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愛は浮雲の彼方にindexへ
陽狂の皇子(1)へ
取り敢えず、始めの一日は、研修の意味を含めて、彩女は先輩侍女の後に従った。侍女達は誰も色を示さず、まるで彩女を無視しているようだ。その中で、ただ一人だけ、何かと彩女を構ってくれる女がいた。
「あんたって、可愛いわねぇ。まだ子供みたい」
初対面の一言が、これだった。その言葉のあと、おもむろに彩女の頭を撫で、くすくす笑った。その女が、心細そうな彩女に何度も声を掛け、からかったりした。おかげで、彩女の頭のなかから、説明を受けていた大事な仕事の中身が擦り抜けていきそうになる。
「桑菜殿、何を無駄口を叩いているのです!!」
眉をきっと釣り上げて、柾菜が女を振り返った。
「お〜こわ……」
それでもこたえた様子はなく、桑菜は彩女に、にこやかな眼差しを向けた。
彩女も、仕方なく緩く笑ったが、本当は桑菜にかなり心から助けられていた。他の侍女は彼女のことを無視するのに、桑菜だけは気に掛けてくれている。嬉しかった。
勿論、彩女の仕事は侍女よりも、薬師としての方が重点を置かれる。その日は生駒に留まった父、小麻呂の所作を近くで学んだ。有間皇子の病状の観察や薬の調合など……ある程度、父が他の患者にしていることと同じなので見慣れていたが、皇子の診断を実際に見ることになって、心底緊張していた。
『本当に、あたしに出来るのかな……。確かに、父さまのしていたことをずっと見て来たけれど、実際にするとなると、やっぱり自信がない……』
そんな彩女の心を察しているのか、父は何度か彼女を見ては、確認するように言葉を繰り返す。
「彩女、常に、患者の様子を見ることが肝要なのだよ。医者が敏感でいないと、患者の急を見損なう」
「う、うん……」
「まぁ、薬などの調合はある程度父さまがしておくから、おまえは皇子さまの様子を見て、それを何週間かおきにわしのところに知らせてくれれば良い。
おまえは、何かがあったときに、簡単な薬草だけここに置いておくから、それを調合すればいいのだよ。調合の仕方は、ここの帳面に書いてあるから」
そう言って、父は袋閉じにしてある何冊かの冊子を指差した。彩女はそれを捲っていく。
それには、薬草のすり潰し方から乾燥の仕方、何種類かの薬の調合の仕方に応急手当ての仕方が事細かく載っていた。
「……ありがと、父さま、これならあたしにもできそう」
彩女は顔を明るくする。
「その本に忠実にこなしていくと、あとは慣れでなんとでもなる」
「うん」
幼い相槌を打って、彩女は何気なく有間皇子を見る。と、彼の目線とかち合って、慌てて目を反らした。
『え……何……?』
その時の皇子の眼差しが、余りに柔らかだったので、彩女は戸惑った。狂っているはずの皇子が、どうしてあのような目をするのだろう。発狂している人の目とは、何か違うような気がした。もちろん、彩女は発狂している人と会ったことはない。彼が初めてだ。だというのに、そのような思いが膨らんだ。
何かの間違いよね……? そう思い、彩女はもう一度皇子を見る。だが、皇子は既に彼女を見てはおらず、感情の浮かばない面持ちで壁代を見ている。
『やっぱり、気のせいだったんだ』
彩女はそう思い直して、診療道具を片付け始めている父を手伝った。
あたりは夕暮れが迫り、小暗い部屋がさらに暗くなる。
小麻呂は火の付いていない灯台に火を灯し、明るくなったことを確認すると、手をついて頭を下げた。彩女もそれに倣う。
「では皇子さま、わたくしたちはこれにて下がります。
わたくしは明日には家に帰らせていただき、しばらくは参りませんが、娘が代わりを勤めますので、よろしくお願いいたします」
言って深々と身体を臥せ、身を起こすと、小麻呂は彩女の手を引き、部屋を出る。
御簾から出るとき、彩女は皇子を振り返った。皇子は、先程と同じに、壁代を見たままだった。
「ねぇ父さま、皇子さまって、本当に病を患っていらっしゃるのよね」
皇子の部屋から遠ざかった渡り廊下で、彩女は父に小声で問う。
「何だね、いきなり」
小麻呂は目を丸くする。
「あたし、今日何度か皇子さまのお顔を見たけれど、その……心を患われていらっしゃるような目をしていらっしゃらなかったの。とても澄んだ目をしていらっしゃったわ」
「しっ」
小麻呂は彩女を口止めする。
「……父さま」
父の様子に、彩女は訝しむ。
「それ以上は、言ってはならぬぞ」
「父さま?」
「医者が、患者の訴えを信じなくてどうする。たとえ、何であっても」
「……」
彩女には、父の言っていることの意味が解らない。
だが、これ以上のことを聞くことを、父は拒んでいる。
彩女は黙り込んだ。父の様子をじっと見ていた。
父の面は厳しい。彩女の問いに、父の面が応えている。
しばらくそうしていたのだろう。夕暮れは、夜の闇に変わっていた。
「解った。何も言わない。何も疑わない。それでいいのよね」
溜め息とともに彩女は洩す。小麻呂は頷いた。
「患者の様子を見ることが肝要というのは、そのことだ。おまえ自身が何を感じて、どう判断するか。おまえが決めるがよい」
「……うん」
釈然としない。
彩女はすっきりしない思いで、渡り廊下をあとにした。
それからあと、父は割り当てられた部屋に下がり、彩女は柾菜に教えられるまま、先輩侍女と配膳の仕方を学んだ。
やはり、柾菜の目は鋭い。射るように、彩女を見る。
『何か、あたしに言いたいことがあるのかな』
柾菜は、普通のときは年長者として統制のとれた采配をする。が、彩女に指図するときは鬼のように豹変する。
『あたしが気に入らない、というのはとても解るけれど。だからって、あたしも負けないよ』
ここに来たときに決めたのだ。
だから、嫌でも引き返せない。
元気良く、何があっても引かず、明るい。それだけは変えられない。
そんな彩女をうしろから観察して桑菜がくすくす笑っている。
『……あの人も、なんだかイヤだな。あたしの何が面白いんだろう』
こちらは、どう対応していいのか、彩女には解らない。
桑菜の笑いは、決して嫌みではないからだ。陰のない笑いだからだ。
そうして、数人で膳を運ぶ。
膳は四つ。白飯を盛った櫃と椀、数枚の皿の膳。獣肉を燻したものの大皿と鮒の味噌漬けを焼いたものの皿、根菜の煮物の椀と野蒜の羹の椀の膳。菓子や木の実の高杯、酪蘇の皿に清酒の瓶子と盃の膳。どれも豪華なものばかりだ。
『へぇ、やっぱり皇子さまともなれば、いいものばかり食べられるんだ』
彩女は好奇心で己が受け持つ煮物の膳を見る。と、彩女の心を見透かした小さな声がうしろから聞こえてきた。
「いいでしょ。大王さま直々に下される食材なのよ。時期を見計らって、旬のものをこの生駒まで送ってくださるの」
桑菜だった。
先頭を行く柾菜が、桑菜を顰め面で睨み付ける。桑菜は柾菜に見えないように、小さく舌を出した。
桑菜が言う大王とは、宝姫王である。有間皇子の伯母である。
四人が配膳し終わり、皇子が伯母からの下されものを食するかと思えば、皇子は余り箸を付けなかった。焼き物の鮒を尻尾から取り上げると、何度か揺らし、部屋の隅に放り投げた。味噌に塗れた鮒は壁に当たり、白く塗られた壁が味噌の色で汚れた。
煮付けられた芋も、まるで毬かなにかのように手遊びの道具にする。
『も……勿体ない!』
彩女は、思ったら言わずにおけない質だった。
「恐れながら、申し上げますっ!」
何ごとかと、侍女達が彩女を見る。
柾菜は明らかに怒りを帯びていた。
が、構わず彩女は皇子の前にいざり寄り、続ける。
「皇子さまはご病気であらせられますっ。だというのに、お食事をまともに取られずにいらっしゃいます。これでは、身体が持ちませんっ!」
声を荒げ、大陸から渡ってきた精巧な織の敷物をバンバンと叩き、大口を開けて、口調だけは慇懃ながら、喧嘩を振っ掛けているような様である。床を叩いた振動で膳は揺れ、皿や椀から中身が溢れた。
柾菜は怒りも忘れ、片手で眉間を押さえる。桑菜は込み上げてくる笑いを押さえるのに必死だ。他の侍女などは、ぽかん、と呆気に取られて彩女を見ていた。
侍女ごときに怒られてしまった皇子も、驚きを隠していなかった。
彩女が我に帰ったときには、もう遅かった。
『あ……やっちゃった……』
焦って廻りを見ると、皆、二三歩彼女から距離を置いていた。
病のある皇子までも、彼女を奇怪なもののように見ている。
「ご……ごめんなさい……」
ごまかすように、小さく小さく、彩女は口元を引き攣らせて言う。
が、ごまかしなどきかなかった。
「彩女殿ーーっ!」
柾菜の、とてもきついお仕置きが待っていた。
一旦、皇子の部屋から下がり、「侍女であるそなたが乱心すると、病のある皇子さまに障りが出てくる」とか「大体、侍女ともあろう者が、騒がしい有り様、自覚が足りませぬ!」など、くどくどと柾菜の説教を受けたあと、罰として、彩女は散らかしたものの片付けを言い渡された。
箒や雑巾、袋などを手に、ぶつぶつと文句を言いながら、彩女は皇子の部屋に向かう。
お仕置きなので、誰も手伝いはしない。桑菜でさえも、である。
『言われなくたって、解ってるわよ。あたしが、大人気なくて、落ち着きがないことぐらい。
自分でも、変えようと思っても変えられないんだから』
大きな袋をずるずる引き摺り、まるでやる気がないように、彩女は進む。
『だって、しょうがないじゃない。くせなんだから』
心のなかで悪態を吐いているが、己が悪いのが解るので、溜め息が出る。
相手は、先の大王の皇子である。大層な無礼なので、普通なら、斬られてしまってもおかしくはない。皇子が精神の病を患っていたから、彼の怒りを買わなかっただけだ。
解っていたはずだが、頭に血が上ると、前後の見境なく怒りだす。心の中を隠せないのだ。
『ずっと思っていたことだけれど、あたしって、宮仕えとか向かない性格してるのよね……』
またも、嘆息が出てくる。
あれで、皇子に変わりがなかったからよかったのだ。もし皇子が彼女の勢いに押されて混乱してしまっていたら、手の着けようがなくなる。
彩女の、完全な失態だった。
『……でも、いつまでもくよくよしてちゃ、だめよね。あたしらしくないもん』
どんなことがあってもめげない。彩女はそれを、己の姿として課していた。
気持ちを入れ替えるため、彩女は軽く首を振る。
その時、聞こえてきた。
皇子の部屋の方から、男性の軽やかな笑い声が。
『な、何……?』
有間皇子の部屋の方角はしんと静まり返り、ひっそりとしている。人気がない。
というのに、青年らしき笑い声。
『だ、誰……?』
多分、あそこには皇子しかいないはずだ。だとすれば、笑っているのは皇子しかいないはず。
だが、笑い声は、しっかりしていた。狂った、だらしのない声ではない。
『それとも、皇子さま以外の誰かいるのかな』
構わず、彩女はずるずると袋を引き摺る大きな音を発てて、皇子の部屋に近付いた。
すると、笑い声が止んだ。
『……?』
己が近付いたから、笑い声が止んだのか。
彩女は、小首を傾げる。
『誰かが近付いたら、まずいことでもあるのかな』
軽くそう思う。
が、彩女は気にせず皇子の部屋の前に来、入り口の御簾の前で膝を付いた。
「皇子さま、お部屋のお掃除をしに参りました。少しお邪魔いたします」
手をそろえて礼をすると、御簾を捲り上げた。
先程と同じ場所で、有間皇子は座っていた。その前には、倒れた膳と溢れた汁、割れた皿があった。
思えば、全く皇子と二人きりである。人は誰もいない。狂った皇子と二人きりである。
彩女の手の平に、じっとりと汗が纏わりつく。強い緊張がある。
正直、彩女は皇子が怖い。何をされるか解らない。
それを無理して、にっこりと笑うと、皇子の前で身体を曲げ、礼をする。
「先程は申し訳ありませんでした。わたし、かっとなると、後先考えない質なんです」
顔を上げると、表情のない皇子ににじり寄り、手を取る。皇子の腕が、びくり、と揺れる。
が、気にせず、彩女は身体に傷などがないか確認する。
「お皿の破片とか、刺さったりしていませんか? 血、出てませんか? 汁物でやけどしてませんか?
少し、確認させて下さい」
前から後ろから、汁が掛かっていたり、血の出ている跡がないのを確認すると、彩女はほっと吐息した。
「大丈夫みたいですね。はぁ、よかった。
皇子さまに怪我があったら、どうしようかと思ってました」
黙り込んでいる皇子に対して、彩女は話し続けている。
そうでもしないと、間が持ちそうにないからだ。
間が持たないと、恐怖に飲まれてしまう。それが嫌だったからだ。
「お見苦しいですけれど、今からお掃除、しますね」
言うと、彩女は部屋の外に置いてある掃除道具を持ってくる。
「お椀、大きく割れたんで、片付けるのらくです。こういうことは、家でもやってきたんで、わたしにもできます」
彩女は皇子をちら、と見る。
皇子は彩女をじっと見ていた。静かな、深い眼差しだった。
『心に病を患っていらっしゃるけれど、目許までは悪くなっていない、ということかな』
今日一日で何度か見た、皇子の澄んだ美しい瞳。発狂している人のもののようには見えない。
でも、何度も見ているので、目までは病んでいないということなのだ、と彩女は思った。
「父さま、一日の殆どを往診に使っているんです。だから、家のことはわたしが全部やってるんです。
薬師や侍女としては半人前だけれど、掃除とか洗濯なら自信があるんですよーー」
割れた皿を全て袋に入れ、小さな欠片がないことを確認すると、雑巾で床を拭きはじめる。
皇子の動かない目線を感じて、彩女はにこり、と笑った。
「皇子さま、こういうことって珍しいんですか? 他の侍女はしないのですか? それとも、皇子さまに別の部屋に移ってもらって、お掃除するんですか?」
言って、彩女ははっとする。
『やだ、あたしって、また間違えたのかな』
皇子の御前で埃を発てて、慌ただしく掃除をするなど、慣れた侍女なら、しないかもしれない。
否、絶対にしてはならないことかもしれない。
『……また、やっちゃった……』
手で口元を押さえ、彩女は目を泳がせる。
殆ど、掃除は終わりかけている。
だが、少し残っている。
溜め息を吐くと、彩女は皇子に向き直った。
「わたし、また柾菜さまに怒られるようなことをやってしまいました。
皇子さま、申し訳ありませんが、隣の部屋に移っていただけませんか」
彩女は皇子の腕を取り、立ち上がらせようとする。
が、皇子は動こうとはしない。胡床の姿勢のまま、強く脇息を掴んでいる。動く気がないらしい。
『……動きたくないのかな。無理矢理動かそうとすると、面倒なことが起きそう』
力任せに立ち上がらせようとすると、皇子が半狂乱になってしまうかもしれない。
そう思って、彩女は諦めた。
「じゃあ、このままお掃除続けても、いいですか。もう少しで終わりますから。
そのかわり、柾菜さまには、絶対に言わないで下さいね。また、お小言を言われてしまいますから」
そこまで言い、はた、と彩女は気付く。
この皇子が、柾菜に告げ口などできるだろうか。
彩女は、なんだか可笑しくなってきた。
「あーーわたしって、馬鹿ですよね」
照れ笑いしながら、彩女は最後まで片付け終わると、再度皇子に頭を下げ、部屋を退いた。
浮き足立った足音が遠ざかったのを確認すると、有間皇子は淡い灯りのなかで、楽しそうに笑った。
塵を入れた袋を館裏の炉に焼べると、彩女は台盤所に夕餉を取りに行った。
台盤所は、すでに一日の最後の後始末に入っているところだった。
彩女は鍋を洗っている大柄な下女に近付く。が、下女の応対はつれないものだった。
「ああ、あんたのはね、今日の分はいらないって、柾菜さまに言われたんだよ」
聞いた彩女の頭は、真っ白になった。
そのまま侍女溜りの部屋に駆け込むと、奥の間で湯を啜る柾菜の前に座る。
「ま、ま、柾菜さまーーっ!
あ、あたしの御飯がないって、どういうことですか!?」
息せき切って、彩女は柾菜に食ってかかる。
柾菜は、表情を変えず、しれっと言った。
「彩女殿が皇子さまのお部屋の掃除をしている間に、わたくしたちは夕餉を既に済ましてしまいました。
わたくしたちの夕餉の量は決められていましてね。先に来た者ほど多く食することができるのですよ。
ですから、あなたの夕餉がないのは、お仕置きのひとつということになりますね」
「そ、そんなぁ……」
彩女は肩の力を落とし、俯く。
が、下女の言っていたことが頭の中に甦る。
「ま、柾菜さまっ!
下女に、あたしの分はいらないってーー」
「彩女殿」
勢いよい彩女の言葉を、柾菜が遮る。
「あなたは皇子さまの宿直役のはず。
皇子さまの寝所の支度をし、お休み遊ばされるのをお手伝いをしなさい。
皇子さまが休まれても、何かのときのために、皇子さまのお部屋のお側に侍っているように」
「え、え……!」
二の句が告げられない。
「あなたは、わたくしたちと約束しましたね?
決して違えることはなりませんよ」
柾菜は彩女に、ぴしり、と言った。
「は、はい……」
皇子の宿直のことは、無理強いに約束させられたことである。
が、約束してしまったことには変わりない。
仕方なく、彩女は先程居た部屋に引き返すことになった。
今度は、有間皇子の気替えを隣の部屋で舎人にしてもらい、彩女は皇子の夜の床の支度をした。綿の入った絹の上掛けを籐で編まれた寝床に掛け、枕元に水瓶と玻璃の盃を置いた盆を据える。
寝台の廻りを几帳で囲うと、彩女は隣室の皇子に声を掛けた。
舎人に手を引かれ、皇子が寝床に入ってくる。
「では、よろしくお願いいたします」
舎人はそう言うと、戸惑う彩女を残し、部屋の戸を閉め下がっていった。
『え……と、どうしたら、いいのかな……』
落ち着きなく灯りの落とされた部屋を見回すと、寝台の前に座っている皇子と目が遭った。
『やっぱり……皇子さまを寝かし付けて差し上げるのが、一番先よね』
そう思い、彩女は上掛けを捲ると、皇子を差し招く。
「さ、皇子さま。お入り下さいませ。お眠りになる時間です」
皇子は素直に寝具の中に入る。
すんなりとことが運んだので、彩女は安堵の笑みを浮かべた。
「皇子さま、わたしは部屋の内にいますので、ご用がございましたら、お呼び下さいませ」
皇子はちらり、と彩女を見ると、軽く目を瞑る。早くも、眠りに入っていこうとしているのだろう。
彩女は部屋と寝間を区切る御簾を下げ、灯台に小さく灯火をつけると、部屋の隅に膝を抱えて座り込んだ。
彼女の場所からは、寝間の御簾が薄暗く見える。
彩女は膝に顔を伏せた。
『もう、どうして最初の日から、こんなに過酷なんだろう。
皇子さまって怖いから、あたしも、あまり近付きたくないんだけれど』
他の侍女や舎人たちも、皇子を恐れているようだった。初めの目通りのとき、皆、強張った気配を表していた。
『嫌なことは新人にやらせろ、っていう考えなのかも』
取りあえず今日は、皇子に異常な様子はなかった。比較的落ち着いて、掃除をするにしても、やりやすかった。
いつもの皇子を知るわけではないので、いつもはどうなのかは解らないが。
だが、気を抜くことは出来ない。
今も、皇子とふたりきりなのだ。皇子が荒れると、彩女ではどうしようもないだろう。見境なく人を打ったり、怪我を負わせる人かもしれない。
彩女の気持ちは、暗くなってきた。
『父さま……自信ないよぉ。本当は嫌なの。ここから逃げ出したい』
喉元まで出かかる本音が、彩女を苦しめる。
心細く、寂しい。ここでやっていける自信がない。
夜の闇が、彩女の狭い心を暴いてくる。
涙まで、出そうになる。
その時、
「彩女、彩女!」
扉の軋む音とともに、微かな声で、己を呼ぶ声が。彩女は薄らと涙が浮かぶ目を上げる。
細く開いた扉から、月光が差し込んでくる。
桑菜が、顔を覗かせていた。
「桑菜さん……」
彩女は、手で涙を拭う。
桑菜が手で部屋の外に招く。
「で、でも……」
皇子の宿直をしていないのがばれると、また柾菜に叱られる。
彩女は困って俯く。
「大丈夫よ、柾菜も今は眠りこんでいるから。心配しないで。
それより、ほら、これ」
桑菜は彩女に見えるように、笥を掲げてみせる。笥にはにぎり飯が盛られていた。
「あーー…」
とたんに、彩女のお腹が鳴った。
彩女はにぎり飯をあっという間に平らげた。
皇子の部屋のすぐ目の前の簀の子縁に腰掛け、桑菜とともにいる。
「桑菜さん、ありがとう。あたし、御飯食べそびれちゃったから、ついつい夢中で」
桑菜から受け取った水筒で喉を潤し、彩女は桑菜に感謝を告げた。
うふふ、と桑菜が笑う。
「安心しなよ。あたしは味方だからね。
あたしたちは、皇子さまの子代から呼び寄せられた侍女だけれど、あんたは他所からきた薬師じゃない。だから、皆、仲間はずれにしてるんだよ」
あ、やっぱり、と彩女は思う。
「でもね、そんな器の小さいこと言うのって、恥ずかしいことじゃない。馬鹿に見られるよ。
それに、あんたって、可愛いし」
「その、可愛いっていうのは……」
複雑な思いで、彩女は呟く。桑菜はにっこり、と笑う。
「悪い意味じゃないよ。世間ずれしてないじゃない。何事にも純で、失敗するにしてもそそっかしいというか、笑って済ませられるようなものだし」
「桑菜さん、それって、あたしのこと、子供だって言いたいの?」
地面から浮いている足をぶらぶらさせ、彩女はむくれる。
「ま、そういうことかな。でも、子供っていいじゃない。大人みたいに、本当に残酷なことは知らないし、薄汚いことを知らない。無垢だっていうことだね」
それは、彩女が考えてきたこと。
大人になると、好きなことが出来なくなる、何かにつけ格好をつけるようになるし、見栄をはるようになる。
彩女はだから、大人にはなりたくない、とずっと思ってきた。
「大人になる、っていうことは、辛いし、損なことなんだよ。大人になる、ということは汚れることを知る、ということだし、汚れることを拒否したものは、ある意味、生きてはいけない、ということなんだ」
ぞくり、と彩女の背が震える。
「皇子さまが生きてきた世界を考えてごらんーー泥の渦巻く宮廷で息を殺して。父君が大王だったために、誰よりも輝かしい場所にいらっしゃったけれど、その場所は一番危うい場所でもあった。
そういう意味では、皇太子と皇子さまは表裏一体で、皇太子は汚れることを受け入れて今の栄光を手にし、皇子さまは、汚濁に染まることができなかったから、心を病まれることになった。
皇子さまはーー大人になることに失敗した人かもしれない。あの方の立場は、大人にならずにはやっていけなくて、でも、うまく大人になることができなかった」
皇太子とは大王・宝姫王の息子、中大兄皇子で、陰の実力者である。暗殺をものともせず、力に物を言わせて権力を手中にしていた。
今の彩女にはぴんとこない名。だが、関わらずにはいられないことは解る。今、己が仕えている人を現状にした人物だから。いつか、憎しみで見つめることもあるかもしれない。桑菜は、既に皇太子に憎悪を抱いているのかもしれない。
「だからさ、あんたは今の自分を、いつまでも忘れないでいてよ。今のあんたはさ、何ものにも譲れない宝なんだよ。
めげちゃだめだよ、どんなに苛められてもさ」
彩女は、こそばゆい表情で頷く。
「でもさ、柾菜の苛めはさ、あんたが原因じゃないんだよ。
柾菜はね、あんたの父さん、小麻呂殿が好きなんだ。
小麻呂殿って、あんたの母さんが死んでから、誰とも結婚しないんだろ? 柾菜はその後釜を狙いたくてもできないんだ。小麻呂殿にその気がないから。
その上、小麻呂殿、前に言っていたことがあるんだーー」
そう言って、桑菜は興味津々な彩女の目を覗き込む。
「『うちの娘がね、最近、妻によく似てきたんだ。性格までもそっくりになってきて、うるさくてたまらん』ってさ」
「ーー父さま、そんなこと言ってたの?」
初耳だった。彩女の母は彼女が生まれてすぐに亡くなり、父が母のことをそんな風に言ったことはなかったから。
「あんたの母親って、死んでなお小麻呂殿の一番な女で、柾菜には乗り越えたくても乗り越えられないのさ。
だから、その八つ当たりがあんたに行くわけ。御飯抜きとか、わざとあんたに皇子さまの宿直を押し付けたりとかさ」
そう言って、桑菜はあはは、と声を発てて笑った。彩女も、吊られて笑う。
『ーー桑菜さんって、楽しい。あたし、この人、好き』
心細く、緊張していた心が、暖かく解けていく。
彩女は、心底桑菜に感謝していた。
「彩女、何度も言うけどさ、あたしは絶対味方だからね。
ーーそれと、あとひとり、味方になってくれそうな奴もいるよ。
ひとりじゃないからね。あんたは」
桑菜が彩女の肩を叩く。力強く、暖かい。
彩女の目尻から、涙が線を引いて溢れた。
その夜は、彩女は夜通し桑菜と語り合った。
この館のこと。
生駒の面白い所。
特徴や癖のある侍女や舎人のこと。
色々なことを楽しむ方法。
桑菜は、何でも楽しみとして見い出す。退屈ではない日常を見つけだす。彼女は、間違いなく大人だった。それも、曲がりのない、美しい形で形成された大人だった。
『あたしは、こんな大人になりたい』
彩女は、密かにそう思った。
喋り耽って、時間は流れた。気が付けば空は白み、朝への変化を萌していた。
「あーー夜が開けちゃうね。あたしたちって、一夜を共にしちゃったんだーーっ」
意味ありげにそう言って、桑菜は彩女に寄り掛かり吹き出す。
彩女は全く解っていない様子で、きょとんとした表情を見せる。
「一夜って? 一夜を一緒に明かすとどうなるの?」
一瞬、桑菜はほうけたような顔をする。が、また吹き出す。
「また今度、教えてあげるーーっ」
彩女の身体を揺らしながら、桑菜は楽しげに笑う。彩女も、楽しくて仕方がなかった。
とーー。
『……?』
誰かの、視線を感じた。
とても優しく、何かを懐かしむ視線が、彩女に絡み付く。
『ーー何?』
彩女は視線を求めて辺りを見回す。が、視線はふっつりと途切れてしまっていた。
「何? どうしたの?」
訝しむ桑菜に、彩女は小さく首を振る。
「ううん、なんでもない。じゃ、あたし、皇子さまのお部屋に戻る」
「そうね。じゃ、あたしも戻るよ」
ふたりは言い合って、別れた。
夜間に訪れてくれた桑菜の機転は、彩女の心を救った。
彼女の心細い気持ちもすっかりしぼみ、朝には笑顔が浮かんでいた。
有間皇子の朝の見立てをする父を観察し、にこやかで溌剌とした面で、彩女は頷く。
「よく解った。昨日と今日父さまがしたことを、同じようにすればいいのよね」
小麻呂は少し心配そうな顔で見る。その表情に、彩女は元気づけるように父の背中を叩く。
「心配しなくても、大丈夫。父さまが作ってくれた本もあるし。なんとかなるよ」
明るい娘に、父は肩を落とす。
「本当に、大丈夫か。昨日はさんざんに苛められたそうじゃないか」
父の言葉に、彩女は廻りを見渡す。が、皆下がって、有間皇子と己と父しかいないことに思い当たって、小さく舌を出した。
「あれくらい、平気だよ。意地悪な人ばかりじゃないことも、解ったし」
「そうか、それならよかった」
父娘は笑いあった。
昼前に父は館を出た。何度も振り返る父を、彩女は朗らかな笑顔で見送った。
有間皇子の館に来てから数日。
朝晩の皇子の診察に侍女としての仕事、そして皇子の宿直と、目まぐるしい中彩女はつつがなく日々を過ごしていた。失敗も何度かし、その都度、柾菜に叱られながらも、彩女は挫けなかった。
『大丈夫。あたし、絶対負けないから。柾菜さんたちに負けるのは悔しいし、負けたら、桑菜さんに笑われちゃうよ』
桑菜は、彩女を姉のように暖かく見守ってくれている。
何度か、宿直の夜を重ねたが、その度桑菜は彩女の徒然を紛らわすために皇子の部屋に来てくれた。今までこの館であった面白い出来事など、語ってくれる。
主人の状況の辛い背景や、重い病のため、この館には暗い陰がつきまとっている。仕え人の心も、影響を受けて当然のものだ。が、桑菜は強い。桑菜の前向きな心が、彩女に軽い気持ちを植え付けた。
『だから、頑張って、明るい気持ちを持ち続けていこう。桑菜さんを見倣って』
それから、彩女の前向きな性分に火が着いた。
毎夜、彩女の話し相手に来てくれる桑菜を、
「桑菜さん、もう大丈夫。あたし、ひとりでも宿直できるから」
そう言って、桑菜を押し止めた。
「桑菜さんも、毎晩あたしの話し相手すると寝不足になるでしょ?
あたし、繕い物でもするから、時間つぶせるよ」
彩女は桑菜に、山のように溜まった着物の繕い物を見せる。
「もうそんなに寒くなくなってきたから、扉を開けて、お月様でも見ながら仕事するの。眠くなったらそのまま寝てもいいんだし。いままでもそういう生活してきたんだもの」
父・小麻呂の往診が長引いて家に帰ることが出来なかった日、彩女は寝床には潜らず、着の身着のままで寝てしまったことがある。それでも気にならない性格だった。
桑菜はそれでも心配で仕方がないらしい。
「本当に大丈夫? 寂しかったら、いつでもあたしを起こしにくるのよ」
言い淀む桑菜を帰し、彩女は手を振った。
『桑菜さんって、どうも、あたしのことを手のかかる子供みたいに見てるのよね』
絹の布地に針を通しながら、彩女は唇を尖らせる。
今までは、この館に慣れていなかったから、不安でいつものような元気さでいられなかったのだ。だが、もう慣れた。
春の兆し、白梅の花が月に照らされている。館内は暗くても、四季は移ろい明るさを運んでくる。
毎夜、有間皇子は静かに眠っている。物音ひとつ発てない。
彩女は皇子がいる御簾を眺めて、目を擦った。眠気が、意識を包み込んでいた。
針仕事の道具を散らかしたまま、彩女はその場で横になった。
目覚めたのは、早朝。まだ、人々の起きだす音はない。
あくびをひとつし、彩女は身体を起こす。
とーー
「あれ、何で?」
彩女の身体の上に、上衣が掛かっていた。彼女が眠っている間に、誰かが彼女が冷えないように上衣を掛けてくれたのだ。
見れば、皇子のために仕立てられた、上質の絹の衣だった。
「ーー? 誰が掛けてくれたの?」
訝しみながら、彩女は上衣を摘んだ。