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(3)




 砕けた紺色の石の欠片の上に、月光が射している。月の光が粒子となり、欠片と欠片を繋げる。

 ――喜びなさい、喜びなさい。光の石戻りぬ。
 崇めなさい、崇めなさい。宇宙の神の尊きなるを。
 輝かせなさい、輝かせなさい。巫女姫の勾玉を。

 聖霊の言祝ぎを受けて、紺色の勾玉がまばゆく輝きだす。
 わたくしは手を伸ばして、輝く球体と化した勾玉を受けた。




「夢……」

 朝起きて手のなかを見たが、勾玉は入っていなかった。
 次の日に廣田の社に乗り込むため、たっぷり睡眠をとったわたくしは、ぼんやりと夢の勾玉を思い出していた。
 起きだして襦袢の上に御統玉を身につけ、法衣を着込む。
 襖を開けて部屋から出てきたわたくしを待ち兼ねたように、廊下にいた朋子が大きな紙の包みを手にして、わたくしのもとに駆けてきた。

「どうしたの?」

 頬が赤く上気した面に、わたくしは訝しむ。

「あ、あの、今朝一番に、山人を通じて丹後の籠宮からこの荷物が届けられました」
「籠宮から?」

 わたくしは密かに、実家である籠宮の父上に、播磨の摩尼峰に移ったことを伝えていた。だから、この荷物は父上からだろう。
 包みを開き中身を見てみると、深藍の襦袢と同色の裳、そして水色の上衣、青色の帯と羅の比礼が入っていた。
 わたくしがそれらを手に取り上げたとき、じゃらり、と何かが音を立てて落ちた。それを拾おうとして、わたくしは瞠目する。

 ――それは、瀬織津姫が胸に飾っていた、紺色の大きな勾玉がついた、二連の御統玉だった。

「まぁ……なんと美しい御統玉でしょう。高貴で、偉大な霊力を秘めているように見受けられますわ」

 傍らで見ていた朋子が、ほぅ、とため息を吐く。
 ――どうして、父上はこの御統玉を……瀬織津姫が身につけていたものと同じ御統玉を用意されたのだろう。
 他に何かないかと、包みのなかを探ってみると、書簡らしきものが入っていた。わたくしは書簡を開いて目を通す。

 ――一昨日の夜、夢に瀬織津姫が現れ、わたしの目の前にこの御統玉を差し出した。御統玉に付いている大きな勾玉は、海部の巫女姫の勾玉だった。
 わたしはこの夢を霊夢と受け取り、神倉を開け紺色の勾玉の破片を確かめた。
 あろうことか、紺色の勾玉は元の形に復活していたのだ。故に、わたしは直属の玉造部に命じ、夢に見たままの形で御統玉を復元した。
 それとともに、そなたの波動が高まったのを感知し、石の復活とそなたの関わりを察知、女神の装束と同じものを用意して、御統玉を付けてそなたに送る。――

 瀬織津姫が、父上の夢に……一昨日の夜といえば、わたくしが瀬織津姫の記憶を取り戻したときだ。いにしえの記憶を取り戻し、波動も過去の高さまで上がったのだろう。それに感化された紺色の勾玉が復活したのかもしれない。

 ――父上、ありがとうございます。

 父の機転に、わたくしは感謝する。
 法衣の下に付けていた御統玉を外し、巫女姫の御統玉を身につける。装束は絹の布に包んで、廣田の社に持ち込むことにした。

「……空海さまは?」

 支度を手伝ってくれていた朋子に尋ねる。

「叔父なら、既に西の峰に」

 そう、と呟き、わたくしは朝餉を食するため居間に向かった。
 朝の膳を整えていた比那子が、入ってきたわたくしに気付き、棚に手を伸ばして一通の書簡を手に取った。

「厳子さま、美志真王さまが、文をわたくしに言付けてまいりました」
「美志真王殿が?」

 美志真王殿が言付けられた文というなら、主上からのものだろう。
 主上からの消息は久しぶりで、空海さまが摩尼峰に参られてから、一・二度しかなかった。空海さまと御使者の美志真王殿が遭遇したことは一度あったが、空海さまはあやしまれることなく切り抜けられた。
 わたくしは御文を受け取り、封を切り中身を見る。

 ――昨夜、天羽衣を纏い宙を舞う天女が美しい玉となり、とぐろを巻く龍の手のなかに納まった夢を見た。
 天女に纏わる夢は、いつもそなたに関わることだった。
 そなたを掌中の玉のように慈しむ者が側に居ないか、気が気でないのだ。
 今も、そなたはわたしのものなのだろうか。――

 御文を読み終えたわたくしは、思わず料紙を握り締めてしまった。
 主上は以前から、わたくしに関わることには、何故か勘がおよろしかった。主上は、わたくしと空海さまの関係に気付かれるかもしれない――。
 空恐ろしさから、わたくしは手に震えが走るのを感じた。主上がわたくしと空海さまの関係の事実を掴まれたら、空海さまはどうなるのだろう。君主の妃を盗んだ罪を問われるのだろうか。そうなれば、密教を広めることはおろか、空海さまの御身に危険が及ぶ可能性がある。
 成り行きで出来てしまった関係だが、それは空海さまやわたくしを失脚させるほどの重い罪だったのだ。
 動揺しつつも、わたくしは気を強く持とうとする。
 わたくしは比那子に文箱を持ってこさせ、手早くお返しを薄様の料紙に書き付けた。

 ――主上は何をお疑いになっていらっしゃるのですか。
 わたくしは御仏にお仕えし、身を清く保っていますのに。
 俗世の穢れを落とす事が、今のわたくしの大事だというのに、何故男子を通わせねばならぬのですか。
 全ては、主上のお思い過ごしです。わたくしは離れても、魂は主上のお側に侍っております。
 どうか、わたくしをお疑いにならないで。わたくしを信じてくださいませ。――

 いささか弁解じみた文面だが、これしか書きようがない。
 わたくしは御文に厳重に封をして、美志真王殿が参られたらお渡しするようにと、比那子に手渡す。

 ――まだ、真実が明らかにされたわけではない。これからは、今以上に細心の注意を払わなければ。
 なにより、わたくしには今、迷っている時間などないのだ。

 この御文に関することは、瀬織津姫を甦らせてから、改めて空海さまと相談しよう――わたくしはそうこころに決めて、朝餉を頂いた。
 僧房の戸口で廣田の社に持参する荷を改めて確認すると、わたくしは見送りに立った朋子と比那子に、空海さまのお世話と留守番を頼み、胸を張って一歩を踏み出した。











 廣田の社には、武庫の地に辿り着いたとき、一度寄宿したことがあった。
 和邇氏の末裔である山背氏(やましろし)の祝部は、尼僧姿のわたくしに一瞬目を見開いたが、直ぐ様笑顔を作り、わたくしを迎え入れた。
 参籠する者の部屋にわたくしを導きながら、祝部は何故かちらちらとわたくしを盗み見てくる。
 訝しんだわたくしが、何か? と聞くと、祝部は嘆息しながら苦笑いした。

「海部の宝である巫女姫を御仏に捧げるのは、何やら惜しい心持ちがいたします。
 帝の妃に盗られるのは致し方ないが、よりによって仏門とは……」

 勿体なさそうに、祝部は語尾を小さくしながら言う。
 どうやら、彼は社を創始した祝部――つまり海部の末裔であったので、海部の巫女姫であるわたくしが神にお仕えする道を捨て、仏道に入ったのが惜しかったらしい。
 祝部の言葉に意味ありげに微笑みながら、わたくしは部屋に荷を置き、祝部を振り返った。

「今は、ご祈祷に参られている方がいらっしゃるでしょうから、夜のお勤めが終わられた後にでも、大神さまに拝したいのです。
 よろしいでしょうか?」

 わたくしの言葉に、祝部は首を傾げ訊ねてくる。

「それはよろしいですが――…、お望みならすぐに時間を空けますので、今、大神さまの御前に参られればよろしいではありませんか」

 わたくしは微笑み、頭を振る。

「今でなくとも、よいのです。
 わたくしよりも、差し迫って大神さまに祈りたい者も居ましょう」

 しかし……と食い下がる祝部を、まだやらねばならぬ仕事があろうと追い立て、わたくしはひとりで部屋に居た。
 板戸を閉めると、わたくしは父上が用意した装束に着替えるため、身に付けているものを脱ぎ捨てる。
 ふと鎖骨の辺りを見ると、昨日の夕刻、空海さまが付けられた情事の痕が残っていた。わたくしは鬱血した痕に指を添える。

 ――例えひとりで廣田の神に挑もうと、そなたはひとりではない。常に、わたしは伴に居る。

 わたくしに濃い愛撫を与えながら、空海さまはそう仰って下さった。確かに、今でも身体に空海さまの波動が残っている。
 否、遠くに身があろうとも、丹後や後宮に居た頃と同じように、空海さまの魂は側に居てくださっている。
 わたくしは新しい衣に袖を通し、裳を履く。着重ねして帯を結び、櫛削った髪の一部を、瀬織津姫が用いていた物と同じ形の髪飾りで留めて、比礼を身に纏った。
 最後に外していた紺色の勾玉が施された御統玉――瀬織津姫の神器を胸に飾る。
 部屋に備え付けてあった鏡で自身を映すと、瞑想時に見た瀬織津姫の姿があった。
 父上は細やかな心遣いで、注意深く装束を整えて下さったのだ。わたくしはひとしきり父上に感謝し、蓮華座を組み、思考に集中する。

 ――祝部はわたくしがここに来たとき、密かに動揺していた。彼は何かを知っているのだろうか。

 わたくしは瞑想に入りながら、先程触れた彼の波動の記憶を、細かいところまで読み解いてゆく。
 狼狽え、追い込まれてゆく祝部の『こころ』が見えてくる。

『あぁ、どうすればよいのだ……。夢のなかの女神が、啜り泣く女神が、現身となってわたしの前に現れた。
 我が先祖の背反が、嘆きの女神に生き写しの海部の巫女姫に、知られてしまうのか……』

 わたくしは目を開け、鈍く輝く紺色の勾玉を見る。

 ――嘆きの女神……? 瞑想で見た天照大神荒御魂神は、悲しみなど持たない女神だったわ。

 はっと思い出し、わたくしは目を見張る。
 平城の都の時代に、摩尼峰に祭られていた瀬織津姫の青の玉を、官人が呪符でもって封じて持ち去って、巫達によって玉を変質させた。
 それによって瀬織津姫は天照大神荒御魂神となったのだが、変化するとき悲鳴のような音とともに白い靄が揺らめき空に溶け込んだ。空間と同化した白い靄は、あの後どうなったのだろう。
 わたくしは窓を開け御簾を下げると、再度、瞑想し、この社で起こったことを、物や自然物から読み取ろうとする。
 手や足の末端から、何かが入ってくる。それは、念のような気だった。念は、この社の有り様をつぶさに伝えてきた。
 わたくしは念の語り掛けを理解する。

 ――この社には、哀しみが染み付いている。これは……孤独と悲痛、そして愛慕や無念?

 わたくしは暫し考えを巡らせる。
 そのとき、胸にある紺色の勾玉が、湿気を持った。じっとりと水気を含み、わたくしに何かを訴えてくる。
 わたくしは宥めるように勾玉を両手で包み、不意に閃く。

 ――この玉は瀬織津姫の勾玉。では、この社に染み付いている念は、瀬織津姫の残留思念?

 瀬織津姫の哀しみに勾玉が反応した。瀬織津姫の魂は、微細ながらここに残っているのだ。
 勾玉は潤いを持ち続けている。まるで、その力が使われるのを、今か今かと待っているかのように。
 わたくしは思い至る。

 ――この勾玉は、瀬織津姫を復活させる鍵となる物かもしれない。

 試しに、窓に近付き御簾を上げ、勾玉を前に掲げてみる。
 木々が、揺れた。風が騒めいた。――勾玉目がけて、瀬織津姫の思念が寄り付いてきた。慌てて、勾玉を手のなかに収める。
 わたくしは瀬織津姫の残留思念に詫びた。

 ――ごめんなさい、もう少し待って。
 夜になったら、あなたを解放してあげるから。

 昼は太陽の霊力が強い時間。今、天照大神荒御魂神に感付かれてしまっては、瀬織津姫の念ともども、計画が潰されてしまう。
 事を起こすのは、太陽が眠りに就いた夜。夜こそ、月の女神である瀬織津姫の――わたくしの力が増す時。勝負を掛けるなら、夜だ。
 わたくしは勾玉を握り締め、燦々と輝く太陽を見つめた。




 望月の輝く夜。
 祝部の心尽くしか、丹精の籠もった夕餉を饗され、わたくしは有り難く頂いた。
 社に傅(かしず)く者達が寝静まった頃、わたくしは廣田の社の本殿に向かう。
 本殿の階の前では、祝部が待っていた。巫女姫としての衣を纏ったわたくしを、祝部は瞠目し凝視した。

「嘘だ――…」
「何がですの?」

 わたくしの問い掛けに、祝部は我に返る。彼は額に脂汗を浮かべていた。

「……出家なされたのでは、なかったのですか」

 わたくしはにっこり笑い、返す。

「尼姿は、世を――主上を欺くためのものですわ。
 表向き出家したように見せなければ、主上はわたくしをお諦めになっては下さいませんもの。
 ――それより、余り顔色がよろしくないようですわね」

 物思わしげに聞くと、祝部は唾を飲み込み、ようよう答えた。

「――その、勾玉は」

 祝部は、艶を帯びて胸に輝く勾玉を指差す。
 わたくしは勾玉に手を添え、祝部によく見えるよう近付く。
 震えながら、祝部は後ずさる。

「あぁ、この勾玉は、海部の巫女姫の勾玉です。
 竹野姫が自害するときに壊してしまったのですが、一昨日、不思議なことに欠片が癒着して、もとの形に戻ったのですよ」

 目に見えて解るほど、祝部は狼狽していた。ふるぶると口元が震え、手が戦慄いている。

「み、巫女姫の、勾玉……」

 わたくしは祝部のこころのなかに入り込むように、彼の目を覗き込む。眼に霊力を籠め、彼の恐怖心を煽る。

「この勾玉は、もとは出雲毘売(いずもひめ)といわれた、瀬織津姫の持ち物だったのですよ。
 出雲の巫女姫だった瀬織津姫が、夫である饒速日尊とともに丹波の地に移られ、我ら海部氏が根を下ろしました」
「知っています……わたしも、海部氏の血を引く者ですから」

 そうですか、と笑みを張り付かせたまま、わたくしは勾玉をずい、と祝部の前に押し出す。
 ひぃっ! と悲鳴をあげ、社の御柱を背後にした祝部はへたり込んでしまう。
 わたくしはわざと、祝部に勾玉が見えるような格好のまま、しゃがみこんで祝部に目を合わせた。
 祝部の顔が、恐怖に引き攣る。

「お、お願いです……! その勾玉を、しまってください……!」
「あら、どうしてですの?」

 わたくしは空恍(そらとぼ)けて、不思議そうに返す。

「お、怖ろしいのです……! その勾玉は、瀬織津姫のもの……壊れてしまったものが、どうしてここに辿りついたのか……。
 何故、あなたは女神と同じ顔と装いをして、その御統玉を身に着けているのか……」
「女神とは? 天照大神荒御魂神ですか?」

 はっとして、祝部は口元を押さえる。

「どうして、あなたは天照大神荒御魂神の御姿を知っているのですか?
 わたしが女神と同じ顔をしているとは、どういうことなのですか?」

 眼差しに最大限の呪力を乗せ、わたくしは相手の弱みに楔を突き立てる。
 あ、あ……っ、とか細い声を洩らしながら、祝部は目から涙を零した。

「な、嘆きの女神……」

 祝部はわたくしの中から、何かを見出したのか、がばりと突っ伏し、縮まりながら物を言い出した。

「お、お許し下さいませ……! わ、我らが一族の背信を、御寛恕(ごかんじょ)下さいませ……!」

 わたくしは、彼が我が手の中に落ちたのを感じた。今なら、何でも聞きだせるだろう。

「あなた方一族が犯した背信とは、何なのです?」

 祝部の肩を起こしながら、わたくしははっきりとした声で訊く。
 涙や鼻水でぐしょぐしょになった顔をあげ、祝部は震え声で呟きだした。

「わ、我らが神々を……朝廷に売り渡しました……。
 神奈備山・摩尼峰に祀られていた男祖神を封じ、女祖神をこの社に拉致しました。
 女祖神は、巫達の呪によって……今の天照大神荒御魂神に……。
 我らは朝廷の狼藉を許し、神に対して働いた無礼をただ黙視していました……。
 わ、我らの神々を……我らが先祖代々祀っていかねばならぬ神を、我らが殺めてしまいました……」

 祝部の告白に、わたくしは溜息を吐く。
 祝部・山背氏も保身のためには仕方がなかったのだろう。我ら海部氏も、朝廷に蹂躙されてきた。気持ちは解らなくもない。
 が、彼らが朝廷の横暴を許したために、この武庫の地の陰陽の均衡が崩れたのだ。やはり、どんなに懺悔しても許されはしない罪を彼らは犯したのだ。
 立ち上がろうとしたわたくしの裳に、祝部はしがみ付く。

「お、お許しを!
 現世(うつしよ)に現れた嘆きの女神よ、どうか我らを罰し給うな……!」

 わたくしは醜態を晒しながらも許しを乞う祝部に、哀れさを感じた。
 彼は何もしていないのだ。何かをしたのは彼ではなく、また、彼の先祖でもない。彼ら一族も、朝廷の被害者なのだ――。
 わたくしは祝部の手を取り、語りかける。

「わたくしは、あなたが見た嘆きの女神ではありません。この世に生きる人間です。
 が、巫女として、わたくしは為さねばなりません。
 あなたは、それを許してくれますか?
 決して、悪いようには致しませんから」

 何が何やら解らぬまま、祝部は頷く。

「わたくしは、あなたを、嘆きの女神を解放しましょう。
 そのために、ここに来たのです」

 そう言い、縋り付いている祝部を振り払い、わたくしは立ち上がった。
 紺色の勾玉を丸い月に向けて掲げ、目を瞑り呪を唱える。

「この玉は
 我が玉ならぬ 瑞女(みづめ)なる
 瀬織津姫が持ちし玉――
 大倭日高見国の厳女(いつめ)たる
 瀬織津姫よ、我がもとに
 降り立ちたまえ――」

 手に持った勾玉が、緩く振動する。
 頭上が、光った。
 満月が煌々とした光を放ち、閃光の瀑布となって、勾玉目掛けて降りてきた。
 それとともに、森羅万象が轟音を立てて揺すぶられ、社の全てに乗り移った瀬織津姫の残留思念が勾玉に吸い込まれてゆく。
 勾玉に乗り移った瀬織津姫の残留思念に、わたくしは語り掛ける。

 ――わたくしは、瀬織津姫の別霊(わけみたま)。わたくしはあなたの器。さぁ、わたくしの中に入っておいでなさい!

 勾玉がぶるりと震え、悲哀の波動がわたくしのなかに入ってくる。
 それは、わたくしが持つものと同じもの。饒速日尊への熱い想い。引き離された番への、悲しいまでの慕情。この武庫を護れなかったことへの、悔悟の思い――。

 ――いいわ、わたくしが全て受け止める。わたくしはあなた、あなたはわたくしなのだから……。

 わたくしだから、武庫の地の瀬織津姫の想いを受け止められる。わたくしが生まれた因は天川から発しているが、瀬織津姫から別けられた御魂は、全て繋がっているのだ。だから、武庫の地の瀬織津姫も、天川の瀬織津姫も、同じなのだ――。
 祝部は、わたくしが社にあった瀬織津姫の残留思念を全て身の内に納めたのを、余すところなく見ていた。全てが収束したとき、祝部は呆けたまま呟いた。

「……女神……我が女祖神……!」

 わたくしは振り向き、祝部に微笑みかける。
 そのとき、本殿の扉がバァン! と鋭い音を発てて激しく開けられた。見ると、怒りの形相の女神――天照大神荒御魂神の霊体が、ゆらりと宙に浮かんで進み出てきた。

『我が領域での暴挙、許さぬ……』

 祝部は飛び上がって、女神に平伏する。彼は怖ろしさにがたがたと震え、まともに女神を見ることが出来ないでいる。

「お、お許しを、お許しを……!」

 わたくしは祝部を庇うように前に出、ひたと睨みあう。

「今のあなたは、本当のあなたですか?」

 物怖じしないわたくしの面持ちに、女神は憤怒の眼でわたくしを見据える。

『何を……?』

 わたくしは紺色の勾玉を女神に向かって突き出し、月光に照らし輝かせる。
 太陽の女神は月の力を帯びた勾玉に、目を細める。

『あな忌々し。この玉は我を邪魔するもの。月は太陽を隠すもの』
「そう、月は太陽を隠し、自身のなかで太陽を憩わせる。
 あなたはもとは太陽ではない。太陽は、あなたとは別の存在――」

 きらり、と勾玉が輝く。わたくしの手を伝って、武庫の瀬織津姫の波動が勾玉に宿る。
 そしてわたくしは呼ぶ、女神の殻を打ち破る、本当の太陽を――。

「豊葦原瑞穂国に天下りたる、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命に申さく
 汝、瀛都鏡、邊都邊、八握剣、生玉、足玉、死返玉、道返玉、蛇比礼、蜂比礼、品物比礼の十種神宝を持ちて
 天磐船に乗りて豊葦原瑞穂国に降り立たん
 我、国常立大神の巫女姫として、汝をここに呼び給う
 ひと、ふた、みよ、いつむゆ、ななや、ここのたり
 ふるへゆらゆらとふるえ 
 ひと、ふた、みよ、いつむゆ、ななや、ここのたり
 ふるへゆらゆらとふるえ――」

 わたくしは呪力を籠め、饒速日尊を招聘する。
 ――天照大神荒御魂神の周りに、ひとつ火が灯った。それはひとつふたつと増え、最後には十の灯りを燃え立たせ、女神をぐるりと取り囲んだ。
 それとともに、本殿の祭壇中央に祀られている御神鏡が、一閃の光芒を放った。光は炎によって身動きが取れない女神を直撃し、女神の霊体を射通した。

『ギャアァァッ!』

 鏡の光は、より強くなる。
 わたくしはその光の波動に、覚えがあった。正確にはふたつの波動を感じた。

 ――饒速日尊と、空海さまだわ……。

 太陽神である饒速日尊の波動に太陽を感じるのは解るが、空海さまの波動からも強力な太陽の霊力を感じるのが、異様だった。
 否、それは当たり前の事。空海さまと饒速日尊は源は同じだから。空海さまも、いつもは抑えておられるが、太陽の――大日如来の波動を持っておられるのだ。
 わたくしが思考に捕らわれている間に、勾玉の瀬織津姫の波動も、より強くなってゆく。月の、水の霊気が最大級の高まりを見せていた。

 ――今だ! 女神よ、偽りの姿を脱ぎ捨て、本来あるべき姿を取り戻しなさい!

 わたくしは勾玉の霊気に自身の霊力も籠め、太陽女神にぶつける。
 月と水の霊気に全身を包まれた女神は、悶え苦しみながらのたうつ。わたくしは気を緩めず、霊気を放ち続けた。

『きゃあぁぁっ――――!』

 女神を包んでいた霊気が、破裂した。
 暫時、本殿は細かな霧の粒子に包まれる。
 急に空が雲に覆われ、ぽつり、ぽつりと雨が降り出した。
 雨脚が強くなってきたので、わたくしは祝部の腕を掴んで本殿に仮宿りしようと前を見る。
 中を覗うと、靄で霞んだ屋内に崩折れる女神が居た。
 靄が晴れ、女神は顔を上げると、わたくしを見る。
 ――女神は、わたくしと同じ顔と姿をしていた。

『――感謝します。我が同胞(はらから)よ』

 それは紛れもなく、瀬織津姫だった。
 女神は後ろを振り返り、御神鏡に残った波動を手繰る。見る見るうちに、女神の目に涙が浮かんだ。

『これは、あの方の波動……あの方は、ご自分を取り戻されたのですね。
 わたくしはこの地から、荒んだあの方の波動を感じていましたが、不自由な身ゆえ、お助けする事も叶いませなんだ。
 ……あなたが、あの方を助けてくださったのですね』

 わたくしを見、瀬織津姫は微笑む。
 同じ御魂を持つもの同士、そのこころはよく解る。が、武庫の地に居る饒速日命は、ここにいる瀬織津姫のものだったのだ。
 ――その饒速日尊に、わたくしは触れたのだ。
 申し訳なく思い俯くと、霊体の瀬織津姫はわたくしの手を取った。それは肉体の質感を持っていなかったが、確かに温もりを伝えてきた。

『いいのです。わたくしは、あなたの波動も感じていたのですから。
 わたくしは同胞であるあなたが武庫に逃れてきたのを感じ取り、嬉しかったのです。
 あなたとわたくしは、同じ御魂で繋がっているのですもの。天川でのことも、今、武庫にいらっしゃるあの方の別霊も、わたくしは知っていました。同胞同士はいつも繋がっています。
 天川の同胞があの方の別霊を愛でたときの記憶や時間も、わたくしは共有しているのですもの。
 あなたとあの方の別霊が来た事によって、あの方とわたくしは開放されると信じていました。
 あなたがあの方を愛でたのを、わたくしはわたくしの出来事として受け取っていました』
「そうだったのですか……」

 瀬織津姫の言葉に、わたくしは安堵する。
 わたくしは女神に、武庫の饒速日尊が空海さまと同化してしまった件を話す。瀬織津姫は困ったような顔をして微笑んだ。

『本当に、あの方の執着心は困ったものですわね。
 わたくしに繋がるあなたに触れたいからと、別霊のなかに居座ってしまうなんて。本当に由々しき事ですわ。
 あの方はいつまでたっても、子供のようなところがおありですもの』

 ほほほ、と声を発てて笑い、瀬織津姫は愉快そうにわたくしの目を覗き込む。
 わたくしは正直、叶わない、と思った。
 深い饒速日尊の執心を、この女人はずっといなしてきたのだ。
 根は同じだから、空海さまとわたくしの間柄も、そう変わらないのかもしれないが。わたくしももとを辿れば瀬織津姫で、彼女として生きていた頃に饒速日命を宥め癒してきたのだから。
 ――でも、饒速日尊や瀬織津姫だった頃と今は違う。わたくしは、主上にも繋がれている。空海さまには空海さまの宿命がある。どれだけ愛があっても、繋がりあうこころがあっても、別々の生を生きねばならぬのだ。
 ふと目を上げると、労わり深い瀬織津姫の面があった。
 その瞳は、わたくしの懊悩を見抜いているようだった。一度は一体化したのだから、饒速日尊が空海さまと思考を共有できるように、瀬織津姫もわたくしのこころを読めるのかもしれない。

『そんなに嘆く必要はないのよ。
 あの方とわたくしとしての生はずっと共に生きられたけれど、それ以外の生では、惨憺たるものばかりだったわ。
 あの方と別の人生を生きた記憶を、あなたも持っているでしょう?
 別々に生きたからといって、あの方と全く繋がっていなかったといえて?』

 わたくしは首を振る。
 瀬織津姫の言うとおりだ。わたくしは過去生、空海さまと共に生きられなくても、死が互いを別っても、確かに繋がっていられた。
 ――瀬織津姫は、今生もそれと同じ、と言いたいのだ。
 だから、今生離れ離れになっても、こころは繋がり続けていられるのだ。別れを、恐れてはいけないのだ。
 頷くわたくしに、瀬織津姫は美しく微笑んだ。
 見詰め合うわたくしたちの間を、差し挟む声が。

「あの――…」

 声のほうを見ると、肩身の狭そうな祝部が行儀よく座っていた。
 瀬織津姫と話すのに熱中して、すっかり彼の存在を忘れていた。
 祝部は瀬織津姫の顔を見ると、深々と手を突いた。

「今までのご無礼、お許しください。
 子孫として、あなた様方を祀る祝部として、我が一族はしてはならぬ罪を犯しました。
 ――どうか、お許しください……!」

 最後には涙声になった祝部に、瀬織津姫は立ち上がり彼の前に座ると、彼の肩を優しく抱き起こした。
 祝部は潤んだ目で、真実の姿を取り戻した女神を見る。

『いいのです。過ぎた事は、忘れましょう
 それより、このままでは、あなたの立場も辛いでしょうね』

 わたくしは瀬織津姫の言葉の意味を測りきれず、首を傾げてしまう。
 瀬織津姫は苦笑いして、わたくしに言った。

『現在の権力者にとって、わたくし達の存在は邪魔なだけなのでしょう?
 だから、わたくし達が復活したと知れたら、この方の命が危ないわ』

 わたくしは目を見開き、事の重大さに気づく。

 ――そうだ、瀬織津姫を復活させたのはいいが、復活させただけでは、すべてを終了したとはいえないのだ。

 目を白黒させるわたくしに、瀬織津姫はにっこりと微笑む。
 わたくしは女神をまじまじと見つめた。何か、考えがあるのだろうか……。
 女神は祝部に手を添えたまま、わたくしを手招きした。

『わたくしに考えがあります。
 これは、わたくしだけでなく、あの方のお力も必要です。
 だから、わたくしをあの方のもとに連れて行ってください』

 そう言って、瀬織津姫はわたくしを見る。

『わたくしは、今のままの姿を取り続けるのは、実体がないので疲れることなのです。
 なので、あなたの身体をお借りしてもいい?』

 わたくしは、思わず自分を指差す。
 その様子が可笑しかったのか、瀬織津姫は面白そうに笑うと、付け加えた。

『何も、あなたの身体を奪うわけではありませんわ。
 わたくしは、あの方とは違いますもの。
 今回のことが上手くいけば、あなたの愛する方の中から、あの方をお出しすることも出来るかもしれません』

 どきりとし、わたくしは瀬織津姫を見る。
 わたくしが感じた不安を、見事に見透かされてしまった。饒速日尊の例があるから、どうしても憂慮してしまうのだ。
 が、瀬織津姫はその不安を取り除き、さらに最上のことを考えていてくれたのだ。




 わたくしは感謝し、瀬織津姫が述べる計画に耳を傾けた。
 ――既に雨が止み、武庫の地に夜明けが近づいていた。 





回帰するいにしえ(4)へつづく
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