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奔流の星々(1)へ



 柔らかな春の風が、馥郁とした花の薫りを宮城に運んできた。終わりを迎えた桜の花弁が、花吹雪となって、花頭窓から延べられた細い指先に泊まった。
 白い指先は、片方の指に絡み付いた花弁をつまみ、手のひらに置いた。手のひらの白さに、花弁の薄紅は淡い彩りを添えた。
「羽依様、風が強うなりました。
 お風邪を召されますので、もう少し奥にお入り下さいませ」
 侍女の呼びかけに、女人はゆるりと振り向き、静々と大理石の卓子に寄った。
 気を利かせた侍女が小椅子を退くと、女人は言葉もなく座った。
 女人――昭羽依は、透明な膜を周りに張りつかせていた。動きのひとつひとつが優美で、気品があるが、言葉を発しなければ、息もしていないかのようだった。
 様子を見て、侍女は嘆息した。
 この侍女は、昭羽依が稚いころに、羽依の母、宝扇公主が付けた者だった。揚樹と呼ばれる侍女は、無論、羽依の成長を見守ってきた。
 羽依は、側にいる者の動作を止めてしまうほど、美しい。通りかかるだけで、ひとつの空気を吸うだけで、男も女も陶然として我を忘れてしまう。稀代の美女という称号を、早い時期から冠せられていた。
 揚樹も、己の主人は美しいと思う。が、その感慨には喜び意外のものも含まれていた。豊かな射干玉の髪は、頭の頂上に高く結わえ上げられ、翡翠や玉が施されたかんざしとともに重たげな様相である。真っ白な首筋に乱れかかる後れ毛が、艶美であった。
 細く描かれた眉に落ちる額髪、眉間に飾りを添える、牡丹文様の赤子、物憂げな翳りを落とす瞼、脂粉もいらぬほど透明な肌のつや、蠱惑的な朱唇――。花顔であった。
 だが、豊麗な美しさに反して、精気というものがまったく、なかった。
 黒真珠に似た瞳に焦点はなく、唇は笑みを引き結ばなくなって、久しい。
 ――ああ、これでも昔はよく笑まれたお方だったのに。
 揚樹の嘆きは、深淵に届いていた。


 昭羽依が最後にほほ笑みを見せたのは、遠い遠い記憶の奥底にある、惨劇の彼方だった。
 羽依は両親にこよなく愛された娘だった。父は、北康から憎まれて、北宇に亡命してきた昭基演将軍。母は、自ら昭基演の妻として降嫁してきた宝扇公主――。
 昭基演は、北康において、政才も、将才も卓抜した男だった。それゆえに、大臣どもから嫉まれ、讒言にあった。身の危険を感じた基演は単身、敵国・北宇に逃げてきた。
 才能ある亡命者、昭基演は、北宇にも危険な存在だった。下手に扱うと、取り返しのつかぬことになる。北宇の某臣達は揉めた。
 そんな中、ひとりだけ昭基演の必要性を認めた人間がいた。北宇第十八代皇帝の妹、宝扇公主である。
 宝扇公主は兄の間諜を無断使い、昭基演の邸宅を探った。防備の隙間を見付けると、宝扇は自ら基演の寝所に乗り込んだ。
 昭基演は、驚き焦った。禁中の美姫が、いきなり目の前に現われ、己に縋ってきたのである。勿論、始めは基演も拒んだ。
 拒めば、深窓の姫君のこと、諦めてくれると基演は考えていたが、目論みが甘かった。
 宝扇は引き下がらずに、なおも迫ってくる。体当たりでぶつかってくる宝扇の真剣さ、間近に見る美人の媚態に、畢竟、基演はかなうはずなかった。
 亡命者・昭基演と、公主・宝扇の艶聞は、時を置かずに皇帝の耳に入った。
 皇帝は激怒し、昭基演を召しだした。場合によっては、その場で切り捨てる覚悟だった。
 昭基演は言い訳をせずに、謙虚な態度でい、そんな基演を宝扇は庇った。
 あまつの果てには、
「兄上がお許し下さらなければ、わたくしは腹の子ともども、この場で果てましょうぞ!」
 これには、皇帝も泡を喰った。
 北宇第十八代皇帝は、最愛の妹を手にかけるほど、冷たい血の持ち主ではなかった。まして、腹に子を宿している女を、殺せようか。
 かくして、昭基演と宝扇公主は婚姻を結んだ。
 奇しきことに、このとき宝扇公主は実際に身篭もっていた。宝扇は、兄を説き伏せるための、いわば、はったりとして腹の子云々と言ったのだが、女人の躰には、新しい命が着実と育まれていた。
 その子が、昭羽依である。
 宝扇公主の胎内から出でた赤子は、類い稀な美しさを持つ女の子だった。
 父・昭基演と伯父の皇帝は美しい子に驚喜した。しかし、母・宝扇公主は秀麗な眉をひそめた。
「超絶した美貌は、この世に禍を運ぶと、昔から伝えられております。
 この子の将来が、奇禍に見舞われねばよいのですが」
 宝扇公主は憂慮した。
 浮かれあがっていた皇帝と昭基演も、さすがに顔を見合わせた。
 皇帝は、ただちに巫に神霊の言葉をこうた。巫の上に降りた神霊のいわく、
「この娘の夫となるものは、神が定めたものだ。されど、嫁す時機を誤ると、結ばれるはずの二人は、互いに互いを滅ぼしあう」
 残酷な託宣に、赤子の両親は震えあがった。
 皇帝は、すぐさま赤子の夫が存在するはずの国、南遼に使者を出した。
 託宣によれば、娘の夫となる者は、南遼の第二王子・暉玲琳だという。
 皇帝は使者に、花嫁となるはずの赤子の美しさや、尊い身分を言い含めた。
 期せずして、使者は北宇に朗報を持ち帰った。赤子の両親が安堵したのは、いうまでもない。
 皇帝は妹の夫を将軍職に就け、堅実な実力者だと判断すると、昭基演を北宇の宰相とした。
 昭基演はじつに英明な人だった。昭基演が宰相に従事している十年間、国庫は満ち、犯罪者も激減した。
 宰相・昭基演を見いだした宝扇公主は、当代随一の賢婦、と讃えられた。
 昭羽依は、輝かしい両親のもとで、甘やかされて育った。弟や妹もでき、賑やかで娯しい年月を送っていた。成長するにつれ、羽依の美しさも、玉を磨くように光りだした。
 宝扇公主は、なるべく羽依を戸外に出さないようにして育てた。娘の容姿を見せると、花に蝶が群がってくるように、男と不幸が取り巻きだすと考えたからだ。
 それでも、羽依には辛くはなかった。
 不幸は、昭羽依が十歳の誕生日を迎えた、次の月に起こった。
 第十八代皇帝が、逝去したのだ。


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 北宇の国に、悲しみが立ち篭めた。羽依の母、宝扇公主も嘆き哀しんだ。
 嘆き哀しんだのは、兄が亡くなったから、という理由だけではなかった。
 皇帝が亡くなったので、これより三年の服喪に入る。
 昭羽依が嫁ぐのは、皇帝が亡くなった年だった。羽依の嫁入りは、不吉な託宣による、切実としたものであった。
 国に関わる服喪中の慶事は、国に対する不敬とみなされる。本来なら、嫁入りなど慎むべきものである。
 親としては、なんとしても娘を不幸の谷間に落としたくはなかった。
「大丈夫だ、新皇帝も羽依の託宣は知っておられよう。解ってくださる」
 妻の心労を和らげようと基演は言うが、宝扇公主の陰りは晴れなかった。
 新しく皇帝となる皇子は、沈牽櫂という。宝扇公主の甥でもある。
 沈牽櫂の質は、傲慢、冷酷であると、宝扇公主は見抜いていた。自分に対する不敬を、甥は決して許しはしまい。父親とは似ぬ酷薄さを持っている甥だ、はたして、無事に羽依を嫁がせることができるかどうか、宝扇公主は心から悩んでいた。
 とにかく、羽依の嫁入りが五ヵ月後に控えたころ、亡き皇帝の殯が盛大に執り行われた。殯は、次期皇帝の権威の見せ所であった。
 宝扇公主は殯席でも、羽依の姿を他人に見せることを、極端に怖れた。
 まだ十歳の幼子であるから、弟妹ともども、殯の出席を辞退したほうがよいのではないと、宝扇公主が打診すると、新皇帝は、気の無い素振りで、羽依の欠席を認めてくれた。
 ――十歳の童女なぞ、殯の席に邪魔なだけだ。
 という理由でだった。
 宝扇公主は、胸を撫で下ろしたが、羽依の行く末には、すでに暗雲が立ち籠めていた。
 新皇帝・牽櫂は、伯母がむきになって隠そうとする童女に、興味をもった。年齢としては、十九歳の牽櫂に釣り合わぬので、今すぐどうこうしよう、という心持ちではないが、不気味な託宣や、父や伯母の勿体ぶった態度が、青年の好奇心をくすぶった。
 牽櫂は、昭基演の下女を買収した。皇帝の権威でもって脅すと、下女はやすやすと牽櫂を邸宅のなかに通してくれた。
 昭基演と宝扇公主が殯に出かけている隙に、牽櫂は昭羽依の姿を垣間見た。
 ――おお、まさしく、麗人。
 牽櫂は、童女にそぐわぬ羽依の見目に、呆然とした。
 牽櫂の知っている美女の程度は、妃であり、北康公主である旺玉蓉が最高であった。旺玉蓉は淑徳で、婉然なので、牽櫂は妃に満足していた。
 それでも、例外はいるものだ。
 昭羽依は、満開の桜花を連想させた。愛らしい花弁が鮮やかに、あでやかに牽櫂を誘う。
 ――俺は、この娘が欲しい。
 牽櫂は、いてもたってもいられなくなった。
 はたして、牽櫂は行動を起こした。
 父の喪のさなかに、南遼を滅ぼしたのである。電光石火の行いだった。
 ――南遼は昭羽依が嫁す国。南遼を滅ぼせば、昭羽依は誰のもとにも嫁げまい。
 北宇の宮廷に、混乱が起こった。
 新皇帝は、臣下に無断で軍隊を発動し、完膚無きまでに南遼を蹂躙した。すべての人を殺した。金品を掠奪した。女を犯した。
 服喪中は、血の汚れを避けねばならないというのに、新皇帝はたやすく破った。臣下達はそろって、新皇帝は非道の漢だとそしった。
 新皇帝は遠征から帰ってくると、昭基演に、真っ先に血のしたたる首を突き付けた。
「南遼第二王子の首だ」
 昭基演は色を失った。
 ――我が娘の夫となる人間は、死んでしまった!
 託宣の履行どころか、夫の存在自体なくなってしまった今、羽依はどうなるのか。この世に惨禍を招く妖女となるのか。
 しばらく、南遼の王子の首を食い入るように見つめていた昭基演は、悲憤慷慨して、牽櫂に詰め寄った。
「これが――これが、新君主のすることですかッ!
 政権の地歩を固める大事な時期だというのに、なにゆえ、小国家ごときを滅ぼされたのですかッ!
 これでは、北宇は衰亡のみちを歩みますッ!」
 昭基演は眦を決した。
 牽櫂の目が据わったが、廟堂に居るものはすべて、皇帝を非難の眼差しで見ていた。
 新皇帝・牽櫂の行為は、人道に外れたものだ。これが、諸外国に知れ渡れば、ただではすまない。
 中小の国々は北宇が大国であるから、唯々諾々と従ってきたのだ。今まで、暗君を排出したことがない北宇であったから、隣国、北康と屹立してこれたのだ。
 今度の出征で、国々は北宇に反感と怖れを抱き、一斉に北康につくだろう。ありありと予想できる。いちいち国々を滅ぼしていけば、北宇の財力と兵力は、保たなくなる。
 それでも、皇帝は皇帝。
 牽櫂には廷臣の白眼視の鎖を断ち切る力を持っていた。
 皇帝の権能を行使して、臣下に号令を発した。
「この者は逆臣である、ひっ捕らえよ!」
 ざわり、と廷内の空気が淀んだ。
 昭基演は危地に立ったことを悟り、身構えたが、衛兵は易く宰相に手出しが出来なかった。
 今や、昭基演は名実ともにこの国唯一の賢者だった。敬慕さえすれ、害することなど到底考えられなかった。しかし、昭基演を捕らえなければ自らが危うい。
 兵達の惑いを察した昭基演は、剣の束に手をかけると、おもむろに剣を引き抜いた。
「我が身の扱いで、その方らに罪悪を与えるには忍びない。されど、わしには罪は無い」
 己を取り囲んだ兵達に、昭基演は毅然をした語調で言い放った。
 白刃を縦に構えると、昭基演は清冽な面で、皇帝・牽櫂に向き直った。
「わしの潔白は、必ずや人から人によって伝えられる。無用の命を踏み台にした権力が長くは保たぬこと、肝に命じておかれればよい!」
 抜き身の刃が、光を放ったのと、昭基演が自らの首に切っ先が突き立てたのは、同時だった。大量の血が吹きでて、柱を、朝臣を玉座を濡らした。固い音を発てて、昭基演の骸は倒れ伏した。


 昭基演の邸宅に凶邪が舞い込んだのは、ちょうど、宝扇公主と子供達が夕餉を取り囲んでいるころあいだった。物々しい兵卒が、来訪の沙汰もなく、断りもえずに踏み込んできたので、宝扇公主は驚惑した。
 猛々しい男どもは、怖れて母の陰に隠れようとした二人の幼児を捕縛する。
 寸でのところで、宝扇公主は羽依の身柄だけ、腕の中に庇い得た。
「なんのつもりですッ!」
 宝扇公主は凝結して叫んだ。
「わたくしが、誰だか知っての所業ですか! その、汚らわしい手を放しなさいッ!」
 稚い羽依は、母の肱の中で、ただ震えていた。
 宝扇公主が固い面持ちで兵達の隙を窺っていると、兵達の間を分けて、大きな躰が現われた。
「牽櫂……!?」
 瞠目する宝扇公主の膝元に、皇帝・牽櫂は土気色の塊を投げた。
 宝扇公主は、我が目を疑う。
「きゃああぁぁぁッ!」
 悲鳴をあげた羽依の頭を、宝扇公主は胸に抱き締めた。宝扇の眼は、それに釘づけられて、離れない。震えが、足元からおこってきた。
「――基演様……っ」
 宝扇の夫の首は、生々しく、血糊は乾ききってはいなかった。
 震えは、いまや羽依を包み込んでいる腕にまで伝わってきた。指先は冷たくなってくるというのに、心臓は破裂しそうに躍動している。宝扇は呻吟した。
「そなたは……そなたは」
「伯母上……我が従妹姫を、我が妃として迎えたいのですが」
 牽櫂の科白に、宝扇の冷えきっていた血潮は、逆行しはじめた。ふつふつと沸き立ち、切れ長の瞳を釣り上げさせる。
「正気かえ? ……なんと、愚かしや」
 ほほほ、と宝扇は軽やかな笑い声を発てた。
「なにが、可笑しい!」
 癇性の牽櫂は、傲然と伯母をねめつける。
「たかが、女子ひとり手に入れるために、従順な国を滅ぼし、人々の思惑なぞ気にせず、またも人を殺す。ほんに、皇帝とは聞いて呆れる」
 宝扇の高嗤いに、頬をひりつかせると、牽櫂は二人の幼児を押さえ付けている兵士に合図した。
 兵達は子供を突き飛ばすと、大剣の鞘を払った。剣は、床に投げ出された子供を、情け容赦なく串刺しにする。
 宝扇の目の前で、助けを求めていた子供の泣き声が、ぴたりとやんだ。
 幼子がこときれたのを見届けると、牽櫂は冷然とした笑みを浮かべ、手を差し出した。
「さあ、伯母上。次はあなたですぞ。
 わたしも伯母上の命を奪うのは忍びない。羽依姫を、お引き渡しください」
 宝扇公主の美麗なかんばせが、憤怒で歪んでいた。涙が、蒼白な頬を伝った。
「そなたは暗君じゃ!
 北宇の国は保ちはせぬ、そなたの代で終わりじゃ!
 羽依をえたくば、わたくしの屍を踏みつけていくがよい! 人々に罵られるがよいぞ!」
 宝扇公主は叫喚した。
 悲況のなかにあるが、羽依だけは絶対に渡せない、と公主は計算した。いくら冷血漢でも、伯母の命までは奪えまい。
 宝扇公主が、羽依を強く抱きなおした時、牽櫂は自ら腰に帯びた剣を抜き放った。
 はっと、宝扇公主が目を見開いたとき、剣は公主の胸を深々と貫いたあとだった。
 羽依は、己を抱きしめていた腕の力が緩み、母の躰が急に重くなったのが信じられなかった。見れば、萌黄の下裙がみるみる朱に染まっていく。
 牽櫂の手が羽依の腕を掴んだ。恐怖のあまり、羽依の意識は汚濁のなかに沈んだ。


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 昭一族を根絶やしにした形で羽依を手に入れた牽櫂は、羽依をそのまま後宮に拉致した。失神した羽依を奥まった一室に閉じこめ、宦官をおいて様子を見張らせた。
 使人を殺し、家財をせしめた牽櫂だが、なぜか羽依の侍女・揚樹だけは生かした。羽依が宮城に移されたとき、揚樹も伴われていった。
 羽依の侍女・揚樹は、宝扇公主の乳姉妹にあたる。一度は嫁入りしたが、寡婦となり、子供もいないので、宝扇公主に請われて羽依の侍女となった。羽依が南遼に嫁すときに一緒に付き従っていくはずだった。牽櫂にとって、思わぬところでその存在が役に立った。
 ただひとり生き残ってしまった羽依は、幽闇のなかで父母の怨嗟のこえを聞き、目覚めては悲しみ、悶えた。その有り様はすさまじく、慰め得るのは揚樹しかいなかった。
 惑乱し、己にしがみついてくる羽依を抱き締めながら、揚樹は啼いた。
 ――なぜ、このようなか弱い方が、かように酷い目にあわされなければならないのか。
 皮肉にも、羽依の美貌はまわりに奇禍を与えるだけでなく、羽依自身にも不運を与えた。揚樹は理不尽でもどかしい。
 侍女の腕の中で落ち着きを取り戻した羽依は、か細い声で、
「揚樹、揚樹はどこにも行かないで」
 と掻きくどく。揚樹の目から、別の涙が流れた。
 後宮の奥深くで、虜囚同然の生活を送る羽依に気を使う妃嬪・官女はだれひとりとしていなかった。ただひとり、旺皇后を除いては。
 北康公主・旺玉蓉は柔和で品位ある貴婦人だ。皇帝・牽櫂との間に、すでに皇子を生んでいる。
 うら淋しい奥宮に訪れると、旺皇后はふくよかな手を、羽依に差し出した。白い手は、強張った羽依の肩に触れる。
「羽依様、お初におめもじいたします。
 これからも、仲良くしてくださいね」
 優しさが音色になって、羽依の耳朶をうった。それでも、他人を怖れる羽依のかたくなさは、解けはしなかった。
 旺皇后は、羽依の心が開かれるのを、粘り強く待った。手ずから菓子を用意したり、可愛らしい人形を持参して羽依の気を引こうとした。
 羽依が旺皇后に打ち解けたのは、実に半年後のことだった。羽依は自ら旺皇后を、
「お姉様」
 と呼ぶようになった。
 悪夢に魘されていた羽依が、旺皇后のおかげで人並みに笑えるようになったので、揚樹は安堵した。
 それからの日々は、楽しいことずくめだった。旺皇后は羽依の喜ぶことをなんでもしてくれた。そんな旺皇后に、羽依は懐き、甘えた。旺皇后がいれば、禍々しい過去を思い出さずにすんだ。
 楽しい日々は、時間を忘れさせた。月日は着々と流れ、羽依を成長させた。羽依の髪は豊かにのび、躰は女らしい円みを帯びてきた。乳房は緩やかに膨らみ、少女に艶やかさを備えさせた。牡丹のつぼみが麗しく開いていくのを、揚樹は見ているようだった。
 実に、大いなる油断だった。
 旺皇后が、悲劇の元兇の妻だということを、羽依も、揚樹もすっかり失念していた。


 羽依が十三歳の夏のことだった。
 その日、羽依は旺皇后の居室に泊まり込んでいた。すでに何度も旺皇后の部屋に押しかけているのだが、その度たわいない噂話に興じたり、絵巻物を観て夜を過ごしていた。
 今夜の旺皇后は、そわそわしていた。あまりにも不自然なので、羽依は聞いた。
「どうかなさったの?」
 羽依の声に、一度視線をあてたが、旺皇后はすぐに反らした。
「いえ、今日に大事なものを取りにくるとおっしゃっていたのだけれど――」
「どなたが?」
 興味津々で羽依は尋ねたが、皇后は意味ありげに微笑んだだけだった。
 夜半になって、旺皇后は皇子がむずかっているといって、寝室から抜け出した。
 母親とは、大変なものだ、と思いながら、羽依は牀の上でうとうとしてしまった。
 揺籃のような微睡みが破られたのは、不意に、息苦しさを感じたからだった。
 大きなものが躰の上にのしかかって、身動きが取れない。羽依は、身をよじった。
「動くな。そのままでおれ」
 びくっと、羽依の躰が硬直する。
 低く、かすれた男の声だった。
 円く切り取られた窓から、月光が差し込み、男の容貌が照らされて、羽依は戦慄する。
 羽依を悲運の中に落とした男――皇帝・牽櫂が、荒い息を吐きながら、羽依の髪に触れた。
「もう……我慢できぬ。今宵、そなたを我がものにする」
 牽櫂はもう一方の手を、羽依のまだ稚い乳房の上に置いた。
 羽依の中に、おぞけが過ぎる。耐えがたい感覚に、羽維は力任せに暴れた。
 もがき、細い脚で牽櫂の体躯を蹴りあげた。
 が、牽櫂はびくともしなかったばかりか、羽依の割れた夜着の裾から堅い手の平を差し入れた。
 大腿を這い、さらに奥まで彷徨っていく指が、羽依の動きを縛り付けた。
 羽依の、知らぬ間にはだけた胸元に口をつけ、震える脚を持ち上げると、牽櫂は強引に躰を貫いた。
 牽櫂の雄が、少女の躰と、精神を引き裂いた。千切れて、ばらばらになってしまった少女の上で牽櫂は想いを遂げた。
 牽櫂は、羽依の躰に狂喜した。
 やわやわとみずみずしい羽依の躰は、ほかの女にはみられないものだった。全身で拒もうとする羽依の姿は、媚態なくとも、十分になまめかしかった。
 傍らで、小さくなって嘆き哀しむ少女の躰を、牽櫂はやんわりと抱き締めた。
「俺は、そなたを得たことを嬉しく思う。そなたは、奇跡だ。俺はそなたを放しはしない」
 興奮してそう呟き、牽櫂はまたも羽依の躰を弄びはじめた。
 もはや抵抗する力もない羽依は、虚ろな瞳を月明かりに向けるのみだった。


 朝餉の用意をして、主人が帰ってくるのを待っていた揚樹は、すっかり萎えきってしまっている羽依を抱えて現われた牽櫂を見て、驚倒した。何食わぬ顔で供に食前につき、羽依の肩に馴々しく腕をまわす牽櫂の態度で、揚樹は昨夜、主人の蕾がこの男によって無残に散らされてしまったのを悟った。
 定まらない視線や空虚に開いた唇、乱れた襟足に、羽依の荒廃がほの見えた。
 そんな羽依の様子に、揚樹は憤激した。
 揚樹は、旺皇后を信用していたから、昨日羽依を預けたのである。それなのに、旺皇后は自ら羽依を夫に手渡してしまった。そう考えて、揚樹は、はっとした。
 ――まさか、皇后様は皇帝にこわれて羽依様にお近付きなさったのでは。
 それならば、すべて、頷けるのだ。
 牽櫂は後宮にさらってすぐに、羽依に手を出さなかった。おそらく、羽依がまだ稚かったので、触れるにしのびなかったのだろうが、羽依が女として成長したのを見計らって我がものにしたのではないか。羽依が十三歳になってすぐに、女のしるしをみた。皇帝や官女にはそのことを報せてはいないが、特別親しい旺皇后には教えていた。皇帝・牽櫂は柔和な間諜を羽依の側につけ、丁度、羽依が実りはじめたころに腰を動かしたのだ。
 ――なんと、狡猾な。
 揚樹は歯軋りした。
 こうなっては、誰を信じてよいものか、解らない。まわりは敵のみの感だった。
 ――なにかあれば、わたくしが刺し違えてでも。
 揚樹は堅く決意した。


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 牽櫂は羽依に惑溺した。
 毎夜欠かさず羽依のもとを訪れ、美しい躰を愛撫した。牽櫂が羽依に寵愛を傾ければ傾けるほど、羽依の中の闇は暗くなった。
 もはや、羽依の上に安らかな眠りは与えられない。目を瞑れば父と母が慚愧の声で羽依を罵り、目覚めれば絡み付くような牽櫂の偏愛に苛まれた。
 牽櫂は羽依を後宮の一室から、より自らに近い場所に移した。当時、皇太后の殿舎・瑞鴬殿が無人であったので、そこに羽依を入れた。牽櫂の母は、牽櫂が稚いころに亡くなったので、皇太后を名乗れる妃はいなかった。
 渋い色合で統一された室内は、若い羽依のために、華やかな色調に塗り替えられた。
 殿舎の中は、蓮や鴛鴦の文様が描かれた家具が豪奢に並び、青磁でできた燭台がおぼろな灯りをともしている。四方に衝立てをめぐらせ、帳で外界から遮断した。
 朽ちかけた庭も整備された。中央に曲水の仕掛けのある苑池をつくり、まわりに四季の花木を植えた。諸国で取り沙汰されれいる樹木をそっくりそのまま植えかえたりもした。
 錦の綺絹や羅衣で羽依に盛装させたりもした。瑪瑙や琥珀、玻璃でできたかんざしを挿した羽依は、きらびやかだった。
 どれも、羽依を喜ばせるために牽櫂が計ったことだった。勿論、費用は国庫から出される。
 夜な夜な羽依の殿舎で酒宴を開き、着飾った羽依をはべらせて悦に入っている牽櫂の耳目に、政の一切が入らなくなった。
 南遼を強行的に滅ぼした北宇の出方を、他の国々は恐々として見つめていた。意向はすべて、北康に集まっているが、北康皇帝の妹・玉蓉公主が牽櫂の皇后なので、北康は迂闊に手出しができなかった。
 なにより、強引であり、残酷であったが、南遼を攻めた牽櫂の手並みは、絶妙であった。北宇に反旗を翻せば、こちらが潰されかねない、国々は暗々裏に状況を見守った。
 皇帝が政務を放擲すると、不遜な臣が、皇城を跳梁しはじめた。
 中でも、宰相である李允は勢力を誇っていた。李允は羽依の父、昭基演が誅殺されたあとに宰相となり、将軍職も兼ねている。牽櫂が南遼を攻略したとき、一役買って、皇帝に目をかけられるようになった。性質は粗放で狡悪、尊大で強欲であった。都で一番広大な邸宅を構え、情婦や娼妓をたくさん囲った。奢侈を極め、散財のかぎりを尽くした。李允の放縦ぶりを倣う従僕が後を絶たず、北宇の宮廷は退廃していった。
 羽依を寵姫として三月がたった頃、皇帝・牽櫂は妃嬪の入れ替えをした。
 牽櫂はもっとも鍾愛している羽依を、妃とした。上から数えて二番目、皇后の次の地位にあたる。
 もともと、妃の位にある女人があった。
 趙蓮伽という女人がその人である。趙氏は牽櫂が太子の時代に皇女を挙げた。牽櫂の妃嬪のなかで子をなしたのは皇后・旺玉蓉だけであるが、趙氏は旺皇后が皇子を生む以前に一児をもうけた。
 牽櫂は即位してすぐに趙氏を妃の位に即けた。それを引きずりおろして、羽依を妃にした。
 確かに、羽依の父は先の宰相であり、母は公主である。趙氏よりも出自は上だが、子を生んでいない羽依が一子を挙げた女人を押し退けて妃となるのは、後宮の凡例としては異常なことであった。
 位が格下げされた趙氏は、嬪となった。趙嬪としては恨みも多いが、皇帝の羽依への寵愛は度を逸しているので、羽依を害するなど滅相もない、と思っていた。
 昭妃と呼ばれるようになった羽依は、人々からは世に時めく女人と羨望の眼差しを向けられた。羽依の荒涼とした心中に反して。
 羽依が妃となって数日後、久方ぶりに旺皇后が羽依の殿舎を訪れた。
 旺皇后が瑞鴬殿を訪れたのは、羽依の妃格上げを賀すためであった。
 最初、揚樹は旺皇后の訪問を拒否した。旺皇后が羽依を牽櫂に引き渡さねば、今、羽依は忘我に取り憑かれてはいないはずだ。悲喜の表情なく牽櫂に抱かれている羽依の姿は痛々しかった。
 旺皇后を凝眸する揚樹の目が、皇后の腹部に落ちた。ゆったりとした単衣と下裳の上に袿衣を羽織っているが、合わされた袖が腹の輪郭に添ってゆるやかな丘陵を描いていた。
 ――このお方は、もしや……。
 揚樹は訝る。
 もしも自らの勘が正しければ、それが判明したころに、皇后は羽依を夫に勧めている。自らが弧閨を託つというのに、夫には女を与えたことになる。嫉妬はしなかったのだろうか?
「揚樹殿、わたくしも久しく羽依様とお会いできなくてとても淋しかったのですよ。
 お願いですから、一目だけでも羽依様と会わせて下さいな」
 甘い微笑みを浮かべて旺皇后は懇願した。狼狽えていた揚樹はついつい、
「どうぞ」
 と返答する。
 満面の笑みをつくり、皇后は殿舎の扉を潜る。皇后の侍女があとに続いた。
 ――しまった!
 揚樹が追悔したのは、部屋の内に旺皇后の朗らかな声音が響いてからだった。


 ――お窶れになっていらっしゃる。
 羽依の顔色が旺皇后の胸を突いた。
 皇帝・牽櫂にもっとも愛情を注がれている妃であるはずの羽依である。だというのに、蒼色の顔に頬は痩せ細り、暗暗とした形容は痛切であった。
 が、皇后のうしろから慌ててやってきた揚樹は、羽依の変化を感知できた。
 微妙であるが、羽依の双眸を覆っていた薄靄が、ふつりと切れた。
 黒耀石の輝きをもつ瞳が、小波に揺れた。
「羽依様……いえ、今は昭妃様ですのね。こたびのご出世、おめでとうございます」
 こだわりなく旺皇后は告げたように見えた。
 そのとき、信じられないことが起きた。
 羽依の淡紅にひかれた唇が、わずかに開いた。
「お言葉……かたじけのうございます」
 淡薄な言質だった。それでも、ここしばらく滅多に口を開かなかった羽依だ。
「それと、わたくしの実家が秋の果を送ってくれたのですよ。つまらぬものですが、どうかお受け取り遊ばして」
 旺皇后の実家とは、北康である。
 北康は北宇に比べて温暖多湿である。きのこや果物がよく取れた。
「勿体なく、受け取らせていただきます」
 羽依が頭を下げたので、凝り固まっていた揚樹は皇后の侍女から籐の篭を受け取った。
「お姉様……お姉様はこれでよかったのですか?
 わたくしが皇帝に抱かれることが望みだったのですか」
 伏し目がちに羽依は尋ねた。
 旺皇后の桧皮色の瞳が暫時氷結した。が、すぐに穏和さを宿した。
「羽依様は後ろ盾を持たれた方がよろしいのでは、と思ったのです。
 羽依様はご両親を亡くされて淋しい身の上のお方。牽櫂様ならば羽依様をお一人になど、なさらないでしょう」
 その言葉は鋭利な剃刀に等しかった。
 揚樹は主人のために、黙ってなどいられなかった。
「なにを吐き違えたことを!
 羽依様を孤独の身に落としたのは皇帝ではありませぬか!
 孤独の身に落とした上に、まだ稚い羽依様の純潔を奪ったのは残酷ではないのですか!」
「揚樹、やめて。聞きたくないッ!」
 揚樹の憤りを遮って、羽依は身を震わせる。
「もう……どうでもよいことです。
 逃れられぬ運命だったのです、きっと。
 お父様やお母様の命を奪ってまでわたくしを手に入れられたのですもの。皇帝がわたくしを我がものとなさったのは当然の成り行きです」
 羽依は悄然と呟く。
 揚樹には主人の絶望が手痛いほどわかった。
 女の身で皇帝に、成人した男の膂力にかなうはずはない。どんなに酷なことでも、女は黙って耐えるしかない。
「羽依様――そんなに悲観なさるのは、およしあそばせ。女は男のものになるのが一番の幸せなのです。男に愛されるのが一番の幸せなのです。男の方に愛されれば、哀しみなど消えてしまいますわ。
 わたくしも、北康から嫁いできた当初は多分に悲観しました。でも、今のわたくしはとても幸せですわ。なぜなら……」
 旺皇后は羽依を諭すように優しく言って、自らの腹を裳ごしにさすった。
「母親になる幸せも、男の方あってのことですもの。わたくしも、あと三月後には新たな子の母ですわ」
 羽依には皇后がなにを言っているのか解らなかった。
 男に愛されることが幸せ?
 たとえ自らに不幸を与えた男でも、愛されれば幸せなのか?
 両親を惨殺した男の子を生むのが本当に幸せなのか?
 それで幸せをうるのなら、不運の内に死んだ人々の痛恨の情はどこにいく?
 己もその人々を踏み躙ることになりはしないか?
 所詮、皇后の言葉は楽観的な綺麗事だ。
 羽依は、先程までの鬱々とした表情が嘘のような、艶冶な微笑みを浮かべた。
「それは、まことにおめでとうございます。
 次のお子様は皇子様でしょうか、皇女様でしょうか。今から楽しみですわ」
 妖艶な笑みだった。男を惑わし、地獄に送る笑みだった。この時の羽依の笑みは魔性のものだった。その笑みは自然にはできないものだった。
 羽依がほほ笑んでくれたので、皇后はほっとした。
「お言葉、嬉しく思いますわ。
 羽依様も、この子を可愛がってあげてくださいませね」
「お言葉に甘えまして……」
 羽依は丁重に礼をした。
 揚樹からすれば、肝が潰れるやり取りだった。羽依の心の屈折が、思いやられる。
 旺皇后が侍女を引き連れて後宮に引き取ったあと、重く沈んだ静寂があった。
「なんと――なんと、無神経な方なのでしょう。皇帝が羽依様を幸せにできるなど、どこでそんな発想を……」
 痛憤して喚き散らしている揚樹は、小刻みに震えている羽依に気が付かなかった。
「羽依様、お忘れあそばし……」
 そう言って、揚樹は振り向いた。振り向いて、真っ白になった。
 羽依は卓上の小さな燭台を取り上げると、尖った先端で手首を突き刺し、肉を抉った。鮮血が噴きでて、繻子の袖を染めた。
「羽依様――ッ!」
 揚樹は我を失った。
 羽依は再度、燭台を手首に突き立てようとした。が、揚樹が血相を変えて取り上げた。
「いやあぁぁぁ!」
 羽依の口から、絶叫が迸しった。
 狂乱し、羽依は胸を掻き毟った。激しく乱れ、のた打つ肢体は凄艶であった。
 揚樹は慰めの言葉さえかけることが出来なかった。


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 昭妃・羽依、乱心。
 瑞鴬殿から発せられた報は、宮城内に轟いた。牽櫂は政務を擲って羽依の殿舎に駆け付ける。
 羽依の閨房は甘松の薫りで満たされていた。甘松は、精神を沈静させる効能がある香である。
 羽依の枕元に付き従っている侍女・揚樹が牽櫂に気付くと、眼差しを険しくした。
 羅の帷に覆われた寝台のなかで、羽依は枕に顔を埋めていた。幾分心が落ち着いたのだろう。同じ間合いで肩が上下していた。
 牽櫂は帷を掻き分けると、羽依の髪に触れた。
 突如、羽依は首をもたげると、荒んだ眼差しで牽櫂を凝視した。凝結した躰が軋んだ。
「い……や。いや、来ないで」
 怯えて羽依は喘いだ。
 牽櫂が細い肢体を抱こうとすると、弾かれたように羽依は逃れ、夜具を引き被った。
「いや、いやぁ! 父様、母様あぁぁ!」
 背を丸めて羽依は牽櫂を拒絶した。
 牽櫂には、その行為は羽依の背徳に見えた。皇帝たる己を拒む女は誰もいないはずである。たとえ、自らが敵であっても。皇帝とは、そういう存在だと牽櫂は固く思い込んでいた。
 羽依は牽櫂は拒絶したばかりか、皇帝が誅殺した父母を慕って啼いている。
「こっちを向け、羽依ッ!」
 牽櫂は乱暴に羽依の肩を掴んだ。女の躰を揺さぶり、寝衣を引き裂いた。衆目の前で羽依を強引に抱き竦め、痛いほど皇帝という存在を解らせてやろうとした。
 目を充てられない侍女達は散々に下がっていった。だが、揚樹は主人のことを思うと、出来なかった。
 揚樹は羽依の上にのしかかっている牽櫂の腕を掴んで、引き離そうとした。
 牽櫂は邪魔な侍女を突き飛ばした。それでも、揚樹はまたも牽櫂に取りすがった。
「お止めくださいませ!
 羽依様を愛しておられるのなら、少しでも羽依様にご慈悲を与えてさしあげてくださいませ!
 このままでは、羽依様が壊れてしまいますッ!」
 泣きながら揚樹は哀願した。
 牽櫂は舌打ちする。己の躰の下を見ると、綻びた衣を掻き合せて身を固くしている羽依の唇から、血が滲んでいる。
 牽櫂の暴挙に耐えるために唇を強く噛んで唇が破れてしまったのだ。
 牽櫂を見つめる羽依の双眸は、恐ろしさで揺らいでいた。
 牽櫂は再度舌を鳴らし、羽依の躰から離れた。牀から降り、荒い足取りで部屋をあとにした。
「羽依様……羽依様……っ」
 主従はい抱き合って涙に咽んだ。
 いつのまにか、手首に巻かれた白絹が、止まったはずの血で赤く変わっていた。


 あの日から、羽依は時を止めてしまった。
 牽櫂は羽依の態度が和らぐのを待ったが、羽依の心は硬化したままなす術もなかった。
 年月だけは止まることを知らず、三年の齢を刻んだ。
 羽依は十六歳になった。
 牽櫂は奔放に女をつくり、新たに寵愛する女もできた。羽依の身辺も安息が現われたが、羽依の心は枯渇し、潤いを失っていた。
 羽依の心を救い得る人物は、未だ現れていない。





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