3・乱気の王朝
蘭香たちが斉に入って三日が経った。
表面的には立ち直ったかのような面を見せる蘭香に、菻静達はいくらか穏やかな心地を味わうことができたが、未だに離れぬ暗い心像に、複雑な思いを味わっていた。
陽の光溢れる部屋の外で楽の練習をする蘭香の姿を耳で感じ、斐蕗は細く息を吐く。
「――しばらくは、大丈夫そうだね」
刺客が現れない事も。――蘭香が、平静を保っていられる事も。現在は波乱は起きない予感がする。
傍らに居並んで座る菻静は、目を細める。
「でも、本当に解決したわけじゃない。これからどうなるか、あたしの子も……」
少し膨らんだ腹部に、彼女は軽く手を当てる。
――妊娠八ヶ月。あと二ヶ月ほどしたら、腹の子が生まれる。
宇文瑛の手が伸びてこないように、蘭香を魔の手から護る為に、菻静たちは縁も所縁もない斉の公子・長恭の第に留まっている。
が、ここを出れば、また細作が忍び寄ってくるだろう。
女手の少ないここで出産するのは心苦しいが、蘭香のためには、この第で子供を生ませてもらうしかない。
それが、菻静には何とも居たたまれない。
菻静は本音を、小さく口にする。
「蘭香のことは可哀想と思うよ。でも、このままで無事にこの子を生むことができるか、正直、不安なんだ」
目を瞑る妻の物悲しい気配に、斐蕗は思いを巡らし、口を開く。
斐蕗とて、このまま助け手を求めぬわけにはいかぬ、と思っていた。
「菻静、連れていってほしいところがあるのだが……」
「……なに?」
菻静は顔を上げる。
にっこりと、斐蕗は微笑んだ。
「公子の部屋に」
すっと、彼女の柳眉が釣り上がる。
わなわなと手を震えさせ、菻静は眼を剥いた。
「な、なんでえ!?」
菻静は本気で嫌がっている。
が、斐蕗はまったく気にせず、彼女の手を握って甘く囁きかけた。
「昨日の事のお礼を言いに行きたいのだよ」
夫の手を振り払い、菻静は立ち上がる。
おやおや、というように、斐蕗は肩を竦める。
「ほっときゃいいんだよ、あんな冷血漢!!」
むきになって、菻静は叫ぶ。
昨日、長恭が蘭香に取った態度は、同じ女として許せるものではない。蘭香を女だからと馬鹿にした彼に、菻静は怒りを抱いている。
女に不慣れだというのは、理由にならない、と彼女は考えている。
笑み含みな声で、斐蕗は妻が逆らえないようなことを語りかける。
「このわたしに一人で行けと?
それに、今後のことも、訪ねておかなくてはね」
ぐっと、菻静は詰まる。
今後のこと――何時まで、この第に留まっていいのか。蘭香をいつでも護ってくれるのか。そして……この第で子を生んでいいのか。
菻静にも、長恭に訊ねておく必要があることは、解っていた。
何しろ、今の己たちの今後を握っているのは、公子・長恭なのだから。
――そう、すべて、公子しだい。
嫌だろうが苦手だろうが、逃げてはいけない、と菻静も覚悟を決める。
ふぅ、と息を吐くと、彼女は夫の手を取った。
「あぁッ!」
叫ぶなり、蘭香は座っていた岩から立ち上がる。
素っ頓狂な彼女の声に、茅鴛はびっくりして面を上げた。
「ら、蘭香?」
少女はいつも耳の前に生え下がった髪を編んで、薄紅色の貝殻で出来た花の髪飾りを挿している。左側の三つ編みを弄り、泣きそうな声を出す。
あたふたと、蘭香は岩の陰や芝の隙間を探す。が、すぐさま困惑した声を上げた。
「髪飾り、落としちゃったぁ〜〜ッ!」
その髪飾りは、蘭香の亡き母がまだ南の朝が梁であった頃に露店で手に入れたものである。母の遺品であり、過ぎ去ってしまった時代の名残りでもある。
確か、今朝ちゃんと髪に挿したはずだ。それなのに、どこに落としてしまったのか、大切にしていた髪飾りは忽然と消えてしまった。
「あたし、探してくるッ!」
蘭香は身体を翻す。
一目散に走り出そうとした彼女の背中に、茅鴛は声を掛ける。
「俺たちも手伝うか?」
振り返り、蘭香は手を振る。
「いいっ、茅鴛たちは練習を続けて!」
茅鴛の助け船を断り、蘭香は走り出す。
朝まではあったのだから、来た道で落としたのだ。
が、庭に来るまでに渡った回廊をを隈無く探すが、なかなか見つからない。
蘭香が諦めかけたそのとき、何者かが彼女の肩を叩いた。
振り返ると、平掩が笑顔を浮かべて立っていた。
「平掩さん……」
「捜し物って、これかい?」
彼は何かを差し出す。その手には、蘭香の髪飾りが乗っていた。
蘭香は満面に顔を輝かせる。
「あっ、あったあ! ありがと、平掩さん!」
「いや――それより蘭香」
「何?」
平掩から髪飾りを受け取りながら、蘭香は彼の言葉を待つ。
もぞもぞと平掩は口籠る。
言い難いことだろうか。そう思って蘭香が首を傾げると、意を決したように彼は口を開いた。
「この前は……ごめん」
一瞬、蘭香はきょとんとする。
が、はっと思い出す。――三日前に刺客に襲われる前、蘭香と平掩ふたりだけの、長恭に纏わる秘密の話を、彼は長恭本人に話してしまったのだ。
蘭香は首を振る。
「平掩さんのことは、怒ってないよ」
その言葉の含まれている別の意味に、平掩は溜め息を吐く。
「公子のことは……怒ってるんだね?」
蘭香は唇を引き結ぶ。
忘れられるわけがない。こころを傷つけられ、高貴な人への不信感をさらに濃くされたのだ。
あの時の長恭との口論も、勝敗を決められぬまま終わってしまったのだ。
蘭香は肩を竦めた。
「それはね――やっぱり許せないもの。
でも、どうこうするつもりはないわ。やっぱりあたしは立場が弱いもの」
蘭香の勝ち気さが見える言葉に、平掩は苦笑いする。
立場が弱いといいつつ、負ける気はさらさら無い。いつか、勝負の決着をつけてやる――とでも言いたげな、蘭香のたたずまいである。
ぷっ、と平掩は笑った。
「気が強いとはおもってたけど――想像以上だね」
くっくっと声を発てて笑う彼に、蘭香は顔を赤くして膨れる。
「もう、やめてよ。あたしは恥ずかしいんだから」
ばつが悪そうに蘭香は言う。
蘭香と長恭の勝負を、茅鴛や平掩、相願にも見られていたのだ。傍観者から見れば、あの場はどう映ったのだろう。
きっと、クソ生意気で口の減らない女だと思われたに違いない。
今さら恥ずかしがっても仕方が無いが、やはり羞恥心は掻き立てられる。
とはいえ、長恭と接触したら、また火花を散らしそうな予感はするが――。
平苑は面白そうに言う。
「本当に、勇気があるよ。
あの公子にあそこまで反抗したんだから。大抵の女は公子に気に入られようとするのに――」
「そうなの?」
蘭香は思い至らぬ様子で聞く。
唖然、と平掩は口をぽかんと開ける。
いくら嫌っているとはいえ、長恭の美しさは誰にでも解るだろう。そんな彼が女性達にどのように見られているかは、簡単に予想できるはずだ。
それなのに、彼女は一向に男としての長恭に興味を示していない。
挙動が幼いと思っていたが、やはりこころも幼いのだろうか。庶子ではあるが文襄帝の子で、現皇帝の甥で、貴なる男といえば、若い女ならずとも大概惹かれるものだ。
面白いという形容は間違いで、この娘は変わっているのか――?
平掩はそう思い、お節介にも説明する。
そこには、相願が聞いたら怒りそうな、ちょっとした下心もあった。
「そりゃ――公子はあの容姿だろう。その上、勇ましくて優しいとくるし……。
そこらの貴族は、本気で公子を自分の娘の婿がねにと考えてるんだよ。立候補が挙がっているくらいだ」
斉の国には遠く晋代から世々続いている漢人貴族の家がいくつかある。
趙郡李氏(ちょうぐんりし)は現皇帝の皇后を輩出しており、滎陽鄭氏(けいようていし)は献武帝高歓の妾妃の実家だ。他にも崔氏(さいし)や王氏(おうし)、盧氏(りょし)が朝に仕えている。
文人貴族は朝におおいに影響を与えていて、皇帝達のそばに深く入り込んでいる。彼らが重んじるのは教養や礼範で、武力を重視する軍人――勲貴(くんき)と衝突を起こしている。
漢人貴族たちは、斉の皇族達と結びつきを強めるため娘を嫁がせている。長恭も鄭氏から打診が何度かあったが、なぜかずっと断り続けている。
が、平掩の説明を聞いても、蘭香は眉を顰めただけだった。
「ええ〜〜!? だって、最悪じゃないの!
女が嫌いなのに……、結婚したら、絶対に不幸になるわ」
蘭香は食い付かんばかりに平掩に言った。
思わず、平掩は引き攣った笑いを顔に浮かべる。
――ああ…完全に誤解している……。
彼女は怒りに目を晦まされて、真実の長恭の姿を見ていない。
それはとても勿体無いことだと平掩は言いたかったが、今それを言っても激しく反発されるだけと目に見えているので、あえて口にしなかった。
とりあえず、彼は説明を続ける。
「ここの侍女も、中流貴族が公子の妾にでもできたらと、送られてきたのがほとんどだよ」
その実、そういう中流階級の女達を寄越してきたのが、長恭の一番上の異母兄だと、流石に平掩でも言えなかったが。
男気に溢れ、世話好きな文襄皇帝の長男は、弟の迷惑を考えずにせっせと様々な種類の女を送ってくる。
が、長恭は女たちに一度も手を付けたことが無く、可哀想なことに、長兄の目論見は一度も実っていない。
平掩も、こんなに選り取り見取りに女を揃えられているのに、主はどうして誰にも触手を動かさないのかと、憂慮して見ている。
一度、医師に主の男性本能がちゃんと機能しているのか、見てもらったほうがいいのではないかと、切実に思えるほどだ。
蘭香は平掩の主張に、信じられないとでも言いたげに首を振った。
「はあ…女たちの羨望の的なのね……信じられないけど」
蘭香は信じられないように言う。
「まあ、でも君は公子のことが嫌いみたいだから安心だけどね。
女から今のところ虐められることはないだろうから」
蘭香はすこし戦く。
つまり、ここにいる女達はすべて長恭を狙っているのであって、互いは恋敵のようなものである。何度か彼女達とすれ違ったが、そのようなところを微塵も見せていなかった。が、なかにはそのようなおどろおどろしい気持ちを隠しているのだろうか。
たじたじしながら、蘭香は頷いた。
「でも、相願には気をつけたほうがいい。
あいつの前で迂闊なことを言うと、どうなっても俺は知らないからね」
「迂闊って?」
無邪気に蘭香は訪ねる。
平掩は小さく吐息し、苦笑した。
彼は、相願も医師に見せたほうがいいのではないかと、少し思っている。
それほど、相願の主に対する思いは度を逸していた。
「あいつは公子に心酔している
あいつは、本当はここにいて公子に仕えなくてもいい立場なんだ」
尉相願(字は采嚠・さいりゅう)は、勲貴(将家)の子息である。
次子であるのでそれほど家に縛られないが、嫡子である兄を補佐しなくてはいけない立場である。家の者も、公子のこともいいが、少しは家のことも考えろと口酸っぱく言っている。が、相願は聞こうとしない。
彼がなぜこれほど長恭に仕えることにこだわるのか、平掩も含め、まわりの者はさっぱり解らなかった。
蘭香も、吊られて引き攣った笑いを洩す。
そういえば、彼が蘭香に見せる言動は、多大に険が現れていた。
「はあ…気をつけます……」
だんだん小さくなる蘭香ににっこりほほ笑みかけ、平掩は言った。
どさくさに紛れて、平掩は蘭香の絹の様にさらさらした髪を撫でる。
「俺は、蘭香の味方だから。俺は蘭香のことを、とても気に入ったからね」
その言葉に蘭香は、思わず辺りを見回した。
――ああ……茅鴛に聞かれてたら、どうしよう。
とはいえ、そこに茅鴛がいるはずがない。彼女だけが探しに来たのだから。
茅鴛は蘭香と平掩の間柄に過剰に反応している。彼女がいくら何もない、と言っても聞こうとしない。茅鴛は、どの男が彼女に寄っていっても厭がるのではないだろうか。
とりあえずはほっとし、深く溜め息をつくのだった
菻静は斐蕗の手を引き、長恭の居室に入った。
取り次ぎに出たのは相願で、二人を鋭く睨みつけていた
菻静のこめかみが、ひくひくと動く。
この男も、気に入らない。彼は長恭の利益しか考えていない。長恭に害なす者なら、たとえどんな者でも斬って捨てるだろう、そんな勢いがある。
菻静は夫を背に庇う。
「相願、下がれ」
長恭は静かに部下に命じる。
彼のことしか考えない男は、また彼に対してだけは忠実である。黙って頭を下げて出ていった。
扉の閉まる音を聞き届けて、菻静は身体の力を抜く。
朝が弱いのか、小榻の上に座し几案(つくえ)に凭れ掛かって、気怠げにふたりを見る。
「――――で?」
斐蕗は長恭の醸す、ひとを疎隔する気配をものともせず、和やかな調子で言葉を発する。
「昨日は、蘭香を助けていただき、ありがとうございました」
「当然のことだ。約束は守る」
付け入る隙なく、間を置かずに答えが返ってくる。
ひやりと張り付いた空気が、長恭とふたりを隔てていた。
その空気を打ち破った蘭香は、大したものだと、内心斐蕗は感心している。
「それと、蘭香の数々の非礼、どうかお許しください」
長恭からは応(いら)えはない。冷めた面持ちで、ふたりを小榻の上から見下ろしている。
構わず、斐蕗は続ける。
「ずいぶんとご気分を害されたことでしょう」
「かまわぬ。気にしてはおらぬ」
「こたびは公子のお陰で、蘭香の気欝がでなかったので、わたしたちも助かったのですよ」
長恭は軽く瞼を上げる。
――ほんの少し、表情が変わった。
「わたしは何もしてはおらぬ。礼を言われる必要はない」
彼は立ち上がり、小榻から降りると、胡服の上に引き掛けていた上衣を脱いだ。
「公子のおかげには違いありませぬ。
公子が、杜蘭にきつい一言を下されたから、気欝が激昂にとって変わられたのですよ」
いつもと変わらぬ柔和な口調で、斐蕗は切り込む。
かすかに、長恭の肩の動きが止まる。
痛烈な皮肉だった。
一瞬、長恭は斐蕗を睨み付けたが、また視線を反らせた。
ふっと、斐蕗はほほ笑み、長恭に言葉を掛けた。
「これほど侮辱を受けながらも、気がお変わりにならないのですね?」
「何が言いたい?」
真っ直ぐな瞳で見据えてくる長恭に、まったく斐蕗は怯まない。
「お気に召さないなら、わたしたちを放逐なされてもよろしいのですよ。
いつまた、蘭香が無礼をはたらかぬとは限らないのですから」
――明らかな、斐蕗の挑発。
彼は己がどう出てくるのか、見極めようとしていると、長恭は感じ取った。
それならば、こちらにも切り札はある――長恭は薄く唇を釣り上げる。
「そのようなことはせぬ。いまそなたたちを放り出せば、大変な事になるだろう。
蘭香が周に連れ去られるだけではない。そなたが妻と子にも危害が加わるだろう
その上、目の悪いそなたは、はたして無事でいられるかどうか……。
そう思わぬか? 蕭慧(しょうけい)どの」
「――――――ッ!」
突如として斉の公子の口から吐いて出た本当の名に、斐蕗を息を止める。
蕭慧――それは、梁の武帝・蕭衍(しょうえん)の甥の名。武帝の弟の子。梁が東魏からの亡命者・侯景(こうけい)によって荒れ果ててしまった頃、病死したと伝えられる公子。
長恭の祖父・高歓が死の病に陥ったとき、彼は嫡子である高澄に後事を託した。
侯景は高澄のごとき孺子の下につくことをよしとはせず、認めようとはしなかった。高澄もそれをよく解っていたらしく、巧妙に侯景を嵌め、結果、侯景は南の梁に落ち延び梁の武帝の将となった。
が、侯景を討伐するため送られてきた東魏の軍に武帝の甥の蕭淵明が捕われてしまい、武帝は甥を取り戻すため東魏と手を結ぼうとする。怒り狂った侯景は反乱を起こし、梁の京師・建康(けんこう)は灰塵に帰す(548年)。
軍部は反乱を起こし、亡命した梁の皇族は他国に切り札として利用されたり、庇護を得るなど沈淪した。
斐蕗は苦渋の滲む面をひた隠す。
「あんたッ、斐蕗の昔の名前なんて出して、一体何するつもりなんだい!?」
菻静は庇うように喰ってかかるが、長恭は相手にしなかった。
辛うじて、斐蕗は菻静を制する。
「――いい細作をお持ちのようですね」
斐蕗は数度、深呼吸する。
ようやくにして落ち着くと、彼は張りついた笑みを浮かべた。
長恭は動揺を最小減に止めたもと梁の公子に、内心密かに感嘆していた。
「――何かわけがあるのだろう?
蘭香も危険だが、わたしはあなたの事も不安でならない。
梁の皇族ともあろう者が、国々を転々と彷徨っているなどと……」
梁の生き残りは、何人か斉に入り込んでいる。そのなかには、彼の異母兄弟もいる。
「わたしを付け狙うものなど、誰もおりはしますまい。
このような、盲いた者など、何の利用価値もありませぬ。
斉には、梁の皇族が他にもいるではありませんか」
暗く苦い感情が、斐蕗のなかに広がる。
もしあの時、病にかからねば、己はこのようなところに居なかったはずである。
梁の臣どもは、目に光を失い、漆黒の髪を見る影もなく白く変えてしまった公子を、利用価値のないものと捨てた。
だからといって、従兄弟や兄たちのように、梁や斉(東魏)・周(西魏)のいいように用立てられる人生も厭わしいが。
「この国には、あなたの血縁の者も多くいる。何も遠慮することはない。必ず、わたしがいいように取り計らう。
それに、わたしがあなたたちをここに置くのには、他にも理由がある」
斐蕗は目を見張る。長恭の切れ長の鵄色の瞳が、泰然として見返してくる。
「斉の武将の意地だ。みすみす周の宇文瑛に渡してなるものか」
「……なるほど。わたしも蘭香も、斉の切札なのですね」
それでも、斐蕗は笑みを崩さない
それは、斉の公子を前にしての、元・梁の公子である斐蕗の、矜持の現われであったのかもしれない。
「切札というほど大げさなものではない。
蕭慧どの…いや、斐蕗。そなたたちはわたしの客人だ」
断固たる意志をもって、長恭は言い切った。
第の主人の部屋を後にしたふたりは、回廊を渡っていた。
ふと、菻静が足を止める。
己の手を取る妻の指の震えに、斐蕗は訝る。
「あたし――公子が恐いよ。
弱みを握られたのと、同じじゃないか」
いささか感情的に、菻静は叫ぶ。
色々と難題はあるが、今、彼女は愛する人と一緒にいられて幸せだった。
はじめは今の長恭と変わらない、貴種の、手の届かない人で、現在の幸せなど起こりうるはずもない距離を有していた。が、病に倒れ、見放された彼を介抱し、梁の京師からの脱出を手伝った。ともに旅をして、彼の子を宿す未来があるなど、あの頃の己にとっては夢のまた夢だった。
だから、今の幸せを壊されたくない。今更、彼の肉親と会わせたくない。
そっと、斐蕗は菻静の肩を抱く。
その面には、もう動揺はなく、凪いだ湖面のように穏やかだった。
「――なかなか優秀な武将だね。
要点を突いている。彼なら、本気でわたしたちを護りきれるかもしれない」
「斐蕗!? 本気なのかい!?」
夫の言う事が信じられない、とでもいうように、菻静は血相を変える。
「危険な掛けだが、もう、それしか方法がない。彼は、見事に二回も刺客を撃退した」
「でも……あたしには、あいつの本心が解らないよ。
あんたが、もめ事に巻き込まれるのだけは、嫌だ!」
誰も、苦しまないでほしい。斐蕗も、蘭香も……。
それが、菻静のささやかな望みである。
斐蕗は柔らかく微笑む。
「弱気だね……菻静らしくない」
本当に己らしい己とは、何なのだ? と菻静は聞きたい。
確かに、今まで勝ち気で怖れ気のない態度ばかり取ってきた。が、それが己の全てではない。
菻静は唇を噛む。
「これも……あたしだよ」
菻静は唇を噛み、長袖の裾を握り締める。
「わたしを、底無しの闇から救ってくれたのは、菻静、君じゃないか。わたしの兄弟も、貴族たちも、許婚でさえわたしを捨てた。わたしが今を生きられるのは、君のおかげさ。
それに、やはりわたしは、公子を悪く思えない」
不安を目にたたえて、菻静は夫を見上げる。
「蘭香はどう思っているか解らないが、きっと、彼は打ち解けてくれるとわたしは信じているよ」
斐蕗は微笑を浮かべる。
菻静は彼を食い入るように見つめた。
「どうして……あんたはそう簡単に人が信じられるんだい?」
「何事も、信じることから始まるのだよ」
余りにも静かな面差しで語る斐蕗に、菻静は何も言えなくなった。己は器が小さいのかもしれない、そう思った。
先の見えない現状が、菻静の精神を不安定にしていた。
斉に入り、長恭に助けられてから一週間が経った。
元々、じっとしていられない質である蘭香は、数日経った後、機嫌が悪くなってきた。
「ああもうっ、どこかにいきたいようっ!」
楽の修練の最中に、俄然、蘭香は喚く。
唖然と、仲間たちは彼女の叫喚を見守る。
心底呆れ返って、茅鴛は溜め息まじりに返した
「お前なあっ、やっと身辺が穏やかになったからって、それはないだろう!」
兄が叱るように、茅鴛は頭からどやす。
不満いっぱいに、蘭香は反抗する。
「いやっ、暇なんだもの!」
蘭香は身体を揺らし、手をぶんぶんと振る。
妙齢の乙女だというのに、まるで駄々っ子である。
「蘭香は刺客に襲われてるほうがうれしいんだねえ」
面白そうに菻静が茶化す。
少し刺客が現れなかったら、これである。
平和ぼけしているのだろうか、とすら思える。
「それも嫌!」
「我儘だねえ……、もうすぐ楽を発表するんだから、練習すればいいだろ?」
微苦笑する仲間に、蘭香はしれっと言う。
「飽きちゃった」
菻静は目を剥く。
これから、御前演奏が待っているというのに、飽きたとはどういうことだ。
怒りだしたいのを堪え、菻静は肩を落とし言った。
「あ、飽きちゃったって……」
その先の言葉が出なかった。
呆れを通り越して、溜め息しかない。
そこで斐蕗は、蘭香の好奇心に止めを刺す言葉を、やんわりと告げる。
「何処に行きたいんだい?」
「ここの国の京師に行きたい」
斐蕗は優しげな言葉に、彼女を止める確実な事実を秘める。
「そうだね。でも、危険じゃないか?」
「あっ…………」
蘭香の顔から、朗らかさが消える。
そうだ、この第にいる限りは平和かもしれないが、外に出れば雑踏に紛れて、また危ない目に遭うかもしれない。
「まさか、市井の真ん中にまで公子を連れていくわけにはいかないだろう?
彼はそうそう出歩いていい身分ではないし、また迷惑を掛けてしまう」
はっと、蘭香は顔を上げる。
危険なく外出しようとするなら、長恭の協力が必要なのだ。彼から外出の許可を取らねばならないし、場合によっては護衛してもらわねばならないかもしれない。
それだけは、どうしても嫌だった。
拗ねて、蘭香は呟く。
「あの人には何も言わないで行くわ」
「それでは、みすみす攫ってください、と言っているようなものだね」
斐蕗はやんわりと、確実に蘭香の意思を奪っていく。
蘭香は何かを吐き出そうとしたが、口は動きをなくした。
あの日の長恭を許した訳ではない蘭香は、彼の手など借りたくないし、助けてもらいたくもない。
が、そうであろうとすれば、最小減、自ら意識して危険から回避する必要があった。
畢竟、今の己はそのような我が儘ができる境遇にはない。
諭すような言葉に、蘭香はただただ口を噤むしかなかった。
あれから、日頃うつむき下限に過ごす蘭香を、茅鴛は見ていられなかった。
何度も笛子を吹こうとして唇を当てたが、すぐに離して溜め息をつく。それを、幾日も繰り返す。
茅鴛には、到底黙って見ていられなかった。
こころの中に抱えた切願を叶えられないまま、蘭香が徒に時を過ごしたある――。
彼女が緑の黒髪を梳かしていると、いきなり被せられるように、頭上に布が降ってきた。
「きゃっ――」
蘭香は動転し、声を上げ、もがく。
「静かに!」
はっと、蘭香は動きを止める。
「茅鴛!?」
布を取りながら彼女は、にっと笑っている茅鴛を見た。
「早くそれを着て」
要領を得ない蘭香は、彼が差し出した衣を広げる。茅鴛の衣装入れに入っているのを、見たことがある。
「でも、これ――」
どうして男用の衣装を渡されたのか、よく解らない。
茅鴛は片目を瞑ってみせる。
「別に一度も袖を通してないぞ女の格好よりも、その方が出歩きやすいだろ?」
あっ、と蘭香は小さく声を洩す。
確かに、男の格好をして出歩くほうが、好色な男の目に止まらない分、危険が少ないかもしれない。
茅鴛の意図を察した蘭香は、彼に勢いよく飛び付いた。
少女の柔らかな肢体が、弾んで少年の身体にぶつかる。
「わっ、蘭香――」
茅鴛は焦る。
「ありがと、茅鴛! やっぱり茅鴛が一番好きよ!!」
はしゃいでいる蘭香を見ながら、茅鴛はそっと彼女の背中に腕を回した。
斉の京師・鄴(ぎょう)は、今まで色々な所を旅してきた蘭香たちも、始めてくる所だった。
かつて見たありし日の梁の首都、建康は、活気に満ちあふれ、市場も立ち並ぶような所だった。今は、その面影を偲ぶ物もないのかもしれないが。
確かに、ここ、鄴も城郭のなかに数ヶ所市場ができ、人が溢れている。引っ切り無しに車駕が大路を通り、男も女も境なく闊達に歩んでいる。
蘭香は市場をきょろきょろ見回し、眉根を寄せる。
だが、何かが、違う――。
――目が違う?
人々を見比べながら、蘭香は心の中で考えた。
何かに怯えるような、荒涼とした――。渇いている、といえなくもない。
――周も、そうだった?
違うような気が、蘭香はした。
周は伸びていく力強さを秘めているように見えた。
が、斉は動きを止め、水たまりの中で澱みができているのと同じように感じられる。
民は、確実に何かに脅えている。
栄華を誇る国情だが、未だに戦いは続いていて、人民としても、命の危うさに晒されているのだろう。
老人の客に、暴力を奮う店の主人、それをみて笑う野次馬の山。あちらこちらに立ち並ぶ妓楼に入っていく男たちと、そこから立ち上る脂粉の香りと嬌声――。
爛熟して、頽廃としたにおいが、そこかしこに漂っていた。
「蘭香、早いめに帰ろう」
茅鴛は本能でそう囁く。
蘭香は頭を振る。
「もうちょっと、ここに居たい。わたしが今居る国がどういうところか、知りたいの」
己を狙う周の将・宇文瑛の敵なる国とは、どういうところなのか。
公子・長恭の生まれた国とは、いかなるところなのか。
強勢なる大国を、見てみたい。もっと、この国を知りたい――。
蘭香の望みを察知した茅鴛は、彼女の手を引く。
様々な露店などを見て廻って、酒房に入る。路銀を少ししか持っていないので、高級そうな店には入れない。が、彼らはある分の資金で量を食べられるのなら、それで構わない。彼らと同じ考えの兵卒や平民が何人か席で食を摂っている。
獣肉や魚の焼き物、根菜の羹を注文する。
が、店主は魚はない、と言った。蘭香たちは顔を見合わせる。
彼らが斉に来るとき、何ヶ所か川を渡ってきた。近くには、漳水や汾水もある。なのに、どうして魚がないのか? 蘭香たちは尋ねる。
「ないことはないんだ。出せないだけだ」
「出せないだけ?」
茅鴛が聞く。
店長は苦そうに言う。
「――死んだ人間の破片が出てくるんだよ」
ふたりは仰天した。
「し、死んだ人間の破片?!」
小太りな店主は頷く。
「この国の天子さまは、おかしいんだ。
罪人を殺しては死体をばらばらにして、川に投げ込む。
惨いことだ……魏の天子さまや、魏の皇族の者を殺め、亡骸をばらばらにして川に投げ捨ててしまわれた。その身体の一部を魚が食べて、わしらは魚を食せないんだよ。腹を捌いたら、指などが出てくるのだからなぁ……」
ごくり、と蘭香は唾を飲む。
先の天子とは魏(東魏)の孝静帝・元善見(げんぜんけん)である。
皇帝・高洋に禅譲し、中山王に封ぜられていたが、一年後(551年)に毒殺され、遺体は漳水に投げ込まれた。彼の皇后は高洋の姉・太原公主であるが、必死で護ろうとしていた彼女の目を盗んで、高洋は魏の皇帝を殺した。
魏の皇族達や高洋の一族も殺され、川に沈められている。
蘭香の背に、嫌な怖気がよじ上ってくる。漳水といえば、彼女が細作に襲われ落ちた川である。
「酷いことなら、他にもある。
天子さまはわしら平民を駆り出して、長城の修復をなさっておられるが、生きて帰ってきた者が少ない……。老若男女、問わずじゃ。
また、夫を亡くした寡婦は軍士に妻妾として配られた。その中には、夫のいた者もいるらしい」
店の主人は嘆息を吐く。
シッ、と客が主人の言葉を止める。
「官吏のお客さんだよ、聞かれたら、あんたもその場で連行されるぞ。
このまえ、肉屋のおばさんが変装した天子さまに、天子さまの悪口を言って、ばっさり斬られたんだからな」
「………!」
主人は慌ててく口を押さえる。
見れば、下級の兵卒らしき者数人が、空いている席に座ろうとしていた。
どうやらこの国は、思った以上に荒れているらしい。
それも、天子の乱心が、この国に恐怖を与えている。己の命が超上的なものに侵されるかもしれない状況に戦々恐々としながら、日々を生きると、精神が壊れていくかもしれない。その危険に、この国の人は晒されて生きている。
蘭香は居たたまれず俯く。
――公子は、どうなのだろう?
あの日見た彼の蒼顔は、朝廷の現状に因するものかもしれない。彼は皇族。あるいは、天子と近い場所にいるかもしれない。
そう考えれば、理解できる。――だからといって、蘭香がなにかをしてあげることなどできないが。
調理された根菜を、後味の悪い話で麻痺した舌で味わってから、蘭香たちは酒房をあとにした。
暗がりから抜け出たばかりの瞳には、天高く上がった日の光が眩しい。
長恭は手の甲で目を覆うと、深呼吸した。
仏前にくゆらされた白檀の香に酔った心地がする。後方の石窟寺院を振り返り、自嘲の笑みを洩す。
――仏に祈ったとて、何にもなるまい。
彼の傅母――平掩の母が熱心に仏に祈る人だった。彼女の影響で、彼も月に一度石窟寺院に詣でるが、さして信心があるわけではない。
ただ、傅母が亡くなった両親――高澄とその情人だった女の安らかなる眠りを願えと常々言うからだ。
父・高澄は梁の降人に殺害された。魏からの禅譲を目の前にしての死であった。無念は如何ばかりであっただろう。
母は父の女のなかでも一番影の薄い、身分の低い女だった。妾の数にも数えられぬ婢上がりの女であったという。
母の影の薄さはすなわち、彼自身の、斉の皇族としての影の薄さである。彼の兄弟の数人は封爵されて王を名乗っているが、彼はその恩恵に預かれない。
不意に、頭の奥から痛みのようなものが込み上げる。両親のことを考えたときは、いつもこうなった。
――そなたの母は、天女のごとき女よ。甘く薫る柔々とした膚肌で、男を蕩かせ、縛り付ける。
耳許に注ぎ込まれた、毒。己を包み込む体臭。何時でも彼を縛り付けるもの。
ぐらり、と目眩が足下を掬おうとする。
意識が冥い淵に引きずり込まれそうになったとき、後ろから強い手が長恭を支えた。
「――大丈夫ですか?」
相願が、覗き込んでくる。
長恭は小さく息を吸い込む。現実が戻ってくる。
「……あぁ、なんでもない」
額の汗を拭い、長恭は手綱を取った。
相願と平掩をともない、京師を馬で駆ける。
目紛しく動く視界の片隅に賑やかな光景を捉えながら、長恭は眉を寄せる。
「いつもながら――嫌な光景だ」
言うとはなしに呟く。
彼の国の民は、恐怖に怯えている。その怯えがどこから来るものなのか、長恭は知っている。
叔父である皇帝・高洋の乱心。叔父は酒を飲むと残虐になり、人の認識が出来なくなる。誰かれなく斬ってまわり、無駄に血を流す。高氏の妻妾を犯し、酒池肉林の行いをする。
その事実を考えると、長恭はいつも胸が苦しくなる。
――そなたの母は……。
男に組み敷かれた女の乱れた姿が、耳を通して彼の脳裏に入り込んでくる。
それを払おうと、長恭は頭を振る。
と、相願が何かに目を止めたらしく、忌々しい声音で小さく言う。
「――――あれは!」
長恭と平掩は相願の目線の先を見る。
そこには、露店で物を買う蘭香と茅鴛がいた。
「一体、何をしておるのだ、あの者らは……!」
相願は、咄嗟に馬首を巡らそうとする。が、長恭は制止した。
「公子――?」
異議をありありと滲ませる相願に、起伏のない語調で告げた。
「後をつけよう。何かあれば出ればよい」
しかしながら、彼は厄介だと言いたげに眉間を押さえていた。
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