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第一章(2)へ


2・公子・長恭



 朝、余りの光の清さに蘭香は目を開けた。
 硝子の飾り窓が、陽光を反射して、寝台に横たわる彼女の頬を照らす。眩しくて、蘭香を身を起こす。
 清々しいのは、朝の空気だけではなく、蘭香の心の中もだった。
 昨夜、自害しようとしたときの真っ暗な心象が綺麗に祓われている。
 公子・長恭が強く止めてくれたからだ。少々乱暴で、打ち付けたところに痣を作っていたりもしたが、彼が止めてくれなければ、己のこころは救われなかっただろう。

「こんなに明るい気持ちで朝を迎えるのって、久しぶり……」

 そう言って、蘭香は微笑み、伸びをする。
 肺腑に思いきり息を吸い込むと、蘭香は手早く気替え、軽やかな足取りで部屋を出た。
 回廊を走り、ある部屋の前に止まると、ばんっ、と勢いよく扉を開ける。

「ねぇ――さんっ!」

 朝の一服に、暖かい飲み物を飲んでいた菻静と斐蕗は、唖然として蘭香を見る。
 暫く、ふたりは椀を手にしたまま、固まっていた。
 が、今の蘭香が本来の蘭香だと思い至り、このような表情を見ることができたことを、秘かに嬉しく思った。

「あんたは…朝から元気だねぇ……。もうちょっと、静かにできないのかい?」

 眉間を押さえ、菻静が呆れて言う。
 彼女の向かい側に座る斐蕗は、くすくすと声を発てて笑う。

「蘭香は元気なのが一番だ、君が暗いとこの楽座に華やかさが無くなるしね」

 まぁっ、と菻静は夫の言に大袈裟に反応してみせる。

「おや、あたしは華やかじゃないって!?
 言ってくれるけどね、あたしだってまだ捨てたものじゃないんだよっ。結構色っぽいとか言ってもらえるんだから」

 斐蕗は苦笑いする。

「いや、そういう意味じゃなくて……。蘭香はまだ若いから、ぱあっと光気が飛び散る気配があるというか……居る者を心地よくさせるのだよ。
 君の姉御肌なところも、ある意味、少数派の男を心酔させるがね」
「なんだい、それじゃあたしがいいっていう奴は、嗜虐趣味的な男たちみたいじゃないか」
「そうかもしれないね」

 さらに面白そうに、斐蕗は笑う。
 菻静は気っ風がよく姉御肌だが、子供っぽいところもある。斐蕗は彼女の様を「可愛い」とでも言いた気な余裕のある態度で接している。
 ふたりのこのような掛け合いは、日常茶飯事である。
 彼らの仲の良さに照れ笑いをしながら、蘭香は手を振る。

「ね、ねえ……痴話喧嘩するなら、あたしがいなくなってからやってよぉ……」

 蘭香は、たまらず言う。

「だって……姉さんって、結婚してるもの……。あたしたちを見る客の男の目からして、それは面白くないんでしょ。兄さまはそれが言いたいのよね?」
「そうだよ。未婚の娘をただ可愛いと思って見る男だけならいいが、人妻が好きな男もいるから、なかなかうまくいかないけれどね」

 斐蕗は僅かに本音を覗かせる。
 「うふっ」と菻静はにやけた。

「ただ――わたし達の客になる者のなかには、楽士を娼婦と同じと思っているような輩もいるので、愛でられるのはいいことだ、とばかり言えないが」
「――ほんと、こっちが迷惑しちゃうわよ。あたしが若くて、誰とも結婚してないからって、失礼よ
大体、あたしみたいな子供追いかけまわして、面白いのかしら。面白いのなら、かなり悪趣味よね……」

 蘭香のその言葉に、菻静は吹き出した。
 彼女の言う通り、今の蘭香はまだ童女の域を脱していない。彼女を手に入れたいと望む宇文瑛は、童女趣味といえようか。
 と、和やかな場の空気を、けたたましく開けられた扉の音が壊した。

「うるさいんだよっ、こっちはまだ寝て……蘭香?」

 手を上衣に差し入れ、腹をぼりぼりと掻きながら、茅鴛は菻静たちの部屋に入ってくる。昨日とはまったく違う、明るい面持ちの蘭香に、茅鴛は見入った。

「おはよう、茅鴛。ねぼすけ〜〜!」

 事実、日は既に天上に近い位置にある。
 蘭香はくすくす笑う。

「あ、ああ……お前、熱は?」
「もう平気。気分爽快よ」

 彼女は楽しそうに言う。
 若いふたりを安心したように見、部屋に全員が揃ったことを受けて、楽座の主長である菻静は腰に手を当てた。

「そうかい、それなら仕事しようか」
「仕事って?」

 意図していなかった、と言いた気な蘭香。
 余りにも間の抜けた答えなので、菻静はがっくりと肩を落とす

「あんた……あのごたごたで、あたしたちの本業を忘れたって?」

 菻静の眉じりが、ひくひくと引き攣る。
 「一飯一宿の恩義は楽で返す」という、楽座の取り決めがあることを、蘭香はどさくさにまぎれて忘れていた。
 慌てて、蘭香は頭を振る。

「そんなことないよ。でも、どこで?」
「ここで」

 蘭香は、ぽかんと口を開ける。
 ここって……公子・長恭の第で?

「間抜けた顔すんじゃないよ。ったく……。
 なんもせずにここに逗留すんのって、やっぱり嫌だろ? あたしたちは楽士を生業にしているんだから。
 だから、公子や部下たちの前で御前披露しようかな、ってね」

 やっと理解した蘭香は、大きく頷いた。
 確かに、何もせずに居候するより、楽士としての業を行って住まわせてもらうほうが、借りがないように思えていい。

「そうよね。あたしも、その方がここに居やすいわ」
「よしよし、じゃ、決まりだね! 今日から、練習を始めるよっ」

 菻静の声に、一同は楽器に手入れをするため、各々の部屋に戻った。


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 蘭香は、自室に戻ると、愛用の笛子を手に部屋を出た。

「久しぶりね〜〜。唱蘭」

 彼女自分の笛子を、まるで生きているかのように愛称を呼ぶ。
 蘭香の笛子は、彼女の死んだ母から譲り受けたものだ。蘭香の母も、笛子を能くしていた。
 蘭香は回廊を小走りで巡り、余り誰も通らなさそうな庭に出ると、腰掛けるのに手ごろな岩を選び、座り込んだ。

「しばらく吹いてなかったから、下手になっちゃってるかも……」

 笑いながら、笛を湿らせる。
 蘭香がすうっと息を吸い込み、笛に送り込もうとしたとき――。

「なにやってんだい?」

 ――ピィッ――――!

 快活な男の声に遮られ、険高い音を出してしまった。耳を劈く鋭い音に、鼓膜が破れるかと思った。

「わ、わあ……」

 脳天が割れるような音に、蘭香の目がチカチカする。頭がくらくらする。

「す、すごい音だな……」

 後ろの男も、狼狽した声を出す。
 蘭香は、背後を振り返った。
 二本の指で耳の穴を塞ぎ、顔を顰めて笑う平掩がいた。

「え、えと……あなたは確か、公子と一緒にいた――?」

 公子・長恭の近従でも、何かにつけ蘭香につんけんと当たっていた男の方ではない。妙に明るく、笑顔を絶やしていなかった男が、長恭たちと一緒に居た。今彼女に話しているのは、そちらの方だ。

「俺? 俺は平掩っていうんだ。公子に仕えている将だ」

 男――平掩は、自身を親指で指して名乗った。
 蘭香はきょとん、と男を見る。

「平掩さんっていうの?」
「君は、蘭香っていうんだよね? そうか、きみは笛子が吹けるんだ、すごいな」

 平掩は腕を組んで、感心したように言う。
 この男は、抜け目のない性質のようだ。昨日の僅かな接触だけで、彼女の名を覚えていた。
 蘭香は照れて俯く。

「あたしたち、楽士だから……」
「ほぉ〜〜う。きみだけじゃなく、他の奴も?」

 蘭香は笑って頷く。

「そう。茅鴛が笙で、姉さまが琵琶、斐蕗兄さまは箏なの」
「すごいな。で、どんな感じ?」

 興味津々に平掩は目を輝かせる。

「どんな感じって……」

 蘭香は、戸惑って目を泳がせる。
 どのようなものか説明せよといわれても、言葉にするのは難しい。実際に音を鳴らして聞かせるのが一番手っ取り早い。が、今皆を集めるのは、迷惑になるような気がした。

「笛子の音色さ」

 屈託なく笑って言う平掩に、彼女は当惑した。
 平掩が指していたのが己の楽器のことだけだったので一安心だが、彼は吹いて聴かせよ、というのだ。

「今、ここで吹くの?」
「嫌なの?」
「だって――あとのお楽しみのほうが面白いと思うのに……」

 人差し指を合わせ、蘭香は上目遣いに平掩を見る。
 どちらにしても、あと何日かすれば、皆で御前演奏するのだ。今聴かなくてもいいのに、と蘭香は思う。
 邪気のない笑みで、彼は応えた。

「今聞きたいな。いいだろ?」

 この笑いは、引き下がる意思のないことを現している。
 蘭香は渋々ながら、笛を構えた。
 澄んだ音が辺りに響く。
 濁りのない音色は軽やかさ、涼やかさ、哀調さに、なんともいえない華を滲ませている。
 深みのある音は、空気を振動させ、第内を広がっていく。
 平掩は顎に手を遣り、音に聞き惚れた。

 ――その時、回廊の対岸から、朝服に着替えた長恭が、颯爽とした足取りで渡ってきた。

「公子!」

 気が付いた平掩が、咄嗟に地に肩膝を着ける。
 驚いた蘭香は、笛子を吹くのを止め、長恭を見た。冠を被り、鮮卑族特有の衣装・胡服を身に着けた彼は、凛々しかった。思わず、蘭香は見惚れてしまう。
 平掩や蘭香の視線に長恭も足を止める。感情の色のない眼差しが、束の間蘭香に注がれる。

「お、おはようございます! 昨日は、ありがとうございました!
 おかげで、すっかり元気になりました!」

 蘭香がそう言い終わらぬうちに、長恭は再び足を進める。
 そのまま、つかつかと廊下の角を曲がってしまった。

「あら……」

 平掩が、すかした声を出す。

「……何で? 無視されちゃった…」

 蘭香は憮然としながら長恭が曲がった角の方を凝視する。
 困ったように、平掩は肩を竦めた。


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 己の笙を丁寧に研いていた茅鴛は、荒々しい音を発てて入ってきた蘭香に驚き、楽器を取り落としそうになった。
 どかどかと荒い足音を発てて、蘭香は彼の前に座り込んだ。
 どぎまぎして、茅鴛は怒鳴る。

「な、なんだよっ! もっと静かに扉を閉めろよ!」
「なによ、頑固な父親みたいにがみがみ叱って! あたし、茅鴛に命令される覚えはないわ!」

 憤然として蘭香は声を荒げる。
 荒んだ空気を発する彼女を、茅鴛は注意深く見る。
 蘭香は、傷ついたような面持ちをして、今にも泣きそうな顔をしていた。

「……なにか、あったのかよ?」

 さすがに長い付き合いで、機嫌の具合で彼女になにかあったのか、悟っている。
 蘭香は俯きつつ、小声で言った。

「……見損なったわ、あの人」
「――――は?」

 唐突な言葉に、茅鴛は呆気にとられる。
 蘭香は顔を上げて、茅鴛を睨み付ける。
 睨み付けられることをした覚えはない。――茅鴛は、少し混乱した。
 やがて、ぽつり、と蘭香は呟いた。

「……公子のことよ」

 やっと、茅鴛は蘭香が言いたかったことを飲み込む。
 朝から、彼女はこの第の主と激突したらしい。
 気の強い蘭香は、「売られた喧嘩は買う」気質だった。

「嫌なことでも言われたのかよ」

 蘭香の肩を支え、茅鴛は宥めるように、努めて穏やかに言う。

「昨日のお礼言ったら、無視されたの」

 彼女の怒りの原因が解り、茅鴛はきょとん、とする。
 ――お礼を言って、無視された……?

「……それで?」

 余りにも呆気無い茅鴛の応えに、蘭香は肩透かしを食らったようにがっくりし、更に食ってかかる。

「ひどいじゃないっ、お礼と挨拶を言ったのに知らんぷりよ!」

 茅鴛は軽くため息をつく。
 普通、低い身分の者は、高位の者に直接口を訊いてはいけない。また、訊かれても、身分の高いものは低い者に答える義理はない。
 それが、貴族社会の道理である。
 が、蘭香は解っていないらしい。

「……だからどうしたんだよ。おまえ、あいつを信用していたのか?
 大体、偉そうな奴に今までちゃんと相手されたこと、なかっただろ?」
「それは……そうだけど……」

 昨夜感じた長恭の心……態度は冷たかったが、こころまでは冷めていないように感じた。こころが凍てついているのなら、己を助けはしないだろう。蘭香はそう思っていた。
 が、それは、買い被り過ぎだったのだろうか?
 彼も、普通の貴族で、当たり前の行いとして己を無視したのだろうか。
 蘭香は悄然と呟く。

「……そうね、やっぱり貴族はみんな同じかもね」

 そう言いながら、蘭香は漠然とした空虚さに襲われていた。
 尊い人々にも、己たちのような下々のものを思いやるような人物がいたと、心に明かりを燈されたように感じていた。
 が、単なる自分の誤解だと解って、物悲しいような、淋しいような気持ちに蘭香は俯いた。
 そんな彼女の肩に、茅鴛は優しく手を掛ける。

「……茅鴛?」
「いいじゃないか。どんなに、上の人間に阻害されようが、俺達はいつも手を取り合ってきたじゃないか。俺達だけで信じあっていけば、それで十分だろう?」

 蘭香は押し黙る。
 人生には、諦める事も必要なのか。身分の高いも低いもなく、お互いに手を取り合って生きる事はできないのか……。
 理解しあうのは、同じ階層の人間同士でしか出来ないというのか。
 当たり前といえば当たり前の事実を改めて突きつけられ、蘭香は己を嗤うしかなかった。

「皆や、俺がついてる。蘭香は今までのように明るく笑っていればいいんだ」

 安心させるような茅鴛のほほ笑みに、蘭香は泣きたくなった。

「茅鴛――ありがとう。いつも、茅鴛はあたしのこと誰よりも解ってくれる。
 あたしは――そんな茅鴛が好きよ……」

 蘭香は、茅鴛を見つめて微笑み返す。
 茅鴛は蘭香の長く艶やかな黒髪をくしゃくしゃ、と掻いた。

「ほら、もうすぐ御前演奏だろ? おもいっきり上手く演奏して、あいつを見返そう」
「そうね、負けられないね!」

 何時もどおりに、明るく笑う蘭香に、茅鴛は眩しさを憶えた。
 別段、深い意味を籠められていない「好き」という言葉。
 それでも、蘭香のその言葉は、茅鴛のこころには息吹をもたらすものだった。



「あの娘、普通の娘でしたよ」

 長恭の前で、さも何も無さそうに平掩は言った。
 いかにも、好色といった顔で、彼は朝の風景の空想に浸る。

「明るく、素直で……結構可愛かったかな?」

 鼻の下を伸ばしながらやに下がる平掩を鋭く一瞥し、ぼそり、と相願は呟いた。

「別に、おまえの好みかどうか聞いておるのではないわ」

 長恭は無関心さながら聞く。

「しかし……公子の女嫌いも徹底しておりますな。あのような可憐な乙女に話し掛けられたというに、まるきり無視とは……」
「公子とおまえを一緒にするな」

 相願や長恭とは違い、平掩は女好きである。
 若いものから熟女まで、守備範囲が広い。彼は、蘭香などでも十分男の部分をむずむずさせられるようだ。
 またもぼそりと言う相願に、流石の平掩も気持ちの悪い笑みを浮かべてつっかかった。

「相願――お前、俺に喧嘩を売っているのか?」

 引き攣り笑いをする平掩に、ふん、と相願は顔を背ける。
 このふたりは仲がいいのか悪いのか、このような掛け合いを日常茶飯事としている。

「買うというのなら売るが?」

 どこまで本気なのか、相願は売り言葉を買う。  険悪なふたりの雰囲気に、長恭は煩わしそうに口を挟んだ。

「今日は朝参の日なので、そんな気分ではなかっただけだ」

 そういうと、長恭は颯爽と馬に跨がる。
 あ……と、相願は主のこころを思いやる。
 朝参といいながら、廷臣は誰も居ない部屋で、皇帝とふたりきりで行われる、忌まわしい密事。
 それが、現在主を蝕んでいると思うと、相願は居てもたってもいられぬ心境に駆られた。
 何事にも揺れ動かされない主人に、平掩は頭を掻きむしってから騎乗した。


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「あんたたちって、本当に仲がいいねえ」

 寄り添いあって音合わせする蘭香と茅鴛に、にやにやして菻静は言う。
 本当の兄妹のような生い立ちをしたふたりは、誰が見ても仲がよいように見える。が、どのように見ても、若い年頃の男女が居並んでいるというのに、ふたりが深い仲であるとは感じさせない。
 それはひとえに、既に妙齢の乙女となっているのに、蘭香の精神が幼すぎるせいでもあった。
 報われぬ片思いをする弟を揶揄する意味も籠めて、菻静は声を掛けたのだ。

「えっへへへ〜〜、仲いいでしょ?」

 菻静の言葉の含みに気付かない蘭香は、無邪気な笑みを見せる。
 茅鴛は微かに苦笑いを浮かべた。
 彼は蘭香が物心つかないころから、彼女に対して思慕の念を抱いているが、蘭香は幼馴染み以上の気持ちを持っていない。他のものと同じ、濁りのない爽やかさで彼と接している。
 茅鴛は今はそれでいい、と思っている。
 現在は、己のこころを押し付けて、彼女を遠ざからせてしまうことのほうが恐い。
 菻静もそんな弟のこころが解るから、いつか、蘭香が女として成熟し、茅鴛に相対するようになるのを望み、見守っている。
 笛と篳篥の音が、息の合った絡みで、調和のとれた音を部屋に響かせる。奏者の関係性の良好さを顕している。
 否、蘭香と茅鴛だけではなく、この楽団のすべての音が、外れることのない均整を取っている。
 一通り奏し終わって笛から唇を離したとき、斐蕗の声が耳に届いた。
 同時に、菻静も顔を上げる。

「姉さん、斐蕗兄さまが呼んでるわ」
「なんだろ、ちょっと行ってくるね」

 菻静はふたりを残し部屋から出る。

「いいわね。菻静姉さんと斐蕗兄さま。本当に仲が良くって羨ましい」

 夢見がちに蘭香が呟く。
 彼女にとって、斐蕗と菻静のふたりは理想の夫婦像だった。仲がよく、お互いに気遣いあい、それでいて遠慮がない。信頼しあっている。

「蘭香も、将来誰かとあんなふうに幸せになりたい?」

 茅鴛は彼女の背中に聞く。

「それは――そうね。誰かと愛し、愛されて……」

 目蓋を閉じて、考える。
 もう少し大人になって、綺麗になった自分と、まだ遇わぬ誰かと、手を取り合い……。
 昨日まで、仲間のために己を犠牲にしようと思っていたが、やはり己が望み、そして、相手からも望まれて結ばれたい。そして――幸せになりたい。
 頬を染める蘭香の肩に、そっと手を置こうとする茅鴛。
 ――――しかし。

「蘭香――っ、あたしの肩掛け貸しとくれ――っ」

 菻静の一言で、茅鴛の手は空を掴んだだけで終わってしまった。

「はぁ――いっ」

 そういって振り向いた蘭香は、蹲って落ち込む茅鴛を見て、声をかける。

「茅鴛……お腹でも痛いの?」
「ち、ちがう……べつに何も……」

 俯いて、茅鴛は歯軋りを隠す。
 結局、蘭香は何も分からなかった。




 菻静の柔らかい手触りの肩掛けを持って、杜蘭は第内を歩む。
 春の日差しが、木漏れ日の間を縫って射す。麗らかな空気が、今まで季節の移ろいに気付くことさえ出来ずにいた少女のこころを和ませる。

「ほんと、いいお天気。……平和だなぁ」

 蘭香は眩しそうに、指の隙間から太陽の光を透かしてみる。ふわり、と薄い布がはためいた。
 今朝は少し嫌なこともあったが、先日までに比べて、格段と心が休まっている
 それは、この第内が整然としていて、何者も付け入れぬ隙もない空気を持っているからである。静謐で、緩やかな空気が流れている。
 それは第の主・長恭の人格の現われでもあるが、蘭香は気にしない、気にしないと足を進めた。

「そういえば姉さんたち、何処にいるのかな……」

 肩掛けを持って出たものの、菻静たちがどこにいるのか、見当もつかない。
 蘭香が目を皿のようにして廊下を見回したその時、

「公子の、御帰還でございます――――!」

 と仕え人の声が聞こえた。
 朝のことを引き摺る蘭香は狼狽え、身を隠そうとする。

「やだ……ッ、早く姉さんを見付けて、部屋に帰ろう!」

 今は、長恭たちと会いたくなかった。
 急ぎ足で廊下を渡り、蘭香は角を曲がる。

 ――――が、

 ドンッ、と誰かとぶつかった。
 蘭香はもんどりをうって、倒れる。

「キャアッ!」

 格子窓に身体を打ち付け、蘭香は頭を擦りながら相手を見る。

 ――――え?

 蘭香は目を見張る。
 相手は、長恭だった。
 それも、真っ青な顔色で、錯乱した目をした――。

「ご、ごめんなさい……っ」

 長恭の面持ちの只ならなさに、蘭香は思わず謝る。
 が、またも、蘭香がそう言い終わらぬうちに、彼は足早に去ってしまった。
 何故か、彼はひどく狼狽しているようであった。

 ――何、今の……。

 ぶつかったり、無視された衝撃より、長恭のあの表情に打ちのめされて、蘭香は動けなかった。
 あまりに完成された美貌ゆえに、遠目に見れば人形のように見えてしまう長恭だが、先程の彼は人間の弱さ、痛みをありありを感じさせる何かがあった。
 その何かが、不吉な符号を孕んでいるように思えてならない。
 蘭香は呆然と長恭が去った方角を見ている。
 そんな彼女の前を、同じく血相を変えた相願が過ぎった。

「蘭香――蘭香!」

 肩を揺さ振られ、蘭香は我に帰る。
 顔を上げると、真剣な眼差しの平掩が、彼女を覗き込んでいた。

「へ、平掩さん……っ」
「大丈夫かい、かなり強く打ち付けたのか?」

 心配そうに、平掩が彼女を覗き込む。
 咄嗟に、蘭香は首を振った。

「い、いいえ……っ」
「そう――。だったら、いいけれど……」

 ほっとしたように、平掩は吐息する。
 今は自分に構っている場合ではないのではないか。自分は何ともない。だから、蘭香は余計に長恭にこころを持っていかれる。
 落ち着かなく、蘭香は平掩を見る。

「あ、あの――平掩さんは、行かなくて、いいの?」

 まだ動揺している蘭香に、平掩は優しく応える。

「ああ、相願がついてるからね――。それに、公子は大丈夫。
 ああ見えて、公子は強いからね」
「そう…ですか……」

 公子は、強い――。
 果たして、そうなのだろうか。
 先程の彼の面持ちは、異常だ。本当に、大丈夫なのだろうか――。
 蘭香が思いあぐねていると、菻静が角を曲がって現われた。

「蘭香ッ、遅い!! ――っと、あれ?」

 菻静は蘭香と平掩を見比べ、数度瞬きする。
 やっと、長恭の呪縛から解き放たれ、蘭香は現実に帰る。

「ああ、彼女を呼び止めたのは、俺ですよ」
「あんたさん……どなた?」

 不躾な問いを、彼女は平掩にぶつける。

「俺は、公子に仕える側近の、平掩と申す者です。
 ちょっと、話があるので、彼女を借りますよ」

 そう言うと、平掩は蘭香の手から肩掛けを取り、菻静に手渡す。
 呆気にとられた菻静をよそに、彼は蘭香の手を取って歩きだした。


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 平苑は蘭香を今朝の庭先に連れていくと、彼女を手近な岩に座らせ、自分は大きな木の幹に凭れた。

「……決して、王に悪気はないんだ」
「……いいえ、無理して励まして貰わなくても、慣れてますから」

 完全に平素の自分を取り戻した蘭香は、顔を俯き加減にして呟いた。
 完全に平静に戻ると、朝の不快な出来事が甦ってきた。先刻どんなに尋常でない顔をしていたとしても、朝のことはむかつくことに変わりはない。
 蘭香のなかで、長恭への怒りがふつふつと沸きだしていた。
 それでも、厄介になっている身では、大人しくするしかない。
 ここは猫を被るのが一番だと、蘭香は判断した。

「それに、あたしはここにご厄介になってる身……怒るなんて、とんでもないことです」

 平掩は顎に手をあて、彼女を観察した。
 その眼は、見透かすように、蘭香にじっと充てられている。

「嘘だね、無理してる」
「嘘なんて――!」

 ――いやだ、見抜かれた。
 内心うろたえつつも、蘭香はむきになって応える。

「君って、いかにも気が強そうだしね」
「そ、それは……」

 図星を刺されて、言葉が出ない。

「ついでに、君は公子のことを誤解している」
「誤解……!?」

 蘭香は憤りに目を煌めかせて顔を上げる。
 平掩はとおい目をして、呟くように言った

「公子は、この斉の皇族のなかでは、公子の兄上達と同じように優しくて、思いやりのあるいい人さ」

 「この斉の皇家のひとには、そういう人が少ないんだよね〜〜」と、誰かに聞かれるとまずいようなことを、さらっと平掩は言ったが、蘭香は問題にしていない。
 斉の人間が長恭をどう見ようが、蘭香が見た長恭は冷たい人間だったのだ。彼女には、それがただひとつの事実だった。

「……いい人が、無視するわ、ぶつかっても謝らないわ……そんなこと、します?」

 蘭香は思い切り皮肉を口走る。
 彼女の気の強い態度に、平掩は愉しそうに笑う。

「ほら、やっぱり気が強い」
「……はねっかえりで、悪うございましたわね」

 ぷん、とむくれて蘭香は言う。

「な、なにもそこまでは言ってないけど……。確かに、王はどちらかというと人見知りする質だよ。
 でも、見えないところに人の善さはあるものさ」

 かっとして、蘭香は言い返す。

「そんなこと、言い訳でしかないと思うわ。人と協調してやっていこうと思うなら、最低の融通はいるとおもうわ」

 蘭香の辛辣な言葉に、ふと平掩は真顔になった。
 そこには、先程ふざけていた人間とは思えぬ程の深みがあった。

「――ひとは、そう簡単に、物事が運ばないことの方が多いんだ」
「……あ」

 流石に、蘭香も言い過ぎたと思い、恥ずかしそうに俯く。
 己は、長恭のことを詳しく知っているわけではない。昨日会ったばかりの人を知ったように批判するなど、己にそんな権利などあるだろうか。

「でも……ぶつかられた時のことは、仕方がないと思うわ。何だか、ただ事ではなかったもの……。
 それに、人には人の事情ってものがあるよね……」

 蘭香は、長恭の索漠とした目を思い出す。
 あのときの彼は、きっと普通ではない。普段の彼とは、違うのかもしれない。
 彼女はそう思いこもうとした。
 そんな蘭香を、平掩は満足気に見て、頷く。

「うん、やっぱり、思ったとおり」
「――え?」

 蘭香は首を傾げる。

「気が強いだけでなく、とっても優しい」

 その言葉に、蘭香は真っ赤になる。
 こういう言葉を、殺し文句というのではないだろうか。

「へ、平掩さん…あたしみたいな小娘を、なに誉め殺ししようとしてるの……。
 もう……やだっ!」

 そういって、後退り、蘭香は小走りに廊下に駆けていった。
 残された平掩は彼女の後ろ姿を見ながら、まだにやにやしていた。

「やっぱり……可愛い娘だ!」



 部屋に戻った蘭香を待っていたのは、激昂した茅鴛の怒声だった。
 驚いて、蘭香は目を剥く。

「茅……茅鴛?!」
「お前、あんなに貴族のせいでえらい目にあったってのに、ここの男と付き合ってるのか!?」

 茅鴛の突拍子もない早とちりに、蘭香は唖然とする。
 どこから、そのような思考が生まれたのだろう。
 蘭香は思考を廻らせるが、まったくその原因を思い至らない。
 茅鴛の見当違いな激しい思い込みに、蘭香は反発した。

「――は!? なにそれ、なに勘違いしてるの?!」

 彼女は手を大袈裟に上げ、首を傾げてみせる。

「だって、姉さんが…!!」

 茅鴛は血走った眼を、後方の菻静に向ける。
 彼女はすまなそうな面持ちで蘭香を見ていた。

 ――まさか、さっき平掩さんに連れて行かれたことを、姉さんは茅鴛に言ったの? でも、それだけでそんな妄想が出来るっていうの?

 蘭香は頭痛がしそうになった。今日は、不慮の災難に見舞われやすい日のようだ。

「何を言ったのよ、姉さん!」
「あ、いや――さっき、男に連れてかれたって言っただけなんだけれど……」

 しどろもどろに菻静は応える。
 菻静は彼女が平掩と連れ立ってどこかに行った、ということだけ話したようだ。
 それはそうだろう。この第の者に連れ出されることは充分に考えられることであり、怪しむことなど、普通に何もない。そう、蘭香は考えている。
 蘭香はきっ、と振返ると、叱るように茅鴛に言った。

「たったそれだけで、どうしてそんな勘違いができるのよ、馬鹿らしい!」
「馬鹿らしい、だってえ!?」

 鈍感な蘭香の無神経な一言に、余計に茅鴛は反応する。怒りに火が注がれる。

 ――俺の気持ちも知らずに!

 蘭香は、長恭に無視されて怒りを抱いていた。貴族は流浪の楽士など人として見ていないと落胆していた。
 というのに、ここの者に気を許し、のこのこと付いていった。あのときからどれほども時間が経っていないのに、どうしてそんな行動が出来るのか、茅鴛には理解できない。
 彼女が傷付いたと思って慰めていた己が、まるで道化のように感じられた。
 茅鴛は暗いが熱い目で、蘭香を睨む。
 蘭香は彼の有り様に、少し怯む。
 茅鴛は凄まじい激怒の形相で蘭香を睨むと、勢いよく踵を返した。
 慌てて、蘭香は追い掛ける。

「ちょっと、どこ行くのよッ!!」
「男に、直接聞きにいく!」

 ぎょっとして、蘭香は茅鴛の腕を掴み、止めようとする。

「茅鴛、あたしのこと信用できないっていうの!?」

 己は平掩と話していただけなのに、何故、こういうことになるのだろう。
 どうして、茅鴛にこんなに咎められなければいけないのだろう。
 まったく疾しいところがないというのに、茅鴛は信じられないのだろうか。
 茅鴛にとって、己は信じるに足りない存在なのか。
 彼の不安の源を知らない蘭香は、歯がゆく、それだけに怒りがむくむく湧いてくる。
 ふたりが喚きあいながら角を曲がったとき、書物を手にした長恭主従と顔を合わせてしまった。
 良いことはそう時宜よく現れることはないのに、嫌なことはよくよく起こりやすい。

 ――なんて間の悪い!

 そう蘭香が思った瞬間にも、茅鴛は喰ってかかっていた

「平掩って、誰だよッ!!」

 茅鴛は主従に食ってかかる。
 主従は彼の勢いに押され、半歩下がった。

「止めてよ、茅鴛ッ!!」

 蘭香は割って入ろうとするが、茅鴛は彼女を押しやる。
 平掩は面食らった表情で、ふたりを見入っていた。何をもって、この少年が怒っているのかが解らない。
 隣で相願が舌打ちし、

「だから、一言言ったのだ……」

 と忌ま忌ましげに呟いた。

「え、えっと……いまいち、話が見えんのだが」
「き、気にしないでよ、平掩さん……」

 居心地悪そうな平掩に、気まずそうに蘭香が返す。
 そのやり取りで気付いた茅鴛はは、やおら平掩の胸ぐらを掴んだ。

「あんたが、蘭香を誑かしたのか!?」
「――誑かす?! 俺が?!」

 びっくりしたように平掩は目蓋をしばたかせた。

「いいかげんにして! 勘違いだって言ってるでしょう!!」

 茅鴛の手を掴んで外そうと蘭香はもがくが、びくともしない。
 そのとき、一人冷静に三人を見ていた長恭が、声を発した。

「よさないか、見苦しい!!」

 凛とした一声に、ぴたり、と三人は止まる。
 長恭はじろり、と彼らを一瞥すると、静かに問いただす。

「本当のところはどうなのだ、平掩?」
「いや――わたしは、ただこの娘を力付けていただけで……」
「嘘だ、蘭香を誑しこんでいたんだろう!?」

 茅鴛の激情の燻りは納まらない。なおも言い募る。

「た、誑し……!?」

 平掩は間抜けた顔をし、相願は吹き出した。

「な、何を笑う!? 相願!!」
「いや、おまえならがやりかねぬと……」

 くっくっと本当に愉しそうに相願は笑う。
 確かに、平掩は女とよく遊ぶ。街で女を引っ掛け、妓楼を泊まり歩いている。洒落者で明るく、気前も元気もいい平掩は、街の女たちに好かれていた。
 それを見た茅鴛はぶり返したように勢い付く。

「やっぱりだ!!」
「ご、誤解だッ!! この娘は、公子に無視されたのを気にして……」

 はっと、平掩は口を噤む。
 みるみる蘭香の顔色が変わる。
 それは、絶対に言ってはならぬことだった。特に、長恭の前では。

「へ、平掩さん……」
「ご、ごめん、蘭香……」

 ぎゅっとこぶしを握り、震わせる蘭香。

「最ッ低――!」

 聞かれたくなかった、気持ち。どうしても達観できぬ、未熟さからくる怒り。
 それを、よりによって長恭に聞かれてしまった――。
 あぁ、穴があったら入りたい。ここから逃げられるのなら逃げ去りたい。
 周に追われる身では適わぬ思いだが、蘭香は切実にそう願った。
 そんな蘭香に追い打ちを掛ける一言が。

「つまらぬな」

 長恭は冷たく蘭香を見据えた。
 その冷たい凝視に、蘭香の瞳が大きく見開かれる。

「そのような事で悩むなど、実につまらぬ。
 女はそのようなたわいのない事ですぐに悩みたがる。
 そんなことより、もっと大切な事があるだろ……」

 澱みもなく、つらつらと美しい唇から出る鋭い言葉。
 まったく変わらぬ伶俐な双眸。
 冴え渡った月のような、凍てつく空気。
 そのすべてが、蘭香の未熟さを攻める。蘭香を打ち据える。

 蘭香は震える手を握り、振り上げる。
 腕が、空を切った。




第二章(2)へつづく

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