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 後宮において揚樹の葬儀はひっそりと行なわれた。参列するものも少なく、瑞鴬殿に仕えていたものたちや旺皇后とその従者、そして羽依と佳羅である。
 羽依は焦点の定まらぬ眼差しで揚樹の仮殯の模様を眺めていた。揚樹の魂が奪われたとき、羽依の精神もまた握り潰されてしまったのである。
 一月後、揚樹の遺体は宮城の郊外にある墓地に埋葬された。食の量が減り、衰弱していた羽依を佳羅や他の侍女が支え葬送を見守っていた。
 ――随分と、痩せてしまっている。
 寄り掛かる羽依の躰の軽さに、佳羅は胸が詰まった。際立ったかんばせも、表情が削ぎ落とされ幽鬼のような有様である。以前にあった溢れるばかりの美麗さは失われてしまった。
 ――揚樹を死なせ、羽依の心を壊してしまったのはわたしだ。
 陶嬪に羽依との繋がりを知られてしまうような不始末さえしなければ、陶嬪の死はおろか、羽依を追い詰め、揚樹の命を落とさせるようなことなど、なかったはずなのだ。
 否、以前の佳羅ならば人の死などに動揺すらしなかった。愛人に他の人間との情事を知られたとしても、しらを切り通すことは容易だった。
 ――わたしも、情に脆くなったものだな。
 佳羅は己を嘲った。昭妃・羽依と関わって、封印していた人間らしい情が呼び起こされ佳羅は戸惑った。事を為すためには、心や情といった類いのものは邪魔なだけである。佳羅は自嘲の笑みを浮かべる。
 揚樹の棺が土の中に埋められていく光景に、侍女達が嗚咽を洩らす。棺の上に隙間無く土が被せられ、見えなくなった。
 人とは、何とはかないものか――佳羅は深い感慨を籠めて様子を眺めていた。今まで、どれほどの命が己の命を横切っていったのか……何度となく亡くした命の跡を追おうと思ったことか。だが、佳羅はたったひとつの目的のためにそのたび思い止まった。
 葬儀が一通り終わり、後宮に戻るため、参列していた人々が三々五々散っていく中、佳羅や瑞鶯殿の使人も主人を促した。
 そのとき、羽依は初めて反応を示した。その場を離れたくないと、首を横に振ったのだ。
「羽依様……お悲しみの程はわたくしたちにも解りますが、致し方ございません。はよう、中へ……」
 侍女のひとりがそう言ったときである。
 羽依の躰が大きく傾いで、俯せに昏倒してしまったのである。
「……羽依ッ」
 佳羅は女の仕草も忘れて羽依を抱き起こす。羽依の顔は見ただけで解るほどに蒼白になっていた。
「早くっ、薬師を瑞鶯殿にッ!」
 うしろで狼狽えている侍女達を叱り付け、佳羅は羽依の躰を抱え上げる。
 急いで羽依を瑞鶯殿の中に運びこんだ頃にはすでに薬師は到着し、薬箱や乳鉢を卓上に並べていた。手早く羽依を診断した薬師の診たてでは、心労による貧血のようであった。さらに、食事もまともに採れていないので、栄養失調の兆しもあるようだった。薬師の調合した薬を飲ませ、昼夜となく侍女達が看病にあたる。とくに、佳羅は休むこともせずに枕元に侍していた。
「佳羅殿……お疲れでしょう、代わりますわ」
 心配した侍女が度々そう尋ねてきたが、佳羅は微笑んだだけで申し出を断る。今は、羽依の傍に付いていてやりたかった。
 薬師によれば、二、三日程療養すれば回復する見込みだということであった。が、朝を迎えた頃合に羽依は高熱を発し、状況はより悪化した。


 羽依の病を聞きつけた旺皇后が見舞いに駆け付けて来、佳羅は侍女達とともに丁重に出迎えた。羽依の寝室に通された旺皇后は寝台の側に膝をつき、羽依の手を取る。
「お可哀相な羽依様――」
 旺皇后はそう呟き、涙を流す。寝台の後方に控えている佳羅も沈痛な面持ちで羽依を見守っていた。旺皇后は羽依の額を撫でたり、手を擦ったりしながら、しばらく羽依の側を離れなかった。
 半時ほどして、落ち着いた旺皇后は、隣室にしつらえられた席に着き、差し出された緑茶を啜った。
「揚樹殿が亡くなった夜のことを、陛下はあまり話してくださらないのですが……佳羅殿、あなたが羽依様を殺めようとなさった陛下を止めてくれたのですね?」
 泣きはらして擦れた声で、皇后は佳羅に問いただす。佳羅は無言で頷く。皇后はため息を吐き、しみじみと語った。
「あのとき羽依様を殺めておられたら、きっと陛下はとても後悔なさったでしょう。
 今でも、何故あのときあれ程狂暴な気持ちになったのか解らぬとおっしゃられるのですよ」
 あくまで皇帝を弁護しようとする皇后の口調に、佳羅は反発する。
「あとから悔やんでも、揚樹殿は帰ってきませぬ」
 佳羅のやりきれぬ顔を見て、皇后は淋しそうに微笑む。
「わたくしは……いつか、このような事態が起こるような気がしていたのですよ。今まで羽依様が自らお命を断とうとなさらなかったのが不思議なくらいで……。半分はわたくしが播いた種でもあるのですが」
「そうですね。あなた様が羽依様を皇帝に引き渡さねば、羽依様がこれほど不幸になることはなかったのですから」
 言葉の端々から出ている棘に、佳羅は気付いていない。そんな佳羅に、皇后は優しく笑んだ。
「何が、可笑しいのです?」
 気に障って佳羅が詰問しても、なお皇后の笑みは崩れない。
「いえ……わたくしの考えていた通りで。
 あなたと羽依様が愛し合っているのでは、と……」
 この言葉に、佳羅は心底気分を害した。素早く席から立ち上がり、皇后を鋭い目で睨み付ける。
「そのような戯言が言いたいがために、わざわざ病室を尋ねられたのですか」
 佳羅の怒りの面相に、やっと皇后は真剣な面になった。
「戯言ではありませんよ。
 現に、わたくしが陛下を庇う言葉で、あなたは苛立ったではありませんか。羽依様を見つめる瞳も、まるで男の方が恋人を見ているような眼差しでしたもの」
 佳羅の険しい色が弛み、顔に複雑さが掃かれる。
 何も言えずにいる佳羅に、皇后は慈しむような笑顔を見せた。
「前にも言いましたけれど、愛し合っているのなら、持っている性など関係ないとわたくしは思います。お互いに愛し合っているのなら、迷う事無く結ばれるべきでしょう。
 既に、あなたと羽依様は結ばれているのでしょう?」
 言葉で迫ってくる皇后に、佳羅は二の句が告げられなくなる。
 皇后は返答がないのを肯定と取った。
「よかった……羽依様に拠り所が出来て。
 愛する人が側に居るのと居ないのでは、不幸でも度合いが違います」
「ですが、羽依様はあのように病に蝕まれていらっしゃるではありませんか」
 やっとのことで佳羅が言い返すと、流石に皇后も表情を曇らせる。
「羽依様の病は気欝……心の病でしょう。
 今まで負ってきた傷が多すぎて、その上、大事な揚樹殿まで亡くされて……。これ程の傷では、立直るのも難しいでしょうね……」
 俯いて、皇后は細々と呟く。と、不意に顔を上げて佳羅をじっと見て、頷いた。
「佳羅殿、あなたなら救うことが出来るのではなくて?」
 唐突に皇后は佳羅に言う。
「何をおっしゃるのですか」
 合点がいかず、佳羅は意を糾した。
「あなたの愛で羽依様を包んでさしあげれば、傷が消えずとも少しは癒されるでしょう」
「お言葉ですが――あなた様のおっしゃっていることは、矛盾が多すぎます。
 あなた様が皇帝陛下を思いやって羽依様をお勧めし、羽依様が今の不幸に陥られたのでしょう。そのあなた様が羽依様を救うために皇帝陛下を裏切って羽依様の不貞を認めるとおっしゃるのですか」
 佳羅の堪忍袋の尾は切れかかっていた。もう少し皇后の意見を聞いていれば、男声で怒鳴りだしかねなかった。それに自ら気付いて、佳羅は皇后を諫めたのである。
「同性であれ、通じてしまえば不貞は不貞――そうでございましょう、皇后様」
「……そうですわね」
 皇后も、己の意見の不一致に感付き、気勢を無くす。
「羽依様を不幸に落としたのはわたくし――けれど、羽依様を妹のように愛しているのもわたくし……。おかしいけれど、わたくしは羽依様も幸福にしてさしあげたい。それは、偽らざる本音ですわ」
 語っているうちに、皇后の声はまたも涙に擦れてくる。佳羅は重い吐息を洩らした。
「片方が幸せになれば、片方が不幸になる。それをあなた様は身を以て知っているはずです。違いますか?」
「……そうです。でも、このままでは辛くて……」
 涙で息を詰まらせる皇后にやりきれなくなり、佳羅は譲歩の言葉を投げる。
「わたくしも、羽依様が不幸になるのを望んでいるわけではありません。
 確かに、同じ性を持つ者ではありますが、わたくしと羽依様は深い仲にあります」
 その言葉に皇后は顔を上げ、射すような佳羅の眼光とぶつかる。
「わたくしがこのことを告白したのですから、あなた様は絶対に皇帝陛下に真実を洩らしてはなりません。もし、この契約を破れば、わたくしはあなた様に復讐することでしょう……いいですね?」
 凄味をきかせた声音である。暫時、皇后の心は凍り付いた。
 魂まで凍り付いてしまいそうな声……皇后はそう感じたが、生来の矜持でもって怯えを隠す。
「わかりました。約したからには、あなたも羽依様を救うのですよ。破れば、わたくしも皇后の権限でもってあなたを制裁します」
 皇后は威厳をもって、佳羅に負けまいと燐とした姿勢で返した。
 思わぬ相手から鼻先に刃を突き付けられ、佳羅は息を飲む。しかし、狼狽した様子を見せず、佳羅は不敵な笑みを浮かべた。
 ――まだ、正体はばれていない。
 皇后は佳羅と羽依の関係を悟ったが、同性同志の交わりだと思い込んでいる。佳羅が男だとは考えてもいないようだ。まだ、佳羅の方に利がある。
 再度、寝台に横たわる羽依の様子を見届けて、皇后は配下の侍女達とともに後宮に帰っていった。佳羅は部屋の戸口に出て一行を見送った。
 皇后の入り乱れた心の内を覗き見て、佳羅は暗澹たる思いに駆られた。


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 ふたつの夜を越した頃、羽依の熱は下がった。が、目覚めることはなく、暗い眠りに埋もれたまま、瑞鴬殿の召使達に不安を与えた。
「昭妃様の病は重い気鬱で……一応、薬も調合しておきますが、やはり、昭妃様のお心が晴れないと――」
 苦り切った薬師は言葉を濁す。
 以来、羽依は昏睡したまま覚醒する気配はない。眠り込む羽依を置き去りにしたまま、時間だけが刻々と過ぎていく。
 その間、佳羅は一時も羽依の側を離れることはなかった。自ら羽依に薬を飲ませたり、寝衣を取り替えたりした。時折、目覚めを促すために羽依の手を握ったり、人目がない夜更けに、かすかに開いた朱唇を吸ったりした。それでも、まったく反応がなく、佳羅は己の無力さを噛み締める。
 羽依の寝室に、宮廷の要人から見舞いの品々がひっきりなしに届いた。香や衣類、化粧品など部屋中に山積みされた。そのなかには、陶衡や李允の名もあった。
 羽依が寝付いてから、旺皇后は頻繁に見舞いに訪れた。丁度花開き始めた牡丹や蘇芳の花枝、めずらしい菓子などを携えてくる。
 皇后は佳羅と目を合わすと、必ずといっていいほど意味ありげな目付きで佳羅に訴えてくる。佳羅も、視線を弛ませなかった。
 一週間が過ぎた頃になると、次第に佳羅の心も沈みがちになった。己の心の変化に、佳羅は戸惑い、苛立った。
 ――おまえは一体、何をやっている。
 羽依に心を縛りつけられたまま、身動きが取れない。ただ、眠りの淵に沈む女を思い、暗い気持ちを引きずるのみだ。佳羅は唇を噛んだ。
 そんな時である。
 今や、後宮で一際輝く女人である恵夫人が羽依の見舞いと称して訪ねてきたのだ。昭妃を日頃から誹って止まない恵夫人であるので、瑞鶯殿の侍女達は気色ばんだ。
「まあ、昭妃様のお病はまだ治らなくて? これは、瑞鶯殿の皆様方も心を痛めているのでしょうね」
 何分、人々の内面も錯綜しているので、少しばかりの誹謗でも心象を毛羽立たせた。
 恵夫人は、懐妊したのちも皇帝・牽櫂の訪れが激しいので、有頂天になっている。
「一体、何の御用ですか? 御覧の通り、羽依様はずっと眠りについておられるので、応対するのはわたくしたちになりますが、それでも何ぞ御用がおありなのですか」
 平静さを装い、佳羅が告げると、以前にもまして派手に化粧された顔が笑みに歪んだ。
「いえね、陛下の御子を身籠ったわたくしとは違い、いつまでもひ弱に眠り続ける昭妃様のお顔を、一度なりと見ておきたかったのですわ」
 恵夫人のその言葉に、侍女達はいっせいに騒ぎ出す。佳羅も、眼差しを鋭くした。
「恵夫人様――余りに軽々と話されますと、皆の心を逆撫でします。
 そうなれば、わたくしも皆を制止しかねます」
「まあ――佳羅殿も言われること。相手が皇帝陛下の子を宿したわたくしだというのに」
「ここにいるすべての者は羽依様に心を寄せる者です。羽依様をお護りするためならば、いかなることでもしましょう。
 第一、それほどに言われるのは御自身に病ましいところが一点もないと確信してのことなのでしょうか?」
 聞き咎めて、恵夫人の眉根がひくり、と動く。
「それはどういう意味かしら? 佳羅殿」
「ここに居るもののほとんどがそれを知らずとも、市井に埋もれていた頃のあなた様を知るわたくしは誤魔化せませんよ」
 柳眉を逆立て、恵夫人は佳羅に詰め寄る。
「このわたくしを侮辱するつもり!?」
 気色ばむ恵夫人を冷笑し、佳羅は告げた。
「侮辱とは……。もとはといえば、あなた様はわたくしと同じ場所の空気を吸っていた人間ではありませんか。それが、皇帝陛下の種を宿したからといって、さも貴種の女のようにふるまうので違和感を感じただけですわ。第一、皇帝とはいえあの男は一人の女にうつつをぬかして、国を凋落使用としているではありませんか。そんな男の手がついたからといって得意になるとは、片腹痛い」
 佳羅は口許に嘲笑を浮かべ、恵夫人を凝視する。
「所詮、あなた様は羽依様を思うようにできない皇帝の慰みものですよ」
「おだまりッ! これ以上言うと許さないよッ!」
 恵夫人は本性を剥き出しにして怒鳴る。が、佳羅はびくともしない。悔しがって恵夫人は歯ぎしりしたが、不意に何かに思い当たり、にやり、と不遜な笑みを浮かべる。
「あんた……あたしのことを甘く見ているようだけれど、そう上手くはいかないよ。
 あたしだってあんたの弱味を握っているんだから」
 ぴくり、と佳羅は躯を硬直させ、身構える。
「どういうことです」
「あたしが市井にいたころ、はっきりいってあんたは一番の邪魔者だったのさ。あんたはあたしと同じぐらいに名を張る床上手だったからね。だから、色々と調べたのさ」
 あたりに緊張が走る。佳羅の雰囲気が硬質に変わったからだ。恵夫人はそれに気付かず言葉を続ける。
「たしか、宰相の李允様に仕えている下男だったかしら。
 あんたが男と女の区別なく色々な人間と躯を交わしているって。それも、時には男女数人入り乱れての凄まじい有り様だって聞いたわ。中には李允様も混じっていたりして……。
 あんた、今までどれだけの人間と寝たの? あたしよりも多いんじゃない?」
 明らかに佳羅を嬲るために恵夫人は語る。その顔には酷薄な微笑みが貼り付いていた。
「あんた、ちょっとおかしいんじゃない? 女が女と寝るなんて絶対に変よ。
 それに、あんたもしかして昭妃様ともそういう仲じゃないの? あんたたちって傍から見ていて怪しいもの。今だって血相を変えて昭妃様を庇ったりして。生憎だけど、あたしその女大っ嫌いなの。苛めるのやめるつもりないわよ。
 自分だけが不幸を背負ってますっていうような顔と態度がむかつくのよ。たかが親を殺されただけでいつまでもいじけてるなんてはた迷惑もいいところよ。あたしなんて、親に捨てられたんだから。小さな頃から恵まれて育って、今だって男に浴びるほど愛されているんだから贅沢すぎるわ」
 いい気分で恵夫人は捲し立てた。
「――気が済みましたか」
 ひやり、と氷の上を這うような声の低さで佳羅が告げる。その鋭利な眼光に恵夫人は竦み上がった。
「わたくしが誰と、何をしようとあなたには関係がないはず。
 あなたにとやかく言われる筋合いはありません」
 穏やかで剣呑な佳羅の口調に怯えながらも、恵夫人は負けを認めなかった。
「……あんたと昭妃様の関係を陛下に告げるわ。
 陛下の昭妃様に対する独占欲は強いもの。あんた、ただじゃ済まないわよ」
「これはこれは……あなたは陛下の羽依様への愛を認めるのですか。なかなかみじめなことですね」
「あたしにとって、愛なんて一筋の価値もないわ。大事なのは身分よ、立場よ。
 だから、あたしにとってあんたも昭妃様も邪魔なの。
 あたしは陛下の皇子を生んで、この国母になるの。国母になって、この国一番の女になるのよ。誰も、あたしの言うことを阻むものはいなくなるわ」
 恵夫人の目がぎらぎらと輝く。まだ見えもしない夢に酔っているようだった。
「夢を見るのは勝手だが……このわたしの本懐を邪魔するものは許さぬ」
 そう言うと、佳羅は右手を恵夫人に突き出した。
 恵夫人は咄嗟に身構えるが、いち早く佳羅の手が夫人の肩を掴み上げる。ぎりぎりと佳羅の指が恵夫人の肉付きのよい肩にめり込む。
「わたしは本懐を遂げるためならば、鬼にもなれる」
 小声で、恵夫人にだけ解るように囁く。
 佳羅の鋭い眼差しと肩を掴み上げる指先の力の強さに、恵夫人は呻き声をあげた。
「い、痛い、放して……っ!」
 恵夫人の悲鳴に微笑んで佳羅は突き放した。
「余計なことは口になさいませんよう」
 にっこりと佳羅はそう告げる。
 肩を押さえて唇を噛み締める恵夫人は蒼白だった。が、ぎりぎりのところで踏み止まって、余裕のある態を取り繕う。
「いいわ、勝負はこれからよ。
 四日後の宵にあたしの主催で宴を催す、今日はそれを言いにきたのよ。
 その席であたしの舞姫を披露するわ」
「あなたの舞姫?」
 表情を変えた佳羅に、恵夫人は笑みを浮かべる。
「あたしが見つけた舞の手練で腕はあんたと同じか上よ。
 そこで、あんたとあたしの舞姫を舞比べさせるわ」
「面白そうな趣向ですね」
 眼に強い光をたたえ、佳羅は微笑する。
 ふふん、と恵夫人は鼻を鳴らす。
「暢気なもんね。
 もしあんたが負ければ、昭妃様と離れることになるのに」
「……どういうことです」
 佳羅の表情が消える。
 鼻をあかしたように、恵夫人は傲然と佳羅を眺める。
「もし、あたしの舞姫のほうが技が上なら、その舞姫とあんたを交換するってことになってるの。
 すでに陛下と話し合い済みよ。陛下はいたくあんたに腹立ちを感じておられるのよ。あんたがあの夜止めに入らなければ、昭妃様を我がものとできたはずだと」
 少しばかり優位な立場に立って、恵夫人の気色が戻ってきた。
「あたしが何かをしなくても、きっとあんた達は引き裂かれるわ。
 あたしにその力がなくとも、皇帝陛下にはあるはずよ」
「わたくしと羽依様を引き離すつもりですか。
 羽依様を孤立させ、より一層苦しめるつもりですか」
 佳羅の言葉に、恵夫人の笑顔が一際輝く。
「そうなること程嬉しいことはないわね。あの女が苦しむ顔をあたしはもっと見たいわ。
あんただって痛めつけることができるわけだし……一石二鳥よ」
 恵夫人はくすり、と笑う。
「せいぜい、あたしの舞姫に負けないように練習に励むことね」
 禍々しい高笑いを残して去った恵夫人に侍女達が不安の色を隠せないなか、佳羅は針のような眼光で虚空を睨み付けていた。
 ――どちらにしろ、もう限界だ。
 旺皇后と、恵夫人にまで気取られたのだから、他の者に知れ渡るのも時間の問題である。佳羅には有余がなかった。


 夜が更け、侍女達が下がっていったのを見届けてから、佳羅は羽依の枕元に腰をおろした。
 現し世から目を背け、昏々と眠り続ける羽依の面は、安らぎに満ちている。現世を拒絶しなければ、羽依は救われないのだろうか。
 佳羅は羽依の白い額を撫で、語りかけた。
「……死ねば、おまえは救われるのか?」
 応えはなく、規則正しい呼吸音だけが闇のなかでする。
「死んでしまえば、わたしとおまえの相克も終わってしまうのだろうか?
 おまえと紡いだ夜の記憶も消えてしまうのだろうか。
 それしか、救われる方法がないのか」
 佳羅の声に、深い哀しみが籠る。
 佳羅は昭妃・羽依と皇帝・牽櫂を殺めるために今まで生きてきた。そのために何もかも捨ててきた。 が、今の佳羅はその本懐しか胸の内にあるわけではない。たしかに、昭妃・羽依を男として求めている。その羽依が死だけを望んでいるのだ。ならば、己が羽依に死を与えてやればよいのではないか。羽依を殺すことによって、本懐を遂げることができる。佳羅にとって、望むべくもなかった。
「……わたしが、おまえを殺してやろうか?」
 密やかに、佳羅は羽依の耳もとに囁き、羽依の手を握りしめる。
 その時、握りしめた羽依の手がぴくり、と揺れ、呼吸が乱れた。
 佳羅が眼を見開いて瞠視した先に、羽依の涙があった。涙が閉じられた瞳からひと雫、ふた雫こぼれ、蠢いていた瞼がゆっくりと開いた。
「羽依――?」
 驚愕し、佳羅は羽依の面を覗き込む。が、羽依が目を開いていたのは束の間のことで、やがて静かに瞼を閉じ、眠りに落ちていった。
 涙の痕が残る羽依の頬を見つめ、佳羅は眉を寄せた。
 佳羅が死を口にしたことによって、羽依は一瞬だけ覚醒した。それほどに、羽依は死を求めているのだ。佳羅は握りしめた羽依の手を己の額につけ、強く目を瞑った。

 あの日の羽依の覚醒は、しかしながら羽依を徐々に目覚めへと導いていった。あくる日にも羽依は何度か侍女達の目の前で目覚め、眠った。それを幾度かくり返すうちに、羽依の眠りは浅くなり、目を開ける回数も頻繁になった。
 佳羅はそれが辛かった。羽依の確実なる覚醒の足取りが、佳羅に死を促しているように見えた。
 暗い心持ちで、佳羅は恵夫人の宴の席での舞の練習をしていた。
「佳羅殿、李允様から贈り物が届きましたわ」
 朋輩の侍女が大きな木箱を担いで、広間で舞う佳羅のもとにやってきた。
「わたくしにですか?」
「ええ、きっと宴の席での装いか何かでしょう。さすがに、情報通ですわね」
 宴の日取りは、二日後の夕刻となっていた。皇帝から耳にしたのだろうが、佳羅には李允の目論みが理解できた。
「李允様も応援して下さっているのですもの。
 舞上手の佳羅殿ならば、恵夫人様の舞姫には負けませんわね」
 確信もって侍女が言い切る。佳羅は黙って微笑んだ。
 侍女が広間から退出したのを見計らって、佳羅は箱の蓋を開ける。
 中には黒綸子の上衣に紅の単衣、二藍の袴が入っていた。他にも、書簡が一通納められていた。
 佳羅は書簡に目を通す。
『ことを為した暁には、我が望みのものを我がもとに引き渡すよう』
 佳羅は眦を険しくし、うるさそうに紙切れを払う。
 李允が佳羅を女と偽って後宮に潜入させたのは、李允自身の欲があってのことだった。佳羅の本懐を遂げさせ、あわよくば望みのものを手に入れるつもりなのだ。佳羅は、もとから李允の望みを叶えるつもりはない。皇帝の信頼を得ている李允ならば、容易く己を後宮に入れることができるという算段があって利用したのみだ。
 佳羅は懐に手を入れ、鉄の板を取り出した。
 やっと、ここまできた――。佳羅は今は亡き人を面影を思い浮かべ、心の中で呟いた。


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 宴の宵、後宮の大広間には華燭が焚かれ、きらぎらしく装いを凝らされていた。
 朱色の筵が床一杯に敷かれ、豪勢な酒肴が所狭しと並べられた。
 その中に、一際美しく着飾った羽依がいた。表情のない面に美麗な化粧を施され、旺皇后に導かれて席に着いている。衣装も贅を凝らした錦を着込んでいた。鮮桃色の綾織の単衣に紅の羅衣、萌黄の下裙という華やかな彩りである。羽依の病みやつれた姿を衆目に晒すことを気にかけた旺皇后の配慮である。旺皇后の思惑は的を得て、人々は改めて羽依の美しさに見蕩れた。
 皇帝・牽櫂は羽依の美麗さに見愡れながらも、一度は羽依を殺そうとした後ろめたさから目を反らす。その有り様に旺皇后は嘆息し、恵夫人は邪な笑みを浮かべた。
「陛下――わたくしのためにこのような豪奢な宴を催していただき、とても嬉しく存じますわ」
 明らかな媚びを滲ませ、恵夫人は牽櫂ににじり寄った。
 牽櫂は興味が無さそうに恵夫人を押しやる。
「羽依様、今宵は佳羅殿が舞われるそうですわ。佳羅殿が舞われたのを見たのは、初めての宴の宵以来ですもの」
 旺皇后の言葉に、羽依の躯が揺れる。瞳に生気が戻り、頬が桃色に染まった。
 羽依の変化を眺めていた牽櫂は鼻を鳴らす。燐佳羅の名を耳にしただけで心を取り戻す羽依が、気にくわなかった。
「たしかに燐佳羅は舞うが、恵夫人の舞姫の舞が優れば、燐佳羅は召し上げられることになるのだぞ」
 無神経な牽櫂の言葉に、皇后は眉を潜めて牽櫂を見る。
「陛下、佳羅殿は揚樹殿亡きあと、たったひとりの羽依様の拠り所ですわ。それを引き裂くなど、あまりにも無慈悲です」
 詰る皇后を牽櫂は睨み付ける。その横で、好物に箸をつける子供達がいる。
「羽依の拠り所は、夫である俺だけで十分だ。他の人間なぞ、いらぬ!」
 堅い語調で皇后に怒鳴り付けた。恵夫人も、皇后を忌々しそうにねめつける。
 そういった会話が交わされるが、羽依は無表情のままだ。喧噪のなかで伴奏に使われる楽器の音が広間に響き渡る。人々の言葉は楽に吸い込まれた。
 初めに舞の足を踏んだのは、見知らぬ舞姫だった。たおやかな肢体をゆらゆらと揺らせ、大振りに舞う。手に持つ鈴輪の音が軽快さを添え、豊満な躯に媚態を含ませ皇帝の前に寄ってきた。
 華麗な舞姫である。が、舞の水準は普通並みで、技の足りなさを躯の大きさで補っているふしがあった。大まかで、繊細さに欠ける舞だった。
 恐る恐る頭を垂れる舞姫を、興味がなさそうに追い払い、詫びる恵夫人に冷たい目を向けた。
 あたりには、気まずい空気が流れていた。
 それを払拭したのは、突如として鋭い調子となった楽であった。
 拍子が小刻みに打たれ、鐘の音が鋭利さを添える。
「あ……」
 羽依が、声を漏らす。
 黒真珠の瞳が濡れたような輝きを宿し、桜色の紅がひかれた唇が誘うように開かれた。
 しゃん、という金属音とともに、黒いものが広間の隅から跳躍した。空で細身の躯を一捻りして、佳羅は床に着地した。地に足をつけた瞬間、双の手に持つ剣を打鳴らし、怜悧な姿態を形作った。
 始めて見た舞よりも焔を思わせる剣舞である。身に龍の刺繍がされた黒の深衣を纏い、その下に、紅の単衣を着込んでいる。裳裾ではなく袴をつけ、長い髪を腰の辺りで束ねている。鮮紅色の牡丹をかんざしの代わりに挿しただけという出立ちはまるで、意識して男の身形をしているかのようだ。
 舞における佳羅の太刀裁きは見事だった。細身で長身の剣であるが、軽々と薙ぎ払い、その動きは光の軌跡として残るのみだった。素早く、流麗だった。剣の柄には朱色の糸で編まれた房がつき、佳羅が飛び散らせる汗とともに揺れ動く。ひとつひとつの所作が、奇跡だった。
 羽依は次第に佳羅の舞に引き込まれていった。乾燥していた心には熱情が戻り、黒耀石の瞳に綺羅とした光が籠る。吐息が小刻みに吐かれ、頬が薄紅色に上気する。
 皇帝・牽櫂が羽依の変化に気付いた瞬間、耳障りな音を起てて楽が止んだ。はっと牽櫂が面を上げると、居並ぶ楽士達がこぞって筵の上に突っ伏している。楽士達だけではなく、宴に招かれていた妃嬪達すべてが倒れ込み、深い眠りに落ちている。異変が無いのは、皇帝と皇后、恵夫人、そして羽依であった。
「な――!」
 牽櫂が驚愕し立ち上がった鼻先を、双剣の鋭い切っ先がすれすれに過った。剣は牽櫂の額髪を幾房か床に落とした。
 恵夫人が頓狂な悲鳴をあげる。
 佳羅は不自然な程静かに息を吸い込み、怜悧な面ざしで皇帝を凝視した。
「そ、そなた、何のつもりだッ!」
 牽櫂の怒号に不敵に微笑み、佳羅は口火を切った。
「この広間にいるすべての者に眠り薬を飲ませたのはわたしだ。これで、誰もわたしの邪魔をすることはできぬ」
「き、貴様――!」
 憤怒の相で睨む牽櫂に、佳羅は鋭い気迫でもって返し、虚飾を捨てた高らかな声で告げた。
「わたしはおまえに滅ぼされた南遼の第二王子・暉玲琳だ! 今、おまえに復讐する!」
 女の姿をかなぐり捨てた王子、暉玲琳が皇帝・牽櫂と昭妃・羽依の目の前に居た。
 牽櫂は顔色を無くし、言葉も無いようだ。
 羽依は目を見開いた。佳羅が、託宣によって定められ、嫁ぐ前に死んだはずの夫、暉玲琳だったのだ。死んだはずの南遼の王子が突然に現れ、皇帝・牽櫂と己に復讐しようとしている。
 では、佳羅が、否、玲琳王子が己を抱いたのは復讐のためだったのか――己の心と躯を弄び、ぼろぼろにして見事に復讐を遂げたのか。悲しみに沈む己を眺めて、密かに嘲笑っていたのか……。羽依は初めて、玲琳王子の意図を知った。
「佳羅……あなたが、玲琳王子だったのね……」
 羽依はそう呟き、涙を流した。
 玲琳は羽依の泣き顔を目の当たりにして顔を反らした。
「ふ……おまえが南遼の王子、暉玲琳だと? 南遼の王子は七年前のあの日、たしかに俺が殺したのだ。おまえは南遼の王子を語る偽物だろう。それに、おまえは女のはずだ」
 冷や汗を浮かべる牽櫂の言葉に玲琳は嘲笑し、単衣の袷を掴んで前を開いた。そこには男としかいいようのない平らかな胸があった。玲琳は胸の奥から一枚の鉄の札を取り出す。牽櫂はあっと驚嘆の声を漏らす。その札は、七年前に己がこの手で殺した玲琳王子の胸に飾られてあったものと同じものだ。
「この札に見覚えが無いとは言わせぬぞ」
 驚愕しながらも、牽櫂はぎりぎりと唇を噛む。
「李允と、ぐるだったのか……」
 悔し気な牽櫂の言質に目を細めると、玲琳は素早く飛び上がり、あまりの驚きに腰を抜かす恵夫人を切り下げ、返す刃で皇后の二人の子供を斬る。三人はしばらく痙攣していたが、やがてぱたりと動かなくなった。
 絶叫する旺皇后。
 無表情で剣に付いた血を払い、玲琳は凍てついた眼を皇帝に充てる。
「これで、北宇の血筋は絶えた。あとは、皇帝であるおまえだけだ」
「やめてッ!」
 羽依が、叫び声を上げる。悲痛な声に瞬時、玲琳は視線を羽依に向けた。
「あなたが殺したいのは、わたくしと陛下のはずでしょう!
 罪のない人を殺さないでっ!」
「羽依……!」
 玲琳の声質が、変わる。
「罪を負うのは、元兇であるわたくしだけでいいはずよ。
 自らの罪を知らずにあなたに恋い焦がれたわたくしの愚かな命でよければ、いくらでも持っていけばいいわ」
 羽依は自嘲を込めて、涙ながらに玲琳に掻き口説く。
「羽依、おまえは――!」
 新たな驚きに捕われ、牽櫂は女を見た。羽依は微笑み、牽櫂に告げる。
「わたくしは……この人が誰かも知らずに、愛していたのです。
 まさか、この人がわたくしのせいで死んだはずの人だなんて……。
 わたくしはこの人を忘れたいがために、あなた様を利用していたのです」
 嫋々と呟く羽依の目に、血走る牽櫂の双眸が映る。羽依の面は、今まで牽櫂が見てきたどの羽依よりも美しく、艶やかだった。その表情を己ではない、目の前の男がさせているのだと牽櫂は悟った。
「おまえは、その男を、愛しているのかッ!」
 牽櫂の叫びに羽依は頷き、呆然と佇む玲琳を見つめた。
「わたくしを殺すことであなたの心の傷が癒されるというのならば、わたくしの命など、惜しくはないわ。あなたはわたくしに幸せな夢を見させてくれた、それだけで十分よ」
「羽依、わたしは……ッ!」
 苦し気に歪められた、玲琳の面ざしを見て、牽櫂の目が凶暴な光を放つ。
 玲琳だけに気を取られている羽依の躯を小脇に抱え込むと、牽櫂は立ち竦んでいる玲琳の脇腹めがけて刃を突き出す。玲琳は寸での所で気配を察し身を躱すが、刃先は腕を掠った。
 血が滲む玲琳の腕に、羽依は傍らの牽櫂を振り返る。
「くくっ……、これでおまえは手出しできぬ。羽依に惚れているおまえはッ!」
 勝ち誇った牽櫂の叫びに、羽依は血相を変えて玲琳を見た。傷を負った腕を庇い、玲琳は蒼白な面を引きつらせていた。己を裏切った羽依と、羽依を奪った玲琳に対する牽櫂の復讐であった。
「俺を殺そうとすれば、羽依を道連れにすることになる。羽依に惚れているおまえはそれができまい!
 今更、亡霊であるおまえに羽依を渡しはせぬ! 羽依は俺のものだッ!」
 牽櫂の高笑いに、玲琳は無念そうに唸った。
 ――このままでは、佳羅は殺されてしまう!
 羽依は血の気が引いた。この状況は玲琳にとって、明らかに不利であった。
 牽櫂の腕の中から身を乗り出すと、必死の形相で羽依は叫んだ。
「佳羅、躊躇っては駄目! 早くわたくしを殺して!
 わたくしはあなたに殺されるのなら本望よッ、あなたもそれが解っているのでしょう!?
 あなたを失って、また陛下に抱かれる生活になど戻りたくはないのよ!
 これ以上、わたくしに地獄を味あわせないでッ!」 
 羽依は愛する玲琳の死だけは見たくはなかった。玲琳を殺してまで生きていたくはなかった。玲琳が死ぬのなら、己の方が死にたかった。
 羽依の決死の叫びが、玲琳の胸に突き刺さる。真直ぐに居抜き、玲琳の心を抉った。
 玲琳は大きく息を吐くと、剣を真一文字に構えた。
「お、おまえは……っ!」
 牽櫂は息を飲む。
 煌めく剣に、羽依は目を閉じた。
 やっと、死ねる……。それも、愛する人の手で。羽依にとって、これほど幸せなことはなかった。己が死んで、愛する人を助けることができるのだから、まさに至福であった。
 長い、沈黙があった。玲琳の構える刃のかたかたと鳴る音だけ響く。
 あまりの長さに羽依は不安になり、うっすらと瞼を開ける。
「………っ!」
 その光景に、羽依は凝結する。
 剣を構えたまま振り下ろすことができず、玲琳が涙を流している。振り上げた手から力が抜け、剣は音を起てて床に落下した。
「佳…羅……」
 羽依は信じられなかった。玲琳が己を殺すことができず、涙を流している。
「わたしは、おまえを殺すことが、できぬ……」
 静かに涙を流して、玲琳は呟いた。
 羽依の青ざめた顔に、牽櫂は声を起てて笑った。牽櫂は勝機に立った。
「は、ははは……っ、これは傑作だ! 殺そうとした女に魂を吸い取られたかッ!」
 牽櫂の笑いが木霊すなか、羽依の脳裏は凍えていった。
 ――このままでは、佳羅は間違いなく殺されてしまう。それも、わたくしのせいで!
 それだけは、認めたくなかった。玲琳だけは殺したくなかった。
 ――わたくしが、なんとかしなければ……。
 それは、羽依自身にとっても予想にできない行動であった。ただ、玲琳を助けたいという想いだけが羽依の思考にあった。
 今にも玲琳を殺そうと身を乗り出した牽櫂の隙をつき、髪に挿したかんざしを引き抜くと、羽依は全身の重力をかんざしに掛けて牽櫂の懐に飛び込む。
 かんざしが牽櫂の肉にめり込み、突かれた心臓から鮮血が一気に吹き出して羽依の手を濡らした。牽櫂の血は羽依の衣を真っ赤に染め上げる。
「羽…依……っ」
 最期の言葉を残し、牽櫂の重い体躯が羽依の躯に覆い被さった。躯にかかった重みに羽依は我に返る。
「え……?」
 か細い声を出し、羽依は辺りを見回す。
 玲琳が、瞠目して己を見つめていた。旺皇后も手で口元を覆って息を止めていた。
 ただならぬ様子に羽依は覆い被さるものを見た。
 それは、すでにこと切れた皇帝・牽櫂の骸であった。牽櫂の心臓に、己が飾っていたかんざしが深々と突き刺さっている。
「わたくしが…わたくしが、やった……」
 羽依は震える手を顔にやる。両の手のひらは、牽櫂の血潮で塗れていた。生々しい臭いは、羽依の精神を侵す。
「き、きゃあぁぁぁぁ――ッ!」
 羽依の魂を切る悲鳴が、大広間に轟いた。


「羽依、羽依ッ!」
 牽櫂の骸と諸共に倒れこんだ羽依を抱き起こし、玲琳は蒼白な羽依の顔を覗き込んだ。血の気は失せているが、呼吸は正常なので、とりあえず玲琳は安堵した。
 玲琳は力ない羽依の躯を抱え上げて振り返ると、言葉を無くす。
 感情を殺した表情の旺皇后が、燈台をひとつひとつ倒し、簾や帷に引火させていた。布地に燃え移った火は燃え上がり、広間は一瞬の内に炎に包まれる。
「皇后……!」
 玲琳の声に、錯綜した皇后の瞳が揺らぐ。
「あなたがわたくしの子を殺したことは、到底許すことが出来ません。しかし、祖国を滅ぼされたあなたの無念も痛い程解ります。それに、あなたは羽依様を救うとわたくしに誓いました。その誓いは今でも生きているはずです。
 炎の勢いが強い内に、はよう城内からお逃げなさい。皆、炎に気を取られているはずです」
「しかし、あなたは……!」
 言い募る玲琳に、安らぎとも悲嘆ともとれる面持ちで皇后は返す。
「わたくしは陛下と、子供達とともにこのまま死にます。
 陛下と子供達がいない今、わたくしの生きる意味はありません」
 そう言うと皇后は牽櫂の骸に歩み寄る。ゆっくりと腰を下ろし、愛しそうに夫の躯を抱き締めた。
「この方にとって、羽依様に殺められること以上の幸福な死はありません。
 あなたも羽依様も柵から解き放たれて、自由に愛しあうことができるはず。これ以上よい結末はありません」
 皇后の頬に涙が伝い落ちた。雫のきらめきが皇后の笑みを美しく飾る。
 玲琳は黙って皇后を見た。
 夫の骸を抱く皇后は今まで以上に穏やかで、慈愛に満ちている。皇后にとっても、この結末は幸せであったのだろうか。
 無言で時を過ごす間にも、煙りが室内に充満してきた。玲琳は息苦しさを覚え辺りを見回す。己が眠らせた者は皆、動く気配はない。
 玲琳は再度皇后に視線を移し、静かに頭を下げた。それが、皇后に対する最期の礼であった。顔をあげると、玲琳は通路に向かって走り出し、振り返ることはなかった。
 皇后は己が助けた恋人達を目で見送った。これでよかったのだと思った。
 微笑んで、皇后は夫の亡骸を見入った。不思議と、夫の顔に痛みを感じられない。
「ようございましたわね、羽依様に殺していただけて――。もう、あなた様も苦しまずにすみますわ。
 わたくしも、すぐにあなた様の元に参りますから、受け入れて下さいませね……。
 初めて会った頃のように、わたくしを愛して下さいませね……」
 皇后の呟きは、炎の爆ぜる音の中に消えた。


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 気絶した羽依を抱えて北宇の宮城から脱出した玲琳は、都の郊外の農村に身を潜めた。
 喧噪少ない土地にも、都城の惨状が伝えられた。大広間からあがった火の手は一夜にして後宮を焼き尽くしたという。この火事で皇帝はおろか皇后、妃嬪達や皇帝の子供もすべて死んでしまったと、噂は風に乗って玲琳の耳に入ってきた。
 惨劇の夜から四日が過ぎたが、羽依は魘されたまま目覚めない。浅く暗い眠りに苛まれて囈言を漏らす羽依が、玲琳には傷ましかった。
 あの夜、牽櫂の策によって身動きが取れなくなってしまった己を助けるために、羽依は自ら牽櫂を手に掛けた。その傷が、羽依を蝕んでいるのだ。柔和で、繊細な質の羽依であるから耐えられないのであろう。
 ――わたしのせいで、羽依は背負わなくてもよい穢れを負ったのだ。
 玲琳は自責の念に駆られた。苦しみながら、ただひたすら羽依の目覚めを待った。

「いやああぁぁぁッ!」
 血塗れになって己に追い縋る牽櫂の姿に、羽依は悲鳴を上げ飛び起きる。
 が、目の前にいたのは己を案じて見守る玲琳だった。牽櫂は、夢だったのだ。
 辺りを見渡せば、そこが見覚えのない場所だと解る。こじんまりとした空間に木造の卓子や椅子、古びた瓶が無造作に置かれている。藁でつくった菰が壁に掛けられ、その横には鋤や鍬が立ててある。どうやら、農民の作業小屋のようであった。今、己が簡易式の寝台に横たわっているのも判った。
「あ…わたくし――」
「大丈夫か? かなり、魘されていたぞ」
 優しい鳶色の瞳が、羽依を覗き込む。玲琳は女の姿をしていない。長い髪をひとつに束ね、男の身形をしていた。
「佳羅…わたくし、一体……?」
 頭の中が錯乱して、羽依はうまく事態が飲み込めない。
「あの、宴の夜に……」
 呟いた瞬間、宴の夜の一部始終が脳裏に蘇ってきた。
「………ッ!」
 あまりの衝撃に、羽依は顔を覆って突っ伏する。震える羽依を玲琳は起こし、己の胸に抱き込んだ。 羽依は玲琳の腕に取り縋る。こうして、宮城の外に居るということは、己は玲琳に助けられたらしい。戦慄きながら羽依は尋ねる。
「あれから、どうなったの……?」
 玲琳は言葉に詰まった。躊躇する相手を感じ取り、羽依は促す。
「いいの、わたくしは知らなくてはいけないわ」
 羽依の真摯な目に観念し、玲琳は口を開いた。
「おまえが皇帝・牽櫂を殺めたあと、旺皇后が後宮に火を放ったのだ。
 旺皇后は皇帝や子供とともに、死んでいくと言って、わたし達を逃げ延びさせたのだ」
「皇后様が……」
 言って、羽依は黙り込む。
 羽依は玲琳を助けるために咄嗟に牽櫂を刺した。玲琳を助けるためにはそれしか方法がなかった。が、それによって旺皇后までも殺してしまったのだ。己のことを妹といって愛してくれた人を。
「そんな……皇后様までも……。わたくしのせいで……」
 羽依はただ、涙を流した。泣くことしかできなかった。慮外とはいえ、己が旺皇后を殺してしまったと言う事実が哀しかった。
「旺皇后は……自らのために、死んだのだ」
 玲琳の言葉に、羽依は面を上げる。
「死ぬことによって、皇帝を我がものにしようと――。旺皇后の目に、確かにその意思があった」
「死ぬことによって、陛下を……」
 呟き、羽依は旺皇后の温和なかんばせを思い浮かべた。
 自らの愛の形を語った皇后に、羽依は熱情を感じ取った。が、まさかここまで激しく、強いものだとは思いつきもしなかった。
 ――ああ、皇后様も、わたくしと同じだったのだわ。
 皇后だけではない。最期のとき、己の名を呼んだ牽櫂の声の温かさは、羽依による死を喜んでさえいた。それほどまでに、牽櫂は己を求めていたのだ。
 ――愛とは、これほどまでに哀しいものだったのだわ。
 己に関わってきた人々の愛の形が、羽依の心を打つ。哀しくもあり、激しく、真摯でもある。
 ――そして、わたくしも哀しい。
 愛する人のために、図らずも人を殺めた。己は、その事実を一縷も後悔してはいない。苦しみと哀しみがあるだけだ。
 ――もう、いい。これで、わたくしも死んでいける。
 その思いに、羽依は微笑んだ。何故、今更玲琳が己を助けたのか疑問であったが、羽依は口を開いた。
「わたくし……あなたを傷つけ、苦しめた身だというのに、あなたに恋をしていたなんて……。よくも、のうのうとあなたを愛しているなんて言えたものね」
 力ない笑みに、玲琳は羽依を見つめる。羽依は玲琳の腕から離れた。
「知らなかったではすまないわね。わたくしがあなたと婚約していたせいで、あなたの国が滅ぼされてしまったのだもの。わたくしはあなたに命をあげることでしか償うことができない――。だから」
「羽依……」
 まじまじと玲琳の瞳が己を覗き込んでくる。当惑の色を濃くして。
 羽依は黙って目を閉じた。
「もう、あなたの復讐を邪魔するものはいないはず。ここで、最後にわたくしの命を取って。そしてあなたの苦しみを終わらせて。それが、あなたを愛しているわたくしが最期にできることよ」
 万感の想いを込めて羽依は告げる。
 ここで己が死ねば、玲琳の苦しみ、哀しみを断つことができる。それが、羽依にとって何よりの喜びであった。
 羽依は玲琳に向かって白い頸を延べる。玲琳による死を待った。
 が、玲琳が動こうとする気配はまったくない。羽依は訝しみ、顔をあげ、近付いてくる玲琳の面に息を飲んだ。
 玲琳の唇が軽く羽依の唇に触れ、腕が硬直した羽依の躯に廻される。
「佳…羅……?」
 戸惑い、羽依は声を上げる。
「わたしは、おまえを愛している」
 穏やかに、想いを込めて告げられた言葉に、羽依は目を見開いた。
「で、も…わたくしは……」
「たしかに、あの夜わたしはおまえを殺そうとした。だが、わたしの心がそれを拒否したのだ。あのような、心が引きちぎられるような痛みをもう味わいたくない。
 だから、わたしは、もうおまえを殺めることができぬ」
 羽依は泣きながら頭を振る。
「駄目よッ! わたくしはあなたの仇なのよ! わたくしを愛してしまえば、あなたはもっと傷付いてしまうわ!」 
「それでも、この想いを止めることはできない。おまえを諦めて、殺してしまうことの方がより辛い。
 おまえを殺す至福より、おまえと煉獄に堕ちる方を選ぶ」
「佳羅……」
 それ以上、羽依は何も言えなかった。言う必要が無かった。言葉を探せなかった。すでに、羽依の心は甘美な愛の波に飲み込まれていた。
 再度、玲琳の唇が羽依の唇を覆う。今度は深く、甘い口づけだった。
 玲琳が躯のすべてで羽依を求めてくる。羽依は無心に応えていた。何も迷う必要は無かった。もともと、望んでも得られぬ愛と諦観していた。だから、玲琳にこれほど愛を見せ付けられ、激しく求められて胸が熱かった。燃え上がった恋情が、相手の激しさに歓喜していた。
 繋がった躯と心が溶け合い、ひとつに形作っていた。感覚と鼓動があるかなきかに揺れ、熱く迸り、ふたりは何度も声を放つ。互いの切ない想いが相手をより求め、深く結び付けていった。
「羽…依……っ!」
 玲琳の熱情に掠れた声に導かれ、羽依の中の熱情が弾ける。同時に、玲琳も解放した。
 余力でもって傍らに身を横たえた玲琳の胸に頬を寄せ、羽依は喜びの涙を滲ませる。
「佳羅……」 
 細い羽依の呟きに微笑み、玲琳は耳元で囁いた。
「わたしはもう女では無い。男の暉玲琳に戻ったのだ」
 女の名ではなく、本当の己の名を呼んでほしい……。玲琳の望みを感じ取り、羽依は頬を染めた。恥じらいながらも、大切そうに羽依は初めて男の本当の名を口にした。
「玲琳……」
 言って、玲琳の胸により顔を埋める。少女のような羽依の初々しさに笑みをたたえ、玲琳はいまだ火照りが残る女の躯に腕を絡めた。

 その夜、玲琳は何度も羽依を求めた。今度こそ己だけのものになった羽依を確認するように、女の躯を余す処なく愛撫する。その度、羽依は歓びに打ち震え、男を受け入れた。自ら男にしがみつき、深く繋がろうとする女に、玲琳もまた飲まれた。
 ふたりが落ち着きを取り戻したのは、未明近くなった頃合だった。
「あなたがわたくしのせいで祖国を滅ぼされてしまったのは、あなたが十二の年だったのでしょう。あの侵攻であなたの家族はおろか、人民をひとり残らず殺されたと耳にしたわ。あなたひとりが生き残ってしまって――辛く、哀しかったでしょう? わたくしのせいだけど、わたくしにもあなたがわたくしや陛下を討とうとした気持ちがよく解るわ」
 すまなさそうに呟く羽依に、玲琳は緩やかな笑みを浮かべる。
「おまえが気に病むことはない。南遼が滅ぼされたのはすべて、皇帝・牽櫂の一存によってだ。おまえも、両親を殺され、無理矢理仇の女にされてしまったのだ。わたしが苦しんだのと同様に、おまえも充分に苦しんだはずだ」
 何気なく語る玲琳の様子に、羽依は痛みを覚える。祖国を滅ぼした種である己だというのに、玲琳は己を許して、受け入れようとしている。ここまで到るのに、ひどく葛藤したであろうことが羽依にもよく理解できた。葛藤を乗り越えた上での、穏やかな微笑みが玲琳の上にあった。
「わたくしはあなたが玲琳王子だと知らなかったわ。でも、あなたはわたくしが仇の昭妃・羽依だと解っていた。解っていてわたくしを愛してくれた。どうして、わたくしなど愛することができたの? 憎くて、たまらなかったはずでしょう」
「では、おまえは何故、不貞の罪を擦り付けたわたしを愛することができたのだ? 男であるのに女の身形をして後宮に忍び込むわたしを危険だと思ったはずだろう」
 反対に聞き返されて、羽依は言葉に窮する。そんな羽依の反応を楽しみ、玲琳は羽依のなだらかな躯の丘陵をなぞる。緩やかな快楽に、羽依は声を漏らす。
 上目遣いに玲琳を軽く睨んでから、羽依は言った。
「理屈ではないもの――。どんなに危険な人だろうと、愛してしまえば戻れなくなってしまうわ」
 告げてから、はっと羽依は口元を手で押さえる。
「わたしも、おまえは仇の女だと自分に何度も言い聞かせてきた。だが、そう思い込めば思い込む程、おまえを求めてやまなかった。
 実際、おまえを殺そうとしたあの夜、おまえを殺すつもりでいたのに、いざ殺そうとすると剣を振り下ろすことができなかった。心が、躯が酷く痛んで、おまえを殺すことが無理だと悟った。まさか、あんな風に涙まで流してしまうなど思ってもみなかったが」
 一瞬、玲琳は面映いような笑みを見せた。意外な笑みに、羽依の胸は高鳴る。
「あの瞬間、おまえへの愛の強さをはっきりと自覚したのだ。おまえを殺して、わたしも死のうと思っていたが、今のわたしはおまえに生きていてほしい。おまえとともに生きて、愛し合いたい。揚樹に死なれて、おまえは死にたそうだったが、わたしはもうおまえを死なせはせぬ。わたしの我が儘だと解っている。それでも、わたしはこの初めての愛を生きて貫きたい」
 自嘲ぎみに言う玲琳に、羽依は違う、と激しく頭を振る。
「わたくしは、あなたへの叶わぬ愛に苦しんで死のうとしたのよ。たしかに、わたくしの馬鹿な企みのせいで揚樹を死なせてしまって辛かったけれど、あなたの愛を知った今は、わたくしも死にたくないわ。死んでしまえば、こうやって触れあうことで愛を確かめ合うことができなくなるもの」
 羽依は切く告げて、玲琳に抱きつく。玲琳は愛しい温もりを強く腕に閉じ込める。堅く抱き合ったまま、ふたりは中々離れようとしなかった。
「……でも、揚樹には悪いことをしてしまったわ。わたくしがあんな自棄を起こしたせいで、無惨にも死なせてしまった。なのに、わたくしはろくに揚樹に別れも告げなくて……」
 細々と消え入るように呟いて、羽依は黙り込む。まろい肩が、密かに震えていた。
「揚樹は、おまえを生かすために死ぬのならば、本望だとわたしに言っていた。そして、わたしの本懐の片隅でもよいから、おまえを愛してやってほしいと言われた。
 旺皇后も、おまえを救うようにわたしに誓わせた。だから、最期にわたし達を逃がしたのだ。本来、我が子を殺したわたしが憎いであろうはずなのに、おまえのことを思ってわたしも生き延びさせたのだ。わたしは揚樹と旺皇后からおまえを託されたのだ。
 だから、わたしは全身全霊をかけておまえを護る。それが死んでいったふたりの霊にできる、せめてもの償いだ」
 羽依に言い聞かせるために、玲琳は語る。羽依は涙ぐんだ。己が、こんなにも揚樹と旺皇后に愛されていたと実感し、込み上げてくる熱いものに身を任せる。ふたりのためにも、己は生きなければ、と羽依は強く思う。
 それ以上に、玲琳にこれほど激しい愛を打ち明けられ、羽依の情熱が死を拒んでいる。生きて、初めての恋を貫きたかった。
 が、羽依は不意に思い当たる。己と玲琳の上に課せられた託宣というものを。
「玲琳――わたくし達、本当に生きて愛を貫くことができるかしら……」
 暗い不安に身を縮ませる羽依の様子に、玲琳は半身を起こす。
「どうしたというのだ?」
「わたくし達――七年前に結ばれていなかったら、殺し合う運命にあると託宣されていたはずよ。
 わたくし、玲琳王子が生きてはいないものと思っていたから、すっかり気にも止めていなかったけれど……。でも、こうして時期を違えて結ばれたわ」
 玲琳も眉を潜める。羽依の怯えが尋常でなかった。
「だが――わたし達は互いに、殺し合う意思はまったくない。わたしはおまえを殺せはしないし、おまえも……」
「殺せるわけがないわ!」
 向きになって叫ぶ羽依。荒振る羽依を宥めるために、玲琳は羽依をしっかりと抱き締めた。
「ならば、託宣が履行されるわけがない。断じて」
 玲琳は強く言う。己にも言い聞かせるように。
 やっと真に結ばれることができたというのに、羽依を失うのは耐えられなかった。それも、己の手で羽依を殺すなどと。玲琳はただのでまかせだと思いたかった。
 羽依も放したくはないと、玲琳の躯に縋り付く。痛々しい仕種が、より辛さを誘った。
 玲琳は羽依の呼吸が落ち着いたのを見計らって、気分転換を計る。
「わたしは、初めておまえと出会った夜、李允や他の人間と躯を交わしたと言った。それは、嘘ではないのだ。生きるためには、復讐を遂げるためには仕方がなかったのだ。それも、女だけではなく、男とも寝た」
 玲琳の過去の告白に、羽依の躯がぴくり、と反応する。ゆっくりと顔を上げ、玲琳を見つめる。
「――本当なの? 男の人とも躯を交わしたの? どうして?」
 無邪気に羽依が聞く。そんな羽依に少し辛い感傷を味わいながらも、玲琳は遠い目をする。
「南遼が滅びたあと、わたしは自害しようとした。そのわたしを止め、保護したのが、この大陸を股に掛けて活躍する義族の長、殷楚鴎だった。わたしは殷楚鴎の知恵を借り、南遼の王子の身分を捨てて、舞姫、燐佳羅となったのだ。
 だが、助けてもらったとはいえ、わたしの復讐に彼等を巻き込むことはできなかった。だから、我が身だけを武器にして仇に近付こうと――躯を使ったのだ」
「!………」
 思い掛けない玲琳の性の過去に、羽依は息を飲む。躯を強張らせた羽依に、優しい微笑みで玲琳は返す。
「これも、殷楚鴎の策だったのだが、女の身形をするわたしが男だと解って、欲望を募らせる人間が数多いた。それらの人間に取り入り、北宇の宰相・李允の屋敷に舞姫として入り込んだのだ。李允も、他の人間と変わりなくわたしに興味を抱き、わたしを抱いた。それだけでなく、李允は多数の人間を交え、わたしに拷問ともいえるような情交を強いらせた。屈辱的であったが、李允の伝手無しでは後宮に入り込むことができないので、わたしは耐えるしかなかった」
「そんな……」
 羽依は呟くが、玲琳に欲望を抱いた人間の心も解らないわけではない。女の身形をしているが、躯から滲み出てくる雰囲気は男のものだ。ために、中性的な色香を醸し出し、男や女を問わず魅了する。美しく、妖しい玲琳――燐佳羅を征服したいという人間は沢山いただろうと羽依は推量した。
 が、その過去も玲琳にとっては重く、屈辱的なものでしかない。女を演じることに苦痛を感じていたはずだ。それを無理に演じ続けたのは、ひとえに己と皇帝・牽櫂を殺めるためだったのだ。後宮に潜り込まなければ、己に近付くことは不可能に近い。そのためには、男のままではいられなかったのだ。己が玲琳を哀しい過去に引きずり込んだのに、目の前の玲琳は、柵から解き放たれて安らかな面をしている。
「後宮に入り込んでからも、宮城の機密を探るために多くの人と躯を交わした。わたしが言い寄ると、誰も拒みはしなかったので、易々と聞き出すことができた。
 陶嬪と関係を持ったのも、後宮の抜け道を探るためだった。陶嬪がわたしに想いを寄せていたのをいいことに利用したのだ。わたし自身は、決して陶嬪を愛していたわけではなかった。事が成った暁には陶嬪も殺めようと――。まさか、陶嬪が自ら死んでしまうなど思いもしなかったが」
 溜め息混じりに玲琳は語る。羽依は何も言い出せない。
 たしかに、玲琳のしたことは女の心を踏み躙った非道な行いだ。が、今、玲琳は酷く傷付いた面持ちをしている。人々の心を弄んだのも、復讐のために仕方がなかったのだろう。玲琳自身、深く懺悔しているようだった。
「もとより、わたしがしたことが許されるはずはない。だから、死んで地獄に堕ちるつもりだった。
 地獄に堕ちて、死んだ人間に償おうと思っていた」
 羽依は胸が張り裂けそうだった。玲琳の真摯な懺悔が心を打った。
「わたくし――本当は陶嬪様に嫉妬していたの。あなたとの間に何があったのか、あなたと陶嬪様が愛しあっていたのか……。でも、陶嬪様が自らを葬られて、陶嬪様もわたくしの事で傷付いておられたのだと解ったの。陶嬪様を殺したのはわたくしだって――。その罪は、今も消えていないわ。
 あなたが地獄に堕ちなければならないのなら、わたくしも同じよ。多くの人を死なせてしまったわたくしのほうが、より責められなければならないわ。
 地獄に堕ちるなら、わたくしも一緒よ」
 玲琳は瞠目する。
「でも、わたくしはあなたと生きていくと誓ったわ。あなたと生きて、愛を貫くと――。
 だから、わたくしがあなたをすべて受け止めてあげる。あなたの苦しみに満ちた過去も、あなたの穢れも――。あなたを縛るものは何もないわ。燐佳羅という舞姫も、陛下や皇后様と一緒にあの夜死んだのよ。あなたは、素のままの、暉玲琳に戻っていいのよ。わたくしは素のままのあなたを愛しているから……」
 涙とともに微笑みが、羽依を飾る。羽依の美しい笑みにつられ、玲琳の咽が震えた。
 玲琳は託宣に縛られて苦しむ羽依の痛みを和らげるため、何気なく過去を話し出した。己の過去は己のものであり、誰も受け止めてはくれないと玲琳は思っていた。期待して過去を打ち明けた訳ではないのに、羽依は己のすべてを受け入れようとしている。今まで、己に関わってきた人間は、己の性だけを目当てにしてきた。が、羽依は己のすべてを求めている。己の傷んだ心も、柔らかく受け止めようとしている。歓喜のあまり玲琳は震える手で羽依を抱き締める。
 思えば、最初の出合いから、羽依は己を思いやってくれた。己が無理強いに皇帝・牽櫂に抱かれるのを防ぐために羽依は自ら皇帝に身を投げ出した。男だと知られて不貞の罪をなすりつけた己だというのに、羽依は黙って己の為すがままにされていた。何より、皇帝・牽櫂に己の正体を明かそうとしなかった。それなのに、己は羽依を何度も泣かせ、死を思わせてしまう程追い詰めた。そして、揚樹を死なせてしまった。玲琳は滲んでくる涙を懸命に堪える。
 羽依は震える玲琳を黙って抱き締めている。泣いているのかもしれないと思った。羽依は泣くだけ泣いて、玲琳に早く無惨な過去を忘れてほしかった。贖罪のためもあるが、ただ、この幼子のような繊細な魂を持つ青年を癒してやりたかった。ずっと側にいて、玲琳を護ってやりたかった。
 落ち着いて、平静とした面に戻った玲琳が顔を起こす。羽依は微笑む。玲琳は高まる想いをそのまま、口に乗せる。
「わたしは、今まで多くの人間と躯を交わしたが、愛した者はひとりとしていなかった。わたしが愛したのは、おまえが初めてだ。託宣など関係ない、わたしの心がおまえを求めているのだ。
 わたしは、おまえを失いたくない。誰にも、運命にも、神にもわたしたちを引き裂かせはせぬ。永久にわたし達は互いだけのものだ。堕ちるなら、ともに堕ちていこう」
 玲琳の想いを受け止め、羽依は歓びに満ちた表情で頷く。
「ええ――堕ちるなら、一緒に……!」
 どちらともなく、ふたりは唇を求めあう。過去に二度、誓いの口づけを交わした。が、新たな口づけは永久に続く誓いであった。
 心地よい疲れに浸されながら、ふたりは腕を絡めて眠った。互いに、接した肌から伝わってくる温もりに癒されながら――。






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