隆景の妻(3)へ
(4)
天文十九年(1550年)正月、沼田小早川家当主・又鶴丸(またづるまる)は元服した。
その日から彼は、先祖伝来の通字を取り、小早川又太郎繁平(こばやかわまたたろうしげひら)と名乗るようになる。
永姫は奥向きで兄の元服式が滞りなく終わったと報告を受け、心から安堵した。
――あとはわたくしの縁組だけ。
永姫の結婚相手は、まだ決まっていなかった。
椋梨常陸介盛平(むくなしひたちのすけもりひら)と梨子羽又次郎宣平(なしはまたじろうのぶひら)が、相手を懸命に探してくれていると聞いている。
だが、永姫は捜さずとも、最も的確な相手がいることを知っていた。
――わたくしが又四郎殿に嫁げば、分裂していた両小早川家を元に戻すことが出来ずとも、両家の関係が近くなるからいいはずだ。
竹原小早川家当主・又四郎隆景(またしろうたかかげ)の先読みの確かさは、高山城下を見聞する際に度々会って解った。
彼が己と結婚して兄を助けてくれれば、鬼に金棒だと永姫は思った。
が、隆景を嫌いな兄がそれを許すはずもなく、ゆえに永姫は思うだけで誰にも言わない。
だから、隆景までといかなくても、聡明で強い男に嫁ぐことができればと、永姫は願う。
「今宵、兄上に女人がおできになるのね」
永姫は乳母にそう言う。
「はい、良家出身の後家が勤めることとなっております」
「そう……。兄上とその方の関係がよい風にまとまれば、わたくしは兄上のお側から離れ、花嫁修業に打ち込もうと思ってるの」
永姫の決意に、乳母の表情が輝いた。
「よくぞご決心くださいました。わたくしの胸の支えも下ります」
喜ぶ乳母に、永姫は微笑む。
彼女が城下探索をやめると告げたとき、供をしていた椋梨藤次郎弘平(むくなしとうじろうひろひ)や乃美新四郎宗勝(のみしんじろうむねかつ)も、乳母と同様の反応を示した。
隆景だけは違い、感情の見えない面で頷いただけだった。
永姫はあの時の彼が今でも不思議で仕方がなかった。
繁平の元服式が終わり、万事つつがなく進行するかのように見えた。
しかし、物事は巧くいかない。
繁平が夜伽の女を拒否したのだ。
元服式から一ヵ月経ったが、繁平は忌まわしい出来事から逃れられないでいた。
あの夜、まったく見知らぬ夜伽役の女が、ねっとりした甘い吐息を繁平の耳元に注ぎ込みながら、仰臥する彼の小袖の帯を解き、緩やかに彼の全身を撫で回したのだ。
繁平は知らぬ者がもたらしたその感触が、堪らなく気持ち悪かった。
目が見えないながらも、すぐに女を払い除け、彼は宿直の侍を呼んで女を追い出した。
それから夢の中でも、女が彼を追い詰める。その度、彼は助けを求めた。
――永、永! 助けて……ッ!
幾夜も悪夢にうなされ、衰弱していく繁平を、家中の者は見ていられなかった。
永姫も複雑な思いを味わっている。
兄が助けを求めている。が、兄を助けに行くわけにはいかない。これは兄が乗り越えるべき問題だ。
――どんなに兄上がお苦しみになられても、わたくしはいずれ他家に出る女。いつまでも一緒にいるわけにはいかない。
だが、兄が苦しんでいると思うと、永姫も辛くなる。すぐにでも兄のもとに行きたくなる。
そんなとき、思わぬ助け船があらわれた。
繁平の乳母が一人の娘を連れてきたのを見て、永姫は驚いた。
顔は似ていないが、娘の背丈や体付きが永姫とそっくりだった。
「ど、どうしたの?」
永姫の問いに、兄の乳母が微笑んだ。
「この娘、体付きが姫さまと似ていますでしょう。
だから姫さまの代わりに若殿さまのお側に侍らせることになりましたの」
乳母の言葉に、永姫は目を見開く。
確かに、目の見えない兄は、背格好が似ていれば騙されてくれるかもしれない。
が、そんなに巧くいくものか。
永姫の不安を察したのか、乳母が進言してくる。
「つきましては、姫さまの脱ぎさしの御衣をお譲りいただけないでしょうか。
姫さまの匂いの付いた衣があれば、若殿さまは安心されるかもしれません」
永姫はすぐに合点がいく。
繁平にとって、永姫の匂いは一番馴染みのあるものだ。その上体付きの似ている娘ならば、永姫の代わりをさせられるかもしれない。
永姫は己の乳母に目配せした。
「解ったわ。いくつか用意するから、持っていって」
「ありがとうございます」
繁平の乳母は平伏する。
永姫は思うところがあり、問うてみる。
「ところで、この案は誰が授けてくれたの?」
これほどの考え、平凡な女が見いだせるものではない。知恵の回る者が授けたのだろう。
乳母は頷く。
「この前、竹原の若殿さまが参られまして、我が若殿さまの現状をお知りになられたのです。
それで、永姫さまと年格好の似た娘を捜し出し、姫さまの脱ぎさしの衣を着させて侍らせよと知恵を授けてくださったのです」
「そうだったの……」
これほどの策略は乃美宗勝や隆景くらいしか思い浮かばないと思ったのだが、やはりそうだった。永姫は改めて隆景のすごさを思い知る。
だが、沼田の苦い内情を、竹原の当主に知られてしまった。これはかなり痛い。
永姫は暗澹とした。
その夜、繁平を慰めようと、永姫が一緒に眠ってくれることになった。
だんだんと大人になるにつれて、隔てられてしまった愛する妹。繁平は二度と離すまいと、自身を包み込む妹を強く抱き締めた。
以来、繁平は妹と同じ床で、安らかに眠れるようになった。
「なんとか巧くいきましたな。
若殿はあの娘を永姫さまと信じ込んでおられる」
梨子羽城で盛平と杯を酌み交わしていた梨子羽宣平は、胸を撫で下ろし言った。
が、盛平の表情は冴えない。
永姫に対する繁平の強い依存を、まざまざと見せ付けられてしまったのだ。もし繁平が娘と契ることになっても、永姫の影が過り手放しに喜べない。
「にしても、隆景さまの知略は素晴らしいものがありますな。
竹原はよい当主を戴いている」
「確かに……」
盛平は相槌を打ちつつ、考え込む。
――沼田の当主としてお育てし、かしずいてきたが、繁平さまは脆弱に成長なされた。
領主として、これは重大な欠陥だ。
目が見えないだけでも分が悪いというのに、資質にも問題がある。このままでは、沼田小早川家の命運に関わる。
盛平の陰欝な顔を見、宣平は静かに言う。
「……今までは永姫さまを他家にお嫁に出すことばかり考えてきましたが、他にも色々思案したほうがよいかもしれませんな」
宣平の提案に、盛平は顔を上げる。
「というと?」
「永姫さまに婿養子を迎えていただくということです」
盛平は首を振る。
「繁平さまは猜疑心の強い御方。婿養子を迎えたと知れば、お怒りになりましょう」
「したが常陸介殿、このままでは沼田小早川家は崩壊しますぞ」
的確な宣平の言に、盛平は黙り込む。
「そして今度のことがお屋形さまの耳に届けば、沼田の印象はまた悪くなりましょう」
「ううむ……」
苦渋に、盛平は唸る。
大内の城番は未だ高山城に居る。彼らを通じて義隆に子細が届いているに違いない。
「とにかく、慎重に永姫さまの縁談を決めればよろしかろう」
盛平は頷くが、顔の強ばりが溶けない。
小早川宗家の正統な血を組む者は、繁平と永姫しかいない。繁平が駄目なら、永姫に活路を見いだす他ない。
が、それでは自ら繁平を見捨ててしまうことになる。
盛平の苦悩は極限に達していた。
椋梨盛平と梨子羽宣平は極秘に相談しあっていたが、ことは既に動きだしていた。
大内義隆の命により、小早川隆景と永姫を縁組させるようにとの沙汰があったのだ。
‡
大内義隆の下知状(げちじょう)を読み上げる、安芸国守護代(あきのくにしゅごだい)・弘中隆兼(ひろなかたかかね)に額ずきながら、椋梨盛平は冷汗が噴き出てくるのを止められなかった。
隆景は竹原小早川家と養子縁組したが、従姉が先代当主・興景(おきかげ)の正室というだけで、小早川氏の血を注いでいるわけではない。
率先して竹原小早川家と隆景を養子縁組させた大内義隆は、小早川本宗家の正統な娘である永姫と縁組させることで、小早川氏と隆景の繋がりをより強化させようというしているのだ。
その目論みに気付いた繁平の背から、怒りが伝わってくる。
繁平の心中を推し量ると、盛平には言葉もないが、上意によるものなので逆らえない。
繁平と沼田小早川家臣団は、平伏して申し出を受けた。
が、これは調略の前哨戦に過ぎなかった。
七月初旬、弘中隆兼が精鋭を率いて、高山城に再び入城したのだ。
脇を配下の侍で固め上座に座る弘中隆兼は、様々な色がひしめき合う沼田小早川主従一団を睥睨し、口火を切った。
「小早川繁平殿が尼子とよしみを通じようとしたことは、既にお屋形さまの耳に入っておる。
ゆえに、お屋形さまの命により、繁平殿を我が槌山城(つちやまじょう)に留め置くこととあいなった」
隆兼の言葉に、会見の間が凍り付く。
恐ろしい成り行きに、繁平はがたがたと震えだした。
辛うじて盛平は面を上げる。
「お、お待ちください、それは何かの間違いではござらぬか……!」
隆兼は血相を変える盛平の目の前に、一枚の書状を突き付けた。
その書状には、田坂全慶の筆跡によって尼子晴久への恭順の証を書き留めてあり、全慶と繁平の署名が印されていた。
思わず盛平は後方の全慶を睨む。全慶は脂汗を浮かべあらぬ方を向いた。
素早く繁平の前方に進み出ると、盛平は額を擦り付けんばかりに土下座した。
「この件に関しては、それがしの後見不行き届きにございます!
罪はそれがしにございますので、どうか繁平さまをご容赦くださいませ!」
が、隆兼は非情だった。
「繁平殿はすでに元服された身、後見不行き届きもなかろう。
罪は繁平殿の身にある」
そうして隆兼は侍に目配せする。
侍達は両脇から繁平を抱え立たせると、引っ張るように彼を広間から連れ出そうとした。繁平は顔を巡らせ叫ぶ。
「常陸介――ッ!」
主人の悲痛な叫びが聞こえる。
が、何も出来ない盛平は歯を食い縛り、繁平が連行されるのを見送った。
繁平が弘中隆兼の城に拉致監禁されたという知らせは、すぐに奥向きに伝わった。
尼御前・須賀の方は盛平に取りすがり、泣きながら懇願する。
「常陸介殿ッ、これは何かの間違いじゃ!
又鶴が、あの子がかようなことをするとは思えぬ!」
が、連れ去られてしまった今では、何を言っても遅い。
泣き喚く母を見ながら、永姫は混乱しつつも、必死で頭を巡らせた。
――兄上は尼子と内通したかどで蟄居謹慎させられた。でも、そのあとどうなるの?
父・正平が尼子に組しようとしたとき、大内は兵を差し向けて城を取り囲み、暫らく見張っていた。その名残がいま居る城番だが、今度は当主自体が安芸国守護代の城に連れ去られてしまった。
以前と比べ、今回のほうが罪が重いと思えない。――もっと別の企みが隠れているのではないか。
が、今しなくてはならないことは、兄の安全の確保だ。
永姫は自室に帰ると、椋梨盛平・弘平親子、梨子羽宣平、乃美隆興、乃美宗勝らを本丸の広間に召喚するよう乳母に伝え、自身は男物の直垂に着替えた。
本丸の広間で集めた男達と向き合った永姫は、膝を詰めて相談した。
「ねぇ、お屋形さまが本当に望んでいることを教えてほしいの。
今回は父上が尼子に付こうとなさった時と、明らかに状況が違う。
きっと何か裏があるはずよ」
永姫の問いに、乃美宗勝は複雑な笑みを見せる。
「兄君がひどい目に遭われたのに、他の女人達と比べ姫さまは冷静ですね」
皮肉ともとれる宗勝の言に、椋梨弘平が睨み付ける。
永姫は表情を変えない。
「兄上が大変な目にあって、悲しいのは皆と同じよ。
ただ、わたくしは皆のように泣いて悲しむのが性に合わないの。
だから、思うようにしたい。今のわたくしは兄上をお助けしたいの」
そして永姫は鋭い眼差しで一同を見渡す。
椋梨盛平は永姫を賛嘆の目で見ていた。
――兄君の繁平さまは頼りないお方だ。その分、永姫さまが逞しく成長なされた。
盲目の兄を支えようと努力し行動するようになって、永姫は男並みの度胸を持ち得たのだろう。
――勿体無いことだ。姫さまが男君であられれば、主としてお仕えしようものを……。
そう思うが、永姫が女子であることはどうしようもない。とにかく繁平を救い出さなければならない。
盛平と同様の心象を抱いたのか、乃美隆興と梨子羽宣平は頷いた。
「元服式の若殿の不始末が、お屋形さまの耳に入ったのでしょう。
おそらく、お屋形さまは若殿に瀬戸内の要である小早川宗家を任せられぬと、廃嫡に持ち込もうとなさっているのです」
「やはり、そうなの……」
梨子羽宣平の言に、永姫は首肯する。
あらかた予想済みだったが、兄を廃嫡させるためにわざわざ拉致監禁するとは、義隆の強引さに反吐が出る。永姫は唇を噛み締めた。
「お屋形さまの狙いはただ一つ。竹原の当主・隆景さまを沼田の当主にし、小早川家を統一なさろうとしておられるのでしょう。
手始めに隆景さまと姫さまとを縁組させ、そのまま婿養子に滑り込ませようとなさっておられる」
乃美隆興の言葉に、永姫は黙り込んだ。
彼女自身は隆景と結婚してもよいと思っていた。だがそれは自身が竹原に輿入れするのであって、婿取りするなどと考えていなかった。
が、義隆は実力があり贔屓している隆景を、統合した小早川家の当主にしようと企てているのだ。
義隆のやり方には腹が立つが、永姫とて一概に横暴だとそしれない。
――兄上は、武将としても領主としても向いていない。その立場にあることが兄上を一生苦しめる。
領主としても武将としてもずば抜けた才能を持っている隆景に比べ、繁平はどれをとっても資質に欠けている。
いっそのこと、兄を領主の立場から開放してあげる事が、兄のためになるのではないか。永姫はこころのどこかでそう判断していた。
永姫は家臣たちを見渡す。
「……わたくしは兄上が助かるのなら、又四郎殿を婿養子にお迎えして、小早川家の当主になっていただいても構わないと思ってる」
「姫さまッ!」
盛平が永姫の提案に血相を変える。
「若殿は小早川宗家の正統な血を引くお方ですよ! 隆景さまは他所の血を組むお方です!
隆景さまとご結婚なされて当主を継いでいただこうなどという消極的なご意見は、聞きたくありませぬ!
どうにかして若殿にお戻りいただき、若殿の和子を授かる事ができれば、小早川家を存続することもできましょう」
「常陸介殿」
宣平が盛平を咎める。
「若殿にお戻りいただくというが、どうやってお戻りいただくのです?
若殿の御身は、お屋形さまが握っておられるのですぞ」
冷静な苦言に、盛平はぐっと詰まった。
隆興が腕を組み言う。
「おそらく隆景さまの小早川宗家相続が、若殿返還の交換条件ではなかろうか」
「……それだけならよろしいが」
ざわり、と広間が揺れる。
乃美宗勝が少しく暗い面持ちで告げる。
「お屋形さまは気に掛けぬ者に対し冷たいお方でもある。
捕らわれておられる間、若殿がご無事であればよいが……」
永姫の身体が怖ろしさでぶるりと震える。
繁平は田坂全慶とともに尼子に通じようとした罪で捕らえられた。罪状が罪状だから、弘中隆兼の城で尋問を受けているかもしれない。否、酷い場合は拷問されている可能性もある。
目の見えない兄が、繊弱な兄が拷問などされたら、生きて帰ってこれないかもしれない。
――嫌ッ、兄上!!
がくがくと震える永姫の二の腕を、弘平が掴む。
びくりとして顔を上げた彼女に向け、弘平は強く頷いた。
ごくりと唾を飲み込み、永姫は考えられるだけの手立てを捻り出そうとする。そして隆興の顔を見た。
「……又十郎、あなたは毛利の大殿への伝手があるのよね」
「はい、個人的にも書状の遣り取りをさせていただきましたし、娘を大殿に嫁がせております」
乃美隆興は自分の娘を毛利元就の側室として差し出していた。
その他にも戦場で幾度か共に戦っている。
毛利元就は国人連合衆の代表的立場にあり、大内義隆に買われていた。――彼なら、何とか出来るかもしれない。
「毛利の大殿ならば、お屋形さまを説得できるかもしれない。
又十郎、急ぎ毛利の大殿に書状を書いて!」
永姫は隆興に懇願する。
取り乱した永姫のなりふり構わぬ樣に、盛平は口を挟んだ。
「姫さま、毛利の大殿は隆景さまのお父上ですよ。
毛利の大殿に頼るということは、隆景さまを通して毛利の傘下に入ることになりますまいか」
「それでもいい! 兄上が助かるのなら、小早川の家など……!」
「姫さま!」
捨て鉢な永姫の言動を、盛平が叱る。
「姫さまは小早川本宗家の姫! そのお方がお家を売るような事を仰ってはなりませぬ!
毛利の大殿のやり方を御覧なさい! ご自身のご内室のご実家である吉川家を、御子の元春(もとはる)殿を使って乗っ取られたのですぞ! 先の当主・興経(おきつね)殿は幽閉なされておられる!」
隆景の母が亡くなった二年後の天文十六年(1547年)、元就は次男・元春を妻の実家である吉川家の跡目として養子に出した。
吉川家は鬼吉川の異名をとる武勇の家柄で、当時吉川家には興経という歴とした当主がおり、彼には千法師(せんぼうし)という嗣子さえいた。
「そうは言うがな、常陸介殿」
口を挟んできた隆興を、永姫と盛平が見る。
「吉川は先の月山富田城攻めで尼子と内応し、それがために正平さまは戦死なされたのだ。
我ら小早川家とともに殿を勤めた毛利殿も酷い痛手を蒙られたのだ。
その吉川を乗っ取ろうとなさるのも、むべなるかなだろう」
興経は先の月山富田城攻めで返り忠を行い、それが切っ掛けで大内軍は敗走した。
この戦に従軍していた永姫たちの父・正平が戦死したのは、ある意味興経の裏切りが原因といってよかった。
吉川氏としても興経の節操無い行動のおかげで国人衆から白い目で見られ、ほとほと嫌気がさしていた。
吉川氏は考えた末、元就から吉川の血に連なる元春を養子として譲り受けようとした。
元就は様々な条件を付けて元春を吉川に送り込み、興経は怨みを飲まされながら毛利領内に隠居させられた。
「それに毛利殿の周りには芸備国人衆が終結している。
竹原だけでなく、我が沼田小早川家も輪の中に加われば、何かの折に有利ではないか?」
元就の周囲には宍戸・熊谷・天野などの国人衆が集っている。吉川氏や竹原小早川氏も例外ではない。勢力を拡大した毛利に組するのは、沼田小早川氏にとっても利があるだろう。
それでも盛平は首を縦に振らない。
「だが、隆景さまを当主にすると、我が小早川家は毛利のものになる」
「当主が居ない場合に養子をとるのは、お家を潰さぬための常套手段ではないか」
「ご当主なら、繁平さまがいらっしゃるではないか!」
大の大人が今にも掴みかからんばかりの言い合いをしている。
永姫ははらはらと見ていた。
隆興が怜悧な目で言い放つ。
「常陸介殿、そこもとは育ての君可愛さのあまり、現実が見えておらぬのか。
盲である当主に何が出来る。お屋形さまからの軍役を果たせず、領国を統治するのに実際に目で見て判断することも出来ぬ。
そこもとは若殿の御子に望みを掛けるというが、虚弱な殿に御子を望めるか? また御子が産れたとしても、成人するまでどうするつもりだ。
そこもとの言うとおりにしては、元の木阿弥だ」
隆興は代々幼君を頂くことにうんざりしていた。戦の世にあっては、逞しく機知に富んだ男が当主であるほうがよい。
悔しげな顔をした盛平は、握っていた拳をゆっくりと下ろした。
「……わしも、解っておる。
繁平さまは当主の器ではない。器にない者を無理矢理そこに填めるのは、当人にも回りにも歪みを生んでしまう。
そして、幼君を頂き続ければ、沼田小早川家は弱体化し失墜するだろう」
だが、守り育ててきた主を見放すことに、盛平の胸が軋む。主は己を信じてくれた。その信用を仇で返す事になるのか。
盛平の目から涙が溢れてくる。
弘平はそんな父を見ていられなかった。
小早川本宗家と育ての君の間に板ばさみになっている父。きっと答えは出ているのだろうが、父はそれに踏み切れないのだ。
涙を拭うと、盛平は毅然と顔を上げた。
「……わしも毛利殿に書状を書く!
毛利殿といわず、お屋形さまや守護代殿にも書状を送る!
わしに出来る事はこれしかない」
盛平の決意に、梨子羽宣平は微笑んで頷いた。
「よくぞ決断なされた。我ら一同のこころは揃いました。
あとは繁平さまを早く解放していただけるよう動くのみです」
宣平の言に皆が頷く。
永姫は煩悶の末決意した盛平を見ながら、自身も覚悟を決めねばならぬと思った。
皆が散っていくなか、永姫は弘平と宗勝を呼び止める。
「新四郎、わたくしは今から三原の浦に行きます。
いつものように、又四郎殿を呼び出して」
「え? いつものようにとは、どのようにですか?」
何のことかさっぱり解らぬというような顔で抜け抜けと言う宗勝を、永姫は睨んだ。
「解っているのよ。又四郎殿と会うのは新四郎が供をしたときだけだもの。
以前のように、又四郎殿とわたくしが話せる機会を作ろうと、示し合わせていたのでしょう」
永姫の言葉に、弘平は目の色を変えて宗勝をねめつける。
ははっと笑い、宗勝は頭を掻いた。
「ばれてましたか。でも今回は姫さまのほうがお誘いになるのですね」
「手段を選んではいられなくなったもの。使える手駒があるのなら、何でも使う」
険しい面持ちで言った永姫に、宗勝は口笛を吹いた。
「成長なさいましたなぁ、いっぱしの悪女のようだ」
「人聞きの悪い事を言わないで」
上目遣いに睨んだ後、永姫は隆景との対面のため精神を集中していった。
‡
椋梨弘平と乃美宗勝を供に連れ三原の浦にやってきた永姫は、供の二人を松並木の下に待たせ、強張った顔で大島と小島を見つめていた。
やがて馬のいななきが聞こえ、静かだが力強い足音が近付いてくる。永姫は振り向いた。
「又四郎殿……」
硬い表情の永姫に微笑み、隆景は緊張のあまり強張る少女の隣に居並んだ。
「わざわざ呼び出されたのは何のためだ?」
物静かな問いかけに自身の手を握り締め、永姫は口を開いた。
「……兄上が、尼子と通じようとした嫌疑で、お屋形さまに捕らえられたの」
「……その話は弘中殿からの伝達で聞いている」
隆景の口から弘中隆兼の名が出たことに確信し、永姫は向き直り深々と頭を下げた。
彼は永姫の突然の行動に驚かず、冷静に見下ろしている。
「又四郎殿はお屋形さまや弘中さまのお気に入り。
お願いですから兄を釈放していただけるよう、お二方を説得して下さい!」
隆景は大内義隆の寵愛を受けたといわれ、備後神辺城攻めで見せた勇猛さから、弘中隆兼にも買われている。――隆景はこの二人と近い立場に居る。
「永殿は何故この運びになったのか知っておられるか?」
何気ない隆景の問いに、しばし黙り込んだ後、肩を震わせながら永姫は口を開いた。
「……知っています。兄では小早川宗家の当主として役不足だからでしょう。
それはわたくしも承知しています。
そんな兄でも、わたくしのただ一人の、大事な兄なのです」
そう言って永姫は顔を上げる。その面は涙に濡れていた。
隆景を前にして感情が昂りすぎた。重臣だけに任せていられない、己にも出来る事があるはずと永姫は隆景に直接交渉しようとした。が、緊張のあまり今まで押さえてきた涙が幾筋も零れていく。
「……そんなに兄上が大事なのか。やはり君は昔とひとつも変わらぬ。
兄上に縛られ、自身を犠牲にすることこそ生きる道と思い込まされ、他を省みる事も封じられた」
隆景の声に、少しく不快さが混じる。
いつ聞いても、隆景の言は耳に痛い。的確にこころの内に隠された部分を突いてきて、何も言わせなくする。
――あぁ、やはりこの人はすごい人だわ。わたくしの悪い部分を、すべて見抜いている。
こころの幼稚さを隠れなく暴かれ恥ずかしいというのに、永姫は妙に感心してしまう。
兄からいつまでも離れられない弱さ、兄に対する依存。それから抜け出そうともがいても、がんじがらめになって抜け出せない。
永姫は泣きながら微笑んだ。
「……何だか悔しい。どうしてすべて見抜かれてしまうの……」
隆景の顔をまともに見られず、永姫は顔を背ける。
そんな彼女のもとに、隆景はにじり寄る。
「……見抜いたのは、それだけではないのだが」
え? と永姫が顔を上げたとき、強い力で肩を掴まれ、唇に柔らかな感触が重なった。
永姫は目を見開く。
――彼女は唇は隆景の唇で塞がれていた。
「姫さまッ……?!」
永姫の唇が隆景に奪われたのを見た椋梨弘平は、驚きのあまり飛び出そうとした。
目の前で大切なひとの唇が奪われてしまった。弘平のなかで怒りが爆発する。
身を乗り出そうとした彼の腕を掴んだのは、乃美宗勝だった。
「やめておけ、おぬしには手の届かぬ相手だ」
宗勝の指摘に、弘平はぎくりとする。
振り向くと、宗勝の真剣な眼があった。
新四郎に見抜かれている――弘平はそう悟り、悄然と肩を落とした。
口づけされていたのは、ほんの一時だった。
すぐさま隆景の顔が離れ、永姫のを通り過ぎていく。
「竹原の当主を思うが侭にしたいのなら、此度のことを覚えているといい」
竹原の当主を、思うが侭にしたいなら……頭にこびりつく言葉に、永姫は戸惑う。
それは、どういう意味か。いまの口づけはどういうことなのだろうか。――隆景を思うが侭にしたいというのなら、先ほどのことを覚えていたらいいというのか。
永姫は振り向く事も出来ぬまま、その場で立ち尽くしていた。
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