(4)
山の端が朱に染まる。朝が近づいていた。
わたくし――否、わたくしの中に入った瀬織津姫は、ひとり摩尼峰を登ってゆく。
わたくしは瀬織津姫に身体を明け渡し、支配権を姫に委ねた。が、わたくしの意識は確かに瀬織津姫とともにあり、自身の肉体の動きを他人事のように眺めていた。
山下ろしの風が、比礼をたなびかせる。瀬織津姫は比礼を手に持ち、逸る足取りで中腹に向かっていた。
きっとあの桜の下に空海さま――饒速日尊がいるはず。約束していたこともあるが、必ず饒速日尊が居ると、確信していた。
東の峰が朝日に輝く。眩しい光が照射し、わたくしの視界を真っ白に染める。
『狭依……』
桜の香が薫る光のなか、かすかに浮かぶ輪郭が、わたくしに手を差し伸ばした。
瀬織津姫はその手に向かい、小走りに走りだす。手を伸ばして、姫は光のなかの人物に縋りついた。
『火明さま……!』
姫は火明さま――饒速日尊の厚く硬い胸で泣きむせんだ。饒速日尊は姫の――わたくしの髪を愛しそうに、感触を楽しむように撫でている。
ひとしきり泣いて、瀬織津姫は顔を上げる。
そこにあったのは空海さまの面ではなく、一昨日幻視で見た、どこか空海さまに似た精悍で優美な面差しをした殿方――饒速日尊のものだった。
遠い記憶の彼方に流れ去っていた愛する方の容貌は、今生では見知ったものではないが、わたくしの魂は確かに知っていて、歓喜に熱く震えて見つめていた。
今、わたくしと瀬織津姫のこころが重なっている。まったく違わず、同じ御魂として饒速日尊を見つめていた。
『もう、おまえを放さぬ。
魂を溶け合わせてひとつとなり、ずっとこの地を護っていこう――』
饒速日尊は瀬織津姫を強く抱き締め、永劫の契りを結ぶ。
わたくしのなかから、瀬織津姫の霊体が抜け出ていくのが分かった。空海さまのなかからも饒速日尊が抜け去っていく。
饒速日尊と瀬織津姫の霊体は重なり合い、まばゆい光を放ちながらひとつに融合してゆく。
わたくしと空海さまの肉体は光の海に呑まれて、自らの輪郭も判別できないようになっていた。
摩尼峰から放たれる光は、わたくしたちの背後にある桜の花弁と芳香を孕みながら拡散し、陰陽の波動を武庫の彼方にまで広げた。
圧倒的な光量に精神が耐えられず、わたくしは失神しそうになる。
そんなわたくしに、呼び掛ける声があった。
『海部の巫女姫よ……』
頭のなかに響く声に、わたくしは目を開ける。
饒速日尊が、わたくし自身を見つめていた。瀬織津姫の面影を求めるわけではなく、透明で慈しみ溢れる眼差しをわたくしに注いでいた。
『そなたには感謝している。
そなたのお陰で、わたしは妻を取り戻せた。
礼をいうぞ』
わたくしは頭を振り、同じように一途に饒速日尊を見ていた。
「……もう、お会いすること、叶わなくなるのですね」
知らず知らずのうちに涙が溢れてくる。わたくしが袖で涙を拭おうとするまえに、饒速日尊はわたくしの涙を唇で吸い取り、懐深くわたくしを抱いた。
『嘆くでないぞ、厳子よ』
はっとしてわたくしは顔を上げる。
いつもわたくしを「海部の巫女姫」と言っていた饒速日尊が、初めてわたくしの真名を呼ばれた。
『そなたはわたしの魂と縁で繋がれているのだ。
わたしはそなたが狭依の同胞だという理由なしにそなたを愛した。その想いは、我が同胞であるこの者――空海のなかに残してゆく。
わたしが得たそなたとの記憶すべてを、空海に渡す。
空海のなかに、そなたを愛したわたしが生き続けていることを、忘れないでほしい。
だから――厳子よ、徒に嘆くでないぞ』
ただただ泣きながら頷くばかりで何も応えられないわたくしに、饒速日尊は最期の接吻をする。わたくしも饒速日尊の背に縋り、口づけを貪った。
やがて光が薄れて朝の空に融けてゆき、何事もないような静穏を取り戻した。
唇を離し目を開けると、もう饒速日尊の姿はなく、哀切を湛えた空海さまのお顔があった。
「……終わったのですね」
空海さまは首肯され、わたくしを抱き締められた。
「……饒速日尊はわたしに、厳子のことはおまえの領分だ、同胞として我が事も己のこととせよ、とそなたへ抱いていたものすべてをわたしに譲り渡した。
今まで饒速日尊はわたしと同じで違うものとして巣食っていたのに、まったく違和感なく受けとめられた。
やはり、同じ御魂なのだな……」
しみじみと呟かれる空海さまに、わたくしは頷き、再度愛する方に身を寄せた。応えるように廻される硬質な腕に、わたくしは思い至っていた。
――融合したのは饒速日尊と瀬織津姫だけではなく、空海さまと饒速日尊もまた、お互いをひとつに溶け合わせたのだと。
武庫に来てから起こった奇妙で複雑な出来事は、最も自然な形で帰結したのかもしれない。
そう思っていたわたくしだが、ふと強いながらも、暖かく柔らかな波動を感じ取り、空海さまを見上げた。
空海さまはわたくしより先に察知されたのか、ある一点を凝視されていた。わたくしもつられてそこを見る。
「…………!」
わたくしは驚愕の余り、言葉を無くす。
わたくしが愛し、日頃馴れ親しんでいた桜が……花はおろか葉まですべて地に落としていた。散りしいた花弁は薄紅色から乾いた白色に変質し、鮮やかな緑の葉も枯れてしまっていた。
空海さまの腕から抜け出て、わたくしは桜に歩み寄り、その幹に触れる。
びくり、とわたくしの腕が強ばる。
――先程武庫の地に広がった陰陽の波動が、桜の木のなかに、凝縮されて入り込んでいた。
「饒速日尊と瀬織津姫が、己の御魂の依代にこの桜を選んだのだな」
いつのまにかわたくしに並び立たれた空海さまが、同じように桜の幹に触れられる。
「……強靱で濃密な波動だな。
彼らが野に放った波動は一部だけで、そのほとんどをここに封じたのかもしれぬ」
わたくしは空海さまを振り仰ぐ。
「で、でも、この桜は……!」
わたくしはこの桜と馴れ合っていたから、その波動が幾漠のものか知っている。――明らかに、桜よりもうちに宿る神の靈氣のほうが、強烈すぎる。
強い波動に当てられたからこそ、桜は花と葉を散らしたのだ。
これで、この桜の「桜としての命」も、決まってしまったといえる。
わたくしは手で顔を覆って、ぼろぼろ涙を零した。
――最も自然な形で帰結したなど、思い上がりだ。
結果的に、わたくしたちはこの桜に犠牲を強いてしまったのだから。
「ごめんね……ごめんね」
わたくしは桜の幹に顔を付け、名残を惜しみながら擦り続ける。
そんなわたくしの肩に、節くれだった掌が置かれる。
「……そなたがそんなに泣いては、桜が可哀相だ」
わたくしは振り返り、睨んだまま言い返そうとするが、空海さまの指に止められてしまう。
「桜はそなたのために、喜んで身を差し出したのだ。
桜はもともと、神宿るに最も適した樹だ。この桜も己の本質をよく知っていた。
そなたたちよりも先にここに来ていたわたしと饒速日尊に、桜は我が身を使ってくれと願い出てきた。
雄の身の性、ただ散って咲くより、そなたの役に立ちたいと――。
そなた知っていたか? この桜は、そなたに恋い焦がれていたのだぞ」
わたくしは驚いて瞠目する。
桜に添って瑜伽行を行っていたとき、時折桜の霊らしきものが干渉してくることがあった。
わたくしはそのまま瞑想上で会話などしていたが、桜の精霊はそれらしきことをおくびにも出していなかった。
鈍い己に恥じて俯くわたくしに、空海さまは苦笑される。
「そなたの優しさと情け深さは、本当に罪作りだな。男を迷わせ、思い詰めさせてしまう」
あぁ、何やら、空海さまは桜だけのことを言っておられないような気がする。
未だわたくしへの執着をお捨てになれない主上のことや、瀬織津姫を慕ってわたくしに手を出したのに、想いを傾けずにはいられなかった饒速日尊のことも含まれているような気がする。
そして――宿命に反してもわたくしを求めずにはいられなかった、空海さまご自身のことも言っておられるのかもしれない。
空海さまは桜の幹を手でなぞらえながら、確固とした声で仰られる。
「桜は我らのためにその身を差し出してくれた。
だから、わたしも桜の望みを叶える」
わたくしは空海さまを小首を傾げて見つめた。
「桜の望みとは、一体何なのですか?」
わたくしの問いに、空海さまは意味ありげに笑われる。
「いずれ知ることが出来よう。
それよりも、まだやらねばならぬことがある」
そう言って、空海さまは桜の枝を一本折られた。
桜の想いを聞かされたばかりのわたくしは、空海さまの行動に動転する。
「な、何を――!」
何事でもないように、しれ、と空海さまは語られる。
「これを、廣田の社に持っていく。
枝一本だけでも、新たな廣田の神を移すことは出来るだろう。
朝廷にも、不審があったと思われまい」
はた、と思い出し、わたくしは袖で口を覆う。
廣田の社の祝部・山背氏はことの成り行きがどうなったのか、己が社の行く末がどうなるのか、答えを今か今かと待ち侘びているだろう。
饒速日尊のことや桜のこともあり、わたくしはうっかり失念するところだった。
「わたくしも、参ります」
わたくしは先に下山しはじめた空海さまを追って、急ぎ歩きだした。
空海さまと揃って顔を出したわたくしに、祝部は安堵の顔を見せた。
「朝方の摩尼峰の異変は、わたしも感じ取っていました。
して、我らが女神は如何様に変わられたのでしょうか」
焦りの滲む祝部の顔にほほ笑み、空海さまは枝に手をかざされる。手から靈氣を送られているのだろう。
やがて、ふわりと霊体が浮かび出て、わたくしたちを見下ろした。
――それは、瀬織津姫の姿を下地にしているが、靈氣の質は明らかに太陽神・饒速日尊のものだった。柔和な容姿と優しげなほほ笑みは瀬織津姫のもので、その上に赤い衣や太陽女神を思わせる化粧を施し、そして太陽の波動は饒速日尊の存在を浮かび上がらせている。
『心配を掛けましたね。これなら、朝廷も変事に気付きますまい』
女神が祝部に笑い掛ける。
日頃間近く仕え、その姿や波動をよく知っている祝部は、目をぱちくりしていた。
「あ、あなたは女神か男神か、どちらなのですか?」
引きつった笑い顔を見せる祝部に、眼を大きくして女神は笑う。
『なんだ、男のほうがよいのか?』
低く通りのよい声が、笑み含みに祝部をからかう。
さらにぎくしゃくした顔をして、祝部は返す。
「い、いえ、どちらでも!
朝廷にばれないのなら、お好きなように!」
くっくっと笑いだし、女神はわたくしを振り返った。
『――というわけだ。男にも女にもなれるなど、なかなか便利だろう?』
明らかに饒速日尊の声で、女神がわたくしに告げる。
何とも複雑だが、わたくしは無理に笑って頷いた。わたくしの横では、空海さまがたまらない、というように吹き出している。
ふと女神が穏やかな表情になり、わたくしを見入った。
『桜の精霊も、わたくしたちと一体になりました。
彼も、わたくしたちとともに武庫の地を護ってゆくといっています』
瀬織津姫の声だった。
『わたくしもあなたとともに、桜の想いを受けとめましょう』
慈愛に満ちた女神の面が、すねたように変わる。
『――わたしは面白くないがな。仕方がない』
隠しきれない本音が見える饒速日尊の言葉に、わたくしも笑いだす。
一体になるといっても、ふたりは別個の意思を持ち続けている。桜を交えた神々の融合がどの程度か解らないが、これからも万事上手くいくような気がした。 後のことは女神と祝部に任せ、わたくしたちは摩尼峰に戻ることにした。
‡
わたくし達は廣田の社から真っ直ぐ北上して、摩尼峰を目指した。
木立の間を抜ける風が、爽やかに頬をくすぐる。
「空海さま、饒速日尊と瀬織津姫の一件を解決した今、何時でも摩尼峰を下られる事ができますね」
道中、わたくしは何気なく空海さまに語りかける。
空海さまはちらり、とわたくしを見たあと、お山の方を見られたまま話される。
「そなたに教える事も、もうないに等しいな」
空海さまのお声に、寂寥が漂う。
が、わたくしはこころを揺らされてはいけない、と思った。
空海さまを、いつまでもわたくしに縛り付けてはいけないのだ。空海さまは密の教えを広めなくてはならないお役目がある。お弟子達も、空海さまを待っているだろう。
これでいいのだ――わたくしは寂しさを噛みながらも、ひとり納得していた。
途中、願王寺殿に差し掛かり、わたくしは願王寺殿の伽藍を覗き見る。
――殿方が、堂主の僧侶に挨拶をしている。
殿方は下げ終わった頭を上げて、わたくし達の方を見た。
「――――――ッ!」
その殿方とは――美志真王殿だった。わたくしは強張る。
今のわたくしは尼僧姿ではなく、丈長い黒髪を下ろした巫女姿をしていた。
主上や美志真王殿に偽るために、わたくしは尼の形をしていたのだ。髪を剃り落としてはおらず、長々と伸ばした髪を美志真王殿に晒してしまっている。
化粧をし、衣と裳を着て比礼を身に着けている。
――今のわたくしの姿はどう甘く見ても、僧籍に入っているとは見られないだろう。
思っていたとおり、美志真王殿は怖いお顔をして、つかつかと早足にわたくしに歩み寄ってこられた。
「主上へのお返事を受け取りに参ったというに、このようなお姿を拝見しようとは……!
主上に対し謀りがあったと報告するが、それでよろしいか!?」
わたくしはびくりとし、肩をそば立たせる。
主上に謀りがあって姿を偽っていたのではない。ただ、主上に諦めていただきたくて、尼姿をしていただけだ。
が、今の有様は、謀りあったと見られても仕方がないだろう。
そして、何よりも怖ろしいことに、わたくしの後ろには、空海さまがいらっしゃった。
案の定、美志真王殿は空海さまへの追及の手も緩めない。
「大僧都殿、主上の女御を尼に仕立て上げた事、それはあなたの企みでござろう。
あなたは主上の妃に近づきすぎている。これは、疾しき事があったと嫌疑を掛けてもよろしいですな!?」
「いいえ、空海さまはわたくしの密教の師! 疑われることは何もありませぬ!」
わたくしは身を乗り出して、空海さまの潔白を晴らそうとする。
が、わたくしの肩を掴まれて、空海さまはわたくしを背に庇うように美志真王殿の前に出られた。
「真井御前さまは入内される前から御仏の徒であられた。
今ここで密の修行をなされるのは、真井御前さまの悲願であり、もともとあるべき道であったのです。
帝には正子皇后があられ、数多の妃も侍っておられる。というのに何故、真井御前さまへの執着を捨てられぬ。
帝の真井御前さまだけへの執着は、後宮のうちに歪みを生みますぞ」
もう少し、他の妃も見なければならない――空海さまは美志真王殿を通して主上にそう仰っていらっしゃるのだ。
ぎりり、と歯軋りして、美志真王殿は言い返される。
「主上は他の女人方も偏らず寵愛しておられる!
それを、部外者であるそなたが要らぬ口出しをするとは、笑止な事よ!」
空海さまは表情を変えられず、淡々と仰る。
「なれば何故、自ら後宮の外で生きる事を選んだ妃を、帝は未だ追い求めようとされるのか。
後宮は嫉妬と怨念の巣窟。清らかな真井御前さまがそのなかで生きてはいけぬ事を、帝はお知りでないのか?
帝は真井御前さまを、怨嗟の坩堝である鳥かごのなかで飼い殺しなさるおつもりか?
おそらく後宮に在っては、真井御前さまは長くは生きられまい」
空海さまのお言葉に目を伏せる。
確かに、わたくしは後宮では生きてはいけまい。後宮にあった頃から、夥しい敵意と怨みをその身に受けてきていた。
女人方の怨意だけではない、後宮には女人方の背後には権力の亡者が存在する。最後の頃、わたくしはその魔の手に蝕まれこころを失くしかけたのだ。
後宮に在っては長くは生きられないという空海さまのお言葉は、あながち嘘でもなかった。
「真井御前さまおひとりに執着されるでなく、他の女人方も真井御前さまと同じように愛されれば、後宮は住んだ水のごとくになる。女人方も魚のようにやすやすと泳げるようになるだろう。
――帝には、早々に真井御前さまをお忘れいただくよう、あなたから帝に進言なされるがよい」
そう言って、空海さまはわたくしの手を引いてお山を登ろうとなされる。
当惑するわたくしの背中に、美志真王殿の叫びが切りつけられてくる。
「これで諦められる主上と思われるな!
あなたが裏切れば裏切るほど、主上はあなたを放そうとはなさらぬぞ――!」
呪縛のような言葉に目を瞑り、わたくしは黙って空海さまに手を引かれるに任せた。
建立中の我が御寺に帰るまで、わたくしと空海さまは終始無言だった。
僧房の私室に入ってからも、わたくしは主上に出家していない事が明らかになった恐れと、至上の君を欺いた懺悔に、暗い気持ちのままうつろに時を過ごした。
「厳子さま、どうかなさったのですか?」
夕餉のとき、心配した朋子がわたくしを覗き込んで言った。
「……主上に、わたくしが出家していない事が露見してしまったの」
美志真王殿は、きっと主上にご報告なさるだろう。
わたくしがまだ俗体でいることを知った主上は、どのように思われるのだろう。
主上を誑かしてしまった事実を、主上はどう受け止められるのだろう。
そう思うと、わたくしは暗澹とした気持ちになってしまう。
同じく夕餉の席に着いておられる空海さまが、わたくしの様子を具に覗っておられる。その目が、また居たたまれない。
わたくしのこころは、お山に登ってくるまでに、もう決まってしまっていた。
――もう、空海さまと徒に関係を結べない。
主上に俗体であることを知られてしまった今、近しく空海さまの側に居ると、空海さまにも咎が降りかかるやもしれない。
朋子も建設的に物事を見られないのか、わたしの答えを聞いたきり黙りこんでしまった。
夕餉を済ませたあと、わたくしは席を立たれる空海さまを呼び止めた。
「夜中にわたくしの部屋に来ていただけますか」
わたくしの真摯な眼差しに、空海さまも硬い面持ちで頷かれた。
夜半になり、わたくしは白湯に桜花を塩漬けにしたものを浮かべた飲み物を用意し、空海さまを待っていた。
これから空海さまに切り出す事を考えると、悲しくて涙が出てくる。
が、空海さまのお為にも、そうせねばならぬのだ――。
わたくしが物思いに耽っていると、襖が開く音がした。わたくしは瞼を開ける。
わたくしの前に端座された空海さまに、わたくしは桜湯を差し出す。
空海さまはそれに手を付けられぬまま、単刀直入に切り出された。
「饒速日尊と瀬織津姫の依代となった桜を材として、西の峰の寺の本尊を造る。
それが終われば、わたしは摩尼峰を下りるつもりだ。
そなたに教える事はもうない。復習なら、ひとりでも出来るだろう。
東谷の寺とここのことは、朋子に任せることにした」
わたくしはただ頷く。こころのどこかでほっとしている自分がいた。
「摩尼峰を下りた後、次の年の二月十八日まで武庫の地には来ぬ。
それまで、この山を、西の峰の寺をそなた達が護るように」
「――解りました」
そう返し、わたくしは空海さまを見る。空海さまの直向な目が、わたくしをじっと見つめていた。
「――これで、よかったのやもしれぬ。
そなたに近づきすぎれば、わたしは己の宿命を忘れ、疎かにしてしまうだろう。
そなたを深く愛すれば愛するほど、わたしは身を持ち崩してゆく運命にあるのだ。
それは、密の教えを広めるわたしには、あってはならぬことなのだ」
「よく、存じております」
わたくしは深く首肯する。
哀しい事だが、空海さまとわたくしは長く側に居続ければ居続けるほど離れられぬ繋がりがあるのだ。
転生された空海さまの宿命がつつがなく遂げられるよう、わたくしは側に居ないほうがいいのだ。
そして、わたくしも側に居てはならぬ理由があるのだ――。
「わたしがそなたの側に居続ければ、帝を刺激しすぎることになるだろう。
前後の見境をなくし、政務を放擲する事はおろか、暗君としての道を歩ませる事は、日ノ本を見守る役目を持つ我らとしては、どうしても避けさせねばならぬ。
――解ってくれ、厳子。苦しいのは、わたしも同じだ」
わたくしはいつの間にか滂沱の涙を流していた。
わたくしは頭を振り、袖で涙を押さえた。
「よく解っております。だから、詫びなどなさらないで下さいませ。
自分でも、よく理解しております。どんなに遠く離れても、わたくしは主上の妃なのです。
それを忘れては、ならなかったのです。
でも――空海さまのことを、誰よりも一等お慕いしております。
主上の妃として生きねばならぬとしても、わたくしは空海さまのものです。
それをお忘れにならないで……!」
わたくしは足元に桜湯があるのも構わず、対面しておられる空海さまの胸に飛び込んだ。桜湯を入れた器が倒れ、熱い湯が畳の上を流れる。
「許せ厳子。そなたよりも宿命を取るわたしを許してくれ……」
熱い接吻のあとに、悲哀と情熱の籠もった目をして空海さまは仰られた。
法衣を脱がしあい、お互いの身体を確かめるように手と唇で触れ合う。
「許せ厳子、許せ……」
空海さまはわたくしと交わりながら、ずっとそう呟かれていた。
もうこのように愛を確かめ合う機会はなくなるかもしれない。そう思うと止められなくなり、わたくしは燃え上がった。
愛し合うことには、生きるという柵は邪魔なだけなのだろう。生きる事に付き纏う不条理は、絶えずわたくし達を苛み続ける。
――早く、この肉体を脱ぎ捨てる事が出来れば、こんなにも思い煩わされることはないのに……。
出来もしない事を思い描きながら、わたくしは空海さまの律動を身体に感じていた。
始終泣き続けるわたくしを深く抱き、空海さまは宥めるように髪や身体を撫で続けられた。
それでも眠る事はできず、わたくしは寝息を立てる空海さまの腕の中で涙に暮れた。