僕にとって、主・河間王・高孝琬(かけんおう・こうこうえん)さまは誰よりも大事な方に他ならない。
何故なら、孝琬さまは僕に居場所を与えてくださった御方。身の置き場のない僕に生きる意味を教えてくださった御方。
――僕は東魏(とうぎ)に逆らった謀反人の子。
僕・高士隆(こうしりゅう)は漢族の名門・渤海高氏(ぼっかいこうし)の高愼(こうしん)の子として生まれた。母は父の後妻で、名族・趙郡李氏(ちょうぐんりし)の女人・李雪華(りせつか)である。
父は母を娶る前、崔暹(さいせん)殿の妹を妻にしていた。が、離縁して若い母と一緒になった。
それが、父と母の不運の元凶だったのかもしれない。
つややかな美しさを持つ母を、東魏大丞相・渤海王高歓(ぼっかいおうこうかん)さまの世子・高澄(こうちょう)さま――我が主・河間王孝琬さまの父上が見初め、無理矢理挑まれたのだから。
その媒をしたのは、高澄さまに重用されていた崔暹殿である。妹を離縁し若い女に迷った父を、崔暹殿は快く思わなかったのかもしれない。
母が高澄さまに凌辱された事実はすぐ父に伝わり、父は荒れた。父は市井に向け、高澄さまの非行を声高に叫んだ。
それでも、父は母を離縁せず夫として接し、姉・英釵(えいさ)と僕が生まれた。
が、父が高氏に対して怨嗟を持っていることが高歓さまに伝わり、怒りを買った父は北豫州刺史(きたよしゅうしし)に任じられ、虎牢(ころう)にて東魏に反旗を翻した。
その知らせは西魏(せいぎ)に伝わり、西魏大将軍・宇文泰(うぶんたい)が父を京師(みやこ)・長安に迎えるため兵を差し向けた。
父は僕たちより先に西魏に入ることにし、母と姉、そして僕を虎牢城に残したまま西魏に向かった。
それが、父との永別になるとは、あの時思わなかった。
父が離反したと知らせを受けた高歓さまが虎牢に出兵し、僕らは捕らえられたのだから。
僕たち母子と異母兄姉たちは庶人の身分に落とされ、東魏の京師・鄴(ぎょう)に連行された。
この時、僕たちがどう処遇されるのか、高澄さまによって既に決められていたのだ。
僕と姉は人質として身柄を確保され、僕たちを盾に獲られた母は泣く泣く高澄さまの妾となった。
母は高澄さまの別邸に住い、僕たちは高澄さまの母で、高歓さまの妻であるある渤海王妃・婁昭君(ろうしょうくん)さまの監視下に置かれた。
庶人の身分にある僕たちだというのに、婁妃さまは優しく接してくださった。婁妃さまの御子たちや、婁妃さまに託されている高澄さまの御子・孝瑜(こうゆ)さまと特別に親しくさせていただけた。
庶人という立場にありながら、僕たちは恵まれていたといえる。――滅多に母と会えなくても。
まだ幼い姉と僕は、母に会えない理由がどういうものか、この頃知らなかった。言われても理解できるはずもなかった。
が、時折僕たちのもとに顔を見せに訪れた母がぱったり来なくなり、数ヵ月後にやつれて現われたとき、ひどく驚いたことをかすかに覚えている。――後に知ったことだが、母は高澄さまの御子を死産していた。
が、母と会えない年数は束の間のものだった。
高歓さま亡きあと、父上のあとを継いで大丞相となられた高澄さまは、琅邪公主・元玉儀(ろうやこうしゅ・げんぎょくぎ)さまを殊寵されるようになった。
ゆえに、望んで寵姫となっていたわけではない母は、高澄さまと婁太妃さまに願い出て寵姫の身分を解いてもらい、婁太妃さまにお仕えすることとなった。
「やっとあなたたちの傍に居られるようになったわね」
婁太妃さまの第に移ってきた母は、僕たち兄妹を抱きかかえ笑った。
我が母の気性を気に入られた婁太妃さまは、母を片腕として傍に置かれるようになった。
僕たちは母と一緒に居られるようになって幸せだった。
婁太妃さまの側近であることから、必然的に母は婁太妃さまの御子や孝瑜さまと接することが多くなった。
琅邪公主さまを寵愛されるようになってからも、母と高澄さまの繋がりは完全に途切れたわけではない。母の閨に高澄さまが通われるのを、何度か垣間見たことがある。
物心つくようになっていた姉と僕は、高澄さまと母の関係をかすかに察知し、複雑な感情を味わった。
そしてそれは、高澄さまの御子・孝瑜さまも同じだった。
高澄さまと関係を持ちながらも、母の様子は父の妻であった頃と変わらない。高澄さまに縋るでもなく、こころ乱されるわけでもなく、母は婦人としてのたしなみを弁え、貞淑で理知的であった。
だから、婁太妃さまは母を傍に置かれたのかもしれない。
が、東魏が斉に代わる前夜――高澄さまが梁の降人に暗殺されたとき、母は涙を流した。
見ていられなかった姉は、母に問うた。
「お母さまは、大丞相さまをお慕いしていたのですか?」
母は涙がちの目を伏せ、語りだした。
「お慕いしていなかったといえば、嘘になるわ。
……ただ、わたくしにとっては、あなた達のお父さまの方が今でも大事な御方なのよ。
そしてあなた達は、わたくしにとって一番大切なもの。
今は分からなくとも、きっと英釵や士隆にも母の気持ちが分かる日がくるわ」
そう言って、母は僕たちを抱き締めた。
母の気持ちを分かる日がくるのだろうか――僕は形容しがたい思いを抱いて、母の腕のなかにいた。
高澄さまの弟・高洋さまが、東魏皇帝から禅譲を受け即位なされた。これにより、国号は東魏から斉となる。
母や僕たちがお仕えする婁太妃さまは皇帝陛下の御母君となり、婁皇太后さまと名乗られるようになられた。
母は正式に皇太后さま付きの女官となり、李昌儀(りしょうぎ)と呼ばれるようになった。
婁太后さまは宮城より北に位置する宣訓宮(せんくんきゅう)に居を移され、母はそれに従った。
婁太后さまの御子さまたちや、高澄さまの御子である孝瑜さまや孝琬さまは、それぞれ封爵されて独り立ちされた。
姉・英釵は主上の弟君である襄城王淯(じょうじょうおういく)さまとともに襄城王府に移ることになった。
はじめ姉は淯さまの双子の妹君・洸(こう)さまにお仕えしていたが、病弱な洸さまは一年前にお亡くなりになられた。
主を亡くし悲しむ姉を見兼ねた淯さまは、姉に側近く仕えることを命じられた。ゆえに、姉は母君から離れられる淯さまにお供することになった。
そして僕はどうしたわけか、高澄さまの嫡子である河間王孝琬さまにお仕えすることとなった。
不思議に思った僕は婁太后さまに尋ねた。
「あの、どうして河間王さまなのでしょうか」
孝琬さまの兄君である孝瑜さまは、僕が側仕えすることを婁太后さまにお願いしていらした。それなのに、お仕えする先はまったく面識のない孝琬さまなのである。
僕の質問に、婁太后さまは困ったように笑われた。
「孝琬はなかなかの気難し者でな。その上、様々な問題があり、仕えようという者が現われないのだよ。
孝瑜は人当たりがよいゆえ、誰が仕えても大丈夫なのじゃ。
そなたは孝琬と同い年であり、優しい気質をしておる。
そなただけが頼みじゃ。どうか、孝琬に仕えてはくれぬか?」
歩み寄られ手を取られる婁太后さまに、僕はことわることなど出来ない。もとより、謀反人の子である僕がここまでぬくぬくと成長出来たのは、婁太后さまのお陰だった。
僕は頷いた。
「分かりました、僕にどこまでできるかは解りませんが、河間王さまにお仕えします」
僕の応えに、婁太后さまはほっとしたように微笑まれた。
この時僕は知らなかったが、婁太后さまが僕の主を孝瑜さまではなく孝琬さまになされたのには理由があった。
僕が秘された事実に気付くのは、数年経ってからである。
「おまえがお祖母さまから遣わされてきた高士隆か」
尊大な態度で主座につかれた孝琬さまは、僕を見るなりそう言われた。
僕はただ畏まって平伏している。
正直、孝琬さまの威圧感に居たたまれない。
それもそのはず、孝琬さまは魏の皇帝陛下――今は中山郡王に降格されてしまわれた御方の姉君・馮翊公主(ひょうよくこうしゅ)さまを母君に持たれている。
現在公主さまは文襄皇帝(ぶんじょうこうてい)と謚された高澄さまの皇后として、静徳宮(せいとくきゅう)にお住まいでいらっしゃる。
いわば、斉神武皇帝(じんむこうてい)・高歓さまの嫡子である高澄さまと魏の皇帝の姉君との間に生まれた、誰よりも尊貴な血筋の御方であり、自らも高澄さまの正嫡でいらっしゃる。
そのことを自覚していらっしゃるのか、孝琬さまは高い自負心を有していらっしゃるように見えた。
――一点も弛みのない空気が、息苦しい。
「おまえが、神武皇帝に背き、我が父・文襄皇帝を堕しめた高仲密(こうちゅうみつ)の息子か」
びくり、と肩が竦む。
「そして、高仲密に従い離反した挙げ句捕らえられ、父の閨に侍った李昌儀の息子だな。
李昌儀は元玉儀が現われるまで、よく母を苦しめてくれた。その恨み、忘れたことはないぞ」
「も……申し訳ありません」
自分でも、自身の身体が震えているのが解る。
孝琬さまにとって、我が母は孝琬さまの母君の敵なのだ。恨まれても仕方がないのかもしれない。
でも、僕は言わずにはいられなかった。
「は、母上は、僕たちを護るために……そうしたんです」
だめだ、声がわなないている。目の前の御方が怖くて、どうしようもない。
「ほう? おまえの母は、おまえと姉のために不義を冒したのか?」
なぶるように面白がる孝琬さまの声。
「は、はい……」
堅く目を瞑ってひたすら俯く僕の耳に、衣擦れの音が届いた。――孝琬さまの気配が、近づいてくる。
「士隆、わたしはおまえが気に入らぬ。
が、これは皇太后であるお祖母さまの計らいだ。魏の頃はいざしらず、今は逆らうことは出来ぬ。
仕方がないから、おまえを側に置く。
だが――それ相応の態度を取るからな」
凍り付く僕の顎をとり、孝琬さまは僕の顔を上に向かせた。
孝琬さまのお顔は、時折垣間見た高澄さまのお顔と、よく似ていた。美しいが、どこか冷たい容貌だった。
僕は唾を飲み込み、頷いた。
河間王府に入った僕の現状は、孝琬さまの側にお仕えするというより、下働きをしているというほうが正しかった。
奴が行うような薪割りや馬の世話、無くなった物品の買い出しなどを専ら行っている。
孝琬さまのお側にいる機会はほとんどなく、物置に寄居させられている。
これが、李昌儀の息子に対する処遇――孝琬さまの母君から高澄さまの寵愛を奪った女への復讐なのだ。
僕には孝琬さまの気持ちがよく解る。僕も、孝琬さまに対して複雑な感情を抱いているからだ。
孝琬さまの父君は、僕から母を奪ったのだ。父が虎牢で謀反を起こすまで、母は父や僕たちの側にいてくれた。が、父が西魏に向かい僕たちは虎牢で東魏軍に捕らえられ、一家はばらばらになった。
一見同じに見えるが、微細なところで母は変わった。それをもたらしたのが高澄さまだと思うと、憎悪に近いものが湧きだしてくる。
そして孝琬さまも、我が母に憎しみを抱いている。
高澄さまは好色な御方で、母以外に数多の女人と関係を結んでおり、なかには御子を生んだ方もいらっしゃる。孝琬さまにとって、その全てが憎むべき対象なのだ。
最初から、孝琬さまと僕は相容れないものを抱えていた。だから、いらぬ気苦労をしなくていい分、僕には今の距離が心地よかった。
が、その距離感も、妙なところで突き崩された。
何の前触れもなく、突然年老いた女人が河間王府を訪ねてきた。
その女人は孝琬さまの母君・静徳皇后さまの乳母である御方で、御名を馮橦瑳(ふうしゅさ)殿といわれた。大層心配性のようで、橦瑳殿は孝琬さまの様子を見に来られた。
孝琬さまは、いささかげんなりしたように応対されている。
「我が公子さまには、お変わりありませぬか」
拝謁する橦瑳殿に、孝琬さまの一言はつれない。
「変わりはない。分かったなら、すぐ帰れ」
ふい、と顏を背けられた孝琬さまに、必死になって橦瑳殿は縋った。
「そうはまいりませぬ、わたくしは公主さまに公子さまの様子をご報告するために参ったのです。
空手で帰ることなど出来ますか!」
うるさく追いかけてくる乳母殿に、孝琬さまは煩わしそうに言い放った。
「見て解るだろう! わたしは何の変わりもない。
この心配性が、月に一度は顏を見に参りおって、邪魔だ!」
「公子さま!」
家司や侍女、召使や奴婢とともに控えていた僕は、孝琬さまと橦瑳殿の遣り取りを呆然と眺めていた。
橦瑳殿は明らかに孝琬さまを小さな御子のように見ている。子供に心配するように干渉し、いつまでも側に留めて起きたい保護者のようでもあった。一人前の大人として独立した孝琬さまからすれば、橦瑳殿は扱いづらい人物なのだろう。
「本当に、我が公子さまはつれのうございます。
どうか、もっとお母君さまのもとにお顔をお見せになってくださいませ」
「解ったから、とっとと帰れ!」
孝琬さまは逃げるように奥堂に入ろうとなされた。
苦虫を噛み潰したような橦瑳殿が部屋から出ようとすると、蜘蛛の子を散らしたように召使たちは去っていった。皆、橦瑳殿が苦手なのかもしれない。
僕は逃げそこなって、一歩遅れて部屋から出ようとする。そこを橦瑳殿に見咎められた。
僕の顔を見た橦瑳殿のお顔が、みるみる引き攣っていく。
「そなたの顔は……! 高仲密の妻女とよく似ている。
もしや、高仲密の縁者ではないだろうな?!」
胸倉を掴まんばかりに迫ってきた橦瑳殿に、僕は硬直する。
確かに僕は、父より母に似ていて優しい顔をしている。が、はっきり言い当てられるほどそっくりとはいえなかった。円らな目や薄い口元は母譲りだが、顏の骨格は男のものだ。
だから、僕を父の縁者と見抜いた橦瑳殿の眼力に、ただならぬものを感じた。
「た、確かに、僕は高仲密の子です……」
おそるおそる僕がそう言った直後、勢いよく橦瑳殿の片手が振り上げられ、僕の頬を強かに打ち据えた。
何が起こったのか解らぬまま橦瑳殿を凝視する僕を、橦瑳殿は再び殴る。
「汚らわしい! あの売女の子が、我が君のお側に居るなどと!」
僕は目を見開く。
あの売女とは……我が母のことか?
思考が追いつかないままの僕に構わず、橦瑳殿は奴に言いつけ鞭を持ってこさせた。鞭を手に握ると、橦瑳殿は僕に鞭を振り下ろす。
「淫乱が、我が姫さまから殿を奪うなど、許しはせぬ!
夫ある身で股を開き他し男を誘惑するなど、この色狂いがッ!!」
橦瑳殿は僕が母であると混同しているのか、これ以上無い程の罵声を僕に浴びせ、何度も何度も鞭で叩きのめした。顏といわず身体といわず激しく鞭打たれ、僕の皮膚は爆ぜ血が噴き出てきた。
侍女たちが僕の様子を見かねて悲鳴を上げている。僕と橦瑳殿の周りを、慌しく人が過ぎる。
――淫乱……色狂い……母上、本当に……?
僕は自ら身体を開き高澄さまを受け入れる母の幻想を見させられ、眩暈を起こしていた。
「やめよ、橦瑳! これ以上はならぬッ!!」
孝琬さまのお声が近付いていくる。かすむ目を橦瑳殿のほうに向けると、孝琬さまが橦瑳殿を羽交い絞めにしていた。
「お放しくださいませ、我が君! この者は、あの女子の子でございます。
このような者を、あの淫蕩な女子の子をお側に置かれるとは、情けのうございます……!
今この橦瑳が、この者を成敗してくれましょうぞ!!」
「止めよと言っているだろうッ!!」
孝琬さまは橦瑳殿から鞭を取り上げ、乳母殿のお顔を叩いた。
「士隆は婁太后さまからお預かりした側近だ! この者に危害を加えると、我等の身が危なくなる!」
頬を押さえていた橦瑳殿が顏をあげ、声をあげて泣き出す。
「婁太后……あの鮮卑族(せんぴぞく)の女子が、我等を見下すとは……何たる恥!
孝琬さま、あなた様は魏皇帝陛下の甥御さまであらせられるのですぞ!
それを、鮮卑の女子のいいようにあしらわれるとは……悲しゅうございます!
それもこれも、鮮卑軍族の高氏が魏を簒奪したから、このようなことに……!」
わっと橦瑳殿はその場で泣き崩れる。孝琬さまは橦瑳殿の背を摩っていらっしゃる。
婁太后さまは北辺の遊牧民族のお方である。
もともと、魏皇族である元氏も鮮卑族拓跋部(たくばつぶ)の出身であった。が、魏の孝文皇帝(こうぶんこうてい)の頃に漢民族に勧められて改姓し、習俗も完全に漢化させた。ゆえに、元氏は漢族と同じような倫理観を持っている。
気位の高い魏皇族は、斉の皇族を野蛮の者と見下していた。斉の神武皇帝・高歓さまも鮮卑の者で、我が叔父・高乾(こうけん)との密約で渤海高姓を名乗るようになった。
純粋なる魏の皇族である静徳皇后さまとその乳母殿である橦瑳殿は、魏の皇族が鮮卑色の濃い斉皇族にいいようにあしらわれるのを、忌々しく思っているのだろう。
そういう僕も、漢族の名門・渤海高氏の人間である。
父・高愼が離反したのも、成り上がり者である高歓さま一族の無礼が目に余ったからだ。
そして、あろうことか高澄さまは鮮卑の風習に従って、進入した部族の女子を略奪するが如く母を犯した。漢族としての矜持を持つ父が逆らったのは、ある意味当然だった。
その父が西魏に逃げ込み僕らは捕らえられ、恥ずべき虜囚となり庶人に落とされた。僕とて、このように鞭を受けるような身分ではないはずなのである。
が、このときの僕は傷を受けた痛みで朦朧とし、孝琬さまと橦瑳殿の遣り取りを見ていられる状態ではなかった。
橦瑳殿の号泣と孝琬さまの慰めの言葉を耳にしつつ、僕はそのまま意識を失った。
目覚めたとき、僕は寝台の上で横になっていた。
辺りは暗く、灯りも点いていない。夜のようだった。
鞭打たれた箇所には手当てが施され、包帯を巻かれている。
僕は身を起こそうとしたが、痛みに力が入らず、寝台に逆戻りする。
「まだ寝ていたほうが、そなたのためだぞ」
はっとして、僕は声のほうを見る。
――孝琬さまが、窓辺に寄りかかっていらっしゃった。
「孝琬さま、僕は……」
そう言ったきり、僕の口から言葉が出てこなかった。
淫乱、色狂い、淫蕩……我が母に向けられた橦瑳殿の怨嗟が、僕のこころに突き刺さる。
僕がいつも見ていた母は、清楚で毅然としていた。僕のなかの母の像と、橦瑳殿の罵倒が重ならない。そのどれが、本当の母なのか……解らない。
否、橦瑳殿からすれば、静徳皇后さまから高澄さまを奪った母は、淫乱の尻軽女なのだ。
僕の眼から涙が出てくる。僕は孝琬さまから見えないように、顔を窓から背ける。
「……橦瑳のこと、許してやってほしい」
細く呟かれた言葉に、僕ははっとして孝琬さまを見た。
腕組みした尊大な姿は変わらぬが、夜の闇によって判然としない表情は、翳りを帯びているような錯覚がした。
「橦瑳は怨まずにはいられなかったのだ……。
そなたの母のことを、我が父のことを。
そして、魏から朝を簒奪した我が一族のことを」
「……孝琬さま?」
思いもよらぬ孝琬さまの自省の言葉に、僕は唖然とした。
自負心の高い孝琬さまが、何を思ってこのような言葉を吐かれたのだろう……。
「橦瑳にとっては、我が一族が魏朝を支えていてこそ、世に平安があると思えるのだ。
あれは我が外祖父・元亶(げんぜん)から、母を魏の皇族たらしめるよう育てよと固く言われてきたのだ。
だから、母が魏の孝武皇帝(こうぶこうてい)から馮翊公主の封号を得たとき、あれは母の栄誉を自身のことのように喜んだ。
が、父に嫁いだ母は省みられる事もなく、父は女を作って母よりも先に男児を生ませた。橦瑳からすれば屈辱だっただろう。
その記憶が、橦瑳を頑なにしているのだ――父の女子は総て父を誘惑する淫らな者と思い込もうとしている」
孝琬さまのお言葉に、橦瑳殿への哀れみが籠もる。
「そなたのために言っておくが、そなたの母は、一度我が母とわたし達兄妹に挨拶をしにきたことがあった。
そなたの母は橦瑳がいうような女子ではなく、礼儀と分を弁え、あくまで母を父の正妻として立てていた。
が、父の女に恨みがある橦瑳には、そのようには映らないのだ。
……わたしはそんな橦瑳を、哀れに思う。
だから、わたしも橦瑳のために父の女と、その腹からの子供たちを憎む」
僕は孝琬さまの独白を、静かに聞いていた。
一見冷たくひとを寄せ付けない孝琬さまだが、本当はお優しいお方なのだ。
「だが、わたしは複雑なのだ……橦瑳はわたしを魏の血を組む者と見ているが、わたしは斉の皇族――文襄皇帝の嫡子であり、主上の甥なのだ。
わたしはまごう事なき、斉の皇族であるのだ。
だからわたしは、橦瑳の言葉をすべて受け入れることは出来ぬ」
「孝琬さま……」
僕は孝琬さまのなかにある闇を垣間見たような気がした。
孝琬さまは斉の皇族のなか、誰よりも複雑なお立場にあるお方なのだ。斉の血を半分持ち、また魏の血も受けている――それが、孝琬さまを板ばさみにする。
だから、僕は言わずにはいられなかった。
「孝琬さま――どうか、僕のことを憎んでください。
お母君さまのために――橦瑳殿のために、李昌儀の息子を憎んでください」
半身を無理矢理起こそうとする僕に、孝琬さまは歩み寄って来られ、僕を寝かしつけられる。
「そなたがそれでよいのなら、そうさせてもらう」
孝琬さまのお言葉に、僕ははっきりと頷いた。
そして、孝琬さまは付け加えられる。
「今宵言った事は誰にも語ってはならぬ。
これは、我等だけの秘密だ、よいな?」
僕はそのことに対しても諾を返した。
今宵語られた内容は、孝琬さまの名誉に関わる。
誓って僕は誰にも話さない。――孝琬さまは僕の大切な主だから。
今夜初めて、僕は孝琬さまが自身の主だと強く自覚した。
孝琬さまは僕の頬にかすかに触れたあと、そのまま部屋を出て行かれた。