第一章 運命の誘い
(1)
――あぁ、これはいつもの夢だ。
わたくしは、いつも同じ夢を見る。繰り返し繰り替えし、物語のような夢を見る。
それは天女がある男子を恋うる夢。男子が幼い頃から青年、壮年に至るまでを歴史を紡ぐように見つめている。
ある夢で男子は幼子であり、ひとり険しい崖の上に登ると天に向かって叫んだ。
『わたしは仏法に帰依し、苦しむ人々を救いたいのです! わたしに人を救う力があるのなら、わたしの望みを叶えていただけるのなら、どうかわたしの命をお助け下さいませ!』
真摯で強い光を瞳に宿し、厚い雲に遮られた空を睨むと、幼子は崖下の青黒い海に身を投げた。
――あぁ、見ていられない!
神よ、どうか彼を助けることをお許し下さいませ!
激しく波打ち、大きく口を開ける海嘯が童子の身体を飲み込もうとしたとき、思い余った天女が彼の身を抱き止めた。
天衣を纏ったしなやかな腕に抱きしめられた幼子は、暫く自身に起きた事を受け止められないでいた。が、やがて安堵し天女を見つめた。
『あぁ……あなたは観世音菩薩か、それとも天人か……。わたしの願いは聞きとめられたのですね。感謝いたします』
只人に姿を現してはならないのに、思わずその身を晒してしまった天女は、当惑して天上の神を見上げる。
雲間を割って凄まじい光彩を放たれる。暈に覆われた大いなる存在が、光の粒子を振り溢し、天女と幼子のもとにゆっくりと降りてきた。
『釈迦…牟尼(しゃかむに)……!』
幼子は光輝に感銘し、目を潤ませる。
――思うことを、望むことを為せばよい……。そなたの心が真なるものならば、そなたの願いは、総て叶うだろう。
これでよいか? と脳裏に神の声が聞こえ、天女は秘かに頭を下げる。
疲れきった幼子は天女の腕の中で意識を失った。
以来、わたくしの夢のなかで、天女は幼子を見守り続けた。
生来明晰な頭脳を持つ男子は母方の叔父の教えを受け、国試を受けた。が、現在の国の動きでは望みを叶えられないとみた男子は大学を出奔し、ある行者とのめぐり合いによって沙弥戒を受け、国の援助を受けぬ私度僧となった。
男子は山岳での修行を主とし、四国や紀国の険しい山を行脚した。
天女は雲居の上から男子を見つめ続けていた。人の女が男に恋うる様に、胸を熱く震わせ男を垣間見ていた。
――わたくしは、あの方に姿を見せてはならないのだ。あの方とわたくしは、今の世ではまみえてはならないのだから……。
天女は太古の大和に人として存在した女人だった。神の血を受け継ぐ巫女として、神々に仕えていた。
神上がったあと、天女は女神として御魂を大和の秘境に留め、丁重に祀られて密やかに世を生きる人を見守っていた。
神となった女と、人である男。
夢を見るわたくしに、直に天女の切なさ、慕情が伝わってくる。
決して交わらない生が悲しい。
わたくしはこの夢を見るたびに、枕を涙で濡らした――。
‡
「花を立てることに慣れたようだの」
水瓶に水仙などの花を挿し、お供えするため本堂に参ったわたくしに、仏道の師・専康(せんこう)さまが、わたくしを労い声を掛けてくださった。
「はい、お蔭様で」
うむと頷き、師は数珠を弄られる。
「そなたは由緒正しき籠宮(このみや)の巫女姫。そのままでおれば氏の、元伊勢宮の巫女姫として大成しておったはずであるのに、六年前からこの寺におる。後悔はしておらぬか?」
わたくしは花を本尊にお供えしてから、師に向き直った。
「いえ、まったく後悔しておりませぬ。わたくしは如意輪様にお仕えすることを我が使命と思っておりまする」
そうか、善きかな、と師は相好を崩される。
「そなたの如意輪観音菩薩にお仕えする姿勢は、敬虔そのもの。
道を違わず励めば、よき僧となろう。
二年後には具足戒を授ける予定でおる。それまで励むがよい」
師の有難い御言葉に、わたくしは嬉しくて額づいた。
わたくしは出雲大神を祀る丹後国籠宮(元伊勢・籠神社)の祝・海部直雄豊(あまべのあたいおとよ)の娘として生を受けた。名を厳子(いつこ)という。
海部氏の祖は古代出雲の大神・国常立神の血を引く彦天火明命(ひこあめのほあかりのみこと)。彦天火明命は出雲より大勢の海人と山人を率いて丹波に入られた。現在、丹波は但馬と丹後、そして丹波に別れている。
祖神は出雲大神の巫女姫・天道日女(あめのみちひめ)との間に海部氏を生した。海部氏と傍系である尾張氏は丹波より越や山城、大和や伊勢、尾張に入植して氏族の根を張っていった。我が父雄豊は彦天火明命より三十一代後の長である。
一族の一の姫として生まれ、幼い頃から霊感を認められたわたくしは、五歳にして竹野斎宮(たかののいつきのみや)に入り巫女としての修行を始めた。依遅ヶ尾山(いちがおやま)で霊感を磨く苦行を行っていた。
が、十歳のある夜、夢のなかに現れた如意輪観音様のお告げを受け、わたくしはここ頂法寺にて仏門に帰依したのだ。頂法寺は海部氏と連携を持っていた秦氏が、飛鳥に都があった頃に仕えていた聖徳太子が開基した寺である。
如意輪観音様は我が母神・弁才天女と同体である。
――我に仕え、人々を救いなさい。海部の巫女姫。
如意輪観音のお告げが、夢に見る僧の願いと重なった。
わたくしは、僧として人々を救わねばならぬのだ……。籠宮の祝としてわたくしが立派な巫女になるのを望んでいた父は、如意輪観音様のお告げを聞き落胆した。が、最後には快く許してくれた。
「これも、出雲大神の思し召しであろう。これからは御仏の弟子として生きていくがよい。
が、そなたは生来からの巫女じゃ。その心根、慈愛、強い神性。僧となっても、巫女としての生は捨てられぬかもしれぬ。
だから……これを持たそう」
そういって父は神に祈りを捧げ、本殿に祀られている箱を下げおろした。
箱を開けてみると雫型の、青金(ぎん)掛かった乳白色の石と黄金掛かった乳白色の石が入っていた。
「この二珠は潮満玉(しおみつたま)と潮干玉(しおひるたま)。如意宝珠(にょいほうじゅ)ともいう。
出雲王朝の神宝であったが、もともとは弁才天女――如意輪観音菩薩由来のもの。
巫女気を持つそなたは、僧となったとて穏やかな生は送れまい。巫女としての力を出さねばならなくなったとき、この石が助けてくれよう。
持って行きなさい」
神がかった輝きを持つ石に畏怖を覚え、わたくしは押し頂いて固辞した。
「父上、受け取れませぬ」
「よいのだ、そなたが平坦な道を歩まぬのは、そなたが生まれたときに神のお告げとして聞いていた。お告げを受けたときに、この石が一緒に輝いたのだ。そなたにこの石を持たせるのも神の意志だろう」
「父上……」
これ以上拒めないと解り、わたくしは二珠を丁重に頂いた。
父から紹介状を書いてもらい、わたくしは難なく如意輪観音様を祀る頂法寺に入り、如意輪の陀羅尼を修め始めた。
そんなわたくしのもとに、懐かしい人が姿を現したのである。
「大きくなられましたな、海部の巫女姫」
春霞に曇るある昼。
六角堂を囲む池周りに散り敷いた桜の花びらを掃き清めていると、ひとりの逞しい僧に声を掛けられた。
相手はわたくしのことを知っているようだが、わたくしには面識がなかった。
「……どなた様で?」
小首を傾げ訊ねるわたくしに、僧は唇をにやりと上げて微笑む。
「そうか、初めてお会いした十二年前、あなたは四歳であられたな。記憶にないのも道理だ。
わたしは、空海という。以後お見知りおきを」
「空海さま……?」
僧――空海さまの、強い自負の現れる面をまじまじと見て、わたくしはふと脳裏に何かが掠めたのを感じる。
――この方のお顔、どこかで見たことがある……?
それは、四歳にお会いしたときの記憶ではない。朧に似たような、おそらく十代のお顔を見たことがあるような気がするのだ。わたくしがお会いした大同元年(806年)、空海様は三十三歳であられた。
と同時に、わたくしは仏教界で名を馳せている方の御名を、ぼんやりと聞き返してしまった迂闊さに、慌てて頭を下げる。
「あ、あの、密教の先達の方に不躾な相対しかたをしてしまいました。お許し下さいませ」
わたくしは恥じ入るばかりである。
空海さまは籠宮に参られる二年前に入唐し、密教の大家である恵果阿闍梨より金剛・胎臓両界の伝法灌頂を受けられた。金剛・胎臓両界の阿闍梨位を受けられたのは、恵果阿闍梨亡きいま空海さまだけで、唐は勿論、日本にも只お一人しかいない。
籠宮に参られた三年後に空海さまは都に入られた。天台の高僧である最澄さまが密教経典の借覧を申し出られたり、年下である空海さまから灌頂を受けられたりと、空海さまの名は都に入るなり大きくなった。
ただ、それから暫くしないうちに「理趣経」を巡ってお二方が仲違いされたこともあり、天台の寺院であるこの頂法寺に参られたことが、蓋し怪訝なことではあった。
焦りを滲ませるわたくしに、空海さまは苦笑いされた。
「いや、そう構えられずともよい。
今日は、わたしが彫った如意輪観音菩薩像を、こちらに収めさせてもらいにまいったのだ。
それにしても、今の姫君は十六歳か。善き姫になられましたな」
「そ、そうですか……」
「では、案内していただけるかな? 厳子姫」
悪戯っぽく笑った空海さまに頷き、わたくしは箒などを片付けて本堂に案内した。
わたくしは暗い廊下を照らすため紙燭を灯し、足元を明るくして空海さまをお導きする。
「空海さまは、わたくしの名を覚えていて下さったのですね」
「あなたは幼いながらに才気煥発で、素晴らしい神気を放っておられた。三年後に竹野斎宮に入られたと聞き、納得できました」
わたくしは思いもよらない言葉に、立ち止まって空海さまを見た。
「……空海さまも、巫気をお持ちなのですか。神気をご覧になられるなど、只人には出来ぬこと」
「そうだな、少しは覡の真似事も出来ますな。山に入って修行をし、そちらのほうの能力も研ぎ澄まされたように思える」
「斎宮に入った巫女見習いも、依遅ヶ尾山にて厳しい修行に励みます。空海さまが山にて闊歩なされたのも、わたくしたちがしたのと同じことですわ」
わたくしは幼少の頃の過酷な修行を遠い眼差しで思い出す。ただ、懐かしかった。
空海さまはそんなわたくしを見て、何気ないというように問われた。
「斎宮に入って修行なされれば、あなたなら優れた巫女になられただろう。というのに、仏門に入られたのは何ゆえか?」
「え……」
見透かすような空海さまの目に、わたくしは戸惑う。
やがて、空海さまは目を瞑り、ぽつりと洩らされた。
「……如意輪観音と弁才天が見える。厳子姫は強力な導きにより、仏道を選ばれたのだな」
わたくしは目を見開き、空海さまを凝視する。
「見通されたのですか。……強い能力をお持ちですのね。
そうですわ。わたくしは十の年に如意輪観音様の夢告を受け、こちらに参りました」
「そうか、厳子姫は如意輪観音と深い縁で結ばれておられるのだな」
「そのようです」
納得されて、空海さまは何度も頷かれる。
わたくしは空海さまを師のもとへ導き、本堂から下がった。
それから何度か、空海さまは頂法寺に参られた。わたくしの師が密教の教えを乞われた故である。
師の許しもあり、わたくしも何度か同輩の弟子たちと共に空海さまの密教の教えを受講させていただいた。
密教の教えは宇宙の縮図であり、森羅万丈、如来、菩薩、人や様々な生き物、そして知恵は総て大日如来の化生したものであるという。
それゆえに、どのような人もすべて如来であり、すべからくどの欲望も菩薩に到る道程であるという。――何においても、どのように穢れた行いであると思えても、すべては清浄なのだ。
「斎宮で巫女の修行を積まれた厳子姫は、密教の教えなどなくとも、森羅万丈どれも清浄で完成していると、既にお分かりだろう」
本堂での講義が終わった後、空海さまはわたくしを呼び止められお尋ねになられた。
「……そうですね。神道では死と女子の穢れを忌みますが、いにしえの教えではそれさえも尊きものと考えられています。
わたくしも巫女になるべく、そのような教えを受けました」
巫女は死後の魂を祀り、黄泉に送る。女子の持ち物を呪物として結界を造る術もある。誓約(うけい)として男根と女根を繋ぎ、判じ物をする場合もある。肉体の交わりによって気を交換し合い、霊と肉体(うつわ)の波動を上げたりもする。
十二の歳で一人前になるべく、わたくしは斎宮でそれら総ての術と教えを叩き込まれていた。女子の持ち物に関わる呪術は初潮を迎えるまでは実際に行うことはできないが、やり方は教わっている。
今はもう巫女ではないのだから、それらの術を使うことがないよう、わたくしは祈っている。
考え込んでいるわたくしを、空海さまはじっと見ておられた。
「……何か?」
訝しんだわたくしの問いに、空海さまは微笑まれた。
「……どうして、姫がまだ俗体であられるのか、解ったような気がする」
「……はい?」
思いもしない言葉に、わたくしは鸚鵡返しに聞き返す。
「類稀な美貌の上に、聡明であられる。
このまま、仏の道にだけ生きるのは、勿体無いと専康殿は思われたのだろう」
わたくしは目を見張り、さかしらに言い返そうとする。
「まさか。わたくしは如意輪観音様にお仕えするためこちらに参りました。自らの意思で参ったもの、それ以外の道など望んでおりませぬ」
「……そうか、意思の強いお方だ」
そう言われた空海さまの相好が、感心したというようにくしゃりと崩れた。
空海さまは講義のために頂法寺に参られるたび、学僧達には内密に、わたくしにだけ手づから書き写した経典類を持参してくださった。わたくしの志を天晴れとお思いか、思ったよりもわたくしを心がけて下さった。
あの方のお書蹟(て)は気概の籠もった優れたもので、わたくしは見よう見まねで手習いをしてみたりした。
時々それを見てもらっては、添削してもらっている。
父親のような頼もしい御方として、わたくしのなかで空海さまは大きくなっていった。
――が、別離は突然訪れるものだと、わたくしはこの後始めて知った。