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急いで帰ってきた伊清は、小さな袋を携えてきた。袋をあけると、むわっと、鼻をつく異臭が漂った。
「なにっ、これ……!」
大袈裟に、薔子は鼻を袖で覆った。
「ほ、本当に、これを混ぜてあの沈香を造ったの……?」
美子も不審げに聞く。
「間違いございません」
伊清は断言する。
佐穂は秘薬を受け取ると、姉妹に見せた。薔子は嫌そうな顔で、払い除ける。
「佐穂。誰か、信用できる侍女がいれば呼んできて。その人と一緒に梅香を造ってちょうだい」
薔子に言われると、佐穂は承知して下がっていった。
あと、伊清にも命令する。
「伊清、これから佐穂と侍女達に秘薬入りの梅香を造らせるから、出来上がったらそれを持って帰って一の宮さまの枕元に置いてほしいの。
ねえさまの方が先に香を焚くので、支度ができたら使いに文を持たせるわ。それが合図だから、香を焼べて」
「で、でも、姫さま……」
伊清は逡巡する。
「おまえは、一の宮さまが一番大事よね? 一の宮さまの幸せを一番に考えて、ねえさままで巻き込んだのよね」
「は、はい……」
さすがに後ろめたく、伊清は小さくなった。
「これは、一の宮さまのお為なのよ。ねえさまが、一の宮さまの処に行くから。ねえさまのこと、頼むからね。
絶対に、わたくしの名誉にかけて、一の宮さまをひどい目に遭わせないから」
薔子のほうも、何かを決意したらしい。美子はそれを敏感に感じ取った。
「薔子、あなた……」
照れくさそうに、薔子は小鼻を掻く。
「ねえさま、わたくしは、権勢家の娘として生きるから。ねえさまは、違う生き方を見つけて」
そう言って、さっぱりと笑った。
すべては、薔子の思惑どおり運んだ。
三日後、出来上がった梅香を伊清に持ち帰らせ、もうひとつを佐穂に渡した。美子は佐穂と視線を交わし、頷いた。
夜の闇が立ちこめ、何も知らない侍女達は美子の寝所を整えた。
侍女達が下がると、いったん寝間着を纏っていたのを、単に着替え、袴を履き、新調の袿を三枚重ねて纏った。佐穂に念入りに髪を梳らせて一の宮に逢う支度をする。
「もうそろそろ、沈香の薫りは消えたかしら」
「そうですわね……」
鼻孔を動かし、佐穂は答える。
「では、そろそろ……」
佐穂は立ち上がると、沈香で使ったものと違う香炉を持ち出し、梅香を焼べた。ふわり、と梅の香があたりを舞う。
「佐穂……わたくし、一の宮さまにお返事を差し上げようと思っていたの。そのときに、この梅香を焚きしめようと……。
でも、その前に父さまに見つかってしまって……。すこし、残念だったの」
「姫さま……」
微笑み、美子は御帳台に横たわる。柔らかな薫りに包まれ、眠りが押し寄せる。
「姫さま、使いが出立したようですわ」
まどろみながら、美子は頷く。
――いま、参ります……。
美子は、遠く離れた一の宮に語りかけた。
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――永い夢を見ていたようだ……。
一の宮は久方ぶりに目覚め、身を起こす。
夢の内容は、ひどく生々しかった。彼が愛して止まない左大臣の二の姫・美子に忍んでいき、想いを遂げたのだ。
最初、姫は嫌がっていたが、応えてくれるようになった。どう思い出しても、淫らで、幸せな夢だった。自分の手により姫を女として目覚めさせ、悦楽をともに味わう――叶うことのない、せつない夢だった。
ふと、一の宮は聞いたことのない香の薫りがあることに気づく。
「梅香……?」
すぐに察しはついた。が、自分が持っている香ではない。
梅香は、どちらかというと女が好むものだ。不可思議に思い、一の宮は立ち上がる。
「伊清、伊清――」
呼ぶが、反応はない。
「居ないのか……? どこにいったのだ」
仕方なしに御帳台から出ると、彼は水指しを取りにいった。そのとき、やっと伊清が顔を見せた。
「伊清、どこにいっていたのだ?」
咎めて、一の宮は目を見張る。
これは、夢の続きか。
居るはずがない、こんなところに、美子姫が……。
そう思い、一の宮は目を擦る。が、まさしく、姫は目の前に居た。
姫は、必死になにかを言おうとしている。が、声にならないようだ。
「よ、美子姫……? どうして、こちらに?」
一の宮がそう言うと、姫ははらはらと涙を零した。
どうしたものかと彼が立ちすくんでいると、姫が頭を振りながら抱きついてきた。咄嗟に、彼は姫の肩を掴む。
はっと、姫のうしろを見ると、伊清が頭を垂れていた。
「伊清、これは、どういうことだ? どうして、姫がここにおられる。姫は入内前の大事な御身ではないか」
一の宮は姫を離す。姫は蒼白になり、両の手で面を覆った。
――どうしたというのだ……。これでは、わたしが姫を泣かせたようではないか。
彼は居心地が悪く、姫から目を反らす。そこに、伊清が声を上げた。
「あの、殿が夢だと思われている姫ぎみとの契り、あれは夢ではないのです」
「なんだと!?」
唐突なことに、一の宮は声を荒げる。びくり、と姫は肩を峙たせた。
――ああ、やはり、一の宮さまにとって、わたくしとの契りは夢でしかなかったのか……。
美子のなかで、希望が大きく崩れていく。
伊清は一の宮にあの夢の仕組み、方士の秘薬のこと、そして、美子がいる理由を話した。
一の宮は嘘だ、とまず呟き、申し訳なさそうに美子に目を充てた。
「あれが、わたしだけの夢ならばどんなによかったか……。姫に、あんな浅ましい思いをさせたなどと……」
一の宮は、罪悪感に目を臥せる。
「違いますっ!」
美子はそう叫んだ。決して、浅ましい思いなどはしていない、と。
が、声は届かない。なんども叫ぶが、一の宮に声は届かなかった。
――どうして……!?
愕然として、気がつく。生き霊の一の宮が、何かを告げようとして、声にならなかったことを……。
いまの美子も生き霊であり、同じ条件で声がでないらしい。
――そんな……。
美子は両手で口を覆った。涙が、溢れて止まらない。
一の宮も、思い出していた。夢の中の自分が、どんなに姫に想いを告げようと届かなかったことを。
が、こころから伝えたいと思ったことだけ、きっちりと伝わったことも、一の宮はまた想起していた。
「姫……なにを、言おうとなさっているのです?」
ふるふると、美子は首を振る。涙が、空に散る。
一の宮は溜め息を吐き、せつなく、傷ついた面持ちで告げた。
「本当は……わたしもどうしたらよいのか、解らないのです。
わたしは、あれを夢だと思っていた。現実なら、きったあなたを抱きはしなかっただろう。
だが、本心から、あなたを求めて抱いた。それは、紛れもない事実です。
いまでも、目の前のあなたを抱き締めたくてたまらない。
が、それはしてはいけない。あなたは東宮に入内するのだから……」
「……や」
美子は、いや、と言おうとした。すると、語尾だけが途切れて、聞こえた。
本当に、嫌だった。入内などしたくない。
ずっと、この人と一緒に生きたい。
「姫……!?」
思わず、一の宮は美子の腕を掴む。美子の身体から薫ってくる梅香が、段々と薄まってきているのに気がついた。
「ひ、姫さま! もう残された時間が……!」
伊清が、必死の相で美子に伝える。
――いや、これだけのために、ここに来たわけじゃない。まだ、伝えられていない。伝え……たい!
震える口元で、美子は最後に、たったひとつの伝えたいことを、こころから口にする。
「あい…し、て、いま…す……。愛して、います……」
やっとのことで、声が、届いた。本当に、この言葉だけは伝えたかったから。
「わたくし、あなたの声を、あなたを、知りたい……。
あなたと、生きたい……」
梅香が、みるみる薄れ、美子の姿も掠れてきた。
「姫ッ!」
一の宮が、名残りだけ残る美子の陰を抱き締める。本当の彼の暖かさを知り、美子はたまらなくなった。
「さようならなんて……いわないで……」
身体が消えかける寸前、美子はそれだけを言って、消えた。
梅香の残り香だけが狂おしく残る。一の宮は梅の香を閉じ込めようと、手の平を握りしめた。
「殿ッ、きっと、美子姫は待っておられますッ!
姫が、ここまでなされたのです! 男のあなたが、弱気になってどうなさるのですッ!
ここで別れてしまえば、二度と姫を腕に抱くことが叶わなくなりますよッ!」
伊清が激しく言い募る。一の宮は額に流れる汗を拭うことも出来なかった。
――姫……姫!
「もう……どうなっても、よい!」
勢いよく立ち上がると、一の宮は伊清を蹴倒さんばかりの形相で寝所から飛び出した。
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美子の御帳台の香も、同じ頃切れた。不安げに佐穂が美子と香炉を見比べる。
「ああ、うまくいかれたのかしら……」
手を組み合わせ、佐穂は呟く。
そのとき、かすかに美子の指が動いた。
「姫さまっ!?」
美子の目覚めが、近い。はらはらと佐穂は空を見上げる。
すると、大きな足音が廊下を踏んで近づいてくる。はっと、佐穂は顔を上げた。
蘇芳の狩衣を翻し、一の宮が姿を現わしたのだ。
一の宮は、はじめ佐穂に目を止めたが、部屋の奥にある御帳台を目に捕らえ、几帳を脇に避けて寝台の前まで進みでた。
「姫……」
美子の遊魂はいまだ現し身に戻っていない。
あどけない面ざしで眠っている美子の手をとると、一の宮は厳かにその手に口づけた。ぴくり、と美子の肩が揺れる。
力のない美子の身体を抱き上げると、一の宮は部屋の入り口で座り込んでいる佐穂を見た。
「伊清がそなたの車も用意してきている。それに乗り込みなさい」
言いおいて、長居は無用と部屋をあとにする。佐穂がそれに続いた。
まだ、誰も侵入者に気づいていない。護衛の者さえも。いまのうちに殿舎から出なければならない。
美子を抱えた一の宮は、階から庭に下りた。連なった対の屋の前を横切り、いま来た築地塀の隙間に向かう。
と、ある部屋の前で声を掛けられた。
一の宮が弾かれたように振り返ると、なんの衝立てもなしに女人が立っていた。
「一の宮さまでございますか?」
若い女の声だ。面を扇で隠している。
「そう言うそなたは、たれか?」
反対に問う。
「美子の妹でございます」
「すると、三の姫君で?」
薔子が頷いた。
あろうことか、三の姫に見つかった……一の宮は身構えた。
が、薔子は騒ごうとはしない。怪訝な眼差しで一の宮は見る。
「どうか、姉が起きたら伝えて下さいませんか。
あとのことは、わたくしに任せて、と。わたくしが、父上の娘として責務を果たします、と」
「姫君……」
薔子の決意に、彼は足を止めた。が、薔子に促される。
「さ、早く。見つかってしまいます。お気をつけて」
そう言い残し、薔子は殿舎の中に入った。未来の后に無言で頭を下げ、一の宮は屋敷から無事抜けおおせた。
からから……と車輪が回る音がする。
美子は優しい腕に抱かれたまま、朧にその音を聞いた。鼻孔に、一番聞きたかった薫り――沈香が忍び込んでくる。
美子はゆっくり目を開けた。
「……一の宮さま……」
一の宮に抱き締められ、美子は眠っていた。
狭くて薄暗い空間と車輪の音、身体に感じる揺れ……美子は屋敷の外にいることを悟った。
美子と目が合い、一の宮は微笑んだ。
「そなたを、迎えにきた」
身体を起こし、美子は一の宮と見つめ合う。
「本当に……? もう、離れなくてよいのですね?」
美子の目に涙が浮かんでくる。哀しみの涙ではない、喜びの涙が。
感極まって、美子は一の宮に抱きついた。
「嬉しい……! 本当に、本当に、ずっと、あなたと一緒にいられるのですね? あなたのお声を、聞けるのですね?」
「ああ、いくらでも……! もう、わたしも何も怖れはしない。なにも、諦めはしない!」
「ええ……!」
ふたりはい抱き合い、熱く接吻を交わした。
夢でも何でもない、確かな感触、温もりがあった。堅く抱き合い、何度も口づけを交わす……誰も阻むものはなかった。
たしかに、ふたりは幸せの絶頂にいた。
一の宮の邸宅に到着すると、主人の突然の行動に驚き起きた仕人達がさまざまな表情をして出迎えた。一の宮が美子を横抱きにして入ってくると、みな、手をつき頭を垂れた。その面のなかで、この女人は誰だろう、という問いが一往に浮かんでいる。美子は吹き出したいのを堪えた。
邸宅のなかは、ほのかに沈香が薫っていた。一の宮の寝殿はとくに濃く、まるで沈香に包み込まれているように感じられる。
「ああ……この薫りだわ。夜、訪れる人に抱かれるたび、聞いていた香は」
恍惚として、美子は呟く。その言葉を一の宮の唇が吸い取った。ふたりに気兼ねしてか、召し使いたちはみな引き下がっている。ひっそりと音もなく、まさしくふたりきりだった。
男のもどかしげな手が女の袿を脱がせ、袴の帯を解く。女も男の狩衣の紐を解く。互いの脱ぎ捨てられた衣から香の薫りが立ち上がり、混ざりあう。
無造作に脱ぎ捨てられた着物のうえで、ふたりは交わった。
確かに初めての交わりではなかった。その手で実際に触れてはいないのに、一の宮の手は美子の肌の感触を覚えていた。
が、実のある肉体同士を交し合うのは、これが最初。初めての夜を、ふたりは噛み締めあった。
果てたあと、疲れて横たわる一の宮に美子は寄り添い、言った。
「でも…本当に、よかった。相手が、あなたで……」
夢が叶った感慨が、美子の言葉から溢れていた。
一の宮は愛情を籠めて囁く。
「後悔は、しないか。わたしは、不安定な立場にいる。これからそなたに苦労を背負わせるかもしれぬ。そなたの父上とも……」
美子は頭を振る。
「いいのです。わたくしが自分で選んだのだから」
微笑む美子に、一の宮は情熱的に口づけた。
後日、左大臣邸から大きな荷物の数々と、一通の文が届けられた。荷物の包みを開いてみると、真新しい調度類と、美子と一の宮の季節の衣装が入っていた。
文は、妹・薔子からだった。
『ねえさまに嬉しいお文を差し上げます。
まず、わたくしはねえさまの代わりに、東宮さまに入内することになりました。
主上と東宮さまのお怒りは少なく、わたくしが入内すればお咎めはなし、とのことです。
それと、この調度類は、わたくしと父さまとで選んだものです。
父さまは最初は怒っていましたが、最後には許す、と言って下さいました。
ねえさまとの関係も、今までどおりです。ねえさまが一の宮さまに嫁入りしたという形を取るそうです。よかったですね。
わたくしは、東宮さまに入内することになったねえさまが、本当はうらやましかったのです。でも、いまは違う意味でねえさまをうらやましく思います。
わたくしも東宮さまとうまくいったら、と願うばかりです』
文を受け取った数日後、晴れてふたりは露見(ところあらわし)をし、世間に公表した。同時に、一の宮は皇位継承権を捨て、臣籍に下ることになる。これで、左大臣とのしこりは軽減した。
その二月後、無事に薔子は東宮に入内し、妃として実家や一の宮を後見した。
その後、一の宮と美子が幸せになったのは、いうまでもない。
平安の時代に現れた玄妙たる唐土の秘薬は、様々な謎を残しながら年月の流れの中に消えた。
後代、魂を呼ぶ香を知るものは、誰もいない。
<完>
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