回帰するいにしえ(1)へ



(2)




 明かり採りの窓から、眩しい光が差し込んでいる。
 麁乱神か空海さまがそうして下さったのか、わたくしは寝衣を着せられた状態で、夜具のなかで寝ていた。
 夢のなかで過去への長い旅をしたが、意外と頭はすっきりしていた。わたくしは衾のなかから起き出て、法衣を身に纏う。
 既に日が高くなっており、僧坊の外では寺院建立のための金属音が響いている。わたくしが食房に向うと、待っていたかのように、朋子が厨から顔を出した。

「お目覚めになられましたか、今すぐ朝粥などの用意をいたしますゆえ……」

 直ぐ様朝餉の支度をしにゆこうとする朋子を呼び止め、わたくしは円座のうえに座る。

「……空海さまは?」

 水仕事をした手を、小袖のうえに身につけた褶で拭きながら、朋子は立ち止まり向き直る。

「……現在建立中の、西の峰の寺の様子を見に参っております」
「そう……」

 空海さまが摩尼峰に入られてから知ったことだが、空海さまはわたくしに密教を教授する傍らで、合間をみて朋子が監督代行していた西の峰の寺の監修をなされていた。
 折敷(おしき)に朝の膳を載せてわたくしの前に据えた朋子はちらり、とわたくしを見やって口を開いた。

「厳子さま、お食事を済まされてから西の峰に参られますようにとの、叔父からの言付けです」

 箸を手に取り顔を上げ、わたくしはややあって頷く。
 一体、空海さまは何の目的でわたくしをお呼びになるのか……。気になることといえば、ひとつしかない。

 ――空海さまは、憶えていらっしゃるのだろうか。

 変遷を繰り返してきた過去世のことを。
 わたくしが空海さまの御魂と生きたのは、以前に麁乱神に言われたとおり、一度や二度ではなかった。その過去世すべてが、空海さまの御魂と縁で繋がれていた。今度の生は我が欠片である弁才天女が望んだものであったが、それさえ、離れられぬ絆ゆえといえた。
 ――それを、空海さまはどこまでお知りになっていらっしゃるのだろう。
 わたくしは早々に食事を採ると、西の峰に足を向けた。



 我が庵がある一帯と違って、西の峰は草深い山のなかにある。
 わたくしにとって、西の峰は空海さまと謀った麁乱神に犯された屈辱の場所。が、今は男神に対する熱い慕情しかなく、一連の暴挙も許していた。
 庵から西の峰は少し距離があり、わたくしは山慣れた足付きで進む。
 途中、道なかにわたくしが麁乱神に憑いていた雑霊を封じた二瘤の山に似た磐座があり、堅く注連縄が張られている。
 それを通り越し山の中を歩くと、林を切り開いた場所が見えてきた。そこから、鎚を振るう音がしてくる。
 見渡せば、我が庵よりも整いつつある堂宇が、端然と並び建っている。どうやら、空海さまはこちらの寺の完成を急いでいらっしゃるようだった。
 わたくしは現場に入り込み、工人をひとり捕まえて、空海さまの行方を尋ねる。工人の指差す先に目をやると、施工図を手に工人の頭領らしき人物に指図する空海さまを認めた。

「空海さま――…」

 わたくしが近付いてきたことに気付き、空海さまは施工図を頭領に預け、顎で現場から離れた木陰を示し、先に向われる。
 後を追ってきたわたくしに、根元に座るよう命じられる。素直に従うと、空海さまも隣で蓮華座を組まれた。

「――昨夜のことは、すべて見ていた」

 やはり、そうだったのか……わたくしは驚くことなく、事実を認める。

「麁乱神……否、饒速日尊(にぎはやひのみこと)と言ったほうがいいだろう。彼が、そなたの封じられた記憶を解いたのだ。
 わたしはそなたが過去を思い出していくのを、呪を使い饒速日尊とともに見ていた」

 わたくしは静かに頷く。
 そう……麁乱神の真の名は、饒速日尊と讃えられた海部氏の始祖・天照国照彦天火明命だったのだ。
 そして、わたくし……弁才天女の真名は、瀬織津姫(せおりつひめ)の呼び名を持つ狭依姫(さよりひめ)。海部氏はわたくしのことを、天道日女(あめのみちひめ)と伝えている。巷では、天狭手依比売(あめのさでよりひめ)・市杵島姫(いちきしまひめ)ともいう。

「空海さまは……前の世のことを、お知りだったのですか?」

 空海さまは首肯され、遠く武庫の海を見遥かしながら呟かれる。

「わたしは弁才天女……瀬織津姫と別れてから、女神からの知恵を無駄にせぬよう、さらに修業に励んだ。
 ……本当は、瀬織津姫への遣る瀬ない想いを紛らわせたかったのやもしれぬ。
 そんなわたしに、日頃から敬愛していた秦氏の沙門(しゃもん)・勤操(ごんぞう)大徳が虚空蔵菩薩求聞持(こくうぞうぼさつぐもんじ)の秘法を伝授したのだ」

 贈僧正・勤操大徳は大和の高市の生まれの人で、空海さまが大和で修行された頃、大安寺にいらっしゃったという。三十一歳で具足戒を受けられるまで沙門であられた空海さまに、和泉国槇尾山寺で沙弥戒を授けたのは勤操大徳といわれている。山行を好まれた勤操大徳の行いに空海さまは共鳴なされたのだろう、空海さまは自ら求めて槇尾山寺にいらっしゃった勤操大徳を訪ねられたのだという。
 その勤操大徳が、虚空蔵菩薩求聞持の法を授けられたのだ。
 虚空蔵菩薩はあらゆる知恵を統べる御仏である。
 が、過去の記憶を取り戻すことにより、無限の宇宙の理を身に呼び込むことが出来たわたくしは、それがまた違う意味を持っていることも知っていた。

「この秘法を成就した暁には、虚空蔵菩薩の持つ知恵の蔵がすべて開かれ、その理と知を余さず我がものに出来る、というものだ。
 わたしは誰にも邪魔されずに修業出来る地を探し、ついには生国・伊予二名島(いよのふたなしま。四国の古名)に渡り、阿波の大瀧岳(だいりょうだけ)の崖の上や、土佐の室戸崎(むろとのさき)の洞窟のなかで修法を行った。
 わたしは祭った虚空蔵菩薩に供物を捧げながら、不眠不休で一万回本尊の陀羅尼を唱え続け観想した。
 そして陀羅尼を唱え終わり結願した瞬間、夜明けに瞬く明星が一際輝きながら、わたしに迫ってきて口に入り込んだ」
「明星……!」

 わたくしは出てきた符号に、思わず息を呑む。
 ある過去世、わたくし達は供に明星を拝していたことがあった。それは大いなる豊饒の神の象徴。日ノ本に入っては国常立大神や弁才天女に結び付けられている。
 が、真実は大いなる豊饒の神のその奥にある偉大なる創世の神――空海さまの御魂をこの世に降ろすことを決めた存在であり、わたくしがこの世に生まれることを請い願った存在の標だったのだ。

「明星は虚空蔵菩薩の変じた姿といわれているが、それが口に入った途端、我が魂の封が瞬時に解かれたのだ。
 そして、我が脳裏に今生までの様々な生の記憶が広がった。そのなかには、瀬織津姫を妻にしていた饒速日尊としての生もあった。
 わたしと女神との繋がりは一方ならぬものだったのだと、感謝し畏怖もした。
 すべての記憶を取り戻し、その上、虚空蔵菩薩の知恵の蔵――宇宙に貯蓄された全生命の歴史を頭脳に埋め込まれ、最後に巨大な光と会った」
「――我らを創造した宇宙の主ですね」

 巨大な光――宇宙やこの世の生物を創造した神ともいえる『宇宙霊』は、すべての生物の生を司る。
 わたくしや空海さまの今までの生は、『宇宙霊』の直属の御霊として手となり足となり働いてきた。そのため、魂の望み――愛する方との生――を犠牲にしてきた。
 饒速日尊との生は添い遂げることは出来たが、周りの者の悲劇を目の当たりにし、彼らが護ろうとしたものを護るという指命を受け継いだ。――それこそが、わたくしが瀬織津姫として生まれた宿命であった。

「光――『宇宙霊』は我が魂に刻まれた今生の宿命を、今一度わたしに諭した。
 それは――この日ノ本に宇宙の真理を布くことだったのだ」
「宇宙の真理……」

 わたくしは法衣の袖に隠した数珠を握り締める。
 宇宙の真理とは、密の教え。人は全知全能たる宇宙の縮図であり、宇宙の賜物であると。

「『宇宙霊』は瀬織津姫がいつか今生に生まれなおすと、わたしに告げてきた。
 わたしは喜びに打ち震えたが、『宇宙霊』はわたしに戒めを与えた」
「戒め……」

 「戒め」とは、一体何であろう……。
 いやな予感が、足元からはい上がってくる。

「瀬織津姫とは今生では共に生きられぬ、と。
 魂が交差し肉体を結び合ったとしても、それはただ一時のこと。
 わたしは瀬織津姫に囚われてはならず、我が宿命を遂げることに命を捧げよと……」

 わたくしは顔を伏せ、袖で口元を覆う。
 そんなわたくしに憐憫の情を感じられたのか、空海さまは哀しみを湛えた眼差しでわたくしを見られた。

「だが、わたしはそなたを探さずにはいられなかった。
 遣唐使として渡唐する前に、生を受けたそなたの波動を感じたわたしは、御師である恵果阿闍梨から密教のすべての教えを受け取り、御師を看取ってすぐに日ノ本に帰国した。
 その後、すぐにそなたの波動を手繰って丹後の天橋立に向かい、幼いそなたと会った」

 それは、昨夜夢に見て知っている。
 青々とした松が砂州の上に生い茂っていた。吉佐海に面する砂浜で遊ぶわたくしを突然抱き上げたこの方が、後ろから付いてきた父・雄豊にわたくしのことを尋ねていた。
 彦火明神の子孫として霊力に恵まれていた父上は、一目でこの方を始祖・彦火明神の転生と気付いたのだろうか。生まれたときから国常立大神にお仕えすることが決まっていたわたくしにこの方が触れるのを許されたのだから。
 彦火明神は、天照国照大神の異名を持つ国常立神の御霊を身に受けた者であった。ゆえに、天照国照彦天火明神と冠せられたのだ。
 国常立大神に仕える巫女姫は、大神の妻として浄い身のままお仕えすることを本旨としていた。
 だからわたくしは、巫女姫として大神の現身(うつしみ)の妻となったうえに、大神の御魂とも契ったことになるのだ。
 それは奇(くす)しき縁といえたが、そのどれも、一時の繋がりでしかないのだ……。

「以来、遠く都からそなたを護るため靈氣を送り、そなたが頂法寺に入ってからは折々に垣間見ていた。
 が、年長けて美しく成長したそなたを見、わたしはそなたの前に出ることを欲してしまった。
 が、『宇宙霊』の戒めは絶対だった――それから間もなく、そなたは帝のものになったのだから」

 わたくしは秘かに唇を噛んだ。
 わたくしが主上にお仕えしたのは、致し方ない流れであった。この日ノ本にあって、畏(かしこ)き血筋の御方の命に逆らうことは、出来ないのだから。
 逃れられない運命でも、抗わずに受け入れようと、主上をわたくしなりに愛した。
 それが、空海さまを苦しめていたと思うと、不可抗力のことながら胸が痛む。

「それでも、わたしは浄い魂を持つそなたが、宮廷の陰惨さに耐えられるはずがないと思い、いつか後宮から逃れてくるだろうと思っていた。
 そなたを助けながら、どんなにそなたを……瀬織津姫を愛そうと、今生ではそなたに触れはしない、と肝に銘じていた。
 が、悪しき荒神に身を堕としてしまった饒速日尊の残留思念に負け、わたしはそなたを妻にしてしまった」

 空海さまは墨染の袂を破れんばかりに握り締め、振り絞るようにおっしゃる。
 この方が今、何を仰りたいのか、わたくしは知っていた。聞きたくはない。が、受け止めねばならない――。それが、わたくしの今生の運命なのだ。

「そなたを想う気持ちに嘘偽りはない。が、わたしには宿命がある。――わたしは、そなたを蔑ろにしてでも、密教を獲らねばならないのだ。
 わたしは、密教のためなら、我が命も犠牲にする覚悟だ」
「――よく、解っております」

 鎮まったわたくしの言葉に、空海さまはお顔を上げられ、わたくしを凝視される。
 わたくしは泣いていた。が、それでも眦を決して空海さまを見据えた。

「わたくしは今生に生まれるとき、神と約しました。
 あなた様に添うこと適わず、それ相応の苦しみを味わねばならぬと。
 それでも、あなた様と同じ時を生きるため、生を受けました。
 あなた様の宿命に仇を為すつもりは毛頭ございませぬ。それを為せば、わたくしの名折れとなります。
 離れたとて主上との縁が切れたわけでもなく、わたくしは、わたくしの宿命を生きております。
 もとより、今生でもあなた様と添おうなどと思っておりませぬ。
 だから……だから! そんなことを仰らないで下さいませ!」
「厳子……」

 哀切を漲らせた空海さまの御眼に居たたまれず、わたくしは立ち上がり背を向け歩きだす。

「……どこへ行く?」

 空海さまのお声に、涙を拭って少しだけ振り返り、わたくしは告げる。

「……いつもの、桜の下へ。今日は瞑想行をいたしておりませぬゆえ」

 そう言い残し、わたくしは足早に東谷から離れる。
 空海さまのお声が聞こえたような気がした。が、戻る事などできない。――空海さまの足手まといに、なりたくない。
 今生に生まれたことが間違いだったのか。わたくしがここにあるから、空海さまは惑わされてしまい、魂の情に惹かれてしまうのだろうか。
 思えば、わたくし達は何度も同じ過ちを繰り返してきた。宿命に背き、野放図に求め合ってしまった。時代が、周りが求めぬというのに、肉体で愛を確かめ合ってしまった。互いにどれだけ真摯に愛し合ったとしても、その結果はいつも悲劇しかなかった。

 ――否、そうではない。それぞれの生で愛し合い肉体を交わしたのは、神の威霊を受け継ぐ子孫を残すためで、神の目的があった。
 今は……神の意に背き、ただ徒に性愛を交わしているだけなのだ。

 わたくしは山道を登りながら、泣きじゃくった。
 神はわたくしが崖から飛び降りようとした幼い空海さまを助けようとしたのを、幾度も止められた。それは、必要以上にわたくしに空海さまの生への介入をさせないためだったのだ。――わたくしは、今生は生まれ変わる予定がなかったのだから。
 予定調和に反して生まれ、空海さまの生を乱すことしかできなかったのか……。愚かにも、ほどがある。

 ――それでも、生まれたからには、最期の一瞬まで生きねばならぬのだ。

 宿命に組み込まれたわけでもなく自ら命を断つのは、神への違反行為として最も重い罪だった。生きる事を放棄しては、ならぬのだ。
 いつの間にか桜の前に来ており、わたくしは崩れ落ちるように桜に凭れて座り込む。
 桜が柔らかな波動をわたくしに注いでいた。背中からじんわりと暖かな温もりが入ってくる。

 ――隠されていた真実を知ったとき、わたくしを呼んで。

 反射的に身体を起こし、わたくしは立ち上がる。
 
 ――弁才天女……いいえ、瀬織津姫。

 わたくしは饒速日尊との過去を思い出した。そして、自分が瀬織津姫だったことも。
 あの日、夢幻のなかで見た彼女は、わたくしが記憶を取り戻したときに呼んで欲しい、と言っていた。
 わたくしは堕落した『麁乱神』のなかから、本質である『饒速日尊』を甦らせた。が、彼の望みを叶えていない。
 摩尼峰に供に祀られていた瀬織津姫を、彼の妻を再び呼び戻すという望みを。
 わたくしは手を握り合わせる。

 ――自身の不幸を嘆いている場合ではないのだ。この山に祀られていた瀬織津姫を呼び戻し、この山の陰陽の均衡を復活させねば。

 悪気のもとになっていた『麁乱神』は、すでに和魂(にぎみたま)である『饒速日尊』に変化したので、もうこの世に災いを為さないだろう。
 が、彼の傍らに『瀬織津姫』を添わさねば、またもとに戻ってしまう。
 そして、空海さまは『饒速日尊』に縛られ、わたくしも『瀬織津姫』の代わりとして側に居なくてはならなくなるだろう。

 ――それでは、駄目だ。『瀬織津姫』をこの山に復活させなければ。

 わたくしはその場で結跏趺坐し、『饒速日尊』と『瀬織津姫』がどういう過程で引き離されたのか探るため瞑想しようとした。

 ――摩尼峰山頂への山道を、貴人二人と彼らに傅(かしず)く従者や巫女が登っていく。
 貴人は一方は男子で、鬢を長く伸ばして朱の紐で鬟(みずら)にしている。下着や足結(あゆい)の緒、倭文布(しずり)の帯は同じ朱色でまとめ、麻の上衣や褌(はかま)は白いものを纏っている。
 対する一方は女人で、同じく白の衣を纏っており、襦と裳は藍色の地である。比礼(ひれ)と倭文布の帯は薄青、肩から斜めに掛けた鱗文(うろこもん)の襷は紺地に浅緑で染められていた。
 双方とも首には御統玉を掛け、釧や石を連ねた腕輪をしている。
 そして、女人がしている御統玉には、大きな紺色の勾玉が付けられていた。――わたくしはその勾玉の石の色にに、見覚えがあった。

 ――あれは、海部氏の巫女姫だけ付けることが許される勾玉。
 大王に嫁いだ巫女姫・竹野姫(たかのひめ)が殺されたときに、割れてしまった玉。

 巫女姫・竹野姫は竹野の斎宮を開き、天照大神――天照国照大神をお祭りした巫女姫であったが、大王・開化に召されて宮中に上がった。
 開化は海部族の力を殺ぐ為、竹野姫を娶ったのだろう。姫は宮に入って皇子を生んだものの、内通する海部の者の手引きにより逃亡、山背国の乙訓で追手に捕らわれ、そのまま自害してしまった。そのとき、姫は紺地の勾玉を自ら割り、懐剣で喉を突いたという。
 姫の死後、砕けた勾玉の破片は海部氏の祝の手によって残さずかき集められ、神倉に厳重に保管してある。幼い頃、年に一度の神倉の虫干しの日に、わたくしは父から紺地の勾玉の破片を見せてもらった事があった。
 竹野姫に死なれた大王・開化は、やむを得ず姫と同族である姥津媛(ははつひめ)を妃に迎え、和邇氏の祖・彦坐王(ひこいますのみこ)を生した。
 姫が割ってしまったために、紺地の勾玉の実物はどういうものか解らないが、伝承では女人が付けているものと同様のものである。
 更に驚いたのが、二人の貴人の顔が、空海さまとわたくしによく似ていたことだ。

 ――では、あの二人は饒速日尊と瀬織津姫。二人はこの山に来たことがあったのだわ。

 わたくしはてっきり、饒速日尊と瀬織津姫を崇める海部族の者が、二人をこの山に祀ったのだと思っていた。が、実際は饒速日尊と瀬織津姫自身がこの山に訪れたのだ。
 ということは、この光景は自身の記憶ということになる。瞑想によって、瀬織津姫の記憶を引き出したのだろう。
 二人と供の者は摩尼峰の山頂に登り、供の者が穴を掘って祭具である銅戈(どうか)を埋納する。巫女が盛り土の廻りに神酒を振り撒き、杉や榊を植えて山の神を言祝ぐ舞を奉納した。
 饒速日尊と瀬織津姫は山の神に礼を執り、山の中腹に降りて見晴らしのよい場所を選び、瀬織津姫は供に持たせた筥を受け取る。蓋を開けると、丹色と青色の瑪瑙の玉が入っていた。饒速日尊は丹色の玉を、瀬織津姫は青色の玉をそれぞれ手に持ち、己の御霊を籠めている。
 二人が玉に霊籠めしている間に、供の者が穴を深く掘っている。
 御霊を籠め終えた饒速日尊と瀬織津姫は、それぞれの玉を土中深く納め、腕力のある男子が何人がかりかで用意していた大きな磐を運んできた。
 わたくしは目を見開く。 

 ――あの磐は。

 間違いない、わたくしが麁乱神――封を解かれた饒速日尊に憑いていた雑霊を封印した磐座だ。
 玉を埋めた土の上に大磐を置き磐座とし、巫女が神酒を注ぐ。
 再度、饒速日尊と瀬織津姫が磐座に御霊を籠め、巫女が注連縄を張った。
 饒速日尊と瀬織津姫は今一度山頂に向かって礼をし、山を降りていった。

 ――思い出した。わたくし……瀬織津姫は饒速日尊と、様々な場所で同じように御霊を残したのだわ。
 そのなかには籠宮もあり、伊勢や尾張、上下の賀茂の社や大和の大三輪の社もある。天河には瀬織津姫が御霊を残し、その南にある玉置の社に饒速日尊は御霊を封じたのだった。
 それもすべて、出雲から逃げ延びてきた者が生き残るため。

 武庫の地の海人や山人は、出雲人の子孫。大和や熊野、近江の山々で生きる人々も出雲人なのだ。
 わたくしは前世で、彼らに敵の手が及ばぬよう、空海さまと供に御霊を残した。
 ――それが、誰かの手によって破られたのだ。

 わたくしは更に瞑想を深める。

 ――ガシャッ!
 何かが壊される音。見てみると、磐座が真っ二つに割れ、丹色の玉が破壊されていた。青色の玉は禍々しい呪札によって隙間無く巻かれ、闕腋袍(けってきのほう)を身に纏った男子と取り巻きによって、山の下に持ち去られた。
 闕腋袍は奈良時代の官人の衣。ということは、平城(なら)に都が置かれた頃に饒速日尊と瀬織津姫の呪は解かれたのだ。
 砕けた丹の玉から、もやのような霊魂が滲み出てくる。

『どこだ、どこに我が妻を連れてゆく……!』

 霊魂――饒速日尊の分霊は、青色の玉を持つ者たちを追って山を降りようとする。
 が、山と里との境界に分厚い結界が。饒速日尊の分霊は結界に弾かれ、よろめいた。

『おのれ、畏れを知らぬ者どもめ……! 我が恨み、晴らさずおくべきか……!』

 饒速日尊の分霊は歯噛みし、結界の外に出ようともがく。が、何度も弾き返され、恨みと悲しみを残し山へと帰っていった。
 やがて饒速日尊の分霊は様々な悪しき念を吸い寄せ、醜悪な『麁乱荒神』へと変化していった……。

 わたくしは目を開け、深い溜息を吐いた。

 ――何という事……。神々の祈りを、人間の都合で砕いたとは……。

 人間の愚かさに、わたくしは嘆かわしくなる。
 いつの世も変わらない。人は、邪魔なものを排除せずにはおけないのだ。わたくしのような只人に無礼を働くのは容易い事だが、神にまで非礼な行いをするとは……。怖れを知らないとは、このことだ。

 わたくしは青色の玉を追おうと、官人らの行方を瞑想する。
 簡素な社が見える。これは、古代の廣田の社だ。饒速日尊と瀬織津姫が祀った奥宮に対する里宮として、後世の和邇氏の姫――海部氏の枝分かれが創祀した。そこに、官人たちが入ってゆく。
 社の中を見てみると、数人の巫女と巫覡らしき者が待ち構えていた。
 官人が巫達の前に青色の玉を差し出す。呪札を剥がした巫達は力を合わせ、玉に呪を加えてゆく。悲鳴のような音を上げ、湯気を立てながら青色の玉が……赤色に、変化する。
 赤色に変化した玉は、以前帯びていた靈氣と違う波動を放っていた。玉の質自体が、変化したのだ。

 ――た、玉が、変化してしまった! で、では、瀬織津姫は?!

 変化した玉からゆらり、と靄が立ち上がる。靄は人型を取り、姿を現した。
 それは瀬織津姫とは似ても似つかぬ、容貌だけが生き写しの違う女神だった。目元は鋭く挑戦的に、瀬織津姫とは方向性の違う威厳を放っている。そう……まるで、太陽女神のような。

 ――天照大神……。

 瀬織津姫の青色の衣は激しい赤色に変色し、化粧も禍々しさを加えている。――これが、現在の廣田の天照大神荒御魂なのだ。
 わたくしは瞠目し、震えながら口を手で押さえる。

 ――こんなの、手遅れだわ! 瀬織津姫を復活させることなど……出来ない!

 瀬織津姫は饒速日尊が望んでいるものとは違う、別の何かに変わってしまった。
 これから、どうすればよいのだろう……。









 わたくしは途方に暮れ、僧坊に戻った。既に、日が暮れており、屋内には灯りが点されている。
 中に入ったわたくしを、待ち構えていたように空海さまが自室に引き入れられた。
 わたくしは諍いしたのも忘れ、わたくしの両腕を掴まれる空海さまにすぐさま掻き口説く。

「く、空海さま!
 瀬織津姫は、復活する事、叶いませぬ――!」

 慌てたわたくしの表情に虚を摘まれ、空海さまはきょとんとした面持ちをなさる。

「な、何を言い出すのかと思えば……」
「な、何をですって?!」

 わたくしは眼を鋭くして空海さまを睨みつける。

「瀬織津姫が復活しないのでは、空海さまのなかの饒速日尊を鎮める事、適いませぬ!
 わたくしも、饒速日尊の御為に、瀬織津姫を復活させたかったのに……」

 わたくしは知らず知らずのうちに、ぼろぼろ涙を零し始める。
 悔しい。記憶を取り戻して、瀬織津姫を呼ぼうと思ったのに、肝腎の瀬織津姫が武庫に居ない。わたくしは、どうすることもできない……。
 空海さまは腕を組み、沈着な面をされた。
 わたくしの目には、その姿が異常に見える。

「……空海さま? 驚かれないのですか?」
「……既に瞑想して知っていたのでな」

 空海さまのお応えに、わたくしはへなへなと崩れ落ちる。

「空海さまは、知っていらっしゃったのですか……」
「あぁ」

 難渋した空海さまのお顔に、わたくしは悄気(しょげ)て俯いてしまう。終いには、手で顔を覆い、声を上げて泣き出してしまった。

「……厳子」

 空海さまの当惑したお声に、わたくしはようよう顔を上げて話し出した。

「悔しくて、たまりませぬ。
 わたくしは、何のために記憶を取り戻したのですか。全て、瀬織津姫を呼び戻すためだったのに……。
 瀬織津姫が既に武庫に居ないのでは、何も為すことが出来ませぬ……」

 涙を拭うわたくしの手を取り、空海さまは困ったように笑われた。

「……実は、そのことを既に饒速日尊が知っていたとしたら?」
「…………えっ?!」

 既に、饒速日尊が、瀬織津姫がここに居ないと知っていた……?
 つまり……どういうこと?

「空海さま、そ、それはどういうことですの?」

 空海さまは苦笑いされ、事の顛末を話される。

「そなたが饒速日尊に憑いていた悪しきものを追い払った後、饒速日尊とわたしは同化してしまった。
 その時点で、わたしと饒速日尊は全ての記憶を共有してしまっているのだ。勿論、わたしが瞑想して得た結論も。
 それが、饒速日尊がそなたに執着した所以であるが、今、そなたにそれを聞かされても、わたしも饒速日尊も驚いてはおらぬ」
「そ……それでは……」

 今のは、ただの一人相撲? それを、空海さまはじっと見ておられた?
 余りの恥ずかしさに、わたくしは泣いていたのも忘れ、空海さまに詰め寄る。

「な……何て、嫌な方!
 知っているなら知っていると、初めに言ってくださればよかったではありませんか!」

 空海さまは慌てて弁解される。

「それは、そなたが勝手に落胆し、大声で泣き出したのではないか。
 そなたはわたしが何かを言う隙もくれなかったぞ」

 わたくしはぐっと詰まってしまう。
 全くその通りで、わたくしが勝手に騒ぎ、勝手に泣いたのだ。
 わたくしはかぁっと赤面し、深く深く俯いてしまう。
 やがて、空海さまからはくっくっと楽しそうな笑い声が聞こえてきた。

「……わ、笑わないで下さいませ」
「いや、そなたは楽しいな、と思って。
 全く隙のないところがありながら、そういう抜けたところもある。
 ……瀬織津姫も、全くそうだった」

 い、言われてみれば、そうだったかもしれない。
 勝手に感情的になってしまうところがあるし、子供みたいに泣き出してしまうところもある。
 そして、記憶の中の瀬織津姫も、全くそういうところは同じだった。
 暫くして笑うのを止められ、空海さまは落ち着き払った声で語りだされた。

「全く手が無いわけではない。
 そなたが、そなたのなかにある瀬織津姫の記憶を呼び戻したのだから。
 そなたの行い一つで、瀬織津姫が復活する手立てはある」

 わたくしは顔を上げ、まじまじと空海さまを見る。

「それは、本当ですか?!」

 空海さまは首肯される。

「手立ては、ある。が、それはそなたが導き出す事だ。
 わたしにしても饒速日尊にしても、どうにも出来ぬことだからな。
 ――それよりも、だ」

 そして、おもむろに腕組みを解いて、空海さまは怒ったような顔付きでわたくしに迫られた。
 わたくしは怯んで、後ずさりしてしまう。

「そなた、わたしが呼んでいるのに、勝手に行ってしまいおって。
 あのような正念場で、わたしを置き去りにするのか?
 これは、そなただけの問題ではないだろう? そなたが転生する因を作ったのはわたしなのだからな」
「そ、それは、そうですが……」

 空海さまはわたくしの手首を掴まれ、恐いくらい真剣な眼差しで訴えられる。
 わたくしはその眼力に射竦められ、身動きが取れない。

「そなたが転生したのは、わたしが望んだからだ。
 そなたを抱くような、弟子に示しのつかない愚な行いをしたのは、わたしが望んだからだ。
 危険な行いだろうが何だろうが、全てわたしが望んだからだ。
 それを、全て自分で責任を被って己を責めるのか?」

 わたくしは空海さまが怖くなり、俯いてしまう。
 今、空海さまは、真剣に怒っておられる――。
 わたくしが自分を責め、この世に生まれなければよかったのだと思ったことを、見抜いていらっしゃるのだ。
 空海さまの人を見抜く目の慧眼さに、わたくしは恐れ戦く。

「こら、真面目にこちらを見ろ、厳子!」

 今度は、言霊の攻め。
 頤を掴んで顔を上げられ、わたくしは空海さまから目を離せなくなってしまう。縛り付けられ、吐息を出すのもやっとだ。

「そなたが逃げようとしても、わたしはそなたを逃がさぬ。
 そなたはすぐに後ろ向きになって逃げを打とうとするが、そんなこと、わたしがさせぬ。
 この世にある限り、そなたはわたしのものだ」

 決定的な殺し文句に、わたくしは力が抜けてしまった。
 何で……何で、同じようなことを言うのだろう。空海さまと饒速日尊は。同じような言葉で、同じように縛りつけようとする。
 あぁ、同じ魂だから、同じなのだ――わたくしは取り止めもなく、そう思ってしまう。
 こうなっては、観念するしかない。

「……解りました。もう、無駄な足掻きは致しませぬ。
 そのかわり、どうなっても知りませぬ。
 ……空海さまがそれでもいいと、仰るのなら」

 わたくしは溜息を吐き、こころからまともに空海さまを見つめた。
 空海さまはわたくしを抱き締められ、ゆっくりと身体を倒しながら耳元に囁かれた。

「……覚悟の上だ。わたしは、そなたとの生を歩みつつ、密も極める」

 自信たっぷりなお言葉に、わたくしはくすりと笑った。

「大した自信をお持ちですこと。わたくし、負けましたわ。
 ……それよりも、このまま共寝をするのですか?」
「いけないか?」

 さも当然、というようなお声に、わたくしは本当に笑い出した。

「朋子たちが夕餉を用意してくれているではありませんか。
 いまから共寝をすると、せっかくの心尽くしが冷めてしまいますわ」

 わたくしに吊られて、空海さまも破顔される。

「構わぬ。朋子たちは待たせておけばよい。
 ――今、そなたを確かめたくてたまらぬのだ……」

 情感の籠もった空海さまの言葉に、わたくしは空海さまの背に腕を廻す事で応えた。
 宇宙の神の戒めを、空海さまはどのようなお心でわたくしにお話なされたのだろう。わたくし達には、つらい運命を。
 それを思うと、今の空海さまの性急な手つきが致し方ないと感じられる。――切ないのは、空海さまも同じだったのだ。
 わたくしはただ、空海さまの熱のなかに、空海さまのおこころを見出すことだけに努めた。



 情熱のときが過ぎ、気だるさが幾分拭われると、わたくしは衣を纏い未だ横たわられる空海さまを振り返った。

「明日から、廣田の社にお籠もりしてまいります。
 それで、何か見えてくるかもしれませぬ」

 空海さまは少し身体を起こされ、わたくしを見られる。

「もし廣田の社で変化がありましたら、空海さまはあの桜の下で待っていて下さいませ」



 わたくしはそう言い残し、朋子たちの心尽くしを受けようと空海さまのお部屋から抜け出た。
 





回帰するいにしえ(3)へつづく
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