第一章・奔流の星々
黒雲がとぐろを捲いて宮城に立ち篭めた頃、女が王子・玲琳の頭に錦の着物を被せた。
「どうか、王子だけでも、ここからお逃げ下さいませ」
覚悟を決めた眦で、中年の女は王子・玲琳を扉の外に引立てる。
「わたしは、南遼の王子である! 王の子が、おめおめと一人で助かれようかッ!」
渾身の力で自分を押し出す女に抗いながら、玲琳は叫んだ。
「北宇は、わたしの存在を忌んでこの国を攻めたのだ。ならば、わたしだけでも死ねば、この国は助かるはずだッ!」
「いいえ、王子。北宇の軍勢はもうすでに、この城を取り囲みました」
玲琳と同じ背格好の少年が、淡々と告げた。玲琳の顔が引きつる。
「そんな――。父上は、母上は……兄上は!? 乳母よ、応えてくれッ!」
中年女はぐっと息を詰めると、袂で目尻を押さえた。代わりに、少年が痛切な声を出す。
「処刑されるならば、自ら、死を選ぶと、王は……お妃様と、太子もご自害あそばされました……」
事実は、王子・玲琳にとって余りにも辛すぎた。襲いきた目眩にかろうじて耐えると、玲琳はわななく拳を握りしめた。
「母上も、兄上も、もうこの世におわされぬか……。ならば、余計にわたしは生きてはいられぬ」
戸口の間仕切りを掴んで、玲琳は眉間を押さえ付けた。
「王子、王妃様が、あなた様を逃げのびさせるように計らわれたのです。王子だけでもご存命であられたなら、南遼の命運も尽きぬ、と……」
玲琳は、絶叫したかった。わたしがこの世に存在したために、あなた方を殺めたのだ、それなのに、わたしがなぜ、生き延びねばならぬ、と。
「いやだ、わたしは逃げぬッ! 絶対に逃げはせぬッ!」
玲琳の眼から大粒の雫が落ちた。
戸口に足を固く縫い付けてしまった王子の様子に、途方にくれながら、乳母は後方に控えている大男に目線で指図した。
のっそりと躰を起こした男は、無言で玲琳に近づくと、その腹部に当て身を食らわせた。
玲琳の目前が、ちかりと瞬くと、靄に塗れて見えなくなった。傾いだ細い躰を抱きとめると、屈強の男は乳母に頭を下げ、その体躯には似合わぬ颯爽さで部屋をあとにした。
またも溢れてきた涙を拭うと、乳母は抱えていた包みを隣の少年に渡した。
「伯如、おまえに無体なことをさせる母を許してたもれ。
丁度、我が君とよく似た躰つきをしていた子供が、おまえしかおらなんだからと、おまえに死を進めるこの母が憎いであろう」
伯如はゆるりと首を振った。
「玲琳様は、わたしの乳兄弟であり、主君であらせられるお方です。そのお方のためなら、我が命など、塵芥に等しいものです」
大人びた口をきく少年は、唇に笑みさえ浮かべた。
「伯如、おまえ一人だけ逝かせはしませぬ。この母も、一緒にまいります」
涙ながらに掻き口説く母に頷くと、伯如は手元の包みを開いた。それは、練り絹の生地に金銀の刺繍のされた、豪奢な上衣だった。母に手を貸されて、衣装を纏い終わった伯如は、ふと、眉を寄せた。
「母上、王子が敵に見つかることはありますまいか」
乳母は、遠い目をすると、朱唇を歪めた。華やかな笑みだ。
「王子のあのかんばせに、被き物では、誰も男と気付きますまい」
南遼が滅びた時代は、未だ諸国が覇権を競って屹立する戦いの世紀であった。
南遼を滅ぼした北宇は同じく北方に建国された北康と並ぶ強国である。北宇と北康は互いに睨みを効かせ、一触即発の状態にあった。
北宇に名花と謡われる少女が一人、存在した。年齢十歳の童女だが、幼少のみぎりだというのに、まるで花精のごとき美しさを有していた。名を、昭羽依という。
南遼の第二王子・暉玲琳は、昭羽依の許婚で、三月後に花嫁が嫁入りしてくるはずだった。
玲琳王子の運命に狂いが生じたのは、北宇の皇帝が卒し、新たに皇帝の座に即いた沈牽櫂が、昭羽依を見初めたからであった。昭羽依の美貌を欲した皇帝・牽櫂は少女が婚するはずの国、南遼を滅ぼした。南遼を滅ぼし、昭羽依を手に入れようとした。南遼は、必死で北宇の軍勢に抵抗しようとした。だが相手は大国、南の小国家がかなうはずもなかった。
北宇は南遼の邑という邑を焼きつくし、都城に入ると、女子供の区別なく人を殺した。軍隊が壊滅したという報せを受けた国王は震撼し、降伏を願い出たが、北宇の皇帝の要求に息を飲んだ。
北宇の皇帝が要求したものは、南遼の第二王子の首級だった。国王は心を痛めた。第二王子・玲琳は若干、十二歳である。稚い子供に、そんな酷い仕打ちが出来ようか。
『朕は死ぬるが、玲琳は殺させぬ。かように傲慢な皇帝の命を、むざむざ飲みはせぬ。ひとつぐらいは思い通りにならぬことを、貴奴に解らせてくれようぞ』
臣下の者だけにそう言うと、国王は自ら首をはねた。王の無残な最期を見た王妃は、病弱な太子とともに、縊死した。
ただ独り、王と王妃の痛恨の想いを託せられた玲琳王子は、部下の死によって生き延びた。
腹部の鈍痛に、玲琳は目蓋を開けた。視界は小暗く、石のように堅い感触が玲琳の頬に感じられた。
低くうめくと、玲琳は腹に手を充てる。痛みとともに、胃の内部で不快なむかつきが起こった。玲琳は中のものを吐き尽くした。
口元を拭うと、玲琳は腹の痛みの原因を悟った。がば、と起き上がり、玲琳は手探りで頭上を触る。歪曲した突起を掴むと、力任せにそれを持ち上げた。
外気を感じたとたん、むっとこごった匂いが鼻をついた。
腐臭――血の匂いだ。玲琳は咄嗟に手のひらで鼻孔を覆うと、地下室から出て、辺りを見回した。
そして、絶句した。
漆喰の壁に、どす黒いものがべっとりと着いている。錯乱した廊下には、得体の知れぬ塊が錯乱している。目を凝らすと、人間の足や、腕のようだった。それも、大小かまわずあり、明らかに幼子の手首もあった。
死体も、累々とある。首の無い兵士や仕官の骸や、犯された痕を見て取れる官女の裸――。
――惨い、惨すぎる。
まさに、地獄である。阿鼻叫喚の声が聞こえてきてもおかしくはない現場だ。
自分がひとり、息をして立っているのが玲琳には不思議に思えた。悪夢ではないかとも考えた。しかし、腹に残る痛みが現実だと教えている。
「父上……母上は?」
のろのろと、玲琳は頭を動かした。
惨状を見ないようにして、玲琳は広間に向かうが、そこには、荒らされた跡しかなかった。森閑とした空気が漂っている。人の気配がまったくない。すでに、北宇の軍は撤退したあとのようだ。
やっと、現実を理解した玲琳は、一目散に走りだした。駆け足で階段を降り、城門まで急いだ。
城の全貌を見渡した玲琳は、愕然とした。城壁に、人の躰が釣り下げてある。躰は、首を支点にぶらぶらと風に揺れていた。その中に一点、見覚えのあるものを見付けた。玲琳は鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
「乳母……」
目を凝らすと、他にも目に馴染んだ体躯がある。母や兄、その侍女であった。玲琳の膝が力を失い、崩れ落ちる。
「まさか、そんな……」
それだけ呟いて、玲琳は茫然自失した。
――何故、こんなことになったのだろう。わたしは、なにか北宇に憎まれるよことをしたか? わたしの許婚が、昭羽依だったから?
昭羽依を手に入れるためだけに、北宇の皇帝は罪の無い人民を抹殺したのか?
わたしの家族を殺したのか?
玲琳は拳を地面に叩きつけた。何度も何度も叩きつけた。手の皮が破れるほど、叩きつけた。血が滲み、はぜた肉に小石が突きささって、玲琳は喘いだ。
――いらぬ、わたしの命など、いらぬ!
玲琳の喉がひりついた。声帯が震え、かすれた。
――アアアアアァァァッ!
迸り出たのは、嘆きだった。絶叫とも、慟哭とも、咆哮ともいえた。埃のたつ地面に額ずくと、玲琳は小さくなって肩を振動させた。
南遼が陥落して、四日が過ぎた。
廃墟と化した南遼に、旅人ひとりたりとも寄り付かず、わずかに、屍体を漁りにきた獣やけたたましい鳴き声を木霊せる烏があった。その中で逞しい男達の一団が都を徘徊していた。
先頭に立って一団を誘導する男が、路頭に晒された首を眺めて険しい眼差しをする。
「頭、もうよろしいでしょう。ここには、財宝の類いはひとつもありませんよ」
「まあ、待て。誰か、生き残った者がいるかもしれん」
先頭の男は手下を手で制した。手下は首を竦めた。いくら盗賊とはいえ、屍体以外になにもない廃墟に滞在するのは薄気味が悪くてしょうがなかった。
手下の感慨はそんなものだったが、頭の男は荒んだ様相の都を、痛ましく感じていた。
――この国を陥落させたのは北宇だというが……、徹底した壊しようだな。血も涙もないとは、まさにこのことだ。
苛々と眉をしかめた男は、遠いところで物音を察知した。
「……なんだ?」
耳を澄ませば澄ますほど、物音は確かになってくる。堅いものを叩きつけている音だ。物音がする方角に足を向けると、ずんずんと宮城に近づいてきた。
男は不審に思う。
風などで起こる自然の音とは違う、人為的な音だ。人の、明確な力によってたてられた音だ。ということは、宮城の中に誰かいるのだろうか。階段を駆け登り、最上階に着いたとき、物音はさらにはっきりと聞こえた。
「か、頭……なんか、ちょっと、やばくありません? ゆ、幽霊なんかだったりして――」
手下は尻込みして頭の気を引こうとした。
「おまえは馬鹿か。この世に幽霊なんぞ存在するものか。人間に比べたら、幽霊など赤子も同然だ」
頭は確かにそう思う。女ひとり手に入れるために、一国をすべて滅ぼしてしまえる人間の恣意の方が、幽霊より余程恐ろしい。
城内を走り回った盗賊達は、一番大きく音のする部屋の扉の前に立った。躊躇う手下達にかまわず、頭は一気に扉を開けた。
中には女がひとり、まさに鋭利な得物で首を突こうとしていた。錦の被衣がふわり、と揺れ、優美な影は前のめりにかがみこんだ。得物が女の白い首に刺さるより、頭の腕が延び出たのが早かった。女の手から強引に得物を奪い取ると、頭はそれを放り投げる。
「愚かな……死んで、どうなる」
得物を奪い取られた女は、絹の布地ごしに怜悧な眼差しを投げてきた。尖った眼差しは、頭の胸に深々と突きささってくる。頭は大股で女に歩み寄り、身を屈すると、外れかけた被衣を取り、女の頤を掴む。
現れ出た肌は生白くほっそりとして、頬や唇の鮮やかな赤さを引き立てている。険しい光を滲ませた眼差しと相まって、透き徹った美しさを醸している。
「……放せ、無礼者ッ!」
噛み付くように女は言った。高飛車な物言いに、男は不遜な嗤いを浮かべた。
「美しいな……王の妃嬪か、それとも宮女か、王女か?」
試すように頭は女に語りかけるが、女は一言も話さない。
「まあ、いい。この場で死のうとするなど、せっかくの若さと美貌が台無しだ。可惜花の盛りを捨てるなら、どうだ、俺の女にならんか」
言いながら、頭は心のどこかで首を捻った。初めて会った女だというのに、自分のものになれと言っている。まるで、物好きか、好色な男の言動だ。これも、先程の眼差しが起因か?
頭の心を嘲笑うかのように、女は花びらのような唇を開いた。
「何を思い違いをしておるかは知らぬが、手を放したほうが、そなたのためだと思うぞ」
「思い違い?」
頭は、聞き返した。
「わたしは、女ではない。女でないのなら、用はあるまい。その石の破片を返してもらおうか」
この言葉に、手下一同、驚いた。が、頭は少し意外だっただけで、美形を面白そうに眺めた。美形は緊張した面持ちで頭の出方を窺っていたが、頭の態度が少しも変わらないので、焦れてきた。
「返せ、と言っているだろうッ!」
美しい容姿とは裏腹に、美形は大音声を張り上げた。どこか、凛とした響きをもっていた。
頭は、はらはらと見守る手下とは違い、美形をしげしげと観察した。玲瓏とした気迫をもっているが、まだ目元、口元が稚い。未だ少年のようである。
――死なすには、惜しいな。
頭の、素直な答えだった。
「何故、そんなに死にたがる。一族を滅ぼされたのか」
少年は寸刻、言葉を失った。唇を引き結び、俯くと表情を隠した。
「そなたには、解るまい……。わたしのせいで、家族が、国が滅びたのだ」
少年の言葉に、頭は目を見開いた。
「暉玲琳王子――?」
男の口から漏れた自分の名に、玲琳はきっと、男を睨み付けた。
「わたしのせいで、みな、滅びたのだ! わたしひとり生き残ってどうなる!」
玲琳は頭が自分を痛ましそうに見つめるので、目を反らした。今の玲琳には、同情がなによりも辛い。
頭は、玲琳に感傷を禁じえなかった。まだ、稚い少年が、これほど重いものを背負ったのだ。むしろ、一族と一緒に死んでしまったほうが、どれだけこの少年にとって幸福だっただろう。だが、託されたものが重ければ重い程、この少年は生きなければならない。
「玲琳王子……今、ここで死ぬのは簡単だ。ただ、考えてみてほしい。
あえて、あなたひとりを生き延びさせた者の願いを。あなたに生を託された者の想いを」
険しいしわを寄せていた玲琳の顔が、その言葉で弛んだ。玲琳のなかでかたくなに凍っていたものが、ゆるゆると解けてくる。
次の瞬間、頭が見たものは、王子の涙だった。体中の水が、滝のように溢れ出て、玲琳は戸惑った。こんな無防備な様を他人に見せたのは、初めてだ。
「み、見るな……わたしを、見るな!」
慌てて顔を腕で隠し、玲琳は跪いた。
その場にいた一同は、尊貴の人間が、狂乱の態を晒したのが信じられなかった。尊貴の人は、いつ見ても泰然と構えている。先程の玲琳の態度も、そういう類いのものだった。
蹲っている玲琳の肩に、頭は大きな手のひらを置いた。
「好きなだけ、泣かれるがよい。泣くだけ泣いて、明日に備えられるがよい……」
玲琳は、ひくっと、息を飲んだ。それは、号泣の合図だった。
盗賊の頭は自らを、
――殷楚鴎。
と名乗った。
盗賊、という名称も訂正し、自分たちは富めるものから金品を掠め、貧しいものに施す義賊、だという。
義賊のほとんどは、ならず者という顔触れだが、頭目の殷楚鴎だけは異なった。殷楚鴎には品があった。濃く切れ上がった眉は精悍な印象を与え、涼やかな目元とは反対に、厚い唇は情熱的に見えた。楚鴎の言動には、正義感がほの見え、この男なら信じられる、と玲琳は直観的に感じ取った。
楚鴎も、玲琳の容貌に感じ入っていた。
――玲琳はそこらの女よりも艶麗だな。
そう思い、楚鴎はほほ笑みを浮かべる。優雅な柳眉に、鳶色の瞳は円らである。紅をさしていないというのに、唇は赤く、体付きは、ほっそりとしている。可憐、という言葉が玲琳には相応しい。
――こいつは、成長すると絶世の美女になるだろう。こんなことを本人に言うと怒るだろうが。
楚鴎は苦笑いする。玲琳の美貌に叶う人間といえば、北宇の名花、昭羽依か、羽依の母、宝扇公主ぐらいだろう。宝扇公主は、昭羽依が生まれる前までは、艶憐さを世に轟かせていた。羽依が生まれてからは、娘に株を取られてしまったが……。多分、玲琳は長じて宝扇公主ぐらいの美しさを得ることが出来るだろう。例外は、昭羽依ぐらいだ。
そう考えると、楚鴎は薄ら寒くなってきた。
童女の歳で名花と例えられる昭羽依は、成長すれば一体、どうなるのだろう。北宇の皇帝・牽櫂が、大人になった昭羽依を我がものとするのは、目に見えている。一国を簡単に滅ぼしてしまえる皇帝・牽櫂が、昭羽依の美貌に溺れてしまったら――。
「兄上、なにを考えているの?」
鈴のような声に、楚鴎は我に返る。
声の主は楚鴎の弟、丁秦だった。十歳の丁秦は声変わり前で、可愛らしい声をしている。稚いせいか、落ち着かない丁秦は、一団の前後をうろうろ歩き回っていた。
「そんなにそわそわするな、丁秦」
兄に注意されると、丁秦は大きな目を細めて、悪戯っぽく笑った。
「だって、あんなに綺麗な人、初めて見たんだもの。あれで、男なんだねえ」
「解ったから、静かにしろ」
兄の声に、苛立ちが含まれると、丁秦は不貞腐れる。
「ねえ、今夜は、ここで寝るわけじゃないよね。ぼく、あんなに屍体のあるところで寝るの、いやだ」
丁秦は町中を指差した。焼け跡には、未だ黒煙が燻っている。
「心配するな。南遼の郊外の森に野営する」
「やった」
丁秦の顔が、明るくなった。その笑顔は、辺りの景色とまったくそぐわない。それでも丁秦の笑顔が、義賊の一団に明るさを灯した。順々に、男達の顔色に生気が戻る。ただし、玲琳を除いて。
玲琳は、虚ろなまま、街頭に晒されている首級を見つめていた。楚鴎は一団から離れて、玲琳の後ろ姿に声をかけた。
「無理に見ないほうがいい」
玲琳は力なく首を振った。
「この者たちは、わたしのために死んだのだ。これから生きていくためには、わたしはこの者等の顔を目に焼き付けておかねばならない」
呟いて振り返った玲琳だが、顔色は蒼白だった。楚鴎の内心が疼いた。もし、玲琳が女なら、楚鴎はためらわず玲琳を抱き締めていただろう。
玲琳が俯いた。目蓋に、陰りが落ちる。
「わたしの父上の亡骸は、どうなったのだろう……。母上や兄上、乳母の亡骸はこの目で見たのだが、父上の消息までは、まだ確かめてはおらぬ」
顔を上げた玲琳の瞳には、縋りつくような憂いがあった。
楚鴎は、言うのを躊躇したが、うしろから顔を出した丁秦が、あっさり真実を告げてしまった。
「国王と玲琳王子の首は……あ、玲琳王子の影武者か、北宇の皇帝に献上されたって……。骸のほうは、車裂きの刑に処されて、南遼の国境に晒されているらしいよ」
丁秦の言葉に、玲琳は強い打撃を受けた。車裂きの刑とは、人間に四肢に縄を付け、それを車に結んで、四方から引っ張って手足を引き裂く、重い刑のひとつである。
――父上とわたしが車裂きの刑!? その上、わたしの影武者!?
玲琳の顔色が変わる。鬼気迫る様子の玲琳は、一団から飛び出した。
「玲琳ッ!」
背後から、楚鴎が玲琳を押さえ付ける。
「放せ、放してくれッ! わたしは、父上と影武者の遺体を見なければならないッ!」
「落ち着け、逸るなっ!」
全力で抗う玲琳の片頬を、楚鴎は叩く。小気味よい音が、響いて天に消えた。呆気にとられて、玲琳は楚鴎を見た。
「明日、連れていく。正常心を忘れると、成功することも失敗する。あなたは、冷静さを養わなければならない」
「正常心……」
楚鴎は頷いた。玲琳は楚鴎に導かれながら、一団の中に戻った。脳裏に、先程の楚鴎の科白が繰り返していた。
楚鴎は、玲琳に義賊の一員となって、一緒に行動することを勧めた。
今の玲琳は天涯孤独の身。楚鴎の申し出は魅惑的なものだった。が、玲琳はすぐには回答しなかった。
「まあ、無理もないだろう。まだ一晩ある。ゆっくり考えてみてくれ」
玲琳の応えに、楚鴎は至極さっぱりと笑った。
夜が更け、男達が寝静まっても、玲琳は眠れなかった。仰向けに横たわった玲琳は、星の光を躰に受けた。
――王子だけでもご存命であられたなら、南遼の命運は尽きぬ。
最期に、乳母が残した言葉だ。自らが生き残れば、南遼が再興するとでもいうのだろうか。玲琳は、思念をはね除けるために首を振る。
――馬鹿な、南遼は滅んだのだ。
わたしひとり生き残ったとて、なにが出来ようか。玲琳は寝返りを打った。
――父上は、どんなにご無念だったろう。南遼を豊かにするために、燃えていらしたのに、淡雪のように消えてしまった。他の者も、生きていたかったはずだ。すべて、わたしのせいで……。そもそもの発端は、昭羽依という女が存在したからだ。昭羽依が自らと婚約しなければ。昭羽依が皇帝・牽櫂に見初められなければ――。
――昭羽依が、この世にいたから!
再度、玲琳は躰を夜空に向かい合わせた。目には、南遼を滅ぼした炎が甦っていた。
楚鴎は玲琳の応えを聞いても、驚きを見せなかった。
「そうか、ひとりで行動するか……。そう言うだろうと思っていた」
当然のように言った楚鴎に、玲琳は反論したかった。そうじゃない、わたしには目的が出来たから、おまえたちと一緒に行くことが出来なくなっただけで、厚情は身に染みている、と。昨日、楚鴎に止めてもらわなければ、玲琳は無駄に命を散らしていたはずだ。
「とりあえず、国境には一緒に行くのだな?」
玲琳が頷くと、楚鴎は軽く玲琳の肩を叩いた。国境には、父と、自分の影武者の無残な遺体がある。玲琳には、影武者が誰か見当がついていた。
南遼の国境は大陸を横断する丑河添いにあった。丑河を越えると、気温ががらり変わり、肌寒さを覚える。南方なだけに、南遼の国は通年温暖だった。
玲琳の心を引き裂いたのは、通過する邑々の大地に、塩が撒かれていることだ。塩の撒かれた土地は、永年芽吹くことがなくなる。
――北宇は、南遼を死の大地にしてしまった。
玲琳の目頭が熱くなる。
楽しい思い出も、哀しい思い出もともにある南遼だというのに、今、自分は捨て去ろうとしている。目指す国は、凍えるような土地なのだろうか?
玲琳は覚悟を決めていたので、いざ父の遺体と対面しても、取り乱さなかった。
「父上……」
変わり果てた父の姿だった。否、すでに父の姿をしていない。頭部は失せ、精強な体躯はばらばらになっていた。
――わたしは、本懐を見付けました。
父上のご遺志に応えるのは、本懐を遂げてからでもよろしいですよね。
玲琳は父の躰に、無言で額突いた。最期の礼だった。
もう一つの遺体を目にしたとき、玲琳はさすがに言葉を無くしてしまった。
「伯如……」
思っていたとおり、影武者は己の乳兄弟だった。
たったひとりの、心を許せる友だった。一番自らを心配してくれる者だった。己のために、惜し気もなく命を差し出してくれた。
伯如は、玲琳が好んで身につけていた上衣を着込んでいた。胸には、南遼の紋の入った札が付いているが、乾いた血で汚れていた。
玲琳は札に手をかけると、むしり取り、己の胸元に忍ばせる。
「おまえの心に報いるためにも、わたしはむざむざと死にはせぬ。のうのうと生きもしない。おまえの霊に、沈牽櫂と昭羽依の首を捧げる」
確固たる意志を込めて、玲琳は呟いた。
「玲琳!?」
驚愕して側にいた楚鴎は聞き返す。
「聞いたとおりだ。
わたしは、復讐を遂げるために、誰とも行動をともにはせぬ」
しばらく容易に言葉を告げれなかった楚鴎だが、玲琳の真剣な表情に、眼差しを堅くした。
「そのまま、北宇に乗り込むつもりか?」
玲琳が頷くと、楚鴎はため息を吐いた。
「無策でか?」
「差し違えてでも」
「いいか、玲琳――」
頭を抱えると、楚鴎は玲琳の肩を抱いて囁いた。
「北宇は堅牢だ。おまえひとり乗り込んでも、話にならぬ。それこそ、命の無駄だ」
「だが……!」
躍起になって言い返そうとする玲琳を押し止め、楚鴎は言葉を続けた。
「冷静になれ、と言っただろう。
復讐を成功させるためには、相手の隙を突かねばならん。北宇は風穴ひとつ無いが、つくろうと思えば出来るはずだ」
「楚鴎……!?」
玲琳の激情が治まってくるのを見計らって、楚鴎は玲琳の躰を放した。
「成功させるには、長い年月がかかるかもしれん、勿論、一年やちょっとの話じゃない。
おまえが、南遼の第二王子・玲琳を捨てることが出来れば、必ず、ことを成せるはずだ」
「玲琳を、捨てる……!?」
「当然、王子としての矜持も失墜するだろう。それでも、復讐を遂げたいか?」
しばし、沈黙があった。
――わたしは、父上や伯如に、沈牽櫂と昭羽依の命を捧げることを誓った。だが、そのためには、暉玲琳を捨てねばならぬのか? そうしなければ、ことは成らぬのか?
戸惑いは、あった。
それでも、玲琳は堅く目を瞑り、衣ごしに胸の札を握り締めた。
「わたしは、ことを成すためなら、なんでもする」
静かに玲琳は目蓋を開ける。
瞳には、真摯な輝きがあった。
楚鴎は、満足そうにほほ笑んだ。
「おれに、身柄を預けてくれ。おまえを、一流の兵器に造り替えてやる」
殷楚鴎は、暉玲琳を捨てた少年に、逞しい腕を差し出した。
少年は、言葉もなく男に手を延べた。言葉など、必要なかった。
少年の口元には、忘れて久しい笑みが浮かんでいた。