第7章・久遠への道行
生温い雨とともに、秋が到来した。
鬱陶しい曇り空のなか、玲琳と羽依はただひたすら馬を走らせ続け、逃亡の日々を送っていた。ふたりは必要以上に口を聞くこともなく、目を合わすこともろくにない。
楚鴎と丁秦の死を払拭したのか、玲琳は醒めて穏やかな面持ちをしている。李允から逃げ切ることしか念頭にないようだ。が、羽依は違った。羽依の心には、未だ楚鴎と丁秦の血の赤さが染み付いて離れない。なにより、楚鴎の死に直面した玲琳の悲嘆の様が楔となって羽依に突き刺さっていた。玲琳が何も言わないのをいいことに、羽依は玲琳と言葉を交わすのを避けている。
ただ玲琳は時折、突拍子もなく羽依を求めることがあった。何かに急かされるような激しさで羽依と交わった。心にわだかまりを持っているが、羽依は玲琳との交歓に応じた。羽依も、心許ない想いを埋めるために玲琳に縋る。そうしなければ、互いを挟む罪の重さに脆い心が崩れてしまいそうだった。交わる相手の熱さで心の隙間を埋めたかった。
その分、躯を離すと愛しあう前にも増して孤独が迫ってくる。玲琳が眠ってしまったあと、羽依はひとりで静かに泣いた。泣きながら、痕になって残っている楚鴎に斬られた腕の傷跡を撫でた。ふたりの間には、はっきりと亡くなった人々の魂が挟まっていた。
羽依の願いはただ、愛する玲琳と幸せになりたいだけだ。生きて、愛する人の隣にいたいだけだ。唯人には普遍に許される幸せが、羽依のもとには下りてこない。傍らにいても孤独を埋められない切なさ、哀しさに羽依は涙を流した。嘆きが深まるほど、どの頃よりも玲琳を愛していると思い到らずにはいられなかった。だからこそ、玲琳と共にいることが苦しく、辛い。
――わたくし達がこうして一緒にいられるのは、多くの人々の犠牲を払ってきたからだ。無念を残して死んだ数多の人の心を無視して、本当に幸せになれるのか?
寧ろ、多くの人の血を流したわたくし達だからこそ幸せになれず、また人を殺めていくのではないだろうか。
そう思い、真夜中に羽依は己の肩を抱く。
羽依は託宣になど負けはしないと、己に言い聞かせてきた。到底玲琳の命を取ることなど出来ないし、玲琳も己を殺せないと言う。その事実があるので託宣は履行されないと信じていた。が、互いが何もしなくても、廻りが放っておかない。皇帝を殺めた北宇は下手人を探索し、北康もふたりに対して憎悪を燃やしている。最も忌々しいことは、李允が己を欲している事実だ。
物思いに耽る夜更け、羽依は疑念を抱いて頭を起こし、隣で眠る玲琳の寝顔を眺める。
――李允殿はわたくしを手に入れたあと、本当に玲琳を殺すつもりなのかしら……?
玲琳――燐佳羅は李允に侍り、情を受けたことがあったのだ。一度でも抱いた人間を、李允は殺すのだろうか。玲琳の話によると、李允はかなり燐佳羅に溺れていたらしい。情愛を抱いたことはなくとも、燐佳羅の躯を愛でたのは確かだ。
李允が己を手に入れ、玲琳にも食指を延ばしたら……? 羽依は玲琳をこれ以上、性愛で苦しめたくはなかった。それならば、李允が玲琳に殺意を抱いているとしても、己がうまく取りなしたら……。玲琳を護るためならば、羽依は何でもできるし、誠心誠意をもって李允に奉仕するだろう。李允に抱かれることも、厭わない。
――そうよ、わたくしが李允殿に身を投げ出せば、玲琳を助けることができるかもしれない。
羽依は食い入るように玲琳の寝顔を見る。白皙の端整な美貌が、束の間雲間から覗いた月明かりに照らされる。微かに開いた薄い唇が、呼吸とともに震え、同じ間合いで胸が上下する。弧を描いた眉も、涼し気な目許も際立って美しい。羽依は涙を零す。
――やはり、嫌だ……。この人以外の男に躯を許せないし、何より、離れたくない……。
羽依の恋慕の情が、玲琳から離れることを拒んでいる。が、その半分の心で玲琳と供にいることに苦しみを感じている。心を引き裂かれ、羽依は錯乱して喘ぐ。
――どうしよう……わたくしはどちらにも動くことが出来ない。
羽依は突っ伏して面を手で覆った。溢れる涙を、情けない心を月明かりから隠した。
「どうして、迷うの? 迷う必要なんてないじゃない」
不意に呼び掛けられ、羽依は顔をあげる。そして、瞠目した。
目の前に、死んだはずの丁秦がいた。
「僕、言ったじゃない。僕の分まで玲琳王子と幸せになってと」
少し怒った面持ちで丁秦が羽依を詰る。羽依は頭を振った。
「苦しくて、たまらないの……。もうこれ以上誰の犠牲も払いたくないの……」
嗚咽を漏らす羽依を、丁秦は溜め息混じりに眺める。
「あなた、僕に言ったじゃない。玲琳王子のためなら、汚れても構わないって……」
「その気持ちは変わらないわ。だから、わたくしは李允殿に抱かれても、構わないと……」
丁秦は羽依の鼻先に人さし指を突き出す。
「ねぇ、その勇気を違う方向に向けられないの?」
暫時、羽依は放心し丁秦の顔を見入る。
「違う方向……?」
呟くと、丁秦は頷いた。
「あなたはこれ以上人々が死ぬのを見たくないと言う。でもね、死んだ人々の中にはあなたを幸せにしたくて命を捧げた人もいるのでしょう? 僕だって、そのなかのひとりだよ」
「丁秦殿……」
「ここであなたが玲琳王子から離れるのは、そういった人達を裏切ることになるんじゃないかなぁ。僕だって、あなたを他の男に渡すために死んだわけじゃないんだよ」
「じゃ、どうすれば……」
丁秦は微笑んだ。
「躊躇わず、玲琳王子と生きて。あなたの生きる場所は玲琳王子の傍しかないんだから。ここで離れてしまうと、取り返しのつかないことになってしまうよ。素直に自分の心に従って。僕達はいつでも応援してるから……」
言うと、丁秦の躯が闇に溶け始めた。羽依は夢中で手を差し延ばす。
「て、丁秦殿っ!?」
が、羽依の手は空を掻き、丁秦は完全に目前から消えた。
「――羽依、羽依!?」
玲琳に揺さぶられ、羽依は目を覚ます。頬が涙でぐっしょりと濡れ、慌てて羽依は袖で頬を拭う。
「また夢を見ていたのか? 悪い夢だったのか?」
おずおずと羽依は頷いた。玲琳は細く息を吐く。
「……ごめんなさい。どういう夢だったか、思い出せないの」
羽依が俯くと、玲琳は羽依の肩を抱いた。
「悪い夢でなかったのなら、それでいい」
玲琳の温もりに包まれ、羽依は物悲しくなった。
咄嗟に起こされ、どう言う夢を見ていたのか本当に思い出せなかった。何故か哀しく、懐かしく切なかった。
玲琳も深く追求してこない。ただ、優しく抱き締めてくれた。羽依は淡い痛みを感じる。
どういうわけか、羽依はこの頃よく夢を見る。
揚樹や母など、近しい所にいた人々が夢に現われては消えていった。その度、羽依は身を斬るような焦燥を味わった。気弱になっているからそういう夢を見るのだと羽依は自覚した。
毎日のように雨が続く。
羽依の心にも悲哀の雨が絶えまなく降り続いた。激しい雨を避けながら玲琳は馬を走らせ、腕の中の羽依の心細さに気付かない。何度か羽依の躯を気遣ったが、羽依が道行に絶望していることなど知らなかった。
己の躯を抱える玲琳の腕の暖かさが、羽依には切ない。手に籠る強い力から、愛情が切々と感じられる。あくまで、玲琳は己の心の内を羽依に明かそうとはしない。楚鴎の死によって傷付いていないはずはないのに、羽依の前では微笑みを絶やさなかった。それが、羽依には余計に辛い。玲琳が己を選んだことは嬉しいはずなのに、その選択が楚鴎と丁秦の死を招いたので、羽依を居たたまれなくさせる。辛いなら辛いと、玲琳に言ってほしいと思いながら、羽依はその辛さを受け止める自信がない。が、何も言わない玲琳の傍にいるのも苦しい。羽依にはどうにもできなかった。
ふたつの心の狭間に立たされた羽依は、日増しに玲琳との関係から逃げ出したくなった。このまま死んでしまえたら、楽になれるだろうと思い始めていた。己が死ねば、李允の思うがままにならないはずだ。ただ、己が死んだ後の玲琳が思いやられて死ねない。己が死んでしまえば、玲琳はどうなるのだろう。
――いまのわたしにはおまえしかいない。
義族から逃げ出して意識を取り戻した羽依に、泣きながら玲琳はそう言った。その言葉が羽依を激しく打ち据える。羽依はとても死ねなかった。
迷ったすえ、羽依の脳裏に浮かんだ道は、李允のもとに身を投げ出すことだけだった。
李允のもとに駆け込み、己の身柄の代わりに玲琳の助命嘆願をする。玲琳を助けることができれば、もともと掻き消そうと思っていた己の命も役にたつ。人形のようだった己を救い、愛してくれた玲琳へのせめてもの心であり、羽依の最大級の愛情表現だ。
――わたくしは玲琳から離れたくない一心で、李允殿から逃れてきた。でも、そのことで多くの人を傷つけ、愛する玲琳まで苦しめてしまった。このままでは、きっと玲琳との愛も崩れてしまうかもしれない。ならば、今、玲琳から離れて李允殿のもとに赴けば、何もかもうまくいく。力ないわたくしでも、玲琳を救える。わたくしの愛も……報われる。
玲琳の腕の中で、羽依の心は決まった。
幸いに、民家の多い集落をひた走っている。降り続く雨のおかげで飛ばしてはいるが、道行の進度も遅い。完全に集落を離れる前に玲琳から離れ、民家に入り込めばやがて通報される。李允の追っ手も近付いていることだろうから、早く李允のもとにたどり着けるだろう。問題は、どうやって玲琳から離れるかだ。馬上では玲琳に支えられているし、下馬しても玲琳の目が離れることはない。
――玲琳が眠っている隙に、離れるしか術はない。
玲琳に面と向かって離れる意志を告げると、絶対に離しはしないだろう。それによって、もっと玲琳を傷つける。羽依は玲琳の面が苦しみに歪むのを見たくはなかった。羽依も、直に玲琳に別れを告げるのが辛く、苦しい。まだ、何も言わずに離れるほうが羽依も救われる。
辛さも苦しみも、良心の痛みもすべて玲琳への愛ゆえだ。愛によってもたらされるものは、蜜に似た甘さよりも、針で刺されるような痛みや苦しみのほうが多いのかもしれない。どちらも、玲琳を愛する同じ心だ。ならば、痛みや苦しみを噛み締めて李允に抱かれるのも玲琳への愛だ。
――この心を玲琳に解ってもらえなくてもいい。憎まれても、嫌われてもいい。わたくしだけが、ふたりの愛を自分の中で生き続けさせられる。玲琳には復讐も哀しみも苦しみも、わたくしのことも忘れて生きてほしい。わたくしの分まで、他の人々と幸せになってほしい。
羽依の内心の哀しみを知らずに玲琳は馬を飛ばし続ける。腕の強さも変わりがない。その暖かさを感られるのも今だけだと、羽依は心の中で涙を流した。
その日は夕刻になっても雨が振り止まず、日が落ちると余計に雨脚が強くなりはじめた。
玲琳は外套を羽依の頭に深く被せ、優しく語りかける。
「どこか、雨を避けられる場所を探そう。今宵はそこで野宿する」
声もなく、羽依は頷いた。
民家が疎らになり、あと少し行くと完全に人里離れてしまう。羽依の心は急いていた。今宵のうちに玲琳から離れてしまわなくてはならない。玲琳から離れなくてはならないと思うと、妙に動悸が激しくなり、胸が痛くなる。返事も弱々しくならずにはいられなかった。
羽依は玲琳から離れることを義務として己に課した。が、玲琳から離れるとなると、どうしようもなく辛くなり、涙が出そうになる。羽依は涙を隠すために玲琳の胸に取り縋った。気付いて、玲琳も片腕で抱き締め返してくれる。より辛くなり、羽依は懸命に息を整えた。
程なくしてから、岩壁沿いに小さな洞穴を見つけた。入り口の側に馬を止め、玲琳は羽依を下ろし馬を洞穴に入れた。中ほどのささくれだった岩肌に目を止め、手綱を括りつける。
馴れた手付きで日を起こし、玲琳は火の中に枯れ枝を焼べる。為す術もなく見つめている羽依は手招きされ、火の側に寄る。
羽依を座らせると、玲琳は水筒の水を杯に酌み、炙った餅と干し肉を差し出す。羽依は小さく首を振った。
「どうしたのだ? 食べないと、躯が持たぬぞ」
「……食欲が出ないの」
羽依がか細く言うと、玲琳は眉を寄せ羽依の額に手を充てた。己の額にも手を充て、離した。
「熱はないようだが……疲れて調子が出ないのか?」
「そうみたい」
笑ってみせ、羽依は玲琳の感心を反らそうとした。
ひとりで食をとる玲琳を眺め、羽依は微笑んだ。水を飲むと、玲琳は羽依の眼差しに怪訝を見せる。
「……本当にどうしたのだ。笑みなど見せて、何か楽しいことでもあるのか?」
「そうじゃないけれど――こうやって、和やかな気持ちであなたを見ていられるのが、幸せに思えて……」
さらに玲琳は眉を潜める。
「嫌ね、そんなに不思議そうに見ないで。素直な感慨を述べただけよ。改めて、こういう気持ちが幸せなのかしらって……」
口にしてみて、羽依は目を伏せた。こんな風に、幸せを噛み締めたことなど今までに一度もなかった。心から幸せを感じられる相手を目の前にしながら、離れていかなくてはならない。否、だからこそ、幸せという果実を味わうことが出来たのかもしれない。羽依ははぐらかすために内容を変えた。
「わたくし、あなたと出会って本当に色々な感情を知ったのよ。中には、嫉妬という知りたくもない感情もあったけれど。男の人に拗ねたり、甘えたりなんてしたことなかったから、自分でもそういう時どういう顔をしているのかなって思ったりして……」
朗らかに笑う羽依に、玲琳も不安な面持ちを崩した。
「結構、不細工だったりして。頬なんて膨らませたりして、子供みたいなのが余計に幼くなってたりとか」
玲琳も吊られて、言い返した。
「そうだな、大きな目が異様に輝いている。澄ましているほうがおまえは美しく見える」
「あ、やっぱり、怒っている時は不細工なのね、ひどい」
「そんなことは言っていないだろう。拗ねたり、怒っている時のおまえは可愛いと思える」
ははは、と笑って玲琳は羽依を抱き締めた。ちらり、と羽依は上目遣いで睨む。
「……本当に?」
「ああ」
「よかった」
羽依の笑い声を、玲琳の口づけが吸い取った。軽く口づけて、玲琳は羽依の髪を優しく撫でた。
「眠れるうちに寝ておかなくてはならない。雨が止めば、また馬を走らせなければ」
名残惜しそうな玲琳の甘い瞳を受け、羽依も蕩けるような微笑みを浮かべた。敷布を敷く玲琳の腕にしがみつき、羽依は耳元で囁く。
「好きよ、愛してるわ」
虚を突かれて呆気にとられている玲琳に、羽依は悪戯っぽく笑う。赤面すると、玲琳は咳払いした。
「そ……そんなに、煽らないでくれ」
楽しそうな笑いの中に、羽依は切ない本心を隠す。
最期に、心の底からの想いを玲琳に伝えたかった。恋人を煽情するための悪戯な告白ではなく、募る想いを冗談に含ませたのである。玲琳はそれに気付かない。それでいい、と羽依は心から微笑んだ。
雨音の勢いは緩まず、轟音となり洞穴に響いている。
優しい玲琳の寝息を耳にしながら、羽依は頭をもたげた。日暮れと雨がもたらす闇に目を凝らし、ひと纏めにしてある荷物ににじり寄った。中から外套を取り出し、雨よけにするため頭からすっぽり被る。
強い雨に、羽依の心は一瞬怯む。が、今を逃して玲琳から離れることは出来ない。そろり、と足音をさせずに洞穴から抜け出した。雨が外套にしみ込み羽依の髪を濡らす。重さを増した髪が羽依の躯に纏わりついた。厭わしい感触だが、堪えて早足で歩を進める。
ぐっしょりと濡れた全身が、羽依の行く手を妨げる。雨が羽依の心の中にまで侵食し、嵐となって荒れる。狂おしさを噛み、嗚咽を飲み込む。いつしか小走りになっていた。
――雨に負けては駄目。負けると、きっと引き返してしまう。弱気なわたくしが出てくる。
面に当たる雨に涙が混じる。羽依はそのことにも気付かなかった。
寒々とした空気に、玲琳は飛び起きた。傍らを見ると、羽依の姿がない。寝る前まで焚いていた火はとうの昔に消え、羽依の温もりも感じられない。
咄嗟に火をつける。目を走らせると、荷物を荒らした痕跡があり、羽依の外套がなくなっている。眠っている間に、羽依に何かがあったということか。慌てて己の外套を身に纏い、息を詰める。
誰かが羽依を連れ去ったというのなら、どうして外套までなくなっているのだろう。日頃から、人の気配に神経を尖らせているが、複数の人間の動きは感じ取れなかった。ひとりならば隠すこともできるだろうが、数人では目立つ。玲琳に気取られないためにも、外套にまで気を配っているゆとりはない。
――まさか、羽依が自ら……!?
さっと、玲琳の躯に悪寒が走った。狼狽する頭を必死に回転させ、目付きを尖らせる。
――わたしが眠っている間に離れたのならば、この雨に女の足だ。そう遠くに行きつけてはいまい。
入り口に繋いだ馬を解き、素早く跨がると玲琳は強く鞭を打つ。馬は鋭く嘶き洞穴から飛び出す。
羽依の気配をつかみ取ろうとするが、雨が完全に消していた。微かにぬかるんだ足跡が行く先に導いた。足跡は昼間通り過ぎた集落に向かっていた。
どうして、何のために……!? 玲琳の脳裏にその言葉だけが吹き荒ぶ。眠る前、羽依は玲琳に微笑みを見せていた。縋り付いた温もりから確かに愛情を感じることができた。玲琳の心は先刻の羽依に駆け戻る。
――好きよ。愛してるわ。
ぎくり、と玲琳は眼を見開く。
そう言った羽依の笑みの中に、微かな陰りがあった。瞳は甘やかながら、揺るぎない哀しみ、寂しさが込められていた。
羽依が今でも己を愛していることは疑いない。が、羽依は何故か離れようとしている。心当たりがないわけではない。義族から離れたあと、羽依とほとんど言葉を交わしていなかったことが気にかかった。
玲琳自身が楚鴎とのことの当事者であり、羽依以上に傷ついていた。むしろ、羽依は玲琳と楚鴎の相克に巻き込まれてしまったに等しい。楚鴎に曖昧な態度しか取れず、傷つけ憎悪を羽依に向けさせてしまったのだ。それなのに、羽依は己が楚鴎を煽ったと感じ、それが結果として玲琳に楚鴎を殺めさせたと思い込んでいるのだろう。羽依の行動は、己を思ってのことと理解している。だから否定もした。が、羽依はいまだに楚鴎の死の原因が己にあると信じ、それが結局丁秦の死に結び付けてしまったと悔やんでいるのだろう。玲琳は、羽依の哀しみを受け止め解してやりたいと思っていたが、それ以上に己の傷が深すぎてどうすることもできなかった。深手の傷の上に羽依の傷をも負うことが不可能だった。詰まる所、逃げていたのだ。
その報いが、今、降り掛かった。羽依の傷に触れることを恐れ、言葉を交わすことが少なくなった。畢竟、その態度が羽依を追い詰め別離へと導いたのだ。羽依の気質を知っていて、無視した己への報復なのだ。玲琳は悔恨に喘いだ。
それ以上に、どうして、という羽依への問いが、心から突いて出るのを止められなかった。言葉では、抱擁では解り合えないのか。「愛している」では通じ合えないのか。
上手な「愛しかた」など解らなかった。そんなものがこの世に存在するのかとも言いたかった。愛しいと思う心は無限に溢れてくるのに、言葉では想いがすり抜けてしまう。まして、愛欲では測れない。交歓は刹那的なものであり、結してひとつになったとはいえない。何によって想いを伝えればいいのか解らない。
もどかしさは哀しみとなり、痛恨となって、結句、愛情となってひとつの流れとなる。変転の果てに切なさとなった想いを抱き締め、豪雨を一身に受けながら玲琳は馬を疾駆させた。
雨は羽依の足から力を奪いもつれさせた。気の幹に寄り掛かり、態勢を立て直して羽依は荒い息を押さえる。
よりによって、洞穴から抜け出たときよりも雨が強くなっている。長い裾を引き摺る羽依の足は鈍くなり、体力まで奪ってしまった。もとより、あまり雨に晒されたことのない羽依にとってこの逃避行は酷であった。
それでも、長居は出来ぬという思いがあるから、羽依は重い躯を無理に起こした。
半ばずり落ちてしまった外套を引き被るため手を動かした瞬間、甲高い馬の泣き声が耳を劈いた。弾かれたように羽依が振り返ると、眦も厳しい玲琳の面が近付いてくる所だった。咄嗟に、羽依は駆け出すが玲琳は素早く馬を女の行く先に巡らした。逃れようがなく、羽依は後方の幹に引き下がる。
「どうして……何故、わたしのもとから離れようとする!?」
感情も露な詰問を、羽依は顔を背けて避ける。
羽依の無言の拒否に、玲琳は下馬すると相手の細い腕を強く掴んだ。痛みに、羽依の顔が蒼白に歪む。力ずくの訴えでも、羽依の頑さは解けない。手を離すと、玲琳は羽依を凝視した。ひたむきな瞳が
羽依の頬に突き刺さる。無言では、玲琳の眼差しに勝てない。
「も……う、やめましょう」
絞るように言うと、羽依も玲琳を直に見る。青白く、女の面が笑みに引き攣る。
「愛してる、という心だけでは添い遂げることなんて出来ないのよ。そもそも、愛なんて不確かなものに頼るのがいけないのだわ」
「……本気でいっているのか?」
玲琳が不快気に眉を寄せる。
「所詮、愛なんて一時のものよ。月日を重ねると次第に薄れて、見る陰もなくなってしまうものなのだわ。そんな、一時の熱情で一生を選ぶよりも、もっと確かなものを選ぼうとしただけ」
――一時の熱情だとしても、こんなに燃え盛る想いを止めることなんて、絶対にできない。目に見える幸せよりも、一時の情熱のほうが、きっと純粋なのよ。
「李允殿は、わたくしに確かな一生をくれる人。あの方にかしずいてさえいれば、わたくしは安穏に生きていられる」
――その一生がどれだけ安穏でも、心を偽った安穏が本物のはずはない。たとえいつか掻き消えてしまったとしても、愛に殉じることのほうが、どれだけ、わたくし自身を貶めないか……。
「これ以上、人の生き死にに関わるのは嫌なの。人の死を重ねて築く愛なんて、意味がないわ」
――人が死ぬのなんて、もう見たくない。どうせなら、わたくしのほうが死んでしまいたい。わたくしが壊れてしまわないうちに、あなたが滅びてしまわないうちに……。お互いに、崩れてしまわないうちに……。本当は、人の死なんてどうでもいい。勝手なわたくしは、それでもあなたの側にいたかった。でも、わたくしの良心が、それを許さないの……。
引き裂かれた心が、別々に玲琳に訴えかける。裂けてしまった己を嘲笑う己がいる。嘲笑いながら、哀しみと怒り震える玲琳を冷たく見ている己がいる。哀しいのなら哀しめばいい。怒るのなら怒ればいい。怒りのまま、己を殺してくれればもっといい!
錯乱する羽依を、雨が激しく打つ。
「……ならば、何故泣く? おまえは、わたしよりも確かなものを選びたいのだろう?」
はっとして、羽依は頬を押さえる。確かに、雨の中に熱さが混じっていた。
「おまえがそう言うのなら、わたしは止めることが出来ぬ。おまえの言うとおり、わたしはおまえを抱き締めてやることしか出来ぬ。おまえに、安穏な幸せを与えてやることなど……出来ぬ」
俯いて、玲琳はか細く呟く。
「ただ……わたしは、おまえとともにあるために、諦めたはずの生を選んだ。本来なら、南遼の滅亡の瞬間に消えたはずの命だ。それを生き長らえたのは、ひとえに本願である復讐のため。その本願も、今のわたしには意味がない。我が身の上には、ひたすらおまえとの生だけ……それも適わぬのなら……」
上げられた玲琳の目に、きらりと光るものがあった。ぞくり、と羽依の背が震える。
「もともとなるべき運命に従うのが、筋……」
「駄目ーーッ!」
鈍色の空間の中に、鋭く光が走る。絶叫して羽依は飛び出しす。
玲琳が腰に帯びた剣を喉元に突き刺そうとするよりも先に、羽依の手が剣を素手で掴んだ。羽依の白い手から赤い血が筋を描いてぽとり、と雨に濡れた土の上に落ちる。
「……羽依」
小刻みに震える羽依を見つめながら、ややあって玲琳は女の剣をしっかりと握った細い指を剥がした。
「わたくし、もう解らない……ッ!
あなたのもとを離れて李允様のもとに向かうのが一番いいと思ったのに……わたくしが李允様に身を投げ出してあなたを助けることができるのならそれでいいと思ったのに……!
それ以上に、わたくし達さえ別れればこれ以上人が死なないと思ったのに……!
別れてしまえば、あなたの死を招いてしまうなんて……ッ!」
しゃくりあげる羽依の言葉に何度も頷きながら、玲琳は己の衣を引き裂くと、羽依の両の手の平に巻き付ける。
「どうして、愛してるのに側にいてはいけないの?!
どうしてわたくしだけ愛する人と幸せになってはいけないの?!」
布を巻き終わらないうちに羽依は玲琳に強く縋り付いた。縋り付いたまま大声で泣き始めた。宥めるように背を摩ると、玲琳は羽依の躯を抱え上げた。女の躯の軽さが儚く、玲琳の胸に迫った。
洞穴に戻るまでの間、羽依は玲琳から離れようとはしなかった。力の限り縋りつき、嗚咽する。
――この人と離れては、生きていけない……。
互いに、寄り添いあうために生を選んだ。北宇の後宮から脱出したあと、愛を確かめあい誓いあったことがはっきりと思い出される。あの時、己も玲琳のためだけに生きようと己に誓ったはずだ。心弱くなり、背いたとはいえやはり玲琳から離れるのは不可能でしかなかった。たとえその生が、絶望であろうとも。
「お願い、抱いて……」
戻るなり、羽依は更の布で手当てをしようとする玲琳にとり縋る。戸惑いながらも、玲琳も募る想いを押さえられない。ふたりは縺れあうように敷布の上に倒れこんだ。
雨に濡れた躯を気にする余裕もなかった。ただ、本能のまま交わった。
刹那的な交歓でもいい。その瞬間に、確かに互いの想いが交じりあう。溢れる涙も、雨の交じった汗も、優しく伝わってくる体温も、隙間なく合わせた躯も――。
――ああ、愛しあうということはこういうことか……。
今さらながらに玲琳は事実を噛み締める。己の背に廻された羽依の腕の強さが、ひたむきな愛を教えてくれる。
「このまま……あなたと一緒に死んでしまいたい――!」
高まるままに、羽依は掠れた声でそう叫んだ。玲琳も答えるように強く抱き締め、羽依の中に想いを迸らせた。
呼吸が落ち着いたあとも羽依はなかなか離れようとはしなかった。玲琳が躯を離そうとしても、いやいやと首を振る。
「いや――このまま離れたくない」
「だが……わたしの重みでおまえが苦しいのではないか?」
気をつかって躯を起こす。羽依は玲琳の腕を掴んだ。
「離れてしまえば、また誰かに引き裂かれてしまうわ……」
羽依は男を引き戻そうとするが、制止された。
「それに、また手の平の血が滲んでいる。手当てをしなければ」
「そんなの、どうでもいい」
言い募るが、玲琳にだめだ、ときっぱり言われ、名残惜しそうに引き下がった。
羽依は玲琳が傷口に膏薬を塗り、清潔な布地を巻くのを押し黙って眺めている。真剣な眼差しに気付いて玲琳は顔をあげた。
「さっき言ったこと、本気よ」
玲琳が何も言わないと、羽依は言葉を重ねた。
「あなたと、一緒に死にたいの」
羽依の真摯な眼を凝視しつつ、玲琳は薬を袋の中に戻した。
「あなたは、わたくしと死にたくないの?」
「わたしは、おまえを無くして甲斐のある命ではない。先程のことも、本気だった。このままおまえと死んだとしても、わたしは本望だ。だが……」
食い入るように見つめて、羽依は続きを待つ。
「このまま死ぬのは――勿体無いような気がする。死んでしまえば、おまえと愛を交わすことが出来ない。死んでしまえば、おまえの微笑む顔を見ることが出来ないことはおろか、おまえの吐息を感じることは出来ないし、肌でおまえの愛を感じることも出来ない。先程おまえと躯を交わして、愛しあうことの重さを感じたばかりだ」
羽依は玲琳の科白に聞きいっていたが、しばらくして溜め息を吐いた。
「わたくし、この身が呪わしい……。
美貌なんて、本当は欲しくなかった。人よりも美しかったせいで、あなたもわたくしも人に脅かされてまともに愛しあうことなんてできないもの。わたくし達が美貌だというだけで、誰もわたくし達を放っておいてくれない。わたくしは自分の姿形が大嫌いなの。
それでも、わたくしが我が身を利用して李允殿に取り入り、あなたを逃げ延びさせることができれば、こんな姿でも少しはましだと思えたの。
結局、それがわたくしの思い上がりで、少しもあなたのためにならないと解って、行き詰まってしまったの。だから――いっそ、あなたと一緒に死んでしまえたらって。考えてみれば、愚かよね」
自嘲の笑みを漏らし、羽依は玲琳を見つめた。穏やかな面持ちで、玲琳は羽依を抱き締める。
「おまえの自棄の言葉を聞いて、わたしと同じだと思った。わたしも、おまえのためと思って楚鴎に躯を与えた。決して、おまえの本意ではないのに。おまえの言葉に怒りも、哀しみも感じたが、それ以上におまえの愛を感じた。
おまえはわたしと一緒に死にたいと言う。それは、おまえもわたしのために生きていたと思っていいのだな?」
おずおずと、羽依は頷く。美しく笑むと、玲琳は羽依を抱いて身を横たえる。
「ならば、わたしとともに生きてくれ。いざ、不利となったときにともに死のう。それでも、遅くはあるまい?」
呟きながら、羽依の躯に口づけの雨を振らせる。陶酔としながら羽依は甘さにほだされ頷いた。
「わたくし達、死ぬ時は、一緒……ね」
なまめいた羽依の声を味わいながら、玲琳は女の柔らかな唇を吸った。
ほんのり汗の匂いのする薄い胸に頬を寄せて、羽依は瞼を閉じかけた。
――もう、何も恐れない。この人とともに生きて、死のう。それまでは、生きて、ありのままの自分として生きよう。
それが、眠りに落ちる寸前の羽依の心の囁きだった。
数日間、豪雨は止まず、ふたりは必然的に足留めされた。
刺客や義族達も雨を避けているのか、まったく音沙汰ない。洞穴深く隠れたまま、ふたりは誰にも煩わされずに寄り添いあった。特に、連れ戻されてからの羽依はしきりに玲琳の抱擁をねだる。一時でも離れるのが不安なのだ。玲琳もそれが解るから求められるがままに愛しあった。言葉を交わすよりも、躯で愛を確かめあった。激しく交歓して微睡みの中に落ち、目覚めてまた肌を重ねる。時の流れさえもいずこかに消えてしまい、ただ雨音だけが世界を破っているようだった。
微かに差し込む日の光が、ふたりを再び現実の中に戻した。いつの間にか朝が到来し、雨も上がっていた。
眠っている羽依を気遣い、玲琳はそろりと起き出す。衣服を身に纏うと洞穴の入り口を覗き込んでみる。雨のあとの清浄な空気が肺腑に染み渡った。
「雨が上がったの?」
声に振り返ると、羽依が半身を起こしていた。玲琳が微笑むと羽依は己の着物に手を延ばした。外の明るさに眼を細める玲琳に近付くと、羽依は薄い背中に腕を廻した。玲琳が手を重ねると、羽依は頬を寄せ呟く。
「もう、躊躇わないことにしたの。
わたくしたち、初めから色々なことがあったわ。女の姿をしたあなたが男だと知らずに恋したり、互いに違う人のものだったりしたけれど、結局、どうしても離れられずにこうしてる。もうお互いの愛を信じて生きていくしかないのよ。
わたくし達の愛が託宣による運命かもしれないと悩んだりもしたわ。でも、どんな形にしろ愛しあっているのは事実なのだから、貫くしかないのね。あなたを愛してるのは運命もあるかもしれないけれど、やっぱり心がどうしても惹かれるからなのよ。だから、何も恐れない」
絡み付く細い腕を解き、玲琳が向き直ると、凛とした面持ちの羽依が見上げていた。
迷いや諦観を切り捨てた、鮮やかな美しさに彩られた羽依に、玲琳は賛嘆の溜め息を吐き、情熱を込めて抱き締めた。生来から美貌に恵まれた羽依だが、後宮を脱出して幾度となく苦難をくぐり抜ける度、女としての美、揺るぎない気魄が漲る。燦然とした心の美しさが、羽依の本質なのだろう。
羽依は心を得て、はじめて大輪の華を開いた――そして心を開かせたのが、玲琳の心だった。人形ではなく、生身の、奇跡のように美しい心を羽依を見つけることができた。それを許されたことが、玲琳にとっての至福の喜びだった。相手も同じ想いを抱いていることで、個体の別がなくなり、ひとつに溶け合っているような感があった。
この思いが、託宣による運命だとしても、ふたりは互いに愛のためだ、と思った。
「おまえは、最初からわたしのものだ。皇帝・牽櫂がおまえを奪ったとしても、わたしが他のものに躯を与えたとしても、初めから変わっていなかった。わたしも、最初からおまえのものだ。互いに離れて生きられない。わたしたちはひとつのものなのだから」
「わたくし達、きっと魂が結ばれているのよ。こんなに惹かれるのは、そうとしか考えられないわ」
羽依の黒瞳が甘美に揺れる。ふたりの唇は自然に重なった。
昼にならないうちに、ふたりは洞穴をあとにした。羽依の心に迷いはない。しっかりと愛する人の胸に縋り付いていた。
行く手に悲劇が待ち受けていようとも、もうこの手を離さない、と心に誓って……。
ふたりが出立してから雨は止み、道行は順調に進んだ。
晴天が続くようになっても、刺客や義族達は現われない。どうしたものかと羽依は訝しんだが、久々に心から平穏さを味わうことができ、然程気にはしなかった。玲琳は寡黙なままである。羽依が何か話しかけたりすると、涼しい笑みで返してくる。後宮を離れてから始めてふたりきりだということを感じ、改めてときめきを覚える。女を装っていたときの蠱惑的な笑みに見慣れた羽依は、男としての玲琳が物珍しく、心が熱く疼く。女ではない素の言動、仕種――。後宮から離れて三ヶ月は経つというのに、じっくりと見ていなかったので、まだまだ素の玲琳に馴染んでいない。それほどまでに今までが慌ただしく、不安定だったのだ。逃避行だというのに、羽依は楽しそうに微笑んでもいた。
玲琳は馬を南に進める。ひたすら南下すると、義族とともに行動しているときに通った渓谷に出てきた。さらに川幅は雄大になり、大量の水が飛沫をあげて流れている。気のせいか、秋も深まったというのに気温が上がっているように感じられる。
「ここの谷、前に通った谷と同じよね。どこに向かっているの?」
じっと川の流れを見つめながら問うと、玲琳は静かに口を開いた。
「――この川は丑河という。もう少しで南遼の国境に辿り着くはずだ」
何ともなしに聞き流して、ふと羽依は耳を咎める。
「……南遼!?」
咄嗟に羽依が振り返ると玲琳が微笑んでいた。羽依は口元に手を遊ばせ、躊躇いながら言う。
「い、いいの……?」
南遼は、言わずとしれた玲琳の故郷である。玲琳王子が生まれ、七年前に皇帝・牽櫂が滅ぼした国。たったひとり生き残った玲琳王子を義族の長・殷楚鴎が拾い、玲琳に復讐を決意させた。いわば、玲琳と羽依の因果が始まった国でもある。北宇が南遼を攻め滅ぼしたあと、国土には塩を撒かれ、草木が生えないよう処理されたという。今は、豊かだった南遼の影は跡形もない。
羽依は戸惑う眼で玲琳を見る。玲琳にとって、滅ぼされた生まれ故郷に戻るのはどういう気持ちだろう。首を絞めるように己を追い込んでいる玲琳が気にかかった。
羽依の案じる瞳を受けて、玲琳は穏やかな面持ちで話しだす。
「南遼は、すべての始まりの場所だ。
わたしが生まれ、何事もなければおまえが嫁いできたはずの国。今は、北宇に滅ぼされて面影もないだろう。だが、物事は思わぬほうに流れ、わたしたちは結ばれた。はっきり言って、わたしたちがこれからどうなるか見当もつかぬ。
だから、一度戻ってみようと思うのだ。今、南遼の跡地はどうなっているか。寂れて、無惨な有り様になっているか、それとも……。
生き残ったからには、一度は行かねばならぬと思っていた。それが、たったひとり生き残った南遼の血の宿命だろう。逃れることは出来ぬ」
羽依は心許なくて眼を落とした。
七年前に南遼が滅びた原因は、己にあると羽依は思っている。羽依が望んだわけではない。皇帝・牽櫂が羽依を己のものとするために、まだ結ばれていない婚約者である、南遼の玲琳王子を殺そうとした。それだけのために南遼を攻め、王族どころか何の罪もない民を殺戮した。無抵抗な女子供も残酷な方法で殺した。既に玲琳王子と結ばれていたのなら理屈は解るが、まだ婚儀も挙げていなかった。南遼に因果を含めて玲琳と羽依の婚約を取り消せばそれで済んだはずなのに、婚約している事実だけであっさりと一国を滅ぼした。残忍な牽櫂の性分にもよるが、牽櫂を殺戮に走らせた己がもっとも罪深い、と羽依は自分を責めている。
玲琳は南遼のたったひとりの生き残りである。玲琳の脳裏には七年前の惨劇が今も生々しくこびりついているはずだろう。だから復讐を決意したのだ。その玲琳が進んで亡国に戻ろうと言う――。たったひとり生き残った己の宿命だと言うが、玲琳にとって酷としかいいようがない。
「……いいのよ、無理しなくても。戻れば、あなたはきっと七年前を思い出してしまうわ。無理して傷つくようなまねしないで」
袖を掴む羽依に、玲琳は笑みを掃いて羽依の波打つ髪を撫でた。
「大丈夫だ、七年間ずっと気になっていたのだ。行ってみたところで、南遼の生き残りは誰もいないから何のしようもないが……。
おまえには、辛いものを見せてしまうかもしれない。おまえの罪ではないが、南遼の滅亡が自分のせいだと今まで気にしていたのだろう?」
慌てて羽依は首を振る。
「わたくしは、何を見ても否定しないで受け止めるわ。わたくしだって、あなたの生まれ故郷が見てみたい。あなたの故郷がどんな有り様だろうと、これもわたくしの業だと引き受ける覚悟よ」
毅然として言い切る。そんな羽依が頼もしく、玲琳は女の肩を深く抱いた。
「何を見ても、わたしはおまえを責めるつもりはない。南遼の滅亡は現実にあったことだ。あれを境に、わたしとおまえの運命は変わってしまった。だが、もしかするとこれも必然だったのかもしれぬ。あの託宣をなぞっているだけかもしれぬが、わたしたちが互いを滅ぼすなど、絶対に言い切れない。逆に、わたしたちの運命は深く結びついている。
南遼に行けば、今は見えないものが見えるかもしれぬ。あそこは、わたしたちの運命の分岐点なのだから」
そう言って、玲琳は手綱を強く握った。
羽依も覚悟を決め、行く先を見据えた。行く先は、幸か不幸か……。もしかすると、南遼の無惨な姿を見ると七年前を思い出して、玲琳の羽依への恨みが蘇るかもしれない。そうだとしても、羽依は受け止めるつもりだ。またも復讐心が首を擡げて、玲琳が刃を持ったとしても、そのときは自ら進んで斬られる。それが玲琳の哀しみを終わらせるのなら。
南遼への道は、羽依にとっても必然の道だった。
――それから二日、羽依の眼は見知らぬ土地に好奇心を抱き、視線を走らせてばかりいた。道を進むにつれ、堪え難い熱さが身を包む。いつしか外套を取り去り馬の鞍の後部に括りつけていた。
羽依も南遼に塩が撒かれ、草生一本生えないように処理されたことを、知識として頭に入れていた。が、あたりに広がる景色は、比較的緑が豊かだった。秋も半ばだというのに木々の緑は競い合うように萌えている。初め、違和感に襲われた。
――南遼が枯れた大地になったというのはわたくしの覚え間違い?
ふとそう思うが、背後で羽依を支える玲琳の落ち着かない様子に、覚え間違いではないと気付く。しきりに前後左右を見渡し、奇異なものを見たように眉根を寄せる。
丑河のせせらぎも、今は耳に遠い。確実に、南遼の国境に近付きつつあった。
拭いがたい違和感はふたりの言葉を奪った。羽依は何を言っていいのか予想もつかない。それだけ、玲琳の態度がいつもに比べておかしかったのだ。南遼滅亡の生き証人である玲琳は、大地に施された南遼の措置を目の当たりにしていたはずである。玲琳の眼からして、明らかに違うのだろう。羽依はつかみ取りがたいが、迂闊なことを聞けなかった。
ぎこちない沈黙を続けていると、不意に玲琳は馬を止めた。何も言わずに馬から下り、無造作に生えている鮮やかな色花を摘んだ。ともに馬から下りた羽依は怪訝な眼差しを隠さない。
ある場所で玲琳は蹲った。何をしているのかと羽依が覗き込むと、玲琳はこんもりと盛り上がったふたつの土山に花を供えている。土山の上には平たい石が五枚重ねられていて、見るからに誰かの墓という見た目である。
「あ、あの……これ、誰かのお墓なの?」
恐る恐る聞くと、玲琳は手招きし、羽依にも花を持たせた。
「ここは、わたしの父上――南遼の最後の王と、わたしの乳兄弟の伯如の墓だ。
この場所で、父上と伯如の亡骸は晒しものにされていたのだ。わたしが南遼をあとにするとき、義族達に手伝ってもらってここに葬った」
羽依は眼を見開き、玲琳を凝視した。
「あ、あの、わたくし……わたくしなどがここで祈っても……いいの?」
南遼を滅亡に追い込み、王と玲琳の乳兄弟を死なせた間接的な元兇である己が、どういう顔をしてふたりの塚に祈ればいいというのか……。羽依は逡巡する。
玲琳は羽依の肩に手をおくと頷いた。
「大丈夫。ふたりとも、わたしのことを一番に理解してくれた人々だ。改めて、わたしが選んだ女人を大事な人々に見てもらいたい」
「わ……わたくしは、この方達にとって憎悪してもしきれない女よ。それが、平気な顔をして頭を下げるなんて――。で、でも、お詫びはしなくてはいけないわね」
悄然として、羽依は花を供え黙祷する。たとえ認めてもらえなくとも、懺悔だけはしなくてはならない。それが、元兇としての己の責である。その上で、どんな怨嗟でも聞きとどける。それしか羽依にはできない。
眼を瞑っても、何かが見えるわけではない。闇が色付くだけである。亡き人の声も聞こえない。ゆっくりと眼をあけると、皎々とした光が眼に刺さってきた。たまらず眼をしばたかせる。溢れんばかりの光明が、大地が記憶する死の匂いを祓う。隣を見ると、玲琳の微笑みがあった。
「あれから七年が経っているので、この墓も荒れていると思っていた。だが、存外綺麗なままだ。これなら、父上も伯如も安らかに眠れるだろう」
羽依もうっすらと微笑み、墓のまわりに生えている雑草に眼を止め摘み始めた。
「羽依……」
「こんなに雑草が生え放題だとみすぼらしく見えるでしょう。あなたにとって大事な人はわたくしにとっても大事な人よ。たとえ嫌われたとしてもね」
虚をつかれた玲琳の面ざしに、羽依は朗らかに言う。土が手を汚すのをまったく気にしていなかった。心からの羽依の行動に、玲琳は柔らかく眼を細め、一緒に草を摘み取る。
墓のまわりを浄めてから、ふたりは跡地に入るため馬を出した。光りに包まれた墓に安堵した心を抱いて――。
「もしかすると、誰かが塩を取り除いてくれたのかもしれぬな」
まわりの景色を見ながら玲琳は呟いた。羽依は振り返る。
「どうも、以前に比べて木々が若い。誰かが土地を浄化して木を植え直したのだろう。それなら、今までの緑も合点がいく」
「――そうね。それしか考えられないわ」
言いながら、また羽依は考え込む。
「……でも、誰が? 南遼の生き残りはあなただけだったのでしょう?」
「そのはずなのだが――」
玲琳も顎に手を充て思案する。
「たったひとつ考えられることは、幾多の人間が南遼の土地に入植したのかもしれぬということだ。数人がかりだと、塩を掃き清め新しく木々を植え直すこともできるだろう」
羽依は聞き入っていた。
南遼が滅亡して早い時期に数人の人間が亡国の国土に入り込み、手入れをしなおす。少なくとも、七年前には作業しなくては間に合わない。その頃には、まだ血の香も生々しかったであろう。勇気と度胸でもって、国土を復興した善意の人間がいたというのか……。
いつしか肩を震わせ、涙ぐんでいる羽依に、玲琳は優しく聞いた。
「――どうしたのだ?」
「……嬉しくて。今まで、人々の恣意に振り回されてきたけれど、やっと、善意の人々の存在を知ったから」
羽依を強く抱き締め、玲琳は笑みを漏らす。
「おまえの周りには、決して善意の人がいなかったわけではないぞ。揚樹は、おまえが大事で仕方がなかった。胡乱なわたしを信じて、おまえとわたしの仲立ちをしてくれた。今こうしてわたし達がともにいるのも、必死になってわたしを目覚めさせようとした揚樹の存在があるからだ。他にも、親は、無心にわたし達を愛してくれた。伯如や乳母も……」
「ねぇ、あなたの御両親や、乳母殿に伯如殿のことを色々聞きたいわ。あなたの大事な人をもっと知りたい」
羽依が覗き込むと、玲琳は遠い眼差しをして口を開いた。
「そうだな……。南遼に入ったらゆっくり聞かせてやろう。おまえに是非聞いてもらいたい。それと、おまえの両親や弟妹のことも聞きたい」
「そうね……」
馬に揺られながら、ふたりは刻々と近付く南遼に思いを馳せる。蹄の音だけが規則正しく響いていた。