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第二章・炎煌の舞姫



 欝蒼と茂った緑の木々が、苑池の傍にある亭に陰を落としていた。
 夏の盛りである。
 羽依にとって、夏は物憂い季節であった。身の毛もよだつ追憶が身の上に甦ってくるからである。とくに、満月の夜は酷かった。
 皇帝・牽櫂が羽依の乙女を奪ったのは熱帯夜であった。ここ最近、あの夜のような熱さが続き、羽依の眠りを妨げていた。
 亭の中で、羽依はさらさらと涼しげなせせらぎに慰められている。陽の光に反射して照り返す水面が、たゆたうように光って、羽依を癒した。
 羽依にとって一番の慰めは、この二年程、滅多に牽櫂が尋ねてこないことだ。
 牽櫂は階層を関係なく女に手を付けていて、羽依は床枯れしていた。羽依からすれば、目下の幸いである。
 ついに、牽櫂は妓女までも妃嬪のひとりとして加えた。
 恵仙葉――都で一番と取り沙汰されている妓女である。噂を聞いて牽櫂は女を寵愛してみた。
 さすがに妓女なだけあって、男を蕩す技術は格別である。牽櫂は女を気に入って後宮に入れた。妃嬪の中で最下位の夫人、としてである。牽櫂は毎晩、恵夫人の閨房に通った。
 羽依は、瑞鶯殿内のひそかな囁きでそれを知った。
 これといって、羽依は驚かなかった。牽櫂の、重く引きずるようなの妄執が我身の上から解けて身軽になったような心持ちがした。
 それでも、羽依の憂欝は解けなかった。たとえ、牽櫂の執着が逸れたとしても、己が皇帝のものであることには変わりがなかった。
 細く刷かれた眉が顰められたのを見て、側に侍っていた侍女が主人の顔を覗き込んだ。侍女はまだ稚い童女であった。
「昭妃様。退屈かもしれませんが、今宵は後宮の酒宴にお招きを戴いておりますから憂慮もきっと晴れますわ」
 少女は、羽依の憂慮の正体が何であるかを知らない。羽依の気欝は大いなる哀しみからきているものだ。その上、今宵の宴は皇帝や、旺皇后に恵夫人すら顔を見せるのだ。羽依の本心は、辞退したかったのだ。
 童女の稚けない言葉に、羽依は少し朱唇を歪め、微笑んでみせた。
 羽依は団扇を揺らした。退去する合図である。主人が立ち上がると、侍女達は主人の裳裾を直した。
 陽が西方の山の端に落ち、天と地の境界線をうっすらと杏色に染めている。
「支度をします」
 羽依は靴を殿舎に向けた。


 後宮の大広間に華燭が煌々と焚かれた。
 回廊の薄闇に馴染みはじめた羽依の目には、灯りがいささか眩しすぎた。
 大広間には筵が敷かれ、上に茵が重ねられている。
 用意された席の前には食膳が並べられ、陶製の椀や皿に餅や干肉、魚の膾が盛り付けられていた。
 既にそれぞれの席に客人が付いている。上座には皇帝・牽櫂が座し、右横には旺玉蓉皇后が皇帝に酌をしている。侍女に導かれて、羽依は牽櫂の左隣の席に座った。
 羽依は装いを懲らしていた。しっとりとした雲髪を纏めて高髷を造り、金銀でできた鳳凰のかんざしを挿していた。黒茶の眉墨で柳眉を描き、額には芙蓉の赤子を点け、唇には淡桃色の紅をひいた。
 優しく飾られたかんばせは華美であったが、衣装も負けてはいなかった。
 蘇芳の単衣に緑青の下裙を身につけ、上から二藍の袿衣を羽織った。銀と珊瑚でできた首飾りで胸元を飾り、黒綸の紕帯の留金も銀細工である。
 寸時、皇帝・牽櫂は羽依の余りの婉然さに放心した。
 表情のない顔だが、それ故に、余計に羽依の美しさが際立っている。
 羽依は、牽櫂の熱い視線を感じて顔を伏せた。
「陛下――おひとつ、どうぞ」
 牽櫂がつと面を上げると、婀嬌とした恵夫人が瓶子を傾けて座っていた。
 羽依の衣装が肌膚をすべて隠しているのに反して、恵夫人は玉膚を惜し気もなく露にしていた。紅梅色の羅衣を纏い、下裙を胸まで引き上げて着付けていた。首元といい、上腕といい宝飾品をあらんかぎり身に付けている。羽依の肢体はか細いが、恵夫人は豊満で圧迫感のある体躯だ。品位でいえば、当然羽依の方が勝っている。
 ――所詮は、娼妓あがりよ。
 そう思いながら、牽櫂は恵夫人に盃を差し出した。盃一杯に清酒が満たされる。
 牽櫂が横目でちらりと羽依を見ると、濃い陰影を宿して俯いたままだ。
 牽櫂は己の食膳に置かれた瓶子を取り上げると、やおら羽依に突き出した。
「飲め」
 瞳を上げた羽依は、ためらいがちに頭を振った。
「そなたは俺の酒が飲めぬか」
 強制的に牽櫂は言い放つと、羽依の盃に酒をついだ。
 目元にほんのり朱をたたえて恵夫人は羽依を睨み、牽櫂の前に乗りでて袖を引いた。
「ねぇ、陛下。わたくし陛下のお側から離れた席なんていやですわ。陛下のお隣にいさせてくださいませ」
 媚びを滲ませて恵夫人は牽櫂にしなだれかかった。
 牽櫂は羽依を盗み見たが、無表情のままだ。まるで仮面を着けているかのようだ。
 牽櫂は恵夫人を邪険に払った。
「うるさい、席に戻れ!」
「陛下ぁ」
 なおも引き下がらない恵夫人が羽依の横を割って入ろうとしたとき、
「申し上げます」
 と侍従の声が響いた。
「宰相様がお越しになられました」
 うむ、と頷くと、牽櫂は恵夫人を押し戻した。
「李允を席に案内せい」
 号令に、侍従は黙礼した。
 しばらくして、侍女に伴われてよく肥えた壮年の男が現われた。口元に髭をたくわえ、細い目は粘りを帯びた視線を皇帝に向けた。
 皇帝の目前まで志向すると、李允は叩頭礼した。
「今宵は、陛下のお愉しみを卑臣にお分けいただき、まことに恐縮至極に存じます」
「よいよい。今宵は無礼講だ。
 萎縮せずに宴を愉しむがよい」
 再度、李允は牽櫂に頭を下げた。
「陛下。わたくしも陛下のお目を愉しませられればと、ない頭を絞りましたぞ」
「ふむ。何ぞ、よい愉しみがあろうか?」
 李允は顔を上げると、厚い唇を釣り上げた。
「陛下にはお目汚しかもしれませぬが……わたくしめの子飼いの舞姫に、手だれがございまして……そちらをお目にかければ、お妃様方の無聊もお慰めできましょう」
「そうか。よいぞ、通せ」
 牽櫂は簡単に許可を下ろした。
「ありがたきしあわせ」
 李允のその言葉が合図だったのだろうか。
 数刻をおかずに、楽器をもった一段が大広間に入ってきた。
 楽士達は中央を取り囲むようにして座を取った。拍子をとる拍板、簫や笙、笛といった管楽器に琵琶に琴、箜篌という名の弦楽器をそれぞれの楽士が試楽しはじめた。
 妃嬪たちは雅びな音に心をときめかせた。
 一通り音色を試し終えたのか、しんとした静寂が大広間にもたらされた。
 ――たんっ!
 はっと、宴席の視線が拍板に釘づけられた。
 拍板は速い拍子を刻みはじめ、次に笙が和音を響かせた。笛、琵琶と音に加わっていく。
 しゃらん、とあえかな鈴の音が耳朶についた。小刻みに振動させ、鈴の音はしだいにはっきりと宴席に近付いてきた。
 ふわり、と視界の隅で揺れたのは、かわせみの羽を真似た羅の領巾だった。かわせみの羽は広間一杯に旋回し、天井すれすれに舞い上がった。鈴の音が一際高らかに鳴ると、軽やかなものが大きく跳躍した。


 羽依の目には、それがこう映った。
 ――まるで、炎のよう。
 ひらりと舞降りた美しいものは、片足で静止すると、なだらかに躰を反らした。均整の取れた肢体は弓なりになって、もう一方の足を高々と持ち上げた。ちらと見えた足首に、小さな鈴が幾つもついていた。
 静止は、束の間だった。
 舞姫はくるくると回転し、動きに合わせて羅の領巾が舞い踊った。
 艶美でありながら、敏捷な獣のように鋭い――舞姫は爆ぜる炎さながらだった。
 羽依は容易に目が離せなかった。一瞬一瞬の動きが羽依を引き付けた。
 舞姫のひとつに束ねられた髪が、汗とともに空気のなかに散らばる。飛び散る汗が、星屑の煌めきのように羽依の瞳に写った。
 羽依の鼓動が、舞姫の舞いと同じ拍子で刻まれる。羽依の息が熱くあがる。
 瞬時、舞姫が上座に視線をあてた。
 羽依の目線と、舞姫の目線が交錯した。
 舞姫の瞳は、火炎だった。
 瞳の火炎が、羽依の心臓を舐め、背をちりちりと焼いた。
 羽依はたまらず、
「あ……っ」
 と呻いた。
 目を反らさなければ、全身を焼きつくされる。羽依がそう感じたとき、楽の音が止んだ。
 はっとして羽依が舞姫に視線を戻すと、舞姫は皇帝に一礼していた。
「すばらしい舞いであった。皆、満足であろう」
 牽櫂は盃を上げて皆の方を逡巡した。そして、羽依の異変に気付いた。
「羽依……? どうした?」
 この時、羽依は自らが紅潮していることを知らなかった。ただ、頬の火照りを感じていた。
「あ……あの、舞姫の舞いが素晴らしかったので、思わず舞いに酔ってしまったのですわ……」
 焦燥のなかで、羽依はそれだけ呟いた。
 いつもに比べて、羽依は饒舌だった。滅多に話さぬ羽依が、頬を染めて、普通に話している。
「羽依……めずらしいことだな。
 そなたが何かに心を動かされたところを見るのは、初めてだ」
 探るような牽櫂の眼差しに、羽依は顔を袖で隠した。
「これは――」
 ざわり、と宴席が震える。
 舞姫が口を開いたのだ。
「必要以上のお褒めのお言葉……昭妃様のお心に添えたこと、何よりわたくしへの労いでございます」
 羽依は改めて舞姫を見た。
 玲瓏とした面だった。今の舞姫には炎を熱さを感じることは出来ない。変わりに、ひんやりと冷たい膜を纏いつかせている。
 舞姫の要望が冷たく思えたのは、その造りのせいもあった。円らな瞳はきりりと切れ上がり、鮮紅色の口紅は薄い唇の形にそって塗られて、濡れたように輝いている。細面で、他の女人に比して背丈が高く、柳のように細く、しなやかだ。
 舞姫の瞳に熱は無いが、切り込んでくるように羽依の目を覗き込んでいた。
 ――この女人は……。
 皇帝の妃を悪怯れることなく直視してくる。態度が大きいともいえるが、羽依には勇気があると思えた。
 暫時、羽依と舞姫は見つめあっていた。
 牽櫂は始めは見交わす二人を不審に感じた。が、羽依の表情を変えたのは、唯一この舞姫だけなのだ。牽櫂は、頬を染めた羽依に色香を感じた。ならば、この舞姫を羽依の側に置けば、羽依の先程の表情をつくらせることができるかもしれない。
「舞姫よ。そなた、名は何と申す」
 直接、皇帝は舞姫に下問する。
「燐佳羅、と申します」
 恭しく答えた舞姫に、牽櫂は頷いた。
「燐佳羅よ、そなたは今日から昭妃・羽依に仕えるがよいぞ」
 宴席が響動めいた。
 見境のない皇帝ではあるが、ろくに調べもせずに、妃の側にどこの馬の骨とも解らぬ女を侍らせようという。皇帝の態度は奇矯としか言いようがなかった。
 李允が、慌てて席から立ち上がる。
「お待ちくださいませ、陛下!
 その者は我が子飼いの舞姫にて……」
「舞姫など、金子を積めばいくらでも手に入れることができよう」
 にべもなく牽櫂は言った。
「いえ……その、申しにくいことですが……その舞姫……わたくしの情人でございまして……」
 しどろもどろに李允は答えた。
「そなたの女か?
 女であれば、この後宮にはこの女以上の器量の者が幾らでもおるわ。
 この広間にいる官女、どれでもよい。好きな女を連れて帰れ」
 これ以上、李允に否やを言わせぬ皇帝の姿勢であった。
「は……ははっ」
 埒が明かず、李允は頭を下げる。
 羽依は己の態度で、まさか舞姫の運命を左右することになろうとは思いもよらなかった。いたたまれずに羽依はうな垂れる。
 耳に、乱痴気騒ぎが聞こえてくる。
 いつのまに牽櫂の側に侍りだしたのか、恵夫人が嬌声を発していた。むっとした酒の臭いが鼻腔を突き、羽依の胸が焼けてきた。
「ご気分が、悪いのですか?」
 びくり、と羽依は肩をそばだたせた。
 隣に、舞姫・燐佳羅が座っていた。ひそやかな笑みを唇に浮かべ、燐佳羅は瓶子を傾けていた。
「い、いえ――そうではありません」
「そうでしょうか。御気色がすぐれぬご様子ですが」
 佳羅の瞳が、探るように羽依の瞳を捉えた。己に降り掛かってくる不運に、この舞姫まで巻き込んでしまった。
「そなたには、辛い思いをさせてしまいましたね……」
「何がでございます?」
「宰相様との仲を、わたくしのために引き裂かれてしまって――申し訳なく、思っています」
 最初、惚けたように羽依を見ていた佳羅は、くすり、と華やかな笑みを浮かべた。
「その様なこと……お心を痛められますな。
 李允様のお邸には他にも情けを頂いている女人が数多います。わたくしはその中のひとりだっただけです。
 それに、わたくしを手放すかわりに、後宮の官女を数人お譲り頂けるそうではありませんか」
「ええ……でも、そなたは愛する方から引き離されてしまうことになるのですよ」
 愛する方――と言ったが、正直なところ、羽依には愛という感情がわからない。
 愛や恋という情念以前の状態で羽依は牽櫂のものになった。牽櫂に対する感情は憎しみと哀しみしかない。
 牽櫂は寝物語りによく、
「そなたを愛している」
 とか、
「ずっとそなたを好いていた」
 などと囁いた。
 牽櫂の執心が愛情という類いのものだというのなら、羽依は愛情こそ、暴力と思えてくる。先程、燐佳羅に告げた言葉と矛盾していたことに気付いて、羽依は佳羅から目を背けた。佳羅は、羽依の様子が変わったことを己への罪悪感と取った。
「昭妃様、わたくしは李允様を慕ってはおりませぬ。
 李允様はわたくしの芸の庇護者。そのためにはわたくしの躰を捧げることも、仕方の無いこと……」
 佳羅は羽依を覗き込んで言った。
 無理遣り視線を挟まれて、羽依は戸惑った。揚樹は別として、昭妃付きの侍女は主人の内面がどうであろうと気にすることはなかった。
 それに、この舞姫と己の境遇は何となく似ているように感じた。好きでもない相手に身体を弄ばれているという部分は同じだった。
「そなたは、急にわたくしに仕えろと命じられて、嫌だとは思わぬのですか」
「いいえ、昭妃様は――羽依様は、深いお悩みを抱えておられるご様子。
 わたくしの舞が羽依様をお慰めできるというのなら、これほど幸いなことはありません」
 即座に、佳羅は返答を返してきた。
「それよりも、羽依様には早く殿舎にお戻りになられたほうがよろしいのでは?
 先刻に比べまして、唇の色が悪うございますわ」
「でも――わたくしが下がってしまうと座が白けます」
 口元を団扇で覆って隣席の牽櫂を見る。
 酔って頭をすり寄せている恵夫人の肩を抱いて、牽櫂は酒を啜っていた。うっとりと牽櫂に腕を回しながら、恵夫人は羽依を眺めた。挑戦的な瞳でである。
 羽依が眉を曇らせたとき、佳羅が軽やかな声を発てて笑った。
「恵仙葉殿、いえ、今は恵夫人様でございましたかしら。お久しゅうございますな。
 恵夫人様が陛下にお引かれになられましてからは、あの妓楼も売り上げがさっぱりだそうですわ」
 それを聞いて、恵夫人はきっと佳羅を睨み着けた。
「ぶ、無礼な、皇帝の夫人に大して悪口暴言を!」
 くすり、と佳羅は笑った。
「いえ、今も男の方をお愉しませる技に長けておられるようなので……。おお、恐い」
 朗らかに笑い声をこだませる佳羅に、牽櫂は愉快そうに笑った。
「そういうそなたも、李允を操った口であろう。ぜひにも、一度俺の夜伽をしてもらいたいものだ」
 立ち上がって佳羅の側に近付くと、牽櫂は佳羅の顎を上げた。
「まあ、昭妃様が見ておられますわ」
 牽櫂が羽依に視線を移した。その視線はぎらぎらと血走っていて、羽依の背に悪寒が走る。
「昭妃様は、俺につれないのでな。
 そなたの柔肌なら、俺の飢えた心も慰められよう」
 そう言って、大衆の目を気にせず佳羅の口腔にかじり付き、貪る。余りにも激しい口づけに、皆、息を飲んだ。
「陛下ッ!」
 恵夫人は引き離そうと牽櫂の腕を掴んだ。
 やっと唇が離れたとき、佳羅は緩やかに微笑んだ。
「いけない方。お妃様方の前で……わたくし、妬まれてしまいますわ」
 嫣然と佳羅は牽櫂を睨んだ。
 ふん、と息を吐くと、牽櫂は羽依の様子を見た。鬱々として暗い、いつもの顔だ。
「本当に浮気な方ですわね、昭妃様。
 罰として、わたくしたちは下がってしまいましょう」
 唐突に言い出し、佳羅は羽依の手を取り、立たせた。
 牽櫂はふたりを止めようとした。が、佳羅は身軽に羽依の腕を引いてその場を去ってしまう。
 皇帝の怒号が背を追い掛けるなか、松明が燃える回廊を、主従は息を切らせて走る。
 羽依には、成りゆきがよく解らない。気が付くと、佳羅に引かれて宴席を発っていたのだ。
「か、佳羅……」
「これで、文句は言われませんわね。羽依様」
 瑞鴬殿の黒い輪郭が見えてきたところで、佳羅は羽依の手を放す。
 悪戯っぽい舞姫の視線に、羽依は目を見開く。
「今、陛下はお妃様方に責められて、羽依様どころではないでしょう」
「佳羅、そなたは……」
 佳羅は、諍いを起こすためにわざと恵夫人を挑発したのだ。恵夫人の怒りを買えば、皇帝の目にとまり、皇帝は自らに食指を動かすだろう。そこまで計算してのものだった。
 ――不思議な人。
 何に関しても心を鎧っていた羽依の中に、佳羅はするりと入りこんできた。
 羽依は、そう思ったからこそ、言わずにはおれなかった。
「そなた――陛下の寵を得ることが目的なのですか?
 きっと、陛下はそなたに想いをかけられるでしょう」
 佳羅は、羽依を凝視した。
 瞳に、舞いの中で見た火炎が甦っていた。
 ――また……。
 羽依は肩を竦ませた。
 次の瞬間、熱い瞳は、鎮火されたかのように柔らかくなった。
「わたくしは、陛下に抱かれませぬ。
 陛下が望まれようと、決して、膚を許しませぬ。何より、わたくしが嫌です」
 きっぱりと、佳羅は言い切った。
「そんなこと、出来ると思っているのですか?陛下に成せぬものはないのです! 現に、わたくしは――」
 羽依の堅い声が、回廊中に響く。
 はっとして、羽依は口を塞ぎ、辺りを見回した。
 回廊は閑散としていた。柱々に挿された松明のじりじりと焼ける音だけが、規則的に響いている。
 暗闇のなか、確かに、佳羅が慈愛の微笑みを向けたことが、羽依には解った。
「あなたは、お優しい女ですね。
 たかが卑しい舞姫にも、お心を分けてくださる。でも、わたくしは絶対に皇帝から逃げ切ってみせましょう」
 羽依はもどかしかった。これほど言っているのに、この舞姫はちっとも解ってくれない。
「絶対に、無理です!」
 むきになって、羽依は声を荒げた。
 少女じみた羽依の物言いは、佳羅を戸惑わせた。不意に、佳羅は楽しそうに笑った。
「お可愛らしい方だ――。そんなに、わたくしの言うことが信じられませぬか?」
「信じられるか、とかそういう問題ではありません! 事実を言っているのです」
「事実――ねえ。まだ起こってもいないというのに、事実などあるのですか? それは、仮定というものではないのですか」
 羽依は思わず泣きそうになった。
 皇帝・牽櫂に出来ないことはない。己の権力でもって不可能も可能にしてしまう。それがこの舞姫には解らないというのか?
「わたくしは、そなたにまでわたくしの哀しみを味わってほしくはないのです。
 わたくしは、好きで陛下に抱かれているわけではないのです」
 羽依の瞳が潤んでいるのに気付いて、佳羅は息を吐いた。
「……頑固な方ですね。
 それに、わたくしはこういうことには慣れているのですよ。先程、恵夫人に言ったことではないのですが、舞姫と妓女の身の上は似たようなものです。わたくしも、数えきれないほど男の方と寝ました。
 それでも、そう言い張りますか?」
 これで、羽依が口を噤むと佳羅はにらんでいた。羽依は息を飲んだきり、肩を震わせた。
 佳羅の目論みは半分当たった。
 羽依は俯いたまま、佳羅の方を見ようともしない。蠢動する羽依の躰に、佳羅はため息を吐いた。
「お泣きになるのは、およしくださいませ。何事も、わたくしの勝手というものです」
 羽依は首を振った。
「そなたは、わたくしに助け船を出すために恵夫人を挑発し、陛下のお目に止まったのです。ならば、陛下がそなたに手を付けられるのも、わたくしの責任。
 わたくしがそなたを哀しませてしまうことになります」
 佳羅は、羽依を奇しいものと眺めた。
 身分の高い人は、身分の低い人間など塵芥ほども思っていない。自らのせいで自らの子飼いの者が破滅しても、気にもしない。
 が、羽依は自らのことを思って悩み苦しみ、泣いている。
 ――考えていたのと、違う……。
 佳羅は、昭妃・羽依を無神経な女と断じていた。父母を殺した男に何の感傷もなく抱かれ、その妃の地位に昇った。相当の悪女か鈍い女だと思っていた。
 この羽依の姿に、驕慢で無感性の影を微塵にも感じられなかった。
 どちらかというと、少女がそのまま女になってしまった風情なのだ。繊細な魂を抱いているように見えた。
「では、わたくしが哀しまぬと誓えばよいのですか?
 わたくしが哀しまねば、あなた様も苦しまずにすむ」
「え……でも」
「なにか、目に見える証が欲しいですか。されど、ここにはなにもない」
 うろうろと周辺を見て佳羅は、そうだ、と呟いた。
 羽依はそんな佳羅の態度を怪訝そうに見ていた。そして、急に振り返って佳羅がしたことに、思わず倒れそうになった。
 佳羅は無言で羽依に顔を寄せると、軽く羽依の唇に己の唇を重ねた。
 瞬間のふれあいだった。
 暖かく湿った佳羅の唇は、牽櫂の堅く乾いたそれとはまったく違った。
 妖しい、禁断の味……。羽依が思わず目蓋を閉じたとき、佳羅のぬくもりがすっと離れた。
「他の侍女の方が来られましたよ。ずいぶん遅かったことをみると、陛下に叱られていたのでしょうか」
 ふらり、と羽依の躰が揺れた。差し出された佳羅の腕に羽依は取りすがった。
「そ、なた……なにを」
「女と口づけするのは、当然、初めてですよね。いえ、あなたは皇帝以外の方と口づけを交わすのも初めてでしたか」
「わたくしを、からかっているのですか!」
 羽依は慌てて佳羅から離れた。
「滅相もない。
 言ったでしょう、目に見える証ですよ。
 わたくしの唇に皇帝の唇が触れないように。今宵のあなた様との口づけがわたくしにとって、最後の口づけですよ」
「そなたは男でも女でも、どちらでもよいのですかッ!」
 羽依にとって、佳羅の取った行動は本当に意外なものだった。
「口づけぐらいで、大袈裟な――。
 躰を交わすわけではないのですから、口づけでは何も起きませんわよ。まして、女同士であれば、挨拶程度のもの……」
 女同士の口づけが、挨拶程度……。
 羽依は女の園、後宮に六年住んでいるが、女同士の口づけなど、一回も見たことが無い。羽依が知っている口づけは、牽櫂に抱かれる時、行為に入る前の合図のようなものである。あと、牽櫂は感極まったりすれば、断りもなく唇を重ねてきた。
 佳羅と交わした口づけは、何の感慨もないただの触れ合いだった。
 羽依の難しい顔が面白かったのか、佳羅は声を出して笑う。
「羽依様は、皇帝のものになって三年の齢を重ねられたというのに――まだまだ初心な心をおもちですのね」
 羽依も、これにはむっとする。
「佳羅、無礼ですよ!」
 その言葉も、佳羅の笑いを過剰にしてしまった。佳羅は余計に激しく笑いだした。
「いえ……悪気はないのですよ。
 後宮に住まう女人はみな皇帝の寵を欲している女子と聞いておりましたので……。
 大概、皇帝の寵を得るためにどんな姑息な手段でも平気で労するような人達ばかりだと思っていたのですよ。
 ですが、あなた様はわたくしの口づけだけで狼狽して、怒っていらっしゃる。まったくすれておられないので、わたくしからすれば羨ましいかぎりですわ」
 やっと笑いを止めて、穏やかな眼差しで羽依を見つめた。
 羽依は佳羅の発言が褒めことばなのか、けなされたのか見当がつかなかった。
「それにしても、ようございました。
 お顔の色が戻られたばかりか、わたくしと言い争う元気まで出てこられましたもの」
 羽依はそう言われて気が付いた。
 何故、この舞姫に心を許して、こんなに話をしているのだろう……。
 先程の舞いで、心が染められてしまったのだろうか。
 そして、どうしてこの舞姫の舞いにあれほど心を奪われたのだろう……。
 後方から駆け付けてくる複数の足音が羽依の耳に入った。
 佳羅は優しいほほ笑みを浮かべて惑う羽依を見守っていた。


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 宴席から戻ってきた羽依の異変を、素早く揚樹は察知した。
 揚樹は瑞鴬殿に残っていたのだが、主人が燐佳羅という舞姫を連れ帰ってきたのを揚樹は胡乱な眼差しで見ていた。
 羽依の仕草がどこかおかしい。そわそわとして落ち着かず、誰かの視線を気にしているようだ。
 揚樹は羽依が気にかける方を見ると、舞姫・燐佳羅がいた。
 それだけではない。
 羽依は皇帝・牽櫂のものになってから、毎日ふさぎ込んで気欝が晴れたことがない。それが、この舞姫が側にいるようになってから、顔の血色がすこぶる良い。
 双眸も澄んで、綺羅とした輝きを放っていた。
 原因は、すべて舞姫・燐佳羅にあるようだ。
 揚樹は衝立ての陰に隠れている羽依に寄った。
「羽依様――誰ぞ、気になる者がいるのですか?」
 出来るだけ波風の立たない口調で聞いた。
 羽依は意外そうに眉を寄せると、
「いやね、揚樹。ここにはわたくしと、わたくしの侍女しかいないのよ。誰を気にするというの」
 曖昧に答える。
 それさえ、揚樹からすれば存外だった。
 縷々として呟くことはあっても、これほどはっきりとした物言いをしたのも、絶えて久しい。
 揚樹は、燐佳羅を探るしかない、と思案した。


 一通り燐佳羅を観察して判明したことは、侍女にも宦官にも人気がある、ということだった。
 そろいもそろって、燐佳羅の顔貌をうっとりと眺めている。
 これは揚樹自らの判断だが、燐佳羅は中性的な魅力があった。
 舞姫なだけあって動きは俊敏であり、面に浮かべる表情は甘くもあり、鋭くもあった。さらに、一種独特の色香があった。
 それ以上は、揚樹にも解らなかった。
 揚樹は、直接燐佳羅に問うことにした。
「そなた、宰相様に仕えていたのですか」
 佳羅は素直に肯定した。
「宰相様の寵を受けていたらしいですね」
「いやですわ……揚樹さまも女なら、同じ女にそのような話を聞くものではありませんわ」
 佳羅の返答は、はからずも李允との関係を暴露していた。
「そなた、歳はいくつになります?」
「十八になりました」
「十八歳――羽依様より二つ年上ですね」
 佳羅の年令を聞いてようやく揚樹は思い当った。
「そなたは羽依様と歳が近い。
 羽依様は非常に淋しいお方。姉のようなそなたが来たから羽依様は慰められているようです。気欝もだんだんと治ってきているようです。
 そなたが誠心誠意をもって羽依様にお仕えすれば、羽依様の心の病は治るかもしれませぬよ」
「わたくしがお仕えすれば、ですか?」
「そうです……羽依様は、きっとそなたを友と思われるでしょう。そなたならば、羽依様のお心に添うことが出来るはずです。よいですね」
 揚樹は佳羅の腕を掴んだ。
 佳羅が戸惑いながらも頷くと、揚樹は満足そうに佳羅の前から離れた。
 佳羅は、揚樹が触れた箇所を強く握った。
「お友達……ね」
 心なしか、声に陰りがこもっていた。


 舞姫・燐佳羅が瑞鴬殿に入ってから、客が多くなった。どれも、佳羅の姿を見たいがためである。
 燐佳羅の登場の仕方はかなり衝撃的だった。その上、皇帝との激しい口づけが宴席にあった人々の脳裏に鮮烈に焼き付いてた。
 陶嬪・硝珠もその一人である。
 陶硝珠は左将軍・陶衡の娘である。
 陶衡はかつて昭基演の配下であり陶衡は昭基演に敬慕の念を抱いていた。陶衡は昭基演夫妻の末路に身を切られるように嘆き、皇帝・牽櫂の暴虐ぶりに心を痛めた。
 今の陶衡の上司は李允である。李允の放埒ぶりを醜いものと見、皇帝の後宮を醜悪なものと感じていた。その後宮の中で不遇にある昭基演の令嬢・羽依に心を痛めていた。
 心の病のため、羽依はたびたび床につくことがあった。
 陶衡は娘の硝珠を見舞いにやった。そこで幸か不幸か、硝珠は皇帝・牽櫂の目に止まった。そのまま牽櫂は硝珠に手を付けた。
 陶衡は憤激した。憤激したが、後の祭りである。皇帝の手が付いた娘を誰が嫁にもらえよう。陶衡は娘を後宮に入れることにした。
 硝珠は嬪の位を与えられ、陶嬪と呼ばわれることになったが、皇帝は気紛に手を付けただけで寵愛は薄い。
 羽依にとって、陶嬪は後宮の中にいて、心が許せる数少ない存在である。
 陶嬪が訪れると、羽依は亭に席を用意して茶菓を出した。
「羽依様、そのお香、白檀ですわね」
 陶嬪は羽依の燻らせる香の薫りを聞いた。甘やかで優しい薫りが、羽依の印象とよくあっていた。
「ええ、わたくしは心を落ち着かせるためによく香をたくのですが、白檀が一番の好みですのよ」
「沈香や、伽羅は?」
 沈香、白檀ともに香木である。伽羅は沈香の中でも最高級のものをいう。当然、持つものも限られてくる。
「ええ……陛下はよくわたくしに伽羅を下されるのですが、あれはどうも鼻について……」
 香の話をしながら、陶嬪の目線はそれとなく佳羅の方に充てられている。
「陶嬪様は、佳羅のことをお気にいりですわね」
 そう言われて、陶嬪は恥ずかしそうに俯いた。陶嬪だけでなく他の賓もいつも同じような表情をするし、侍女まで問われると瞳を濡れさせた。
 にわかに、酒宴の日に佳羅と交わした口づけを思い出す。喉が焼けるように熱くなって、羽依は団扇を翳した。
 陶嬪に注目されている佳羅は、苑池に架けられている太鼓橋に立っていた。きらめく水面を倦むことなく眺めていた。
 羽依が冷茶に口を付けたとき、佳羅が突如として声を発てた。
「羽依様も、陶嬪様もご覧くださいませ!」
 突然のことなので、羽依が茫然としていると、息を弾ませて陶嬪は席を立った。しょうがなく、羽依も玻璃の器を置く。
 佳羅が指差す先に、茜色の煌めきがあった。夕暮時の天の色が水面に映っていた。
 羽依はその美しさに魅入られた。陶嬪は佳羅の隣にいてうっとりとした面持ちをしている。
 陶嬪は佳羅を見てから素行がおかしくなった。貞女であったはずなのに、佳羅の側に寄り添って陶然としている。羽依はあえて佳羅と陶嬪から目を逸らす。
 無関心を装う羽依を眺めて、佳羅は奇抜なことをした。
「きゃあっ、佳羅!」
 陶嬪が悲鳴をあげる。
 佳羅はひらり、と欄干の上に着地し、陽の光を浴びた。
「佳羅……危ないわ……」
 陶嬪が今にも泣きそうになって佳羅を見上げた。羽依も、肝が冷えた。
「佳羅、危険ですから降りなさい!」
 主人の号令が飛んだ。が、佳羅は対向の欄干に跳躍する。見事に四肢を回転させ、丹塗りの木の上に静止した。
 佳羅は細い手摺りの上を片足で舞いはじめる。
 陶嬪は目を覆った。
「佳羅、言うことを聞きなさいッ!」
 羽依が叫ぶと、ふっと佳羅の姿が欄干の上から消える。
「佳羅――ッ!」
 深層の令嬢と思えないほど素早い動きで、陶嬪は欄干に駆け寄り、手を差し延ばした。
 羽依も遅れて陶嬪のあとを追った。
「いや……っ、佳羅」
 陶嬪は泣きじゃくっている。涙がいくつも朱の上に落ちた。羽依も信じられない面持ちだ。
 そのときである。
「はッ!」
 という気合いの声と一緒に、佳羅が橋の下から躍り出た。風を切って橋の上に足を着けた。
「佳羅……っ!」
 陶嬪が嬉々として佳羅に駆け寄った。佳羅に縋りつき、胸の中で泣いた。
 佳羅は陶嬪の肩を擦りながら羽依を悪戯っぽく見た。
 羽依は口に両手を当て、目を引きつらせていた。
 にっこりと笑って、佳羅は羽依に言葉をかけた。
「少しは、心配なさいましたか」
 悠然としたものである。羽依は苛立ちをもてあました。
「あ――当たり前です! 悪ふざけも、いい加減になさい!」
 本当は、心臓が潰れそうになった。
「わたくし、橋の床に手をかけていたのです。お気付きになりませんでした?」
 羽依は、肩の力が抜けた。罪悪感のない人間相手では、業腹というものだ。
「――無事なら、それでいいのです」
 疲れて、羽依は眉間を押さえた。
「羽依様も、怒気を見せることがあるのですね」
 佳羅の言質が、またも羽依の癪に触る。
「当然でしょう、わたくしも人ですもの」
 羽依は付き合っているのが馬鹿らしくなってきた。良い雰囲気の二人を置いて歩きだす。
「羽依様?」
 佳羅が声をかけた。
「先に屋内に入ります。そなたたちは、ゆっくりとなさい」
 羽依は振り向くこともなくそう告げた。
 佳羅は羽依の態度にほほ笑み、胸にしがみついている陶嬪を見下ろす。欄干に手を延ばしたときに擦ったのだろう。白い手首が血が滲んでいた。
「ああ、わたくしのためにお怪我をなさったのですね――」
 言うなり、佳羅は陶嬪の傷口を口に含んだ。陶嬪の躰が軋み、ゆるゆると溶ける。
「佳羅……っ」
 甘い声が、羽依の耳朶に刺さってきた。
 振り向くと、佳羅が陶嬪の手首に口付けていた。
 鈍いが刺すような、心臓を握りつぶされそうな痛みが、羽依の胸を貫いた。
 羽依は動揺した。鼓動が激しくなって、羽依は駆け出すようにして逃げた。
 陶嬪は甘美なときめきに酔い痴れていたが、佳羅は走り去った羽依の後ろ姿を盗み見、妖艶に笑った。


 ――佳羅は、危険だ!
 羽依の直感はそう告げていた。
 艶冶であり、冷然としている佳羅は妖しい魅力を持っている。元は男であった宦官も、侍女や妃嬪達でさえも佳羅の魅力の虜になっている。己でさえ、危うく引き摺られそうになった。
 ――佳羅には、近付かないほうがよい。
 身を守るために、羽依は決断した。
 羽依は、その夕刻より佳羅との接近をできるだけ避けた。
 侍女達を盾にして、佳羅が接近する隙間をなくした。
 佳羅は容赦なく視線を羽依に突き刺してくるが、羽依はなるべく意中にないような振りをする。
 羽依の、佳羅に向ける態度が非常に淡泊なので、侍女達は羽依の機嫌を気にした。
「昭妃様は……佳羅殿のことをお気に召さないのでしょうか?」
 思案顔で、侍女のひとりが羽依に耳打ちしてくる。
「どうしたの?」
「いえ……昭妃様が、佳羅殿を視界から追い払っているようにお見受けしましたので……」
「追い払ってなどいないわ」
「そうですか。それならばわたくしどもも安心いたしました」
 胸を撫で下ろして侍女は告げた。
 羽依を片眉を上げる。
 ――どうして、この侍女はわたくしの態度を気にするのだろう。その上、わたくしどもとは……。
「そなたは、何故それほど佳羅のことを気にかけるのです?」
 羽依は侍女を問いただした。
「昭妃様が佳羅殿を追放するなどと言われたら、わたくし達、悲しくなってしまいます」
 侍女は頬を染めた。
 羽依は愕然とした。いつのまに、侍女達の間で佳羅の影響がこれ程大きくなったのだろう。佳羅は、この殿舎の仕え人すべてを自らの味方に取り込んでしまったのか。
 思わず、羽依は窓際に寄っていた佳羅を鋭い眼で見た。
 羽依の視線に気付くと、佳羅は余裕の笑みで応える。
 羽依はかっとなった。
 ――馬鹿にしている!
 つまり、佳羅は羽依が自らを無視しようとしていたことを知っていた。解っていて、羽依を放っておいたのだ。
 羽依はまんまと佳羅の手管に乗せられているようで、ぞっとした。
 得体の知れない恐怖とは、まさにこのことである。
 佳羅は自らの周りの人間を残らず取り込んで、どうするつもりなのだろうか。皇帝を操るつもりか、己を食い潰す魂胆か。羽依は気分が悪くなった。
 羽依は近くにあった小椅子に座り込んだ。
「羽依様、お身体の具合がお悪いのですか」
 揚樹が飛んできた。
 羽依は卓子に片肘をつくと、揚樹に小声で囁いた。
「そなた――佳羅を、どう思います?」
「佳羅――ですか」
 揚樹は主人の言わんとしていることが飲み込めなかった。
「何故、ここの仕え人からあれほど好意を寄せられているのでしょう」
 ああ、と揚樹は合点の声を出す。
「羽依様、佳羅には不思議な魅力がございましてよ。この殿舎の中では燦然と輝いております。多分、男とも女ともつかぬ曖昧さが仕え人どもに受けているのでしょう」
「それぐらい、解っています」
 不機嫌に羽依は言った。
「わたくしは、あれが突如として人の心を掴んでしまったことが不可思議でなりません。そなたは佳羅の存在が不気味だとは思わないのですか」
 羽依は一気に心情を吐露した。
 揚樹は羽依の表情を変転を見守っていたが、羽依がすべて語りおわると優しい微笑を浮かべた。
「それをいうのなら……どうして羽依様はそれほど佳羅のことを気に掛けられるのですか。人の心が輝きを放つものに弱いのは、至極当然ではありませんか。
 わたくしは、佳羅が羽依様に良い陰をさしているように思えるのですが」
「揚樹、そなたまで佳羅の肩を持つのですか」
 羽依は侍女を詰った。
「そうではございませんよ、羽依様。
 わたくしは羽依様が幼少の頃からお仕えしてきたのですよ。羽依様が、いつの頃からお心を閉ざされたのかも、わたくしは余すところなく理解しております。
 わたくしは辛うございました。
 ですが、佳羅は羽依様のお心を取り戻してくれました。今、羽依様が佳羅のことを懸念することさえ、わたくしには嬉しいかぎりです」
 羽依は言葉が継げられなくなった。
 揚樹では、自らの底知れぬ不安は理解できない――。羽依はそう感じた。
 羽依は黙して席をたった。
「羽依様?」
 揚樹の頓狂な声が羽依の背を打った。
 小走りで回廊を抜けると、羽依は庭園に入りこむ。
 羽依は百日紅の木陰で一息ついた。小粒で可憐な花弁が羽依の髷の上に散る。
 曲水のせせらぎが羽依の鼓動を休めた。誰も羽依のあとを追ってきてはいないようだ。
 羽依はたまらなく一人になりたい時がある。殿舎が喧騒に溢れた昼、牽櫂を送り出した朝方、過去の悲惨な記憶が夢に現われた夜更け――羽依は忍んで庭園に来る。
 何かを避けたいがため、である。
 今、羽依が避けたいのは、佳羅の視線である。
 ――わたくしは佳羅が、たまらなく怖い。
 羽依の、偽りなき真情だ。
 佳羅の触手が、いつか己に絡み付き、縛り上げてしまうような気がする。
 ――どうして、わたくしは他人に縛られるのだろう。わたくしはわたくしのものなのに。
 牽櫂の付けた枷は、未だに羽依を虜にしている。外そうとしても外れない枷である。羽依はこの枷を外すことを諦めている。
 が、何故佳羅に縛り付けられなければならないのだろう。佳羅の前では、どの人も心の無い人形と化してしまうのか。
 羽依は百日紅の幹に躰を預けると、目を瞑った。
「わたくしから、逃げたかったのですか」
 驚愕して、羽依は躰を堅くした。
 佳羅が泰然とした体で頬笑んでいた。
「佳羅――」
 佳羅は緊張する羽依のもとに歩み寄ると、黙って腕を延ばした。
 びくっと、羽依が肩を峙たせ、瞳を閉じる。と……。
「羽依様、どうしたのです」
 謡うように佳羅は羽依の耳元で囁いた。羽依はうしろに躙り去る。背に、幹のおうとつを感じた。逃げ場が無かった。
「ほら、花弁が髪に付いてましたわ」
 羽依の目先に花弁を近付けると、佳羅は花弁を払った。花弁はひらひらと風に乗った。
「何を意識しておいでなのです。わざとわたくしを無視なさったりなどして」
「無視……など、しておりません!」
 羽依は虚勢を張ったが、声が震えていた。
 くす、と笑い、佳羅は羽依の頬に触れた。
 羽依の顔が強ばる。
「――まさか、先の宴の口づけを、気にしておいでなのですか?
 いやですね、女同士だというのに。特別な感情など入っているはずないではありませんか。
 それとも、わたくしにまた何かされるかと、警戒しておいでで?」
 明らかに、揶揄であった。
 羽依の頬に血が昇る。
 大きく手を振り上げると、羽依は佳羅の頬を力任せに張った。
 強い衝撃に、佳羅の躰が安定を崩した。
 羽依は佳羅を睨み付けると、頬を押さえて蹲る佳羅を置いて回廊に戻った。
 家屋の陰に隠れた羽依を横目で見送って、佳羅は呻いた。
「まったく……なんて力だ。女人の力だとは思えぬ――」
 呟いて、誰ともなく、ふっと笑った。




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