トップへ
愛は浮雲の彼方にindexへ
瞼の面影人(1)へ
人々が行き交うけん騒のなか、尚容は訥々と語りだす。
自分の知らない頃の母のことを、毬野は緊張を押さえた眼差しで聞いている。
「今から遡る事、二十二年前…。その頃の天皇は今の天皇の母君、宝大王だった。
有間皇子さまのお父上、軽大王は宝大王の弟君。先の天皇、淡海帝や今の天皇、飛鳥浄御原帝とは従兄弟同志に当たられる。
有間皇子さまが健在であられた頃、実権を握っておられたのは淡海帝…その頃は、中大兄皇子と呼ばれておられた。中大兄皇子は蘇我氏を滅ぼした形で実権を握られたが、その衝撃で宝大王が退位なされ、有間皇子さまのお父上、軽大王が位にお即きになられたのだ。この事で、有間皇子さまは天皇の皇子となられたが、後々を暗示するような事件がこの頃、よく起きていたのだ。
中大兄皇子はご自分の異母兄で、蘇我氏の血を引いておられる古人大兄皇子を処刑なさり、ご自分の舅にあたる蘇我倉山田石川麻呂を葬られた。それもすべて、その方々が中大兄皇子にとって邪魔な存在だったからだ」
尚容は、これらの血の惨事を歴史上に起きた事実として淡々と語った。だが、それを聞く毬野は恐ろしさに声さえ立てられなかった。
「酷い…みんな、中大兄皇子の血に連なるお方なのでしょう」
「例え酷かろうが、血を流すことを恐れていては政を行なうことが出来ぬ…これは、為政者にとって当然の真理だ。中大兄皇子の弟君であられる今の天皇も、その真理に従い、ご自分の甥を殺め、帝位に即かれた。これが八年前の壬申の戦だ。
弱者は、強者に食われる…その真理は、有間皇子さまも然り、だった」
尚容は言葉を切り、深呼吸した。毬野も息を飲む。
「軽大王は都を難波に移され、それからの五年間は平穏だった。だが…。
帝位に即かれたとき、とうに壮年に達しておられた軽大王はご自分の手で政を動かすことを望まれた。そして、当然の如く皇太子・中大兄皇子と対立なされ、決別された…。この時は、酷かったそうだ。皇太子はご自分の母上で大王の姉君である先大王と、大王の后で皇太子の妹君、間人皇女を連れて、倭に移られたのだ。それも、臣下一同も一緒に…。
結局、難波に残ったのは軽大王と、その皇子であられる有間皇子さまだけだった。軽大王の御無念はいかばかりだったろう…一年後、憤りのあまり、食物に箸を付けることも拒まれた軽大王は亡くなられ、一人とり残された有間皇子さまは生駒に篭もられた。
当時、有間皇子さまの後見役で、母方の実家だった阿部氏は皇太子よりで、有間皇子さまをお救けする者はいなかったし、ただ一人の頼りである伯母上はまた大王になられた。その背後には勿論、皇太子がいた」
「そんな…きっと、皇子さまは心細かったのでしょうね…。
それで、母さまが仕えたのはいつ頃のことだったのかしら」
「さあ、な…。ただ、君の母上をよく見知っておられる桑菜殿は、母上が一番の年少で、皇子さまとも年齢が近かったと申しておられた。彩女殿の父上…君のお祖父様が軽大王に仕えられたのが縁で、母上は皇子さまに仕えられたとも申しておられた。ただ、この館勤めが母上にとって幸運だったかどうかは…丁度、その頃、皇子さまは発狂した振りをなさっておられた」
「発狂!?」
毬野は衝撃の余り、叫び声を上げていた。その場所は市より少し離れているが、まだまだ人目が多かったので、尚容は窘めた。
「しい…っ。ことが穏やかではないので、余り大きな声を出さないほうがいい」
尚容は辺りを見回すが、誰も二人を気に留めてはいなかった。
一先ず、尚容は安堵の吐息を洩らす。
「発狂された…訳じゃないのよね…振り、だもの…」
ぼそぼそ、と毬野は小声で呟くが、尚容は頭を横に振った。
「だが…母上には同じだろう。振りとはいえ…実際、仕えているものは総て発狂されていたと申されている。仕えているものには、発狂されたように見えたのだろう」
「じゃ…母さん、お勤めが辛かったんだろうね…」
毬野のその言葉にも、尚容は頭を振った。
「母上に有間皇子さまのことを尋ねたとき、それはそれは大事そうに皇子さまの事を語っておられた。確かに…彩女殿は、真心をもって、皇子さまにお仕えしておられたのだ」
「そう…」
尚容の答えは、毬野の心を安心させた。お仕えしている間、母は少なくとも不幸ではなかったし、毬野の父にも出会った。
「それで…皇子さまは」
次を促す毬野に、尚容は眉を曇らせた。
「皇子さまの…精一杯の保身も虚しく、皇子さまは皇太子の張り巡らせた罠に掛かってしまわれた。蘇我赤兄の謀反の囁きに乗ってしまわれたのだ。蘇我赤兄が、皇太子の遣わせた偽の謀反の同志だというのに…。
大王は紀の温湯に行幸されていたが、皇子さまは紀伊国まで引ったてられ、ついにその地で処刑されてしまわれた…。
その時の歌が残っているんだ」
尚容は懐から一枚の木簡を出した。毬野が覗き込むと、二首の歌が認められてた。
磐代の 浜松が枝を 引き結び
真幸くあらば また還り見む
(磐代の浜の松の枝を結んでいこう
もし、幸いにも還ってこれたのなら
またこの松を見よう)
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕
旅にしあれば 椎の葉に盛る
(家に居るときは 器に盛る飯だが
不自由な旅の道中なので椎の葉に盛ろう)
それらの歌は、さり気ない読み口だが、有間皇子の命への執着、悲しみがひしひしと伝わってくる。
「これらの歌を詠まれた当初、皇子さまは幾許かの生の可能性があると思われていた。
結局、これらが辞世の句になったのだ」
尚容は木簡を懐に戻す。
毬野は瞬きもしなかったが、やがて深い溜息を吐いた。
「母さんは…その一部始終を目の前で見ていたのね…。
でも、それだけの事を知っているのなら、わざわざ母さんや、他のお仕えしていた人たちに尋ねて回らなくてもいいんじゃないの? 後は自分の想像にまかせて仏様を造ればいいじゃない」
いともなげに毬野は言うが、そのようなもので尚容の野心は納まらなかった。
「俺は、皇子さまの特徴を捉えて造りたいんだ」
「…皇子さまのお姿を写したからといって、民がありがたがるとは限らないわ」
「その御仏が、美しく、尊いものなら、皆、自然に祈るようになる」
自身の信念に疑う余地はない…尚容の目が熱でぎらぎらと漲る。それでも、毬野の疑問は晴れなかった。
「大体、どうして皇子さまのお姿を写したいの?」
そんな問いをする毬野を嘲るように尚容は笑った。
「有間皇子さまのことを知らぬ者は、倭にはいない。その有間皇子さまを、倭随一の仏師である俺が造るのだ。どれだけ尊いものになるか、君にも想像がつくだろう」
つらつらと尚容は語るが、毬野は侮蔑に近い瞳で彼を眺めた。
「…そう。あなたが、有間皇子さまに似せた御仏を造るから、尊ばれる…なんて、本気で思っているの?」
「…何が言いたい」
毬野の言い様が辛辣なので、尚容は流石にむっとした。
「倭随一の仏師って、自称しているけれど…大したことないみたいね」
「御仏を知らぬ君に、何が解る!!」
かっとなって、尚容は怒鳴り返すが、毬野は少しも表情を緩めなかった。
「だって、そうでしょう。今でも語り継がれる悲劇の有間皇子に似せた御仏を自分が造れば、名が売れる…って、そうとしか取れないわ。
本当に尊い仏様は、小細工なしでも尊いのよ。人々に尊いと言わせる何かを持っているのよ」
尚容は、はっと目を見開いた。堅く握り締めた拳が、ぶるぶると震える。
「母さんが、あなたに有間皇子さまのことを話さなかったの、無理もないと思うわ。
母さんは、あの方に関して辛い記憶があるのだもの。それを話すのが、どれだけ苦しいか、あなたに解る?
人の心が解らないあなたに、倭随一を語る資格はないわ」
女らしからぬ気迫で、毬野は尚容を睨み付ける。
尚容は、一言も話さなかった。否、口にすることが出来なかった。自分よりも年下の小娘に飲まれてしまったのだ。
毬野は黙って立ち上がると、尚容を置いて踵を返した。尚容を振り返る事無く、市から姿を消した。茫然と後ろ姿を見送っていた尚容は、額に手を当てて唸った。
自分は、完全に毬野に負けてしまった…御仏の何たるかを知らぬ小娘に、あっさりを負けてしまった…。尚容の脳裏に敗北感が吹き荒んだ。
毬野に置き去りにされた尚容は、何とか日下部彩女の家に戻った。
彼が家に到着した頃には日暮て、二上の二つの峰に夕陽が沈もうとしていた。
少し憂欝な心持ちで、尚容は家に入る。が、中には誰も居なかった。先に帰った毬野はおろか、寝付いていた彩女までいない。どういうことかと、尚容は家の外に出る。すると、家の裏にある畑の側に、彩女が立ち尽くしていた。
淡い朽葉色の上衣を纏い、髪も結わえ上げた彼女の姿態は、尚容を容易に近付けさせなかった。彼から背を向けているが、寂しげな肩に、先程の毬野の言葉が甦る。
『母さんは、有間皇子さまに関して辛い記憶があるのだもの。それを話すのが、どれだけ苦しいか解る!?』
尚容は、有間皇子の探索をするのに、皇子に関わった人々の心の傷など、髪の毛一筋も考えていなかった。今まで尋ねた人も、哀しげな面持ちなど、見えなかった…と思う。
日下部彩女は、尚容に一つも気付かず、二上の尾根に目を奪われていた。心なしか、彼女の細い肩が、小刻みに震えている。
「…皇子さま…」
彩女が、はっきりとそう呟いたのを、尚容は聞き逃さなかった。尚容の心に、鋭い楔が突き刺さる。今まで会った皇子縁の人とは違い、日下部彩女は間違いなく、過去の記憶に深い哀しみを負っている。その人に、有間皇子を思い出させるのは。残酷というものではないか?
尚容が彩女に近付くことも、その場から立ち去ることも出来ないでいると、不意に彩女が振り向いた。彩女は驚いたように目を見開き、慌てて涙の痕を拭った。
「あ…彩女殿…」
「毬野なら、菜を摘みに行ったわ。尚容さまは…お一人で市からお戻りになられたの?」
彩女は戸惑っている尚容に微笑みかけた。彼女の様子は、つい先程まで泣いていたようには見えない。
「ええ…」
「しょうのない子…お一人では、お迷いになられたでしょう?」
細く息を吐きながら、彩女は尚容を気遣った。尚容は頭を振った。
「いえ…わたくしが、不用意な事を言ったので…。それにしても、毬野殿はお優しい人ですね」
娘を誉められた彩女は、素直に嬉しそうな表情になった。
「毬野殿は、あなたのことを一番に考えておられる。わたくしが有間皇子さまのことを知りたがると、毬野殿はわたくしを叱りました。母さんは辛いんだ、と…」
「まあ…有間皇子さまの事を、毬野に話されたのですか?」
彩女は少し咎める口調になった。今まで、娘に話さずにきたのだ。当然のことだろう。
「毬野殿が、知りたいと望まれたのです。父親の事を知ることができないのなら、せめて、あなたがお仕えしていた人の事を知りたいと…」
「そう…ですか…」
彩女は足元に、虚ろな眼差しを落とした。
「あの子は、父親のことを知りたがったのですが、わたくしが無理に教えなかったのです。あの子の父親の事を教えて、あの子を不用意に傷つけるのが恐かったから…。
しかし、子供が親の事を知りたがるのは当然の事なのでしょうね…あの子には、いつも悪いと思っております」
彩女は嫋々と呟く。
「彼女の父親とは、どんな風に出会われたのですか?」
言ってから、しまったと尚容は口元を押さえた。相手に警戒されても困るし、我ながら、柄ではないと舌打ちする。
彼の気まずさに反して、彩女は穏やかだった。
「わたくしと、あの子の父親が、諍いをして生き別れたと思われたので?
それで、毬野に父親の事を話さないと…」
尚容の複雑な表情を窺うと、彩女は朗らかな声を立てて笑った。
そこには、小暗い家の中とは違う、日下部彩女の姿があった。病みやつれてはいるものの、明るく、美しい。いつもより血色の良い頬の辺りが、思いがけず若やいで見える。太陽の下にいるということもあるのだろうが、中々、娘と勝とも劣らず美しい。これといって、目鼻立ちが秀でている訳ではないが、彼女には不思議な魅力があった。
「わたくしは、あの子の父親だった人を、本気で愛しておりました。その人は…今はこの世にいませんが…」
沁々話す彩女の顔が、何となく尚容の心に染みいった。
喜び、哀しみ、怒り…それらの感情が削ぎ落とされ、何も無くなったところから滾々と沸き上がってくる、和泉のようなもの…達観とも、言えるのだろうか。穏やかで優しく、清々しい面だ。こんな表情を、尚容はどこかで見かけたことがあるような、ないような…。
「毬野があなたを叱ったというのなら…かなり、きついことを言ったのでしょう?
ごめんなさいね。本当に、あの子は口が過ぎるから…」
「いいえ…寧ろ、わたくしは毬野殿が羨ましい。彼女の、何物にも捉われぬ自由さが…」
自嘲ぎみに尚容は言う。その言葉は本からのものだった。
「そういってもらえると、わたくしも嬉しいですわ。わたくしは、そのように育てたかったのですもの…」
彩女の微笑みが、尚容の心を包み込んだ。
結局、尚容は彩女に有間皇子のことを尋ねることが出来なかった。毬野の言葉が、彩女のあの微笑みが、彼の口を噤ませた。
何も言うことのないまま、尚容は家の中に入る彩女を見送った。
それから数日間、彩女の体調はすこぶる良好だった。だが、尚容は彼女に有間皇子の事を一つも聞けないまま、日暮していた。
『名声や富に目を晦まされているようでは、人を癒す御仏を造れはしない』
天皇のお声がかり名高い仏師である父の言葉が頭について離れない。
新羅の地で最上の技を身に付けた父は、倭に渡来して、過たず当代随一の名声を受けた。それをすぐ近くで見ながら育った尚容は、自然と仏師を目指し、やがて成った。仏師になる事自体は、反対しなかった父だが、彼の成す御仏には厳しかった。初めて彼の御仏を見せた時、尚容は父の誉める言葉を欲しがった。しかし、父は冷たかった。
人形、脱け殻…父は彼の御仏をそう称した。あの時の悔しさ、悲しさは今でも易く胸に甦らせることが出来る。暗い感情をばねにして父と並ぶ位の技を会得したが、それでも父は優しい言葉を掛けなかった。
『お前は、何を考えて御仏を造っている?』
仏師が、同じ職の者を嘲るように、父は言った。
大陸の地で肌で学んだ父は、倭の、大陸の模倣を到底許せなかったのだろうか…倭のやり方が染みついている自分を許せなかったのか…。生まれて初めて、父の事を許せないと思った。父のその考えこそ、特権意識というものではないのか?
俺が、父を超えることが出来れば…尚容は本気でそう思った。父を超えるためには、天皇のお褒めに与るものを造ればよいのだ。そのために、当代随一の名を自分も冠せられるようにならなければならない。
尚容はがむしゃらに頑張った。名品の名に値する御仏を造り、天皇のお目にも止まった。やがて、父と並び称されるようになった。
そんな彼に、父は言葉を投げ付けた。
『名声や富に目を晦まされているようでは、人を癒す御仏を造れはしない』
同じく当代随一を称される仏師に、屈辱ともいえる台詞を投げ付けた父…父を超えるためには、父以上と名指されなければならない。それには、一目で意表を突き、容易に脳裏から離れぬ御仏を造らなければならない。
尚容が有間皇子を模した御仏を造ろうとしたのは、そのためだった。二十年以上経った今でも、有間皇子の悲劇は記憶に新しく、年を追うごとに美しく鮮烈になっている。木の葉の上に置かれた露の如きはかなさ、潔さで消えた有間皇子の姿は、同情されて止まない。
その一念で倭からはるばる生駒まで出向き、標の人を探した。標の人、日下部彩女は長きの病により、弱り切っているので、体調のよい今のような時に聞かなくては危ういのだが、尚容は聞き出せないでいる。聞くのをためらっている。
『人の心が解らないあなたに、倭随一を語る資格はないわ』
毬野の言葉と、父の視線が重なる。
父が漠然と含めていた言葉の意味は、毬野が語った事、そのものなのだろう。
心の篭もらない御仏は、脱け殻同然…尚容の熱意は萎えた。悔しさはあったものの、自分の欠点の大きさに、尚容は打ちのめされていた。
尚容の様子のおかしさに、彩女は訝しんだ。母が余りにも気にするので、仕方なく、毬野は彼がいる納屋を訪れた。
一言声をかけて毬野は戸口を潜ったが、尚容からの返事はなかった。仏師の命である鏨が、板張の床に乱雑に転がされている。鏨だけでなく、彼が数日前に描いていた観音菩薩像や、見たことのない御仏の描かれた懐紙が丸められて捨てられている。
丸められた懐紙を広げてみると、未だ墨が乾ききってなく、真白い紙が黒く汚れている。描かれた御仏は、如来像だったが、線の乱れが認められた。
入ってきた毬野の気配に気付かない尚容は、一心不乱に筆を取っていた。眉間には深い皺が刻まれ、額に汗が滲んでいる。
「…折角描いたのに、もったいないわ」
無残に捨てられた懐紙を総て広げ、毬野は尚容に差し出した。
紙が擦れる音に、煩わしげに尚容は頭を擡げる。目の前の咎めるような厳しい瞳に、つと、彼は目線を反らした。
「…また、俺のことを馬鹿にしにきたのか?」
暗い声に毬野は目を細める。陰欝な尚容の姿は、先日、当代随一を自称していた自信家には見えない。
「馬鹿にされていると思うのは、自分自身がやましい気持ちがあるからよ」
容赦しない毬野の一言に、尚容は返す言葉が見付からない。貝になってしまった彼を見兼ねて、毬野は彼の肩を揺さ振った。
「…やましい気持ちがある内は、まだ救いがあるのよ。解らないの?
本当に精神が腐っている人間は、やましさなんて抱かないし、気に食わない人間は徹底的に無視するわ。あたしの一言に落ち込んでいるうちは、弱虫かもしれないけれど、汚れていない」
断固として語る毬野を、まじまじと尚容は見つめた。
彼女の中には卑屈さというものは全くないし、澄み切った清水が溢れている。毬野という娘は、例えようがないほど不思議だ。
「俺は…俺の御仏に間違いなどないと思っていた。みな、俺の御仏を美しいと言うし…いや、親父だけは違ったが…俺が有間皇子さまを模した御仏を造ると、みな喜んでくれると信じていた。だから…その自信が根拠のないものだと解って、また新たに御仏を造る自信が無くなった。そもそも…御仏というものは、一体、何なのだ?」
尚容の真摯な眼差しが毬野に問い掛ける。彼の、仏師としての生命をかけて。
毬野は尚容に問われるほど、御仏に関する教義や真理を理解してはいない。未開地と言い換えたほうが適する。それでも、尚容が真剣に問い尋ねているのが解るから、適当に誤魔化すことは出来なかった。
「癒し…じゃないかしら」
「癒し…父も、同じ事を言っていたが、俺は美しい御仏が人を癒すのだと思っていた」
俯いて尚容は拳を見つめる。
「別に、御仏が美しい必要なんて、ないんじゃないの?
美しい御仏を拝めば、美しい!…とは感じても、心は軽くならないでしょう」
「心が軽く…」
尚容は茫然と呟く。そこまで考えが到らなかったように。
「心が軽くなることが、癒しなのか?」
彼の様子に、毬野はふっと微笑んだ。
「じゃあ、どうしてあなたは無学なあたしに御仏のことを聞くの? もともと仏師なのだから、教義や真理はあなたの方がよく識っているはずよ」
「それは、俺に意見した君の方がよく識っていると思ったからだ。
もやもやした心のままでは重すぎて、次の一歩を踏み出すことが出来ない」
そういって尚容は、はっとする。
『俺は、毬野に救いを求めていた?』
ぽかんとした口を閉じた尚容は、唇を大きく歪ませ、声を殺して笑った。
「…やっと、解った。以外と、単純な事なのだな」
彼の笑いに、毬野は大きく頷いた。
「そこで…癒しを悟った仏師さまにお願いがあるの」
急に毬野は居住まいを正し、改まる。尚容も姿勢を直した。
「…あなたは、母さんを…癒せないかしら。ううん、かあさんを癒す御仏を造れない?」
「君の母上…彩女殿を、癒す…?」
唐突なことなので、尚容は頭が回らなかった。
「あなたは、有間皇子さまの御仏が、母さんを癒せると思う?」
毬野の言わんとしていることが理解出来ない尚容は、彼女に聞いた。
「彩女殿は、救いを求めているのか?」
「…解らない。解らないけれど、母さんは時々とても悲しそうな顔をするのよ。二上の山をじいっと眺めて、泣きだすの」
尚容の脳裏に、夕暮時の彩女の姿が浮かぶ。漠然とした寂寥に溢れた彼女の後ろ姿は、深く傷ついているように見えた。
ただ、彩女が言うには、毬野の父親はすでに死んでいるという。愛した男を求めて泣いているとも考えられる。
「…五分五分だな」
「…そう?」
毬野が聞き返す。
「彩女殿のかつての主人、有間皇子さまが癒せるとも、あるいは君の父上が癒せるとも…。彩女殿の哀しみが癒されるのには、彩女殿の哀しみの正体が解らねばならない。両方、ともいえるかもしれないが…」
「あたしの…父親…」
彩女を癒し得る可柏ォが欠けている事実に、毬野は途方に暮れた。
「母さん…自分のことを顧みずに患者の為に尽くして、自分が倒れてしまったの…それは、一年前のことよ。今まで、ろくに休みもしなかった人だから、どんどん弱っていって…この頃は、起き上がれる日が少なくなっていってる。このままじゃ、母さん…」
「…だが、俺が有間皇子さまのことを尋ねても、きっと彩女殿は話しては下さらないだろう」
尚容の言う事は、頼エではなく偽らざる真実だ。毬野の直感が正しければ、哀しみ故に余計に口を割ることはない。
「母さんが、亡くなった人を求めて生き急いでいるというのなら、あたしは絶対に許せないわ。母さんを必要としているのは、亡くなった人だけじゃないのよ!」
本当は、毬野自身が彩女に生きていてもらいたいのだ。彼女の切望が、怒気となって口から出る。
毬野の気持ちは尚容にも痛い程解るのだが、彼にはどうしたらよいか解らなかった。ただ、日下部彩女の命が永らえることを祈るのみだった。
毬野のおかげで尚容の心は少し軽くなった。それでも、仏師としての彼に問題が無くなった訳ではない。
美しい御仏が、必ずしも人を癒せるとは限らないと悟ったからには、尚容はどうすれば人を癒す御仏を世に出せるのか考えねばならなかった。取り敢えず、日下部彩女の納屋に篭もって思いつくまま御仏の絵像を描く事にした。
ここにおいて、尚容が日下部彩女の家に居候する理由は無くなった。尚容は、有間皇子に模した御仏を造ることよりも優先的にしなければならない事が出来たし、有間皇子を模した御仏を造る意義を失った。
哀しみとは、怒りとは、喜びとはどういう感情なのか、また、それはたった一つだけの形しか成さないのか…日下部彩女と毬野の親子を見て尚容は考え込むようになった。御仏の表情が鋳型にはめ込んだようなものでよいのかも、改めて悩むようになった。
これだけの試練は、別段、倭に帰ってからでも出来ることだ。だというのに、尚容は当麻に…日下部彩女の側に留まっている。
数日前の、毬野の願いを尚容は忘れかねた。日下部彩女の救いとなる御仏を造る…単純なように見える願いだが、案外、難しい。
日下部彩女を癒すためには、彼女の哀しみの正体を識り、それを取り除かねばならない。そのために造る御仏は、有間皇子を模したものでもよいし、そうでなくてもよい。宮廷の仏師である尚容の造る御仏は、一人を対象にしたものではなく、不特定多数の人間を相手にするものだ。だから余計に難しい。一人の人間を対象にするということは、その御仏も、対象になる人物の願い、祈りに添ったものでなければならない。
以前の自信家・尚容ならば、毬野の願いを一笑に伏すことが出来た。しかし、彼の仏師の生命に関わる汚点を指摘し、導いてくれた毬野の頼みだから、応えなければならないと思う。ここにおいて、尚容は自分が変わったと認めずにはいられなかった。
毬野はあれからも、尚容のいる納屋に顔を出している。彼が彼女の母親の事や、御仏のことを聞くと、素直に、解りやすく応えてくれる。彼女はわりと聡明な質であることも、改めて発見した。彼女は学問を修めた訳ではないが、自分一流の考えを持っている。また、その考えが、しち難しい理屈が通っていない分、尚容にも共感出来るところがあった。
美しく、利発で頭の切れる毬野に、尚容は明らかに好意を持った。一人の、年上の男性に媚びや打算もなく、対等に渡り合う彼女の姿は実に魅力的だ。尚容は、今まで毬野のような女性に会ったことが無かった。
尚容は気付いていなかったが、彼にとって、初めての真摯な恋の兆しだった。
「…大分、仏さまの表情が良くなってきたわね」
尚容が新しく描き上げた如意輪観音像を見ながら、毬野は関心して言った。懐紙の上の観音像は、体付きは豊満で優雅な天衣を纏っているものの、表情に驕奢さを感じさせず、透明で峻烈だ。
「蕩けるように優しい訳じゃないけれど、厳しすぎる訳でもなく、爽やかで良い感じ」
「その御仏の表情は、涼しすぎやしないか?」
久しぶりに誉められて、照れながら尚容は毬野を眺めた。
「どうして?あたしの想像の中にある御仏は、こういう感じよ。どちらかに偏ってはいけないはずでしょう?」
「それは、そうだが…」
尚容が照れるもう一つの理由は、観音菩薩像の顔が、何となく毬野に似ているからだ。彼はそんなつもりで描いた訳ではないのだが、気が付くとそうなっていた。
『…まったく、俺はどうかしている』
心の中で、尚容は独り言を呟く。それでも、彼もこの観音菩薩像をまんざらでなく思っている。
「それはそうと…尚容さんは、こんなに長く当麻に留まっていていいの?」
「何故、そんな事を言う?」
即座に尚容は反論した。彼女の台詞は、思いがけない打撃だった。
「君は、彩女殿を救う御仏を造ってほしいのだろう?」
「でも…こんなに長く都を離れていては、宮廷仏師の座を誰かに取られてしまうわ」
厳しい尚容の顔に気圧されながら、毬野は言葉を選んだ。
「俺が居なくても、親父がいて御仏を造っている」
そういって、ふと尚容は驚いた。
彼が仏師になった理由は、父を追越し、当代唯一の仏師に成ることだった。彼は、今言った自分の言葉を信じられない。確かに、毬野の言う通り、長く都を空けていては、父はおろか、他の仏師に当代随一の座を取られてしまう。
「あたしが無理を言ったから、残ってくれていたのでしょう。結局、母さんを癒すのは難しいことなのね。もういいから、あなたが望む仏さまを造って」
毬野は、尚容に言い聞かせるように淡々と語ると、彼の手を握った。以外に、毬野の手のひらは暖かく、さらさらして心地よい。思わず尚容は握り返した。
毬野はにっこりと尚容に笑いかけると、彼の手を離した。尚容の手が、彼女の温もりを追い掛けようとしたが、瞬時に理性が働き、彼女の姿が手の届かないところに行ってしまうのを見送った。
何故か切なさが胸を刺す。彼女の手のひらの暖かさとは異なる寒さが、部屋を満たす。
今更ながら、自分の変化の原因に感付いた。御仏を成す仏師が、御仏以外のものに救いを求めていたのだ。
相反する心…仏師として栄達する心さえ失せてしまうほど、毬野を欲していた。
御仏を世に出す仏師は、御仏に近くてはならない…幼い頃、父が語っていた言葉が胸をきりきりと絞める。仏教の教義では、女煩は罪悪の一つという。彼は僧侶ではないが、根本的には同じでなくてはならない。
やはり…早くここを離れなければならない…尚容は、痛むもうひとつの心に、唇を噛んだ。
天の二上に太陽が落ちる頃、尚容は当麻を去る支度をしていた。荷物をまとめる手をふと止めると、束にした絵像を捲った。奢りに支配されていた頃の絵像は総て捨て、変心してから描いた絵像だけを持ち帰るつもりだ。
絵像の束には、毬野との思い出が積もっている。彼女の笑顔や哀しみに耐える顔、切れ長の涼しい瞳に、鈴を振ったような声…今となっては手に届かない。手に届かないからこそ、どうしようもなく愛しかった。
『本当に、これで良かったのか…?』
何度も尚容は反問する。自分の本心を見つめ返す。もしも、彼女との道を選べば、今まで精進して成った仏師としての人生が無駄になる。尚容は緩やかに首を振った。
彼は、毬野に何も言わないで行くつもりだ。自分の気持ちも、出立も…ただ、彼女に感謝の心を伝えられなかったことだけが悔やまれる。
尚容が物思いに耽り、懐紙を捲っていると、後の板が軋む音がした。毬野だろうか…荷物を整理しているところを見られてしまったのでは仕方がない。辛いが、感謝と別れの言葉だけ述べよう。
尚容は近付いてくる人影に振り向かずに告げた。
「毬野…本当に、君には感謝している。俺は、君に教えられなければ愚かなままで慢り高ぶっていたかもしれない。
だが、もう俺は違えはしない。小細工など弄さずとも、立派に人を癒せる御仏を造ってみせる。だから…俺は、都に帰る」
語りながら、尚容の胸は熱く、苦しくなってくる。凝った未練を振り切るために、語調を強くした。
「何年後、何十年後になるかもしれないが、また、俺の御仏の像と君が出会えるかもしれない。その時は俺のことを…思い出してくれれば嬉しい」
気障なような気がするが、これが、想いを口に出来ない尚容の精一杯の気持ちだった。
一気に言って、尚容は溜息を吐いた。
「…本当に、それでよいのですか?」
ぎくり、と尚容は振り向いた。毬野ではない!
「…彩女殿…」
円らな瞳に、憂いを貯めた彩女が居た。
慌てて、尚容は正座すると、何か言いたそうな彩女に向き直った。
「毬野から、あなたが出立すると聞きました。本当に、毬野に何も言わずに出ていっていいのですか?」
尚容の額に汗が浮かぶ。彩女の厳しい眼差しは、尚容の想いを知っているのかもしれない。
「毬野が、自分で帰還を勧めたと申しておりましたが…泣いていましたよ。
あの子は滅多に泣かない子なので、あの子の心がすっかり解ってしまいました」
許しを請うために、尚容は彩女に額突いた。
「そして、今のあなたの言葉で、あなたの心も解ってしまいました。
逃げるのですか?」
尚容は震える唇を開いた。
「卑怯者とおっしゃられても、わたしは否定しません。わたしは…仏師ですから、心のままに従ってしまうことは許されません。わたしの辛い気持ちも…解ってください」
彩女は、平伏す尚容に視線を宛てた。
「そう…わたくしは、ただあの子の幸せを望んだのみです。されど、あなたが仏師でいるのなら、あなたと結ばれる事が、あの子の為になるとは限らぬのですね」
尚容は顔を上げると、必死で頷いた。
それでも、彩女の眼差しは変わらない。
「それでも、二人が乗り越える力があるのなら、きっと運命も切り開いていけるはずです。現に、わたくしもそうやってあの子を育ててきました。
運命を乗り越える力無しで、どうやって名にしおう仏師と成れるのでしょう」
尚容はひたすら無言だった。
彩女は、しかたなしに吐息する。
「…では、これだけは誓ってください。
あなたは、絶対に後悔しませんね?」
後悔…尚容は目を見張る。こんなに未練が残っているのだ。後悔しない日があるのだろうか。
「…どうか…許してください…」
尚容はそれだけしか言うことが出来なかった。
しばらく、彩女は彼の様子を見、深く目を瞑った。
「…わたくしは、あの方にあれだけ求められたというのに、総てを開き切ってはおりませんでした。今では、とても後悔しております。亡くしたあと、後悔しても遅いのですが…」
尚容ははっとした。彩女が、話すのを躊躇っていたことを言う決心をした!
「毬野の…父上?」
彩女は頷く。
「愛することと、信じることは別なのです。わたくしが愛した方は、わたくしとは住む世界が違う方でした。
わたくしの愛は、始め、独り善がりなものだったのです。あの方が、真摯にわたくしを愛してくださっていた事を識ったのは、あの方の命が危うくなる寸前だったのです」
彩女の語り方では、彼女の相手…毬野の父親は彼女よりも身分が上ということになる。
「毬野の父上は…貴人だったのですか?」
尚容の問いに、彩女は微かに微笑んだ。夕暮時の神秘的なほほ笑みが甦る。
「間違いだと思って背を向けたことが、逆に間違いだということがあるのです。
あなた方が間違いを起こす前に、せめて、わたくしの物語を聞いてください。きっと…少しは為になると思いますから…」
彩女は沁々と遠い眼差しになった。
「わたくしが有間皇子さまに初めてお会いしたのは、四歳の頃…。皇子さまの運命も、自らの運命さえも知らない頑是ない頃でしたわ…」
縷々として呟く彩女の昔語りに、尚容は耳を澄ました。