隆景の妻(2)へ
(3)
城下や港を偵察するため高山城を降りた永(なが)姫は、三原の港で海賊・能島(のしま)村上水軍の村上武吉(むらかみたけよし)達にかどわかされかけた。
そこを竹原小早川家当主・又四郎隆景(またしろうたかかげ)に助けられ、永姫は彼とともに居城に帰り着いた。
隆景は元服の報告を本家・沼田小早川にするためやってきたのたが、肩を並べて城のなかに入った永姫たちに、家中のものは驚いた。
特に永姫の母である尼御前・須賀の方は血相を変えている。
「まぁまぁ、またそんな格好をして!
早く奥向きに行って着替えてらっしゃい!」
須賀の方に命令された侍女たちに引き摺られ、永姫は城の奥に去る。
皆の慌てぶりを隆景は微笑んで見ていた。
「本当に恥ずかしいものを見せてしまいましたね、隆景殿。
あの子もそろそろ年頃なのに、男の子の真似ばかりする。
もっと領主の娘としての淑やかさと奥床しさを身につけて欲しいものですわ」
尼御前の言葉に、隆景は首を振る。
「なんの、男物の直垂姿でも、永殿の美しさは滲み出ていますよ」
「まぁ、隆景殿は巧いこと仰って。
どこでそんな女子心を擽る世辞を覚えられました?」
「いや、本当のことを言ったまでですが」
恐縮する隆景に、須賀の方はにこにこと笑う。
「ただ永殿の場合、自由に動くことの出来ない兄君の代わりとして、男の姿をしているのかもしれませんが」
「え?」
何でもありませんと応え、隆景は永姫が消えた奥向きの方角を見た。
自身の曹司に入ると、永姫は侍女達に直垂を脱がされ、頭頂で結わえていた髪を下ろされた。
てきぱきとした手つきで、侍女達が小袖と打掛を着付け、垂髪に結ぶ。
「さ、姫さま化粧台の前へ」
乳母に肩を押されかけたとき、始めて永姫は抗った。
「化粧はしたくないの。素顔のままでいいわ」
「いけません、お方さまの命でございますゆえ」
乳母の一言で一蹴され、永姫は仕方なくさせるがままにした。
時を置かずに、鏡に美しい少女の姿が映った。
ため息を吐き、永姫は脇息にもたれる。
近ごろは会見の場に行くこともない。妙齢の女子のすることでないと、きつく母に咎められた。
近くに居ないのでは、兄・又鶴丸(またづるまる)を助けられない。最近は定められた時間だけ、兄に会う決まりになっている。
兄の目代わりになるつもりでも、報告する時間が少なければ、全て報告できない。――女子は無力だ。
いつも傍に居られた頃に戻りたい。大人になってきたから、兄の傍に居られなくなった。女子は制約が多すぎる。
永姫は唇を噛んだ。
機転をきかせ、乳母が話しだす。
「姫さま、又鶴丸さまも近々元服式をなさるそうですよ」
「本当に? 兄上の烏帽子親は、誰がなって下さるの?」
永姫の言葉に、侍女が顔を見合わせる。皆言い淀んでいるようだった。
「まだ決まっていないのね……」
これが兄と隆景の差か、と永姫は思う。
防長の守護大名・大内義隆が隆景の烏帽子(えぼし)親となり、偏諱(へんき)を受けることが出来た。
対して兄は、烏帽子親も決まらない。大内義隆は兄の烏帽子親を引き受けないだろう。
本宗である沼田小早川家と分家である竹原小早川家の差は、ここでも付いてしまった。――兄はさぞ悔しいだろう。
その他にも色々ある。
戦功目覚ましく知略にも優れ、統率力も発揮してきている。隆景自身の実力と大内義隆の待遇をを見せ付けられ、彼の存在を忌々しく思っていた竹原小早川家中の者も、認めざるをえなくなってきている。
――確かに、又四郎殿は言われたことを、自らの手で実現されている。
二年前のあの日、徳寿丸だった隆景は、どんな逆境も乗り越えてみせると言い切った。永姫はやれるものならやってみろと思ったが、実際に見せ付けられると、永姫も認めないわけにはいかない。
――やはり凄い人なのだ、又四郎殿は。
村上武吉たちを退けたときの隆景の威圧感は、凄まじかった。戦いに挑む武将としての鋭い気迫といえた。
戦いに出るたび研ぎ澄まされ、調略の場にあっては冴え渡る。隆景はまだ成長途上に違いない。
――兄上はそんな又四郎殿の一々に嫉妬している。又四郎殿に光が当たると、兄上は影に隠れてゆく。
それは止められない流れだった。当主・又鶴丸の印象の薄さは、沼田小早川家の凋落を招く。
永姫が考え込んでいると、乳母は耳を疑うことを言った。
「又鶴丸さまのご元服に前後して、姫さまのお輿入れも行われるそうですわ」
「……えっ?」
永姫は乳母を凝視する。
はっと乳母は袖で口元を押さえる。
この話は須賀の方から内々に聞いた話で、永姫にはまだ話してはならぬと尼御前に釘を刺されていた。
「わたくしの縁談話が出ているの?」
「え、えぇ……」
言ってはならないことを言ってしまい、乳母は口籠もる。
「ねぇ、どこまで決まっているの?」
観念したのか、乳母は口を開いた。
「いえ、まだお相手までは……」
「まだ具体的には進んでいないのね」
「いまお嫁入りするお家を探しているそうですわ」
ということは、どこに嫁ぐか決められるのは、時間の問題だ。
――嫁げば、今以上に兄上と離されてしまう!
永姫は立ち上がり、部屋から飛び出した。
隆景の謁見が終わったのか、家臣が次々と会見の間から出ていく。
次の間に隠れ、障子を少しだけ開け様子を見ていた永姫は、椋梨常陸介盛平(むくなしひたちのすけもりひら)が前を通りかかるのを見ると、盛平の腕を掴み部屋の中に引き込んだ。
「ひ、姫さま! 奥向きから出られてはならぬでしょう!」
盛平はぎょっとし、永姫を叱り付ける。
肩を竦め、永姫は言った。
「常陸介だって、わたくしが男の姿をして城から飛び出しているのを知っているでしょう?」
「そ、それはそうですが……」
盛平はむにゃむにゃと言葉を濁らせる。
確かに永姫が男装して高山城から飛び出しているのを、乃美又十郎隆興(のみまたじゅうろうたかおき)等とともに知っている。
幼い頃からお転婆な永姫を、家老達は甘やかし過ぎていた。
永姫は真剣な面持ちで話しだす。
「兄上がもうすぐ元服なさるというのは、本当?」
「はい、来年にと考えております」
永姫はふぅと息を吐く。
「わたくしが嫁ぐのは、兄上の元服より前? 後?」
「そ、それは……」
盛平は目を泳がす。
兄・又鶴丸との繋がりが普通の兄妹より強い永姫からすれば、他家に嫁ぐのは耐えられないことなのだろう。
が、永姫が言いだしたことは、盛平からすれば信じられぬことだった。
「藤次郎はまだ妻を娶っていないのでしょう。
わたくしを藤次郎の正室にして、お願い」
「なりませぬ!」
盛平は一喝する。とてもでないが、承服しかねる話だ。
「どうして!」
「姫さまは解っておられませぬ。
姫さまの身の振り方ひとつで、我が沼田小早川家の命運が決まるのです。
竹原小早川家に比べると、今の沼田小早川家は弱体化してきている。
姫さまが力ある領主に嫁ぐことで、沼田小早川家を強化することができるのです。
それが、姫さまが又鶴丸さまをお助けできる只ひとつの方法なのですぞ」
永姫は眉を吊り上げる。
「わたくしは兄上の目代わりになってお助けしているわ! 他家に嫁ぐと、兄上の目代わりになれない!
だから藤次郎と……」
切々と言う永姫だが、盛平に遮られる。
「又鶴丸さまの御目代わりは、わたしや乃美又十郎殿、そして藤次郎達にも出来ます。それは姫さまのお役目ではありません。
姫さまのお役目は、有力な国人領主に嫁ぎ、何かの折りに援護をしていただけるよう、強く働き掛けていただくことです。
そのため、姫さまには非の打ち所ない女子となられるますよう、お努めいただかなくては」
「わたくしの役目は、女子であることだけなの……」
永姫の呟きに、盛平は頷く。
彼女はまざまざと女子であることの非力さを思い知らされる。
そんな永姫に構わず、盛平は話を続けた。
「ただ、どの領主に姫さまをお嫁入りさせるか、まだ決めかねているのです。
沼田小早川家には、大内派とともに尼子派がいる。大内派は大内方の領主に、尼子派は尼子方の領主に姫さまを嫁がせると主張するでしょう」
――そして隆景さま擁立派は、隆景さまを姫さまの婿養子にせよと主張するだろう。
二年前からの隆景の働きを聞いた家中のなかには、又鶴丸ではなく隆景を小早川家当主にと願っている者がいる。乃美一族など最たるものだ。
そして盛平も揺れていた。二年ぶりに拝見した隆景は、理知的で逞しい青年に成長していた。弁舌も爽やかで隙がない。
――まさかあれほどの大器になるとは、思わなかった。
それに引き替え、又鶴丸さまは……と考えかけ、盛平は打ち消す。
己は沼田小早川家の筆頭家老。いかなる時にも中間派でなくてはならぬ。
同じ沼田小早川庶家のひとり、田坂義詮(たさかよしあき)――今は出家して全慶(ぜんけい)――は尼子派の代表で、大内氏の直下と化した竹原小早川家の出張り様を忌々しく思っている。
全慶は隆景に対する大内義隆の態度を、身贔屓だと声高に批判し、また竹原小早川家は毛利に私物化されたと言って憚らない。
盛平は度に行きすぎた全慶の言動を諫めるのだが、隆景が目立つかぎり、全慶の大内憎しの感情は高まるだろう。
そして椋梨は代々沼田小早川当主の後見をする一族で筆頭家老である。
大内方である乃美・浦一派、尼子方である田坂・羽倉(はくら)一派は、互いに沼田小早川の庶流、竹原小早川家とて小早川本宗から枝分かれした一族だ。
同族が争っていいものかと、盛平は思案していた。
「とにかく、まだ決まったわけではありませんので、ご覚悟だけはなさっていてください」
部屋から出ようとした永姫に、盛平は強く言い置いた。
「永、元気がないね。どうしたの?」
貴重な兄・又鶴丸との時間に呆としていた永姫は、兄に問われはっとする。
近従である椋梨藤次郎弘平(むくなしとうじろうひろひら)も、こころあらずな永姫の様子を観察していた。
「あ、ごめんなさい」
又鶴丸は脇息の縁を握り締め、尋ねる。
「今日永が隆景殿と帰ってきたのは、偶然だったの?」
「えぇ、沼田の市や三原の浦を見て回っているときに、ばったりお会いしたのです」
村上武吉に拉致されかけたことは、さすがに言えない。兄に余計な心配を掛けたくない。
が、又鶴丸の関心は、そこではなかった。
「永は隆景殿に肩入れしているわけではないの?」
永姫は驚き、慌てて弁解する。
「何を仰るのですか!
わたくしは又四郎殿のことなど、何とも思うておりませぬ。
どちらかというと、兄上を脅かす嫌な方ですわ」
「どうだか、最近は母上まで隆景殿を褒めそやす」
兄の言葉に、永姫は口をつぐんでしまう。
又鶴丸は劣等感から、疑心暗鬼になっているきらいがあった。
幼い頃からの守役である椋梨盛平・弘平親子には唯一全信頼を委ねていたが、隆景や大内氏と通じる乃美・浦一族には厳しい態度を取っている。
その上、母・須賀の方までも隆景を高く評価しているのだ。
又鶴丸からすれば、永姫だけには己を見ていてほしかった。
彼は妹に向かって手を伸ばす。永姫は傍に寄ると、兄の手を取る。
「永はわたしを沼田小早川の当主に相応しいと思ってくれるかい?」
「はい、勿論です」
永姫の応えに安心したのか、又鶴丸は妹を抱き締める。鼻腔を彼女の髪に埋め、妹の匂いを楽しんだ。
「永は日向の匂いがする。天日で干された衣と同じだ。
でも、近ごろ違う匂いも交じっている。何故だろう」
永姫は苦笑いした。
「それは白粉の匂いでしょう。化粧をしてますもの」
永姫の肩を掴んだまま、又鶴丸は少し離れる。
「……永もいつまでも同じままではいられないんだね。わたしも永も、大人になってきている」
頷きつつ、永姫は言葉にならない言葉をこころのなかで呟いた。
――えぇ、そうです。わたくし達はいつまでも同じでいられない。
わたくしは兄上が元服するのと同時期に誰かに嫁ぎます。
母・須賀の方に常々言われてきた。
――武家の女子は他家に嫁ぐために生まれたようなもの。女子が他家に嫁ぐ事で同盟関係が築かれ、国人衆が固く結託する。
もし婚家に裏切りがあろうものなら、見つからぬよう密かに実家に告げ、来る戦に備えねばならぬ。
そして戦にならぬよう取り計らうのも、女子の務め。
己が嫁ぐことで、兄を助けることが出来る。――それしか己には方法がない。
ならば、嫁ぐのみだと永姫は思う。兄妹はどうせ長々と一緒には居られないのだ。元服した兄は他家から嫁をもらい、妹は他家に嫁ぐ。それが自然の理なのだ。
――でも……わたくしが居なくなったら、兄上はどうなるのだろう。
永姫はそれだけが不安だ。いつも己を頼り、己と共に居たがり、己に触れたがる。
今も兄は己を抱き締め、安らいでいる。――兄は己しか信じられる者がいない。
それなのに己がいなくなれば、兄はもっと苦しむのではないだろうか。
彼女はふと椋梨弘平は見た。彼は見ていられぬと目を伏せている。
――他人にはわたくしたちの関係が奇異に映るのだろう。
あまりにも仲がよい兄妹――もし双子なら畜生腹と呼ばれ蔑まれただろう。否、双子でなくとも、兄妹が密に接触しあうのは見づらいかもしれない。
『永殿は兄君を哀れに思われているのか』
不意に隆景の言葉が耳に甦る。
――わたくしは兄上を哀れんでいるのだろうか。
否、そんなことはない。己は兄が大好きだ。兄とともにいると嬉しい。兄とずっと一緒に居たい。
――だが、兄の目が見えていたら、こんなに思っていただろうか。兄の目が見えないからこそ、何をおいても助けたいと思うのではないだろうか。
『わたしは、哀れまれるのが嫌いだ。どんな逆境も乗り越えてみせる』
強い眼差しでそう言い切った隆景。その時の彼はとても強く見え、永姫は胸の奥が痺れたような気がした。
久方ぶりに見た大人の隆景も、とても強く見えた。その強さは性格だけでなく、人間性の強さでもあるのだろう。
強き者に惹かれるのが人間の性ではないのか。須賀の方や乃美一族が惹かれたのは隆景の人間としての強さで、誰もが彼を輝かしく眺めているだろう。――永姫も、例外ではない。
だが又鶴丸は、彼女が隆景を思うと嫌がった。だから無理をして隆景を嫌いになろうとした。が、乃美宗勝が言ったとおり、嫌いになろうとしても嫌いになれない。それも人間の性なのだ。
又鶴丸の腕の中にありながら、永姫はやるせなかった。
椋梨弘平は永姫が又鶴丸の居室から下がるのに従い、ともに部屋を出た。
美しい打掛を引き摺り歩く主家の姫を、彼は物憂げに眺める。
――姫さまは又鶴丸さまに捕らわれてしまわれている。
妹とともにいるときの又鶴丸は、とても幸せそうだ。が、永姫は兄といるとき憂わしげな面を隠せない。
盲目の領主である又鶴丸の命運がまったく見えないのも理由であるだろう。永姫はそんな兄を助けたいがために男の姿をし、高山城を降りる。
城下や港を見て廻った永姫は、その度苦悩の面持ちをしている。
――聡明な性質の姫さまだ。沼田荘がどれだけ重要な場所か、見聞を広めるうちにお解かりになられたのだろう。
そして、そんな場所を又鶴丸さまが治めること困難さを、正確にご理解なされたのだ。
つらつらとそのようなことを考えていた弘平は、急に永姫が立ち止まったので驚いた。
「……姫さま?」
「藤次郎、わたくし昼間に常陸介に言ったの」
唐突な言葉に、弘平は訝しむ。
「父に何を?」
ちらりと永姫は弘平を見、少し赤くなり顔を伏せた。
「わたくしが誰かに嫁がねばならないのなら、藤次郎の正室にして、と」
「ひ、姫さま?!」
弘平は飛び上がらんばかりにびっくりし、真っ赤になる。
彼の手に届くはずのない高嶺の花が、自ら彼を望んだのだ。弘平はまったく訳が解らなかった。
しかし永姫は赤くなりながらも申し訳なさそうに言う。
「ごめんなさい……藤次郎が好きだから嫁ぎたいと思ったわけではないの。
藤次郎の妻であるなら、ずっと兄上と離れなくてもいいと思ったからなの」
「あ……」
途端に弘平の色が褪める。
永姫は兄・又鶴丸と離れたくないから、己と結婚しようと思ったのだ。それだけ、永姫は又鶴丸にがんじがらめに縛られているといえる。
永姫はか細く震える声で告げた。
「でも、常陸介は駄目だといったの。
わたくしは領主の娘だから、家のため、兄上のため、他家に嫁がねばならぬのだと。
……今はわたくしもそう思ってる。
だから、わたくしは小早川家の娘として他家へ嫁ぎます。
混乱させるようなことを言ってごめんなさい」
「姫さま……」
既に永姫は他家へ嫁ぐ覚悟をしていたのだ。
それでも、永姫の表情は冴えない。
「藤次郎、わたくしが居なくなったら、兄上はどうなるのだろう。
兄上が元服されるのと同じ頃にわたくしは嫁ぐでしょう。
そうなったら、お味方の少ない兄上はどうなるのだろう」
「そのことなら、心配はいらぬと思います。父も抜かりはないでしょう」
弘平は少しく微笑んで言った。
「そう? それならいいわ」
永姫も薄く笑う。弘平はほっとした。
永姫の――妹の代わりなら、女子を付けるといいのではないかと思ったが、人見知りの激しい又鶴丸は触れるのを嫌がるのではないだろうか。
どちらにしろ、武家の男児は元服と同時に、夜伽の女子から施射の法を学ぶのが習いになっている。又鶴丸元服を推し進めている父・盛平はそのことも考えているだろう。
にしても、この痛みは何だろうと弘平は思う。
永姫が誰に嫁ぐか決まったわけではない。が、他の男に嫁ぐということに、胸がちりちりと焼かれる。
又鶴丸と抱きあう永姫を見るのもいい思いはしないが、今回はその比ではない。どう足掻いたとて、又鶴丸と永姫が結ばれることはないのだ。が、永姫を妻とした男は容易に彼女を我がものとするだろう。
永姫に懇願されても結婚などできぬ己であれば、ただ彼女が他の男と添うのを見守るほかないのである。
弘平はそれが辛かった。
‡
椋梨盛平は又鶴丸の元服と永姫の縁談を決めるにあたり、同じ沼田小早川庶家である梨子羽又次郎宣平(なしはまたじろうのぶひら)を協力者に頼んだ。
梨子羽宣平は沼田小早川氏の家老の一人で、家中にあって、盛平と同じく中間派に位置している。
宣平ならば大内派の乃美・浦一派や尼子派の田坂・羽倉一派と違って、沼田小早川氏に一番良いと思われる家を探し出してくれるだろうとの盛平の目論見だ。
盛平達が又鶴丸の元服と永姫の縁談を進めていることは、やがて皆の知れるところとなった。
又鶴丸と永姫がどの家と縁組するかで、沼田小早川氏の命運が決まる。どの者も盛平の動きを注意深く眺めている。
そのなかでただ一人、田坂全慶だけが盛平の行いに口出ししてきた。
「椋梨殿、永姫さまの婚家を探すに、どうかそれがしも加わらせてくれぬか」
盛平は眉を寄せる。
「それは……」
全慶は必ず尼子派の領主を上げてくるだろう。そうなれば、大内方である乃美・浦一族と揉めることになる。
盛平は頭を下げる。
「折角ですが、これはそれがしと梨子羽殿で進めようと思います」
そう言って踵を返した盛平に、全慶はぎりりと歯軋りした。
「正直なところ、又次郎殿は永姫さまをどこに縁付けられるのがよいと思われる」
盛平は宣平を椋梨城に呼び、酒を酌み交わしながら聞いた。
ふたりの間には、父に今後の勉強のためと呼びつけられた弘平が座っている。
「そうですなぁ……。正直なところ、今後の世の動きが読めませぬので、決め手がないのです」
「今後の世の動き?」
盛平の問いに、宣平が頷く。
「先の尼子氏との戦いでは、大内軍から尼子軍に乗り換える者がたくさんおりましたな。
それというのも、お屋形さまはお父君・義興(よしおき)さまより力量が劣っていなさるように見受けられるからでしょう。
お屋形さまは敗戦の屈辱から武を忘れ雅に溺れていなさり、またこの世の享楽全てを味わおうとなされておられます」
ふと盛平の脳裏に、隆景が義隆の閨で殊寵を受けたという噂が甦る。
義隆が男色を殊の外好み、美童を侍らせているというのは有名な話だ。神辺城攻めの総大将を務めた陶隆房(すえたかふさ)は、かつて義隆の寵童だった。
「では、又次郎殿は姫さまを尼子派に嫁がせればよいというのか?」
宣平は首を振る。
「だからといって、尼子につくのもどうかと思われます。
現在尼子氏の当主・晴久(はるひさ。もと詮久)殿は、経久(つねひさ)さまの御子・国久(くにひさ)殿率いる新宮党(しんぐうとう)と揉めておられる。
出雲は何年後かに大きな動きがあるやもしれませぬ」
新宮党の頭目である尼子国久は経久の次男で、晴久の叔父である。
が、晴久は何かにつけ口出しし、居丈高に振舞う国久を快く思っていなかった。――明らかに尼子一族のなかに不和か芽生え始めていた。
盛平は唸る。
「ううむ……なればどうすればよいか」
渋い顔の盛平を見つつ、宣平は酒を啜った。
「乃美又十郎殿や乃美新四郎殿は知慮に優れておられる。
あの御仁らが毛利殿に肩入れするのには、何か理由がありましょう。
もしかすると、何か重要な機密を握っておられるかもしれませぬぞ」
「重要な機密……?」
「新四郎殿は、隆景さまがお屋形さまのもとに参られるのに供奉されましたな?」
確かに乃美宗勝は隆景が周防に参じるのにお供をしている。
毛利元就は息子達を引き連れ周防に赴いたが、大内義隆は元就一行を篤くもてなし、彼らは約四ヶ月周防に留められた。
「その間に新四郎殿が何かを見、何かを聞いておってもおかしくはない。
又十郎殿や新四郎殿は大内に付いておるのではなく、毛利殿を見込んでいるのではあるまいか」
乃美隆興や宗勝は元就とともに戦った事がある。彼らは元就に何か手応えを感じたのかもしれない。
盛平はしばし顎に手を当て考える。そして宣平にじっと眼を充てた。
「……又次郎殿は、毛利と組せよと仰るか」
宣平はううむと唸って、腕を組む。
「まぁ、そう焦る事もありますまい、まだ時勢は動き続けている。
しばらく世の動きを見続けておれば、何か解りましょう」
意味ありげな言葉を言って笑う宣平に、盛平は沈黙した。
縁組するとはいえまだ間がある。永姫はいつものように男装して高山城を降りた。
村上武吉に襲われた事に懲りたのか、それ以来彼女は椋梨弘平や乃美宗勝を護衛に引き連れている。
この時は宗勝と共に沼田の市や港を見て廻り、最後に三原の浦に寄った。
「今日はいるかと思ったのだけれど、やっぱり居ないわね」
「は? 誰のことですか」
宗勝が訝しそうに聞く。永姫は微笑んだ。
「村上武吉から海の情報を色々聞こうかと思ったの。彼なら事細かなことも知っているだろうから」
「えぇ!? 村上武吉と会いたいんですか!? 酷い目に遭わされたのに、姫さまも懲りない御人だなぁ」
大袈裟に驚く宗勝に、永姫は膨れ面を見せた。
酷い目にあわされたというのに武吉と会いたいという永姫は、ある意味変わり者といえる。
「海の情報なら、わたしも知らないことはないですがねぇ」
ぽつりと宗勝が言った内容に、永姫は顔を上げる。
「本当に?」
「本当ですが、教えられません」
にっこり笑って拒絶され、永姫は頬を膨らませる。
「どうして」
「それは、どうしても教えられない極秘経路から得た情報もあるからですよ。
そういう情報は他言無用を条件に入手しますからね。
だから姫さまでも教えられないんですよ」
永姫は宗勝を胡乱げに見る。
小早川宗家が知らない情報を、浦一族は知っている。主家に隠し事している者が、果たして恭順しているといえるのだろうか。
そして、ある疑惑が浮上してくる。
――宗勝は宗家に教えない内容を、竹原小早川家当主・隆景に教えてはいないだろうか。
隆景に肩入れする宗勝ならば、そういうことも有り得るかもしれないと永姫は思った。
「姫さま、村上武吉とは会えないでしょうが、違う方とはお会いになれますよ」
笑み含みに指差す宗勝に、永姫は彼が指し示す方角を見る。
途端に彼女は顔を顰めた。
「会いたい人には会えないのに、会いたくない人とはよく会うものね。皮肉だわ」
永姫の嫌味の籠もった言葉に、近付いてきた人物も少しく眉間に皺を刻む。
「本当に失礼なことばかり言うな、君は」
隆景の辛辣な言に、永姫はそっぽを向く。
「本当のことだもの」
最近はどうしたわけか、城下を巡回するたびに隆景と会う。何故か示し合わせたかのように遭遇する。それが永姫には面白くない。
しばし無言のまま、ふたりの間が膠着する。
が、ふぅと息を吐くと、永姫は口を開いた。
「神辺城攻めが終わったと聞いたわ」
海を真っ直ぐ見据えて言う永姫をちらりと見、隆景も口を揃える。
「平賀隆宗殿は命がけで戦われたのだ。
隆宗殿にとって、杉原理興(すぎはらただおき)は遺恨のある人物。そして隆宗殿は父上が尼子に付いた汚名を返上しようと、病を押して戦っておられた。
隆宗殿の猛攻撃に杉原は出雲に逃げ落ちていったが、隆宗殿は力尽きて命を落とされた」
一気に言い切り、隆景は吐息する。
平賀氏は代々坪生荘の領主であったが、杉原理興に領地を奪われた。
土地を奪われたことによる怨恨も理由であるが、父が尼子に付いてしまったことによる大内義隆の不信を払うべく、隆宗は必死だったのだ。
合戦の最中隆宗は病を患っていたが、なりふり構わず理興の軍に猛攻撃を仕掛けた。彼はそのことにより命を縮め死去するが、家臣達が隆宗の弔い合戦にと力攻めを行い、理興は出雲へ敗走した。
隆景の様子を横目で盗み見ながら、永姫は言った。
「……天晴れなご最期ね」
隣に並ぶ隆景から寂寞が伝わってくる。永姫はそれを無言で受け止めていた。
彼にとって隆宗は、神辺城攻めの陣に共にあり戦った戦友なのだ。亡くした人を惜しむ彼の気持ちがひしひしと感じられる。
心あるひとなら隆景を慰めるだろう。が、己はそれをしてはならないと永姫は肝に命じている。だからただ側に居るだけだ。
「……永殿、この世は大きく変わる」
突然言われ、永姫は隆景を見上げる。隆景は鋭い眼差しで対岸の島々を見つめていた。
「大内は弱体化してきている。反感を持つ者も多い。――今に戦が始まる。
小早川家も対岸の火事と眺めてはいられないだろう。時代の波に飲まれ、変わらずにはおれなくなる」
隆景の重い言葉を、永姫は瞠目して聞いていた。
この世が変わる。時代が動く――それはどのように来るのだろうか。己とて他人事ではいられないのだろうか。
――わたくしは兄上が沼田の主であるならそれでいいと思っていた。
でもそれは、間違いではないだろうか。
世の動きを確かに見据えている男の存在の大きさを、少女は強く感じていた。
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