麁乱荒神(1)へ



(2)




 暗い眠りのなか、わたくしは天川郷の――若かりし頃の空海さま……如空と我が女祖神・弁才天女の夢を見る。




 如空は二年ほどの間、天川郷・弥山上の弁才天女の社に留まった。社にて日々を勤行に過ごす彼を、天女はつぶさに見ていた。
 ある夜、魘されている如空を、案じた天女は揺り起こした。
 飛び起きた彼は、目の前に彼女がいるのを認め、額に流れる汗を拭う。

「弁才天……」
『どうしました、魘されていましたよ』

 天女の眉を潜めた面に、如空はため息を吐く。
 言いにくそうにしている彼を、天女はせっつく。

『何か苦しいことがあるのですね。言葉として吐き出せば、楽になることもあるでしょう。申してみなさい』

 ちらり、と天女を見て、如空は口篭る。
 が、やがて観念したのか、歎息とともに口を開いた。

「同じ仏弟子や女子にならば話せぬことだが、あなたは天女だ。只人には見えぬだろうから、いい。
 どんなに修行しても……煩悩を我が身から切り離すことが、出来ぬ。法体となっても、女子の肌や身体を見れば、雄が疼く」

 素直な、告白である。
 天女は彼の内腑から搾り出すような欲求を、耳に受け止めた。
 完全に目が冴えてしまった如空は、消えていた焚き火に点火し、赤々と燃やす。
 暫時考え込んでいた天女であるが、如空の真摯な目に、唇を開いた。

『――わたくしが人であったとき、性の交わりは聖なるものだったわ。命を生み出すもの、自身の存在の芯であるものとして、性は崇め奉られていたわ。
 男根と女根は男という性と女という性の身実(むざね)として、時として呪力を持ち、魔性を祓い神性を引き寄せるものであったのよ。
 それゆえに、男子と女子は違う性のもつ身実の強い吸引力に逆らえず、違うものを知ろうとする。
 そしてそれぞれのなかに、自身と同じものと違うものを知るのよ。そうやって、次代の生命を生み出すの』

 天女の独白を聞いていた如空は、吐き出すように言い捨てる。

「女子の性が強く男子の性を引き寄せるがゆえに、それが雑念となり、修行の妨げになる。それに溺れてしまうと、何かが狂ってしまう。
 だから、わたしは己を戒めている。でなければ、大悟できない」

 憐憫の情を瞳に湛え、弁才天は如空を見守る。
 ぐしゃっ、と不精に生えた髪を掻き毟る彼の肩を、天女は背後から支える。
 ぴくり、と如空の身体が峙(そばだ)った。かっと目を見開き、彼は女体――天女を脅えたように見据える。
 弁才天は微笑む。

『己の欲に、女子の引力に打ち勝ってごらんなさい。
 女子の持つ引力に引き倒されるのではなく、女子の真性をうちに呑みこむ事によって、己の糧にしなさい。
 そなたに女子が必要ならば、わたくしが抱かれましょう』

 そう言って、弁才天女は如空に接吻する。舌でもって如空の口内を深く探る。
 女神の馨しい香と柔らかな唇が、彼の理性を奪う。
 天女自ら如空の骨張った身体を敷布の上に倒し、彼の衣を剥いでいく。

『かつて、巫女は女神の依代でありました。女神の慈愛と生命の源で男子を包み込み、男子の軸にある男神の真性を揺り動かしたのです。
 性の交わりは、神性の交わり。男と女は交わることによって、神の波動と知恵に触れることが出来るのです。
 怖れることはありません。己を律し、耽溺することさえなければ、危険ではありません。女子と交わることによって真理に近づくことが出来るのです。
 あなたも、わたくしとの交わりのなかで、神の真性を知りなさい。あなたなら、それが出来る――』

 為すすべもなく天女に犯され、彼は呻く。抑えようとしていた情欲が彼の身体にのさばり、すべての感覚を奪っていく。
 深く交わりながら、女神は如空を高みに導く。
 彼は天女の蠢きに導かれ、悦楽の際に引き上げられていく。
 一瞬、光が弾けた。訳が解らぬまま、如空は意識の暗闇に突き落とされた。









 何故か、身体が重くてだるい。違和感を感じ、わたくしは目を開ける。
 障子の外が明るい。朝なのだろうか。小鳥の声が爽やかに響いている。
 わたくしは身体を起こそうとし、誰かの硬い手に背を支えられる。女人にしては力強いが、まだ覚醒し切っていないわたくしは、朋子か比那子が助け起こしてくれているのだと思っていた。わたくしは背後から寄り添っている人物を見る。

「く、空海さま――?!」

 支えている人物が誰か解り、わたくしは驚愕する。まさか空海さまがわたくしの床の側にいらっしゃるなど、想像もしていなかった。

「やっと、目覚められたか」

 安堵に破顔し、空海さまはわたくしの頬に触れられた。優しい温みに、わたくしはどきりとする。暖かさが皮膚から染み入り、胸の鼓動を早める。

「姫は四日間も眠っておられたのだ。わたしも居ても立ってもいられず、ずっと付き添ってしまった」

 わたくしは目を見開く。
 空海さまがわたくしを心配して下さった。空海さまがわたくしの側に……ずっと居てくださった?
 空海さまが何の気兼ねなしに洩らされた言葉を聞き咎め、わたくしは赤面する。

「つ、付き添って……ま、まさか、わたくしが眠っているのをずっと見ていらっしゃったのですか……?!」

 わたくしが目覚めたのが余程嬉しいのか、空海さまは満面の笑みで頷かれる。
 し、信じられない……空海さまは、わたくしのはしたない眠り顔を、ずっと見ていらっしゃったのだ。衾のなかを見てみると、寝衣一枚を身につけているだけだ。

「は、恥ずかしいですわ……お見苦しい姿をお見せしてしまって……」

 そういうわたくしに、空海さまは否、と首を振られた。

「厳子姫はどの姿でも、お美しい。
 西の峰での時も、ひとり毅然としておられた」
「西の峰の時……?」

 合点がいかず聞くわたくしに、空海さまははっと口を押さえられた。

「東谷とは、一体何……」

 空海さまに問おうとしたとき、瞬時に鮮明な映像が脳裏に現われる。

「…………ッ!」

 わたくしにのしかかる僧形の男子……それは空海さまだった。
 否、空海さまにとり憑いた麁乱荒神だ。
 素裸のわたくしは麁乱荒神に組み敷かれ、深く、淫らに犯されていた。
 麁乱荒神に肉体を乗っ取られた空海さまが、わたくしの乳房を揉みしだき、何度も接吻しながら激しくわたくしを貫いていた。
 わたくしは麁乱荒神を取り除く一瞬を狙いながら、空海さまの蠢きに酔い、もっともっとと貪っていた……。
 はっきりと思い出した。わたくしは身体を交わすことにより、空海さまに憑いた麁乱荒神を除いたのだ。
 そのために……空海さまを破戒させてしまった。
 重い罪に、わたくしは思わずその場で土下座した。

「……お許しくださいませ! 折角積み上げていらした空海さまの高潔さを、わたくしが汚してしまいました……!」

 自然と身体が震えてくる。涙が溢れてくる。
 安泰だった空海さまの行く末に、泥を塗ってしまった。余りの罪深さにわたくしはおののく。このまま御仏にお仕えすることは――出来ない。
 暫らくそのままの態勢で動かないわたくしに、空海さまは嘆息され、わたくしの腕を取られ上肢を起こされた。
 俯いたままのわたくしに、よく徹る声が注がれる。

「――何を申される。
 何がどうなっても、厳子姫は清らかなままだというのに。
 厳子姫には、わたしが汚れたように見えるのか?
 心根が腐ったように見えるのか?」

 問いを突き付けられ、わたくしは顔を上げて空海さまを真直ぐ見る。
 痛いくらい真摯で揺らぎのない眼が、刺すように見ている。汚れなどひとつも交じらない、自負と清澄さの溢れる瞳。
 わたくしは首を振る。
 確かに、空海さまの人間性に曇りはない。が、戒律は絶対だ。例えどんな理由でも、異性と交われば破戒したことになる。

「……わ、わたくしのせいで……戒が」

 震える唇でそう言ったとき、空海さまはため息を吐かれ、文机に手を伸ばされる。一冊の書物を取り上げられ、わたくしに差し出された。

「起きられたとき、未だ姫は混乱されているだろうと思い、用意しておいた」

 わたくしは興味を引かれ、書物の表紙を覗き込む。

「――――!」

 まさか、そんな。
 わたくしはまだ出家もしていない在家修業者だというのに。
 今は亡き天台の高僧であられた最澄さまにも、この書物だけは閲覧をお許しにならなかったのに。

「く、空海さま……どうして、わたくしなぞに、理趣経(りしゅきょう)を差し出されるのですか」

 理趣経――それは、「般若波羅蜜多理趣品」を漢訳したもので、空海さまは真言宗徒のなかでも阿闍梨灌頂を受けた者にしか授けないと定められた。それを破って覗いた者は、重大な戒を破った者として破門された。
 それを、わたくしに差し出されている。

「ど、どうしてこれを、わたくしに」

 差し出されるまま受け取ってしまったわたくしは、戸惑いながら空海さまを見る。
 真剣そのものの顔で、空海さまは答えられた。

「厳子姫は巫女として森羅万乗と一体になる修業をされ、天と地の理を識っておられるので、この経典を体感でもって理解されるだろう。
 何より、今の厳子姫はこれが必要だ」

 空海さまから経本を開いてみるように指図され、わたくしは表紙を開き捲っていく。

「これは――」

 目に飛び込んできた文面に、わたくしは驚く。



 全ては清く、美しいものである。欲・触・愛・慢の小楽を大楽に変えることこそ、仏の道である。

 大日如来は十七の清浄なる菩薩の境地をあげて次のように説かれた。

 一.男女の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。
 二.欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。
 三.男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。
 四.異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
 五.男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。
 六.欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。
 七.男女交合して、悦なる境地を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。
 八.男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。



「まさか、そんな――…今までの御仏の道を極める教えとは、違いすぎます。
 頂法寺でも、色を持って殿方を見てはならぬと、厳しく教えられました。
 この教えでは……わたくしは罪を犯したことには、なりませぬのか。
 空海さまは、破戒したことには、なりませぬのか」

 呆然としたわたくしの呟きに、確固とした笑みを湛え、空海さまは頷かれる。

「無論、身を滅ぼすほどに、自堕落に色を貪ることを許しはしない。
 が、巫女として女身の呪を操られる厳子姫ならば、何が善くて何が悪いか、お分りになるだろう。
 その意味で、帝のなりふり構わぬ厳子姫への執着は、如何様に思われる」

 わたくしは主上の慕情の様を思い浮べる。
 嫉妬した上に脳乱し、わたくしを犯そうとなさった主上。
 美志真王殿の負担を考えずに、遠く離れた今でも惑乱される主上。
 それは、愛ではなく妄執ではないのか。主上の軸を狂わせ、破滅に追いやるものではないのか。

「……受け入れるばかりが、愛ではないのですね」

 わたくしの答えに、空海さまは首肯された。

「わたしもあなたも罪を犯したのでないとお分りになられたのなら、はやく気持ちを取り戻し、如意輪法の修業に戻られよ。
 猶予はあと十日しかないのだ」
「――そうですね」

 空海さまの説得に頷く。
 安心された空海さまが部屋を出られたあと、今日から修法を再開するためわたくしは支度を始めた。









 元気な顔で仏間に現われたわたくしに、朋子と比那子は胸を撫で下ろした。
 空海さまに汚名を着せていなかったことが解り、早々と明るく変わってしまったわたくしのこころの内が、我ながら可笑しくて仕方がない。
 昼間を思い出しながら、夜中であるが、わたくしは灯明に火を点け、「理趣経」を読み耽っていた。
 何人でも平等に、怒りや情欲でさえも清浄だと教える素晴らしい経典を、わたくしはありがたいと思っている。
 そして、唐からこれらの真言の教えを持ち帰られ、日本にて広めていらっしゃる空海さまを、尊い方だと賛嘆する。
 女身でありながら、偉大な方を師に持てたわたくしは、人一倍の僥倖を味わっているに違いない。
 明日も如意輪法の修行があるので、起床時間が早い。いつまでも起きていてはいけないと、わたくしは経典を閉じ床に入ることにした。
 その時、僅かに襖の開く音がし、わたくしは振り返る。

「……空海さま?」

 寝衣姿の空海さまが、忍びやかにわたくしの寝所に入ってこられた。
 わたくしは引き掛けていた上衣の袷を整え、このような夜更けに何の御用があるのかと慌てて向き直る。
 
「備え付けの調度に、何か足りぬものがございましたか。
 お待ちください、今、朋子や比那子を起こしますゆえ……」

 空海さまにとって、姪である朋子は誰よりも何かを言付けやすいはずである。というのに、何故わざわざわたくしのもとに御用を申し付けに参られたのか、疑問に思ったが、わたくしは無難にそう返した。
 が、わたくしの前に座られると、空海さまは立ち上がろうとするわたくしの腕を強い力で掴まれ、わたくしの身動きを取れなくされた。

「く、空海さま……?」

 目の前にあるのは、どこか熱く暗い空海さまの眼。激しい情熱がそのなかで渦巻き、わたくしを捕らえる。
 ぞくり、と言い様のない怖気が背筋を這い上がる。

「厳子」
「は、はいっ」

 いつものように隔てを置いた呼び様でなく、わたくしの真名だけを呼ばれる。わたくしは秘かに驚愕していた。
 空海さまほどの験力をお持ちの方に真名を呼ばれると、言霊が作用して呪力を持ち、容易く縛り付けられてしまう。
 怖い程真摯な眼差しに、わたくしは応えを返すことしか出来ない。

「如意宝珠に託したそなたのこころ、確かに受け取った」

 びくり、とわたくしは強張る。
 如意宝珠――潮満・潮干の玉に託したわたくしのこころを受け取ったとは?
 はっとし、わたくしは空海さまを凝視する。

「あ、あの……あの玉をお渡ししたのは、ひとえに空海さまをお助けするためで……」

 巫女が男に呪具を手渡すのは、相手を自身の所有者――主や夫と認め、命を捧げ誠を尽くすと約することを意味している。
 空海さまは潮満・潮干玉を手渡すことの裏の意味を、わたくしに突きつけ、それを受け入れられたと仰られたのだ。
 確かに、わたくしは空海さまにならすべてを捧げよう、とこころに決めて潮満・潮干の玉をお渡ししたが、まさかそのこころを掴み取られるとは、思わなかった。
 狼狽え、わたくしは何とか言い逃れようとする。
 が、空海さまの手の力は緩まない。

「息災護摩のときに伝わったものは、そなたの慕情ではなかったのか?」
「そ、それは……」

 あの時のわたくしは、主上の慕情を受け止めきれず苦しんでおり、自身が真から愛する空海さまのお姿を見て、空海さまへの恋慕の情が膨らんだのだ。自身のこころを鎮め、空海さまの御修法をお助けしようと普礼真言を唱え祈っていたのだ。が、空海さまから御文を頂き、まさかわたくしの霊力が伝わっているなど思わなかった。
 それでも、伝わったのはわたくしの真言と霊力だけだと思っていたのだが、恋慕までも空海さまに伝わっていたとは……。
 どうすれば、言い逃れ出来るのだろう。これは真実だ。空海さま相手に白を切ることなど出来ない。今はその上、言霊の呪まで掛かってしまっているのだから。

「わたしは、待っていたのだ……そなたと、こうなることを。
 十歳(ととせ)の長い年月、そなたが他の男のものになっても、わたしはそなたを忘れたことがなかった」

 そういい、空海さまはわたくしの額髪を掻き揚げ、自然な動作で接吻される。
 直に触れる、熱い唇。この前のように、麁乱神に取り憑かれていたなどと言い訳のできない触れ合い。これは――空海さまの意思によるものなのだ。
 肩に掛けていた上衣が、空海さまの手によって毛氈の上に落とされる。ゆっくりした手つきで腰帯を解かれる。腕を滑って外された寝衣が、ふさり、と床に広がった。
 露になった素肌の上を、空海さまの節くれだった指が彷徨う。厚い唇が項を這い、鎖骨の窪みに湿った温もりが届いた。

 ――あぁ、まさか、こんなことになるなんて。

 どうしてよいか解らず、わたくしは目を虚空に向けたまま空海さまの愛撫を受けていた。
 衣の上から触れるだけで、わたくしの身に切ない疼きを誘った空海さまの掌が、胸乳を包むように愛で腰の辺りを弄っている。これは夢か現か、それさえも定かでない。
 空海さまに「理趣経」の存在を教えられ、その教理によって、麁乱神に操られた空海さまとの交わりを免罪されたような気がした。が、今度こそ言い逃れできない。これは空海さまが望んだこと。――破戒の行いだ。
 わたくしはこころを振り絞り、身を起こそうとした。

「く……空海さま、どうか、お止め下さいませ……!」

 わたくしの下肢を愛しんでいた空海さまが、熱に浮かされた表情で顔を起こされる。わたくしはどきりとし、一時気後れする。
 その隙に、空海さまはわたくしの腿の付け根に指を運ばれる。ひくり、としてわたくしは現実に帰った。

「い、いやっ……いけま、せぬ……!」

 乳房など敏感な場所に直接的な刺激を受け、わたくしの身体は悦楽に震える。身体に熱が蓄えられていく。

「――顕教に纏わる長き因習に、そなたは捕らわれている」

 びくり、としてわたくしは上体を起こす。
 熱情を浮かべながらもどこか冴え冴えとした空海さまの目が、わたくしを見据えている。

「戒は己を律するもの。が、それに捕らわれすぎると、即身成仏の妨げになる。
 人はそのままで菩薩である。人を生す行いが、宇内(うだい)の卵を派生させる行いが、果たして不浄のものなのか?」

 愉悦に身体を震わせるわたくしは、空海さまの問いに答えられない。
 が、本当は知っている。――何をとっても、人の性質は穢れではないのだと。身を堕落させる種になる怖ろしいものであるが、それそのものは清浄で、上手く芽吹けば悪しきものを昇華させるものだと。人の魂を純化するものだと。

「そなたは己を――そして、わたしを信じよ
 何をどう為しても、そなたはそなた、わたしはわたしである」

 張り詰めた腕に強く抱き締められ、身体の――命の芯を繋げながら、わたくしは空海さまの背に縋った。
 わたくしと――女と通じたとて、空海さまが汚され、歪められることはないのだ。もしそう思うのなら、それは空海さまを見縊り、貶めることになる。
 空海さまはそのままで素晴らしい方なのだ。わたくしはただ空海さまを信じ、身を任せればいいのだ。
 そう思い定めたとき、わたくしのなかの慕情が勢いを得て燃え盛った。一気にわたくしの霊が開かれ、何も隔てるものがなくなった。涙が――零れた。
 女身の靈氣が勢いよく膨らみ、背筋を駆け上がってゆく。痙攣し、意識に紗を掛ける。それは男身の靈氣も同じだった。互いに絡まり、螺旋状を生して頭上に蓄積され爆ぜようとしていた。

「空海さま……ああっ……!」

 涙の滲んだ声を上げ、わたくしは靈氣の拡散に身を任せた。同時に、絶大な波動を伴った男身の核が、わたくしのなかに放たれた。
 わたくしの隣に身体を横たえられた空海さまは、幽き声で耳元に囁かれた。

 ――愛している、と。



 信じればよい……自身を……愛する人を。
 わたくしは成就した恋に酔い痴れ、眠り込む愛する人に擦り寄った。




 如意輪秘法を修める所定の十七日間が終わり、空海さまは摩尼峰を降りられることになった。

「空海さま、色々とありがとうございました」

 旅支度を終え庵から出られた空海さまをお見送りするため、わたくしは屋外に出る。
 錫杖を地に突いて庵を振り返り、空海さまは一言呟かれた。

「厳子姫……この庵を、堂宇に致そうか」

 空海さまは人目があるとき、互いの秘密が漏れぬよう、わたくしを隔てて呼ばれる。ふたりの間では了解の事柄でも、他者には明かすことは出来ない。例え朋子や比那子などでも例外ではない。
 空海さまは真言宗の大僧都である。女と通じたことを日の下に晒されれば、世間の風当たりが強くなり、空海さまの威厳が崩される怖れがある。それは、あってはならないことだ。

「堂宇にですか? ……管理が大変になりますね」

 わたくしは考えて告げる。
 空海さまはにっと強気に微笑まれ、わたくしの肩を掴まれる。以前はそれだけで心臓が高鳴った。今もそれは変わらぬが、官能の震えを与えられるだけではなく、穏やかな慈愛をそこから感じられる。互いの愛情と信頼が温もりを通して互いに伝わる。

「伽藍が出来れば、そなたはその堂主になる。
 さすれば、帝といえど、中々に手出しは出来ぬ様になるだろう。
 既に海人と山人に申し付けてあるので、明日からでも工事が始まるはずだ。
 堂宇完成よりも先に、取り合えず姫には年が明けてすぐに受明灌頂を授けよう。姫はこれにて、完全な仏門の徒になる」
「そうですね、お願いします」

 受明灌頂を授けようと提案していらっしゃるが、終には空海さまからそれに備えての出家得度の話は出なかった。
 今のわたくしは、出家することに拘っていない。全てのこだわりを捨て、生身のままで即身成仏することにだけこころを掛けていた。
 それに、今にして思えば、わたくしを出家させなかったのは、空海さまご自身のお心によったものなのだ。今のままのわたくしを、空海さまは愛して下さっていたのだ。




 これからの予定を交々話し合った後、空海さまは摩尼峰を下っていかれた。
 遠く隔てられてしまうのは切なく寂しいが、わたくしは即身成仏の道を切り開いてゆかれる空海さまをお慕いしているのだ。遠くから空海さまの心願が叶えられるのを、わたくしはお祈りするばかりである。
 それに、離れていても、いつもわたくしと空海さまは繋がっていると、わたくしは信じている。







麁乱荒神(3)へつづく
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