ひとつの燭台にだけ火が灯され、ぼんやりと明るい部屋のなかで羽依と揚樹は向かい合って座った。
初秋の宵、苑池で水浴びをしていた佳羅を偶然に見てしまい、その場で佳羅に抱かれ罪を被せられたこと、佳羅に己を信用させるため、佳羅の求めるままに躰を与え続けていることを羽依は揚樹に掻い摘んで説いた。
話を聞いた揚樹はしばらく言葉も出なかった。話の筋では、佳羅は羽依に極悪非道な行いをしているように聞こえる。揚樹の耳目には二人が求め合っているように届いたのだが。
昼間の佳羅の眼差しには一種の慈しみが篭められていたように感じられ、羽依が佳羅を見返す目にも、嫌々ながらという色ではない艶があった。
二人とも、お互いそれに気が付いていないようだ。年寄の詮索のしすぎかもしれないが、揚樹は羽依がやっと妙齢の女らしい華やぎを身につけたような気がした。
「羽依様は佳羅を面妖だと思われないのですか?
男が正体を隠して後宮に忍び込むのはきな臭いような気がいたしますが」
羽依は嘆息して頷く。
「ええ、わたくしも解っているの。
でも、わたくしは佳羅と約束してしまったわ。
佳羅に殺されるのはかまわないけれど、裏切ったと思われるのは哀しいわ。だってわたくしが初めて友として好きになった人だもの」
初めて友として好きになった人――羽依はそう言ったが、羽依が己の想いにどこまで気が付いているのかは疑問だった。
「ただ、わたくしのせいで揚樹が佳羅に殺されるのは、わたくし見ていられないの。わたくしは殺されれもいいけれど、揚樹が殺されるのは黙って見ていられない」
「羽依様……」
揚樹は目頭が熱くなった。
これほど主人に思われている己は幸せだと、揚樹は本気で思った。
「揚樹……お願いだから、誰にも佳羅の正体を教えないで。侍女や宦官、ましてや陛下に教えては絶対にだめよ。
佳羅はわたくしが説得するから」
「ですが羽依様――あなた様の負担が重くはなりませんか?」
羽依は優しくほほ笑んだ。
「こうなっては一層、佳羅はわたくしの躰を離してくれないかもしれないわね。でも揚樹を守るためならかまわないわ」
「羽依様は、佳羅に辱められるのがお嫌ではないのですか?」
羽依は瞬時、頬を染めた。頬が赤いのを誤魔化すために、羽依は湯気がたつ緑茶を一口飲んだ。
その様子は、鮮やかな牡丹が花開いたようであった。可憐で、艶麗であった。
「――始めは、戸惑ったわ。怖くもあったわ。
でも、嫌ではないの……。陛下に抱かれているときのような不快感は一切ないのよ。わたくし――おかしいかしら。どうしてなのか、自分でも解らないのよ」
羽依の表情を眺めて、揚樹は緩く笑んだ。
「羽依様は、佳羅に恋をされているのでしょうか」
羽依は、意にも介していないという顔をした。まだまだ子供な羽依に、揚樹はやれやれと肩を竦めた。
「揚樹は難しいことを言うわ。
恋なんて、もっと解らないことだもの」
考えてみれば、羽依には思春期が抜け落ちていた。思春期に陥る暇もなかった。
十歳で両親を殺され、悲しみのどん底の中十三の歳に親の敵である牽櫂に乙女を奪われた。羽依は恋をして、相手に乙女を捧げたいという幸せな夢を抱いたことが無かった。気が付けば羽依は牽櫂の腕のなかに納まっていた。哀しいことだ。
否、牽櫂がいなかったとしても、羽依は託宣という運命に縛られていた。
託宣に基づいて十歳で南遼に嫁ぐはずだったのだ。顔も知らない男に嫁いで羽依は恋をすることがありえただろうか?
悲運のなかにあって羽依に芽生えたこの兆しは奇跡といってよかった。
だがそれは次ぎなる悪運の種でもある。
羽依は不本意ながら皇帝・牽櫂の妃だ。佳羅と羽依が不義密通を行なうのを黙って見ていてよいのかと、揚樹は迷った。
さらに、佳羅は得体の知れない男だ。羽依にとって優しい抱擁は、裏返せば刃になる可能性もある。
佳羅が何かを行なうのに羽依を利用しているのならば、揚樹は阻止しなくてはならない。
が、佳羅の要求を断れば、それこそ羽依の命が危ない。
どちらも取りたくない選択だ。
揚樹はできれば羽依に兆した恋の蕾を摘みたくはなかった。佳羅に裏が無ければ、二人を結ばせてやりたかった。
にわかに、揚樹はしたたかな女に変身した。
「羽依様……あなた様の秘密をわたくしに分けてくださったこと、感謝いたします。
揚樹は羽依様のおためなら何でもいたします」
揚樹の憂慮がにわかに払拭されたので羽依は面食らった。
「揚樹?」
「これからは冷え込む季節――亭での逢瀬ではお二人とも躰をこわしましょう。
ですから、わたくしが佳羅を羽依様の閨に手引きいたしましょう。
ただ、これだけは心してくださいませ、羽依様。
やはり佳羅は油断のならぬ者です。佳羅に後宮や瑞鴬殿の機密を聞かれても、答えられてはいけませんよ。答えられれば羽依様やわたくし、ひいては北宇に危機を招くかもしれません」
真剣な表情で説く揚樹に、羽依も真面目な顔で頷いた。
「揚樹……もしもこのことが他人に知れれば、そなたも罪を被ることになるのよ。
それでもいいの?」
羽依は揚樹を止めるため、消極的に呟いた。
「何をおっしゃいます。
わたくしの命は、すでに羽依様に捧げております。
羽依様のために働けるのなら、この揚樹、死んでも悔いはありません」
揚樹は羽依の手を握った。
嗄れた手の暖かさが羽依の心に染みいった。佳羅が注ぐ激しい情とは異なった、ぬくぬくとした情だった。
逆境にあって、これほど我が身を思ってくれる侍女を得たことが羽依には幸せに思えた。ささやかながら、ありがたかった。
「揚樹……ありがとう」
万感の思いを篭めて、羽依は呟いた。
さっそく、揚樹は次の日から動きだした。
昼間、佳羅と羽依は互いに目を合わせなかった。距離も、昨日に比べて遠かった。
佳羅は何となく苛々している。他人には解らない程度だが、昨日の当事者である羽依と揚樹には容易く理解できた。
羽依は四六時中、俯いている。佳羅と目を合わせないためである。
揚樹にはいささか羽依が痛々しく見えた。佳羅の怒りが、余計に羽依を痛め付けていた。
若さゆえの愚かしさ――揚樹は他人事のようにため息を吐いた。大人の目から見れば、二人のぎこちなさがこそばゆかった。
佳羅は夕刻になっても羽依にひとことも話さなかった。秘かな接点も持たなかった。
皇帝が泊まりにくれば、少しは二人に変化があったかもしれない。が、その宵も牽櫂は訪ねてこなかった。
寝具の用意をして侍女達が下がったとき、羽依は揚樹だけ引き止めた。
羽依は不安そうに揚樹に相談してきた。
「ねえ……佳羅は何も言ってこなかったわ。
今宵も亭で待っているのかしら?」
おろおろと取り乱す羽依を安心させるため、揚樹は笑顔を造る。
「昼間は人の目が多うございます。
佳羅は怪しまれると思い、話しかけてこなかったのでしょう」
羽依はまだ心細いようだ。
「わたくし……今宵、亭に行くのは気が引けるわ」
「でも、逢って話さねば何の解決にもなりませんでしょう」
羽依は黙り込む。
恋の駆け引きに不慣れな羽依が、揚樹には面映ゆく見えた。
十三の歳から牽櫂に愛され、それなりに熟れた女ぶりを見せている羽依だが、精神面ではこれほどに不器用なのだ。心と躰の反比例は、成熟した女の上では、めずらしいことだった。
そんな羽依の様が、揚樹には微笑ましかった。
「ならば羽依様、わたくしが佳羅をここにつれて参りましょうか?」
羽依は表情を変えた。
「それでは、そなたを危険に曝すわ!」
揚樹は笑みを浮かべた。
「羽依様、大丈夫ですよ。
わたくしにも困難をくぐり抜ける度胸はあります。それにわたくしが一度、佳羅と話をしてみたいのです」
「揚樹……」
それでも納得しない羽依を押し止めて、揚樹は亭に向かった。
案の定、佳羅は羽依を待っていた。少し厳しい面持ちをして。
やってきたのが揚樹だと解ると、佳羅はより険しい顔をする。
「わざわざ、殺されにこられたのか?」
覚悟を決めていた揚樹は怯えを見せなかった。ある程度ゆとりのある態度をしていた。
「羽依様のために死ぬのなら、本望です。
そんな女を殺して、あなたは楽しいですか?わたくしは怯えはしませんよ」
揚樹の言葉に、佳羅は表情をわずかに緩める。
「では、何のためにここに来られた?
羽依は今、どうしている」
「羽依様は寝所であなたを待っておられます。わたくしはあなた方の逢瀬の仲立ちをするために、こちらに参りました」
佳羅は片眉を顰める。
「酔狂な。
主人の不義を手伝われるのか?
そんなことをすれば、あなたも煉獄に堕ちることになるのだぞ」
多分に脅しを含んだ言葉だ。
揚樹はほほ笑む。
「それならば、煉獄こそ天国になりましょう」
佳羅は言葉を止めた。何を言っても無駄なようだった。
「――あなたはわたしたちに協力するのか」
揚樹は頷いた。
「羽依様からすべて聞きました。
わたくしはあなたに協力するわけではありません。羽依様のおために仲立ちをするのです。羽依様を危険に曝さないためです」
「危険? ……わたし自身を危険だとは思われないのか?」
佳羅は揶揄した。
「もちろん、あなたは危険で面妖な方です。
もしもあなたが羽依様を害するのなら、わたくしは刺し違えてでもあなた様を殺めましょう。
ですが、危うさと紙一重のところに、本当のあなたが見え隠れしているので、それに賭けてみようとも思います」
「本当のわたし?
あなたにはそれが見えるというのか?」
いたぶるために佳羅は揚樹に告げた。本当の自らは見えはしまい、という自信があった。
が、揚樹は佳羅よりも大人だった。観察眼も勝っていた。
「あなたが時折、羽依様を見つめる瞳に揺らがせる炎――あれは、あなたの奥底に眠っている情ではありませんか?
あなたが押さえようとして押さえきれていない熱情ではありませんか?」
佳羅は尖った視線を、揚樹に投げ付けた。
燐佳羅という像に隠された青年が、揚樹の前で見え隠れした。
「あなたが契約と称して羽依様と契るのは、ひとりの男として――」
「言うなッ!」
激しい語気で、佳羅は揚樹の言葉を遮った。
これほど佳羅が声を荒げたのは、初めてだった。
「おまえに――おまえに、何が解るッ!」
揚樹は佳羅を刺激しすぎた。
佳羅の目に剣呑さが宿る。
揚樹も、言い過ぎたと後悔した。
「いいえ、何も解りません。
あなたが何のために女の身形をして、何のために後宮に潜むのかは見当もつきません。
わたくしに解るのは、あなたが自らの心を隠して羽依様と契っていることだけです。
そして、あなたが隠しきれない心を持て余していることだけが手に取るように解ります。
自らの心まで隠さねばならない何かがあるのかもしれませんが、どうか羽依様だけは哀しませないでください。羽依様を泣かせないでください」
揚樹は膝を付き、額を地面にこすり付ける。
佳羅も、これには目を見開いた。
「今、あなたに告げたことを羽依様に話すつもりはありません。
羽依様にそれを気付かれることは、あなたにとって都合が悪いことでしょうから。
それに、わたくしがそこまでする義理はありません。これは、あなた本人の問題です」
佳羅は押し黙る。
頭のなかで警告が発されていた。
――この女は危険だ、殺してしまえ!
そうしようとも思った。
が、どこかで気持ちが萎えてしまう。
――揚樹を殺すのなら、わたくしを殺してからにして!
羽依の叫びが、警告に覆い被さって響く。
何故、正体を知られたとき羽依を殺さなかったのか、あまつのはてに、羽依に手を出してしまったのか。何故、羽依との関係を今でもずるずると続けるのか。
あのとき、羽依を殺してしまえばよかったのだ。そうすれば、今、こんな面倒なことにはならなかったはずだ。
揚樹の指摘が佳羅の胸に深々と刺さった。
――昭妃・羽依は危険だ。
そう予知していたはずだ。だというのに――。
佳羅は鉛のようなため息を吐いて、揚樹に告げた。
「羽依のところに案内してくれ」
佳羅が寝所に姿を見せると、羽依は顔色を変えて寝台から立ち上がった。
「揚樹は? 揚樹は無事なの!?」
意気込んで羽依は佳羅に尋ねた。
「隣室で待機している」
話す言葉さえ、焼け付くように息苦しかった。
「そう、よかった――揚樹を、殺さないのね?」
佳羅が言葉もなく頷くと、羽依は佳羅の胸に縋り付いた。
「ありがとう――ありがとう」
羽依は佳羅の胸で泣いていた。羽依は胸の支えが下りてほっとしていた。
その夜の佳羅は荒々しかった。
何かの靄をぶつけるように羽依を組み敷いた。官能の手に引きずられながら、羽依はその行いに耐えた。
羽依が佳羅の腕の中で眠りについてから、佳羅は虚空に眼差しを彷徨わせる。
己が何をしなければならないのか、佳羅は解っている。
陶嬪を篭絡したのも、目的のためだった。陶嬪に対して湿った熱情など、髪の毛一筋も感じていなかった。
が、昭妃・羽依は違った。
まったくの予想外だった。予想外でここまできてしまった。
まるで、何かの手に導かれているようにしか思えなかった。
このまま、目的も果たせずどこにさ迷いこんでいくのか――そう考えると、今まで体感したことのない悪寒が走る。
それなのに、羽依への手を切れないのも己だ。
「愚かなのは――わたしか?」
天蓋に向け、自嘲の呟きを放った。
冬を迎えて雪がちらつき初めても、羽依との関係は変わらなかった。
佳羅は羽依の側にいることに馴れきっていた。視界の端に羽依の姿を認めると、何故か安心した。
ここ数か月で、驚くほど羽依は美しく変化した。甘く明るく輝く香気を放ち、身体から燻らせる白檀の薫りと嫌見なく調和していた。
可憐であり艶美であり、無垢な羽依に瑞鴬殿の誰もが惹き付けられた。佳羅とて例外ではなかった。否、肌を重ねる分、その度合いは誰よりも大きい。
皇帝・牽櫂も一時羽依に溺れた。突如としてなまめかしさを匂わせはじめた羽依に狂喜した。牽櫂の執着は羽依を苦しめ、苦痛は癒しを求め、佳羅に向かう。
牽櫂があまり羽依に耽溺すると、嫉妬深い恵夫人・仙葉が牽櫂をあらゆる媚態で手繰り寄せる。優れた手管を繰り出す恵夫人は牽櫂の気に入りの寵姫だ。牽櫂は羽依と恵夫人を両天秤にかけて楽しんでいるふしがあった。
佳羅は冷静になれない精神で、皇帝の頽廃ぶりを眺めていた。その頽廃の原因が昭妃・羽依だということを忘れないように目に焼き付ける。
が、目に焼き付けたところで、どうにもならない。佳羅自身、何の変化もなかった。牽櫂の訪れがないと、当然のように羽依の閨に忍んでいった。
揚樹の詮索の目も一向に緩まなかった。
侍女の揚樹は鋭い感性の女だ。油断すると足元を掬われる。佳羅は警戒を怠らなかった。
そうして冬が押し迫り、新年を迎えた頃、羽依の周辺で運命を転換する大きな事件が起こった。
佳羅が陶嬪の申し出を素気なく断ってから、まったくといっていいほど陶嬪の音沙汰がなかった。
羽依は心の片隅でいくらか安堵していた。あのような陶嬪は見たくなかったし、今や佳羅と抜き差しならない関係に陥っていたので、次、陶嬪が何かを言い出せば、以前以上に複雑になる予感がしていた。
それが突然、陶嬪から瑞鴬殿に贈り物が届けられたのだ。
螺鈿の愛らしい小箱を陶嬪の侍女から受け取り、羽依は蓋を開けてみた。
「……これは……」
昨年の晩夏、佳羅が陶嬪に譲った珊瑚のかんざしが入っていた。
羽依は眉を寄せたが、陶嬪の侍女の手前、手厚く礼をして、こちらからも飾り櫛などを持たせて帰らせた。
「佳羅……これは、どういうことかしら?」
羽依はかんざしを佳羅に差し出す。
佳羅の柳眉も曇っていた。
「さあ――飽きたから、羽依様に下されたのでしょうか。ですが、もともとはわたくしのものでしたので……何か、ゆゆしきことですね」
流暢な女言葉で佳羅は告げた。
「わたくしにくだされたものだから……わたくしに挿してほしいということかしら」
「わたくしが、陶嬪様に尋ねましょうか?」
佳羅が申し出た。が、羽依は首を縦には振らなかった。
「あなたが聞けば、逆効果かもしれないわ」
羽依はかんざしの扱いに困った。
陶嬪がどういう目論みでもともと佳羅のものだったかんざしを羽依に送ったのか、謎だった。
考えは、佳羅も同じのようだ。
その日、太陽が果てるまで佳羅は沈思しつづけた。
佳羅は夜が更けて、羽依と二人だけになってから結論を告げた。
「あまり考えないほうがいい。
それに、なるべくあのかんざしを用いないほうがいい」
枕を供にしながら、二人は難しい顔をしている。
とくに佳羅は、何かに思い当っているようで、怜悧な瞳をさらに鋭くしている。
事件は、それから七つ日を数えた後やってきた。
早咲きの梅がちらちらと花開き、芳香を聞きつけた羽依は淡い色を付けた木々の下に立つ。
供を誰も連れずに苑内を逍遥し、清楚な白梅や艶憐な紅梅に見入って、羽依はうっとりとしていた。
陶嬪から送られた珊瑚のかんざしは、一応、もとの持ち主である佳羅に渡してある。佳羅が預かると申し出たのだ。羽依はほとほと困惑していたので、胸を撫で下ろした。
佳羅は陶嬪が何故に羽依にかんざしを送り付けたのか、心当たりがあるようだ。が、羽依が問うても返答を下さない。明らかに、佳羅と陶嬪の間には羽依の知らない秘密がある。夏の終わりに見せた陶嬪の狼狽の様は、尋常ではなかったし、佳羅の冷たさも羽依の目には空々しく映った。
――もしや、陶嬪は佳羅が男であると知っているのでは?
羽依はそう疑う。
疑心を羽依は佳羅に直接ぶつけたが、佳羅は不遜なほほ笑みを浮かべたのみで、何も教えてはくれない。羽依の疑心は確信に変わった。
それだけではない。佳羅と陶嬪がすでに割りない仲であるとも感付いた。陶嬪が羽依に見せた眼差しは、嫉妬だった。あの頃の羽依は佳羅が男だと知らなかったが、今ではありありと陶嬪の煮えたぎる想いが理解できる。
――わたくしと陶嬪様は、佳羅という男を挟んで敵同志になってしまった。
羽依は佳羅に愛情を抱いてはいない、と思う。が、陶嬪からしてみれば、佳羅の足が遠退いてしまった理由が羽依にあると見えるのだろう。だからこそ、陶嬪は羽依にかんざしを送り付けたのだ。
――しかし、陶嬪様はわたくしが佳羅と躰を交わしているとは、さらさら察知していないだろう。
そう思うと、羽依の心は少し楽になる。
が、羽依は哀しかった。
やみくもな妬心を抱くほど、陶嬪は佳羅を愛しているのだ。そんな陶嬪を秘かに裏切り、羽依は佳羅と今でも枕を交わしている。恋慕の情もなく、ただ唯々諾々と佳羅に抱かれている。陶嬪のことを思えば、羽依は佳羅の要求を拒むべきなのに、どういうことか、羽依は佳羅を拒否できない。
羽依は己が恥ずべき女に成り下がったのを、ひしひしと感じていた。
その上、羽依は佳羅を完全に見失っていた。
陶嬪の恋情を軽く突放したまま、佳羅は羽依をその手に抱いた。正真正銘の冷たさを持つ佳羅だというのに、その指先で肌をなぞられれば、羽依は乱れ狂う己を押さえることが出来ない。偽りかもしれない優しい瞳を前にすれば、震える心を止めることが出来ない。佳羅の手の内にはまったゆえに、羽依は身動きが取れない。
佳羅と交わした誓いなど、その気になればいつでも反古にすることができる。皇帝・牽櫂に訴え出れば、いとも容易く佳羅を破滅させることが出来るだろう。鍵を持っているのは、己なのだ。
が、羽依にはそれができない。佳羅の中に信じられるものを一点も見いだせないのに、である。
佳羅はすでに羽依を裏切っている。陶嬪と羽依を両天秤に掛けること自体、羽依の信頼を引き裂いている。羽依にもそれが痛いほど解る。が、佳羅を牽櫂に突き出せない。羽依の情と躰がすべてをかけて否といっている。
大体、佳羅と交わした誓いも、胡散なものだ。いったいどうして、被害者である羽依が我が身を犠牲にして誓いを交わさねばならないのだろう。佳羅に疑問を持つ今ではなおさらである。
――得体が知れぬのは、わたくしの心だ。
ため息とともに、その科白が羽依の心中で零れた。
佳羅の行いに、傷ついていないわけではない。悲鳴をあげそうなほど、重い傷を負っているはずだが、それでも羽依は佳羅にどうしようもなく惹き付けられている。
――佳羅は以前にもまして、わたくしの心のなかに深く住み着いてしまっている。
それが友情といえるのかどうか、羽依は迷っていた。
羽依は重い眼差しを白梅に当てた。
真白な花弁が太陽の光を吸い込んで、まばゆく輝いている。
――美しい……。
羽依は言葉もなく見惚れた。
今は暗黒に汚れてしまった我が心の内とは、大違いである。梅の花弁は汚れを知ることなく清楚に、可憐に花開いている。
瞬きもできない眼から、幾筋もの涙が零れ、羽依はそれを袖で拭う。
「――泣いているのか?」
澄んだ声に、羽依ははっとして振り返る。佳羅が緩い笑みを纏いつけて、側に佇んでいた。
女の顔を脱いでいる佳羅に、羽依の心は高鳴る。
「……白梅が、余りにも美しいから……」
羽依は袖で涙の跡が残る面を隠す。
佳羅は体温が交じりあうほど近くに寄ると、羽依の手を優しく避けて、紅梅の花弁を思わせる唇を吸う。
馴染んだ口づけは、羽依の吐息をまさぐった。互いに求めあい、息をする間もないほど熱い接吻を交わした。
「……だめ、誰かに見られると……」
貪った後、羽依は熱く潤んだ瞳を佳羅に向けた。そう言いながらも、離れる事無く羽依は佳羅に身体を預けている。
「今ここにはわたしたちしかいない」
佳羅の甘い声音が、羽依の耳を蕩せた。
羽依は佳羅の薄い背に腕を回し、佳羅も羽依を抱き締める。
「第一、今わたしは女の姿をしているのだ。誰の目に睦みあっているように見える?」
佳羅の言葉に、羽依は笑った。
「そうね……」
羽依は佳羅の胸に頬を預けた。
幾重にも重ねた衣を通して、心音が聞こえてくる。
――やはり、離れられない。わたくしにはこのぬくもりを断つことができない。
陶酔として羽依は思う。
佳羅もほのかに燻る白檀の薫りを確かめるように、羽依の黒髪に鼻腔を埋める。
その時――。
木々を踏みならす音と、小さく息を飲む声がい抱き合う二人の耳目を突いた。
佳羅は羽依を腕の中に庇い、気配に鋭い視線を投げ付ける。
「……!」
己を包む腕が硬直したことに気付き、羽依は恐る恐る佳羅の単衣ごしに相手を見、弾かれるように男の腕から離れた。
「陶嬪様……ッ!」
陶嬪は凝り固まったまま、ぎくしゃくとした動きで、口元まで両の手のひらを遊ばせる。
「こ、これは違います。わたくしは……」
弁解の声をあげた羽依の耳に、くくっ、と引きつれた嗤いが刺さってきた。
「そう……そうだったのね……。
佳羅、あなたはわたくしではなく羽依様を選んだのね……。これで、どうしてあなたがぱったりとわたくしを抱きにこなくなったのか解ったわ」
陶嬪はあっさりと、瞠目する羽依に佳羅との秘密を暴露した。
羽依は佳羅に視線を宛てたが、佳羅の表情は変わらず、むしろ悠然とした笑みを浮かべていたので、羽依は戦慄する。
「――何のことか、解りませぬが」
軽やかな女の声で、佳羅は陶嬪に言った。
陶嬪は佳羅の言葉に目を見開き、大股で男に歩み寄ると、勢いよく佳羅の頬を叩いた。
「わたくしが、何も識らないと思っているの? あなたが夜毎、羽依様と睦みあっていることを」
佳羅と陶嬪の間に挟まって、羽依は躰が凍りそうになった。蒼白な面で打ち震える羽依を見て、陶嬪は嘲ら笑う。
「羽依様は何もお知りではなかったのかしら、わたくしと佳羅がどういう仲なのか――。
わたくし、佳羅の訪れがなくなって死にそうになりましたわ。だから、一月前、自ら佳羅のもとに忍んで参りましたの。
そうしたら、あなた様が佳羅と痴態を繰り広げている真っ最中でしたの。見張りの揚樹殿は眠っておられて――あれでは役にたちませんわね」
陶嬪はほほ、と癇の高い嘲いをあげる。
「話はそれだけか」
佳羅の凍てついた声に、辺りの空気がきんと張り詰める。陶嬪の顔も硬直した。
「――そうやって最後まで開き直るつもりなの?
わたくしをこんなにぼろぼろにしておきながら、あなたは羽依様との恋を貫いて――許されると思っているの?」
「恋……?」
詰る陶嬪に、佳羅は侮蔑の視線を浴びせる。その口許には、冷笑が貼り付いている。
「これが恋だと、あなたは本気で思っておられるのか?
わたしと羽依の繋がりは当人同志で了解済の戯れだ。恋などとは、馬鹿馬鹿しい」
さらり、と佳羅が語った科白は、羽依の心を締め付けた。ぎりぎりと縛り上げ、羽依の心に滴る血を一滴残らず搾り取る。
感情が抜け落ちてしまった羽依の躰は、人形となって屹立していた。
が、佳羅の言葉は陶嬪には通用しなかった。
「しらばくれないでッ!
あなたは自らが、どんな眼差しで羽依様を見ているのか識らないのよ!
あんなに熱く滾った瞳が――恋ではないはずが、ないでしょう!」
佳羅の躰が軋む。脳裏が空白になり、今まで感じたことのない衝撃が走る。
羽依の耳に陶嬪の言葉は届いていない。
佳羅の様相は、陶嬪にとっても打撃だった。
「そう……なの……? やはり……」
陶嬪の声が擦れ、涙が溢れる。
陶嬪の視線をまともに受け止められず、佳羅は目を反らす。
「佳羅……わたくしを、愛してはいないの? わたくしを何とも思わずに抱いたの? ねえ……」
陶嬪が佳羅の単衣の袖を掴み揺すぶる。が、佳羅は陶嬪を一目とも見ようとしなかった。
どれだけの時をそうしていたのだろうか、三人は硬直したまま身動きをしなかった。
ぴくり、と肩を震わせたのは、佳羅だった。陶嬪の名を呼ぶ侍女の声が耳朶に入ったからだった。
やっとのことで、佳羅は陶嬪を見る。
「侍女達がお探しですよ」
冷静さを取り戻し、流暢な女言葉で語りかけた。
「いやッ、わたくしのことを嫌いにならないで!
わたくしのことを愛してッ!」
陶嬪は佳羅に縋り付き、狂乱して泣き喚く。
佳羅は陶嬪の肩を掴み、引き離そうとしたが、渾身の力でしがみ付いているので、簡単には離れなかった。
大声で泣き叫ぶ陶嬪の躰を、駆け付けてきた侍女が掴んだ。
「陶嬪様ッ、お探しいたしました!
わたくし達に断りもなくお姿を消されると、困ります!」
無理矢理佳羅の躰から陶嬪を引き剥がした侍女達は、陶嬪を引き立てる。
「いやよ、放してッ!
わたくしは佳羅から離れないわッ!」
陶嬪は必死で佳羅に手を延ばすが、空を掻いただけで届かなかった。
侍女達に引き連れられて、陶嬪の涙でぐっしょりと塗れたかんばせが庭苑から遠ざかっていく。
羽依は虚ろな目付きで、回廊の陰に隠れた一向を眺めていた。
――わたしと羽依の繋がりは当人同志で了解済の戯れだ。恋などとは、馬鹿馬鹿しい。
佳羅の言葉が氷柱となって羽依の精神を貫いた。己も、そう思っていたはずだ。それなのに、羽依の心は粉々に粉砕してしまった。
「羽依、気にするな。
陶嬪がひとりで激昂しているだけだ」
佳羅は羽依の腕を取る。
羽依は咄嗟に佳羅の手を振り払った。佳羅に触れられた箇所に痛みらしきものを感じた。
不思議そうに目を見開いた佳羅に、羽依は面を伏せる。
「そう――そうね……」
俯いた加減で透き通った額に陰りが生じる。佳羅は羽依の暗さに尋常ならぬものを察知した。
「羽依……?」
再度、羽依の腕を取ろうとした佳羅の耳目に、揚樹の姿が入ってきた。
「羽依様、陶嬪様がお見えになられたと、聞きつけましたが――」
息を切らせる侍女に、羽依は不自然なほどに輝く笑顔を見せた。
「もう、お帰りになられたわ。
たいしておもてなしもしていないのに、陶嬪様に悪いことをしてしまったわね」
羽依は揚樹のいる階に足を向け、振り返りざまに佳羅に告げる。
「部屋に入りましょう。少し、冷えてきたわ」
引き止めようとする佳羅を残して、羽依は足早に苑内を過る。
手の内から擦り抜けていった羽依に、佳羅は怪訝な眼差しを宛てた。
宵闇の帷が空に垂れ籠めた頃、待ちかねたように佳羅は秘かに羽依の耳元に囁いた。
「亭で待っているから、絶対に来てくれ」
息を止めた羽依に、佳羅は掴んだ手の力を強めた。
佳羅が房内から下がっていくのを見ながら、羽依は佳羅の手の感触が残る腕を擦った。
小椅子に茫然と座り込む羽依の目に、あたふたと夜具の支度をする侍女達の姿が空虚に映る。
侍女達がさざめく光景は、次第に陶嬪と佳羅が絡み合う姿となった。互いに生まれたままの姿で四肢をもつれさせ、男女が深くつながっていく映像が、紗のかかった脳裏に鮮やかに立ち起こる。
羽依は小さな悲鳴をあげ、手の平で面を覆う。
ただの推測だと思っていた。思っていたかった。
が、昼間に陶嬪が至極簡単に肯定してしまった。
佳羅は陶嬪に触れた同じ手で羽依を愛撫したのだ。陶嬪のささやかな乳房を愛で、柳のように絞まった腰を撫で上げ、奥まった花弁に接吻した唇で、まったく同じ行為を羽依に与えたのだ。
淫らに悶える陶嬪の表情が、昼最中の苦渋に変わった。
可憐さや貞淑さをかなぐり捨てた哀願の目が、羽依の心を二つに裂いた。
その上、痛みに喘ぐ羽依に、幻想の佳羅は酷薄な眼を投げ付け、告げた。
――おまえに恋などとは、馬鹿馬鹿しい。
羽依は信じたくなかった。
佳羅は陶嬪を打ち捨てたあげく、己まで辱め、その心を弄んだのだ。みずからを抱きながら、胸の内で残酷極まりない嘲笑を浮かべていたのだ。
しばらくして、羽依は伏せていた顔をやっとあげた。
――もう、止めなければ。佳羅と関係を結ぶのは。
羽依は大腿に纏わり付く絹の寝衣を、引き裂けんばかりに握り締める。
みずからの貞操を護るためにも、これ以上佳羅に失望しないためにも……。
閨の内から人影が消えたのを見届けて、羽依は凍った廊下を踏みしめた。
羽依の告白を聞いた佳羅は、血走った目をして女の華奢な肩を掴んだ。
「何故、そんな事を言う!?」
間近に見る佳羅の鉄面皮をなげうった顔に、羽依は息を詰まらせた。
「――もう、関係を続けるのが無意味だと悟ったから……。
わたくし達が長い間夜を供にしたことは消えない事実。それさえあれば、わたくしが陛下に告げ口出来ない証拠となるでしょう」
感情を消した呟きに、堪え切れなくなった佳羅は羽依の躰を強引に抱きすくめ、唇を奪う。
激しい口づけに、羽依の決心は萎えそうになる。水面下で燃えていた想いが、羽依の身体の中から一気に吹き上げそうになる。
佳羅の手が衣の上から女の弾力のある胸乳を捻りあげ、緩急折り混ぜて揉みしだきはじめた。
羽依は沸き上がる甘美さに、我に帰る。
身動きの取れる手を振り上げると、口吸いに夢中になっている佳羅の頬を殴る。
佳羅の躰が勢いよく横薙ぎに倒される。
「それ以上わたくしに触れると、今度こそ間違いなく陛下にあなたの正体を暴露するわッ!」
体勢を立て直した佳羅は、血走った眼差しで羽依を凝視した。
「……あなたは陶嬪様を弄び、その上わたくしまで辱めた。
あなたにとって女は、よくできた欲望の捌け口なの? 快楽を得るための道具でしかないの?」
「違う、わたしは……ッ!」
「わたくしも、愚かだったのよ。
陛下に酷い目に遇わされて、男というものがよく解っていたはずなのに――髪の毛一筋もない友情の名残を、信じたかったのよ。
でも……この関係が間違いだとやっと気が付いたわ。
わたくしたちは、一線を超えるべきではなかったのよ。綺麗なままのほうがよかったのだわ」
羽依は己の言葉を噛み締めていた。
一線を超えなければ、互いに清らかなままだったら、佳羅に対して救いのない想いを抱かずにすんだのだ。今では、もう遅い。
羽依が友情の代わりに得たものは、残酷なほど絶望的な恋情なのだ。手を延ばしても、決して届くことの無い……。
長い回り道をして到った真実に、羽依は涙を流す。
そんな羽依の様子に、佳羅がやっとのことで塞き止めていた情熱が、するりと関を破り出る。
拳を小刻みに震わせ、真っ青な面で佳羅は重い吐息とともに凝った想いを告げる。
「わたしは……おまえを快楽の道具にしたわけではない。
わたしは、男として、ひとりの人間として……」
闇に溶けてしまいそうな声で佳羅が呟きはじめたとき、揚樹の金切り声が天に轟いた。
理性の雷が佳羅の胸に落ち、荒い足音で駆け寄ってくる揚樹を見る。
ただならぬ揚樹の様子に、羽依も悪い予感を抱いた。
二人のもとに辿り着かないままで、揚樹は一声を響かせた。
「と、陶嬪様が、首を吊ってご自害を……ッ!」
瞬時にして、羽依は石になった。手は感覚を無くし、脳は動きを止める。
魂が途切れた羽依の肉体は、もんどりをうって佳羅の腕の中に倒れこんだ。
人々が寝静まった後宮の自室で、陶嬪・硝珠は自縊死した。
主人の精神の不健康さを案じていた侍女達の目を盗んで、死を遂げたのだという。
後宮が鈍色に包まてから二日が経過して、羽依は昏睡から目覚めた。
枕元に席を寄せ付けて、皇帝・牽櫂が不安げな視線を妃に宛てている。
「……目覚めたか?」
見れば、牽櫂は羽依の白い手を握り締めていた。体温が交じりあっていることから、長い時間、手に触れていたことが解る。
皇帝のうしろには、数人の侍女と揚樹、それと佳羅が控えていた。
「おまえは二日間、眠り続けていたのだ。
陶嬪の死の報せによほど胸を痛ませたのだろう」
羽依は室内に視線を飛ばし、佳羅を見た。
少しばかり沈鬱な面持ちで面を伏せていた。そこからは、表面どおりの感情しか読み取れない。
「陶嬪様は……?」
羽依は牽櫂に尋ねる。
「今、廟の中に遺体が安置されている。
仮殯が行なわれている最中なのだ」
「そう……ですか……」
羽依は細く呟いた。
上体を起こそうとした羽依に牽櫂が手を挿し延ばす。羽依はそれに縋った。
甚だめずらしい反応に、牽櫂は戸惑う。
「羽依……?」
「……離さないでくださいませ……。
心細くて、生きた心地がしませぬ」
縷々と呟く声音は、甘かった。
揚樹は驚愕し、隣に佇む佳羅に目を向け、さらに驚く。
白皙の額がより色を無くし、猛り狂う目が寄り添う皇帝と妃を睨み付けていた。
牽櫂は羽依の身体を寝台に寝かせ、覆い被さるように女の肢体を抱き竦める。
揚樹は主人の有様を見ていられなかった。硬直する佳羅の手を引いて閨房をあとにした。
二日前の昼、陶嬪の訪れがあってから羽依の様子がおかしかった。揚樹も、陶嬪と佳羅に何かあると察知していたが、佳羅に何も言い出せなかった。
己に対する叱責と、主人に心にもない態度をとらせている佳羅への恨みが、揚樹の心のなかで吹き荒んだ。
牽櫂の腕のなかで、羽依は放埒に乱れた。初めて我がものにしてから、羽依がこれほどに妖しい様をみせたのは初めてだった。羽依の嬌態に吊られるように、牽櫂は女の中で何度も解き放った。
「羽依、羽依……そなたを離さぬ、そなたは俺のものだ……!」
うわごとのように牽櫂はその言葉を繰り返す。
「それ…ならば、わたくしを離さないで……。ずっと…この躰に…感じていさせてくださいませ……」
男に深々と貫かれながら、羽依は高く細い声を放つ。
皮肉なことに、このとき羽依は牽櫂の面影を見ていなかった。
己を抱く強い腕も、胎内を激しく突き上げる情欲も、羽依の脳裏には燐佳羅に映った。
男の体躯が離れると、そのたび羽依の心は擾乱した。
――わたくしはなんと浅ましく、情けない女だろう……。
陶嬪は己と佳羅の関係に傷ついて自害したのだ。己が陶嬪を殺したようなものである。
だというのに、加害者である己は現実から逃れるために、男に抱かれている。
が、羽依はそうでもしなければ苦しさゆえに、狂ってしまいかねなかった。否、すでに狂っているのかもしれない。
佳羅が羽依を抱くときの手管を、四肢の熱さを、唇の感触を今すぐにでも忘れたかった。忘れるためならば、相手は誰でもよかった。たとえ、親の敵であったとしても。
が、躰の中から情事の余韻が抜けていくと、羽依はどうしようもなく自己嫌悪に囚われた。
あろうことか、嫌悪する男を、違う男を忘れるために利用してしまったのだ。行為に溺れれば溺れるほど、羽依の躰は拭いきれない汚辱に塗れていく。
我に返って、己のしたことを後悔しても、とりかえしがつかない。
羽依の精神はみるみるうちに荒廃していった。その心に、それでも佳羅の姿がまばゆく浮かんだ。羽依はそれを何度も消そうとするが、振り払っても振り払っても面影を振り切ることが出来なかった。
考えれば考えるほど惑乱して濃艶な態を見せる羽依に牽櫂は溺れ切った。羽依の躰なしではいられなくなった。
皇帝は政務を疎かにした。政の一切を忘我し、昼と夜の区別無く妃の寝所に入り浸った。
牽櫂の性愛の吹き出しかたは、とめどない。女の息が付く間もなく欲望を取り戻し、うとうとと微睡みはじめた羽依の肢体を抱き直す。男の性は底無しだった。
途切れることのない皇帝の情事は、揚樹を焦燥させた。
長い長い牽櫂との交わりは、必ず羽依を酷く傷つけていると揚樹は睨んでいた。
そして、こんな酷い情交を強いらせた佳羅を憎悪の目で見ていた。
佳羅も、居たたまれない思いで昼夜を過ごしていた。
陶嬪の死んだ夜まで、たまに皇帝が尋ねてくる夜以外は、例外なく羽依は己のものだった。おそらく、その心も。
が、陶嬪の死を境に、羽依は心身ともに佳羅の腕から擦り抜けていった。
今の佳羅は羽依が皇帝に抱かれているのを、歯噛みしながら見守るほかない。
羽依を取り戻したければ、己の正体を曝せばよいのだ。が、そうすれば、男としての矜持を捨てて、女の姿に身をやつした意味が無くなる。
大体、昭妃・羽依と関係を結んだこと自体が間違いだったのだ。初めて女の膚肌の暖かさを知った瞬間、己があの女に引きずられそうになったことを忘れたわけではない。その躰に触れてしまえば、止まれないことは解っていたはずだ。
ふつふつと沸き上がってくるこの情熱は禁忌だ。男として生きることを捨てる屈辱、望みもしない相手と躰を交わす恥辱は、今でも生々しくこの身に残っている。初めて自ら求めたとはいえ、燐佳羅の存在自体が昭妃・羽依を求めることを許さない。
陶嬪の死自体も、佳羅にとっては予想外だった。
陶嬪・硝珠の大人しく優しい様を見て、この女ならば軽々しい行動を取るまいと、佳羅は初見で察知した。
佳羅は見違えていたのだ。陶嬪は生まれと身分に縛られて現すことの出来なかった正体は、熱く激しい女のものだったのだ。陶嬪が愛を知ったとき、それは初めて女の中から吹き出し、相手をも、己をも滅ぼしかねない凶暴さを顕わにしたのだ。
陶嬪が己の恋に絶望して死んだのは明らかだが、死の目的は自身を滅ぼすためだけであったのか、佳羅は反芻する。
――もしや、わたしと羽依の間を引き裂くために……否、それだけではない。このわたしに一矢だけでも報いようと、自らの命を武器にしたのでは。
陶嬪にたしかな復讐の意志はなかったかもしれない。が、無意識の悪意が働いて、己を追い詰めようとしたのかもしれない。佳羅は、改めて恋する女の恐ろしさを意識した。
羽依は、陶嬪と同質の女なのだろうか……。佳羅は羽依という女も掴みきれていなかった。
己に抱かれている羽依の仕草は、今まで己に想いを寄せてきた者のものと同じだった。拒む態を取りながらも、己が触れれば易々と征服することのできるそれである。
だから、今、羽依が望んで皇帝・牽櫂に抱かれているのが信じられなかった。陶嬪の死の夜から繰り返されている皇帝と妃の情事に、女の抵抗の様子はまったくない。今まで、羽依が己に向けてきた熱い瞳は嘘だったのか?
佳羅は人の気配のない庭苑で考えに耽っていた。散りしいてしまった梅に変わって愛らしい木蓮が咲いている。重たげに花をつける木蓮の花枝が、長身の佳羅の高くひとつに結わえられた髪に触れた。
佳羅が髪に絡み付いた花枝を外そうと試みたとき、泰然とした面持ちの揚樹が階を降りてきた。
「佳羅殿、話があります。よいですね?」
否やを言わせぬ堅い口調であった。
乱れた髪を肩に跳ねのけると、佳羅も鋭い眼差しで頷く。
「あなたは、陶嬪様と深い仲にあったのですね?」
佳羅が是と答えると、揚樹は重い嘆息を吐き、恨みを込めた目で佳羅を睨む。
「羽依様が目も宛てられぬ様になられたのは、あなたのせいです!
あなたが陶嬪様と羽依様を諸手に抱かれたから……!」
揚樹の詰る言葉に、佳羅は声が出なかった。
「羽依は――あの夜、わたしと情を交わすの拒んでいた。何故、羽依がわたしを拒み皇帝に抱かれているのか解らない」
佳羅が悄然と呟いた言葉が、揚樹の癇を余計に逆撫でする。
「しれたこと、羽依様があなたに想いを寄せていたことをあなたは知らなかったのですか。色事に長けたあなたが、そんなことも気が付かなかったと?」
「それは――薄々感付いていた。だが、それがどう関係ある?」
だんだんと語調が弱くなる佳羅に反して、揚樹の語気は荒くなってくる。
「なんと愚かな……!
あなたのとの情事に傷ついたのは、陶嬪様だけではありません!
あなたのせいで、羽依様は憎い皇帝に抱かれて身悶えていらっしゃるのです!」
佳羅は瞠目した。
大きく開いた鳶色の瞳は戸惑いを宿し、次第に濃い悲愁を映す。
強く握り締めた拳に、揚樹は胸を突かれた。佳羅の瞳に、隠しきれない焦りと悲しみを見付け、その奥にある想いに触れたような気がした。
「……わたしが陶嬪と躰を交わしたのは、わたしなりの理由があってのことだった。決して、恋情を感じたことはない。
だが……羽依は、いつもと違う。わたしの意志や理性を超えて、羽依の存在はわたしの心に語りかけてくるのだ。わたしは……いつものわたしとは違う」
佳羅が細々と語る本音に、揚樹は無心で聞き入った。
凍て付いた空気を纏う佳羅の本性は、実は繊細な心を持つ青年なのだろう。己の心の変化に戸惑い、焦る。否定しようとして、ますます惹き付けられていく。
やはり、思ったとおりだった……揚樹の心に温もりが戻る。
主人の想いに間違いがなかったと、安堵する反面、揚樹は荒れ狂う羽依を見ていられない。
「佳羅殿は、羽依様を憎んでいるわけではないのですね?
ならばこれ以上、羽依様が過ちを繰り返すのを止めさせてください」
揚樹の言葉に、佳羅は皮肉な面を上げた。
「どうすれば止められると?
わたしが、偽りでも愛を告げればよいと? わたしはまっぴらごめんだ。
わたしは羽依を憎んでいるわけではないが、愛しているわけではない」
「見え透いた嘘を吐くのは、止めてください。あなたこそ、今、一番羽依様を求めているはずでしょう。わたくしが解らないとでも?」
内面を看破した揚樹の言葉に、佳羅は顔色を無くす。
「たとえこれが愛だとしても――わたしは、羽依の心に応えることが出来ない。わたしには、それが許されない」
「許されないとは、どうしてです?」
問い詰める揚樹に、佳羅は何も応えなかった。顔に仮面を付け、揚樹の目から逃れる。
揚樹はもどかしかった。今一歩のところで、佳羅という若者の本心を掴めたはずなのだ。が、佳羅はうまく逃れ、羽依を救おうとはしない。
「では……あなたは、羽依様がこれからも皇帝のものであることに我慢ができるのですか?」
揚樹はこの言葉に佳羅の仮面が崩れることを望んだ。
佳羅は取り乱さず、静かに語りかけた。
「必ず……変化はある。それがどういう形かは推測できぬが」
佳羅は、みずからの言葉の意味を反復する揚樹を置いて、庭苑を去った。