(1)



 オレは翠璋(すいしょう)から気持ちを聞き出そうと、雨の振るなか、李騫(りけん)の第に向かった。
 今日も、会えないに決まってる。また、門前払いを食らうと予想できる。
 ――でも、行かずにはいられないんだ。
 こういうのって、衝動っていうんだろうか。どうしてもひとつのものしか見えず、それが頭のなかをぐるぐる廻って、動かずにはいられない。
 我ながらバカだなぁ、って思うんだ。これだけ会うのを拒まれて、声の一つも聞かせてもらえなくて。――多分、嫌われてるのに。
 でも、会いたい気持ちばかりなんだから、どうしようもない。
 半年以上毎日翠璋のもとに通ってるから、何の花をあげたらいいのか、解らなくなってきた。この前はあじさいをあげた。橙果(とうか)を育てている家があったから、失敬して花の咲いている枝を盗んだりした。
 今日は何をあげようか……と輿に乗りながら考えているとき、外から「きゅ〜〜ん」という鳴き声が聞こえた。
 覗いてみると、柳の木の下に汚い子犬がいた。親と離れたのか、飼われていた家から逃げ出したのか、泥水にぐっしょり濡れていた。

 ――まだ子犬だし、食える部分ないなぁ。

 と見ているオレと、子犬の黒く円らな目が合う。
 立ち上がると、とてとてと子犬はオレのもとに寄ってきた。

「寄るな、シッシッ」

 守衛の者が足下にして追い払おうとする。押されて一歩下がるが、それでも子犬はオレの近くに来ようとする。

「うぬ、しつこいぞ!」

 執拗な子犬に、守衛は腰に挿していた刀で斬ろうと構える。
 オレは、自分はこういうことするヤツじゃないから、このとき取った行動の訳が分からない。が、何故かそうしてしまったんだ。
 窓から顔を出し、守衛に声を掛ける。

「まてよ、こっちに寄越せよ」

 え、と守衛は顔を上げる。

「ですが……」
「いいから、早く。連れて帰る」

 困惑した顔で、守衛は窓から手を差し伸ばしたオレに子犬を手渡した。
 子犬はオレの膝に乗り、顔をべろべろ舐める。

「わっ、くすぐったいな……」

 こんな汚れた子犬を連れて翠璋の所に行ける訳などなく、オレは自分の第に帰った。
 出てからそんなに時間の経っていないオレが帰還したので、侍女や家司は慌てた。

「これ、洗って」

 当惑する侍女に子犬を手渡すと、オレはじゃれられて汚れた胡服を着替えた。
 暫らくした後、湯に入れられて綺麗になった犬が、首に飾り紐を巻いてもらって侍女に連れてこられた。

「可愛いお犬さまですね。お飼いになるのですか?」

 侍女から子犬を受け取り、しっぽをぱたぱた振る犬を抱き締める。

「ん――…、まだ、解らない」

 ちょっとした気紛れで連れて帰ってきてしまったのだ。これからどうするのかと言われても、何も考えてなかった。
 洗ってみたら案外悪くない姿なので、こいつを翠璋に贈ろうかな、とか思ったけど、蛙の失敗があるから止めた。
 取り敢えず、時間が遅くなったから、今日は翠璋の所に行けないな……。子犬をあやしながら、オレは初めて翠璋のもとに日参するのをサボることに決めた。


 オレの第に連れてこられたのが余程嬉しかったのか、子犬はオレがどこ行くのにも付いてまわった。ぱたぱた走り回り、オレの足に飛び付いた。
 やっぱり懐かれると、こっちも愛着が湧くんだろうな。最初は追い払ったりしていたオレだけど、何度も体当たりしてくる子犬に根負けして、一日の終わりには子犬を自分の寝台のなかに入れて寝た。
 何だか、こいつとオレは似てるような気がするんだ。――どんなに邪険にされても諦めれず、翠璋に縋ろうとするところが。




 次の日、仕切り直しすることにして、現在第でも見頃な立葵の花を手折って持参することにした。
 オレが輿に乗ろうとしたとき、

「きゃあぁっ、なりませんわ!」

 という侍女の叫び声が聞こえた。
 ん? と足元を見ると、ぴょん、と子犬が輿に飛び乗った。

「おいおい、ダメだろう」

 そう言って降ろしたのだが、何度も子犬は輿に飛び乗り、一緒に行こうとする。
 仕方なく、侍女に子犬を押さえさせ、オレは輿に乗り出させた。
 が、第から離れて街中に差し掛かった時、守衛の

「こらッ、帰れ!」

 という叱り声が聞こえ、オレは窓から身を乗り出した。
 ――子犬が、そこに居た。
 かなり第から遠いというのに、こいつはここまで走ってきたのか――オレは唖然と子犬を見ていた。

「すいません、今、第に連れ帰りますので――」

 子犬の首根っこを掴んだ守衛がそう言う。が、オレは首を振った。

「いいよ、仕方がないから連れてく」

 子犬を輿の中に入れ、オレは一緒に翠璋のもとに行くことにした。
 輿に揺られている間、子犬はオレの膝のうえで窓の外の景色を見ていた。いつもの目線の高さとは違う物に、驚いているのかもしれない。

「おまえ、着いたらおとなしくするんだぞ」

 子犬を自分の目線の高さに上げ、言い聞かせる。解っているのかいないのか、きゃん、と子犬は吠えた。
 李騫の第に到着し、オレは取り次ぎの侍女を待つ。「しばらくお待ちください」と下がった侍女に、オレの立葵を握った手が震えた。子犬は動かず、オレの足元にいる。
 戻ってきた侍女の反応は、予想どおりだった。

「姫さまは昨夜から頭痛がすると仰られ、寝込んでいらっしゃいます」

 そ、そう、と言い、オレは立葵を侍女に手渡す。そして、ずっと聞きたかったことを口にした。

「あ、あの……。
 一言だけ、今聞かせてほしいんだ。
 オレのこと、好きなのか、……嫌いなのか。
 嫌いならもうここに来ないから……今、答えてほしいって、言ってほしい」

 オレの言付けに、侍女は怪訝な顔をして奥に入った。
 暫らくの、間。オレは俯いたまま翠璋の返事を待つ。子犬がきゅぅん、と鳴いた。
 やがて、侍女が戻って来て、翠璋の言葉を聞かせた。

「姫さまは、あなた様のことは何とも思っておりませぬ、とおっしゃいました」

 オレは目を見開く。

 ――オレのことを、何とも思っていない。

 それは、どういう意味だろう。
 まったく眼中にないってことだろうか。気にもされていない、ということだろうか。
 どちらにしても、あまりいい結果ではない。こんなに長く通っても……翠璋のこころに、オレは届かなかったということだ。ある意味、絶望的だ。

 ――これって、嫌われてるほうが、ましってことだよなぁ。嫌われてるってことは、あまりいいことじゃないけど、相手の中に入り込めてるってことだもん。
 オレは――翠璋のこころの中に、入り込めなかった。

 オレは震えながらも侍女に頭を下げ、泣くのを堪えながら言った。

「……解りました……もう迷惑は掛けませんって、伝えて下さい……っ」

 そのままオレはきびすを反し、直ぐ様輿に乗った。出す準備をしていなかった奴や守衛に構わず、オレは強引に輿を出させた。


 その時オレは気付いていなかった――子犬を連れて戻っていないということを。
 第に戻ってそれを知ったオレは、子犬を連れ戻しにいこうとして、止めた。
 どうにも、会わせる顔がなかったのだ。宋夫人にも第の者にも――翠璋にも。
 オレは大事なものを一気に無くした。寂しいこころを慰めてくれた子犬と、初恋の女人(ひと)を。
 その夜、オレは夜通し号泣した。




「何とも思っていない、と言われた……?」

 オレを勇気付けてくれた次兄・孝珩(こうこう)に、オレはことの顛末を報告しに行った。

「うん、物の見事に玉砕しちゃったよ」

 あはは、と空笑いするオレを、次兄は顎に手を当てながらじっと見ている。
 やがて、ふぅ、と息を吐いて、次兄は腕組みした。

「……逃げられたな。それは」
「え?」

 思いもよらない次兄の言葉に、オレは聞き返す。
 梅を氷砂糖と水で漬けこんだ飲み物を持って現われた芙蓉も、眉根を寄せていた。

「……延宗(えんそう)さま。いいように誤魔化されたのかもしれませんわ」

 卓子に飲み物を置き、芙蓉は切り込んできた。

「それは、答えを出せないときの常套句のようなものです。
 そのお言葉では、姫さまのおこころは見えませんわ」

 芙蓉の言葉に、次兄は頷く。

「で……君は、どうする?」
「どうって……」

 真直ぐ見据えてくる次兄から目を反らし、オレは黙り込んだ。
 まだ本当の気持ちを聞けていないとして、再び行っては追い返される日々を繰り返すのか。正直オレは疲れていたし、これ以上傷つきたくなかった。
 オレはにっこり笑って言う。

「もういいんだ。翠璋のことはきっぱり諦める。
 主上にでも嫁さんをあてがってもらって、早く翠璋のこと忘れるようにするよ」

 空元気でそう告げたオレに、次兄たちは二の句を告げられないようだった。
 オレは次兄の第から帰るとき、明日にでも主上に妻になる女性を探してもらうよう頼もうと、こころに決めた。




 オレは昨日決めたことを実行に移そうと参内した。
 そこでふと、違和感を覚える。――何だか、妙に見られているような気がする。見られているだけでなく、皆顔を見合わせ、ひそひそと話している。
 オレは居辛さに、さっさと主上の前に行こうと足を速めた。
 その時――――。

「おまえ、失恋したんだってな?」

 聞き覚えのある嫌な声に、オレは声のした方向を見た。

「三兄……」

 腕を組み傲然とオレを見つめる三兄・河間王孝琬(かけんおうこうえん)が、唇を釣り上げ笑った。
 オレは、三兄が苦手だった。
 この兄は他の兄とは違い、父の正妻腹の嫡子で、魏の皇帝の姉を母に持っている。ある意味、誰よりも混じり気のない、高貴な血の持ち主である。本人もそれをよく解っていて、鼻に引っ掛けてもいた。
 この兄と会うとき、一番気を使う。こっちも気を抜いていられないからだ。が、今のオレはぼろぼろで、三兄の舌鋒に耐えうる精神を持っていなかった。
 三兄は大音声で話しだす。

「庶子とはいえ文襄皇帝(ぶんじょうこうてい)の皇子が、みっともなくも市で花を物色し、李騫の第の前で立往生していたとは。
 その上、それを半年以上も続けていたとは情けない。
 我ら文襄皇帝の皇子の面汚しだな、おまえは。
 よくもまぁ、恥ずかしげもなく、のこのこと此処に来れたな」

 三兄の言葉に、はっきりと血の気が引くのが解った。文襄皇帝の皇子の面汚し――その台詞が、心臓に突き刺さる。
 オレはそこに居られなかった。はじめの目的も忘れ、オレは朝廷から走って逃げた。




「あのヤロウ、そんなこと言いやがったのか!」

 オレは何を思ったのか長兄・孝瑜(こうゆ)の第に逃げ込み、事の成り行きを話した。長兄は三兄に対し怒りを露にし、拳を握っている。

「あいつ、ぶん殴ってやる!」
「あ、あなた!」

 立ち上がって今にも飛び出しそうな長兄を、盧妃(ろひ)が押さえていた。
 オレは長兄の怒りを見て、ちょっと嬉しくなった。文襄皇帝の皇子の面汚しと三兄に言われたけれど、長兄はそう思ってない。次兄だって、親身にオレの相談を聞いてくれた――。
 オレはそれを確かめたくて、ここに来たのかもしれない。

 涙を拭いていたその時、オレの第からの使いが長兄のもとにやってきた。




 第から使いがやってきたのは、主上からの直々の招聘があったからだった。オレは主上の前の席につき、頭を下げて拝している。

「面を上げよ」

 主上に命ぜられて顔を上げる。
 今はまったく御酒を含んでおられないようだった。素面の顔で、主上はオレを見つめておられる。

「今日呼んだのは他でもない。そなたに嫁の世話をしようと思ってな」

 オレは目を見開く。オレが今日参内しようとした目的も、それだったからだ。
 渡りに船で、オレは仰せを受ける。

「主上、どの氏族の姫御をわたしの妻にと思し召しなのでしょうか」

 オレの問いに、主上はにやりと笑われた。

「趙郡李氏の者、我が皇后の従妹、李騫の娘・翠璋だ」

 オレは瞠目する。――翠璋を妻に?!

「今日噂で聞いたのだが、そなた、李騫の娘に想いを掛けていたそうではないか。
 何故、朕に言わなんだのだ。
 李騫の第に日参するなど回りくどい事をせずとも、朕に言えばすぐにでも李騫の娘を嫁にしてやることができたのだぞ」

 オレは項垂れて、主上の言を聞く。
 主上はオレを第一に考えてくれる。オレが望めば、何でも叶えてくれる。
 だから、言えなかった。主上を通じて翠璋に求愛すれば、それは即ち、彼女の意思を封じてしまう事になる。
 それでは、意味が無いんだ。翠璋に愛されなければ、翠璋に振り向いてもらわなければ、彼女に苦しみを負わせたまま一生を送らせることになる。
 嫌われているから、余計……そんなことは出来なかった。
 オレは唾を呑み込み、顏を上げる。

「主上、お願いですから、それだけは止めてください。
 権力で姫を娶る事は簡単です。でも、それでは姫のこころは手に入らない。
 彼女とこころを通じ合わせなければ、意味が無いんです」

 主上は信じられない、というように眼を剥く。

「延宗、そなた、それでいいのか?
 朕は可愛い延宗のためなら、何でもしてやりたい。
 そなたの落ち込む顔など見たくはないのだ。その上、噂によりそなたを辱められるのも、耐えられぬ。
 そなたが日々通ってまで欲した姫を、朕の手で添わせてやろうというのに、そなたは何故拒む。
 姫がそなたに振り向かぬからか。
 そのようなもの、結婚すればなんとでもなる。
 よいか、今から宋氏のもとに朕の名で媒を遣わす」
「お待ちくださいッ! それだけは、どうかなさらないでください!」

 血相を変えたオレに、主上は驚いていた。
 普段のオレは主上に従順で、否を唱えるような人間ではなかった。
 だから、主上からすれば、有り得ぬことが起こったということだ。
 ――でも、これだけは、オレも引けない。

「翠璋のこころを踏みにじるのは、止めてください――。
 オレ、翠璋には弱いけど純粋なままでいてほしいんです。オレはそんな翠璋を好きになったんだから。
 オレのせいで、翠璋に苦しみを負わせたくないんです」

 オレの賢しらな意見に、主上の人相が変わっていく。

「延宗……。そなた、朕に意見するか。
 そなたを朕に逆らわせたのは、李騫の娘だな。……許せん!」

 傍らに置いてあった剣を手に立ち上がった主上に、オレは怯みかけた。
 が、怯んじゃいけない。翠璋のこころのなかに入り込むことはできなかったけれど、せめて彼女を護ることはしたい。

「お怒りは、どうかこの延宗に向けてください。
 直接的に主上に逆らったのは、オレです。
 ――斬るなら、オレをお斬りください」

 そう言って、オレは主上の足元に土下座する。
 かたかた、と鞘の鳴る音がした。が、主上が動く気配はない。
 やがて、重い歎息が聞こえ、オレは顏を上げた。

「馬鹿者が……自ら好期を棒に振るとは……。
 よい、下がれ」

 主上に命令され、オレは宮中から下がった。




(3)に続く
蘭陵王
トップ