隆景の妻(4)へ
(5)
永姫の兄である沼田小早川家当主・繁平(しげひら)が、安芸国守護代・弘中隆兼(ひろなかたかかね)の手で拉致監禁されてから一週間ほど経った。
その間、椋梨常陸介盛平(むくなしひたちのすけもりひら)は、弘中隆兼や彼に繁平を軟禁するよう命じた防長守護大名・大内義隆(おおうちよしたか)に繁平解放の嘆願書を送り続けた。
それとともに、盛平や乃美又十郎隆興(のみまたじゅうろうたかおき)は、芸備国人衆の頂点ともいうべき毛利元就にも口添えしてもらおうと書状を送っている。
息子である繁平が囚われてしまったことから、尼御前・須賀の方は床に臥してしまった。
永姫は日々を母の看病に送っている。
「永……未だ又鶴の罪は晴れないの」
弱々しい眼差しで聞いてくる母に、永姫は首を振る。
永姫は兄とともに嫌疑を掛けられている田坂全慶(たさかぜんけい)を問い詰めたが、兄達が尼子氏宛ての書状を作成したのは事実だった。
全慶から兄・繁平が大内氏に逆らった理由を聞いた永姫は、胸が苦しくなった。
――繁平は永姫と竹原小早川家当主・又四郎隆景(またしろうたかかげ)を縁組させようとした大内義隆に憤ったのだ。
永姫は腰巻にしている打掛を握り締める。
――どうしてですか、兄上。兄妹として生まれたからには、ずっと一緒にいられるはずないのに。
わたくしを又四郎殿に奪られると思ったからなの?
いくら他家の出とはいえ、隆景は既に小早川家の人間である。補助に廻ってくれればこれほど頼りになる人は居ないというのに、自身より恵まれているというだけで繁平は嫉妬した。
永姫は兄の狭量さに悲しくなった。
――愚かですわ、兄上。自ら廃嫡の種を蒔いてしまうなど……。
廃嫡された上、愛する妹が敵対心を抱いて相手に嫁いでしまったら、兄は立ち直れるだろうか。
暗い面持ちの永姫の手を、須賀の方は握り締める。
「こうなったら、そなただけが頼りよ、永。
隆景殿を婿養子に迎えて、お家断絶だけは防がなくては。
隆景殿はお屋形さまのお気に入り、あの方の頼みならお屋形さまも聞いてくださいましょう」
「母上……」
たとえ廃嫡されたとしても、繁平の命さえ助かればいい。須賀の方は半ば諦めている。それは永姫も同じだった。
現在、椋梨盛平が隆景奉行人筆頭である岡与次郎就栄(おかよじろうなりひで)と、隆景と永姫の具体的な縁組の内容を取り決めあっている。
永姫は口を開いた。
「母上……母上は小早川本宗家の当主の座に、他家の者が座るのは、お嫌ではありませんか」
永姫の問いに、須賀の方は僅かに微笑む。
「……それしか方法がないのだから、仕方がないでしょう?
ここだけの話だけれど、母は隆景殿が嫌いではないのよ。立派に成長されるのを見るのが、年毎の楽しみだったの。
わたくしは初めから、隆景殿がそなたを娶ってくれたらと考えていたのよ。
まさか、こんな形になるとは、思っていなかったけれど……」
そのまま、須賀の方は黙り込んでしまう。
永姫は母のため、香炉に沈香をくべる。重くて柔らかな香が、曹司のなかに広がる。
扇で須賀の方に風を送りながら、永姫は物思いに耽っていた。
――竹原の当主を思うが侭にしたいのなら、此度のことを覚えておくといい。
隆景に突然口づけられ、そのあと言われた言葉。――彼の助けを借りたいなら、色仕掛けをしろとでもいうのだろうか。
――もうすぐ嫁ぐというのに、色仕掛けもなにもないではないか。
一旦輿入れすれば、隆景は己をどのようにしてもよいはずである。思うが侭にされるのは、むしろ己ではないのか。彼は他になにか欲しているのか。
永姫は頭を振る。考えても考えても答えが出ない。
その時、軽く戸が叩かれる。軽く襖を開けると、深刻な表情をした椋梨藤次郎弘平(むくなしとうじろうひろひら)がいた。
「どうしたの?」
弘平の様子が尋常ではない。永姫は一抹の胸騒ぎを覚え、廊下に出て問う。
「毛利の大殿が、臣下の一族を誅殺なされたそうです」
思わぬ報せに、永姫は口元を押さえた。
‡
天文十九年七月十三日、毛利元就は譜代の一族だった井上党をほぼ抹殺した。
元就の幼少期から弱小領主時代を見知っている井上党は主人を見くびり、財産の横領や家格の上下を無視、年賀の挨拶の不参加、領民への乱暴狼藉など目に余る行いが多かった。
堪忍袋の尾が切れた元就は、井上党を尽く殲滅した。誅殺を免れたのは、僅かな人数だけだった。
毛利氏と深い関係を持とうとしているので、常に情報に敏感になっていたが、思い切ったことをなさったものだと永姫は感じた。
が、驚きは終わらない。弘平からの報告を聞いて、永姫は戦慄した。
「井上党誅殺には、隆景さまも関わっておられるようです。
隆景さまは井上氏のひとりを竹原の木村城に呼び寄せ、相手を酒で酔わせて、自ら刄を振るわれたそうです」
永姫は足元から震えがあがってくるのを感じた。
隆景はどのような顔をして人を殺したのだろうか。彼のことだから、無表情だったかもしれない。戦場で人を殺めたことのある彼からすれば、どうということでもないのだろう。
永姫は唇を引き結ぶ。
――だからどうだというの。
戦の世なのだから、こういうこともありうるのだ。
武将に嫁ぐのだ、動揺してどうする。
隆景は強くあろうとしている。その彼と生涯を共にするのなら、己も強くならなければ――永姫は自分にそう言い聞かせた。
が、血なまぐさい事件はこれで終わらない。
同年九月二十七日、毛利元就は吉川興経に挙兵の疑惑ありとして彼の蟄居先を襲撃、興経主従を殺害した。
元就の興経殺害の報を聞いた沼田小早川家は慄然とした。
沼田小早川家も吉川氏と同じ立場である。毛利氏に逆らおうものなら兵を向けられるということだ。
一門がおののいているなか、永姫は考え込んでいた。
井上党殺戮と立て続けに起こった粛清劇に、何か関連があるのだろうか。――小早川家を飲み込もうとしていることも、そのことに連なるのだろうか。
永姫は繁平連行のとき話し合った重臣達を広間に集め、その疑問を打ち明けた。
「毛利の大殿の、井上党や吉川氏への仕打ちは、ある意味小早川氏への見せしめかもしれない。
――でも、他にも意味があるかもしれないと思うのよ」
「というと?」
椋梨盛平が尋ねる。
永姫は頷き、答える。
「毛利の大殿は、外部内部の不穏分子を刈り取る必要性があったのかもしれない。
そして、毛利の大殿は、山陰の要所である吉川氏と、瀬戸内の要衝で水軍を擁する小早川氏を押さえておかなくてはいけなくなったのかも。
――考えられるのは、これから何かが起こるのでは」
そこまで話し、永姫は一同を見た。
乃美又十郎隆興(のみまたじゅうろうたかおき)がふっと笑う。
「慧眼です、姫さま。
なかなか的を獲ていらっしゃいます」
隆興の言葉に、永姫は身を乗り出す。
「本当に? 何が起こるというの?」
隆興は何か知っているのではないだろうか。永姫は問い詰める。
彼は意味深に笑っただけだった。
「姫さま、今それを言うと、取らぬ狸の皮算用になってしまうのですよ」
乃美新四郎宗勝(のみしんじろうむねかつ)の言葉だ。
毛利と比較的近い立場にいる乃美一族は、既に何かを知っているのかもしれない。が、聞いても答えないだろう。
永姫はため息を吐き、椋梨盛平に向き直る。
「わたくしの輿入れの日取りは、まだ決まってないの?」
「まだ具体的には……」
盛平は言い淀む。
「早く縁組を進めて。場合によっては、わたくしが竹原に入輿するから。
わたくしが又四郎殿に嫁ぐことは、沼田小早川家に他意がないことを、毛利の大殿に証明することに繋がる」
「姫さま……!」
それは、隆景の沼田小早川家相続が成るまで、人質になってもよいという永姫の決意の現れだった。
「わたくしや沼田の者は、絶対に又四郎殿や毛利氏に逆らってはいけない。目立つ行動もしてはだめよ。
でないと、兄上も吉川興経殿と同じ目に遭ってしまう」
永姫は、何としてもそれだけは避けたかった。
「そのためには――多少の犠牲は仕方ないかもしれない。
小早川家を残すため、わたくし達は何があっても堪え忍ばなくてはいけないわ」
永姫の言に、堅い表情ながらも皆頷く。
「全慶はお屋形さまの与力に見張られ、稲山(いなやま)城に蟄居しているからいいけれど、彼と意を共にする羽倉(はくら)一族等は監視が付いていない。
彼等が挙動不審な行動を取らないか、常に目を付けておいて」
「わかりました」
永姫の命令に首肯し、重臣達は下がっていく。
彼等の後ろ姿を見ながら吐息し、永姫は思案する。
芸備国人衆を一手に纏めようとしている元就。彼の頭のなかには将来の版図が見えているのだろう。
そのためには山陰の押さえである吉川氏と、瀬戸内を縄張りとする小早川氏を直下に置かなくてはならなかった。――多分、これからの動きを見据え、毛利が生き残るために。
そこまでは理解できる。が、元就は何に備えているのだろう。
そして、完全に毛利に取り込まれてしまう小早川氏に、利はあるのだろうか。
――考えても、今の永姫には答えが見つからない。それなら……自ら行動するまでだ。
永姫は決心すると、広間から出かけていた椋梨弘平と乃美宗勝を呼び止める。
手招きし、家老たちには聞こえないよう、彼等を近くに寄せた。
「何ですか、姫さま」
怪訝そうに弘平が聞く。
「これから竹原の木村城に行くわ。案内して」
思い切った永姫の言葉に、弘平と宗勝は驚いた。
「大胆なことを仰るなぁ、姫さまは。もう夕方だというのに、竹原に押し掛けるんですか。
今から出たら、着くのは日暮れてからですよ」
面白そうに宗勝が言う。
「構わないわ、なるべく早く又四郎殿と会って話がしたいの」
宗勝は苦笑いする。
「せっかちだなぁ、姫さまは。
まぁいいでしょう、今から参ると竹原に早馬を出しておきます」
「頼むわね」
弘平と宗勝が出ていくのを見届けると、永姫は遠駈けするための支度をするため自室に入った。
‡
分家である竹原小早川氏の城・木村城は、沼田小早川氏の城・高山城より海に近い場所にあった。
隆景等が住んでいるのは、加茂川を挟んで対岸にある土居・手嶋屋敷(てしまやしき)である。
早馬の知らせを受けていたのか、冠木門(かんぼくもん)にりりしい若侍が待ち構えていた。
「お初にお目にかかります永姫さま、竹原小早川家臣・末長又三郎景道(すえながまたざぶろうかげみち)と申します。
館内をご案内します。どうぞこちらへ」
「又三郎殿、我らは忍びで訪ねたゆえ、表沙汰にはされぬよう」
椋梨弘平の言葉に、景道はにこりと笑った。
「心得ております、藤次郎殿」
厩に馬を預け、景道に先導され大手を歩く永姫は、弘平に聞いた。
「末長と知り合いなの?」
弘平は微笑む。
「末長氏は椋梨と同族なのですよ。
又三郎殿とは幾度か顔を合わせており、時折竹原の情報を貰っています」
「そうなの」
末長景道は小早川の枝族なのだ。永姫は納得した。
お忍びでの訪問なので、出迎えの者は景道一人である。館内の者もあえて永姫達に注目しなかった。
景道は奥まった曹司に案内した。
「殿はこちらでお待ちでございます」
ごくりと唾を飲み込み、永姫は戸を潜る。
部屋のなかには、端座した隆景と、中年の侍が二人控えていた。
「立っていないで、そこに座られればよい」
隆景に真ん中の席を指差され、おずおずと永姫達は座る。
「ここに控えるは、毛利から遣わされたわたしの奉行人・岡与次郎就栄と桂右衛門大夫景信(かつらうえもんだゆうかげのぶ)だ」
隆景から家老級の臣を紹介され、永姫は軽く頭を下げる。
岡就栄と桂景信は叩頭礼をする。
「お初にお目にかかり申す、永姫さま」
目の前にいる侍達は、毛利から送り込まれた与力――竹原小早川家への監視役なのだ。
永姫は顔を引き締め、頷く。
隆景が早々に切り出す。
「して、この夜分にどんな御用か?」
隆景の目が永姫を鋭く観察する。
意を決して永姫は口を開いた。
「単刀直入に申しますわ。
わたくしども沼田小早川家には、お屋形さまや毛利の大殿に他意はございませぬ。
今回はそれを証明しに参りました」
「証明?」
隆景や毛利譜代の家老の目が永姫に注がれる。
椋梨弘平や乃美宗勝は、はらはらしつつ主家の姫の出方を見ている。
永姫の言った事は、思い切ったことだった。
「沼田小早川家のすべてを、隆景さまや毛利殿にお渡しいたします」
隆景と永姫を除き、曹司のなかに居る者すべてが息を呑む。
弘平や宗勝に至っては目を剥いていた。
狼狽する沼田の家臣を、永姫は睨みつける。
腕を組み、隆景は少しく笑う。
「そう思われた真意は如何に?」
「小早川家の危難を取り除くためです」
すかさず永姫は言い放つ。
ふたりは目で互いを探り合う。
やがて息を吐き隆景が言った。
「……吉川興経殿のようにならぬためにか」
あえて「誰が」とは含めず告げられた言葉に、永姫は首肯する。
「小早川家のすべてをわたしと毛利に渡すといわれるが、それは永殿のことも入っているのか?」
「わたくしは既にお屋形さまの命により、隆景さまのもとに嫁ぐことが決まっております。
実はそのことについてもお話があります」
「話……?」
永姫は袴を強く握り、言った。
「わたくしを早く竹原にお迎え下さい。
隆景さまの沼田小早川家相続が成るまでの間、わたくしが竹原に居れば、お屋形さまや毛利の大殿も安心されましょう」
隆景が眉を寄せる。
「……自ら人質になろうというわけか」
永姫は頷く。
「勿論、田坂全慶等以外の沼田小早川家中は、あなた様を跡目として迎える意思があります。
あなた様や毛利の大殿も、わたくしを無下にはなさらぬと信じております」
強い眼差しで言い切る永姫を、就栄と景信は驚きの目で見ていた。
まだ十三の小娘だというのに、頭の回転が早い。隆景から永姫が兄・繁平の目代わりをしているとは聞いていたが、なるほど年のわりにしっかりしている。
そう思い主を見た二人は、少しく不機嫌な隆景に吃驚する。
「わたしは君を人質としてではなく、正室として迎えようと思っている。
君が竹原に輿入れし、わたしが小早川宗家を継いでからも、待遇を変えようとは思っていない」
永姫は隆景の不快気な面持ちに、少々気圧されていた。
ため息を吐くと、隆景は毛利の与力達や沼田の家臣達を振り返る。
「おまえたちは下がれ。永殿とふたりだけで話がある」
当惑する家臣達に構わず隆景は立ち上がる。ただならぬ雰囲気に、家臣達は慌てて下がっていった。
呆然としている永姫の前に膝を突くと、隆景は彼女の頤を取る。
「……まったく、前にわたしの言った意味が解っていないようだな」
え……と声を漏らさぬうちに、隆景に口づけられ永姫は戸惑った。
軽く触れるだけで離れた彼の面を、永姫はまじまじと凝視する。
「……い、色仕掛けなんて、出来ない……」
色仕掛けなど己の柄ではないと永姫は思っている。
が、隆景が言ったことは思いもよらない事だった。
「わたしは色仕掛けなどして欲しいとは思っていないが」
永姫は目を見開く。まったく意味が解らない。
「せ、接吻すればあなたを思うが侭に出来ると言ったじゃない」
「そういう意味ではない。……わたしだけのものになれ、と言ったのだ」
更に永姫の目が点になる。
「……輿入れするとあなたのものになると思うけれど……」
全く理解できないというように首を傾げる永姫に、隆景は大きな嘆息を吐いた。――鈍感にも程がある。
「結婚し抱いたからといって、君がわたしのものになるわけではないだろう。
わたしが欲しいのは身体ではなくて心なのだから」
そう言って隆景は永姫の細い身体を強く抱き締める。
力強い腕に抱かれ、永姫は息が詰まりそうになる。兄・繁平の腕の強さの比ではない。妙に熱くて、苦しい。
「わたしは始めてあった時の様に、笑って欲しいだけだ……。
君がわたしに笑いかけてくれるなら、わたしは君の思うが侭になってしまう」
情熱的な囁きを耳にし、永姫は震えた。――こんな男の人の声、聞いたことがない。背筋が何故かぞくぞくする。
笑いかけて欲しい――それがこの人の望み? 永姫は困惑の局地にいた。
惑う永姫に微笑みかけると、隆景は再度唇を重ねる。今度は深く、貪るように。
永姫は思わず目を瞑る。熱い、苦しい、胸が痛い。未経験の感覚に彼女は惑乱する。
接吻を続けながら、隆景は少女を床に押し拉いだ。
上から覆い被さってこられ、衣越しに身体を密着させてくる青年に、永姫は身じろぎする。何だか怖い、怖くてどきどきする。
舌を絡められ、唾液を交換するような口づけ。逃れようとしても絡められてくる腕。荒くなる息。永姫は眩暈がしそうになった。
少女の唇を開放したあと、隆景は後れ毛の垂れかかる白い襟足に唇を付けた。
不意に乳房の上に男の手が置かれた。衣を隔てているがはっきりと解る指の動きに、永姫は瞠目する。
「い、いやッ!」
切羽詰った永姫の叫びに、隆景ははっとする。
見下ろすと、脅え涙を浮かべる少女がいる。
急ぎすぎたか――隆景は自嘲すると、永姫の身体を抱き起こした。
「すまぬ……焦ってしまったようだ」
そう言って己を抱き寄せてくる隆景を、永姫は錯綜した目で見た。
隆景のしたことは、男女の交わりの端緒だ。永姫にもそれくらい解る。
とりあえず、冷静にならなくては――永姫は隆景に凭れかかった。
そんな彼女の身体を、青年は抱き締める。肩を摩り、少女の動悸が納まるのを待つ。
永姫は思わず隆景を見上げた。彼の不安げな面持ちをしている。だがその瞳は優しく、蕩けるような熱を孕んでいる。
――あぁ、やはりこの人は綺麗だわ。
男にしては麗しい隆景の面を、永姫は放心したように見つめていた。始めてあった日も綺麗な少年だと思った。その少年に笑いかけられ、小さな永姫は恥ずかしくなり母の後ろに隠れたのだ。
じっと見つめる永姫に、安心させるように隆景が微笑む。――まるであの日のように。
隠れたいが、隠れられない――永姫は頬を上気させたまま瞼を閉じた。
柔らかく重なってくる唇の感触。すこし触れただけで離れた温もりに、永姫は何故か寂しくなった。
「ここから先は、祝言のあとにとっておこう。
直垂の女を抱くというのも、妙な話だからな」
微笑み言う隆景に、永姫は赤くなり頷く。
「……つ、次に会うときは、白無垢を着てきます……」
隆景の顔をまともに見られない永姫に、彼は至極柔らかな笑みを浮かべた。
竹原の当主と主家の姫が二人きりで籠もってしまった曹司を、椋梨弘平は睨むように眺めていた。
その隣で乃美宗勝が面白がるように笑う。
「妬くな、隆景さまは姫さまの許婚だ。何をしても許される」
「だが、祝言の日まで花嫁に触れぬのが慣わしではないのか……!」
「だから、我々だけの秘密にしておけばよいではないか。
そこもとだとて、お屋形さまや毛利の大殿を敵に廻したくはなかろう?
騒ぎ立てれば姫さまの行動が水の泡だ」
思わず泣きそうになっている弘平の頭を、宗勝がぽんぽんと叩く。
そんな二人の様子を、岡就栄と桂景信が注視している。
宗勝は毛利の与力に笑いかける。
「大丈夫です。今回の行動は姫さまの独断ですが、沼田の家老達に異論はありません。
岡与次郎殿、椋梨常陸介殿と早急に輿入れの日取りを取り決めて下され」
「あ、あい解った」
就栄はそう言ったが、彼とて隆景が永姫と何をしているか非常に気になっている。
男たち四人がやきもきしていると、曹司の戸が開き、頬を染めている永姫が姿を現した。
「あ、随分とお早いお出ましで……」
宗勝がすかした声で言うと、ばつの悪そうな隆景が釘を刺す。
「馬鹿者、何かやましい想像でもしていたのではないか?」
「いえいえ、別に」
にやにや笑う宗勝の腕に、弘平が肘鉄砲を食らわす。
「……か、帰るわよ……」
夜目にも明らかな永姫の赤面顔に、一同は隆景を見た。照れているのか、彼は目を背けた。
――うまくやられましたな、隆景さま。
短時間だから二人の間に異性の事があったわけではないだろう。が、隆景が永姫に何かをしたのは確かだ。
隆景の気持ちを知っていた宗勝は、彼が難関を潜り抜けられるだろう予感に微笑した。
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