運命の誘い(1)



(2)


 弘仁九年(818年)の猛暑の日。
 わたくしは頂法寺内の池を見ながら、歎息を吐いていた。
 ここ何年かの夏は過酷だった。
 太陽が大地から水を奪い、木々の緑が熱波により枯れていく。作物が実ることを見込めず、川や海から死んだ魚が沢山上がった。――旱魃である。

 いつもは並々と満ちている池の水位が減り、乾いた風が砂埃を巻き上げわたくしの頬を撫でる。
 池の畔に生えている柳も、苦しそうな趣だ。わたくしは干からびた幹を切なく触れた。
 四月に最澄さまが祈雨の御修法(みしほ)を行われ、暫くは慈雨が地を潤した。が、あれから何ヶ月か経ち、またも飢饉の兆候がある。

 ――恐ろしいこと。水気のない空気が病を運ぶ。……再び疫病が流行るかもしれない。

 すでに疫病除けとして、主上(嵯峨天皇)が空海さまを招き般若心経を写経され祈願なされた。こちらも、先だっての雨もあり今は治まっている。

 ――潮満・潮干の玉を使えば、今一度災厄を抑えられるかもしれない……。

 秘やかに、わたくしは春の頃に潮満玉を用いて雨を呼び寄せていた。それは巫女の為す術であるので、仏に仕えることを目指すわたくしが為してはならないことかもしれなかった。だから、わたくしは二珠を用いて天候を操ることに迷っていた。
 木々や土に触れていると、彼らの悲鳴が聞こえてくる。わたくしの力で助けてくれといっている。

 思い惑っているわたくしは、ふとおぞましい何かが近づいてくることに気付き、動転して後方を向いた。

「…………!」

 それは、高貴な装いをした公達だった。が、背後に未浄化なものがへばり付いている。浮かばれぬものを呼ぶ黒い磁場が、彼のうしろに出来ていた。
 彼が近づいてくるにつれ、不浄なものの波動に圧迫されて息苦しくなる。

 わたくしが行ったことは、ほぼ無意識といってよかった。

 わたくしは清き靈氣を天上から呼び身に纏うと、公達に近づき彼の背を撫で払う。わたくしの手から出る気が不浄のものに吸い込まれ、浄化していく。
 いつしか公達がわたくしの身体を抱きしめていたが、気にしている余裕がなかった。そうされるほうが、祓をするのに都合がよかった。
 靈氣を呼ぶのに集中力がいり、わたくしは疲弊し脱力する。
 一通り憑いていたものを落とすことが出来たとき、公達が掴んでいた手を放してくれた。

「驚いた……そなたは天女か、巫女か?」

 少し離れた公達の容貌を、改めて確認すると、優雅な目鼻立ちのおっとりした方だった。空海さまより年下だが、わたくしとは十は年が離れているようだった。

「……あなた様は?」

 何故か上気した公達の頬に違和感を覚えながら、わたくしは問い直す。
 
 不意に、寺の門の方角から、
「皇太弟(ひつぎのみこ)……どこにいらっしゃいますか――?!」
 と声が聞こえてきた。
 え、とわたくしはもう一度公達を凝視する。
 柔らかな微笑みを湛えた公達は、濃紫の袍を纏っておられる。――濃紫は禁色であり、主上や皇族しか身に着けることは許されなかった。衣の質もとびきりの物である。

 ――ということは、このお方は皇太弟さま?!

 わたくしはうろたえて礼拝し、無礼な行いに対する懺悔をする。

「も、申し訳ありませぬ! 皇太弟さまに対し、非礼な行いを……!」

 しゃがみこんで恐縮するわたくしの肩を抱き起こし、皇太弟・大伴親王さまはわたくしの顔を覗き込まれた。
 大伴親王さまは主上の異母弟であり、藤原薬子(ふじわらのくすこ)に纏わる反乱の後、皇太弟として立たれたお方だ。

「なんと美しい……そなたは、まさしく天女だな。
 寺らしき場所にある柳の下に、美人が佇む夢を見、ずっと探して歩いていたのだが、そなたのことだったのだな」

 陶酔したような皇太弟さまの瞳にたじろぎ、わたくしは誤解を解こうとする。

「あ、あの……わたくしは、籠宮の祝の娘でございまして、決して天女ではございませぬ。
 籠宮にて巫女の修行を積み、如意輪観音様にお仕えするためこちらに参りました」

 わたくしを立たせると、皇太弟さまはわたくしの両手を握られる。

「籠宮といえば、天女であられる豊受大神に縁のある神社であるな。
 そうか、そなたが巫女気でもって、わたしを脅かすものを祓ってくれたのだな」
「え、あぁ……はい、そうです。本当なら、巫女としての霊力を使ってはならなかったのですが」

 握られている手を何気なく放そうとするが、皇太弟さまの指の力は強く、解いてくださりそうにない。仕方なく、そのままの状態でいつまで続くか解らないおしゃべりに相槌を打つ。
 わたしを脅かすもの、という言葉に只ならぬものを感じるが、わたくしは立ち入ってはならぬと思いそのままにした。
 やがて、従者方が駆けつけてこられる。彼らの帰還の願いに皇太弟さまは困惑の笑みを浮かべられた。

「まったく、融通がきかぬな……。已むを得ん、帰るとするか。
 そなた、名をなんと申す?」

 皇太弟さまは目を細められ訊ねられる。

「あ……海部厳子と」

 頷き、皇太弟さまは再びわたくしを抱きしめられる。

「海部厳子か、覚えておこう。また参るから、わたしのことを覚えておけ」

 微笑みを残して、皇太弟さまは頂法寺から出られた。
 何が起こったか解らぬまま、わたくしは呆然と見送っていた。



 それから度々、皇太弟さまは頂法寺に――わたくしのもとに通われた。
 いつも憔悴した面持ちで、禍々しきものを背負ったまま参られるので、わたくしはその都度、始めに祓を行う。

「本当に、そなたがいると楽になれる」

 池坊のわたくしの房のなか、皇太弟さまはわたくしの身体に腕を巻かれたまま、染み入るように呟かれる。

「皇太弟さま……如何にして善からぬものをお呼びになられるのですか。いつも禍きものを背負われて、何か原因があるはずですわ。
 それをどうにかせぬ限り、不調は続きます」

 わたくしは祓を行いながら、気になっていたことを言った。
 皇太弟さまはわたくしの顔を暫くじっと見つめられ、歎息を吐かれる。

「わたしに限ったことではない。父上の廻りの者はずっと、崇道天皇(すどうてんのう)の怨霊に悩まされている」
「崇道天皇さまとは……早良親王(さわらのしんのう)さま?」

 皇太弟さまは暗い笑みを履かれる。

「そうだ。親王は父上の同母弟であられ皇太弟の位に即れたが、重臣が殺された事件に連座したとして、父上は親王を廃された。親王は無実を訴え食を断ち自害なされた。それ以来、父上の周りで死ぬものが現れ始めた。わたしの母も……親王の怨霊に取り殺された。
 それに、わたしは藤原薬子の乱のおかげで立太子できたが、あの乱を切っ掛けに大きくなった藤原北家が皇后とつるんでいる。
 美しい顔をしながら、皇后は野心家なのだ。否、罪人として殺された祖父・奈良麻呂の無念を晴らそうとしているのかもしれぬ。
 とにかく、わたしの立場も、磐石ではないのだ」

 皇后・橘嘉智子(たちばなのかちこ)さまは孝謙女帝(こうけんじょてい)の時代に謀反を企てた、橘奈良麻呂殿の孫君である。
 孝謙女帝は天武天皇の皇孫である道祖王(ふなどのおう)を皇太子に立てられた。が、独身である孝謙女帝は父・聖武天皇の服喪の折に婦女と睦んだことを不潔として、道祖王を退けられたのである。
 この背後には女帝の寵臣である藤原仲麻呂殿(ふじわらのなかまろ)がおり、自身の息の掛かった大炊王(おおいのおう。のちの淳仁天皇)を皇太子にした。ために、彼の専横に不満を抱いた橘奈良麻呂殿が謀反を企てたのである。
 兄・平城上皇(ならのじょうこう)さまの血統に皇位が行くと思っていた主上は、謀反人の血族として心細く過ごしておられた橘嘉智子さまの美貌を見初め、通われた。
 藤原薬子の反乱により皇統は主上のものになり、橘嘉智子さまは皇后になられ、正良親王(まさらしんのう。後の仁明天皇)さまと正子内親王さまを生された。野心のある皇后さまは主上や藤原冬嗣殿と図られ、将来正良親王さまを皇太子と為そうと考えておられるという。

「では、皇太子さまは自身に憑くものを崇道天皇さまの怨霊だと思っていらっしゃるのですか?
 いいえ、それは違います」
「……なに?」

 わたくしの自信ある言葉に、皇太弟さまは信じられないように聞き返される。

「皇太弟さまに憑いているものは、もっと雑多なものです。
 わたくしが見たところでは、皇太弟さまが離れたものを再び呼び寄せられているようなのです。
 きっと、恐怖や不安という負の念が、よからぬものを呼びやすくなっているのですわ。よからぬものも、皇太弟さまの負の念を居心地やすく思っているようです」

 皇太弟さまは目を見張られる。

「……そのようなこと、そなたには解るのか?」

 わたくしは頷く。

「わたくしは幼い頃から巫女になるべく、心眼を鍛えております。只人には見えぬものも、わたくしの目には見えるのですわ。
 すべては、皇太弟さまが因を作っていらっしゃるのです。お心強くお持ちあそばせ」

 そういって、わたくしは皇太弟さまの手を握る。
 皇太弟さまはわたくしをじっと見られ、感極まったように手を強く握り返された。


 以来、皇太弟さまの身に不浄のものが憑くことはなくなった。
 
 ――が、依然として皇太弟さまの頂法寺訪問は続き、遂に心苦しい出来事が起こるのである。
 







 わたくしは就寝する前に、毎日の日課である如意輪の真言を唱える。

「オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ
 オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ……」

 暗闇のなか蝋燭の灯火が、風もないのに揺れる。
 わたくしは雑念に邪魔され真言を中途で止めてしまった。
 心に強く掛かるものがあったからだ。

『わたしはそなたに逢いたいと思いこの寺に来る。出来るなら、毎日。
 ここに来ねば、そなたに逢えぬ。わたしは寂しいのだ……。
 そなた、わたしの側に来てくれぬか?』

 先日、ついに皇太弟さまはそうおっしゃった。
 わたくしは当惑し、手を付いて応える。

『お許し下さいませ……わたくしは、御仏にお仕えするために巫女となるべき道を捨て、こちらに参りました。
 今更、志を変えるつもりはございませぬ』

 あのとき、噴水の軽やかな音を聞きながら、わたくしは冷や汗が滲むのを感じていた。
 わたしの側に、というのは後宮に上がること。皇太弟さまの妾妃として閨にお仕えすることである。
 もともと女子としての霊力でもって生きている巫女ならばいざしらず、女子とは正反対の身となるべく出家しようとしていたのに、女子としてしか生きられない場所に身を置く事になるのである。
 つまりは、仏弟子としての戒律に背くことになり、御仏に仕える道を断たれるということである。

『とにかく、わたくしは皇太弟さまにお仕えすることは出来ませぬ。
 ご容赦下さいませ』

 そう言って、無礼でありながら、わたくしは皇太弟さまの御前から逃げ自身の僧坊に駆け込んだ。
 あれから、わたくしは堂宇のうちにてかしずき、外に出ることはなかった。何度か皇太弟さまが参られたと聞くが、終ぞ出なかった。
 そうして皇太弟さまの、わたくしへの関心が削がれるのを待っていた。









「近頃塞ぎこんでおられると聞くが、ご機嫌はいかがかな?」

 物憂い気持ちで観音経を読み込んでいると、足音を発てずに誰かが入って来れれたので、わたくしは振り返る。

「空海さま……! むさ苦しいところに足を運んでくださるなんて……」

 慌ててわたくしは円座を用意し、典座(てんぞ)から冷やした麦湯を持参して空海さまに差し出した。
 空海さまは一口すすり、涼味ですな、と微笑まれる。
 わたくしはこの方が醸される勇壮ながら優しげな空気に、こころを癒されていた。父のようなお方と慕っていたが、久方ぶりにお会いして何故かこころが疼いていた。

「今日も講義で参られたのですか?」
「然様であるが、元気のないあなたをお見舞いしようと思っていたのもある」
「そうですか……」

 わたくしは空海さまのお心遣いが嬉しく、涙が出そうになるのを必死で堪えた。

「そうそう、部屋に籠もりがちの厳子姫に、これを」

 空海さまは携えていた小さな包みを解き、中身をわたくしに差し出される。
 それは鑿の跡も新しい、至極小さな木製の如意輪観音像であった。

「……これを、わたくしに?」

 わたくしは如意輪様の像を押し頂き、空海さまを見た。
 頷き、空海さまは微笑まれる。

「うむ。厳子姫のさまざまな闇を照らし導くよう、稚拙ではあるが彫らせていただいた。お納めくだされ」

 空海さまはそうおっしゃるが、稚拙などとんでもない。人体の骨格を理解した、巧みな造型である。柔和な笑みを浮かべる如意輪さまが、わたくしを労わるように見つめていた。
 わたくしは熱くなる胸に、涙を抑えることが出来なくなった。溢れてくるものを袖で押さえ、俯いて顔を隠した。

「どうして、こんなにわたくしによくして下さるのですか……?」

 空海さまがじっとこちらを見ておられるのを感じながら、わたくしは問わずにはいられなかった。

「……同じ海人の者の誼で、というのは理由に足りませんかな。あの幼姫がこのように頑張っておられるのを、応援したいと思うたのだ。
 他の者の横槍で芽吹いた道を潰されるのを、見ておられなんだ」

 わたくしは顔を上げる。
 空海さまは、わたくしのもとに皇太弟さまが通っていらっしゃるのを知っておられるのだ。寺の者が打ち明けたのだろう、わたくしのことを案じて、それとなく様子を見に来てくださったのだ。

「わたくしの志は変わりませぬ。けれど、周りは許してくれないかもしれませぬ……」

 わたくしは涙を拭い如意輪さまの像を文台に安置して、空海さまに向き直る。

「皇太弟さまが望まれることは、必ず叶えられることなのです。否やをいうことは、出来ますまい……」

 わたくしは空海さまのお顔を真っ直ぐ見つめる。
 空海さまの表情の動きはなく、微かにため息を吐かれたのが解った。

「これも、苦行なのだ。仏道の上にあらずとも、あなたはあなたの修練の道を歩む。
 すべて、如意輪観音と弁才天の思し召し。入内の運命も含め、あなたは都に導かれたのだろう」
「これも……如意輪さまの導きなのですか……? 皇太弟さまに侍っても、わたくしは如意輪さまにお仕えしていることになるのですか?」
「然り。あなたはあなたの道を歩んでおられる」

 わたくしは手で顔を覆って泣き崩れた。

「……それでも、嫌なのです……皇太弟さまのもとに、行きたくない……」

 あなた様の側にいたい……。不意に、その言葉が胸にこみ上げてき、わたくしは動揺する。
 父のようなお方だと思っていた。だから、この方のお姿を見るのが嬉しいのだと思っていた。が、違ったのだろうか。この感情は……。

 泣き出せば、もう止められない。わたくしは声を放って泣きじゃくった。
 そんなわたくしを、香木の薫りを纏う香色(こういろ)の法衣(ほうえ)がふわりと包み込む。――空海さまが、慰めるようにわたくしを抱いて下さっていた。

「空…海さま……」

 空海さまは黙って髪と背を撫でて下さっている。
 わたくしは衣を握って顔を擦り付ける。薄い夏衣を通して、精悍な体臭が香る。厚い胸を感じられる。
 ――わたくしは父ではなく、この方をひとりの殿方として接したいと思っていたのだ。
 仏弟子としては、あってはならない想い。しかもこの方は高僧であられる。想っても叶わぬ恋だった。
 が、己の想いに気付けただけでいい。わたくしは、もう暫くしたら皇太弟さまの腕に抱かれるのだから。これが、運命だから……。

 わたくしは身を離し、空海さまに礼をした。

「もう、大丈夫です。わたくしは己の運命に従います」

 わたくしの想いを諦観と感じられたのか、空海さまは切なげに目を細められた。









 そうはいっても、なかなか決心がつかない。
 わたくしは自ら後宮に入る旨を言うことが出来ず、徒に時を過ごしていた。
 こころを鎮めるため如意輪の陀羅尼を唱え、朝晩空海さまの如意輪観音像に額づく。こうしている間だけが、煩わしさを忘れ、一番穏やかに過ごしていられた。

 が、十日もしない夕刻に、皇太弟さまのお使者が頂法寺に参られ、わたくしは覚悟を決めねばならなくなった。
 ご使者殿のお名は美志真王殿と申される。わたくしを乗せる輿とともに門を潜られた。

「海部直雄豊殿の娘・厳子姫を皇太弟の後宮にお迎えするため、参り申した。お引渡し願いたい」

 予め皇太弟さまにわたくしの頑なさを伝えられているのか、美志真王殿は強硬な態度でわたくしの師に訴え出られる。
 師にご迷惑を掛けるわけにいかず、わたくしは潮満・潮干の玉を入れた小箱だけを携え、すぐさまご使者の前に出た。

「お騒ぎなされるな。厳子は背きはいたしませぬ。はよう、わたくしを連れていきなされ。
 皇太弟さまに侍る身なれば、ここから持参する荷などない。この箱だけを持ち身一つで参りましょう」

 言い置いて、わたくしは自ら輿に乗り込む。
 殊の外すんなりと事を運ぶことができて、肩透かしをくらったような面持ちで、美志真王殿はわたくしを西院(さい)にある東宮御所・南池院(なんちいん)に運ばれた。

 奢を誇った房に通されたわたくしは、女房たちによって粗末な衣から華美な装いに変えられた。
 衣と襦(したも)の上に、背子(からぎぬ)と裙(も)、領巾(ひれ)を身に着ける。
 今までしたことのない化粧――脂粉を叩き紅をひき、花子(かし)を挿す。
 無造作に束ねるだけだった髪を一髻(いっけい)にして、櫛と釵子(さいし)を飾った。
 それは、高貴な人に媚びる妃としての――『男のもちものである女』としての装いである。わたくしは自身が、己(おの)がこころにそぐわぬものになってしまったことに、密かに哀しんだ。

 皇太弟さまが今宵参られるとのことなので、何もすることもなく、わたくしは夜を待つ。
 あたりが完全に暗くなり、燈台に火が入った頃、待ちきれないという表情の皇太弟さまが通ってこられた。

「厳子……! やっと、来てくれたか」

 わたくしは手を付いて、皇太弟さまを迎え入れる。

「これも、わたくしの修行……如意輪さまのご意志なのだと思います。ならば、わたくしは逆らうことなぞ、出来ませぬ」
「厳子……」

 皇太弟さまはわたくしの硬い面差しに寂しげな声を洩らされる。
 が、やおらわたくしを抱え上げられると、女房が開けた襖の奥にわたくしを運ばれた。そこには寝台の支度がされてあり、わたくしはその上にゆっくりと横たえられた。

「厳子……そなたを大切にすると、誓う。わたしのもとに来てくれて、嬉しく思うぞ……」

 控えていた女房が幾重にも几帳で空間を遮り、薄い明かりだけが隙間から差し込んでくる。
 が、近づいてくる皇太弟さまの肩に遮られ、わたくしの視界は闇に覆われた。

 わたくしはこの夜、初めて女子の道を知った。
 それは悲しく、切ない一時であった。





 皇太弟さまの後宮に入ったわたくしは、故郷の御社(みやしろ)の名を取って「真井御前(まないごぜん)」と呼ばれるようになった。
 東宮に入って間もなく、突然のわたくしの入内に戸惑った家族が、まごつきながらも調度類や侍女たちを後宮に送り込んできた。
 皇太弟さまのご寵愛は厚く、夜毎絶えることなくわたくしを訪なわれる。
 幾度か夜を重ねたが、わたくしは男女の交わりに慣れることが出来ず、閨の行いが終わるまで死んだように横たわるだけだった。
 心ならずも来てしまった後宮。わたくしにとってそこは異質な場所であり、その空気に馴染むことが出来ない。ひたすら、如意輪さまに仕えていた頃が懐かしい。――空海さまが、恋しい。

 ある日、側仕えになると立候補してきた女房二人が、わたくしに目通りしてきた。

「わたくしは和気真綱の娘・朋子と申します。
 これは、わたくしの異母妹・比那子。ともに、父に願い出て真井御前さまにお仕えするため参りました。以後よろしゅうお願いいたします」

 わたくしは才気煥発な姉・朋子と人見知りがありもじもじとする妹・比那子を翳(さしば)を通して見比べる。
 彼女たちとは面識なく、どうしてわたくしに仕えようと思ったのか、理解できない。
 が、今わたくしに直接の女房はおらず、渡りに船であった。

「そうですか、よろしくお願いいたします」

 わたくしの言葉に、姉妹は目を見交わして微笑んだ。
 他の女房が下がって人が疎らになったとき、そうだ、と朋子が持参した大きな筥をわたくしの目の前に据え、蓋を開けた。

「……これは……!」

 そこにあるのは――空海さまが下さった如意輪さまの像だった。
 それだけではない、あの方が手づから書写してくださった経本もある。

「そなた、これをどこで……」

 わたくしは愕きに姉妹を見比べる。
 微笑んで、朋子がわたくしのもとににじり寄り、耳元に囁いた。

「実は、わたくしは空海の妹の娘でございます。わたくしの母は父・真綱の侍女として仕えておりましたが、慈しみを受けわたくしを生みました。
 叔父がお妃さまが心配だ、どうかいつも側に居てあげてほしいと、わたくしと妹に頼み込んだのです。そして、これを届けてほしいと……」

 わたくしは如意輪さまの像を取り上げ、胸に抱き泣き咽んだ。

「あと、これを……」

 朋子が筥の底に隠してあった文をわたくしに差し出してくる。
 わたくしは震える手で書簡を開き、目を通す。

 ――巫女も仏弟子も妃もすべて同じである。その身のままにして、あなたは如意輪観音の、弁才天女の化身。そして、大日如来の本体である。
 思うように、願うように為せばよい。
 後宮にある間も、如意輪観音と弁才天女の慈悲のこころを忘れずに。
 あなたは如意輪観音となって、弁才天女となって、皇太弟を愛されればよい――

「空海さま……」

 わたくしは空海さまの情けに、涙を零した。
 仏の弟子同士、たとえ想いを通ずることができなくとも、あの方のおこころがここにあるだけで……それだけでいい。

 わたくしは例え離れていても、希望を持ち続けていられると、こころに光を感じた。
 





運命の誘い(3)へつづく
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