――――パァン!
長恭が最後まで言いおわらない内に、乾いた音が響く。
痛みを持つ片方の頬を押さえ長恭が蘭香を見ると、彼女は大きな瞳に涙をいっぱい溜めていた。
長恭は少女の涙に、瞠目する。
「……つまらないのはあなたのほうよ、公子」
そう言うと、ぱっと振返り、蘭香は駆け出した。回廊を走り去り、足音が遠くなる。
長恭は蘭香が走り去ったのを、ただ呆然と見ていた。
「あの娘……、何ということをッ!!」
相願は刀を掴むと、追い掛けようとした。が、長恭に止められる。
「相願ッ!!」
厳しく叱責し、長恭は首を横に振る。
が、相願は長恭が卑しい女に打たれた事実しか見ていない。
彼が崇拝する長恭を殴る――相願にとって、それだけで、万死に値する行為だった。
「止めないでください、公子!」
長恭の制止を聞こうとせず、血走った眼で走り出そうとする。
が、よく通る声が、相願を殴りつける。
「止めろといっているだろうッ!!」
相願の暴走を止めたのは、長恭の怒りの叫びだった。
滅多に怒鳴り声を上げない長恭の激昂に、彼はびくり、とする。
部下の目に走った脅えと困惑に、長恭は目を伏せる。
「――わたしも、どうかしていた。あのようなことを言うなど……」
長恭自身、朝参したあとで心身ともに状態はよくなかった。
そんなとき、蘭香の己への悲しみと失望を見て、どこか疚しい気持ちが起こったのだ。彼女を詰って、理不尽な怒りの捌け口をそこに向けようとしたのだ。
蘭香に殴られてそれに気づくことが出来たが、長恭は居たたまれぬ思いでいた。
そんな長恭のこころを覗き得ぬ相願は、なおも蘭香への攻撃を止めようとはしない。
「公子は何も悪くありませぬ、あんな下賎な娘、無視しても一向にかまいませぬ!!」
相願は言い募る。
幾分穏やかに、長恭は吐露する。
それは、自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「いや、先にわたしがあの娘に言ったことと矛盾している。身分に上も下もないと告げながら、あのようなことをよく言えたものだ……」
「それは、あの娘が女だから……」
止まらぬ相願の弁護を、長恭は打ち切る一言を言う。
「男も女もないだろう」
その一言に相願は口を噤んだ。
熱を持っている頬を押さえ、長恭は少女が走り去っていった回廊を見る。
悲痛を滲ませた涙が、胸を焼く。ひたむきな眼差しが、己を責める。
長恭は思わず俯いた。
そのときだった。
――――くっくっく……。
電流が走ったように、長恭は顔を上げ、素早く剣を抜刀する。
――何者かが、この第内に進入している?!
彼は咄嗟に辺りを見回すが、誰もいなかった。
相願や平掩も、剣や刀の柄に手を掛け、気配を覗う。
はっと、茅鴛は顔色を変える。
似たような空気を、何度も感じた事がある。これは……。
「まさか、刺客じゃ?!」
茅鴛は顔色を変えた。
長恭も茅鴛と同じ答えに思い至る。鋭い眼で茅鴛の戦慄きを見、彼は唇を噛む。
低く無気味な声に、嫌な予感が頭を駆け巡る。
――蘭香を離したのは、己の責任だ。
弾かれたように、長恭は走り出した。
蘭香は目的もなく、長恭の第の門を潜ろうとしていた。
あのようなことを言われて、居続けることなどできない。同じ空気を吸いたくもない。
もう、長恭を一目でも見たくない。
――本当に最低……今までになく最低だわ……。
涙が止まらない。
こんなに馬鹿にされたのは、生まれて初めてだ。あのお綺麗なだけの男に、見下されるのは、蘭香にとって死ぬより辛いことだった。
――まだ、あの性悪将軍のほうがましかも……。
自暴自棄なこころが、最も最悪な思考を引き出してくる。
長恭は底辺の身分の者を根底から拒絶している。己達を、見下している。
否、彼の言葉からは、女に対する蔑視が覗いていた。女を愚か者と見ているようだ。
女だから、存在するのを認めない。女が男のその考えに異議を唱えるのは愚かなのか? 女とはいえ、こころのある人間である。男は偉くて女は劣っているというのか。
――宇文瑛は、女としての己を認めている。女だから、欲している。
だったら、彼のところにいるほうが、居心地がいいかもしれない。
それは、現在しか見えていない女の、愚かな早合点。さかしらな精神が至った誤謬。
な蘭香の心を読み取ったような絶妙な頃合、低く脳髄に染み込む声が聞こえた。
『我が将軍の元に来られよ』
蘭香は廻りをぐるりと見る。が、人影はない。どこからともなく声がする。
「だっ、誰!?」
『我が将軍は、そなたを本気で欲しておられる』
ぞくり、と身体が震えたが、思わず蘭香は聞き返していた。
このとき、蘭香は冷静な思考を失っていた。
「本気って、どれくらいに」
『この世のどの男よりも一番に。そなたはこの世のどの者よりも幸せな女になれる』
蘭香の心が揺らいだ。
この世の幸せなど、そう簡単にありはしないことを、若い彼女は解らない。
だから、ぶら下がった餌に、容易く喰らい付いてしまう。
「あたしのこと、裏切ったりしないの?」
『無論』
その一言が、蘭香の身体を毒のように侵食してくる。
いままでは、ただ恐怖に対象でしかなかったが、自分を楽にしてくれるならそれでいい。
長恭のような女を侮る人間に、最大の侮辱を与えられることもない。
「いいわ」
誘い出されるように、口から零れ落ちた答え。
相手が己の弱さに付け込んでいるとは知らずに、蘭香は半ば麻痺した感情で乗ってしまう。
彼女は闇に手を差し伸べようとした。
――――が。
「蘭香ッ!!」
蘭香がびくりと振返ると、居ないはずの長恭が――いた。
「何……でッ!!」
彼女が気を取られている隙に、闇から舌打ちが聞こえ、ぬっと腕が延びてくる。
はっとして、蘭香は振り返る。
黒い男――何度か見たことのある細作が、彼女の二の腕を掴もうとしていた。
「キャアアアァァ――――ッ!!」
蘭香は悲鳴をあげる。
長恭は素早く懐から手の平に収まる大きさの短刀を出すと、見えぬ速さで刺客に投げ付けた。
「ぐうっ!」
それは刺客の喉もとに突き刺さり、血飛沫が蘭香の身体に飛び散る。
黒ずくめの衣の細作の体躯が、彼女に倒れ掛かってくる。
恐怖に竦んでしまった蘭香の腕を引き、長恭は彼女を細作の死骸から離した。
震える蘭香の身体を、長恭は抱き締める。
人の温もりに癒され、彼女が落ち着いてきたころを見計らい、長恭は声を掛けた。
「大丈夫か」
心配そうに覗き込む長恭を見て、先程の冷列な眼差しが甦る。
氷で作られた彫像が話しているかのような無慈悲な姿が、彼女を抱く長恭に重なる。
頭に血が上った蘭香は、長恭の腕を振り払った。
呆然と蘭香の怒りの様を見る長恭。
――何でこの男が己を助ける?
――あれだけ侮辱したのに、どうして助ける気になったのだ?
――助けてもらっただけで、どうして信用できる?
様々な感情が蘭香の頭の中をぐるぐる廻る。
ぎろり、と蘭香は長恭を睨みつけ、どすどす足音をさせて門から出ていこうとする。
思わず、長恭は彼女の腕を掴んだ。また払いのけようとする蘭香を許さず、彼は手に力を籠める。
「どこに行こうとしている」
問いかけてくる長恭の声に、蘭香の心中はさらにむかむかしてくきた。
散々己を見下していた人間が、どうして今になって腕を捕らえて離そうとしないのだ。蘭香はまったく訳が解らない。
「どこだっていいでしょう」
長恭をまっすぐに見据え、蘭香は強い声音で言う。
「危険だというのがわからないのか!」
頑なな少女の態度に、長恭の声も苛立ちを含む。
それでも、彼は蘭香の腕をがっちりと掴んだまま、離そうとしない。
「あなたに心配される筋合いはないわ」
ぐいぐいと腕を引っ張って、彼女は長恭の手の戒めを解こうとする。
が、蘭香が無理矢理振り払おうとするほど、長恭もやっきになり、押し合いへし合いしている状況になってしまう。
蘭香も言葉を選ばない。無礼にも程がある台詞を、強い語気で叫ぶ。
「大体、あなたはあたしを気に入らないんでしょう?! ほっとけばいいじゃない!」
かっとなり、長恭も叫び返す。
「わたしはそなたを護ると約束した!」
矜持に掛けて蘭香を護ると、初めの日に誓ったのだ。
約束は守る。嘘はつかない。人を悲しませない。――育ての親に教えられた信念を捨てる事は、出来ない。
が、蘭香は長恭の気持ちを理解しようとしない。
未だに、長恭に冷淡にあしらわれた事を根に持っている。
「そんなの反故にしたっていいわよ! 見下されてまで庇われたって、嬉しくなんてない!」
「わたしの矜持にかけて、反故にはせぬ!」
彼らしくなく、激して言う長恭。
このとき彼は、完全に冷静さを失っていた。馬鹿な事に拘り続ける少女を、見返そうという思いで一杯だった。
蘭香は長恭の気持ちを、鼻で笑う。
「――矜持? また、つまらないものに縋ってるのね」
ふん、と馬鹿にしたように蘭香は嘲笑う。
「なんだと!?」
長恭は激して叫ぶ。
「矜持なんて、生きていくのに邪魔なだけじゃない。窮地にたたされても、それはなにも生きてこないわ」
蘭香は皮肉を言う。
――この娘は、己の気持ちを解ろうとしない。
彼女の態度に、怒り心頭に発している長恭は、同じく皮肉で返した。
「そなたが周にいかぬのも、矜持のせいではないのか?」
明らかに嬲る面持ちで、長恭は蘭香の痛みどころを的確に衝く。
蘭香は、ぐっとつまる。
長恭の言っている事は当たっている。まさしく、宇文瑛に負けたくないから、彼女は周に行かないのだ。
が、負けてられないと、蘭香は勢いを付けて言い返した。
「そうね、でもあたしはそれだけじゃない。
あんな人でなしの性悪男に犯されるのだけはまっぴらごめんだからよ。胸糞悪いわ」
挑むようにぎらぎら輝く蘭香の眼に、この娘に負けてはならぬという長恭の意地が煽られる。
彼は唇の片端を吊り上げて、嘲弄するように笑む。
「その男の甘言に乗って、のこのこついていこうとしたのは、どこのどいつだ」
再び弱点を捕らえて攻められ、蘭香は唇をへの字に結んだ。
「あなたよりはましだと思ったのよ」
――明らかに、彼女はは劣勢になってきている。
長恭は蘭香を見下すように見やると、口元に冷たい笑みを浮かべ言った。
「上流階級に居る男は、女子を弄ぶだけで大切にはしない。まるで使い捨てのように取り替える。
それは、あの男も同じだろう。
それでもよいなら、勝手に行けばいい」
蘭香は、凍り付く。
それでも、かろうじて言葉を捜し出した。負けてたまるか、という気持ちが彼女を奮い立たせている。
「どうも忠告、ご親切さま。でも、女を塵芥のようにしか見ていないあなたと、さして変わりないわね」
顔を強張らせて、長恭は蘭香を見る。
己を宇分瑛などと同類にされ、彼は本気でこの女を痛めつけてやろうか、と思った。
生意気な口を訊けぬ様、徹底的に責め倒してやろうか、と普段の長恭なら思わないような残酷なことを考えた。
が、それを留めたのは、僅かに残っていた理性だった。
一呼吸置いて、長恭は真面目な顔をして言う。
「誤解されては困る。わたしは女が苦手なだけだ」
「そうかしら。あたしの目には、あなたは女が大っ嫌いに見えるけれど」
暫し、彼女を無言でみる長恭。
――まったく、口の減らない女だ。
長恭にとって、縁者以外にこの類の女を見るのは初めてだった。
彼のなかには、女はひ弱なものという印象があった。女は実家のために嫁ぎ、婚家のために子を生み、夫と夫の両親に侍いて生きていくものだと思っていた。
が、例外はいるもので、類型的な女人像から大きく外れる女人も確かに居る。
近縁なら、本当に間近なところにそういう女人が居る。今でも語り草になるほど、若い頃の勢いは苛烈で、男どもを蹴散らす勢いだったと、彼の乳母が言っていた。
その人とは暫く会っていない。が、若い頃はこんな感じだったかもしれない、と長恭はほんのりと思った。
こういう女を御すのは、骨が折れると、やっとのことで彼は思い至り、疲労の濃い溜息を吐いた。
「しかし、そなたのような女は生まれて初めてだ。今まで、女に殴られたことは一度もなかった」
利かん気で無礼で、向こう見ずで――恐いもの知らずだ。
長恭はそういう女性を知っている。――彼の祖母が、そうだった。現皇帝の母として敬われるその人は、祖父でなければ御せないほどの激烈な女人だった。
ある意味で、彼は今、祖母の若い頃の気質の女と渡り合っているのである。
気の強そうな目で、蘭香は長恭を見る。
「あらそう。じゃあ、あたしは記念すべき第一号なわけね」
娘は嬉しそうに、にっと笑う。
そんな彼女に、長恭は度肝を抜かれる。
正直、参った、と思った。
長恭は呆れたように蘭香を見、ひとこといった
「そなた、勢い付くのはいいが……自分の出で立ちを知っているのか?」
「何よ」
「全身、血みどろだぞ」
その言葉に、蘭香は自分自身を見た。
粗末だが気に言っている衣が、血で真っ赤に染まっている。首にも、手にも生温い血がべったり付いている。むうっとした鉄のような匂いが、鼻を突いた。
今更ながらに、蘭香は現状を把握した。
「う…わ、真っ赤……」
そう言うと、一気に血が引いたかのように、蘭香は長恭に手を掴まれたまま、その場に倒れこんだ。
「蘭香っ!!」
門の影にかくれて二人の様子を見守っていた茅鴛たちは、やっと長恭たちの前に出られた。
意識のない娘を意外そうに見、平掩は面白そうに主人に言う。
長恭は非常に疲れたような面持ちをしていた。
「しかし…公子が女相手にあれほど話されるのは、初めてですな……」
興味深そうな平掩の言葉に、長恭は機嫌が悪そうに眉を顰める。
話したくて話したわけではない。彼女の勢いに引き摺られ、話させられてしまったというほうが正しい。
それは長恭にとって、あまりいい結果ではなかった。
「このわたしが、女ごときにこれほどの屈辱を受けたのだ。何か言わねば気が済まなかった」
「いや、いままでなら何も言われませなんだぞ」
にやにやと探るように、平掩は笑う。
乳兄の眼を避けるように、長恭はふい、と顔を背けた。
「頭のなかで、何かが弾けたような気がした」
そうですか〜〜と喜色満面に頷き、平掩は茅鴛に抱き起こされた蘭香を覗き込んだ。
青ざめた顔で、くたりと崩れている少女は、先程の血気に逸った面影を残していない。
「――あの娘、なかなかの代物ですな。公子相手に、あれほどのため口をきくとは……」
――あの娘は使える。
頑なな主の女嫌いを治すのに、手頃な女が飛び込んできてくれたと、平掩は内心ほくそ笑む。
長恭は彼の心境を察し、不機嫌な顔を露にする。
にんまりと笑みを浮かべ、平掩は長恭を見た。
「あれはまるで、女ではないな」
平掩の注意を逸らすように、長恭は嘆息する。
「でも顔はかなりのものですよ」
「中身はいまの女子の基準からかなりずれているだろう」
「――それは、まあ」
内心うんざりしている長恭は、端的な事実を突きつけた。
あはは、と笑う平掩を、長恭は呆れて眺める。
その時、いままで無言だった相願が口を開いた。
「女の、屑だな」
「相願ッ!!」
平掩はひやりとして、どぎまぎと茅鴛を見る。
さいわい、茅鴛は蘭香に気を取られて聞いてはいなかった。
が、聞かれては、ただではすまないだろう。またぞろ、一悶着の種になる。
長恭も、それは同感だった。
「相願、その一言は辛辣すぎる」
一言、長恭は相願を窘める。
が、彼は態度を改めようとはしなかった。
「一番適した言葉だと思いますが」
相願はにべもなく言い放つ。
まいったね、こりゃ、と言いたげに、平掩は肩を竦める。
「まったく――公子の女嫌いは、相願に似たのだか……。わたしはそこらのひ弱な女子よりはましだと思いますがね…」
平掩は顎に手を当てた。
この娘は母の主だった、献武帝(けんぶてい)高歓の妻である婁氏(ろうし)と中身が似ている、と平掩は思った。
現在は皇太后である婁氏がまだ渤海王妃(ぼっかいおうひ)だった頃、平掩の母は婁氏に仕えていた。長恭が生まれた頃に母が妹を出産し、母は長恭の乳母に抜擢されたのだ。
婁皇太后と気質の似ている女なら、将来善い女に変化する可能性がある。見た目も化ける兆しがあるから、平掩の目利きでは、この娘は「買い」に違いなかった。
「本当に、気欝に陥っていたのか不思議に思えますよ、あの強気さは――。普通は公子に睨まれると男でも気が縮みますがね。
大した度胸だ」
感心したように平掩は言う。
彼の言葉に長恭もちらり、と蘭香を見る。
この娘と関わると、必ず面倒な事が起こりそうな予感がする――。長恭は秘かにそう思ったが、口には出さなかった。
「――疲れる一日だ」
そして、はぁ、と大きな溜め息をつき、長恭は第の方に向かった。
将士も主に従ったが、平掩だけ茅鴛に止められた。
何だ? と振り返った平掩に、茅鴛は頭を下げる。
「とりあえず、あやまります」
と言いながらも、彼の顔は硬く、あやまっているとはいえない。
平掩は大人なのでそれぐらいでは機嫌を損ねなかったが、なおも、茅鴛は言葉を続けた。
「ですが、まだ貴方に気を許したわけではないので!
蘭香に手を出したら、絶対に許しませんから!!」
そういうと、憤然と背を向けた。
唖然、と平掩は盲目な少年の背を見送る。
まるで、勢いのよい風に吹き晒された心地がした。
「――まったく、今日は災難だよ……。
孺子(ガキ)に絡まれるわ、公子と蘭香が揉めるわ……結局は、俺はとばっちりを受けただけじゃないか……」
平掩は無造作に、髪を掻き毟る。
若者達の暴走ぶりに当てられ、平掩は己が酷く年寄り臭いような気がしてきた。
先が思いやられる――そう思いつつ、平掩も長恭の後を追った。
蘭香は目覚めると、自室の寝台のうえにいたので驚いた。
茅鴛と菻静、斐蕗が己を心配そうに覗き込んでいる。
蘭香は身体を起こし、皆の目線に首をすくめる。
「よく、無事だったね……」
菻静は一部始終を茅鴛から聞いているのか、呆れ果てて言った。
「血塗れで、茅鴛におぶわれて戻ってくるから、まさかって思ったよ」
「――えっと」
蘭香は、起き抜けの覚醒していない頭で、己に何が起きたのか思いだそうとする。
「蘭香、もうあんなふうに自棄になって、自分から周に行こうなんてするなよ!!」
茅鴛が必死の形相で彼女の肩を揺さ振った。
「そういえば――!」
己は、公子・長恭と派手な口論をしていたのだ。
血まみれの衣装に気づいて、思わず失神してしまったが、まだ勝敗は付いていなかった。
――このまま負けるのは、癪に障る。
跳ね起きるように寝台から抜け出すと、蘭香は寝間着のままで外に出ようとした。
「蘭香ッ、あんた、そんな格好でどこいくんだい!?」
「まだ公子と決着がついてないのよっ、このままじゃ納まらないわ!」
蘭香は硝子と木枠で組まれた戸を開けて、今にも飛び出していこうとしている。
が、それを止めたのは、冷静かつ穏やかな斐蕗の声だった。
「彼に、助けてもらったのにかい?」
斐蕗の落ち着いた一言が、蘭香の熱しきった感情に冷や水を被せる。
が、納まらない蘭香は、噛り付くように斐蕗に訴えた。
「あれは、自分の矜持のためによ!」
そう、間違っても、己を思いやって助けてくれたわけではない。
蘭香はそれが、我慢ならなかった。
矜持や義理で助けてもらうなど、嫌だ。――感情の籠もらない手助けなど、欲しくない。
斐蕗は激する蘭香に言葉の匕首を突きつける。
「それでも、助けてもらったのに変わりはないだろう?」
うっ、と蘭香はしばし何も言えなくなる。
それは、事実。彼に助けてもらったから、今、己は攫われずにすんだのだ。
「それは…そうだけど……」
それでも、蘭香は釈然としない。
まだ色々言い足りないが、斐蕗の笑顔がそれを認容していなかった。
暫し、彼女は斐蕗を上目遣いに見ながら押し黙る。
「蘭香は、彼に十分に感謝しなくてはいけないよ」
かっとして、蘭香は言い返す。
大きな蟠(わだかま)りを抱えているのに、感謝しなくてはいけないのか。
「どうしてっ、あんな人に!」
蘭香は言い募る。
例え斐蕗の言葉でも、それだけは受け入れられない。
「彼が一番に駆け付けて助けてくれたんだ、殴られた後なのにだよ。
そうだろう? 茅鴛」
茅鴛は渋々頷いた。
彼は蘭香が長恭と言い合っているとき、間に入ってはいけない空気を感じた。自身の想う少女が、他の男と同じ密度の感情の交錯をさせている。それが喧嘩腰であろうとも、ふたりの間に惹き合う何かを感じてしまったのだ。
ただ、いがみ合うだけの関係で済めばいいけれど……茅鴛は一抹の不安を感じる。
蘭香はどこまでも不承知に、斐蕗の言を入れようとしない。
「あの人は屈辱より矜持のほうが大事なのよ」
拗ねてそっぽを向き、蘭香は言う。
ふうっと息を吐き、斐蕗は自身しか知り得ないことを言う。
「矜持と屈辱は紙一重だ。矜持の高い人は、屈辱を与えた人間を許さない。
彼は、そういう意味ではこころの広い、優しい人間だといえるね」
本来、矜持と身分の高い者と平民は相容れないものなのだ。
彼とて、初めは菻静たちは己と別世界の人間だと思っていた。が、ある切っ掛けで彼も菻静の世界に降りて来ねばならなくなった。そうして、初めて違う世界のものが相容れることを知ったのだ。
蘭香も、ふと考える。
殴られたのに、己を助けてくれた。あんなことをされたのだから、怒って当然なのに、助けてくれた。
普通の貴族なら、屈辱を与えた人間を排除しようとする。彼は、そうしようとしなかった。
そういう点からいえば、やはり長恭は普通の貴族とは違った。
が、長恭が彼女に投げ付けた言葉は、到底許せるものではない。
悔しいので、蘭香は言い返す。
「優しい人が人を傷つけるようなことを言うものなの? 助けられたからって、彼があたしに言ったことを帳消しにしろっていうの?」
柔和な笑みを浮かべて、斐蕗は蘭香を沈黙させる言葉を告げる。
「では蘭香は、人を傷つけないようにできるのかい?」
「えっ――」
蘭香は黙り込む。
人を傷つけないようにできるか――できるはずがない。
自身は傷つけようとは思っていなくても、無意識に傷つけてしまう、ということは、日常茶飯事のことだった。
「わたしたちは蘭香が思いやり深い子だということを知っているよ。でも、絶対に人を傷つけないと言い切れないのではないのでは?
人間は、間違うものなのだよ」
蘭香も、斐蕗の意見を飲む。
「――そうね」
「ましてや、彼の側近は男ばかりなのだろう。昨日から第内を見回してきたけれど、侍女以外、女はいないからね。
とても潔癖なのだろう」
長恭の年齢と身分なら、妻を迎えていてもおかしくない筈だ。なのに、それらしき人物の匂いを、この第には感じない。
皇族や高貴なる人は、妻を娶り子孫を残す義務があった。だから、加冠して早々に嫁を娶る。
が、彼は皇族の慣例に背いている――。
それは、おかしな点だった。
そのとき、菻静が口を開く。
「結婚もせずに、ほとんど男だけに囲まれて、高潔な生活を送っているっていう見せ掛けだね」
「菻静……」
何を言うのかと、斐蕗は菻静を観察する。
機嫌が悪そうに、彼女は腕組みした。
「あたしゃ、あんたたちの会話を聞いてて、むかついてくるんだけどさぁ」
鼻息荒く、菻静は言う。
「女嫌いで女を見下す。それほど、男は偉いっていうのかい。
どんな男児でも、女の腹から生まれてくるんだろう。
男では行き届かないところでも、女だったら気づけたりするじゃないか。
女を甘く見すぎだよ」
息巻く菻静に、斐蕗は首を振った。
「それは違うよ、彼は、女を知らないんだ。
女を知らないから、女の偉大さを知らないんだ」
「――――あ……」
納得したように菻静は声を洩らした。
女を知らないなら、蘭香に対する態度も理解できる。
「それは、ありうるかも」
「知る前に、嫌ってしまっているんだ」
意気投合するように、菻静は夫と言葉の時機を合わせる。
「食わず嫌い、ってやつ?」
斐蕗は頷く。
病的な因を持って女と関わり合わないのか、それとも嫁を娶る機会を持てないのか解らないが、長恭は知らぬがゆえの潔癖さを持ち得ていた。
それは、本当はあまりいい状態ではないと、斐蕗と菻静は思う。
蘭香はふたりの会話を聞きながら、長恭の言葉を脳裏に反芻していた。
「もう一発、殴りたい」
「ら、蘭香ッ!!」
彼女の過激な一言に、菻静が焦る。
蘭香は腕を組み、勇ましく言い切る。
「知ったかぶって、適当なことを言うんじゃないわよ。
あんなこといって、どこまであたしを護れるか、見ててやるんだから!!」
「……蘭香」
菻静は、頭を抱え込んだ。
長恭も長恭なら、蘭香も蘭香だ。こちらも、問題が多い。
少しはしおらしさを身に着けたほうが、女としては生きていきやすい。それなのに、まったく蘭香は勝気過ぎる。
このままでは、どこに出しても恥ずかしい。蘭香の育ての親でもある菻静は、落胆を隠せなかった。
それよりも、驚くべき結果が目の前にある。
斐蕗はそのことに気づき、蘭香に向けて微笑みを浮かべる。
「――今回は、落ち込まなかったね」
斐蕗の一言に、蘭香は腕を解く。
――いつもなら、刺客に襲われれば激しい気鬱に見舞われ、起きていられないほどだった。
が、今回は、ぴんぴんしている。
蘭香自身、それは不思議なことだった。
はっと、思い至る。
――あぁ、そうか。公子に気を取られていたからだわ。
気鬱に陥る隙もないほど、蘭香は長恭への怒りに捕らわれていたのだ。
血塗れにまでなったというのに、長恭への腹立ちで頭が一杯だった。
蘭香は苦笑いする。
「頭の中が弾けちゃって、真っ白になっちゃったんだもの」
その時の様子を見ていた茅鴛は、皮相さを滲ませ、内心呟く。
――そのわりには、白熱していたけどな……。
複雑極まりない心情に、皮肉のひとつも言いたくなった。
が、ふとあることに気付き、斐蕗に向き直る。
「兄さん――。その、女と話すのが嫌っていうやつが、蘭香と思い切り口喧嘩していたんだけど……そんなこと、有り得るかな」
斐蕗も考えが及び、顎に手をやる。
「そういえば――そうだね」
女に見向きもしない男が、女に喧嘩を挑まれ激昂した。それは、彼の潔癖さが不完全であることを指し示している。
そしてそれは――内面の変化の、前触れである。
しばらく考えてから、斐蕗は口を開いた。
「蘭香に不意を突かれたんだろう。女から殴られるのは屈辱かもしれないが、驚愕でもあっただろうしね」
うんうん、と蘭香は頷く。
「で、あたしと同じように弾けちゃったの?」
斐蕗は首を捻った。
「さあ、それは……。
ただ、今以上に柵を作られるようになるだろうな」
「ふぅん……」
斐蕗の解釈で、蘭香は怒りが和らぐところまで、なんとか一応理解したような気がする。
でも、嫌われているのに護られるというのは、複雑だ。またそれで喧嘩になったり、気を使うというのも、嫌だ。
蘭香は歎息を吐いた。
――あぁやっぱり、性悪だわ、宇文瑛は!!
彼が諦めないかぎり、長恭に護られることになる。
宇文瑛が己を諦める日がいつくるかは解らないが、それまでは、蘭香はここを動けないのである。
が、皆のためを思えば、仕方がない。
「――仕方がない。あたし、我慢するわ」
「蘭香」
やっと理解してくれたと、ほっとしたように斐蕗が洩らした。
小さく蘭香は苦笑いする。
「それに、あの人がどう変わるか、見てみたいしね。
どちらにしろ、これからもあの人の殻をつつくことになるんだろうから。
絶対に負けないからッ!!」
これからも交えなければならない長恭との勝負に向けて、蘭香は気合を入れる。
妙に力を入れて言う蘭香に、菻静は深く溜め息を吐いた。
「――――失敗?」
低い声が室内に小さく木霊す。
灯りの落とされた豪奢な部屋には、麝香の官能的な香りが漂う。
「申し訳ござらぬ。我が配下、手も足も出ませなんだ。
噂は耳にしておりましたが、斉の公子・長恭――侮れませぬ」
恐れるように低頭する男を鼻先に笑い、硝子の杯の酒を揺らしながら、寝台の帳の中にいる男が言う。
「文襄の子のもとに逃げ込んだか。彼の者のもとに居れば、この俺は手出しできぬと思ったのか、愚かな……。
まぁよい、そなたらでは適わぬ事は解りきっていた」
「え、瑛将軍……」
「下がれ」
切って捨てるように、男――宇文瑛は告げる。
「はっ…」
恐縮しながら、間者の長は退いた。
瑛は周と斉の戦いのなかで、会ったことのない、あるいは刃を交えねばならぬかもしれぬ男を思い浮かべる。
文襄帝・高澄の子――文帝・宇文泰の宿命的な敵であった斉の神武帝・高歓の孫。文襄の子のなかでは一番影の薄い男であるが、一部では武勇に優れているという噂がある。
面白いことになったと、宇文瑛はほくそ笑む。
気配がなくなったあと、するり、と寝台を覆う薄布を、しなやかな手がかき分ける。
「お手討ちになされませぬのか?」
それは、瑛の傍らにいる、たおやかな女から発せられた。
「李喬薫(りきょうくん)」
李喬薫と呼ばれた女は、瑛の裸の首に腕を回し、しなだれ掛かる。薫香の染み入った柔らかな玉肌が、瑛の身体に吸い付く。
「瑛さま……、あのようなたわいのない者を使わずとも、わが下僕を使えばよろしいのではございませんこと?」
宇文瑛は、細作の頭である女・李喬薫のうなじに指を這わせながら、忍び笑いを洩らした。
媚態を滲ませ、喬薫は香しい息を瑛の耳に注ぐ。
「でも、思ったより斉の若僧は強かったのですね」
「ふっ――なかなかのものだと聞いていたが……、女ごときに殴られるとは、馬鹿なものよ」
やがて、はっきりと声を発てて笑った。
「瑛さま、そのような女子はおやめなさいませ。
田舎娘など相手になさらずとも、わたくしがおりますでしょう……?」
瞳を艶やかに輝かせ、喬薫は言う。
が、瑛は喬薫を突き放すと、寝台から降りた。
「瑛さま?!」
女の戸惑いの声を無視し、瑛は床に脱ぎ捨てられていた寝衣を纏う。
何故男の不興を買ったのか解らぬ喬薫に、瑛は冷ややかな言葉を投げる。
「おまえごときとは比べものにならぬわ。あれは金剛石の原石に比するものぞ」
喬薫は寝台から身を乗り出す。
「そんな、わざわざ斉の皇族と奪い合ってでも、価値のあるものなのですか!?」
ククッ、と瑛は女を嘲笑う。
「女には解るまい、あの女の本性が――。あの女は、男を痺れさせる魔力を持っている」
屈辱に美しい顔を震わせる喬薫に、瑛は止めを刺す。
あの夜、蘭香に触れてはっきり悟った。
未だ咲き誇らぬ花であるが、将来、大輪の花を咲かせる。ただの美貌を有するだけでなく、男の芯を麻痺させるような、娼婦の如き性を晒すだろう、と――。
「あれは、この周の宇文瑛のものだ。
例え何をしようと、何人が手に入れようと、あの女は我がものとなる。
他の男には絶対に渡さぬ!」
はっきりと言い切り、女を残して部屋を出る。
冴え冴えとした月光が、周の大地を照らす。この月光は、等しく斉をも照らしている。
――この月も、大地も、すべて周のものである。この地に、ふたつの朝が並ぶことは許されぬ。
いずれは、斉を潰す。斉の皇族をひとり残さず殺す。公子・長恭を殺める。
そのとき、はじめて蘭香は己のしたことを後悔するだろう。
己が縋ったから、公子・長恭は殺されたのだと。
悲しみに歪む女の顔が見たい。抗い逃れた女を平伏させたい。
思わぬところから湧いて出た遊戯に、宇文瑛は愉悦の笑いを洩した。