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第二章・陽狂の皇子

 彩女はこれ程に美しい邸宅を見たのは初めてだった。
 まだ四つの物心つかない幼女の目にも、汚れのない白木の柱や真新しい木々の匂いは珍しく映る。
 彩女が倭から離れた茅渟の邸宅に訪れたのは、父である薬師の日下部小麻呂に連れられてのものだった。この邸宅の主人、軽王が脚病で参っていたらしいことを、後々に彩女は知った。
 軽王は大王・宝姫王の弟にあたり、大王の位と近い場所にいる人間だった。ただ、この頃、政治の実権を握っていたのは姉の大王ではなく、大豪族・蘇我氏だった。中でも、大臣である蘇我蝦夷よりも、その息子である蘇我入鹿のほうが宝大王に気に入られ、専横の限りを尽くしていた。もともと、大王の位にふさわしい壮年の王族もいたのだが、実力者・蘇我氏には都合が悪く、後から操れる先の皇后を位に即けた。そのため、姉が位に即かなければ、王位から遠い所に軽王は居たはずなのだ。
 目も掛けてもらえない、一王族から、一足飛びに大王の弟となった軽王は、然るに、蘇我氏に目を付けられる怖れが出てきた。一計を案じた軽王は、倭から離れた本拠地、茅渟に逼塞し、脚病となった。
 都の方からも、あらゆる薬師が差し向けられたが、警戒した軽王は病の重きを装い、茅渟から比較的近い、当麻に住む渡来人の血を引く薬師を呼んだ。こうして日下部小麻呂は軽王の邸宅に参上したのである。
 連子窓の回廊を抜け、邸宅の奥に通された日下部小麻呂親子は、応対の侍女を待った。
 やがて、楚々とした女人が現われると、父は彩女に待っているように言った。
「父さんは、これから患者さまを診てくるから、いい子で待っているのだよ」
 目尻の垂れた、優しい父の目に、子供っぽい仕草で彩女は頷いた。
「そうだ、これを持っていてくれるかい?」  父は彩女に大きなずた袋を渡した。中身はずっしりと重く、受けとめた彩女の体が揺らいだ。
「…大丈夫か?」
 彩女の様子に、少し心配そうに父は聞くが、彩女は強く首を振った。
「ここには、大事なものが入っているから、くれぐれも他の人には渡さないように」
 父は彩女に言い含めると、侍女に従い、薬の匂いがする部屋の簾を潜った。
 一人、待ち惚けしている彩女は、暇を持て余した。父が簾を潜ってから、しばらく経って、重い荷物をもった腕が震えている。
 初めてきた邸宅なので、正直、彩女は心細い。彩女の目の前を通る人は、男も女もみな取り澄ました人ばかりで、誰も彼女をかまってくれない。彩女は淋しくて泣きそうになっていた。
 いつまで経っても出てこない父に、彩女は口をへの字に結んだ。そこに…
「おまえ、何してるの?」
 目の前で、可愛らしい声がした。
 彩女が顔を上げると、男の子が一人、彩女の前に立っていた。彩女の知っているような男の子とは違い、その子は変わった髪型をしていた。
 子供ながらに彩女が身を固めていると、少年は、彩女の手元に目を落とした。
 彩女の指は、荷物の余りの重さに赤くなっていた。少年は手を差し伸べた。
「重そうだね、僕が持ってあげる」
 手から荷物を取り上げようとした少年に、彩女は先程の父の言葉を思い出した。
 少年の手を、彩女はさっと払い除ける。驚いた少年はぽかん、と口を開けていた。彩女は横を向いて少年の手から荷物を離した。
 明らかに不機嫌な彩女の顔に、少年は笑い、また彼女の荷物を奪おうとした。
「無理しなくていいよ」
 少年はそういうが、彩女はむきになって少年から荷物を遠ざける。それでも、男の子なので彼女よりも動きが敏捷で、結局、彩女から荷物を取り上げた。
 みるみるうちに、彩女の目尻に涙が一杯に貯まる。彼女がしゃくり上げてくると、少年はおろおろした。
 丁度その時、父が病室から出てきた。
「父さまぁ〜っ」
 彩女は父の袴に縋りついた。そのまま、声を発てて泣いた。
「ごめんね。泣かせちゃった…」
 ほとほと困り果てている小麻呂に、申しわけなさそうに少年が荷物を差し出した。
「み、王さま!これは…」
 驚愕して小麻呂は声を荒げる。慌てて頭を下げる。
「いいの。僕が悪いのだもの」
 優しく少年が言う。
「も、申し訳ございませぬ。娘が、失礼を…」
「僕が、その子から荷物を取り上げたんだよ」
 少年に低頭する父を、彩女は不思議そうに見ていた。
「有間、有間」
 病室から、一際優雅で美しい女人が出てきて、少年を呼んだ。
「あっ、母さま」
 母親に呼ばれて、少年は病室に駆けていき、振り返った。
「じゃあね」
 少年は父の袴に顔を埋めて顔を隠す彩女に手を振った。
 少年の足音が消えた後、彩女はやっと顔を上げた。
「終わったの?」
「ああ、帰ろうか」
 彩女は父に手を引かれて回廊に戻った。
 あの子、一体誰ー?
 後を振り返りながら彩女は思った。見たことの無いような髪型に、綺麗な色の着物を着ていた。
 一瞬の出会いだから、数日が経つと彩女の記憶から少年の面影は消えた。ただし、美しい邸宅に来た、という記憶だけ残して…。

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 彩女が茅渟の邸宅を訪れてからの時代の流れは、彼女が後々思い出してみても、奔流のようだったと言わざるをえない。
 まず、父が軽王の病を往診してから六月後(皇極四年)、大王のおわす飛鳥板葺宮で、蘇我入鹿が大王の息子・中大兄皇子によって斬殺された。中大兄皇子は、日頃から母が蘇我入鹿を可愛がって政さえ与えてしまったのを我慢ならなかった。その彼に力を貸したのが、中臣鎌足という神に仕える男と、蘇我入鹿と同族の蘇我倉山田石川麻呂だった。
 息子が大王の宮で敢えない最期を遂げたのを知った蘇我蝦夷は自宅に火を放ち自害、蘇我の本宗家は滅んだ。
 一族を裏切る形で力を掴んだ蘇我倉山田石川麻呂は娘を中大兄皇子に嫁がせ、廟堂で揺るぎない権力を握った。
 蘇我入鹿が目の前で殺されるのを直視してしまった宝大王は衝撃の余り退位され、古人大兄皇子に位を譲ろうとしたが、古人大兄は辞退、出家して吉野に引きこもった。
 大兄・古人は蘇我馬子の娘が宝大王の夫・田村大王との間に生した皇子であり、蘇我蝦夷の甥にあたる。中大兄皇子にとっては兄となる古人大兄皇子だが、蘇我本宗家の血を直接受けている故に、中大兄を怖れた。王位に近い自らも、中大兄に殺されると思ったからだ。
 考えあぐねた宝大王は、弟・軽王に位を譲り、軽王は即位、難波に都を置いた。譲位した宝大王は皇祖母尊と呼ばれるようになった。中大兄皇子は皇太子となり、軽大王を凌ぐ勢力を持った。
 軽大王は自分を支える二本の柱として、蘇我倉山田石川麻呂を右大臣とし、大王の妃の父である阿倍倉梯麻呂を左大臣とした。あと政変の功労者である中臣鎌足に内臣という特別な称号を授けた。これで、新政権は大方樹立した。
 しかし、陰の実力者・中大兄皇子には懸念があった。異母兄・古人大兄皇子である。彼は古人大兄を早急に排除せねばと思い、それを実行した。
 中大兄皇子は臣下の者を遣わせ、古人大兄皇子に謀反を唆せ、古人大兄に罪を着せた。古人大兄は差し向けられた兵に処刑され、古人大兄の妃妾・子を死に追いやった。
 この報せは朝廷に伝わり、改めて皇太子・中大兄の恐ろしさを臣下に知らしめた。
 それでも、しばらくは平穏が続き、政もとどこおりなく行なわれていた。
 次の粛正が行なわれたのは政変の五年後である。大化五年といわれるその年、右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が造反の咎により自害に追い込まれた。この時、石川麻呂は無罪を主張しながら自ら首をくくり、その報せを耳にした石川麻呂の娘は、悲嘆の余り、中大兄の子を宿した身体で狂乱した。妃は子を生むと、父を追うようにはかなくなった。
 血で血を洗う世の中の変貌に、人々は震撼したが、難波から離れた当麻は至って長閑だった。怖い噂話としては流れるが、人々にとって、それはあくまで噂話だった。
 当麻で薬師を営む父に庇護されて、彩女は世を覆う悲哀を感ずる事無く、健康に、すくすくと成長した。
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 彩女が悲惨極まりない歴史を自分の耳と判断で体感したのは、彼女が十三才になった頃だった。
 父、日下部小麻呂が難波に住まう軽大王に再び呼び出されることになったのだ。
 軽大王は即位してから、皇太子・中大兄と共同して政を推し進めてきた。その頃は、右には蘇我倉山田石川麻呂がい、左には阿倍倉梯麻呂がいた。
 しかし、阿倍倉梯麻呂が病死し、蘇我倉山田石川麻呂が中大兄に葬られたころ、雲行きが怪しくなってきた。それから五年間は波風が立たなかったが、しだいに軽大王と皇太子・中大兄の意見が合わなくなってきた。
 それまで、二人の仲立ちには皇祖母尊・宝姫王がいたし、中大兄の妹で軽大王の皇后となった間人皇女がいた。
 意見の決裂した中大兄は母・皇祖母尊と妹・間人皇后、臣下一団を引き連れ、倭に帰ってしまった。軽大王は姉にも、妻にも置き去りにされた形でいた。軽大王の側には、息子・有間皇子や中大兄に捨てられた僅かの者しかいなかった。
 忿懣やるかたない軽大王はそのまま病に陥り、起きられぬ身体になった。心を閉ざした軽大王は、即位前、蘇我氏の目を怖れて病を装った時に呼んだ薬師を思い出し、もう一度呼び出すことにしたのだ。
「…そんなに、大王の病はお酷いの?」
 父から経緯を聞いた彩女は眉ねを寄せながら、父の荷物を纏めた。
「いや、ことが心の病だけになあ…。身体の病なら原因を突き止めれば治す事が出来るのだが、心の病は心が癒されねばどうにもならぬ」
「心の病…」
 彩女は呟いた。
「このままでは、お可哀相なのは、有間皇子さまの方だろうな…」
「有間皇子さま?」
 彩女は心当たりないように言う。
 何しろ、彼女が四つの時に出会ったのだ。記憶が無くても仕方がないだろう。そう思って父は頷いた。
「有間皇子さまには、頼れる方が父上しかおられぬ。
 母上はもう既に亡くなられ、母方の実家の阿倍氏は皇太子に姫君を嫁がせておられる。姫君には、もうお子がお一人生まれておられるはずだから、阿倍氏は余計に有間皇子さまをお助けすることはできぬだろう…。
 有間皇子さまがまだご幼少のお年なら、まだ助かることが出来るかもしれぬが、すでに御年、十四才であられる…丁度、警戒されはじめるお年だ」
 小麻呂は、古人大兄皇子や蘇我倉山田石川麻呂の辿った末路を思い浮べながら告げた。
「何が何だか、あたしには解らないけれど…その、有間皇子さまは大変な方なのね。
 でも、父さまが大王のお病を治して差し上げることが出来れば、そんな心配はする必要が無くなるわよね…頑張って」
 無責任な娘の一言に、小麻呂は苦笑いした。彩女は纏めて袋に包んだ荷物を父に渡す。
「それは、そうと…」
「何?」
 父は彩女の様子を伺った。
「お前、もうそろそろお転婆遊びは止めなさい。後、二年後には、婿を迎えてもよい年なのだからな」
 父の言葉に、彩女は顔を顰めた。
 この時代の常識では、娘は十四、十五才が成人の年令とし、成人すれば婿を迎え、子供を生む。結婚の形態も、女の家が夜な夜な婿を迎え入れる通い婚であり、したがって娘の相手が数人であれば、気に入った者を指名する形になる。言い換えれば、生涯同じ男と添い遂げる女もいれば、男を複数入れ替える女もいる。
 小麻呂は、別に彩女が色々な男と愛を交わすことを望んではいないが、人生に後悔の無いような愛を育んで欲しいとは思っている。そのためには、普通の娘らしくなってほしい。
 そんな父の心も、今の彩女には迷惑でしか無かった。
「嫌よ。ずうっと家に籠もって、家事や仕事の仕方を覚えて…そんなこと、つまんない」
「おいおい…しかし、いつかは大人しくしなくてはいけないのだぞ」
「あたし、お婿さんなんて、いらないもん。結婚なんて、したくない!」
 未だ子供らしい、可愛い仕草で、彩女は舌をぺろっと出す。小麻呂は、少々呆れた。
「さっさと行っちゃって、父さま。
 患者さまが待ってるわよ」
 彩女は追い出すかのように父の背中を戸口に押し出した。
 父の遠ざかった小さな姿が、家の前に立っている彩女に手を振っている。
 以前は、父の往診に付いて歩いていた。しかし、十三才になった彩女は、最近、父の仕事には付いていかずに、一人で留守番することが多くなった。往診に行くと、そこの患者に、必ずと言っていい程、
『彩女ちゃん、大きくなったわねえ』
だとか、 『彩女ちゃんも、もうすぐ一人前の娘さんだ』などというつまらない事を言うのだ。いい加減聞き飽きたし、うんざりもしている。
『そんなに、大人になりたいものなの?』
 彩女は時々、不機嫌にそう言いたくなってくる。大人になって得することがあるのだろうか。大人になれば、今のように遊べなくなるし、気取り屋になって、格好ばかり付けたがる。大人になると、人は嫌な生きものになる…それが、彩女の思念だった。
「あたし…大人になんて、なりたくない」
 彩女の、偽らざる本心だった。
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 …それから一年後、看病のかいもなく、軽大王は崩御した。人々は皆、形ばかり嘆きを見せたが、世の中は止まることを知らなかった。
 既に壮年に達していた皇太子・中大兄皇子だったが、彼は王位に即かず、変わって皇祖母尊・宝姫王が返り咲いた。
 生来、派手好きな宝大王は、趣味の土木工事に精を出した。新しい宮や祭祀場、苑池を造るために、そこかしこの木々が切り倒され、当麻でも、二上の石が切り出された。
「…ねえ、どうして最近こんなに騒がしいの?」
 十七才になった彩女は、不思議そうに父に聞いた。
 外見はすっかり娘らしくなった彩女だが、仕草や物言いは全く変わっていないお転婆だ。
「新しい大王は、大和を新しく作り直そうとなさっておられるのだ」
 少しいまいましそうに父が説明した。
「新しく?」
 父は嘆かわしそうに吐息する。
「ご自分の威勢をみなに示そうとなさっておられるのだろう。それが、これから本当に役に立つのかは別だが、贅沢を極めようとなさっておられるようにしか見えぬ……」
「そんな、大王は民人のことを考えていらっしゃらないの!? 贅沢する財があるのなら、みんなに分けてくれればいいのに」
 彩女の台詞に、もっともだと父は頷いた。
「まったく、民衆からすれば、無駄な労力を搾り取られているとしか思えんだろう。実際、現場で働かされているのは、民衆なのだから。
本当に、こんなことにかまけているのなら、もう少し、あのお可哀相な方にお心を差し向けて下さればよいのに…」
 父の目が、たちまち悲哀で滲んだ。
 父の言うお可哀相な方とは、故・軽大王の遺児、有間皇子のことである。事実上、複雑な立場にある有間皇子は、余りの精神の疲労に、心を病になったのだ。今、皇子は倭から遠く離れた生駒の北、市経に住まいしている。仕えている者に往診を頼まれた日下部小麻呂は、当麻から、はるばる市経まで二日掛けで行くのだ。
「帰るのは明日…明後日になるかもしれんが、留守を頼むぞ」
 疲れた面持ちで父は彩女に告げた。荷物を渡す彩女も心配そうに見ている。
 一言で往診というが、これがなかなか大変なことで、一週間に一度という割合で生駒に赴いても、かかる時間でいえば二日、三日である。一週間…七日間のうちに三日も生駒往診に使っていれば、疲労が貯まるのも当然だろう。小麻呂は患者のことも気掛かりだが、この、自分の現状も厄介だと考えていた。
 どうすれば、仕事をとどこおりなく行なうことが出来、どうすれば皇子の病を癒すことが出来るのか…。小麻呂が悩んでいたとき、ふと、振り分け髪の子供のような衣装の彩女が目に入った。
「彩女、お前は父さんの願いを聞いてくれるかい?」
 急に改まって、父は彩女を座らせた。
「…何?」
 どきどきしながら彩女は父の言葉を待った。
「お前が、皇子さまにお仕えしてくれればよいのだ。少しなら、薬の調合も解るだろう。ちゃんと教えたからな」
「解るけれど…あ、あたしが?有間皇子さまにお仕えするの?」
 驚いて、半信半疑で彩女は問いただした。
「そんな、急な…あたし、自信ないわ!」
 彩女は叫んだ。叫べば、運命から逃れられるかのように。
「父さんを助けると思って…この通り」
 父は彩女の顔を盗み見ながら、合掌した。
「父さんは、有間皇子さまの病も診なければいけないが、この里に住む人々の病も診なければいけないのだ…両方をこなすのには、もう父は若くはない。解ってくれ」
 父の頼みは、彩女も理解できる。彼女も、出来るだけ父には無理をしてほしくはないし、父の負担を自分が軽く出来るというのなら、ぜひともそうしたい。だが…自分が、病とはいえ、大王の皇子にお仕えするというのか? はっきり言って、彩女はてんで自信がない。
 彩女は父の表情を上目遣いに眺めた。彩女は少しは逃れる期待をしていたが、父の表情は真剣で、逃れる隙など全くなかった。
 仕方なしに、彩女はずっしり重いため息を吐いた。
「…わかった。あたしが有間皇子さまにお仕えして、時々の皇子さまの状態を報せればいいのね?」
 父の顔がたちまちにして輝いた。
「そうだ。わしは月に一回程、往診するようにする。それまでは、薬草を何種類か渡しておくから、お前が調合してくれ。
 もし、皇子さまの容体が揺るがなければ、往診の回数を減らして、お前が当麻まで薬を取りにきてくれ」
「…そうする」
 不請不請、彩女は受け入れた。
 ことが決まると、俄然、父はいそいそとしはじめた。
「取り敢えず、わしは明日、皇子さまの下に行って、お仕えされている方に総てを話してくる。
 お前が皇子さまのお仕えに出るのは二週間後。それまでに衣装や行儀作法など、徹底的に教えこむからな」
「…そんな大変なことまでするの?」
 ぎょっとして、彩女は声を上げた。
 嬉々として輝く父の目に、彩女は悪い予感を憶えた。父は、皇子さまにお仕えする以外の意味を含めているのではないか…彼女を、強引に娘らしくしてしまう魂胆ではないか?
 彩女は何だか薄ら寒かった。
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 日下部小麻呂が彩女のために、近所の奥方に頼んであつらえた衣装は、流行に乗った、娘らしい物だった。紅梅色や淡い萌黄色の上衣に二藍色や蘇芳色の下裙を手にとって、彩女はため息を吐いた。
 確かに、こんなにいい衣装を造ってもらって嬉しいのだが、父の心が見え透いていて、憂欝にならざるをえなかった。
「ほら、これが髪を結わえるための紐だ」
 父の差し出した紅の紐が、彩女には自分の意志を拘束する紐に見えた。
 こうなってしまっては、もう彩女も娘らしくしなくてはならなくなった。例え、振りだけでも。
 生駒に出立するのが一日後に迫った夕刻、彩女はしばしの別れに、二上山の麓に訪れた。森の緑が、日没の闇に染められていくのに、彩女はたまらなく淋しくなった。
 明日からは、一人前の大人として他の大人達に会わねばならない。自由に野原を走り回ることも出来ない…それが、彩女には苦痛だった。
「二上のお山の神様…いらっしゃるのなら、どうかあたしを大人にしないでください。
 あたしは今のままでいたいのです」
 二上の森の、一際大きな木立に、彩女は語りかけた。
 応答をしばらく待ったが、二上の山は彩女に何の応えも返さなかった。たまらなくなった彩女の眼から、雫がこぼれ落ちた。彩女の、自由からの決別だった。

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 覚悟を決めた彩女は、父に伴われて生駒・市経の有間皇子の家に上がった。
 彩女の住む当麻は、明るく活気のある土地で、霊山・二上山の麓に拓けている。だが、同じ山裾にある市経の集落は、倭からは丘陵に阻まれたうら淋しい場所だった。目の前に、生駒の山が迫る谷間に、市経の集落があった。
 住まいする場所が寂れた地なら、有間皇子の住む家も、簡素でこじんまりとしていた。
 何故、先の大王の皇子ともあろうお方が、このような人里離れた谷に住まいしておられるのだろうか…彩女は違和感に襲われた。高貴な皇子がお住まいになる場所としては、彼女の遠い記憶の中にある、茅渟の邸宅のような家が相応しいはずだ。
 なんて悲しいことだろう…。さすがの彩女も、有間皇子に対して、同情を禁じえなかった。
 父と一緒に、有間皇子の家の中に通された彩女は、皇子に仕えている舎人や侍女の好奇の眼差しに晒された。館勤めなど初めてな彼女は、緊張している上に居たたまれなくなってきた。
『あたし…何も、おかしな事してないわよね…』
 面映ゆいのか、苦しいのか解らない複雑な感情のうねりに、彩女は戸惑った。
 本日の彼女の出で立ちは、桜色の上衣に淡い木賊色の下裙という初々しいものだ。髪も大人しく結わえている。そこいらにいる娘達と、外見的には大して変わらないはずなのだが、どうしてここに仕えている人たちはこんなにも彼女を物珍しく見つめるのだろう。
 しだいに顔を上げていることさえ辛くなってきた彩女は、俯きかげんになった。
「まあまあ、日下部さま。よういらせられました」
 団子のように彩女の廻りに集う仕え人を掻き分けて、中年の女人が姿を現した。父、小麻呂を見るとあからさまに声色を変え、女人はにじり寄った。
「おお、柾菜殿。お約束通り我が娘を連れてまいりました」
 父は中年の女…柾菜に彩女を指し示した。
 おずおずと彩女が頭を下げると、今、気が付いたように柾菜は彼女に目をあてた。
「わたくしは、有間皇子さまにお仕えする侍女頭、織野柾菜と申します」
 高飛車に柾菜は告げ、彩女の容姿をじろじろと眺めた。
「…な、なにか?」
 一通り、彩女を観察し終えた柾菜は、ふっと、冷めた笑みを浮かべた。
「…で、これからはそなたが皇子さまの病のお世話をするのですね?」
「一応…そのようになってはおりますが…」
 柾菜の冷笑に怖くなった彩女は、言いよどんだ。
 はっきり見下すような目をすると、柾菜は奥にある部屋に導いた。
「よろしい。では、そなたがこれからお仕えする御主君の所に参りましょう」
 彩女はたじろぎ、後に控えている父に振り返った。
 小麻呂は、大丈夫だと頷いた。
 父の瞳に幾分かほっとした彩女は、柾菜を見た。すると、一瞬、怖い目をしていた柾菜の表情がすっと変わった。彩女の肝はぞくり、と冷えた。
 何故か悪い予感がする…。初めて、自分が薬師として患者と向き合うのだが、せり上がってくる悪寒が、彼女の指を震えさせた。
 嫌なことに、彩女のその様子を見た柾菜が、またも薄ら笑いを浮かべた。
『この人、嫌…』
 柾菜を見た彩女の第一印象だ。どうしてこの人にこんなに蔑まれなければいけないのだ、そう思った彩女の負けん気が、むくむくと湧いてきた。
 そうだ、こんなところで怖じ気などに負けてたまるか。不様な姿を晒して、ここにいる人たちの笑い者にだけはなりたくない。彩女は奮い立った。
「皇子さま…日下部薬師の娘が参上いたしました…」
 御簾の向こうに柾菜は声をかけた。そういう柾菜の声が震えていた。
 どうして筆頭侍女が震えるのか、見当がつかなかったが、彩女は柾菜がかき揚げた御簾を潜った。
 御簾の内は薄闇になっていた。二つだけ点いた灯台の明かりが、仄暗い空間を燈していた。
 昼の太陽の下にいた彩女は、しばらくは暗さに目が慣れなかったが、馴染んでくると、奥に人が一人いることが解った。多分、この家の主人、有間皇子であろう。
 彩女は教わった作法どおり、膝元に手を添えて身体を折った。
「日下部小麻呂の娘、彩女と申します。
 本日から皇子さまのお側に侍ることとなりました。どうぞよしなにお願い致しま…」
 型通りの口上を彩女が言い切る直前だった。急に、奥で脇息に凭れていた有間皇子が、身体を起こしたのだ。
 彩女に緊張が走ったとき、異常なことが起こった。
「うきゃあぁぁぁーっ!!」
 奇声を発すると、有間皇子が手に持つ何かを引きちぎった。音を発ててそれはばらばらに散らばり、四方に飛び散った。
 その破片が、余りの衝撃に硬直する彩女の手に当たった。我に帰った彩女がそれを拾い上げると、紫水晶の小さな球だった。すると、無残にちぎれたそれは首飾りなのだろうか。
『駄目…こんなことじゃ…』
 自分に負けないと、つい先程、決意したばかりだというのに、もう足が竦んでいる。
 無理遣り身体を動かし、彩女は有間皇子の目の前まで進み出て、皇子に紫水晶の球を渡そうとした。
「み、皇子さま…お、落とされました…」
 上擦る声を必死で振り絞って、皇子に言葉をかけた。
 それまで、あらぬ方を向いていた有間皇子は、彩女の声に彼女をちらり、と見た。
『…え…?』
 彩女は信じられなかった。先程、奇声を発したとは思えないほど、有間皇子の瞳は澄んで美しかったからだ。その上に、彼女を認めると、暫時、目を見開いたのだ。
 束の間、時間が止まったと思った。彩女は、怖さで声が出ないのか、それとも意外さで言葉も忘れてしまったのか解らなかった。
 ただそれも、少しの間のことだった。
 有間皇子が彼女の手から紫水晶をもぎ取ると、弄び始めたからだ。口元はだらしなく開いて、目元は濁りのようなものが感じられた。彩女がそこに存在していないかのように、皇子は遊びに集中した。
 どうも気のせいだったようだ…。彩女は止めていた息を吐き出すと、後ににじり去った。
「では、これにて下がらせていただきます」
 型通りに告げると、不自然なぐらいに勢いよく立ち上がると、一目散に部屋を後にした。
 彼女の姿が部屋から消えた後、有間皇子は弄んでいた手をぴたり、と止め、だらりと下げた。
「何故…こんなことが…?」
 誰にも聞こえるはずのない呟きだった。

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 後から後から、後悔が押し寄せてくる。
 彩女はこんなに単純に館勤めを決めてしまったことを悔やんでいた。
 有間皇子が心の病だとは聞いていたが、まさか、心の病に犯されていたとは…。こんなことは、初耳だ。狂っている相手など、自分の手に負えるのだろうか…。ますます彩女は自信が無くなった。父のことが、恨めしくさえ思える。
 しかし、目通りしてしまってからでは、もうあとには退けない。覚悟を決めるしかない。
「あ、彩女…皇子さまのご様子は?」
 父が、俯く彩女を覗き込むように見た。彩女はさっと顔をあげる。笑みがたたえられていた。
「今はお遊びに夢中なご様子でした」
 精一杯の彩女の応えである。
「わたくしがお病を癒せるかどうかは別として…お遊び相手には、なれるかも」
 彩女の無理遣りな誇張である。本当は近付くのが怖くてたまらない。
「まあ、そうですか。さすがは日下部殿の娘御…。それならば、そなたがこれから夜よの宿直をしてくれればよい。皆も、それでよろしいですね」
 柾菜は廻りの仕え人に持ちかけた。彩女はというと、完全に今の言葉で動転した。
「そ、そんな…」
 彩女は異議を唱えようとしたが、それより前に、仕え人どもが柾菜に同調した。口を滑らせたこととはいえ、彩女は完全に柾菜にはめられた。
 口は災いのもと…彩女はまったく途方に暮れた。これからどうすればよいのか、思いは絶望的なほうにばかり向かっていた。


 小麻呂は一通り、有間皇子を診ると、隣で控えている彩女に目を向けた。
 思ったとおり、俯いたまま唇を噛んでいる。握り締めた彼女の拳が小刻みに振動していた。小麻呂は皇子の世話を他の侍女に任せると、彩女を伴って別室に移った。
「彩女……父を、人でなしと思うているであろう。だが、解ってほしい。有間皇子さまはお前とはたった二つしか違わぬが、あのようなお可哀相な目にあっておられる。お前は、父に庇護されて幸せかもしれぬが、身分が高くとも、割りない境遇にあるお方がおられる事実を、その目でしかと見て欲しかったのだ」
 熱意の籠もった父の語りに、渋々ながらも彩女は頷いた。確かに、彩女はあんなに不幸な人に出会ったのは初めてだった。考えてみれば、有間皇子は非常に高価な織物を身に纏っていたし、姿形は高貴さを感じさせる。病にさえ陥らなければ、軽大王の息子として生まれなければ、思うがまま生きられたはずの人である。
 理屈は父の言うとおりだ。有間皇子は可哀相な人だ。
 しかし、現実に仕えるとなると、また事情は違う。発狂した人間の側にいることを理性が拒否している。彩女は、明日からの生活を思うと、空恐ろしい。何をされるか解らない。
 口内の苦さに耐えながら、彩女は父を盗み見た。
 父・小麻呂は何ともいえない表情をしていた。否、どんな感情さえ宿らない顔は、表情があるといえるのだろうか。それほどに無色透明なほほ笑みだった。
 よく考えれば、父は彼女より前に有間皇子を診たはずだ。嫌だとは思わなかったのだろうか。今の父の顔には、嫌悪の欠片もない。
「父さまは、耐えられたのね?
 だったら、あたしも耐えられるかな……」
 ごくか細い声だが、小麻呂ははっきりと聞き取った。彩女は父の袖を掴み、俯いているが、先程とは違い、頬が桜色を帯びている。
「彩女……」
 小麻呂の目元が緩んだ。
陽狂の皇子(2)へ続く

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