トップへ
小説のページへ
(2)



 佐穂の話では、恋文の主は一の宮・朝道親王だという。
 朝道親王は現天皇の第一の親王で、今年二十三歳になる。
 天皇が位についた頃、ある更衣を寵愛し一の宮を生ませた。更衣には頼りになる親族・後ろ楯がなく、嫉妬と怨嗟に塗れた後宮に神経が耐えられず早くに亡くなった。
 したがって、いまの一の宮も廃れ親王(すたれみこ)同然の立場にある。
 それからのち、権勢家の左大臣の一の姫・透子が入内して東宮を生した。一の宮は東宮の異母兄である。
 以前から、一の宮は左大臣の二の姫・美子が美しいと噂を聞き、懸想していたという。
 そこで、主人を思った家人・伊清(これきよ)が美子から一番近い侍女・佐穂に近づいた。若く逞しい伊清は二十歳の中ごろに差しかかった佐穂を容易く口説き落とした。
 こうして伊清と佐穂の関係が始まったのだが、佐穂にとって、それは新たな苦しみの始まりだった。

「伊清は、わたくしと関係を結びながらも、一の宮さまと姫さまの仲立ちをしてほしいと懇願してきたのですわ。それで、つい、わたくしも文を預かって……」
「おまえは、伊清にうまく利用されたわけね……」

 しおしおと、佐穂は頭を垂れる。
 恋をしている者の心は、同じく恋する者である美子がよく解る。これ以上佐穂を苛めるのは酷なような気がした。

「はじめのうちは、ことがうまく運んで姫さまにお文をお見せいたしましたでしょう。
 でも、左大臣さまに見つかって……。幸い、わたくしが仲立ちしたことは明らかになりませんでしたけれど」
「そうよ……それで、終わるはずだったのでしょう?」
「ええ……ですが、一の宮さまのお嘆きが思いのほかで……。食事も咽に通らないほどらしく……。
 実は、姫さまには内緒にしていたのですけれど、一度、夜に忍んでこられたことがあるのですよ。そのとき、わたくしが手引きして……。
 はじめて一の宮さまにお会いしたのですけれど、それはそれは誠実そうな方で、この方ならばとわたくしは思いました」

 さらさらと佐穂は流すが、美子は聞き捨てならないことを聞いたような気がした。

「て、手引きをしたですって? 夜に、忍んでこられたですって!?」

 聞き咎めるが、佐穂はあっさりと告白した。

「姫さまの入内の日取りが決まってからですわ。
 一の宮さまは一期の思い出にと、一度でもいいから姫さまを垣間見たいとおっしゃられたのです。
 そう、賀茂の祭り(葵祭)の夜、侍女達が総じて出かけていった日があったでしょう。その日しか機会はないと思ってわたくしがご案内申し上げたのです。決して間違いを起こさないとお約束してくださったので」

 ため息交じりな佐穂の言葉を、美子は黙って聞いている。

「結局、逆効果だったようですのね。
 忘れようと、たった一度の思い出にと忍んでいらしたのに、かえって物思いがひどくなられたようなのです」

 佐穂は、はっきりとそのときの情景を思い浮かべ美子に語った。
 満月が美しい夜。月光に照らされて座っていた美子を見て、一の宮は涙をひと雫流し呟いた。

『ああ、美しい……』

 佐穂はその夜のことを昨日のように憶えている。
 涙を拭うのも忘れ、一の宮は倦むことなく美子だけを熱い瞳で見つめ続ける。一の宮に見られていることを知らず、美子は物憂げに脇息に寄りかかっていた。薄い几帳が風に揺れ、相間にはっきりと美子の姿を浮かび上がらせる。
 一の宮の腕が震えていたことに気づき、危険を感じて佐穂は促した。

『さあ、もうよろしいでしょう。みなが帰ってまいります』

 彼も、無理強いしようとはしなかった。がくり、と頷いてみずから踵を返した。
 佐穂は、このとき一の宮ならば美子を与えても、と思った。

「あれから幾月か経ちまして、一の宮さまはとうとう床にお付きになったそうです。
 それも、すべて姫さまを想ってのことなのです。
 そこで、見兼ねた伊清が、市で怪しげな薬を見つけてきたのです」
「怪しげな薬……?」

 固唾の呑んで美子は聞き入る。

「唐土(もろこし)に伝わる方士の秘薬だそうですわ。
 それを、伊清は一の宮さまがお好みの沈香に交ぜ、枕元に焚いたそうです。
 なんでも、その薬はひとの魂を彼方に飛ばす作用があるそうで、薬を混ぜられた同じ種類の香が焚かれた所に魂は辿っていくとか……。
 遊魂にとって、そこで起こった現実は夢でしかなく、相手にとっても実際に起こったことではないので、与える打撃もそれほど大きくはないと……。
 一の宮さまをせめてお慰めするための、伊清の心なのですわ」

 聞いて、美子は伊清を恨めしく思った。
 一の宮にとって、美子との間でなした交わりは夢でしかなく、美子にとっても打撃は少ない、など……。
 美子は怒りの眼差しで佐穂に詰問した。

「どうして、そんな馬鹿な企みに手を貸したの! 一の宮さまの慰めですって!?
 一の宮さまにとって、わたくしとの交わりは夢でしかないのに! わたくしにとっても、打撃が少ないとは言い難いというのに!
 そうして、一の宮さまは眠り続け、わたくしは生す術もなく入内してしまうのね!」

 これでは、空しすぎる。
 一の宮の想いも、自分の恋も、夢で曖昧にされいつしか消えてしまうだろう。それが、一の宮にとって、自分にとって救いなのか?

「……このままには、しないわ……」

 ぽつり、と美子は低く呟いた。そのときである。

「ねえさま! こんなところに閉じこもられて、なにをなさっているの?」

 立て巡らされていた几帳をどけながら、薔子が割ってはいってきた。どかり、と美子の隣に座り込む。
 咄嗟に佐穂は脇息を暢達してきた。

「ありがと」

 佐穂にそう言って、薔子は姉に向き直る。

「困るわよ。わたくし、父さまにねえさまのお相手をしろと命じられてるの。近頃、ねえさまのお心が不安定だって。
 近く東宮さまに入内する方がこれでは駄目よ」
「……余計なお世話よ」

 機嫌の悪い美子は独り言を言う。ふふん、と薔子は笑った。

「ねえさまの情緒不安定の原因、もしかして在五中将だったりして」
「冗談を言うのはいいかげんにして」

 美子は取り合わない。

「あ、正確には、在五中将に立場の近い方、だったりして」

 妹の発言に、美子は瞠目した。

「先程のわたくしと佐穂の会話、聞いていたの……!?」
「まあね」

 ぺろり、と薔子は舌を出した。

「なんだか夢みたいな話ね。あ、一の宮さまにとっては夢なのか」
「……わたくしにとっては、夢ではないわ」
「あ、そうね。でも、入内してしまえば立ち消えでしょ」

 勝ち気でつぶらな瞳が美子を覗き込んでいる。美子は顔を背けた。

「……あなたは、どうしてわたくしが東宮さまに入内することにこだわるの。父さまほど真面目な理由じゃないでしょう」

 むっとして、薔子が脇息から身体を起こす。

「わたくしは、ただ、ねえさまに目を覚ましてほしいだけよ。
 いつまでも子供じみた夢にしがみ付いているのは愚かだって、はやく気づいてほしいだけよ」
「子供じみた夢じゃないわ。現に、わたくしと一の宮さまは……」
「それが、夢だと言うのよ。
 あの在五中将の例をみてみなさいよ。高子姫と駆け落ちまでしているのに、結局は結ばれなかったわ。
 現実は、そんなものよ」

 うっと、美子は詰まった。一の宮と自分が現実に結ばれるためには、在原業平や高子姫のように世間から背を向けなければならないのだ。はかりしれない勇気がいる。美子は唾を飲み込んだ。

「高子姫だって、連れ戻されておかげで貴い地位にまで昇れたんでしょ。后になり、帝の母ぎみにもなれたのだから。
 ねえさまも、このまま黙って東宮さまに入内したほうが賢いわよ」
「じゃあ、あなたは恋をしたいとは思わないの?」

 今度は、薔子が詰まる。

「そ、それは、一度ぐらいは……」

 ここが正念場とばかり、美子は念を押す。

「薔子、入内してしまえばね、他の殿方との恋は許されないのよ。それで、本当に幸せ?
 女として生まれて、本当に幸せなの?」
「で、でも……無理よ、わたくしたち、権謀家の娘に恋など許されないわ。優れた家に生まれた、それが、わたくしたちの誇りではないの!?」
「わたくしは、そんなこと一度も思ったことないわ。わたくしたちは、親兄弟にいいように利用される人形なの?
 愛してもいない方に嫁いで、他の女人方と妍を競わなくてはいけないのよ。それが、本当に望んでいること?」

 段々と薔子の勢いが弱くなってくる。

「わたくしは……この家に相応しい生き方をしたいだけよ。たしかに、恋に憧れる気持ちも解るわ……でも、女として最高峰に上り詰めるのもいいかな、と……」
「ならば、あなたが入内しなさい」

 はっきりと告げられ、薔子は目を見開く。

「……ねえさま?」
「父さまにとっては、東宮さまに入内するのがわたくしだろうがあなただろうが、構わないはずよ。
 要は、父さまの娘が后になって、次の主上を生めばいいのだもの。だから、望むのなら、あなたが后になって。
 わたくしは、父さまが一の宮さまを危険視しないように運びたいの。
 父さまが一の宮さまを嫌うのは、一の宮さまが皇位を継ぐ資格のある親王さまだからよ。一の宮さまが皇位を放棄して、父さまの傘下にはいれば、すむことなの。一の宮さまにとっても、そのほうが生きやすいはず」

 一の宮が浮かべていたあの哀しい微笑みは、世をはかなんでのものなのだ。後見もなく、孤独を味わって今まで生きてきたのだ。生きることに絶望し、心から愛していた姫も、母の身分が低いことから年下の、成人していない弟に譲らなければいけないのだ。
 だとすれば、一の宮にとって考えようによっては、自分との婚姻は不利ではないのではないのか。権力家の父と組めば、きっと甲斐のある生き方ができる。美子は両の手を強く握りしめた。

「ね、ねえさま……そんなこと、許されるの? 父さまに逆らうことなどできるの?」
「わたくしは、諦めないわ。諦めるなんて、哀しすぎるわ」

 薔子は姉の変わりようを茫然と見つめていた。立ち上がり侍女達のもとにいく美子の後ろ姿は、雄々しい。いままでの姉には見られない姿だ。

「ねえさまって、そんなに強かったかしら……」

 呟いて、肩を竦めた。


このページ先頭へ



 佐穂が香炉に沈香を焼べるのを、美子は不思議そうに眺めた。

「本当にその香が、一の宮さまの魂を導いているの?」

 待ちわびた夜がやっと訪れたので、美子はそわそわしている。
 恋しい人の正体が判ったので、また昨夜とは一段違った心持ちだった。一刻もはやく、美子は一の宮に逢いたい。
 にしても、美子は今ひとつこの沈香の効果を信じられないでいた。すこし怪しい薫りが混じっているだけで、他の香と別物には見えない。

「ええ、伊清はそう申しておりましたわ。
 それに、実際、一の宮さまは姫さまの寝所に忍んでいらしたのでしょう?」

 佐穂に笑顔でそう言われて、美子は顔から首筋まで紅潮する。

「わたくしも、本当に一の宮さまがいらっしゃるかどうか疑問でしたわ。伊清にも本当にいらっしゃるかどうか確かめてくれと言われましたし。
 そうしたら、二日前に忍んでいらっしゃったでしょう」

 ちら、といたずらっぽく佐穂は美子を見る。夜目にも赤い美子の面が面白く、佐穂は吹き出した。
 美子は汗を吹き出しながら咎める。

「佐穂、悪趣味なことを言うのね!」
「申し訳ありませんわ。でも、わたくしは確認したあとすぐに下がりましたわよ。お邪魔になってはいけないからと。
 わたくしは心底、一の宮さまがお労しくてならないのです。あれほど姫さまに恋い焦がれておられるのに……。
 わたくしは、姫さまには一の宮さまの方がお似合いだと思いますわ」
「それは、わたくしが一の宮さまに恋しているからそう言ってくれるの?」

 虚をつかれて、佐穂は美子を見る。くすり、と美子は笑った。

「わたくしのことなら何でも解るおまえだもの。きっと、気づいてると思ったのよ」

 ふふ、と佐穂も微笑む。

「わたくしは、確かに一の宮さまがお労しいと感じましたけれど、ことがうまくいくかどうかは、姫さまのお心次第だと考えておりました。
 だから、一の宮さまが忍んでこられるまで、姫さまにこの香のことを何もお話しなかったのです。
 お話しすれば、姫さまに恐怖を与えてしまったでしょう」

 確かに、先にそのことを聞いていれば、一の宮を受け入れなかっただろうと美子も思う。

「ですから、姫さまが一の宮さまに恋されたことは、わたくしにとって大誤算でしたのよ。
 わたくしも、このまま東宮さまに入内されたほうが、姫さまにとっては一の宮さまとの恋を貫くより危険は少ないと思いますもの。
 現状ならば、一の宮さまとの夜は、夢のままです。
 いまなら危険な橋を渡らずにすみますわよ」
「佐穂……」

 侍女の言葉に、美子は項垂れる。佐穂は細く息を吐いた。

「それでも姫さまが、本当に一の宮さまをお慕いしていらっしゃるのなら、わたくしは味方いたしますわ。
 姫さまも、お可哀想な一の宮さまもそれで救われるのなら」

 こくり、と美子は頷く。

「では、もうすぐ一の宮さまが参られますわね。わたくしは下がりますわ」

 手をついて頭を下げると、佐穂は立ち上がった。御簾を引き上げ、ふと、振り返る。

「どうか、頑張って下さいませ」

 佐穂はにっこりとそう言い、御簾の陰に消えていった。
 主人思いの侍女にありがたく思い、美子は頬を袖で覆った。
 御帳台のなかで、まんじりともせずに美子は一の宮を待つ。沈香が濃く漂ってきて、美子は彼が来たことを悟った。
 美子が入内すると知ったとき、一の宮は何を思っただろう……。
 月明かりの中、皎々と艶やかな美子をかいま見、一の宮は動揺したのだろうか。美子は、あのとき涙を流した一の宮の心のうちを思い、せつなく苦しくなった。
 はやく恋する人の姿を見たくて、美子は御帳台から出た。
 泣きそうな顔をした美子に、沈香の男……一の宮は瞠目していた。彼の様子を気にせず、美子は飛び込んでいく。

「一の宮さま……っ!」

 思いにもよらず、美子から自分の名を聞き、一の宮は身体を強張らせた。彼の変化に、美子は面をあげる。
 いままでよりも一層悲愴に、一の宮の顔が歪んでいた。震える手を美子から離し、一の宮は片手で顔を覆う。

「一の宮さま……?」

 どうしたのかと、美子は問いかける。堅く目を瞑り、一の宮は美子を見ようとしなかった。

「どうかなさったの……わたくしが、あなたのお名を知ってしまったから……?
 どうして、なぜ、知ってはならないのですか!?」

 一の宮の拒絶に、美子は錯乱して取り縋る。が、美子の掴む狩衣が、次第に透けていく。驚愕して、美子は一の宮を凝視する。
 彼は、涙を流していた。何かをいいたげに口を数度開け、言葉にならないのに気づき無念そうに噤んだ。そうするうちにも、彼の身体は闇に溶け込んでいく。

「いや、行かないで……っ!」

 美子は引き止めようと手を差し延ばす。ほとんど消えかけた口元が、かすかに開き、掻き消えた。

「さようなら……」

 今度は、はっきりとそう聞こえた。
 さようなら……。
 最後にそれだけ言い残して、一の宮の生き霊は消えた。泣いている美子を残して。

「いやあああぁぁぁ――ッ!」

 はち切れんばかりの声で、美子が叫ぶ。
 隣の間に控えていた佐穂が驚いて駆け付けてきた。

「姫さまっ!? ……一の宮さまは!?」

 問いかける佐穂に構わず、美子は突っ伏して泣きじゃくった。


このページ先頭へ



「……それで、ずっとねえさまは床に伏してるの?」

 朝、御帳台に薬湯を運ぶ佐穂に、薔子が尋ねる。面を暗くして、佐穂は頷いた。

「本気……なのね。ねえさま、一の宮さまのこと……。
 それにしても、どうして一の宮さまはねえさまがお名を知っただけで消えてしまわれたの?」

 判然とせず、薔子は顎に手を当てる。

「多分……一の宮さまは、ご自分と姫さまでは結ばれることは適わないと思っていらっしゃるのでしょうね。
 一度、左大臣さまに阻まれてしまわれたから」
「一応、一の宮さまも皇位を継ぐ資格があるお方だからでしょうね。東宮さまを擁する父さまには、一の宮さまは煙たい存在なのよ」

 薔子の言に、佐穂は涙ぐむ。薔子は溜め息をついた。

「まったく……一の宮さまも弱腰ね……」

 薔子がそう言う。と、

「一の宮さまのことを悪く言わないで!」

 御帳台のなかの美子が聞きつけて妹を咎めた。
 几帳と壁代を幾重にも隔てたところにいるというのに、薔子と佐穂の会話を聞きつけたのだ。
 やぶ蛇だと、薔子は首を竦める。仕方がないと、彼女は佐穂とともに御帳台の前に進んだ。
 一晩泣き続けて瞼を腫らした美子が、恨めしげに薔子を睨んでいる。大きく嘆息し、薔子は姉の身体を起こした。佐穂が薬湯を勧めると、美子は少しずつ呑んだ。
 思いきって、佐穂は美子に切り出した。

「あの……とりあえず伊清を呼んだのですけれど、お会いになります?」

 その言葉に、美子の顔色が変わった。

「はやく、座を造ってちょうだい!」

 姉の意を汲み、薔子が侍女達に指図する。美子は妹の変わり身に唖然とする。

「恋煩いで寝込んでいるなんて、ねえさまも一の宮さまも情けないじゃない。ふたりとも、元気になる方法を考えたほうがはやいでしょ?」

 妹の性格らしく、少しく皮肉が入っているが、妹が手を貸してくれることに気づき、美子は表情を明るくした。



 御簾と几帳を立て廻し、姫ぎみ達の存在を消して座が造られた。
 佐穂を魅了しただけあって、伊清はなかなか魅力的な男だった。少しばかり幼顔で、濃い眉が聞かぬ気そうだ。一の宮には劣るが、男振りの見事な青年である。美子と薔子はなるほど、と佐穂を見やる。佐穂は恥ずかしそうにしていた。

「……それで、いま、一の宮さまは?」

 我慢できず、美子は伊清に詰問した。

「いまは眠っておられます。が、もうすぐ薬が切れそうで、もう姫さまのもとには……」
「来られなくなられると、いうこと……?」

 茫然と、美子は呟く。みるみる顔色が暗くなっていく。
 見兼ねて、薔子が問いかけた。

「もうすぐ、ということはまだ薬は切れていないのね。まだ、すこしはあるのね」
「はい、それは……」
「だったら……」

 明るく言う薔子を、美子が遮る。

「でも、もうすぐなくなるのよ。切れてしまえば一の宮さまは来られなくなるわ」

 嫋々と言い、美子は涙ぐんだ。薔子は姉の手をぎゅっと握る。

「すぐに、ここにその薬を持ってきて!」
「は、はい……?」
「はやくッ!」

 薔子にどやしつけられ、伊清は腰を浮かせた。
 美子も妹が何を企んでいるのか合点がいかず、茫然としている。

「薔子……?」

 まだ何か足らず、薔子は佐穂を手招いた。

「ねえさまの好みの香って、たしか梅香(ばいこう)よね」
「ええ、そうよ」

 美子は頷く。

「佐穂、梅香をふたつ作れるぐらい持ってきて。
 それで、その、方士の秘薬とかいうのを、梅香に混ぜるのよ。
 出来上がったものを、ひとつはねえさまが寝る前に焚いて、もうひとつをねえさまの支度ができてから一の宮さまの枕元に焚くのよ。
 そうね……目安は、一の宮さまの沈香の薫りがふた方、完全になくなったころ」
「そ……それは、三の姫さまっ」

 興奮して、佐穂が思わず立ち上がる。にこり、と薔子が笑った。

「そう。そうすれば、ねえさまも一の宮さまのところに行けるわけでしょ。あとは、ねえさまが一の宮さまを説得して」
「説得……」
「そうよ、それぐらい、できるでしょ? わたくしに、あんな大きなことを言ったぐらいだから」

 挑戦的に、薔子は美子に語りかけた。
 東宮に入内したほうがいいと言っていた彼女が、いまはこころから姉のしあわせを願っている。美子は嬉しかった。



(4)
このページ先頭へ