(4)
加悦の身体がすっかり癒えた頃、新たな一年が明けた。
良房殿の闖入以来、わたくしは深い気鬱に沈むようになり、今日も脇息にもたれ香炉から細い煙が上がるのを見ていた。
事情を知っている和知と加悦が、鎮静効果のある沈香(じんこう)や安息香(あんそくこう)などを空薫(そらだき)するようにしてくれている。
季節の瑞々しい花も、わたくしの目の届くところに飾ってくれている。笛や琴の巧い女房に楽を奏させてくれてもいる。
が、何を見ても何を聞いても、わたくしは癒されない。それ程に、わたくしは傷つきこころの動きを無くしていた。
ある日、御身舎(おもや)の御簾の奥深くに呆然と座り込んでいるわたくしの前に、和知と加悦が人払いして揃って座る。
虚ろに目を向けたわたくしに、和知が一通の御文を差し出した。
「決められるのは、お妃さまです。
けれど、このまま壊れておしまいになるのなら、何も言わず従って下さい」
恐いくらい真剣な和知に、わたくしは御文を開く。
見た途端、わたくしは瞠目した。見覚えのある闊達な御筆蹟(おて)に、吸い込まれるように読み進めていく。
――二月十八日、鳥羽泊(とばのとまり)の渡の海人に申し付けておくので、宮中を出られよ。
都から離れ、摂津国の如意輪摩尼峰(にょいりんまにみね。今の甲山)に身を寄せるように。
わたしが全力で助力させていただく。――
間違いない、空海さまの御文だ。短文で、今後の身の振り方を指図してある。
わたくしは顔を上げ、食い入るように和知を見た。
「和知、これは――…」
和知は頷き、確固たる面持ちでわたくしに説いた。
「御覧のとおりです。後宮を出て、御仏だけにお仕えする生活に戻りましょう。
わたくしと加悦がお供いたします」
わたくしは血が勢いを得て逆流するのを感じる。
この汚所を出て、再び浄所で生活できる。誰にも患わされることなく、御仏だけにお仕えする生活に戻れる――!
が、瞬時に主上の面差しが眼裏に浮かび上がり、わたくしは否、と首を振った。
「わたくしは主上にお仕えするとこころに決めて、頂法寺から出ました。
わたくしが宮から出ると、主上が哀しまれる――」
消極的なわたくしの言葉に、和知は詰め寄り、鋭く断言した。
「主上には、正子皇后がおられます!
正子皇后が、お妃さまがいなくなって出来た穴を埋めて下さいます!
いいえ、今の後宮には、お妃さまの居場所はないのです!
下手に居続けると、もっとひどい目に――最悪、犠牲者が出ます!
加悦が毒を飲まされたのをお忘れですか?!」
びくり、とわたくしは肩をそばだて加悦を見る。
いつになく厳しい眼差しで、加悦は頷いた。
そうだ、加悦は良房殿に毒を盛られたのだ。軽いものだったからよかったが、あれが致死毒なら、間違いなく加悦は死んでいた。
良房殿があの夜忍び込んだのは、いつでもわたくしに危害を加えられるという脅しだったのかもしれない。
わたくしは恐ろしさに震え、しっかりと肯首する。
わたくしの見立てでは、正子さまは主上の全てを包んで差し上げられる度量の持ち主である。
わたくしはそういう方が現われれば、いつでも後宮から退こうと思っていた。――今が、その時なのだ。
「……解ったわ。空海さまの仰るとおりにします」
そういうわたくしに、久方ぶりに和知と加悦が笑った。
‡
後宮を出ると決めてから、あれよという間に二月になった。
宮からの脱出に耐えられるよう、わたくしは体力を付けるため、出来るだけ食を採るようにしている。
何かの時に取り乱さないため、こころ澄まして如意輪さまの勤行に努めている。
――無事にここから抜け出せるよう、如意輪さま、どうかわたくし達をお護り下さいませ……!
わたくしは一心不乱に水晶の数珠を繰り、陀羅尼を唱え続けた。
そうしているうちに、十五日になった。
「わたくしと加悦はよく市に出ますので、そう怪しまれないと思います。
お妃さまは化粧などはせずに、目立たないような出で立ちをしてお立ち下さいませ」
和知が念入りに打ち合せしてくる。
わたくしは頷き、覚悟を固めていた。
が、間が悪いというのだろうか。
主上が今宵わたくしを召されることになったのだ。
余りの狼狽に、心拍が小刻みに打たれる。わたくしの身体に震えが走りだした。
「お妃さま、狼狽えられてはなりませぬ!
この一夜を乗り越えれば、都を出られるのです!
おこころ強くお持ちなされませ!」
わたくしは唇を噛み締める。
和知の言うとおり、ここが踏張り所なのである。――自身に負けては、ならない。
わたくしは寝衣に着替えると、深呼吸をし、こころを落ち着けて夜の御殿に向かった。
「よかった、ちゃんといたのだな」
清涼殿に渡ってきたわたくしを、主上は安堵したように抱き寄せられる。
「わたくしはここに居りますわ」
そういうわたくしに、主上は熱く接吻される。
「昨夜、嫌な夢を見たのだ。
柳のしたに居る天女が、羽衣を纏って天に帰ってしまったのだ。
柳のしたの天女の夢は、そなたに関わる霊夢であった」
わたくしはどきりとする。
何という勘のよさだろうか。何の素振りも見せていなかったのに、感じ取られるとは。否、夢だから予知ともいえる。
内心焦りを感じたが、わたくしはおくびにも出さず微笑む。
「まぁ、それでわたくしが居るのを確かめるため、お召しになられたのですか?
わたくしはどこにも参りませんのに」
我ながら白々しいと思う。良心が痛むが、仕方がない。
わたくしは慈愛豊かな天女を装って、わたくしの衣を解きにかかられる主上を抱き締める。
「そうだ、厳子はどこにも行かないと、解っていたのにな……。
そなた恋しさに想い狂ってしまったゆえか」
「主上……」
言ったあと、主上は頑是なく執拗にわたくしをお求めになる。乳房をまさぐり、奥処を探られる。
重ねられた素肌の暖かさを、わたくしのなかで自儘に遊ばれる主上を、余すところなく覚えておこうと、わたくしは主上の身体に指を彷徨わせた。
――愛しておりました、主上……。
どんな形でも、真摯に愛していた。この方は、既にわたくしの一部になっていた。
この夜を境に切り離されていくわたくしのこころの一部を思うと、悲しみが込み上げてくる。
今宵しかないのだから、すべてをこの方に預けてしまおう……わたくしは何もかもを曝け出し、放逸に乱れた。
情熱をわたくしに注がれたあと、主上は疲れ切って眠られる。小窓からは星が瞬くのが見える。眼が熱くなり、星が――ぶれる。
「主上…主上……っ。申し訳ございませぬ……っ」
わたくしは主上に気付かれないよう、愛する方の薄い唇に口づけ、声を発てずに泣いた。
‡
二月十八日の朝。
いつも通りにお勤めをして心身を宥め、昼頃にお抱えの商人たちが入ってくるのを待って、わたくし達は着替えを済ませた。
市井の女が着るような衣と裳の上に、褶(ひらみ)を身につける。髪は垂髪にし、ひとつに纏めた。
「う――ん、まだ美しさが残っていますわね。
お顔に黄味の強い脂粉を叩き、唇の赤みを押さえましょうか」
和知が機転を効かせ、わたくしを民草のように仕立ててゆく。
「さぁ、出来ました」
いわれて鏡を覗き込んでみると、どこにでもいるような平凡な女子に仕上がっていた。
主上の妃ではない姿。また尼僧見習いであったときとも違う。わたくしは思わず吹き出した。
そんなわたくしに、和知と加悦も弾けたように笑いだす。
「これからわたくしたち宛に商人が参りますが、実はこれは叔父が手配した山人(やま)です。
この者が偽装している商人のもとに、女房三人が品物を取りにお使いにいくことになっています。
これに乗じて鳥羽まで参りましょう。
ここに来る山人が鳥羽まで付き添ってくれます」
和知の説明にわたくしは頷く。
彼女が言ったとおり、定められた頃合いに商人数人――正体は山人――がわたくしの局にやってきた。
和知の引率のとおりにことを進めて、後宮の衛士(えじ)に見咎められることなくわたくしたちは宮中から脱出した。
あとは和知の行程通り、山人に護られて鴨川沿いにある鳥羽泊に辿り着き、海人が支度した渡し船に乗って都をあとにする。
淀川を下り難波津を経て、摂津の武庫の地に行くという。
途中、巨椋池や山崎の地を経由して船を進めていく。
海人の指示により、わたくし達は巨椋池の中洲にある淀の港で船を乗り換えた。
海人達はわたくしが快適に過ごせるように、頑丈で衝撃の少ない座敷船を用意してくれていた。
山人も海人も、祖を辿れば同じ彦天火明命に行き着く。いわば同族である。
その誼か、或いは彼らにも人望が厚い空海さまゆえか、彼らはわたくしを貴種の女人と扱ってくれていた。
有り難いと思い、わたくしは手を合わせる。
いつも一緒にと持ち出していた、空海さまお手製の如意輪さまを安置した厨子の扉を開け、ここに居る皆の無事を念じ、如意輪さまの真言を唱え続ける。
「お妃さま、見てくださいませ――!」
和知に問い掛けられ、わたくしは彼女が指差す窓の外を見る。
いつの間にか、淀川の河幅が広くなっていた。夜の暗闇の中なので黒色に沈む川の色が不気味である。
が、月の明るい夜なので、月華を受け川面がきらきらと輝いている。
幽遠で風趣のある情景に、わたくしは吐息した。
「綺麗……わたくし、都の外に出たのね」
「はい、いまは摂津の三島の辺りを下っているとか。いま少し行った所にある三島江(みしまのえ)で夕餉を受け取りますので」
わたくしは頷き、感慨深く言う。
「随分と離れてしまったわね……。わたくし達が後宮から出たこと、誰かに気付かれていないかしら」
わたくしは景色に見惚れながら、こころのなかの不安を言う。
和知は微笑んで返した。
「大丈夫ですわ。わたくし達と背格好の似た信頼できる女房を、わたくし達に仕立てて出て参りましたもの。
彼女らは、絶対に他言しないと申しておりました。」
「そう……」
流石は、抜け目のない和知というべきか。
ふと思い付き、わたくしは和知と加悦を振り返る。
「そういえば、わたくしはもう妃ではないし、あなた達も女房ではないわ。
これからは、わたくしのことを厳子と呼んで頂戴」
和知と加悦が顔を見合わせ、わたくしに笑い掛ける。
「では、わたくしのことは朋子と、加悦のことは比那子とお呼び下さいな」
「そうね」
ふふっと笑い、再びわたくしは川の行く先を見据えた。
わたくしのなかの潰えかけていた希望が、今一度膨らもうとしていた。
船のなかで一泊すると、ひたすらに淀川を南下し、わたくしたちは一路武庫の西宮浜を目指す。
慣れぬ船旅だが、わたくしは耐え続けた。
船が南宮の浦に着いたとき、辺りは日暮れかけていた。
わたくしは先に南宮神社(現在の西宮神社摂社・南宮社)に詣でることを希望した。南宮神社の御祭神は、我が女祖神である弁才天女である。
――女神よ、どうかわたくしをお護りくださいませ。
合掌し祈っていると、朋子が声を上げた。
「あぁ、あそこが摩尼峰ですのね!」
わたくしは神寂びた御山を見る。
丸いお椀を伏せた形の、鬱蒼とした山である。
摩尼峰の麓、武庫の辺りは、古代から海部氏や枝族の和邇氏、海人や山人の拠点のひとつである。
後宮を出、導かれるようにやってきたのも、奇しき縁といえる。
――わたくしはこれから、ここで生きていくのだ……。
確固たる思いで、わたくしは摩尼峰を見上げた。
既に日暮れていたので、わたくしは和邇氏が祝をしている廣田神社に一泊することにした。連絡が入っていたのか、祝は快くわたくし達を受け入れてくれた。
廣田の神は名は違えど弁才天女と同神で、わたくしは女神の庇護の手に包まれているのを感じながら眠りに就いた。
次の日、わたくし達は自らの足で土を踏みしめて摩尼峰を登り、予めしつらえてあった小庵に入った。
すべてを空海さまが整えて下さり、わたくし達の面倒を見てくれる山人まで手配して下さっていた。
わたくしは直ぐ様念仏三昧に入れることを嬉しく思い、空海さまにひたすら感謝していた。
麗しい春の星月夜に見惚れ、寝付けずにいたわたくしは、誘われるように摩尼峰を歩く。幼い頃、修行のため夜間に山道を歩いていた感覚を取り戻しながら、幹伝いにゆっくりと足を進める。
尾根に出たところで視界が切り開かれる。
――山の中に一際絢爛に咲く桜。
夜の闇にほの白く浮かび上がり、はらはらと細やかに花びらを散らす。
わたくしは息を詰め、儚げで美しい光景を見入る。
「何と美しい……桜」
惹きつけられて桜まで辿りつき、わたくしは節くれだった幹に凭れた。
これが、わたくしと桜――そして空海さまの縁の、出会いだった。
摩尼峰に入ってから四か月が経った。
わたくしは庵のなかで、朋子や比那子と共に、こころおきなく読経三昧の生活を送っている。
わたくし達の面倒を見てくれている山人が、米や大豆、山菜に衣類などを甲斐甲斐しく届けに来てくれる。わたくし達は彼らに感謝頻りだった。
幸い、山から豊富な清水が湧き出ているので、わたくし達は自ら豆腐や味噌、醤などを作り、畑を耕して野菜を拵えたりした。
山人に頼んで機を持ち込んでもらい、一から衣を織った。
摩尼峰は生命を終えた火山らしく、厳しい岩が多くあった。
わたくしは依遅ヶ尾山で修業していた頃を思い出し、岩をよじ登ったり山の道なき道を歩いたりした。
行をするのに適した滝もあったので、薄い浄衣だけで瀑に打たれたりした。
「やはり、厳子さまは自然のなかにあられる方が、生き生きなさいますね」
わたくしの修業に付き合って、摩尼峰の頂上に登った朋子が、感心したように言う。
わたくしはこころからの笑みを浮かべ頷いた。
「わたくしは幼い頃から、修業の毎日を送ってきたもの。
山を駆け回り、滝に打たれたり……森羅万乗の息吹を肌で感じていたわ。
それは頂法寺に入ってからも同じで、暑いときは暑いように、寒いときは寒いように、一々を洩らさぬよう瑜伽(ゆが)の行を行っていたの。
自然に解け合い全ての感覚が消え、わたくしは天と一体になる。いいえ、もとの姿に帰るのよ」
わたくしは山から地上を見遥かす。麓では変わることない人々の生の営みがある。そのどれもが愛しい。
いつも袖に忍ばせている数珠を取出し、わたくしは下方に向け手を合わせた。
比那子ひとりに夕餉の支度をさせるのは可哀相だという朋子を先に還し、わたくしは山の上に佇む。
かつて出雲の王がこの辺りを神奈備と定め、祭具を埋納したと海部族は伝承している。
確かに、この場は奇しき処だ。心眼で見れば、山辺に紫雲が漂っている。野には類い稀なる美々しい花が咲き乱れ、大地からは力強い霊気が舞い上がっている。
が、磁場が安定していないのか、空間の歪みも感じる。
向かいの山を霊視すると、悪気を放つ蛾が目に映るが、それはまだいい。
問題は、西の峰に言い様のない強い波動を感じることだ。どこかで感じたことがあるような気がするが、茫洋として掴み取りにくい。
気にしても仕方がない……わたくしは朋子達にばかり厨に立たせては悪いと、急ぎ下山した。
‡
わたくしはある昼、修業を兼ねて山中に山菜を採りに出掛けた。
蕨や薇など香り豊かな山の幸を籠一杯に盛り、鼻歌混じりに庵に帰ってくる。
ふと見れば、雑色らしき者が幾人か戸板の前で待機している。
――何かしら、見た様子では貴人に供奉する者たちに見えるけれど。
わたくしは悪い予感を感じながら、戸を潜る。
いろりの前に座る人物を認め、わたくしは硬直し、籠の中身を土間に落としてしまう。
「美志真王殿……」
美志真王殿はわたくしに向き直り、手を付いて礼をとった。
「真井御前様にはつつがなくお過ごしとお見受けいたす。
帝がお待ちであるので、都にお帰りいただきたい」
一見慇懃なようだが、どこか高圧的な美志真王殿の言葉に、わたくしは怯んでしまう。
彼の後方で、朋子と比那子が困惑している。彼女達も主上の御使者を追い返そうとしたが、出来なかったらしい。
わたくしは手を組むと、眼尻を厳しくして口を開いた。
「――お帰りください。
わたくしは、もう二度と宮中に戻る気はありませぬ」
美志真王殿の石のように硬質な瞳が、無表情にわたくしを見据える。
「――お心変わりはござらぬか」
負けじと、わたくしも強硬的に言い返す。
「こころ変わりはありませぬ。
わたくしは生半可な意識で後宮を出たのではございませぬ。
でなければ、どうして苦しい船旅までして遠い武庫まで来ましょうか」
暫らくの間、睨み合うようにわたくし達は視線を交わす。
やがて細く息を吐き、美志真王殿は懐から一通の御文を取り出された。
「帝の御製です。これだけは受け取られよ」
わたくしは御文を丁重に押し戴き、簀子縁に座る。
丁寧に御文を開けると、乱れがちな御筆蹟で書がしたためられていた。
――摂津国司からそなた等らしき女子を摩尼峰で見たと報告を受け、矢も盾も堪らず筆を取ってしまった。
久方ぶりのそなたへの消息に、手が震えて思うように書けぬ。これもそなたへの想いゆえ。息があがり動悸が激しくなって苦しい。
あの夜、そなたはどこにも行かぬと言った。
なのに何故だ? 何故わたしから離れて武庫くんだりにまで行ってしまったのだ。わたしから、後宮から逃げたかったのか?
わたしは寂しくてたまらぬ。
そなたを傍に置きたくて、娶とりたくない女を娶とり、子を産ませもした。そなたに触れたくてたまらぬ夜も、自らを押し殺しそなたを遠ざけもした。
それも全て、そなたを愛し、伴侶として共に生きて行きたいと思ったゆえだ。
天皇になったから、そなたと引き裂かれねばならなかったのか? それならばわたしは天皇の地位などいらぬ!
わたしはそなたが恋しい。そなただけが愛しい。そなた以外は誰も欲しくはない。
このままでは、そなたに恋い患い、わたしは死んでしまう。
だから、わたしのもとに帰ってきてくれ――
一行一行を大事に目を通し、わたくしは涙を袖で押さえた。
わたくしとて、主上を嫌ってお別れしたのではない。少なからず未練もある。が、帰ることは出来ないのだ……。
涙がちになるわたくしを、朋子と比那子がはらはらと見る。
美志真王殿は勝機あり、と微笑んでいる。
わたくしは涙を拭い、朋子に振り向いた。
「文箱をこちらに」
言われて、朋子は仏間から文机と文箱を持って来て、墨を磨ってわたくしに差し出す。
わたくしは一気に主上への想いを書き上げる。
――短い御縁でしたが、どうかわたくしとの縁(えにし)はこれきりとお思い下さいませ。
わたくしは所詮、地上に長く留まれぬ身だったのです。
わたくしはなよ竹の輝夜姫のように、羽衣天女のように、憂き世から離れ天に帰ります。
主上には想い患われることなく、どうか末長くご自愛下さいませ。
陰ながら、主上の御治世の安泰をお祈りいたしております――
わたくしは綺麗に御文を折畳み、美志真王殿に託した。
「わたくしからの、主上へのお返しです。
何といわれようと、今度ばかりは意志を曲げるつもりはございませぬ。
遠路遥々のお越しでございましたが、それだけを形見にお帰り下さいませ――」
返書を受け取った美志真王殿の頬が、ぴりりと引きつった。
「――解り申した。
だが、これで諦められる帝とは思われるな」
そう言い残し、美志真王殿はお帰りになった。
すっかり脱力したわたくしのもとに、朋子と比那子がいざり寄ってきた。
「厳子さま、お見事でございます」
安堵のため息を吐き、朋子がわたくしの肩を揺すった。
「いまはこれでよかったけれど、安心するのは早いわ。
美志真王殿が仰ったように、きっと主上はお諦めにならない。何が何でも連れ戻そうとなさるかもしれないわ……」
ごくり、と唾を飲み込み、わたくしは覚悟を決めねば、と思った。
‡
予見通り、主上はお諦めになっては下さらなかった。
一週間に一度は美志真王殿を差し向け、わたくしに御文を送ってこられる。
「わたしはここ何ヵ月、日々を都と摩尼峰の往復で費やしている。これではわたしの身が持たぬ。
わたしを助けると思い、いい加減に都に戻られぬか」
ついには、美志真王殿も泣き落としのようなことを仰るようになった。
わたくしは首を振り、にこやかに返す。
「こちらへの往復でお疲れなら、ゆっくり滞在なさればよいではありませんか。
少し下った願王寺殿も、僧坊をお貸しすると仰ってくださっています。
お疲れがひどいのなら、山を越えたところに有馬の湯もございますよ」
「わたしは遊びに来ている訳ではないのです!」
ころころと笑うわたくしに、憎らしそうに美志真王殿は仰る。
泣き落としといえば、主上の御文も相変わらずだ。
――観月の宴も、そなたが居らねば楽しめぬ。
近ごろは誰を抱いてもそなたと錯覚してしまう。
そなたの夢を見た朝は、政など手に付かぬ。
もう一度、そなたのたおやかな肢体を、豊かな髪を、柔らかな肌を感じたい。
わたしはそなたが居らねば、阿呆になってしまう――
懸命にわたくしを掻き口説こうとなさっているのが見て取れるので、わたくしも限界だと身に染みて感じた。
「わたくしは近く髪を下ろそうと思っているけれど、あなた達はどうする?」
朝の勤行を終えた後、わたくしは朋子と比那子に持ちかける。
ふたりとも仰天したという顔つきで、わたくしをまじまじと見る。
「い、厳子さま……ご正気ですか……?」
恐る恐る聞いてきた朋子の素振りが余りに面白いので、わたくしは思わず吹き出してしまう。
「わ、笑い事ではございませぬ!」
むきになり、朋子はわたくしを咎める。
無理矢理笑いを止め、わたくしは居住まいを正した。
「わたくしは本気よ。
主上は女身であるわたくしに執着していらっしゃる。
だから、いっそのこと髪を下ろして戒を受け、正式に尼になろうと思ったの。
わたくしが俗世を捨てれば、主上も思い切って下さるかもしれない。
もともと十八の歳に具足戒を受けるつもりだったのだから、わたくしにとっては機が遅くなっただけなのね。
わたくしは尼になるけれど、あなた達には強要しないわ。あなた達の好きなようになさい」
わたくしの言葉に、ふたりとも暫し黙り込む。
やがて朋子が顔を上げ、口を開いた。
「……もう少し、考えさせて下さいませ。
急なことで、まだ飲み込めておりません」
わたくしは頷き、それでいいわ、と告げた。
「それで、ここまでお世話になったのだから、受戒の御導師を空海さまにお頼みしたいの。
これから、その旨の御文をしたためようと思っているのだけれど、空海さまのもとに御文を届けてくれる伝手はあるかしら」
朋子は首肯する。
「武庫にいる山人と海人が、都にいようと高野の山に居ようと、叔父のもとに走るようになっています」
「では、早速支度をするわ。
念のため、都の御使者には絶対に他言してはだめよ。
知られてしまえば、絶対にどんな手を使ってでも主上に止められてしまうわ」
そういうわたくしに、ふたりは頷いた。
わたくしは浮き立つこころで空海さまへの御文を書き付ける。
空海さまへ御文を出すのは久方ぶりだった。主上の妃であった頃は、空海さまに御文を出すなど憚られたが、自由の身になった今、師と弟子という関係で堂々と出せる。
わたくしはこころを籠めて御文に封をし、あらかじめ呼んでおいた山人にそれを託した。
数日後、冬に向けて衣に綿を詰めていると、朋子が御文を手にわたくしの傍によってきた。
「空海さまからのお返事ね」
わたくしは上ずる声で御文を受け取り、逸る手つきで開封する。
が、そこにあったのは信じられない内容だった。
――姫は受戒を急がれるが、そう焦る必要はない。
なにも尼にならねば御仏にお仕えできぬ訳ではないのだから。
いまはその身のままで、どれだけご自身が即身成仏できるか、考えられよ。
姫にはまだ沢山時間がおありなさるのだ――
どこか突き放した空海さまの御文面。
この後の内容には、如意輪法を極めなさるのはよいことだから、直々に秘法を伝授いたそう。わたしは姫に合わせ、いつでも都合をつけるので、ご希望の日時を教えられよ、とあった。
――空海さま、どうして……?!
十年前、一筋に如意輪さまにお仕えするわたくしに感心して下さったのは、空海さまである。
それを今になって突き放されるのか……。
わたくしは空海さまに対する疑念と悲しみに苛まれた。