(2)



 宮廷から退いたオレが出向いたのは、四兄・高長恭(こうちょうきょう)の第だった。
 普通、貴人と会うときは、先に連絡を入れてから第に行くのが常道になっている。
 が、四兄はオレが勝手に第に入り込んでも、文句を言わない。いきなり顔を見せても、驚きもしない。
 オレはその時四兄が何を思っているのか、考えたこともないけど。
 今日も説明無しに第のなかを通り、中庭の岩のうえに座り込んだ。
 四兄の第の中は静かだ。それが心地がいい。
 変な話だけど、オレがひとりになりたくて入り込んでも、誰も詮索しない。何か話したいときはオレのほうから話し掛けにいくことが多い。
 四兄の第に忍び込んで人気のない場所に居るときは、オレを見かけても誰も話し掛けてこなかった。
 それは多分、四兄自身ひとに関心がないことの現れで、四兄に仕えている者にしても、オレ自ら話し掛けてこないときは進んで話し掛けなくてもいいと思っているのかもしれない。
 この半年間、翠璋(すいしょう)に相手にされなくて悄気(しょげ)ていたとき、こうやって四兄の第に潜り込んでいたが、みなオレを放置していた。
 十ヵ月前に四兄が拾った楽師たち――それも特にうるさいオレと同い年の娘(こ)も、不自然なほどに干渉してこない。
 だから、オレは好きなように感傷に浸っていられた。
 ――でも、今日に限って、そうじゃなかった。


「わッ!!」


 背後から耳がつんざくほど叫ばれて、オレは飛び上がった。

「な、な、何だよぉっ!」

 振り向くと、いつもうるさい娘――杜蘭香(とらんこう)が目をきらきらさせてオレを伺っていた。

「あはは〜〜びっくりした?」

 無神経にもきゃらきゃら笑う蘭香に、オレはぶすっとむくれた。

「見て解るだろ? オレ今機嫌悪いんだよ。
 頼むからほっといて」

 そう言って背を向けるが、彼女はなおも食い付いてくる。

「うっそだ〜〜! 機嫌悪いんじゃなくて、失恋してしょぼくれているだけなのに〜〜!
 格好わる〜〜い!」

 蘭香はきゃははは! と馬鹿笑いする。それが、猛烈に腹立たしい。

 ――こ、こ、こいつ、何が可笑しいんだよ! 格好悪いって、どういう神経してそんなこと言えるんだよ!
 それに、何で失恋したって解るんだ!?

 オレは真正面に向き直り、蘭香を睨み付ける。が、彼女はまったく怯まない。

「失恋してしょぼくれて格好悪いとか、変な言い掛かりつけんなよ!
 おまえこそ振り向いてもらえないくせに!」

 悔しくなり、オレは言い返す。
 実は蘭香は四兄に片思いしている。周の将軍に付け狙われているこいつをひょんなことから助けたのが四兄で、それだからか、蘭香は恩人である四兄に惚れている。
 四兄は大の女嫌いの超鈍感で、こいつの恋が実ることはないだろうけど。――ざまぁみろっ。
 今度は蘭香がむっとする番なのか、ふくれっ面で口を開いた。

「あたしのことはどうだっていいのよ!
 この半年ずーっと想ってきたのに、諦めちゃうんだ。
 そのほうが、壮絶に格好悪ぅーい」

 そう言って、蘭香はぷいっと顔を反らす。
 こいつ、ひとの恋路に構ってる場合かよ、自分はどうなんだ、とちょろっと頭を掠めたが、それよりも頭がカッカして言い訳することしか出来なかった。

「――仕方ないだろ。主上がオレと翠璋の縁談を進めようとしたんだから。
 オレは無理矢理翠璋を嫁さんにしたくないんだ」

 そう言って、オレは頭をぐしゃっと掻き毟り、岩の上にどさりと腰を下ろす。
 ふうん、と背後の蘭香が呟いた。

「――彼女のために諦めたんだ。
 デブなのに、男前な行動するのね。ちょっと見直しちゃった」
「デブは余計だっ!」

 隣に座った蘭香に、オレは叫ぶ。
 誉めてるのか貶してるのか、どっちだよ、まったく。
 まぁ、男前なんて言ってもらったのは初めてで、本当は少し嬉しかったけど。
 蘭香は子供にするみたいに、オレの頭をぽんぽん叩いた。

「男を見せるためには仕方ないよね。――大好きな女の子を護るために自分の恋を捨てるなんて、なかなか出来ないことだよ」
「あ、あぁ」

 ――何だ? 急に誉め殺ししやがって、気持ち悪い。
 オレは訝しんだ。
 胡乱げに見るオレを尻目に、蘭香は回廊に向け声を上げた。

「――ということで、全部話を聞いていたんでしょ? 長恭さま。
 そんなとこで聞き耳立ててないで、誰かにお酒を持ってこさせてよ。
 あたし、今夜は延宗(えんそう)くんのヤケ酒に付き合うんだから」
「人聞きの悪いことを言うな!」

 ――な、何だってぇ?? 四兄が立ち聞きしていた??
 目を丸くするオレの前に、ばつの悪そうな顔をした四兄と、四兄の乳兄である平掩(へいえん)が照れ笑いして出てきた。

「ただ今、酒を持ってきます〜〜」

 平掩はそそくさと奥向きに向かっていく。
 四兄は中庭に降りてくると、腕組みして蘭香に言った。

「わたしは別に盗み聞きしていたわけではないぞ。
 延宗の様子を見るのと、おまえが失敗しないか見守っていただけだ」
「まったく信用ないのね! 失敗なんてしないわよ!」

 蘭香は立ち上がり、四兄の前に立った。
 そんな彼女の腕を引き、四兄はオレから少し離れたところで彼女の耳に囁きかける。蘭香は四兄の顔を見ると、真顔で頷いた。
 オレは身を乗り出してふたりの様子を見ていた。

 ――あのふたり、前は顔突き合わせる度、睨み合い火花散らしていたんだけどなぁ。いつのまにあんなに仲良くなったんだ?

 蘭香は四兄に片思いしてるけど、何故か顔を合わせると激しく喧嘩する間柄だった。
 普段感情を見せない四兄も、蘭香には怒りをむき出しにしていて奇妙だった。
 変な関係のふたりだなぁ、とオレは思う。
 前はそんなふたりを面白がって見ていたけれど、オレ自身が翠璋への恋に捕われ、ふたりを観察するどころではなくなった。
 だから、ふたりの間の空気が軟化――いや、むしろ壁がないくらい和らいでいることに、オレは違和感をばしばし感じていた。
 少しの間話し込んでいた四兄と蘭香だが、お互い頷き合ったあとオレのもとに戻ってきた。

「わたしも、今宵はおまえのヤケ酒に付き合う」

 無表情でそう言いオレの隣に座る四兄に、蘭香は柳眉を上げる。

「あたしひとりで大丈夫よ。
 今夜は楽師として延宗くんを楽しませるから」

 懐から笛子の入った袋を取り出す蘭香に、四兄は言いだす。

「おまえに任すと、不始末をしそうだ。
 何も好きこのんで付き合うわけではない。おまえを見張るためだ」
「何よ! それどういう意味?!」

 仏頂面の四兄と睨み合う蘭香に、オレは呆れた。

 ――をいをい四兄、オレを慰めるためここに居るんじゃないのかよ。蘭香も、傷心のオレを差し置いて四兄と喧嘩するか?

 やっぱりこのふたりの関係はあまり変わってない、とオレは改めて思った。
 そんなとき、四兄の側近である尉相願(いそうがん)が、そっと四兄のもとに近寄ってきた。

「お待ちのお客人がお見えになりました」

 そうか、と呟き、四兄は尉相願と客人を迎えるため回廊に向かった。
 オレの前に立つ蘭香が、袋から笛子を出して聞いてくる。

「ねぇねぇ、何が聴きたい?」
「何でもいいよ」

 正直、オレは楽曲を聴くのは好きだけど、音楽に詳しくない。
 それに、蘭香は明るく振る舞ってくれるけど、心情的には音楽などどうでもいい、と思っていた。

「そんなこと言わないで、あなただけじゃなく、彼女にも聴かせてあげたいもの」

 ――え……?

 彼女、という蘭香の言葉に、オレは蘭香の目線を追い、立ち上がる。


「……翠璋……」


 四兄に先導されて、オレが拾った子犬を抱えた翠璋がこちらに近づいてきた。
 その背後には、どういう訳か三兄・孝琬(こうえん)がいる。

「翠璋……殿、どうして……?
 それに、三兄も……」

 呆然と呟くオレに、俯きがちに翠璋が言った。

「河間王さまが、わたくしにご事情を説明してくださったのです……」

 咄嗟に三兄を見ると、ふん、と鼻を鳴らして三兄が語りだした。

「おまえがわたしの前から逃げ出してからも、わたしは宮廷に居たのだ。
 あれだけ声高に言ってやったのだ、叔父上もおまえの事情に気付くだろうと思ってな。
 おまえが叔父上の申し出をはねつけたと聞き、その足で李騫(りけん)の第に赴いたのだ。
 息女を重んじたおまえのこころを伝え、宋氏から息女がおまえに嫁すことの許可を得た」
「三兄……」

 何だよ、それ……。
 それって、主上に噂が届くように、わざとオレを痛め付けるようなことを言ったってこと?

 ――三兄、策士だよ……。

 オレは苦笑いして翠璋を見る。
 主上や三兄はオレを思いやって動いてくれた。でも、翠璋の母上が許してくれても、翠璋自身の意思で嫁ぐことを決めてくれなきゃ、やはり、オレは翠璋と結婚できない。

 ――だから、翠璋にすべてを託す。

 翠璋は眼を潤ませていた。

「翠璋殿の母上は許してくれたけれど、オレは翠璋殿の意思を尊重したいんだ。
 翠璋殿が嫌なら、断ってくれて……」
「いいえ……いいえ!」

 オレは目を見開く。
 はっきりとした、翠璋の言葉。――初めて聞いた彼女の強い声。

「延宗さまは……わたくしがどんなにつれなく振る舞っても、ずっと諦めずに接してくださいました。
 本当は嬉しかったのに、意地悪してお会いしなかったから……お会わせする顔がなかったのです。
 でも……延宗さまは、主上の主命に頼ることなく、あくまでわたくしのこころを重んじてくださった。
 だから……今度はわたくしが、延宗さまにお応えする番です」

 しゃくりあげながら、翠璋はオレに近づいてきた。
 そして、オレに腕のなかの子犬を見せる。
 わん! と元気よく子犬が鳴いた。

「延宗さま……この子犬を、延宗さまのおこころとともに、わたくしに下さいませ」

 オレは翠璋の手から、暖かい温もりを受け取る。
 何度も、何度も捧げようとして、受け取ってもらえなかった贈り物。
 ――今度こそ、受け取ってもらえるんだ。
 じわり、とオレの目から涙が滲んできた。

「翠璋殿……受け取って、ください」

 おずおずと、子犬を翠璋に差し出す。
 そっと、オレの手に添えられる細い指。
 伏せていた目を上げると、目元を染めてはにかんで微笑む翠璋が間近にいた。


「……喜んで」


 オレは、そのまま翠璋を抱き締めた。
 か細い身体を腕に包み込むと、翠璋に抱き抱えられている子犬がきゃんきゃんと吠えた。

「翠璋殿ぉ〜〜…」

 オレは皆の見ている前でむせび泣いた。
 恥ずかしいことなのに、気にならなかった。……みな、オレを暖かく見てくれていると、肌で感じるから。
 オレの腕のなかで、翠璋も泣いている。そんな彼女が、とても愛しい。

「男泣きも、悪くないもんだなぁ」

 不意に前方から声が聞こえ、オレは顔をあげる。

「確かに、努力のあとの涙は、見苦しくはない。むしろ、見栄えするものですねぇ」

 この、ふたつの声は……。

「長兄、次兄!?」
「おぅ、そうよ」

 そう言って、長兄・孝瑜がにっと笑った。

「君と孝琬、そして翠璋殿がここに居ると、長恭が知らせてくれたのだよ」

 次兄・孝珩(こうこう)の言葉に、オレは四兄を見る。四兄は肩を窄めた。

「おまえが深刻な顔をしてこの第に入り込んでいることは、半年前から知っていた。
 だが、事情を知らぬのは居心地が悪い。
 だから、早い時期に長兄からおまえの事情を教えてもらっていたのだ」

 四兄の言葉に、長兄が相槌を打った。

「おまえ、本当に落ち込んでいるときは、俺や孝珩のもとに行かず、専ら長恭のもとに行くからな。
 だから、おまえが来ても放置してもらえるよう、長恭にも事情を説明しておいた」

 ぽかん、と兄達を見るオレに、次兄が微笑む。

「延宗は知らなかっただろうが、長兄とわたしと長恭は連絡を取り合って君の様子を見ていたんだよ。
 まさか、孝琬が決めの一手を打つとは思わなかったが」

 次兄に言われ、三兄は在らぬ方を見る。気のせいか、三兄のほっぺたが少し赤く見える。

「庶弟とはいえ、延宗は我が弟。
 文襄皇帝の皇子が恋に破れるなど、みっともなくて仕方がない。
 誰かが一肌脱がねば恋を成就させられぬとは、情けないことだ」
「また、孝琬は減らず口ばかり言う。少しは素直になったらいいのにねぇ。
 これは、長恭もだけれど」

 飄々とした口調で次兄に思わぬことを言われ、三兄と四兄は目に見えてたじろいだ。

「だ、だれが! 文襄皇帝の皇子の名誉に掛けて……!」
「どうして、わたしにまで振るのですか!」

 三兄と四兄が口を揃えて反論する。

「ふたりとも、延宗の恋路を見て見ぬ振りをして。
 孝琬は士隆(しりゅう)を通じて芙蓉に探りを入れ、長恭は興味がないという素振りで真剣に聞いてくる。
 その証拠に孝琬は宋夫人を説得しに行き、長恭は孝琬と連絡をし合って、蘭香を嗾(けしか)け延宗を励し、場を繋ごうとした。
 ふたりとも、口振りは突っ張っているが、態度が見え見えだよ」

 ぐっと、ふたりの兄が詰まった。
 三兄と四兄は同い年で、仲はあまりよくないが、変な話性格がよく似ている。三兄は人を見下す態度で、四兄は人に興味がないという態度で人を寄せ付けない。
 が、次兄の言うとおりなら、本当はふたりとも人に対して興味津々なのかもしれない。
 にしても、いつの間に三兄と四兄は仲が良くなったんだ? ふたりで連携してオレの恋を成り立たせようとするとは。
 それは、長兄も同感だったらしい。

「孝琬、おまえ延宗を苛めるつもりであんなことを言ったわけじゃないのか?
 それに孝珩、長恭と孝琬が手を結んでいたことを知っていて、俺に黙っていたのか?」

 問い詰める長兄に、次兄はしれっと言ってのけた。

「いえ兄上、何となくですよ」
「何となくとは……おまえ、変に鼻が効くなぁ」

 それはどうも、とにこにこ笑って次兄は言う。
 ――次兄……天才というか、変というか……只者じゃないなぁ。
 オレがそう思って兄達の遣り取りを見ていたとき、腕の中の翠璋がくすくす笑い出した。

「延宗さまはいい兄上さま達をお持ちなのですね。
 わたくし、兄上さま達の義妹になれて、幸せです」

 翠璋の言葉に、兄達は顔を見合わせ、微笑んだ。
 本当に、オレはいい兄達を持ったなぁ、とこころから思う。
 人は見かけだけじゃ解らない。素振りがどうであれ、中は優しかったりするんだ。つくづくオレはそう思い知った。

「兄上……本当に、ありがとう」 

 頭を下げたオレに、第の主である四兄がぐるりと周りを見渡した。

「どうです、折角兄弟が揃ったのだから、このまま酒宴をいたしませんか。
 今、平掩に上等の酒を買わせに行かせ、厨房で酒肴の用意をさせています」

 四兄の提案ににっかり笑うと、長兄は背後から酒の入った瓶を取り出した。

「最初からそう思って、酒を持ってきていたぞ」

 見せびらかすように酒を突き出す長兄に、奇遇ですねぇ、と次兄が同じく酒の瓶を持ち出した。

「延宗の婚約が整ったのだから、祝い酒を交わしたいと思い、わたしも持ってきていたのですよ」
「あ、おまえも同じこと考えたのか、やっぱり兄弟だなぁ!」

 笑いあう長兄と次兄の後方から、誰かが走りこんでくる。
 見ると、三兄の側仕えをしている高士隆が、酒瓶を抱えて三兄のもとに辿り着いた。
 抜群な時宜に、三兄は目をうろうろさせていた。

「王、頼まれたものをお持ちしました」
「……うむ、ご苦労」

 照れつつそれだけ言って、三兄は酒瓶を受け取る。

「何だ、おまえもか。長恭も酒を買わせに行かせているようだし、みな考える事は同じだなぁ」

 豪快に笑う長兄に、三兄と四兄は困ったような顔をした。
 四兄の隣に居た蘭香が、手を打った。

「じゃあ、あたしは菻静(りんせい)姉さんや茅鴛(ちえん)たちを呼んでくるわね!
 孝珩さまも、何か演奏してくださいな」
「それはいいね、わたしも加わろう」

 蘭香が楽師の仲間を呼ぶために走っていったのと同時に、酒を買い付けてきた平掩が戻ってきた。
 オレは慌しくなった中庭の中央に押しやられながら、一緒に歩く翠璋と目を見合わせ、笑いあった。


 この晩、四兄の第でオレ達兄弟は酒を酌み交わし、夜更かしをした。
 結婚前に男と一夜を過ごすわけにはいかない翠璋を李氏の第に送るため、オレは宴席から中座した。
 車を出して李氏の第に辿り着いたとき、オレは車から降りる翠璋の手を取って語りかけた。

「……あのさ、結婚するといっても、翠璋殿はまだ幼いからさ……あと半年待つよ。
 半年経ったら、翠璋殿も十三歳で、結婚しても問題ないしさ」

 オレの申し出に、翠璋は頬を染めて頷く。

「はい……延宗さまのもとにお嫁入りする日を、楽しみにしています」

 オレは翠璋に抱かれた子犬の頭を撫でる。

「おまえ、翠璋殿がオレのもとに来るまで、オレの代わりになって翠璋殿を護れよ」

 儚げで優しい翠璋が毎日笑っていられるように――。
 オレの言葉が解ったのか解っていないのか、子犬は一声吠えた。
 翠璋が門の向こうに消えるのを見届け、オレは四兄の宴席に帰った。




 約束どおり、この年の秋に李翠璋はオレのもとに嫁いできた。
 同年冬、オレの育ての親である主上――文宣皇帝・高洋(ぶんせんこうてい・こうよう)が急逝され、オレの運命に翳りが出てきた。
 文宣皇帝の死後皇位に即いたのは、従弟である文宣皇帝の嫡子・殷(いん)――李皇后さまの皇子だった。
 が、新皇帝は漢人ばかりを重んじ、軍人を省みず、オレの叔父である常山王・高演(じょうざんおう・こうえん)や長廣王・高湛(ちょうこうおう・こうたん)を疎んじ辺境の地に飛ばそうとした。
 それがお祖母さま――婁太皇太后(ろうたいこうたいごう)さまの怒りに触れた。新帝の近くにいた漢人貴族は粛清され、新帝・殷を廃して常山王演が即位した。
 叔父が皇帝になってから、次兄・孝珩が廣寧王(こうねいおう)に、四兄・長恭が蘭陵王(らんりょうおう)に封じられた。
 が、オレは文宣皇帝在世中の頃ほど自由に動く事が出来なくなった。
 それでも運命の皮肉か、孝昭皇帝(こうしょうこうてい)・高演は早くに亡くなり、もう一人の叔父・高湛が即位する。
 叔父・武成皇帝(ぶせいこうてい)は商人出身のおべっか使いを可愛がって政務を疎かにし、あまつの果てにまだ幼い従弟・高緯(こうい)を位に即けた。



 そして、今――。
 国政の失策により弱体化した斉は敵国・周に攻められ、絶体絶命の状態にある。
 長兄・河南王孝瑜と三兄・河間王孝琬、そして四兄・蘭陵王長恭は非業の死を遂げ、文襄皇帝の皇子たちのなかでは、次兄・廣寧王孝珩とオレ、そしてあの日の宴席には幼くてまだ出席出来なかった弟・漁陽王紹信(ぎょようおう・しょうしん)しか残っていない。
 斉の軍人や皇族のなかでも、周と戦おうという意気のある者は僅かばかり。周と戦う決意をした者のなかには、次兄・孝珩もいる。

 ――翠璋、待ってろよ。絶対に斉を周に明け渡さないからな。
 必ず、おまえのもとに帰ってくるから――。


 オレのこころにはそれしかない。
 絶対に翠璋のもとに帰るとこころに誓って、今オレは無謀ともいえる周との戦いに打って出る。



――了――



蘭陵王
トップ