「街は混乱していなかったの?」
「二日前に街に出た時、人々も宮城の火事騒ぎは知っていたようだが、皇帝やその家族がすべて死に絶えてしまったことまでは聞いていないようだった。今はこの村でも惨劇の情報が流れてくるで、街ではより詳細が出回っている頃だろう」
「……気になるわ」
柳眉を寄せる羽依に、玲琳は思案して口を開く。
「わたしが一度、様子を見に行ってくる」
「わたくしも行くわ」
そう言う羽依を、玲琳は止める。
「おまえは行かない方がいい」
「どうして」
「あの惨劇から五日経ったのだ。宮廷の混乱に乗じて善からぬ族が都に徘徊しているかもしれぬ」
「それなら、あなたひとりが危険な目に遭うかもしれないわ。ここも、安全ではないはずよ」
「だが……」
問い詰める羽依に、何故か玲琳の歯切れが悪い。羽依も、思い当たった。
「詳しい情報が、わたくしを傷つけるから? そうなの?」
その言葉に、玲琳は何も答えない。
「そうなのね。でも、わたくしはそうやって庇われるの、ちっとも嬉しくないわ。
わたくしはあなたと一緒に苦しみを乗り越えたいと言ったはずよ。たしかに、わたくしも陛下を殺めたことに平気なわけではないわ。それでも、それは当然の事実として受け止めなくてはいけないことよ。わたくしは陛下を殺めた事実から逃げたくはないわ。生きるとは、そういうことでしょう?」
「……その通りだが……」
「あなたも自らの穢れや、人々を殺めた過去をすべて受け止めて生きていく覚悟をしたのでしょう。
わたくしも同じよ」
「羽依……」
清々しい面で告げる羽依を、玲琳はただ黙って抱き締めた。
「わたしが、絶対におまえを危険な目に遭わせぬ。おまえはわたしが護る」
玲琳の小声だが強い呟きに、羽依は幼い仕種で頷いた。
「外に出るのならば、面を隠したほうがいいかもしれぬ」
羽依の躯を放すと、玲琳は小屋のなかに無造作に引っ掛けられていた布切れをとり、羽依の頭を覆った。
「それに、化粧などはなるべく控えたほうがいい。ただでさえ目鼻立ちがはっきりした造りだ。化粧をすればより人々の目を引く。昭妃・羽依は美貌の聞えが高かった。少し汚いが、この方が疑いなく美貌を隠せる」
「そうね。あなたは、その姿で大丈夫?」
羽依は目深く布を引き被る。
「わたしは、今まで舞姫・燐佳羅の姿をしていた。男の姿のわたしなぞ、誰も知らぬ」
玲琳は笑みを浮かべ、卓上に置かれていた剣を腰に帯びた。ふと、玲琳は目を見開き、胸元をまさぐる。
「どうしたの?」
着物の奥に手を差し入れて何かを捜す玲琳に、羽依は訝しい目を向けた。
「札が……」
「札?」
「わたしが南遼から携えてきた、南遼の王族を表す紋入りの札――」
「あの夜に、あなたがわたくし達に見せた物?」
頷き、玲琳は捜すのを諦め嘆息する。
「大事な物なの?」
羽依の問いに、玲琳はぎこちない笑顔を見せる。
「南遼が滅びたあの夜、わたしの身替わりになって、乳兄弟の伯如が皇帝・牽櫂に殺められたのだ。その時に伯如が身分の証明のために身に付けていたもので、わたしが南遼から出る時、伯如の遺体から剥ぎ取ってきたのだ」
「そんな大切な物を……。無くしてしまったの?」
「多分、北宇の宮城から脱出する時に……。だが、無くした物は仕方がない」
自嘲的に言う玲琳に、羽依は何を言えばいいのか解らなかった。何かを言えば余計に傷つけてしまいそうで、何も言葉を拾うことができなかった。そんな羽依の気遣いに気付き、玲琳は羽依の頬を撫でる。
「行こう。このままでは、日が暮れてしまう」
玲琳は羽依の手を引いた。
街は君主の不在に怯えながらも、何ごともないかのような喧噪を繰り広げていた。
長年、市井で暮らしていた玲琳は人々の見せ掛けだけの平和が手に取るように解る。忍び寄る暗い不安に戦きながらも平静として生活しているのだ。
――やはり、人々にも何か伝わっているのだろう。
人々の動向を客観的に見つめる玲琳に比べて、羽依は明るかった。
何しろ、街に出たのは初めてなので、どのような些細な光景でも珍しくて仕方がない。一々に店を覗こうとする羽依を玲琳が止める始末だった。
「わたくし、もっと色々なものが見たいわ。どうして止めるの?」
「そんなにうろうろ見て廻っていては、人々に怪しまれる。街に居る人々には、ここにあるものは珍しくとも何ともないのだから」
「つまらないわ」
未練ありげに文句を言う羽依を宥めながら、玲琳は近付いてくる馬の蹄の音に耳を澄ませる。
近付いてくる馬は複数で、蹄の音とともに鋼鉄の軋む騒音も届いてくる。玲琳は眉を寄せた。
「どうかしたの?」
問う羽依を押しとどめて玲琳は店鋪の陰に隠れる。もがく羽依を腕に閉じ込めて玲琳はより耳を馬の気配に向ける。
馬の気配は玲琳達の隠れる場所より二つ隣の店に入った。玲琳も羽依の口を押さえたまま、下馬した人物達の入った店の壁際に移動した。
「まあまあ、これはお侍さん」
恐縮した中年の女の声が、店から響いた。
「女将、水と食い物をくれぬか」
兵士の注文にすぐに、と返事をし女将は足早に駆ける気配がする。
「お侍さん、皇帝陛下を殺した下手人はまだ捕まらないのですか?」
「うむ、南遼の王子が下手人だというが……。こう人が多くては捜しようがないわ」
兵士は女将に愚痴をこぼす。玲琳の腕の中で羽依の躯が強張った。玲琳は息を殺す。
「何でも、南遼の王子は女連れで、それがすこぶるつきの美女だとかいうしな……。何としても、下手人を捕らえ、女を手に入れたい。女には手を出すなとの宰相様のお達しがあったが、それ程の美女ならば俺が抱いてみたいわ」
別の男が豪快な笑い声を起てる。皆、一応に下卑た笑いを発していた。
「何の、美女はお主には勿体無い。この俺が犯してやる」
男達の語らいは、羽依を巡って段々と淫猥な内容になってくる。羽依は震え出し、玲琳も聴くに耐えなかった。無言で羽依の肩を抱え、その場を離れる。
「早く、街を出よう」
玲琳の語りかけに、羽依は何も答えない。引き被った布が陰を造り、噛み締めた唇だけが羽依の心象を如実に現わしている。震えは止まらず、泣いているかのようであった。
早足で街中を過り、街の外れで出たところからふたりは走り出した。全速力で駆け、森の中に彷徨い込む。小暗い森で、足下はおぼつき、羽依は躓いて倒れた。先に走っていた玲琳が振り返ると、倒れたまま、羽依は泣いていた。
「ひど…い……。どうしてこんな……」
泣き咽せる羽依を抱き起こし、玲琳は羽依の泣き顔を覗き込んだ。
「どうして、見ず知らずの人に、こんな恥辱を与えられなければいけないの? 美しいから、穢したいの?」
手で涙を拭おうとする羽依を止め、玲琳は己の袖で涙を拭いた。
「人間には、美しいものを穢そうとする本能が備わっているのかもしれぬ。わたしも、何度もそういう目に遭った。だが、人間は本能だけで生きているわけではない。愛や恋の最奥にはそういった本能があるのかもしれぬが、愛や恋はそれだけで満たされるものではない。あの者等は満たされることを知らぬだ」
玲琳の諭す言葉に、羽依は頷く。
「解ってる……」
「わたしがいるかぎり、おまえを獣のような情欲に穢させたりはせぬ。おまえが求めている人間にだけ躯を、心を開けばいいのだ」
何度も頷き、羽依は自ら玲琳の胸に飛び込んだ。
「今のわたくしには、あなただけ…あなたしか、いないから……」
羽依の呟きに応えて玲琳は羽依の頭を撫でる。が、何者かが近付いてくる気配に顔をあげた。
「まずい、追手だ!」
玲琳は再度、羽依の手を引き走り出す。
「わたくし達を追っているのは、李允殿なの!?」
息を切らせて羽依は聞いた。
「そうだと、あの追手等は言っていた。多分、わたしが落とした札が李允の手に渡って――!」
玲琳は言葉を切る。向かいは突き当たりだった。
「くそッ、逃げ場がない!」
玲琳は歯ぎしりして羽依を腕の中に庇う。羽依も覚悟をして、堅く目を瞑った。
その時である。
「早く、こちらにッ!」
どこからか、男の声が聞こえてきた。それも、玲琳の耳に覚えがある声だった。
――この声は!
咄嗟に玲琳は声がした方に羽依を導く。羽依が目を開いたのと、強い手が腕を捕らえたのは同時だった。そのまま、玲琳と羽依は幌馬車の中に引き入れられる。代わりに、屈強の男が馬車から飛び下りた。
荒い声とともに、馬は止まった。
「そこにいるのはたれぞ!?」
馬の嘶きと野太い男の大音声が轟いた。
「さ、騒がないで下さいよ、俺たちは旅の商人ですよ!」
「うぬ……ッ、俺等は怪しいふたり組を追って来たのだが」
「知りませんよ、そんなの。俺達は病人を抱え込んでいて、そのうえこの森に迷い込んでそれどころじゃないんでさぁ」
低い男の声が軽快に返す。
「――その馬車の中には?」
なおも引き下がらない兵士が馬車の中の様子を伺っている。羽依は震え上がり、玲琳にしがみついた。安心させるように羽依の背を撫でる玲琳。そんな羽依の肩を、誰かが軽く叩いた。
「大丈夫。兄さんは上手く逃れるよ」
若く高い男の声である。羽依は恐る恐る相手を見たが、馬車の中が暗く、はっきりとは判別できなかった。
「だから、病人が寝てると言っているでしょう! あんまりしつこいと訴え出るよ、あんた、下級の兵士らしいしね!」
馬車を庇う男の発言に、今度は兵士が押された。言葉に詰まると、兵士は捨て科白を吐いてどこかに駆けり去った。
「もう大丈夫だ。兵士は去ったぞ、玲琳!」
男が幕を掻き揚げる。馬車の中に夕日が差し込んできた。日の光で明らかになった男の顔に、玲琳の表情は弛んだ。
「楚鴎……!」
羽依は今でも信じられない。
急に、目の前に玲琳の命の恩人・殷楚鴎が現れ、己達を助けたのだ。馬車の中で揺られているいまでも生半可には現実を受け入れられなかった。
助けた相手が殷楚鴎だと解った時の玲琳の表情にも、羽依は違和感を覚えた。
安心したように弛緩した玲琳の面は、羽依のまったく知らない顔だった。さも当然のようにふたりは抱擁を交わし、命の恩人という言葉では足りないぐらいの親密さで接している。
日が陰って地面に天幕を張っても、羽依は殷楚鴎率いる一団と打ち解けられなかった。
殷楚鴎は玲琳を放したがらず、再会してから数刻が経っても側に置いている。時々、玲琳が羽依を案じて目配せをしてくるが、すぐに殷楚鴎が話題に引き込んで玲琳の視線を奪い返す。
――わたくしは醜い。殷楚鴎という人に嫉妬している。
宵闇にほの暗く爆ぜる焚き火を直視しながら羽依は己を恥じた。殷楚鴎は、羽依の知らない玲琳を引き出すことが出来る人間なのだ。羽依は、玲琳の甘えた瞳を見たことがない。時折、玲琳が殷楚鴎に向ける打ち解けた表情が、羽依の胸をちりちりと焼く。
独占欲――羽依は胸を焦がす感情の名を知っている。皇帝・牽櫂が己に叩き付けた激情である。陶嬪が、玲琳を縛り付けようとした衝動である。それが、まさしく己の中にも等しく存在する事実が羽依の新たな苦しみを誘った。恋を成就し、それでも足りずに玲琳をがんじがらめにしようとする、己の醜悪な一面――羽依は胸の内に嫉妬とは違う爛れを飼った。
羽依は目を泳がせる。己の内面から目を背けたいがために。彷徨う視線が、隣で微笑む少年の眼差しを捕らえた。少年は交錯した羽依の視線に、はにかんだ笑みを漏らし、羽依に近付こうと足を引き摺ってにじり寄ってくる。
「どうして、その布を取らないの?」
少年は、緊張が解れた羽依の心にざっくりと科白で切り込んできた。
「え……」
上手く説明するため言葉を探す羽依に、少年は矢継ぎ早に質問を浴びせる。
「何か訳ありそうだね。顔を隠しているの?」
「あ…わたくしは……」
「女の人が顔を隠すなんて勿体無いよ。日はもう沈んだから、見せてもいいんじゃない?」
少年は今にも羽依の頭を被う布を取り去ってしまいかねない勢いである。
「あの…これは、理由があって……」
相手の強引さに羽依は腰が引けてしまう。その様を玲琳は見兼ねて席を立ち上がった。
「玲琳?」
止めようとする楚鴎の手を払い、玲琳は羽依の手を引き立たせた。その際、羽依の向こう隣に座る少年をねめつけるのも忘れなかった。
「皆、紹介するのが遅れたな。彼女はわたしの妻だ」
玲琳の発言に、義族の一団はざわつく。異様な熱気を孕んで玲琳と羽依を眺めた。
「妻……?」
そう言った楚鴎の声が陰りを帯びる。少年は瞠目してふたりを見た。
「彼女は……昭羽依。北宇の皇帝の妃だったが、今はわたしを愛してくれている」
思いを込めて玲琳がはっきりと皆に告げる。羽依の心に、じんわりとさざ波にも似た温もりが染み渡る。羽依は感動に震える吐息を噛み殺し、被りものを外した。
月明かりを浴びて現れた羽依の端麗な美貌に、皆、一応に息を飲む。化粧を施さなくとも艶やかな美しさに、男達はため息のような喘ぎを漏らした。隣に佇む玲琳の美しさと相まって、皆一同に奇跡よ、と感慨を抱いた。ただし、楚鴎の表情を除いて――。
「どうやら、南遼の王子が北宇の皇帝を殺したとばれているらしい。それに、わたしが羽依を伴っているということも。だから、彼女の面を隠す必要があった」
玲琳の言葉に吊られて羽依は居並ぶ男達におずおずと頭を下げる。男達の誰もが己を好奇の目で見ていることを、羽依はひしひしと感じ取っていた。男達の、己の美貌に対する好奇心と、煽り立てるような欲情を、肌が泡立つような感覚とともに感じ取っていた。今までに見た男達はひとりとして外れることなく同じ目を羽依に向けてきた。男達が目にしているのは、羽依というひとりの人間ではなく、美しく完成した肉体を持つ雌の生き物である。少なくとも、玲琳と、己に冷ややかな目線を突き刺してくる義族の頭目・殷楚鴎を除いては、羽依を心を持った人間の女としては見ていない。
が、羽依は殷楚鴎の視線は己に好意的なものとはどうしても受け取れなかった。
だから、羽依は頭をあげるのにひとかたならぬ勇気が必要だった。無理矢理、頬の筋肉を引き攣らせて笑みを掃いた。
おお……っ、と男達がどよめきを漏らした時、楚鴎がことさら不自然に言葉を発する。
「玲琳、おまえは何を言っているのか解っているのか!?」
鋭い視線で玲琳が楚鴎を睨む。
「楚鴎、何が言いたい?」
「その女はおまえの仇、昭妃・羽依だ」
楚鴎が劫火を吹き上げる目で羽依を捕らえる。羽依は身を竦ませた。
「昭妃・羽依がおまえの親族や祖国を滅ぼした元兇だということ、忘れたわけではあるまい」
「羽依には何の罪もない。南遼を滅ぼしたのは、羽依を欲した皇帝・牽櫂の狂った欲望だ。羽依も、皇帝・牽櫂の犠牲者なのだ」
玲琳も怜悧な面で楚鴎に負けじと言い返す。
「その女の美貌に罪があるとは、何故思わぬ! その美貌は魔性のものだ!」
楚鴎の言葉に、羽依はひっ、と声を詰まらせる。
羽依は過去、己の美貌を感嘆されても、魔性などと呼ばわれたことは一度としてなかった。羽依自身は皇帝・牽櫂を殺したこと以外は疾しいところなど一点もないのだから、楚鴎の言い種は羽依の心象を激しく傷つけた。
「兄さんっ、言い過ぎだ!」
玲琳が反撃の言葉を出しかける前に、少年が楚鴎を詰る。泣きそうな面持ちで呆気に取られ、羽依は少年に見入る。
「彼女がどのような人物か知らずにそう言うのは失礼だよっ! そんなの、兄さんらしくない!」
「丁秦――」
玲琳が、少年の名を呟く。
殷楚鴎の弟・丁秦が羽依を振り返り、微笑んだ。
「僕には、あなたのなかの曇りなどひとつも感じられないよ。それどころか、外見だけでなく中身も美しい人に見える」
丁秦の柔らかな笑みが、羽依の心の襞に忍び入ってくる。義族の中、ひとりだけ羽依を庇った丁秦の優しさに羽依は頬を染めた。誰にも解らない程密かに、玲琳は不快げに眉を潜めた。
「羽依と一緒になって味わう苦しみも、わたしだけのものだ。楚鴎、わたしがどう苦しもうとわたしの勝手だ。おまえにとやかく言われる筋合いはない」
玲琳は峻烈な語調で、きっぱりと楚鴎の言を撥ね付ける。
瞬時、楚鴎の纏う空気が、炎の激しさであたりを灼いた。
玲琳と楚鴎の間には、亀裂が生じていた。じっとりと重い嘆息を吐き、玲琳ははらはらと見守る羽依の肩を抱いた。
「折角助けてもらったが、わたしはおまえとともに行くことはできぬ。わたしは羽依とともに生きていくと誓ったのだ。――おまえとこの様な別れ方をすること、とても残念だ」
硬質な声音で玲琳は別れを告げ、戸惑う羽依とともに踵を返した。
「ま――待てッ! 行くなッ!」
楚鴎の焦燥した口調に玲琳は一瞬振り返る。
「こんな――つもりではなかったのだ。北宇の後宮が焼失した事件、あれはおまえが為したことだと、俺はすぐにわかった。後宮から脱出したおまえを助けようと、ずっと探していたのだ」
「楚鴎……」
追い縋り語る楚鴎を、玲琳はむげに拒むことができなかった。羽依も、ふたりを思案顔で見つめている。
「少しでも、以前と同じように俺の事を思ってくれているのなら、僅かでもいいから俺の気持ちを汲んでくれ」
楚鴎の瞳が、強い光に揺らぐ。
玲琳は惑う心で楚鴎の視線と、隣にいる羽依の気配を量っていた。玲琳にとって、羽依は他にはいない大事な女人であり、楚鴎は己を生に導いた兄に等しい人間である。ふたりとも、玲琳には大きな存在だ。
羽依は、玲琳が己と楚鴎の間で迷っていることが察知できた。逡巡する玲琳の袖を、羽依はやんわりと掴んだ。
「玲琳――、あの方はあなたにとって、とても大事な方なのでしょう? わたくしはどこか、人里離れた村にでも潜んでいるから、あなたはこの人たちと一緒に行動して。少し離れるだけで絆が切れてしまう程、わたくし達の間柄は脆くはないでしょう?」
心に痛みを感じながら、羽依は告げる。
玲琳は己のことを妻だと言ってくれた。皇帝・牽櫂の妃であった頃のように、ふたりの間を隔てているものは何もない。たとえ離れていても、心は繋がっていると羽依は信じたい。殷楚鴎に嫉妬していないわけではないが、玲琳を縛る重しにだけはなりたくなかった。
が、玲琳は頷かなかった。険しい面持ちをすると、羽依の肩を掴み、玲琳は荒れた声で詰め寄った。
「冗談でも、それだけは許さぬ! おまえと離れるくらいなら、おまえと共に諸国を逃亡する!
今まで、わたし達がどれだけ引き裂かれてきたと思っているのだ。わたしは絆も、運命も信じてはいない! また引き裂かれるのがおちだ!」
玲琳の形相に、羽依は言い返す言葉さえなかった。玲琳の言うことも、解らないわけではなかった。
ふたりの言い分をひと通り聞いていた楚鴎は、意を決して譲歩した。
「――いい、解った。俺の失言だ。玲琳、おまえを彼女とともに匿おう。それで気が済むのならば、そうすればいい」
楚鴎の提言に、一団は顔を見合わせ、丁秦は顔を輝かせる。
玲琳も、楚鴎の突然の譲歩に、信じられないように目を見開いた。
「楚鴎――本当に、いいのか?」
喜びをあらわにする玲琳に、笑顔と複雑さを交ぜた表情で楚鴎は返した。これほどまでに羽依にのめり込んでいる玲琳を止めるには、そうするしかなかった。
楚鴎は部下から酒の入った袋を取り上げると、素木の盃に酒を満たし、玲琳を差し招いた。
「さあ、再びまみえたことを祝して、酒を酌み交わぞうではないか」
楚鴎の勧めに玲琳は素直に従い、楚鴎の隣に腰を下ろし盃を受け取った。盃に口をつけると、玲琳は酒を咽に流し込んだ。空になった盃に、楚鴎は再度酒を注いだ。羽依の周りにも男達が取り囲み、酒入りの盃を突き出された。いつしか、ふたりの間を割り込んだ男達に倦め尽くされて、手が届かない程遠くに座り込んでいた。
義族の一団もそれぞれ酒気が入り、焚き火を囲んで宴会という様相になっている。二、三杯酒をあおった楚鴎と玲琳はほろ酔い加減になって朗らかに談笑していた。酔いが回った男のなかには、拍子を取りながら唄を歌う者もいる。
羽依も男達に酒を勧められ、断りきれずに飲んでいる。雰囲気に慣れてきた羽依は幾分落ち着いて、男達と話をしている。男達は羽依の、皇帝の妃という過去に興味を持ち、宮城の華やかさ、後宮に住まう女人達の艶麗さを聞きたがった。羽依が後宮の様子をあるがままに話すと、男達は艶やかな女達を思い浮かべ、さらに酔いに浸った。その男達の誰もが、目の前にいる羽依が美しく装った様を脳裏に描いていた。数多いる女の誰よりも美しい羽依の姿に、男達は吐息を漏らした。
「いやぁ、こうやってあなたの身近にいて、話せる俺達は幸せだよなぁ」
男がそう言うと、周りの男達の誰もが相槌を打った。過剰な褒め言葉に、羽依は気恥ずかしくなって微笑む。その笑顔の可憐さに、男達はまたも歓声をあげた。
「でも、羽依殿に決まった人がいるなんて――僕がもっとはやくあなたと出会ってたらなぁ」
言ったのは、丁秦である。男達の誰よりも羽依の近くに座り、遠慮なく羽依の顔を眺めた。羽依に隙ができると、丁秦はさり気なく羽依の手を握った。
「わたくしはずっと後宮にいたから、今の状況がなければ出会うことはなかったでしょうね」
「玲琳王子とは、出会ったでしょう」
丁秦が、内心を探るように羽依の瞳を見入ってくる。羽依は戸惑いを上手く隠した。
「それは、玲琳が舞姫に身をやつしていたからであって、あの人が男の姿のままだったら、こうやって結ばれることはなかったわ」
「ずるいよなぁ……」
頬杖をついて、さらっと丁秦は言う。
「え、どうして?」
羽依は聞き咎めた。
「玲琳王子は美しかったから女の姿をして後宮に忍び込むことが出来たんだ。だから、あなたを自分のものにすることが出来たんだ。僕は童顔ではあるけれど、綺麗な顔は持ってないもの。僕も玲琳王子ほど美しかったら、後宮に入り込んであなたを手に入れることが出来たのに」
玲琳に対して余りな言い様に、羽依は玲琳を庇う。
「あの人が女の姿をしていたのは、復讐のためでしょう。自分自身の欲のためではなく、仕方がなく後宮に入り込んだのよ。初めから、わたくしを我がものにすることを目的にして、後宮に入り込んだわけではないわ」
「それは、既成事実を造ったあとの言い訳だよね。最初は復讐のためにあなたを狙ったのであっても、結局はあなたを手に入れたんだ。あなたを自分のものにして、復讐はそっちのけだ。僕は、玲琳王子がとっても勇気があるように見えるね。僕だったら、他人の目が恐くてそんなこと出来ないよ」
丁秦は剣もほろろに言い切る。羽依は言い返すのを諦め、話題を変えた。
「あなた、おさな顔なの?」
羽依の問いに、丁秦は悪戯っぽく微笑む。
「幾つに見える?」
「――十四歳?」
羽依の返答に、丁秦は吹き出した。
「違うよ、十七歳」
「えっ、わたくしと同い年!?」
大袈裟な身ぶりで羽依は驚く、その様子が余程可笑しかったのか、丁秦は激しく吹き出した。
「あ、あなたがわたくしと同じ十七歳…とてもそうは見えないわ。だって、あなたってとっても可愛いから――」
「ひどいなぁ、男に可愛いはないよ。そうやって甘く見ていると、いつか獣に変身するよ」
冗談とも本気ともとれない口調で、丁秦は言う。羽依は丁秦の言葉を笑って流した。
「まさか、あなたは獣になんてなれないわ」
「ふうん――まぁ、それも有利かもね。あなたが油断しているのをいいことに、いつか玲琳王子からあなたを奪うっていうのもいいかも」
丁秦の科白に、羽依は笑うほかなかった。丁秦の瞳からは本音が見えず、ただ、己をからかっているようにしか感じられなかった。
羽依は丁秦から目を反らし、盃に残っていた酒を飲む。咽を伝い落ちた酒が、妙に熱い。悪酔いしそうな熱さだった。丁秦が酒袋を突き出してくるが、羽依は丁重に断った。
玲琳は、丁秦が羽依に接近しているのを、穏やかならぬ眼差しで見つめていた。本当なら、今すぐ席を立って羽依の側に行きたいのだが、楚鴎の無言の威圧がありままならずにいる。
「そういえば、ここ数年でおまえの舞の腕はかなり上達したんじゃないか?」
傍らの玲琳に目を細め、楚鴎は告げる。
「いや――それほど変わってはいないはずだが」
「謙遜を。都で一番の舞姫は燐佳羅と、巷で伝え聞いていたのだぞ。貴族や平民を問わず、誰もがおまえの舞を見てみたいと噂されていたそうではないか」
楚鴎の褒め言葉に、玲琳ははにかんで微笑む。
「どうだ、ここで舞ってはくれぬか?」
皆に聞こえる声で、楚鴎は玲琳に所望する。玲琳は困惑の表情を浮かべた。
「いいじゃないですか。舞って下さいよ、玲琳王子」
口々に皆が囃し立てる。当惑して玲琳はまわりを見渡すが、皆、興に乗ってしまい、とても断ることができる状況ではなかった。救いを求めて羽依の視線を探るが、羽依までも期待の眼差しを送っていた。かなり酔っているようで、羽依は目許をほんのりと赤く染めていた。隣に座る丁秦が、もたれ掛からんばかりの近さで羽依にすり寄っている。玲琳は一計を案じた。
玲琳は勢いよく立ち上がり、背後にある木立の、一際見事な枝を一本折った。炎に晒されて葉の緑が一層鮮やかに映える。玲琳がためしに曲げてみると、枝はしなって抵抗を示した。
「ふむ、この枝ならば悪くはない。誰か、男舞の伴奏を付けてはくれぬか」
玲琳は皆に働きかけ、燃え盛る火に近付いた。
「男舞も舞えるのか?」
面白そうに楚鴎が声をかける。玲琳は自信に溢れた笑顔で返した。
「まぁ、見ていろ」
男達が声と拍子で伴奏を付ける。緩慢で、勇壮な拍子である。
羽依は弾む鼓動を押さえて玲琳が造る所作を眺めている。右手に持つ枝を高くかかげ、左手は人さし指と中指を合わせ舞の型を造っていた。声と拍子が微妙に重なりあうと、玲琳は大股で歩を進め、枝を拍子に乗せて大振りに廻した。躯を旋回させると、音の小休止と同じ間合いでぴたり、と止まる。同じようで違う動作を玲琳は何度も繰り返した。
「これ――武の舞ね。戦の神に言祝ぐ勇者の舞だわ」
羽依は感極まって独り言を呟いた。
「そうだね。木の枝を剣に見立てているんだ。でも、剣よりも効果はいいかもね。枝のしなる音がまたいい調子をかもしているもの」
呆気にとられ、羽依は隣の丁秦を見た。
羽依は誰の意見を求めるわけでもなく、ただ、呟いただけである。が、丁秦は羽依が心の中に描いていた内容と同様のことを、丁秦は語ってみせた。
羽依はとても嬉しくなり、微笑んだ。
「あの人には、きっと舞の天賦の才があるのよ。ほら、ここにいる誰もがあの人の舞に心酔しているわ。人の心に夢を与えて――素晴らしいことだわ」
「羽依殿は、玲琳王子の舞に一番惹かれているんだね」
しみじみと言う丁秦に、羽依は茫然自失した。
「あなたは玲琳王子の舞の美しさに陶酔しているんだ」
丁秦は重ねていった。羽依は、慌てて頭を振る。
「そ、そうじゃないわ。わたくしはあの人を本気で愛しているもの。たしかに――切っ掛けは、あの人の舞だったかもしれないけれど……」
羽依も、丁秦の言うことを少し認める。現状に悲観して生きる希望を無くし、無関心の殻に閉じこもっていた羽依を引きずり出す鍵となったのは、燐佳羅の舞だった。
それでも、羽依は丁秦の言をすべては受け入れられない。
「今は、あの人のすべてを愛しているわ。あの人の躯も、心も、仕種も、声も――どれも、無くしたくはないの」
意気込んで告げる羽依に、丁秦は押される。
「そんな、むきになって言わなくても……。ほら、玲琳王子の舞が終わってしまうよ」
あっ、と羽依が中央を見ると、拍子が止みかけ、玲琳も両手で枝の端を持ち、最後を現わす姿勢をとっていた。折角の玲琳の舞を半ば見逃し、勿体無いことをしたと、羽依は溜め息を吐く。
「おまえ、いつの間に男舞も舞えるようになっていたんだ!?」
饒舌に楚鴎は叫んで、玲琳を手招く、玲琳は舞に使った枝を炎の中に放り投げた。
「女舞を学んでいる際に、男舞も見覚えたのだ。これほど上手く舞えるとは予想外だったが」
それだけ言うと、玲琳は楚鴎のもとには戻らず、違う方向に足を向ける。
思う存分玲琳の舞を見れず、拗ねた表情をする羽依に、丁秦は吹き出す。羽依は堪りかね、軽く睨み付けた。
「どうして、そこで笑うの?」
「だって、子供みたいだから。あなたも、年齢より幼いところがあるんだな、と――」
くっくっと、心底愉快そうに笑う丁秦に、羽依は気分を害し、そっぽを向く。
無礼講で、皆は気持ちよく宴会をしているが、羽依は疲れを持て余していた。初めて街に出かけ、追捕に追い掛けられたりと、昨夜から色々あり、羽依の神経は擦り切れかけていた。
――どうでもいいから、はやく落ち着けるところに行きたい。
酒気が躯の内を廻り、気分も最悪だった。近寄ってくる人陰に気が付かないくらい、羽依は俯いていた。低温で心地よい声が振ってきて、やっと羽依は頭をあげる。
「丁秦、笑い過ぎだ」
咎めるように玲琳が割って入ってきた。羽依の前に跪くと、玲琳は羽依の顔を両手で挟んで覗き込んだ。
「顔色が真っ青だぞ。少し飲み過ぎたのではないか?」
「大丈夫――平気だから……」
無理をして羽依は笑う。が、玲琳の堅い面は少しも揺るがない。羽依の二の腕を掴んで立たせた。
ふらつく羽依の躯をしっかりと支え、玲琳は楚鴎を振り返る。
「すまないが、我々は少々疲れた。どこか、空いた天幕を貸してはくれないか?」
「え、ちょっと待って。わたくしそんなに酔ってはいないわ」
意義を申し立てる羽依に、玲琳は強い目で見る。
「嘘を付くな。そんなにふらふらで、酔っていないわけがなかろう」
否を言わせぬ玲琳の口調に、羽依は口を噤む。
「仕方がない、お開きにするか」
楚鴎はやおら立ち上がり、玲琳に一番奥に立てられた天幕を指差した。
「あそこが空いている。遠慮なく使え」
「すまぬ」
一言告げると、玲琳は羽依を抱き抱えた。羽依は小さく悲鳴をあげる。
「ひ、ひとりで歩けるから下ろして」
「無理をするな、足下がおぼつかないのだろう」
羽依の声を聞かず、玲琳は割り当てられた天幕に向かって黙々と歩き出した。
天幕の内に敷かれた褥の上に下ろされた羽依は、玲琳が差し出した水を一息に飲んだ。むかつく胃の腑に、清涼な水が流れ、酒で火照った躯に心地よく染み渡る。
「勧められるままに飲むからこうなるのだ。明日はもっと気分が悪くなるかもしれぬぞ」
言う玲琳は、少しも酔いが廻った様子がない。もともと酒に強い体質なのか、訓練してそうなったのか、肌を朱に染めている羽依と比して、けろりとしたものだ。
「断ってはいけないのかと思って――」
「あの者らはうわばみのようなものだ。普通にしか飲めない者がそれに合わせて飲むと、限界を超えてしまう」
「あなたも、うわばみのなかのひとり?」
酔いが手伝って、いつもより過激な冗談が羽依から出る。玲琳も不意を突かれて一瞬、脳が止まってしまった。
「まぁ――そのようなものだ」
玲琳は照れながらもそう言う。
「でも、たしかに疲れてるわ。頭が痛いもの……」
けだる気に告げて、無造作に羽依は腰紐を解きはじめた。玲琳は瞬時、ぎょっとする。
身に付けている物を手早く脱ぎさって襦袢姿になると、羽依は褥の上に横になった。玲琳は羽依の行動を掴みきれず唖然とした。常時よりも大胆な羽依に、柄にもなく玲琳は紅潮する。
「そのまま寝るつもりか?」
上ずった声で玲琳が聞くと、半分夢心地で羽依は応えてきた。
「躯を起こしているのが辛いから、ちょっと横になっただけ……」
玲琳は大きく息を吐くと、天幕の片隅に置かれている上掛けを取って羽依に被せた。が、羽依は抗って上掛けを蹴飛ばしてしまった。
「熱いから、いや」
不機嫌に羽依は断る。玲琳は羽依の扱いに困った。いつもなら自分の意思がないのかという程聞き分けがよく、易々とこちらの言うがままになるというのに、酔った羽依は放恣さが滲み出て、聞き分けのない子供のようだ。
玲琳も少しは酒が入っているので、熱いというのは理解できる。夜とはいえ夏の盛りなので、普段よりも熱気をひどく感じる。
羽依が眠りに就くものだと思い、玲琳は蝋燭の明かりを消そうとした。
「わたくし、まだ寝ないわ」
ぴしゃり、と羽依は玲琳を止める。
玲琳は大袈裟に嘆息した。もう、どうとでもなれと自棄になり、玲琳は大雑把に着物を脱いで羽依の隣に身を横たえた。羽依は玲琳に向き直り、ぴたりと身体を添わせてくる。玲琳の薄い胸に頬をすり寄せる。
甘える羽依を肱に抱き込み、玲琳は豊かな雲髪を撫で、しっとりと汗の滲む羽依の額に口づける。
「何……?」
不思議そうに羽依が玲琳に聞く。
「丁秦に、気をつけろ」
合点がいっていない様子で、羽依は玲琳を覗き込んでいる。
「どうして?」
「あいつは、おまえを狙っている」
「まさか、あの人、まだ子供でしょう?」
羽依は相手にせずに微笑む。
「そうやって見くびっていると、いつか危険な目にあうぞ」
「そんな、解らないことを心配してもしょうがないじゃない」
そう言うと、羽依は玲琳の懐深く潜り込む。しばらくすると、羽依の寝息が聞こえてくる。その面は、未だ十七という歳を現すかのごとく、愛らしく無邪気な様子だ。玲琳はふつふつと沸き上がる愛しさに、少女を起こさないよう薄桃色の頬を撫で、幸せを噛み締める。
玲琳は蝋燭の明かりを消すと、上掛けを引き寄せ、羽依を抱き締めて眠りに落ちた。
翌朝、羽依は劣悪な状態で目が醒めた。
眩く差し込んでくる光で朝の到来が解るのだが、頭はどんよりと重く、少しばかり頭痛がする。額を押さえて躯を起こすと、何も身に付けていない己に驚いた。
「気分はどうだ?」
既に衣服を纏い髪を結わえた玲琳が、羽依の体調を気遣ってくる。余計に羽依は混乱し、慌てて上掛けで躯を覆った。
痛む頭を巡らせて、昨夜の情景を思い出す。丁秦や義族に勧められるがまま、度を越えた量の酒を飲み、助け舟に入った玲琳に連れられてこの天幕に入ったのを朧げながら憶えている。
「ごめんなさい……あなたに助けてもらったのね。何にも憶えていないわ」
羽依は己の体たらくを、笑って誤摩化し、慌てて衣を着込む。
「もう、正体をなくすほど酒を飲むなよ。丁秦やおまえを狙う者を付け入らせる隙を作ってしまうからな」
「え……丁秦殿が狙っているって……?」
意中になく、羽依は聞き返す。
「昨夜わたしが言ったことを、覚えていないのだな」
「丁秦殿が危ないというの? あの人、そんなことするかしら」
「丁秦がおまえを口説いていたことまで忘れたのか?」
「それは、覚えているけれど……。どうして、わたくしが丁秦殿に求愛みたいなことをされていたのを知っているの?」
「すべて聞いていたし、丁秦の態度がそれを物語っていた」
告げて、玲琳はむっつりと黙り込む。
羽依は何でもないことのように告げる。
「でも、冗談なのか本気なのか解らないわ。ただ、からかっているだけのようにも受け取れたもの――」
玲琳は鋭い眼差しを羽依に向ける。羽依は肩を竦めた。
「おまえは甘すぎる。人を信用し過ぎるのだ。おまえは形が秀でているので、標的にされやすい」
羽依は否定しようとしたが、玲琳の目の色は真剣そのものだし、心当たりもあるので乱暴に却下することができなかった。羽依は生を受けてこのかた、何度か男が欲望を漲らせる眼差しを受けたことがあった。皇帝・牽櫂はさることながら、牽櫂の招きを受けて宴に出席した廷臣のすべてが野卑た目を隠そうとしなかった。そういう目をしなかった男は父と玲琳だけである。昨夜、羽依の周りに群れていた男達にも、下心をありありと見て取れた。
「そうね――わたくしが自分で身を護らなくてはいけないわね」
「わたしがいることも忘れるな」
玲琳の強い瞳を受け、羽依は微笑む。
「ありがとう。昨夜あなたが皆に言ってくれたこと、はっきりと覚えているわ」
「……何のことだ?」
見当がないように言うが、玲琳の面から先程の冷たさが消え、照れが現れている。
「本当に嬉しかった。あなたがわたくしのことを妻だと言ってくれて……」
羞恥を咳で払い、玲琳は羽依から目を反らす。くすり、と笑い、羽依は玲琳の腕に両腕を絡める。
「――二度は言わぬぞ」
「解っているわ。何度も言われると、言葉の重みがなくなるもの」
顔を朱に染める玲琳の様子に、調子に乗って羽依はころころと笑い声を起てる。さらに赤くなる玲琳の顔を見て、笑いが過剰になる。必死で無表情を造ろうとするが、上手くいっていないのが頬の引き攣りで解るからだ。じろり、と玲琳は羽依を睨んだ。
「いい加減に笑うのはよせ。朝餉の支度ができているそうだ」
「お腹がすいたわ、早く行きましょう」
羽依は玲琳の手を引く。思ったより二日酔いは軽く、羽依の躯は空腹を訴えていた。逸る足取りでふたりは天幕を出る。
燐佳羅を演じる玲琳からは、女としか見えない媚態があり、本来の暉玲琳は出自そのままの威厳と矜持がある。舞姫の燐佳羅も、王子である暉玲琳も同様に羽依は好きだが、一番惹かれるのは、己と関わることで不意に出てくる玲琳の、青年らしい部分だ。照れたり、嫉妬したりする玲琳を見ると、羽依はときめき、楽しくなる。だから、玲琳を困らせて、本当の素顔を引き出したくなる。
羽依は玲琳の二の腕に手を搦める。柔らかな肢体を密着させる。
玲琳は焦って「やめろ」と一言だけ告げる。その目が、泳いでいる。
たまらなく嬉しくなって、羽依は朗らかな笑い声を響かせた。
玲琳と羽依が広場についたころ、義族の面々はすでに集合していた。
立派な体躯をした男達が三人がかりで朝餉の調理をしている。大きな鉄鍋の中には、すでに汁物ができあがり、もうもうと湯気を起てている。ひとりが椀に汁物を汲み、ふたりが獣肉の焼き加減を見ていた。手が空いている者は天幕を片付けはじめ、頭目の楚鴎がそれらの者に指図していた。
ふたりの近付く気配を感じると、楚鴎は振り返り、笑顔を見せる。
「玲琳、ゆっくり休めたか?」
「ああ。疲れも大分取れたし、羽依の二日酔いも案外軽かった」
「ほう、それはそれは――」
楚鴎は玲琳と添う羽依を眺め、皮肉そうに目を細めた。
――もしかして、わたくしこの人に嫌われているのかしら。
楚鴎の視線は充分刺々しさを発しているし、玲琳の隣にいる羽依の存在をあえて眼中から外しているように見える。そして、わざと羽依に見せつけるように玲琳との仲の良さを示す。当の玲琳は楚鴎の言動に困惑しているようだ。
「今朝は、おまえの好きなきのこと山菜の汁物を造らせた。あと、鹿肉も好物だったよな。昨日狩った鹿は脂ののりが最高だ」
「あ、ああ……」
返事をしながら、玲琳はちらり、と羽依の様子を窺う。羽依は悄然としていた。
羽依は玲琳の嗜好など、まったく知らなかった。後宮にいたとき、玲琳は女達の中心にいた羽依の好みに合わせていた。羽依も玲琳の嗜好を気にしていなかったので、聞き出そうともしなかった。楚鴎はそういうふたりの隙間を突いて、玲琳と己を繋ぐ関係の深さを示そうしている。一年弱、玲琳の側にいたというのに玲琳のことを何も知ろうとしなかった己に羽依は後悔した。
「おまえも、鹿肉は兎の肉の次に好きだったな」
「え、ええ……」
玲琳が急に会話を振ったので、羽依は戸惑う。楚鴎の視線が鋭さを増す。玲琳は気にせず羽依の手を強く握り、羽依に微笑んでみせた。羽依も、吊られて笑い返す。玲琳は己と楚鴎の会話に置き去りにされていく羽依を気遣ったのだ。羽依は、玲琳の心遣いが嬉しかった。
「それはよかったな。だが、男の料理がはたして深層の姫君のお口に合うかどうか」
楚鴎はかなり強い毒の入った嫌味を口にする。玲琳は眉を潜める。
「お言葉ですけれど、わたくし、味覚の範囲は狭くありません。お気遣い嬉しいですわ」
羽依はにっこり笑ってやり返す。楚鴎はむうっと唸ると口を噤み、玲琳は眼を剥いた。
隣にいる玲琳の温かさに励まされて、羽依は言い返したのだが、玲琳は吹き出し、激しく笑い出した。羽依は大笑いする玲琳を見るのが初めてだったので、驚き、当惑する。楚鴎の顔も、一瞬弛んだ。
「そうだな、おまえは皆が嫌う蘇も平気で食べられるのだな。あれは、わたしも苦手だ」
くっくっと笑い声をあげながら、玲琳は羽依の肩を抱く。
「もう、そんなに笑わないで。残すと揚樹が物凄い剣幕で怒るから、いつの間にかどんな食べ物も食べられるようになったのよ」
「たしかに、揚樹ならば厳しかっただろう。さぞかし面白い現場だったろうな」
「お父様もお母様も優しかったのに、揚樹だけが厳しかったのよ、言うことを聞かないと、お尻を叩いたりして――両親にもそんなことされなかったのに」
玲琳は言うのも忘れて笑っている。
が、楚鴎が咳払いをし、ふたりは我に返る。完全に会話に入れず、楚鴎の機嫌は悪化していた。
「朝餉の支度が出来た。おまえ達も早く席に付け」
玲琳はにやりと笑い、羽依ともども躯の向きを変えた。はっと気付き、楚鴎は玲琳に呼ばう。
「玲琳、おまえはこっちだ!」
楚鴎の大声に羽依は足を止めそうになるが、玲琳は聞かずに歩を進めた。楚鴎の怒りの気だけが、空振りになってふたりのもとに届いた。
「――言うこと聞かなくていいの?」
心配になって羽依は玲琳に問う。玲琳はにべもなかった。
「聞く必要はない。いちいち従っていれば、わたしの自由が無くなる。楚鴎には、もっとわたしの立場を察してほしい」
「でも――悪いことをしているような気がするわ。あの人の好意でここの人達に匿ってもらっているのだもの」
「あの者らの迷惑になるのならば、わたし達はここを離れてもいいのだ。わたし達は縛られているわけではないのだから」
羽依を近場の切り株に座らせると、玲琳はふたり分の食べ物を手にして羽依の目前の丸太に腰掛けた。先程、楚鴎に味覚のことを脅されたのを案じながら、羽依は椀に口を付ける。とろみがついた塩味の汁は、思った以上に羽依の口に合った。鹿肉も、程よい弾力がある上に脂のうまみが口内に広がり、美味だ。
「わたくし――楚鴎殿に嫌われているような気がするのだけれど」
羽依は箸を止め、呟いた。玲琳も食べかけた物を飲み込む。
「多分――楚鴎はおまえに纏わりつく伝聞を気にしているのだろう。義族の長だけあって、楚鴎は人一倍正義感が強い。だから、途方に暮れていたわたしを助けたのだ。
楚鴎も馬鹿ではない。話せば誤解は解けるはずだ」
玲琳はそう言い、食事を再開する。が、羽依の不安は残ったままだ。
楚鴎が己に向ける視線は、それだけが理由ではないような気がするのだ。楚鴎が玲琳に向ける独占欲の強さは、弟に等しい人間に向けるものではないと思う。例えは悪いが、人が、愛する異性に見せるそれに似ている。要するに、嫉妬――である。
まさか、そんなことが――? 羽依は簡単に認めたくなかった。玲琳と楚鴎は同性である。旺皇后は、愛しているのならば、性別は関係ないと言っていた。羽依も理屈では解るが、生理的にはまだまだそういう現実を受け入れる準備が出来ていなかった。玲琳の過去を聞いた時も、生半可には信じられなかった。玲琳の抱えている傷の深刻さが、羽依の心を打ったので、認めることが出来たのだ。
そこまで考えて、羽依は愕然とした。
もしや、楚鴎と玲琳は過去に躯を交わしたことがあったのでは――?
羽依は一瞬、考えを乱暴に否定しようとする。が、楚鴎が復讐の術として、玲琳に躯を使うことを提案したのだ。楚鴎が最初に玲琳の躯に触れた人間である可能性がある。南遼が陥落した年、玲琳は十二歳だった。はっきりとは確定できないが、その年では玲琳が性に長けているとは思えないし、男と躯を交わしたことはないだろう。たとえ美少年であったとしても、玲琳は王子だ、男に触れられたことは無かったであろう。ならば、最初に提案した楚鴎が玲琳を性の道に導くために関係したかもしれない。あくまで推測である。躯の関係が即、愛情になるとは限らないが、ふとしたきっかけで愛が芽生えるということもある。
羽依は朝食を採るのを中断し、玲琳を凝視してしまう。
「どうかしたのか?」
不審げに玲琳が聞く。羽依は慌てて首を横に振った。
楚鴎との過去が気になるところだが、玲琳にとって過去の情事は生々しい傷でしかない。うかつに聞いて、傷の痛みを蘇らせたくはなかった。
「何でもないの。本当に、この汁物おいしいわ。この鹿肉も、柔らかい」
「そのわりには、食が進んでいないぞ。やはり、二日酔いがたたっているのか?」
「そんなことないわ。ちょっと、考え事していて――」
何を? と玲琳は尋ねてきたが、羽依は口にはしなかった。玲琳も、詮索するのを諦めた。
「別に、考え事をするのを止めはしないが、隠し事だけはするなよ」
「あなたもね」
そう言って、羽依は椀に残っていた汁をすべて飲み干した。
たとえ、楚鴎と玲琳に躯を交わした事実があったとしても、それは過去のことである。今の玲琳は己を愛してくれている。その上、玲琳は必要以上に他人と躯を交わすのを拒否している。
――このまま、なにも起きなければいいのだけれど。
羽依は玲琳の前途が平穏であることを縋り付くような思いで天に願った。