トップへ

佳人炎舞indexへ

破砕の楽舞(2)へ


第四章・佳人炎舞



「陛下、もうそろそろ政務の方にお戻り下さいますよう……」
 皇帝の不在に焦れてきた侍従達は、桜が薫る頃、瑞鴬殿の妃の閨房の内に足を踏み込んだ。皇帝・牽櫂は妃の肢体に腕を絡めたまま、何気なく廷臣どもの顔を見やる。
「不粋な。俺がおらずとも、そなたらで何とでもできよう。下がれ」
 牽櫂は軽くあしらい、いたたまれず面を隠した羽依を抱き竦めた。
「いえ……っ、北康からの勅使が参っているのですが……」
「それならば、皇后に応対をさせればよい」
 皇帝・牽櫂の皇后、旺玉蓉は北康の公主である。北康の皇帝の妹であり、北康の勅使達にも一目おかれている。
「皇后様も、ひとりでは対処ができぬと……」
 弱り切っている侍従達に、牽櫂は舌打ちして見せた。
 内情は、皇帝が思っている以上に切実だった。
 先年の秋、雨量の少なかった北宇は不作に見舞われた。皇帝が昭妃・羽依に溺れ、妃を華奢に着飾らせるあまり、財は底を尽き、国内の不況は煽りを食った。
 北宇の民の怨恨はすべて昭妃・羽依に向けられた。皇帝が拘泥するあまり北宇を墜落に追い込む天性の悪女という伝聞は、さらに上回って市井に徘徊した。
 北宇の廷臣達は皇后を通して北康に援助を求めた。そんな時勢での、皇帝の昭妃への耽溺である。北康はかすかに流れくる北宇皇帝とその妃の醜聞の真偽を糾してきたのである。旺皇后も、はっきりとは答えられず困惑していた。
「――こういう理由ですので、どうか政務にお戻りを……!」
 必死で懇願する侍従に、牽櫂は腐った表情で上体を上げる。
 無造作に深衣を纏い、大勢の男達を引き連れて寝室を出ていく牽櫂を、羽依は感情の篭もらぬ瞳で眺めていた。
 羽依の心は果てのない虚無で締められている。己が市井でどう評されているのかも、どうでもよいことだった。
 寝衣を身に付けると、羽依は首筋に絡み付く髪を掻き揚げ、閨の扉の前で控えているであろう揚樹を呼び入れるために室外に顔を覗かせた。
 暗い面持ちで小椅子に座り込んでいた揚樹が、勢いよく立ち上がった。
「羽依様……!」
 息を詰まらせ嗚咽を洩らす揚樹に、羽依は微笑んでみせ、揚樹の横に控えている佳羅に目線をやる。
 佳羅は切れ長の目に厳しさを宿らせ、羽依を見つめている。
 羽依の心は秘かに痛み、顔を背ける。
 佳羅の目には羽依が奇異に映った。これまで、皇帝・牽櫂を迎えたあとの羽依は病み窶れて見えた。が、今の羽依は平生にもましてなまめいて見え、目や肌の艶も溢れんばかりである。佳羅は眉を寄せる。
「揚樹――これからわたくしが記す書簡を、陶衡将軍に届けてくれるかしら」
 にこやかに語りかける羽依に、揚樹もまた違和感を得ていた。
「は、はい……」
 頷いた揚樹を、羽依は目線で寝所に招き入れる。
 揚樹が気付かないほどのひそやかな一瞬、羽依は再度佳羅に目を移し、二人の視線が交わった。
 羽依の瞳にさざ波のような哀しみが溢れ、消えた。佳羅が言葉をかけようとしたとき、羽依は寝室の内に消えた。
 佳羅は羽依との間に挟まれた距離の遠さに唇を噛む。牽櫂に抱かれ傷ついた羽依は、毎回佳羅を求めた。癒されることを求める羽依との触合いは、同じく傷んだ魂を持つ佳羅も慰めた。羽依に癒された佳羅はそのあと、毎度のように自己嫌悪に喘ぐのだが、似た傷を持つ羽依とのぬるま湯のような触合いに慣れ切っていた。
 今回、羽依は佳羅を求める気配をまったく見せなかった。ただ、哀しみの溢れた瞳で見つめるのみだった。
 ――あなたにとって女は欲望の捌け口なの? 快楽を得るための道具でしかないの?
 ――わたくしたちは一線を超えるべきではなかったのよ。綺麗なままのほうがよかったのよ。
 陶嬪の死の夜、羽依が語った言葉が思い出される。深い絶望と哀しみが、あの夜から羽依の中で続いているのだろうか。先程の瞳は、同じ哀しみなのだろうか……。佳羅の心は底のない暗闇に浸った。
 ――あなたは、羽依様がこれからも皇帝のものであることに我慢ができるのですか?
 揚樹の詰問に、佳羅は答えられなかった。
 ――このわたしに、昭妃・羽依を救えというのか? この、わたしに?
 あの時、佳羅は思わずそう言って嘲笑いそうになった。揚樹に、己が何者で、何故にこの後宮に潜んでいるのか暴露してやろうかとも思った。揚樹が、この真実に耐えられるかどうか見てみたかった。
 羽依の有様に、心が傷んでいないわけではない。が、佳羅には羽依を救うわけにはいかなかった。
 羽依とともに出口の無い迷宮に入りこんだ錯覚が、佳羅を惑わせた。

 羽依が流麗な筆使いで認めた書簡に目を通して、揚樹は顔を曇らせる。
「本当に、この書簡を陶将軍に渡されるのですか?」
 当惑する揚樹に羽依は頷く。
 書簡には、陶衡に対する弔辞が書かれている。既に陶嬪の喪事の頃は過ぎ、いささか遅すぎる悔みである。
「陶嬪様の喪中だというのに、陛下との情事に溺れていたわたくしの出した書簡……きっと、陶将軍は激怒なさるわ」
「それならば、なおさら……」
 羽依は言い募る揚樹を穏やかな目で見る。
「だから、よ。わたくしが陶嬪様を死に追い込んだのだもの――。
 陶嬪様と佳羅、そしてわたくしの関係は誰の目にも曝されることはないでしょう。でも、わたくしは人をひとり死に追い込んだのよ。咎められない方が辛いわ」
 羽依は陰りを帯びた瞳を伏せた。
「羽依様……何故、自ら皇帝に身を投げ出されたのです?」
 揚樹の問いに、羽依は怯えた表情をする。
「わたくしを……責めるの?
 父様と母様の敵に抱かれたわたくしが、許せない?」
 その様子に、揚樹は胸を突かれる。
「羽依様――許せる、許せないなど、あなた様にお仕えするわたくしの申すことではございません。ですが、羽依様ご自身が傷つかれるのではと……」
「……わたくし…わたくし、どうしたらよいのかわからないの。佳羅を想うと苦しくて…誰でもいいから、佳羅ではない男に抱かれれば、佳羅のことを忘れることができるのではと……。でも、だめ……」
 羽依の表情は崩れ、涙が机の上に落ちる。
「忘れられない……!
 あれほど長い間、他の男に抱かれていたというのに、わたくしの心も躰も、ずっと佳羅を意識して……!」
 揚樹は羽依に近付くと、主人の肩を抱き締めた。
「羽依様は――やはり、佳羅を愛しているのですね?」
 優しく問い掛ける揚樹に、ためらいながらも羽依は頷き、泣き崩れる。
 畢竟、牽櫂との長い情交は、佳羅への想いの激しさを強く自覚させるものだったのだ。他の男の匂いを肌で感じながらも、そのすべてが佳羅だと錯覚してしまえるほど佳羅を求めているのだと思い知らされた。
「揚樹――わたくし、どうすればいいの?
 どうすれば佳羅を忘れることができるの?」
 涙ながらに漏れる言葉に、揚樹もまた胸を打たれていた。
「忘れられなければ、忘れなければよろしいのです。
 人を恋うる想いは、そう簡単には消せぬもの――。ならば、胸に芽生えた想いを大事になさいませ」
 羽依は顔をあげる。
「だめよ――!
 わたくしが佳羅を寝取ってしまったから、陶嬪様は自害なされたのよ!
 そのわたくしがのうのうと佳羅を想い続けてよいはずがないわ!」
「陶嬪様は自らの恋に破れられたのです。恋は魔物ですから――」
「魔物……」
 羽依は揚樹の言葉を呟いた。
 確かに、恋は魔物だ。いつのまにか羽依の心の中に住み着き、羽依の心も躰も焼き付くし、苦しめている。初めて佳羅の舞を見たときの不思議なときめきが、恋の初まりだったのだろうか。
 陶嬪の死が恋の惨敗だというのなら、己のこの体たらくは一体なんなのだろうか?
 揚樹は羽依が破滅的になっているのがよく解った。が、主人が望むとおりにしか出来ない。
 羽依が落ち着いたのを見計らって、揚樹は立ち上がる。
「では、この書簡を陶将軍様にお届けして参りますね」
 揚樹は羽依の喜びの笑顔を見届けて、退室した。


 羽依の書簡を受け取った将軍・陶衡の反応は素早かった。
 書簡を受け取ってから数時間もしない夕刻、陶衡は後宮の門を叩いた。羽依は侍女や宦官と相談したのち、後宮の応接間に席を用意させた。
 卓子に置かれた瓶に挿してある桜の花枝が、馥郁とした薫りを漂わせている。花の薫りに導かれて羽依が応接間の扉を潜ったとき、陶衡は機敏な動きで腰を上げた。
「昭妃さま――お心の籠もったお文、まことにかたじけのうございます」
 陶衡の慇懃な言葉に、羽依の心は酷く軋む。
「陶嬪様は後宮におかれまして、わたくしに厚情を尽くしてくださいました――。この度のご不幸、わたくしも心が引き裂けんばかりに辛うございます……」
 瞳を伏せて辛酸綯い交ぜの心情を告げる。
「ですが…陶嬪様の喪中というのに、わたくしは皇帝陛下と――」
 羽依は言葉が続かなかった。苦しすぎて、言葉を選ぶことができなかった。
 陶衡は妃の様子に頭を振る。
「いいえ――昭妃様、あなた様は我が娘のことを本当に想って下さる。
 陛下との繋がりも、余儀なきこと――昭妃様もお辛いでしょうに」
「わたくしを――責められぬのですか?」
「誰も…責められませぬ。あえて言えば、責めるべきはわたくしです。
 我が上官であった昭基演将軍の姫君のあなた様をお守りすることができず、その上、我が娘までも陛下に侍らせることとなり、あなた様にはお辛い思いをさせしてしまいました」
「そんな――陶嬪様も陛下の妻のひとりですわ。陶嬪様や他の女人方を凌いで陛下の愛を奪ってしまったわたくしも責められるべきですわ」
 ――わたくしはその上、陶嬪様の想い人を奪ってしまったのです。
 羽依はその言葉を胸のうちに飲み込んだ。己の一番重い罪は、この事だと羽依を自責の念に駆られている。
 揚樹は青ざめた羽依を見守り、もうひとりの当事者である佳羅を見やる。
 佳羅はそ知らぬ素振りを見せている。落着き払って羽依と陶嬪の父のやり取りを窺っている。
 揚樹が思わず佳羅を睨み付けようとしたとき、陶衡が羽依の席の前に額突いた。
 咄嗟に羽依も椅子を降りて石張りの床に跪き、陶衡の手を取る。
 陶衡は涙を流していた。
「陶将軍――」
「すべて、わたくしの不徳の致すところ……我が娘も、あなた様も不幸にしてしまった……」
 陶衡は羽依が皇帝・牽櫂のものになったことも、己の責任と感じている。昭基演亡き今、その令嬢を護るのは己しかいないと思っていた。それなのに、皇帝の素早い動きにより羽依を拉致され、あまつのはてに皇帝の羽依凌辱を止めることができなかった。そして、娘・硝珠の後宮入り――。この事実が羽依を苦しめ、娘・硝珠を死なせたのだと陶衡は堪え難い慚愧の念に蝕まれていた。
 陶衡の哀しみ様は、羽依を絶望的にした。陶衡は羽依の身の上に降り掛かった不幸もみずからの罪と感じ取っている。それなのに、羽依は陶嬪を死なせてしまった。手酷い裏切りによって……。
 やっとのことで羽依は陶衡を立たせた。
「将軍……わたくしのことを、お気になさいませんよう……。わたくしは、なるべくして皇帝陛下の妃となったのです。あなた様の罪ではございません。
 あなた様にそのように嘆かれると…わたくしも、辛うございます……」
 俯いた羽依の面に陰りが刺し、陶衡の心を突いた。
 後ろ髪引かれるような面持ちで陶衡が後宮から下がっていったのを見届けて、羽依は崩れるように椅子に座った。
 揚樹が横から差し出した緑茶を受け取ると、熱さも気にせず飲み干した。緊張して凍っていた神経に温みがしみ渡り、羽依の力は抜けた。
 羽依の手の震えに、主人の試みが逆効果に終わったことを揚樹は知った。
 みずからの罪を口にすることができないのならば、せめて、皇帝との醜態によって陶衡に詰られたい……羽依の、切なる願いだった。が、陶衡は羽依が思っていたよりも羽依を思いやり、羽依の不幸を悲しんでいたのだ。
「瑞鶯殿に…戻りましょう」
 重い腰を上げ、羽依は応接間を出た。


 羽依が廊下から回廊に出ようとした丁度そのとき、待ち構えていたように恵夫人・仙葉が前方から現われ、すれ違った。
「ご機嫌麗しゅう……」
 羽依が告げて頭を下げたとき、恵夫人は傲然と羽依を見下ろしていた。
「恵夫人様、昭妃様にご無礼でございましょう」
 見兼ねた佳羅が恵夫人を咎める。市井にいた頃から、佳羅にとって恵夫人は気に食わぬ女だった。媚びるように客にへつらい、同じ職をもつ女にはくどいほど叩きのめす。佳羅も二・三度面識があったが、その度、恵夫人は佳羅を探ってきた。さすがに、恵夫人に佳羅が男だと暴露されていないが……。
 佳羅の強気の態度に、恵夫人は真っ赤に塗り込めた唇を釣り上げた。
「ほほ……そう言っていられるのは、いつまでのことでしょう、昭妃様。
 わたくし――陛下のお胤を宿したようですの」
 勝ち誇った恵夫人の科白に、羽依は目を見開く。
「本当ですの?」
 惑することなく羽依は尋ねる。
「ええ、つい先日解ったのですが。
 男御子であるか、女御子であるかは存じませぬが、わたくしが陛下の御子を生むことは必至。覚悟召されませ」
「そうですか――おめでとうございます」
 羽依は微笑んで告げた。
 皇帝・牽櫂の子――恵夫人の腹の中に宿っているもの。後宮に住まう妃嬪達が是非とも欲しがるものである。が、羽依は皇帝の子が欲しくはなかった。両親を殺した男の子など欲しくはなかった。己が子を生むことなど、考えてみたこともなかった。
 羽依の余裕の態度が、恵夫人の高慢な精神を逆撫でした。
「随分、余裕がおありのようですわね。
 陛下の愛を一身に受けていると思っておられるので?
 ですが、わたくしも陛下の寵愛を受けている身ですわ。その上、子まで身籠もりました。わたくしは、趙嬪様のようにはいきませんわよ」
 趙嬪・蓮伽は羽依より先に妃と決められていた女である。趙嬪は皇女をあげていたので妃に決められた。
 が、羽依を愛する余り皇帝・牽櫂は趙嬪を妃の位から引きずり降ろし、ひとつ下の位である嬪とした。三年前のこの事件のとき、表立った諍いはなかった。趙嬪が皇帝の気性を認知し、分を弁えていたからである。
 恵夫人は趙嬪とはまったく質の違う女であった。虚栄心が強く、頂点に上り詰めないと気が済まない。
 恵夫人の言葉は、多分に嚇しが含まれていた。羽依はそんな恵夫人に哀れを感じ取った。
 ――わたくしにとって、妃の位は邪魔なだけだというのに。
 できるなら、羽依は後宮から逃げたかった。牽櫂の妄執から逃げたかった。牽櫂から逃げて、普通の女のような暮らしがしたかった。普通の女のように、愛する男と結ばれて幸せになりたかった。
 佳羅への絶望的な愛を知った今、それらはすべて夢物語である。
 とにかく、恵夫人の懐妊は、羽依にとって吉報に他ならなかった。
「わたくしは、本心から喜んでおります。
 あなた様が妃の位を欲しいとおっしゃるのなら、喜んで差し上げましょう」
 なおも微笑んで見せる羽依に、恵夫人は怒りを顕わにする。
「勝ち誇っていられるのも、今のうちですわ! 今宵、陛下はわたくしの部屋にお渡りになられるのでそのつもりで!」
 それだけ言い捨てて恵夫人は地面を踏み鳴らして去っていった。
「お可哀相な方……」
 羽依は誰知ることもなく呟いた。


このページ先頭へ



 恵夫人が言い置いたように、その夜皇帝・牽櫂は羽依のもとに訪れなかった。
 久々の自由を得て、羽依の心は晴れ晴れした。わざわざ牽櫂が羽依に寄せた詫びの書簡に目を通し、侍女に片付けるよう手渡す。
 牽櫂の目がこれを機に恵夫人に向けられれば、羽依にとってこれほど嬉しいことはない。後宮から解き放たれることはなくとも、悪夢のような情交を迫られることはなくなる。
 が、ひたひたと向けられる佳羅の眼差しにも乗る気がしなかった。牽櫂の訪れがない今宵、佳羅は羽依に関係を募ってくるだろう。それだけが気がかりだ。
 そこで、羽依は揚樹に宿直をさせることにした。佳羅が羽依の寝所に尋ねてきても、揚樹に断らせることにした。揚樹も、そのほうがよいと言ってくれた。
「なまじここで受け入れてしまえば、もうあとには引けなくなりますよ」
 揚樹はそう忠告した。
 侍女達が寝所から下がり、揚樹と二人きりになった頃合、佳羅が房の戸を叩いた。
「羽依と話がしたい」
 言い募る佳羅を、揚樹は素気なく断る。
 帷の影に隠れる羽依を凝視する佳羅の視線が、羽依を責めてくる。羽依はたまらなかった。
「心にかけてはなりませぬ。
 秘かに想うのと、躰を交わしてしまうのでは苦しみの度合いが違います。ここで佳羅と一線を超えてしまうと、さらなる苦しみに見舞われますよ」
 揚樹の言うことはもっともだった。
 羽依は責め苦に耐えようとした。が、押しては返すように苦しみは絶えず羽依を切り付け、その度、羽依は佳羅のもとに走りそうな衝動にかられた。
 ――今、佳羅のもとに駆け付けて想いを告げてしまえばよい。想いを告げて、佳羅に抱かれてしまえばよい。
 恥知らずなもうひとりの羽依が、苦しみのたうつ羽依に囁きかける。
 確かに佳羅に想いを告げて、その想いに身を任せてしまえば楽にはなれるだろう。が、陶嬪の死はどうなる。陶嬪を死なせてしまった罪を重ねるのか?
 良心の羽依が必死に恥知らずの羽依に打ち勝とうとしていた。
 ふたつの心に鞭打たれて身悶えながら、羽依は夜を明かした。

 それから数日、羽依は佳羅の求めを拒み続けている。
 昼最中、佳羅の恨めしげな視線を真正面に受けて、羽依は身じろぎができなかった。
 何故、佳羅が眼差しで己を見るのか、解らない。佳羅の瞳の中で燃え上がる火炎が、羽依の身も心も焼こうとしている。
 揚樹も、羽依の窮地を察して毎夜釘を挿してくる。揚樹の一言が羽依の理性をかろうじて留めていた。
 皇帝・牽櫂は懐妊が周知の事実となった恵夫人のもとに毎夜通っているので、羽依の房への訪れはない。誰もいない閨で、理性と情欲の歯止めが効かなくなった心を抱えて、羽依は空しい夜を過ごしている。秘かに、枕を涙でしとどに濡らす。
 佳羅の熱い瞳を見返したくなる己を感じて、気力が萎えそうになる。羽依は自ら死を選んだ陶嬪が羨ましくなる。
 ――陶嬪様、あなた様は自らを滅ぼすことによって恋を昇華なさったのですね?
 かなわぬ恋ならば、己の死によってかなえようとしたのですね?
 嫉妬や怨嗟で喘ぐのなら、死んで恋を清らかなまま永遠のものにしたい――羽依はその気持ちがよくわかる。己も、見つめ返してはならない想いならば、いっそ魂魄となって幾度となく佳羅を見つめていたいと思う。
 羽依は激しい恋情に焼かれるごとに、死の到来をひしひしと願った。自ら死んでしまおうとも考えた。
 以前、自棄を起こして己を傷つけた羽依は監視を付けられ、現在、自害を許される境遇ではない。
 ――いいえ、方法がないことはない。
 羽依は完全に自らを滅ぼせる術を知っていた。この方法ならば、佳羅の正体を明かす事無く、己の恋を日に曝さずに死ぬことができる。
 死を間近に見据えることができ、羽依は幾分心が安らいだ。


 己の生の終わりを見定めた羽依には、どうしても心に掛かる人があった。
 両親の死の後、羽依の心を慰めた女人、旺玉蓉皇后――。皇后が橋渡しをしたために羽依は皇帝・牽櫂のものとなった過去がある。一時は皇后を恨んだこともあった。
 今はあの時の皇后の本心が知りたいと思える。子を身篭もっている最中に他の女に溺れこむ夫を、どのように眺めていたのか。そして、皇后が羽依に向けていた本当の心は、どのようなものだったのか。なにより、皇后が羽依に告げた愛の意味が解らず、気になった。
 恵夫人が子を懐妊したので、皇后の内心も穏やかでないだろう。そのご機嫌伺いを建前に羽依は揚樹と佳羅を伴い、後宮にある皇后の居室を尋ねた。
 羽依は皇后が少しばかり気落ちしているものと思考していた。が、皇后はいつもと変わらぬ穏やかな面持ちで羽依を迎えた。
「まあ――羽依様がお尋ねくださるとは、ほんに幾久しいこと……」
 皇后は嬉しそうに笑みを湛えて、火鉢の隣に羽依の席を作った。心得た侍女達が甘茶や菓子を膳に並べて運んでくる。そつのない皇后は揚樹や佳羅のためにも席を用意した。
 羽依と向かい合って座る皇后の廻りには、六歳になる皇子と三歳になる皇女がころころとじゃれつくように遊んでいる。丁度、弟妹が亡くなった歳とまったく同じであったので、羽依は胸が酷く痛み、その光景をまともにみていられなかった。
「……羽依様は、わたくしを心配してこちらに来てくださったのでしょう?」
 羽依は口元に運んでいた甘茶の碗を止める。恐る恐る羽依が皇后の様子を窺うと、満面の笑みを浮かべた皇后が羽依をじっと見つめていた。
「不謹慎ですわね、わたくし……。
 恵夫人が陛下の子を身篭もった事実よりも、あなた様がわたくしを心にかけてくださった事実の方に心を奪われているなんて。
 でも、本当に嬉しいのですよ。以前のように羽依様とお付き合いが出来ると思えば……」
「どうして……ですか?
 恵夫人様が陛下の皇子をお生みになられれば、皇后様の立場も危うくなるやもしれぬというのに……。
 わたくしのこともそうですわ。どうして陛下にわたくしを引き渡して平気でいられたのですか?
 わたくしが皇后様ならば、とても微笑んでなどいられませぬ」
 ――陶嬪様と佳羅の関係を知って取り乱したわたくしは、平気ではいられませんでした。
 羽依は心の中でそう言葉を足した。
 緩やかな笑みを刷きながらも、皇后の瞳に悲哀が滲んだ。
「陛下はお可哀相な方ですもの……。
 あなた様をめぐるすべてのものを滅ぼしてまであなた様を求められているのに、心はすれ違って……。
 恵夫人を寵愛なされるのもあなた様との間で埋まらない溝を誤魔化すためなのですわ」
 羽依は言葉もなく皇后の告げる真実に耳を傾けている。
「陛下はよくわたくしにだけ本心を打ち明けてくださるのですわ。
 あなた様が何を考えているのか解らないと……。あなた様は求めてくる素振りをするかと思えば、ふいに傷ついたような表情を見せるともおっしゃっておられました」
 皇后の科白は聞けば聞くほど羽依の心象に重なってきた。
 羽依も佳羅との間で埋まらない溝を曖昧にするために牽櫂に抱かれた。同じく、牽櫂も溝を埋めるために恵夫人を求めているのだという。羽依は胸を突かれた。
「皇后様は平気なのですか?
 皇后様は以前におっしゃっておられましたわ。女は男に愛されるのが一番の幸せなのだと。
 ですが、皇后様は陛下がわたくしや恵夫人に寵愛を傾けられるのを、黙って見ていらっしゃるではありませんか」
 たまらず、羽依はそう尋ねた。皇后が以前に語った言葉には確かな欺瞞がある。
「たしかに……そう言いましたわね。
 それは理想論ですわ、本心から愛されていない者の。
 わたくしも陛下と睦まじい日々を持った頃がありました。子も身篭もりました。
 ですが、陛下はあなた様と出会われ、初めての恋情に焦がれられたのです
 わたくしはその時、陛下がわたくしに向けていた愛の本性を悟ったのです」
 語る皇后の瞳の悲哀がより濃くなっていく。やはり、皇后も皇帝と羽依の情事に深く傷ついていたのだ。羽依はいたたまれなかった。
「余りにもあなた様に恋焦がれられる陛下の姿がおいたわしくて、わたくしはあなた様を騙してまで陛下の想いを遂げさせてさしあげました。
 でも、わたくしが羽依様を妹のように愛していたのも事実だったのですよ」
「嫉妬は……なさらなかったのですか?」
 羽依はとぎれとぎれに聞いた。己がこう聞くのは残酷なような気がしたが……。
「よく……わからないのですよ。余りにも複雑すぎて……。
 結果としてあなた様を酷く傷つけ、わたくしも胸が傷みましたわ。陛下も、あなた様もわたくしにとって同じぐらい大切な方でしたもの。
 代わりと言っては失礼ですけれど、わたくしは陛下の厚い信頼を寄せられ、後宮の色々な事柄に関して相談を持ちかけられることが多くなりましたのよ。それがとても嬉しくて……男女の恋情ではないのですが、求められているのには変わりませんもの」
 切々と語る皇后の言葉で、羽依はやっと皇后の本心を理解できた。
 羽依は言葉を選んでぽつりぽつりと語り始める。
「でも……わたくしは、愛されることが幸せではないのではないかとこの頃思えます。
 押し寄せてくる愛は、時として相手を破滅に追い込むことがあるのですから」
 羽依は自らと佳羅、そして陶嬪の縺れた関係を思い浮べていた。
「本当の幸せは――愛することなのです。
 たとえ結ばれることが無くとも、想っていられるだけまだわたくしは幸福なのではと……」
 この幸福の中で死んでいきたい――羽依の、偽らざる本懐である。
 皇后は羽依の一際美しい微笑みに瞳を見開き、ゆっくりと頷いた。
「そうですわ。
 愛は相手に押しつけ始めたときに終わりを見るのですわ。陛下や……陶嬪様のように」
 羽依ははっとして、皇后を凝視する。
 皇后の目線は羽依と、かすかに佳羅を捕らえていた。
 皇后はふっと笑みを浮かべる。
「愛しあう者が求めあうのは至極自然なことですわ。たとえそれが、同じ性を持つものでも。
 理想の愛の世界は、そういう人達が互いに築きあうものなのだと思うのです」
 そう語り、皇后は茫々とした眼差しを虚空に投げ掛けた。
「……わたくしも、出来ればそういう愛に巡り合いたかった。互いに愛し合う人と愛を貫く人生を送ってみたかった。
 ですが、わたくしが愛したのは紛れもなくあの方なのです。たとえ叶わぬ恋だとしても、わたくしはあの方を愛したことに後悔はしておりません。あの方と巡り合い子をなし、ささやかながらな幸せ――それで十分です」
 皇后の頬に煌めきが光の筋を描いて落ちた。
「皇后様……あなた様は、本当にお強い方なのですね……なのに、わたくしは見当違いな恨みをあなた様に向けてしまって……許して下さいませ」
 羽依は面を伏せた。羽依もまた涙を流していた。心には、一辺の憎悪もない。ただ、皇后も、皇帝も、自らも陶嬪も哀しかった。愛とは哀しいものだと思えた。
 ――わたくしは、あなた様ほど強くはありません。ですが、あなた様はきっとわたくしの想いを解ってくださる。
 後宮の出口まで見送りに出た皇后に振り返りながら、羽依は無言で別れの言葉を告げていた。やはり、旺皇后は羽依にとって心から姉に等しい女人だった。


「何故……旺皇后は想うだけの恋に耐えられるのだろうか」
 一人先に行ってしまった羽依の後ろ姿を見据えながら、佳羅は同じ歩幅で主人を追いかける揚樹に尋ねる。
「わたくしも、愛されることよりも愛することが至福だと思えますよ」
 揚樹も穏やかな口調で告げた。
「わたしは――解らない。
 触れなければ、想いの激しさは伝わらないものではないのか?」
「佳羅殿は、羽依様と躰を交わすだけで想いの度量が解るのですか?」
 意地悪く揚樹は佳羅を見た。
 佳羅は薄暗くなってきた回廊を渡りながら言葉に窮していた。
 躰の関係だけならば、恋情がなくとも交わすことが出来ると最も知っているのは佳羅である。密接に触れ合っている時、男も女も激しく燃え上がっている。己も、その時だけは昂揚感を抱く。が、終わってしまえば嘘のようにさっぱりと情熱が抜け落ちていた。ただし、羽依との情交だけは例外だった。羽依とは行為が終わったあとも、情熱が糸を引くように残っている。だからこそ、今も求めているのだと佳羅は思っている。
「……はっきりとは、解らぬ」
 佳羅は揚樹に曖昧な結論を出した。
「恋しあう者が求めあうのは、躰が求めているのではないのですよ。心が求めあうのです。
 相手の仕草だけで舞い上がったような浮遊感があり、その人なしでは生きてはいけないと思う……。躰の快楽ではないのです、心の快楽なのです」
 揚樹は遠い過去を思い出す眼差しをした。
「経験があるようだな」
 佳羅の問いに、揚樹は己が一番幸せだといわんばかりの甘い笑顔を浮かべた。
「わたくしが嫁いだ相手は、幸運なことに幼なじみで、初恋の男だったのですよ。相手も同じ想いを抱いていると知ったとき、それはそれは幸福で――二年程で夫に死なれてしまいましたけれど、あの日々がわたくしにとって一番の幸福だったのでしょうね」
 見知らぬ相手と婚姻を交わすこの時代、幼なじみと結婚するのは稀なことである。ましてや、恋しあう者同志が結ばれるのは希有に等しい。
 揚樹は哀しみを帯びた瞳を伏せた。先程、旺皇后が見せた瞳と同質のものであった。
「愛する人とは躰を交わすときも、また違うものだとわたくしは思いますよ。
 互いに求めあう心と躰が溶け合って、ひとつのものになる感覚は、ただ躰を交わすのとは快楽の度合いも違うでしょうね」
 自らの内に残る遠い愛の記憶を手繰って、揚樹は佳羅に諭す。
 佳羅は羽依を苦しめる憎い男ではあるが、根は純真な青年だった。過去の性関係に問題がある分、すれた部分を持っているが、明らかに羽依に惹かれ始めている今、本当の恋情がなんなのか気付いてほしかった。本当の恋情に気付いて、出来るなら羽依と結ばれてほしかった。二人の仲を故意に裂くほど、揚樹は佳羅を憎悪しているわけではなかった。
「……羽依が皇帝を愛せないのは、親の敵だからなのだろう?」
 唐突に、佳羅は語り始めた。
 揚樹は眉を顰めた。
「愛というのは、心がなければ育まれないものです。心を無視した愛に、人は愛でもって返すことはできませんよ」
「だが、それも要因ではあるだろう。
 親の――国の敵を愛した人間は、どうなるのだろうな……。その愛自体が、死んでいった人間に対する裏切りになるのではないだろうか」
「佳羅殿……?」
 どうやら、羽依のことではなく、佳羅は他のことを語り始めているようであった。
「でも、愛してしまったものは仕方がないでしょう」
 揚樹は返答に困り、そう答えた。
 佳羅は曖昧な笑みを浮かべる。
「仕方がない、か……」
 暗がりゆく天で佳羅の面に翳ができ、表情がはっきりとしなかった。揚樹には、それが佳羅自身の翳りと感じられた。
「羽依様にも言っていたのですよ。
 恋は、魔物だと。不意に襲いかかって人間を食い尽くさねば気が済まぬ甘美な魔物だと」
「甘美な魔物……」
 佳羅は揚樹の言葉を反芻する。
「そうだな……その通りだ」
 微笑んで佳羅はそう言う。
 己の心の内に巣食う魔物の存在を認めた言葉だった。


 羽依はその夜、揚樹が寝入った頃合を見計らって房を抜け出た。
 淡い月明かりのなかで舞い狂う桜の花弁の中を通り羽依は庭苑の土を踏みしめる。
 ――ああ、この世はこんなにも美しいものだったのね……。
 十七年の人生を生きた羽依の記憶には、四季の移ろいも物悲しく映っていた。あまりにも色々なことがありすぎて、生きることの美しさなど皆無としか感じられなかった。
 ――いいえ、そんなことはない。
 わたくしはこの世にあって様々な愛を知ることができた。哀しみの中に埋もれた喜びを知ることができた。
 両親に慈しまれた幼子の頃も、皇帝・牽櫂の狂おしい程の愛情も、不運な主人を思いやる揚樹の暖かさも、姉にも似た旺皇后への思慕も、何より佳羅と出会い、愛することができた己も――愛しい。
 きっと、佳羅と出会わなければ、こんなにもこの世の愛を美しいと思わなかっただろう、と羽依は思う。
 ――わたくしは死んでいくけれど、この愛をせめて、最期に佳羅に伝えたい。
 そう願って羽依は真夜中に庭苑に彷徨いでた。切なく降り注ぐ桜吹雪が羽依の情熱を余計に駆り立てた。
 視界の端に佳羅を認め、羽依は振り向いた。佳羅ならばここに辿り着くであろうという予感は的中した。
「羽依……」
 佳羅の熱い瞳が羽依の視線とかち合う。羽依は目を反らさずに見つめた。
 月光を受け顕わになった佳羅の皎々とした美貌に羽依は見惚れ、涙を流した。
 ――この人の姿を脳裏に焼き付けて黄泉路を辿ろう。短い生にあってわたくしが得た、たったひとつの生きた実なのだから。
 何も語らず、ただ涙を流す羽依に、佳羅は焦れて尋ねる。
「何を、泣く?」
 羽依は頬の涙を拭うと微笑んだ。
「――わたくし、きっと最初からあなたに恋していたのだわ」
「羽依……?」
 言葉を飲み込めず、佳羅は聞き返す。
「初めてあなたの舞いを見て釘づけになったときから、わたくしはあなたに惹かれ初めていたのよ。
 あなたに接吻に反目していたのも、同性だからと認めたくなかったからだわ。
 あなたを愛していたから――わたくしはあなたに抱かれたのよ。訳の解らない理屈を口にしたのも、ただあなたに抱かれる理由が欲しかったからだわ。今なら、解る……」
 乾き切らないうちに、後から後からとめどなく涙が溢れてくる。
「惹かれてはならない、愛してはならないと自らにいい聞かせるほど、思うようにはいかないものなのね……。
 わたくしはもう、嘘がつけないわ。
 わたくしは――あなたを愛しています」
 羽依の足元で騒いでいた風が舞い上がり、桜の花弁とともに羽依の涙も渦のなかに乗せる。
 佳羅はしばらく言葉を告げられなかった。甘い感傷が躰の中に沸きあがってくるのを感じていた。
「最期に――それだけは言っておきたかったの。わたくしはもう、死ぬつもりだから……」
 感傷の波に呑まれていた佳羅の心に、その言葉が重く突き刺さる。
「死ぬ……つもりなのか……?」
 羽依は頷き、なおも微笑みを絶やさない。
「わたくしが生きて、愛するのには余りにも罪が重すぎて……。
 わたくしは陛下を迷わせ皇后様や数多の妃嬪達を哀しませ、民にまで苦しみを負わせてしまったわ。
 その上、あなたに恋してしまったせいで、陶嬪様まで死なせてしまった……。こんなわたくしが、恋を貫くことは許されない。のうのうとあなたに抱かれることは許されないのよ」
 黙って耳を傾ける佳羅の目が険しくなってくる。
「だから……それならば、死んで恋を貫こうと……。わたくしが死ねば、陛下の熱も冷めるでしょうし、他の人々が迷うこともなくなるはずよ」
 羽依の言葉を聞きおわった佳羅はため息を吐くと、羽依を睨み付ける。
「逃げるつもりか」
 佳羅の鋭い言葉に、羽依は目を見開いた。
「逃げるとか……そんなことではないわ」
「では何だ?
 おまえは陶嬪の死から逃れたいのだろう? 陶嬪の死から逃れることによって、ひいてはわたしからも逃れるつもりなのだろう」
 羽依は頭を振る。
「わたくしはただ苦しくて……この想いに耐えられなくて、楽になりたいだけ……。
 わたくしは愛を相手に求めることがどれだけ不毛なことなのか解っているつもりよ。このままでは、わたくしの愛をあなたに押しつけてしまいそうだから……それならば、死んだほうが……」
「自らの汚さを認めたくはなくて、言い逃れか」
 佳羅の瞳が恐ろしいほどに冷たく凍り付く。羽依は本能的に怯え、うしろの桜の幹に下がる。
「ええ……わたくしは卑怯で臆病よ。
 それでも、死ぬことが一番最上の解決法だと解ってるわ。陶嬪様も、それだから自ら死を選ばれたのだわ」
「では、残された者はどうなる。
 おまえの死の重さを背負って生きていかねばならぬのだぞ」
 言いながら、佳羅は自らが昭妃・羽依を生かそうとしていることに気付く。
 ――馬鹿な。昭妃・羽依を殺すことが目的だったはずだ。
 昭妃・羽依が死にたいというのなら、死なせてやればよいではないか。
 おまえの手で昭妃・羽依を殺したいというのなら、この場で昭妃・羽依を手にかければすむことではないか。
 燐佳羅の奥に潜む本当の姿が佳羅の心の迷いを叱りとばす。
「わたくしはあなたの秘密も、あなたとの間で分かち合った時間の記憶も胸に秘めて死んでいくつもりよ。
 あなたがここに潜むのは、何か目的があってのことでしょう?
 わたくしが死ねば、あなたもわたくしの存在を気にかける必要が無くなるわ。
 だから……止めないで」
 羽依は涙ながらに佳羅に哀願してくる。
「揚樹は……どうするのだ」
 佳羅はかろうじてそれだけ言った。
 羽依は、俯いて押し黙る。
 ――揚樹はわたくしが死ねばどうなるのだろう。わたくしを死に追いやった佳羅を恨むのだろうか。
 羽依は己がそうしたいから死ぬのであって、決して佳羅が原因ではない。できれば、揚樹に佳羅のことを恨んでほしくはなかった。
「わたくしは……揚樹が望むように生きてほしいの。今までわたくしのせいで思うように生きてはこれなかったはずだから、わたくしの死後はせめて、自ら望む生き方をしてほしい」
「揚樹はおまえの後を追うかもしれぬ」
「それも……揚樹が望むのなら、わたくしは止められない」
 羽依は毅然として涙に濡れた顔を上げた。
 佳羅には、羽依の言い分が勝手な戯言に聞こえた。自ら死にたいから死ぬという。普段の冷静な佳羅ならば、死にたいのなら勝手に死ね、というであろう。が、今の佳羅は熱いうねりに心ごと呑まれ、思考を捕われていた。
 ――この女は、自らのために死んでいった人間に償うこともなく、勝手に死んでいくのか。人々の恨みの声に耳を傾けることなく死んでいくのか。
 わたしを残して――死んでいくのか。
 理性に掛かっていた枷の外れる音が、佳羅の脳裏で響く。
「死な……せぬ!」
 羽依が身構えたのと、佳羅が襲いかかるようにして羽依を抱き竦めたのは、同時だった。
 熱い接吻が羽依の呼吸を塞ぎ、荒々しい手が衣を乱暴に剥ぐ。せわしなく躰の上を彷徨う唇に羽依は喘いだ。
 激昂した佳羅の愛撫はいつになく激しかった。熱の塊となった男を、同じく情熱の吹き上げる胎内に迎え入れた。
 ――愛し合えるのは、今宵が最期。
 だからこそ、羽依は躰のすべてで佳羅を感じていたかった。身体の感覚が無くなってしまうほど、佳羅の色に染まりたかった。
 女体の中に情熱が吸い込まれていくのを感じたとき、佳羅は低く呻いた。
「佳…羅……」
 細く高く呟き、羽依は佳羅の背に腕を廻す。
 激しい情熱が通り過ぎたあと、佳羅は脱力した重い躰を浮かせ、羽依の隣に横たえた。
 羽依はしばらく佳羅の腕のなかで涙に咽んでいた。これが最期の情交だと思うと無性に切なかった。
 涙がやっと止まりそうになって羽依が身を起こすと、佳羅は緩い寝息を発てて眠っていた。情熱とともに膂力も出し尽くして、疲れて眠り込んでしまったのだ。
 佳羅の躰に衣を着せかけると、羽依も夜着を纏いつけ、佳羅の寝顔に見入った。
 平生の鋭さなど微塵にも感じさせない無邪気で無心な寝顔である。羽依は吊られて微笑んだ。微笑んで、また涙を流した。
「あなたと出会えて……よかった」
 そう呟き、羽依は佳羅の唇に軽く自らの唇を重ねた。
 最期の口づけだった。


このページ先頭へ



 肌寒さに佳羅が目覚めたとき、すでに羽依は立ち去ったあとだった。
 東の天から昇ってくる朝日を眺めながら、佳羅は衣を身につける。
 前後の感覚が無くなるほど情事に酔ったのは佳羅にとって初めてのことだった。羽依の死を考えただけで、佳羅の情熱は燃え立ち、理性も心も飲み込んでしまった。何をどうやって想いを遂げたのかも解らないほど、佳羅は羽依にのめり込んでいた。
 ――こんなことでどうする!
 もうひとりの佳羅が叱咤する。
 羽依を殺すことが目的のはずなのに、反面でどうしようもなく羽依を求めている。相反する心がふたつに裂けて、佳羅を痛め付けている。
 ――恋は人間を食い尽くさねば気が済まぬ甘美な魔物。
 揚樹の言葉が思い出される。昭妃・羽依を殺すために命をかけ、男であることも捨てた佳羅を、躰の内に巣食う情熱はあっさりと否定し、想いのままに突き進む。この情熱が本当に恋ならば……。
 ――まさに、取り返しがつかぬ。このままでは、昭妃・羽依を殺すことができぬ。
 昭妃・羽依が死にたいというのならば、黙って死なせてやればよいのだ。
 佳羅は堅くそう決意した。
 昼間の羽依は努めて佳羅と目を合わせようとしない。佳羅も平静さを装って温和で美しい女を演じた。そうすれば、一層気が休まると思えた。
 佳羅が他の侍女達とともに冬物の装束を衣裳棚にしまいこんでいると、こっそりと揚樹が近寄ってきた。
「佳羅殿――少し、よいですか」
 揚樹に袖を引かれて、佳羅は隣室に入った。
「羽依様の様子がおかしいのですよ――。何故だか、妙に明るくて。
 昨夜、あなたは羽依様と逢っていたのでしょう? 何か聞いてはいませんか?」
 一瞬、佳羅は揚樹から目を反らす。
「わたくしが、羽依様とあなたの逢瀬を今まで引き留めていたのですよ。
 羽依様はあなたに恋をされているので、生半可な気持ちで夜を供にすると、必ず傷つくと……」
「それは、もっともなことだろう」
 佳羅が頷くと、揚樹は眦を嶮しくする。
「あなたにそのようなことを言われる筋合いはありませぬ!
 元はといえば、あなたが自らの秘密を守り通すために羽依様と躰を交わしたのが原因ではありませんか!」
 そう言われて、佳羅は黙り込む。どうして羽依を抱くようになったのか、記憶を反芻する。
 羽依と身体を結んでしまったあの日、羽依のひとことで苛立つ自らを持て余し、苑池に身を浸していた。秋の刺すような水の冷たさなら、少しは頭が冷やせるだろうと考えてだった。その様を羽依に覗かれるとは思いもしなかったし、男である姿を見られて、勢いで羽依を抱いてしまったのは、まったくの慮外である。
 思えば、羽依に関わる出来事はいつも計算が狂いがちだった。
 羽依と初めて出会った宴の夜に皇帝・牽櫂の気を引いたのも、羽依を庇う目的だけではなかった。羽依を庇うだけならば、なにも接吻までする必要はなかったのだ。明らかに、佳羅は皇帝を誘惑する目的で挑発したのだ。皇帝が己に興味を抱いて、夜伽ぎを命じられても、それなりに巧く躱す自身はあったし、男だとばれても躰を使って皇帝を篭絡することも可能だった。それなのに、羽依は己の代わりに皇帝に身を投げ出した――。
 皇帝との情事で傷ついた羽依を慰めたとき、勝手に手が延びて羽依を抱き締めてしまったことも予想外だった。白く、滑らかに輝く羽依の肩に触れた瞬間、確かに佳羅の血潮は熱く沸き立った。指先に吸い付くような、羽依の肌の感触に導かれ、気が付くと佳羅は羽依を腕のなかにい抱き込んでいたのだ。
 己の胸に凭れて幼子のように眠り込む羽依に感じた、甘い疼き――。佳羅も、間違いなく羽依に惹かれていたのだ。
 だから、羽依の躰に必要以上に触れることを警戒していたはずだった。が、佳羅の内奥に眠る情熱は佳羅の理性を飛び越え、羽依と躰を交わした。一度味わった甘美さに、再度の逢瀬を求め、止まらなくなった。
 そんな佳羅だから、揚樹の詰る言葉になんの返答も返すことが出来ない。ただ、自ら悔やむのみだ。
 佳羅の暗い面持ちに、揚樹も言い過ぎたと後悔する。
「まぁ、確かに愛し合う者が求め合うのは必然的なことですけれど。
 わたくしはあなたのことを求めて止まない羽依様を毎夜見ていました。あのままでは、羽依様のお心が壊れてしまったかもしれませんから……。
 だから、昨夜、羽依様が房を抜け出されたのに気付かぬふりをしたのです。
 佳羅殿、あなたも羽依様を愛しているのならば、何故羽依様を助けようとはしないのです。
 何の目的で後宮に潜り込んだのかは知りませんが、あのまま羽依様と夜を供にするのは、あまりにも羽依様が不憫です」
「わたしも……始めは、羽依と関係を結ぶつもりはなかったのだ。気が付くと、既に羽依と躰が繋がっていたのだ」
 縷々と佳羅が呟く。
「始まりはどうでもよいのです。大抵、恋の始まりはそんなものですわ。
 今の、あなたの心が大切なのです。
 あなたは、羽依様が思い余って自害でもなさったら、どうするのですか?」
 揚樹の言葉を聞いて、佳羅の表情が強ばる。揚樹も、佳羅の形相に目を見開く。
「まさか……羽依様は……死ぬつもりだと、あなたに告げられたのですか?」
 震える揚樹は、口元に手を充てた。
「何となく……羽依様が死を考えておられると解っていたのですが――本当に、あなたにそう告げられたのですか?」
 辛うじて佳羅は頷いた。
「わたしは――死ぬな、と説得したのだが、羽依は陶嬪の死を自らのせいだと考えているらしく……」
 そう言って、佳羅の言葉が途切れた。
「生きて恋を貫くことができぬのならば、死んで貫くと――そう、おっしゃられたのですね。あぁ、思っていた通り」
「羽依はどうしても死ぬつもりらしい。わたしが何を言っても耳を傾けなかった。揚樹――あなたのことも」
「わたくしは、羽依様に何かあったら生きてはおれませぬ!」
 意気込む揚樹に、昨夜、揚樹に関して羽依が語ったことを告げる勇気はなかった。それを告げるのは、余りにも残酷なような気がした。
 あたふたと思いを巡らせて佳羅に振り返り、揚樹はその手を掴む。
「佳羅殿――どうかあなたの手で、羽依様を護って下さい。
 羽依様を護れるのは、あなたしかいませぬ」
「揚樹……何を、言う?」
 訳が解らず佳羅は聞き返す。
「わたくしは無用の哀しみで羽依様が命を落とすことほど、心苦しいことはありませぬ。
 羽依様の命を助けるのならば、わたくしの命もあっさりと捨てられます――!」
「揚樹――! 死ぬつもりなのか?」
 問いただす佳羅を、揚樹は強い瞳で見返す。
「どうしても羽依様を留めることが無理ならば、先にわたくしの命を散らして羽依様の命を留めます。それこそ、わたくしの本望……。
 だから佳羅殿。あなたが心に秘める本懐の片隅でもいいから、どうか羽依様を想ってあげてください。少しでも羽依様を愛してあげてください。
 あなたの愛さえあれば、羽依様は生きていられます」
「わたしの……愛……」
 茫然と呟く佳羅に微笑んで、揚樹は佳羅に背を向ける。
 揚樹を引き留める合間もなく、佳羅は口を噤んだ。


 揚樹は羽依を説得しようと隙を窺ったが、羽依の手を捕らえる間も掴めぬまま宵の頃となった。
 突然、皇帝・牽櫂の来訪を宦官から告げられ、揚樹と佳羅は血相を変えた。
 ――このような時に、不都合な!
 揚樹が歯軋りして見守っているのにそぐわず、羽依は艶やかに牽櫂を迎えた。その秀麗な容姿に、翳りが垣間見えているのに牽櫂は気が付いていない。
「陛下――恵夫人様の御子懐妊、おめでとうございます」
 艶麗な笑みを浮かべて羽依は皇帝に告げる。牽櫂は肩眉を顰めた。
「そのようなことを言いたくて今宵、俺を呼んだのか?」
「いささか、言い遅れておりましたので――。恵夫人様には既にお祝いごとを述べておりましたけれども」
 穏やかな口調で羽依が言うと、牽櫂は面白くなさそうに上衣を傍らの侍女に放り投げる。
「俺が真実欲しいのはおまえの子だ、羽依。他の女子の子なぞいらぬ」
「そのようなこと、おっしゃってよろしいのですか?」
 憂い深そうに羽依が額を曇らせると、牽櫂は羽依を抱き寄せた。愛しそうに羽依の頬に牽櫂は唇をひたと付ける。
「羽依、俺の子を生め。
 おまえが皇子を生めば、その子を世継ぎとする」
「わたくしが……ですか。
 そのようなことが許されるのでしょうか」
「誰が咎めようか」
 心底意外そうに牽櫂は言うが、羽依は首を振った。
「冥府にいるわたくしの父母は決して許してくれないでしょう」
 その言葉に牽櫂は羽依を突き飛ばし、卓子に置かれた瓶子を掴み、口に含む。
「死人に魂があろうか。
 死んでしまったものはそれまでだ。生きているものに何の口答えが出来よう」
 笑みをたたえて告げる牽櫂に、羽依は何も答えない。
 優しく微笑む昭妃を隣席に従え悦に入っている皇帝は人目を気にする事無く妃の唇を吸ったり、乳房に触れている。佳羅は正面に見ていられなかった。
 皇帝と妃の睦まじい様子に佳羅は吐き気をもよおし、酒席をあとにする。
 部屋を過ぎり手近な回廊に出ると、佳羅は柵から身を乗り出し胃の中身を吐いた。
 ――おぞましい。あの男の言い様に何故あのように微笑んでいられるのだ。
 死人に魂はない、死人は生きているものに何の口答えができようか――牽櫂の科白は佳羅の心象を不快にする。佳羅は無残にも亡くなった魂の存在を背後に感じて、今まで生きてきた。その佳羅の生の意味さえも、皇帝・牽櫂は否定しようというのか。その皇帝の言葉に、親を殺された昭妃は従うのか。
 昭妃・羽依に惹かれている己に憤りを覚え、佳羅は柵を拳で殴り付ける。木枠で出来た柵は軋み、振動が佳羅の手に伝わった。
 ――愛したのが、あの女でさえなければ!
 佳羅は切にそう思った。昭妃・羽依ではないただの女であったのならば、今、佳羅はこんなにも苦しまずにすんだはずだ。
 否、佳羅もこれまで昭妃・羽依を見つめ続け、羽依自体に罪が無いことを分かり切っていた。昭妃・羽依に狂った皇帝・牽櫂が、すべての元兇なのだと悟っていた。が、そう思いきるほど、羽依の微笑みは邪気が無く、佳羅を余計に傷つけ、どうしようもなく惹き付ける。
 だからこそ、佳羅は羽依が唯々諾々と牽櫂に抱かれ続けていることに我慢がならなかった。今すぐにでも皇帝・牽櫂を斬って捨てたいほど憎悪していた。
 ――これは、嫉妬だ。
 佳羅にとって、悟りたくはない自覚だった。
 ため息を吐き、佳羅が額の汗を拭ったとき、羽依の居る部屋から陶器の割れる音と皇帝の怒声が聞こえた。
 佳羅が無意識に反応して駆け付けると、羽依が筵の上に倒れ伏していた。侍女達が蒼白になって成り行きを見守っている。
「……妃の…座を、降りるだと!?」
 羽依は牽櫂に殴られ、赤く腫れた頬を押さえて上身を起こす。
「わたくしは……子を生んでいない女であり、その上、謀反人の娘です。
 恵夫人様が身篭もられたのを機に、わたくしを下位に降ろしてくださいませ」
「おまえは俺が愛する、たったひとりの女だ! 他の女とは違う!」
 羽依は涙を流し訴える。
「わたくしを、もうこれ以上苦しませないで下さいませ……。あなた様に抱かれるたび、幾度となくわたくしは父母の恨みの声を聞いてまいりました。
 わたくしは生ある限り、あなた様に愛を返すことは出来ませぬ」
 羽依の言葉に、牽櫂の顔は赤く、憤怒の様相に変わる。
「今まで…告げていた愛は、偽りだというのか!」
「生きているかぎり…心からあなた様を愛することはできませぬ……。ましてや、子など……わたくしは子など身篭もれば、狂ってしまいましょう」
 次第に牽櫂の躰が瘧のように震えだした。震える手先は、腰に帯びた剣を握る。
「死ねば……おまえは、俺のものになるのか……? 永久に、俺のものに……」
 牽櫂の問いに、羽依は静かに頷く。
 羽依の涙に濡れる瞳が、きらきらと歓喜に輝いているように佳羅の目に映った。
「ならば…今、ここでおまえの命に引導を渡してやる」
 手に掛けていた剣を抜き放つと、牽櫂は羽依の頭上に構える。
 羽依は静かに目蓋を閉じ、来る死を待った。今度こそ本当に死ねると、羽依は心から安らかになった。
 佳羅は瞠目してその光景を見ていた。今にも声を放って、羽依のもとに駆け寄りたい衝動に駆られる。が、羽依の死を願う佳羅が必死で思い留めていた。
 ――このまま、昭妃を死なせろ! 昭妃を死なせ、皇帝・牽櫂を自滅させろ!
 いつしか佳羅の額に冷汗が、しきりに流れ落ちていた。
 暫時、目を瞑っていた牽櫂は、かっと目を見開くと刃を一気に振り降ろす。
「おまえは、俺のものだっ!」
 怒声と、風を斬る音がした。


 羽依は頬に、何か生暖かいものが降り注いだような気がした。
 ――え?
 目を閉じたまま、片手でそれに触れると、ねっとりとして濃い匂いがした。
 ――血!?
 それが血だと判り、羽依は咄嗟に目を開ける。血に触れたわりに、羽依自身は何の痛みも感じていない。
 何か、柔らかなもの覆い被さっている。背から鮮血を滴らせ、羽依を庇っている。
 ――!
 それを目のあたりにして、羽依を言葉を失った。己を庇い、背に刃を受けたのは……揚樹だった。
「揚…樹……」
 羽依が揚樹の頬に触れると、揚樹はうっすらと目蓋を開けた。
 予想外の展開に動転した牽櫂はなおも、羽依に切り掛かろうとした。
「くそっ、邪魔をするなッ!」
 刃を振り上げた牽櫂の腕に、不意に花瓶が投げ付けられ、牽櫂はそちらを睨み付ける。
 険しい眼差しをした舞姫・佳羅が牽櫂にも負けない形相で睨み返していた。
「うぬ、邪魔するのならそなたもッ!」
「陶嬪が亡くなり、揚樹どのの血まで流させて、その上まだ血が欲しいかッ!
 この後宮を血の汚れで汚したいのかッ!」
 低く響く声で、舞姫・佳羅が皇帝に怒声をあげる。
「佳羅…殿、お止めなさい…っ」
 命を振り絞って、揚樹が佳羅に語りかける。
 はっと、佳羅は揚樹を凝視する。
「陛下…羽依様の命の、代わりに…この、揚樹の魂をお納め下さい…羽依様に、罪は……」
 それだけ言うと、揚樹はうな垂れた。
「揚樹ッ、揚樹――!」
 羽依が揚樹の躰を揺する。佳羅も皇帝の横を擦り抜け駆け寄った。
「……っ」
 錯乱する部屋を見て、ようやく我に帰った牽櫂は舌打ちし、佳羅を睨み付けて立ち去った。
「揚樹、揚樹ッ!」
 佳羅も跪き、揚樹に語りかける。佳羅の声を耳にして、揚樹は目を開けた。
「羽依様…、羽依様には…佳羅殿が、います…け、して…自棄など、起こされません…よう」
 己の手を握り締め掻きくどく揚樹に、羽依は何度も頷く。
「佳羅……」
「何だ!?」
 佳羅も揚樹を覗き込む。その目には、涙が溢れていた。
「羽依様を…どうか……」
 それが、揚樹の最期の言葉だった。
 力を無くした揚樹の首はがっくりと垂れ、羽依が何度手を握り締めても力が篭もることはなかった。
「いやあぁぁぁぁぁッ」
 羽依の、声にならない声が空を引き裂き、消えた。絶叫は、羽依の意識までも引き込んだ。
 心を無くした羽依の躰を抱き締め、佳羅もまた泣いていた。






佳人炎舞(2)へ


このページ先頭へ