幽愁の椒庭(4)へ



第三章 麁乱荒神



(1)




 わたくしは庵の外に立ち、今にも雪が降りそうな厚い雲を見上げ、ため息を吐く。
 以前は、もうすぐ来られる御方のことを思うと、胸が煩い程弾んで、苦しいはずなのに甘やかな感傷を抱いた。
 が、今は遣る瀬なさと悲しみが吹き上がり、お会いするのが辛い。
 わたくしは未だ女身でなくてはならぬのか。わたくしは女の業を捨ててはならぬのか……。
 お会いするのが嬉しいはずなのに、今のわたくしはあの方を詰ってしまいそうで、怖かった。




「お久しゅうござるな。厳子姫」

 お迎えにあがった朋子と山人に伴われ、摩尼峰を上がってこられた空海さまに、わたくしは頭を下げる。

「わたくしのために、遠路遥々お越しいただき、嬉しく存じます」

 僅かに言葉に隔てが籠もったのに気付きながら、わたくしは顔を上げ空海さまを見る。
 僧綱の要職に就かれながらも、現在も行脚の修行を怠られないのか、老年に入っておられる割りには逞しい姿見をなさっていらっしゃる。空海さまの野性的な眼はわたくしに向け微笑んでいらっしゃった。

「寒うございましょう。
 はやく囲炉裏の前に座って、暖まって下さいませ。
 朋子、白湯の支度をお願い」

 そう言って、わたくしは空海さまから背を向ける。引き戸を開けながら、空海さまの草鞋の音が近づくのを聞いていた。



 囲炉裏の火を勢い良く起こすと、すぐ前に空海さまに座っていただく。
 わたくしは火を挟んで対面する場所に腰を下ろした。すぐに朋子と比那子が白湯と栗を練りこんだ団子を用意し、わたくし達の前に据えた。
 空海さまはわたくしをじっと御覧になり、相好を崩される。

「厳子姫には、以前にも増して如意輪への帰依が厚くなったと、朋子から聞いている」

 わたくしのこころを察したのか、朋子と比那子はその場から下がる。
 わたくしは頷き、口を開いた。

「はい、ずっと念願だった御仏に一身に祈る生活が、ようやく叶いました。
 これも、一重に空海さまのご温情のお陰、ありがとうございます」

 そして手を付き、礼をする。そのまま身体を起こし、切り込むように告げた。

「ただ、もう一つの願いを叶えていただけなかったのを、非常に残念に思っております。
 ――わたくしは得度するには、まだ至りませぬか?」

 わたくしの真剣な問いに、空海さまは強い眼差しでお答えになる。

「出家得度に、早いも遅いもござらぬ。
 ただ発心したときが期であると」
「わたくしの期は、まだ至っておりませぬか?!」

 自身の発している言葉が詰問になっているのに、自分でも気付いていた。が、そうせずにはおれなかった。
 わたくしは今後はひたすらに如意輪さまにお仕えしたい。それには、女身のままでは、駄目なのだ。

「……厳子姫が出家したいのは、何かから逃れたいがためであろう。違うか?」

 はっとして、わたくしは空海さまを凝視する。
 怖いくらい透徹な、何もかもを見透かす空海さまの目が、わたくしを真直ぐに捕らえていた。
 身じろぎもできない程の強い眼力に見据えられ、わたくしは固まってしまう。

「何かから逃れたいがための出家は未練を残し、即身成仏の妨げになる。
 姫は優れた資質の持ち主であるのに、それもお分りにならなかったのか?」

 あ……、と声を洩らし、わたくしは震える。
 その通りだ。わたくしが出家したかったのは――主上の恋慕から逃げたかったからだ。
 後宮から離れた今でも追い縋ってくる主上の、悲しいほどの慕情に何も出来ないわたくし自身から、逃げたかったのだ。

「で……では、どうせよと申されるのですか……」

 喉が震える。声が重い固まりに閊(つか)えて、出てこない。
 空海さまが、目を見開かれる。少なくない動揺が、空海さまの面に立ち現われた。

「厳子姫……」

 頬に熱い雫が垂れている。――わたくしは、知らず知らずのうちに泣いていた。

「わたくしは後宮に居て、針の筵に座るような日々を味わいました。
 それに耐えたのは、ただただ主上を支えて差し上げたかったため。国の主人になるには余りにお優しすぎる主上の、憩いの場をもたらして差し上げるため。
 主上がお望みになるなら、女神の依代として、如意輪さまの化身として愛しもしました。
 でもそれは、女子としての愛ではございませんでした……。
 しかし主上は、女子であるわたくしを求めていらっしゃったのです。
 わたくしは主上を愛しています。けれど、主上が求められる愛をお返し出来ない。
 そんなわたくしでも……主上はご自分を押し殺してでも、渦巻く陰謀から護ろうとして下さったのです。
 それは主上より強かな者に打ち破られ、今わたくしはここに居りますが、それでもお諦めになっては下さらない……。
 今のわたくしは、出家することによってこの業を振り解くことしか、出来ないのです」

 内腑の奥底から湧き出るように出てきた思い。
 わたくしは突っ伏し、泣きじゃくる。
 ぱちぱちと爆ぜる薪の音だけが、狭い庵のなかに響く。長い間、それだけを聞き続けていたような気がした。
 暫らく身じろぎひとつされなかった空海さまが、立ち上がられる。足音がわたくしのすぐ側まで近づく。
 空海さまが優しくわたくしの手を取られる。わたくしはやっと顔を上げた。

「……厳子姫は情け深いので見落とされてしまうのかもしれぬが、それは帝のためになることか?
 何事にも真摯な姫は、己を押し殺し、犠牲にしてでも相手を愛そうとする。
 が、本当にそれが相手のためになることか……相手の人間性を歪めてしまわぬか、考えられることだ。
 わたしは、これが別離の瀬戸際なのではないかと思う」
「空海さま……。でも」

 それでも何かを言おうとするわたくしの唇を、空海さまは指で止められた。
 唇に伝わる思わぬ指の温もりに、わたくしは息を詰める。甘い痺れが足先から駈け上ってくる。
 言葉を止めたわたくしに微笑まれ、空海さまは指を離された。

「心配されずとも、わたしにも考えがある。
 今すぐには無理だが、一年待っていただきたい。
 出家という形を取らずとも、帝の手が届かぬように、わたしがしてみせよう」

 わたくしは目を見開く。
 まるでわたくしの悩みを知っていらっしゃるかのような、空海さまの結論の出し方。相談せずとも、わたくしの状態を慮って下さっていたのだ。

「とりあえず、姫は明日から行う如意輪秘法だけを気に掛けられよ」

 そう言って、空海さまは力強い掌でわたくしの肩を握られた。
 わたくしは何度も頷き、朋子達を呼びに行くといって席を立った。
 ただ肩を握られただけでおかしくなってしまう、わたくしのこころと身体。ただのふれあいが、わたくしのなかで官能にすり替えられてしまう。主上に相対しているときには、こんなことはなかった。
 ――これが……きっと恋うるということ。
 とろけるような甘さと一抹の怖さを感じ、わたくしは庵を出た。









「ノウボウ アラタンノウ タラヤヤ ノウマク アリヤ バロキティ ジンバラヤ ボウジサトバヤ マカキャロニキャヤ タニヤタ オン シヤキャラバリチ シンダマニ マカハンドメイ ロロ チシュタ ジンバラ アキャラシャヤ ウン ハッタ ソワカ

 オン ハンドメイ シンダマニ マカジンバラ ウン

 オン バラダ ハンドメイ ウン…………」

 次の日から、仏間にこの日のために用意していた須弥壇(しゅみだん)を据え、念持仏の如意輪さまを祭り、空海さまをご導師に悪業の一切を除破する秘密修法などを執り行った。
 空海さまの真言とわたくしの真言が朗々と重なる。朋子と比那子もたどたどしいながら、よくわたくし達を追い掛けて唱えている。
 後宮に居た頃は、こんな日がくるなど思わなかった。それも、空海さま直々にわたくしをご指導してくださるなど、まるで夢のようなことだった。
 そうして、つつがなく結縁の日を迎えるはずだった。
 ――が、思いもよらぬ成り行きに、わたくしの運命は変転していくことになる。




「い、厳子さまッ、起きてくださいッ!!」

 朋子の血相を変えた声に、わたくしは飛び起きた。
 上衣だけ羽織り、わたくしは自室から出る。外はまだ暗く、空の東端が僅かに明るくなっただけだ。
 部屋から出てきたわたくしを認め、朋子はなりふり構わず駈けてきた。

「朋子、どうしたの?」

 何も知らないわたくしは悠長に聞く。
 が、朋子の叫びに、激しく狼狽した。

「叔父がッ、どこにもおりません……ッ!!」

 慌てて走り込むと、空海さまが滞在されている部屋はもぬけの殻だった。
 何の書き置きもなく、夜具はそのまま――起き抜けのままの状態で放置してある。来てこられた僧衣に着替えず、寝衣のまま外に出られたようだ。数珠などを持たず、笈など旅の荷も残してある。
 奇妙なのが、冬だというのに防寒の上衣を纏わず、草鞋も履いていらっしゃらないことだ。

「わ、わからないわ……空海さまは摩尼峰で修行をされたことがお有りのようだから、昔を思い出して夜明け前から寒行に出られたのかもしれない……」

 考えられる可能性は、これくらいしかない。
 取り敢えず、空海さまが帰られるのを待つことにして、わたくし達は習ったばかりの如意輪法のおさらいをすることにした。



 が、一日・二日経っても、空海さまは戻られない。

「わたくし、叔父を探して連れ戻しますッ!」

 痺れを切らした朋子が、着のみ着のまま防寒もせずに、そう怒鳴って庵を飛び出した。

 そして、朋子も姿を消したのである。






 ――嘘……空海さまだけでなく、朋子まで?

 わたくしは嫌な予感に駆られ、後宮から出るとき持ち出した御統玉を身につけて、武庫の山々を見晴るかす摩尼峰の頂上に登った。
 そこで感じたのは、信じられぬものだった。
 空間の歪みが激しくなり、西の峰の上空に暗赤色の雲が燃える様に垂れ込めている。気分が悪くなる霊気が、風に流されてきている。

 ――なんてこと! 西の峰の異様な波動が禍々しく増している!
 それに、禍き波動のなかに……空海さまの波動も交じっている?

 とてつもない恐ろしい霊気と波動。間違いなく、空海さまはそれに巻き込まれている。異変が……出態している。
 この波動が摩尼峰を覆って武庫にまで届いたら、まずいことになる。
 わたくしが総毛立ったとき、西の峰の雲が分離し、一部が巨大な鷲となって、わたくしのもとに飛んできた。それは、悪しき霊気を燐粉に変えて、方々に散らしている。どうやら、禍きものの核のようだった。
 身構えたわたくしの頭上で大鷲が停止する。羽をはばたかせながら、わたくしの脳裏に語り掛けてきた。

『女子は預かっている。返してほしくば、このまま我に付いて来よ。海部の巫女姫』

 わたくしは瞠目する。この者は、わたくしが海部の巫女姫だと知っている?!

「そなたは誰です、答えなさい!!」

 わたくしは大鷲をねめつけ、叫んだ。
 何故だか一瞬、大鷲が笑ったように見えた。

『取り敢えず、麁乱荒神(そらんこうじん)とでも覚えておけ――』

 そう言い置くと、大鷲――麁乱荒神は体を旋回し、羽を大きく動かした。
 取り残されないよう、急ぎ足でわたくしはついて行く。麁乱神も、わたくしが遅れないよう、時折速度を緩めていた。
 近づけば近づくほど、瘴気がわたくしの霊気に差し込んでくる。わたくしの足が重くなる。
 それでも懸命に歩き続けると、磐座(いわくら)と思われる注連縄を張った大きな岩石と、破れた廃屋があった。社か寺か――祭祀をするための、独特の建築だった。

『中にはいれ』

 麁乱神に指示され、わたくしは廃屋の中に一歩を踏み入れる。
 埃臭い暗闇なので、足が覚束ない。と、自然に――否、麁乱神が神通力で蝋燭に火を点けた。

「――――ッ!」

 目の前にあったのは、考えたくない情景だった。
 それは――縄で縛られ身動きがとれない朋子と、雲の如き巨大な塊状の悪気に取り憑かれた空海さまの姿だった。

 ――まさか……絶大な法力をお持ちの空海さまが、障碍神にここまで蝕まれてしまわれるなんて……。
 空海さまが勝てぬ相手に、わたくしが打ち勝てるというのだろうか。

 がくがくと震えるわたくしの前で、大鷲が形を崩して悪気に戻り、背後の暗雲ともども空海さまに吸い込まれる。

「いやッ、止めてぇッ!」

 わたくしは麁乱神が空海さまに入り込むのを阻もうと、思わず荒神のもとに飛び出す。
 が、時遅く、荒神のすべてが空海さまに納まってしまう。
 わたくしの目の前で、空海さま――麁乱神が立ち上がった。入れ物――空海さまの肉体の感触を確かめようと、荒神は両手を組み、腕の筋肉を摩る。

『ふっ……やはり、この身体は居心地が良い。
 この者と我は因を同じくする者。魂と波動も総て我と同質である』

 そして、麁乱神はついとわたくしを身、不敵に微笑んだ。
 わたくしは身構え、一歩下がろうとする。
 が、素早くわたくしの腕を捕らえ、麁乱神は引き寄せた。

『逃がしはせぬ……やっと手に入れたそなたを』

 わたくしは目を見張り、恐ろしさも忘れ麁乱神を睨む。

「そ……それは、どういうこと?! やっと、手に入れたとは……」

 荒神はわたくしの頤を上げ、強張るわたくしの面を見入った。
 至近距離に麁乱神の――空海さまの顔がある。わたくしは秘かに狼狽えるが、懸命にそれを我が内に抑えた。

『そなたは我の因と縁によって繋がれる者……。そなたの因となるものは、すべて我と結びついている。そなたの因は、我がものであった』
「わたくしの……因?」

 何のことだかさっぱり解らない。
 麁乱神が何を言っているのか飲み込めないわたくしは、底の見えない荒神の瞳に、魂の根底からくる悪寒を味わう。
 が、それどころではない。わたくしは猿轡を噛まされ縛られながらも、気丈な面持ちで固唾を呑んでいる朋子を見る。
 わたくしの目線を辿り、麁乱神は発笑して朋子に向け片手を薙いだ。 音もなく朋子を苛んでいた猿轡と縄が解ける。
 体勢を崩し横倒れになりつつ、朋子はわたくしに向け叫んだ。

「い、厳子さま……」

 必死に身体を起こそうとする朋子に、麁乱神は感情の籠もらぬ目を当てる。

『海部の巫女姫が来たゆえ、そなたは用済みだ。早く帰れ』

 空海さまの口から出た冷たい語調に怯まず、朋子はわたくし達に近づこうとする。
 それを、わたくしは止めた。

「いいから、早く比那子のところに行ってあげて。心配して待っているわ」
「ですが……!」

 わたくしのことを案じ、帰ろうとしない朋子に、わたくしは気休めの如き言葉を告げる。

「麁乱神はわたくしに危害を加えられない。そして、空海さまはこの者にとって大事な器。
 ……解るわね? 麁乱神の気が変わる前に、はやくお行きなさい」

 不安げな朋子が廃屋から出るのを見届け、わたくしは麁乱神を見据えた。
 そう、麁乱神はわたくしの命に害を加えはしない。――命には。だから、きっと生きて帰ることは可能だ。
 それよりも、下手に抗わずに要求を呑むほうが、空海さまを解放することが出来るかもしれない。

「――空海さまや朋子を盾に取ってまでわたくしに望むことは、何です?」

 わたくしは目線を緩めずに麁乱神をねめつける。気を緩めてはいけない。隙を見せてはいけない――。
 そんなわたくしを見て、麁乱神はふっと笑った。
 その微笑は意外に親しみを感じられ、わたくしは意表を突かれる。空海さまからも見受けられる微笑であるが、荒神自身の笑みにも見えた。

『もとより、この者らに危害を加えるつもりはない。初めから、あの娘はそなたをおびき出すためのだしであったのだから』
「空海さまをお放しなさい。そうするなら、わたくしはそなたの要求を呑みましょう。――空海さまの肉体を用いぬのなら、そなたに抱かれてやってもよい」

 厳しい口調で言うわたくしに、麁乱神は顔に微笑みを張り付かせたまま非情なことを言った。

『それは出来ぬ。我が靈氣に他の者は耐えられぬ。この者は我と因を同じくする者。我にはこの者が丁度よい』

 ぐっと詰まり、わたくしは低い声で断言する。

「そうですか……。空海さまから離れぬなら……わたくしはこの場で、自害します」

 わたくしは荒神を睨みつける。
 これは、わたくしの一つしかない切り札。霊力では、恐らく荒神に勝てない。力づくで空海さまから荒神を引き剥がすことは出来ない。
 荒神はわたくしに対して欲心を抱いているようだ。ならば、切り札はわたくししかない。
 が、わたくしの挑発に、麁乱神は鼻で笑っただけだった。

『それは、無理なことだろう。そなたはこの男の前で自害できぬ』
「なッ…………!」

 一瞬臆したわたくしの顔に、麁乱神の――空海さまの顔が迫ってくる。
 ま、まさか――――?! わたくしは力任せに身体を退き、顔を手で覆おうとする。
 が、万力の腕力でわたくしの腰を引き寄せ、手首を一纏めに捉えると、麁乱神はわたくしの唇をその口で奪った。

 それは、あってはならないことだった。女犯を戒められている高僧と、接吻してしまった――。
 その身体を動かしているのは麁乱神だが、肉体は空海さまのものである。空海さまと――口吸いしている。

 動揺し薄く開いた口内に、舌が割り込んでくる。奥に引き込んでいたわたくしの舌は為す術もなく相手のものに絡められてしまう。
 何の準備もなく始まってしまった激しい口接に、わたくしの身体に震えが起こる。
 覚えのある香。――それは、幾度か身近に感じた加持を行うための香木の香。空海さまが身に纏っていらっしゃる香。それが、生々しい肉体とともにわたくしの身体を包みこんでいる。これ程近くに感じたことなどない、愛する方の体躯。それを、衣を隔てて密着している。
 何が招いてこのような事態になったのか――わたくしは、甘美さと恐ろしさに身震いした。

「――い、いやぁぁっ!」

 理性と忍耐の限界だった。このままでは、わたくしがおかしくなる。
 わたくしは無理矢理身を捩って麁乱神から離れ、その場に蹲る。
 そんなわたくしの背を、荒神が後ろから抱き締め、耳元で囁いた。

『そなたはこの者に触れられると、自制が効かなくなる。気丈なそなたは消え、ただ男に恋うる女になる』

 わたくしの耳朶を食みながら注がれる声音は、いつもの空海さまからは聞いたことのない甘やかなものだった。それだけで、わたくしの全身は痺れる。力が抜け、下肢がまったくいう事を利かなくなる。
 背後から廻された手が腰に周り、脇から差し込まれ乳房を覆う。びくり、とわたくしの身体は弾んだ。

「い、いやっ……止めて……」

 力の籠もらない拒絶の言葉が、今のわたくしの状態を現している。――拒絶することは、できない。
 わたくしは、麁乱神の――空海さまの愛撫から逃れることは、出来ないのだ。ならば……受け止めるしかない。受け止め、交わった内気を操って空海さまの内側から麁乱神を弾くしかない。それも、巫女の術だった。
 わたくしは、身を堕す覚悟を決めた。空海さまをお救いするには、御仏の道を諦めるしかなかった。
 ただ、それに空海さまを巻き込むことが忍びなかった。

 ――空海さま、お許し下さいませ……。

 涙が出そうになるのを堪え、わたくしは振り返り自ら麁乱神に口づけする。空海さまの太い首に腕を絡め、相手の気を引くように胸を密着させた。
 濃厚な口づけが終わると、わたくしは相手の耳の裏から項・頬をゆるりと撫でる。

「それほどにわたくしをお望みなら……言うとおりにいたしましょう。
 ただ、ここでは……こんな汚れた場所では嫌です。
 あちらの、大岩を寝台の代わりにして愛を交わしましょう」

 わたくしは媚びる様にしな垂れ掛かり、甘く強請る。
 あの大岩は神を祀る磐座。磐座は岩自体が霊力を持つものが多く、麁乱神を空海さまから引き剥がし封じるのに用いることが出来るだろう。
 うっとりと胸板に頬を付けたわたくしの身体を、麁乱神が抱き上げ外に連れ出す。
 ごつごつした岩肌の上に横たえられ、わたくしは腰帯を解かれて身に着けていたものを全て脱がされる。
 目を閉じて哀しみを堪えていると、何も纏っていない硬い弾力のある皮膚が密着してきた。
 力強く逞しい空海さまの腕――これが、ただの男と女としての状況ならば、どんなに幸せか。何も考えずに愛する人に身を任せ、陶酔に浸ることが出来ただろう。が、今のわたくしは絶望のなかで相手のするがままに任せている。
 が、麁乱神の指と舌は容赦がなかった。どこで知ったのか、わたくしの最も過敏な場所を選んで愛撫を施してくる。わたくしは知らぬ間に湧き上がってくる悦楽を耐えることに力を注いでいた。

『我はそなたのことを、何でも知っている……そなたがどこを愛されれば囀るのかも』

 身体の上に注がれていく甘やかな刺激が、わたくしを堪らなくさせ、こらえ性のない女のように大きく身体をのたうたせた。
 主上とは交わしたことのない深い酔い。知らず知らずのうちに涙が溢れ、わたくしの口からとめどない喘ぎが途切れることなく零れている。
 が、快さにばかり身を浸らせてはいられない。
 麁乱神の――空海さまの肉体がわたくしの内に入ってきたとき、わたくしは待ち望んでいた一時が来たのを悟り、臨戦態勢に入った。
 
 ――交わる相手の靈氣を掴み、わたくしの靈氣と絡み合わせて高めていかなくてはならない。頭頂まで波動が達したときが、勝負の分かれ目。

 わたくしは身体の波動の動きに精神を澄ませる。
 麁乱神の背に腕を廻し、相手の腰に足を絡める。接合を深くし、霊力が漏れずに尾骨に溜まるようにする。
 わたくしの意向を知っているのか、麁乱神は下肢に霊力が溜まるよう動いている。霊力は核となる尾骨に蓄積し、磁力を帯び蛇状になって上昇する。脊髄の脇を通る右側の赤い太陽の蛇と白い左側の月の蛇が、わたくし達の蠢きと相俟って緩やかにくねっている。

「あ、あッ…………!」

 肉体の容量を超えた愉悦。身体に振動となり広がる熱。
 ぶるぶると震えるわたくしに、麁乱神は接吻する。互いの唾液が甘露となって口内に流れ込み、飲み込むと更に蛇が活性化した。
 蠕動しながら上り詰めていく二匹の蛇。大きな熱と磁気を孕み、膨れ上がっていく。既に、頭頂に近い。絶頂も――近い。
 わたくしが余りの熱力に悲鳴を上げたとき、わたくしを貫くものが破裂した。爆発の煽りを受け、一気に蛇が頭頂に到達する。
 押し上げられた麁乱神の意識が、飛ぶ。

 ――今だ!
 磐座よ、我らから漏れ出る大きな波動を受け、障碍神・麁乱荒神を封じなさい!

 わたくしは背後にある神石に巫女として命じる。
 空海さまの肉体から出てきた波動――麁乱神が、磐座に吸い込まれる。
 わたくしは自身の靈氣を全て使い切っていた。麁乱神が全て磐座に吸い込まれたのを確認すると、脱力する。意識も途切れそうだった。
 肉体の自由を取り戻した空海さまが、わたくしの身体の上で呻いた。薄目を開けられたのに気付き、気力を振り絞って身体を起こし、空海さまに語りかけた。

「く、空海さま……この磐座の注連縄を、強固にし……麁乱神を封じてください……。
 これは、全てわたくしの一存……空海さまは何も罪を犯しておられませぬ……」

 罪はわたくしだけに……。
 わたくしはそれだけ言って、くたりと崩折れた。



「厳子ッ…………?!」

 空海さまの焦りの滲んだ声が、意識が途切れかけた脳裏に響いた。




麁乱荒神(2)へつづく
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