(1)



 馮橦瑳(ふうしゅさ)殿に鞭打たれてから三月経った。
 怪我をして一ヵ月は起き上がれない状態だったが、今は破けた皮膚も再生し、痂ももうすぐ剥がれそうだ。
 仕事に復帰した僕は、今日も雑用をこなしていた。
 倉のなかで、出入りの商人が納入した米や酒の数を、伝票と照らし合わせて確認していると、お出かけの支度をされた我が主・河間王孝琬(かけんおうこうえん)さまがわざわざ足を運ばれ、僕に声を掛けてこられた。

「出掛けるぞ、供をせよ」

 思わず、僕は自身を指差してしまう。

「……あの、僕ですか?」

 間の抜けた僕の問い掛けに、孝琬さまは眉をしかめた。

「阿呆、そなた以外に誰がいる」

 確かに、倉のなかには僕以外誰も居らず、孝琬さまが話し掛けているのは僕しかいない。
 いままで側近とは名ばかりで、孝琬さまと一緒に行動することはなかった。だから、突然の孝琬さまの命に、僕は目を白黒させる。
 棒のように突っ立ったままの僕に痺れをきらしたのか、孝琬さまは苛々とした面持ちをなされた。

「早くしろ、主命だぞ!」
「は、はい!」

 弾かれたように、僕は慌てて倉から飛び出そうとした。
 そんな僕の背中に、孝琬さまは声を掛けられる。

「なるべく失礼の無い格好をしてこい」
「……? はい」

 失礼の無い格好……? これから孝琬さまがお会いになられるのは、貴人なのか?
 訝しみながらも、僕は着替えに自室に走った。



 孝琬さまのお供をして出向いたのは、なんと孝琬さまのお母君がいらっしゃる静徳宮(せいとくきゅう)だった。
 宮の門を潜ろうとなさる孝琬さまの袖をうしろから引っ張り、僕は声を潜めて問う。

「あの、孝琬さま……」

 仏頂面で、孝琬さまは振り向かれる。

「何だ」
「僕がここに入って、よいのでしょうか……」

 正直、僕は宮のなかに入るのを気後れしていた。
 僕は静徳皇后(せいとくこうごう)さまの敵である李昌儀(りしょうぎ)の息子だ。主に追従しているにしても、そんな僕がこの宮に入るのはいかがなものかと思った。
 その上、ここには橦瑳殿がいらっしゃるのである。橦瑳殿に鞭打たれた記憶は、未だ生々しい。
 僕の意図を悟られたのか、孝琬さまは鼻を鳴らされた。

「安心せよ。母上がそなたをお呼びなのだ」
「……静徳皇后さまが?」

 僕は首を捻る。
 静徳皇后さまが僕をお呼びになられるとは、何かあったのだろうか。まさか、再び罵られ罰を与えられるのだろうか。
 そう思うと、足が竦んでくる。
 僕の恐怖を感じ取られたのか、孝琬さまは僕の肩に手を置かれた。僕は目を見開く。

「橦瑳とは違い、母上はひとに害など加えることが出来ぬ御方だ」
「孝琬さま……」

 気休めか真実か解らぬが、孝琬さまは僕の躊躇いを払拭なさろうとしている。
 僕はますます訳が解らなくなってくる。
 孝琬さまは僕を――李昌儀の息子を憎んでいらっしゃるはずだ。それなのに、優しく扱ってくださる。
 まじまじと見つめる僕にばつが悪くなったのか、孝琬さまはぶっきらぼうに手を放し、背を向けられた。

「行くぞ」
「は、はいっ!」

 戸惑いを抱えたまま、僕は孝琬さまのあとに続いて静徳宮のなかに入った。



「そなたが、李昌儀の子息かえ?」

 優美なしつらえの応接間に、たおやかな女人の声が響く。

「はい、高士隆と申します」

 この御方が静徳皇后さま――孝琬さまのお母君さまなのだ。秘かに僕は緊張していた。
 面をお上げと言われ、僕は顔を上げる。
 目の前に、清雅な美しさを有した、穏やかなたたずまいの貴婦人がいらっしゃる。――この御方が、静徳皇后さまなのだ。
 静徳皇后さまの背後に、橦瑳殿が厳しい面持ちで控えていらっしゃる。僕は思わず顔を伏せた。

「士隆、怖じけず顔を上げよ」

 上座で僕を見下ろしていらっしゃる孝琬さまが、僕に一喝される。びくり、と僕の肩が震えた。
 僕の様子を見ていらっしゃった静徳皇后さまが、手にしていらっしゃる団扇(だんせん)を動かされた。

「――橦瑳、そなたはお下がり」
「姫さまッ?!」

 明らかに狼狽した橦瑳殿のお声。

「そなた、余程士隆にひどいことをしたのだね。
 御覧、そなたのせいで、士隆が怯えている」
「姫さま、わたくしは当たり前のことをしたまでです!
 姫さまを苦しめた李昌儀の息子を鞭打って、何が悪いと――」
「お止め、見苦しい。
 そなたは妾の言うことが聞けぬのかえ?」

 激する橦瑳殿を、静徳皇后さまは鋭く制止される。否やを言わせぬ口調だった。
 皇后さまの意志が堅いと解り、すごすごと橦瑳殿は下がっていかれる。僕はほっとした。
 そんな僕に微笑まれ、皇后さまは小搨から下りて僕の前まで歩み寄って来られた。

「怖い思いをさせたようだね、士隆。本当に悪かった」
「――皇后さま?」

 僕は瞠目する。
 まさか、皇后さまが僕に謝罪なさるなど――。

「あれは妾のことになると、何をするか分からぬ。
 妾のために、あれにまた罪を作らせるのは――」
「母上、そのことはここで言うべきではありますまい」

 皇后さまのお言葉を、孝琬さまが止められる。
 困ったように我が子を御覧になる皇后さまの御目には、確かに翳りがあった。

「そなた、もう傷はよいのかえ?」
「はい、お陰さまで、かなり回復しました」
「そう、よかったこと……」

 心底安堵したように、皇后さまは吐息なされた。孝琬さまも心なしか微笑んでいらっしゃる。

「今日呼んだのは他でもない、そなたに与えた誤解を解くためじゃ」
「誤解?」

 皇后さまは頷かれる。

「わが殿の侍妾となったあと、そなたの母・李昌儀は妾に挨拶しにまいった。
 殿を共有することをお詫びしたいと……。これも我が子のためだと、李昌儀は申しておった」
「母が……」

 やはり、母は僕たちのために高澄さまの寵い者となったのだ。
 僕の見ていた母が本当の母だったと分かり、胸の支えが下りる心地だった。

「李昌儀が殿の御子を死産したとき、内密に見舞いの書簡をしたためたのだが、李昌儀は子が生まれなかったことに、却ってほっとしていると返してきた」

 僕は目を見開く。母に……子?

「母は……文襄皇帝さまの御子を、身籠っていたのですか?」

 そのとき初めて事実を知った僕の顔は、定めて青ざめていたに違いない。
 皇后さまは痛まし気に僕を見つめていらっしゃった。

「そなたには辛いことかもしれぬが、これが敗者の女子の常なのじゃ。
 李昌儀にとっては、どちらになっても辛いことであっただろう。きっと、そなた等に顔向け出来ぬと思うたはずじゃ」

 僕は暫しの間黙り込んだ。
 やはり……母は僕達だけのものではなかったのだ。高澄さまのものとなり、生きて産まれなかったにしろ、高澄さまの御子を宿したのだ。
 でも、それは僕達への裏切りではない。僕達を護るためには、仕方がなかったのだ。
 頭では分かっていても、思考が受け入れてくれない。混乱して嵐が吹き荒んでいた。

「……大丈夫か?」

 びくり、と僕は肩を揺らし我に返る。
 ――孝琬さまが僕の目の前に跪いて、僕の顔色を覗き込んでいらっしゃった。
 唾を飲み込み、辛うじて僕は口を開く。

「――大丈夫です」

 無理矢理こころを立て直し、僕は真直ぐに見据えた。
 孝琬さまは頷かれる。

「橦瑳が何と言おうと、そなたの母は、名門の女としての立派な心根を持っておった。
 殿の枕席に侍ったとしても、こころは高仲密のものと申しておった」
「こころは……父のもの……」

 それが、母の本当の想い。
 高澄さまのものになっても、母は父を忘れていなかったのだ。
 皇后さまは僕を見ながら、溜め息混じりに語られた。

「その高仲密も、もう亡くなったと聞く……」

 皇后さまの一言に、僕は凍り付いた。
 父が既に……この世にない……?

「父上は、亡くなられたのですか」

 皇后さまと孝琬さまの目に憐憫が過る。

「母は既に……そのことを知っているのですか?」
「殿から聞いておっただろう」

 僕の頭が真っ白になる。
 父が鬼籍に入ったと知っているのなら、何故母は教えてくれなかったのだろう。
 僕達が悲しむからか? 父が亡くなったことを知らないほうが、もっと悲しいことなのに。
 一気に様々なことを聞かされた僕は、混沌のなかにいた。
 そんな僕に、孝琬さまは言葉を掛けられる。

「ここから下がったあと、李昌儀に聞きに行くか?」

 ゆっくりと顔を上げ、僕はかぶりを振った。

「……聞きに行く勇気は、ありません。
 母がどういうつもりで、父の死を隠していたのか、解りませんから……。
 皇后さま、父の死を教えていただき、ありがとうございました」

 そう言って、僕は頭を下げる。
 皇后さまは僕の手を取られた。僕は驚いて頭を上げる。

「幸いにも、そなたは孝琬と同い年、――どうか、よろしく孝琬に仕えてやってほしい。
 妾からもお願いする」
「皇后さま……解りました。精一杯お仕えさせていただきます」

 少しく微笑んで言う僕に、皇后さまは美しい笑みを浮かべられた。
 孝琬さまは僕と皇后さまの姿を、見て見ぬふりをしていらした。



 静徳皇后さまから孝琬さまにお仕えすることを許されてから、僕の立場は少しづつ変化していった。
 まず、時折来られる橦瑳殿が、僕に対して攻撃的に接しようとなさらなくなった。
 かといって完全に認められているわけでもなく、無視されているというほうが正しかった。
 孝琬さまの僕への待遇も変わった。
 まだ側近といえるような仕事はしていないが、怪我をしてから僕の寝起きするところが物置から使用人部屋になった。
 現在も馬の手入れや物品の購入などを続けているが、たまに孝琬さまがお出かけするのにお供することがある。どちらかというと、傍に控えるというより、手荷物持ちやお遣いをさせられるほうが多い。
 そうしているうちに一年が過ぎ、春浅い頃合いに河間王府に訃報が舞い込んだ。


 姉・英釵(えいさ)がお仕えしている襄城王淯(じょうじょうおういく)さまがお亡くなりになられたのだ。



 僕は孝琬さまにお供する形で、襄城王府に弔問に訪れた。
 眠るように寝台に横たわっていらっしゃる淯さまの亡骸に、婁太后さまが号泣しながら縋っていらっしゃる。そんな婁太后さまをお慰めするように、母が太后さまをお支えしていた。
 弔問には淯さまの兄君である常山王演(じょうざんおう・えん)さまや、弟君である長廣王湛(ちょうこうおう・たん)さま、博陵王済(はくりょうおう・せい)さまたちがいらっしゃっている。
 孝琬さまのご兄弟である河南王孝瑜(かなんおう・こうゆ)さまや公子・孝珩(こうこう)さま、公子・長恭(ちょうきょう)さまも馳せ参じていらっしゃった。
 孝琬さまの背後に控えている僕のもとに、泣き腫らした眼をした姉がやってきた。姉は孝琬さまに頭を下げると、僕に縋った。

「士隆……淯さまが……」

 言うなり、姉は声もなくしゃくりあげた。
 妹君である洸さまと同じく、淯さまも蒲柳の質を有していらした。
 姉から昨年よりの風邪がなかなかお治りにならないと聞いていたが、まさかお亡くなりになるとは思わなかった。
 肩を震わせ泣く姉のもとに、母がやってきた。そのまま、姉は母にしがみつく。

「喪事が始まれば淯さまとお会いできなくなるから……英釵、今のうちにお名残を惜しみなさい」

 母に言われ顔を上げた姉は、手を差し伸ばされる太后さまのもとに近づいていった。
 改めて母は孝琬さまに向き直り、深々と頭を下げた。

「孝琬さま……我が子士隆が、いつもお世話になっております」

 澄ました顔で、孝琬さまは頷かれる。

「色々恨み言も多いが……ここはそのようなことを言う場ではない」

 孝琬さまのお言葉に、母は眉根を曇らせた。
 が、僕は知っている――孝琬さまなりに、あの頃の母の割りない立場を理解されていることを。

「おまえが士隆を大事にしないのなら、俺がもらうぞ」

 はっとして顔をあげると、孝瑜さまがいらっしゃっていた。
 片眉を皮肉げにあげ、挑戦的に孝琬さまは兄君を御覧になる。

「何を血迷ったことを。
 士隆はお祖母さまが直々にわたしに預けられた側近。お祖母さまは兄上に士隆を託したわけではあるまいに」

 孝瑜さまはむっとしたのか、言い返される。

「言っておくが、士隆を側近にと申し出たのは、俺のほうだぞ。
 それなのに、お祖母さまが俺ではなくおまえに士隆をくれてやってしまわれたのだ」

 初耳のように、孝琬さまは僕を見た。

「……そうなのか?」

 孝琬さまと孝瑜さまの間に挟まれ、いたたまれない思いで僕は頷く。

「……はい。河南王さまは僕を側近としてご所望でしたが、婁太后さまが河間王さまの側近にするとお決めになりました」

 未だに引き摺る謎。どうして、太后さまは孝瑜さまではなく孝琬さまを僕の主にお選びになられたのだろう。
 三者黙り込んだところに、割って入ってくる人物があった。

「……畏れながら、わたくしが太后さまにお願いいたしました」
「……母上?」

 貴人に対する礼をとりながら、母は真実を告げてきた。
 孝瑜さまは血相を変えて母に向き直る。

「雪華、どうして士隆を孝琬にやるようお祖母さまに言ったのだ?!
 わたしは何度も、おまえに頼んでいたではないか!」

 母に対する孝瑜さまの剣幕に、僕は激しく驚く。
 いくら太后さまのもとで身近くお仕えしていたとはいえ、孝瑜さまにとって母は父親の妾――つまり、孝琬さまと同じように憎しみを抱いて当然の相手である。
 孝瑜さまのお母君・宋太妃(そうたいひ)さまは、孝瑜さまが封爵されて河南王府をお持ちになってから、初めてご一緒にお住まいになられた。
 が、魏があった頃に高澄さまの寵愛を受けて孝瑜さまを生されたものの、潁川王妃(ようせんおうひ)としてのご自分を自覚して、孝瑜さまを育てようとなさらなかった。ゆえに、孝瑜さまは太后さまの手によって養育なされたのである。
 孝瑜さまはお母君とともに居られない寂しさを抱えていらっしゃったようだ。乳弟であり叔父である高湛さまと密に過ごされながらも、幼い頃からどこか愁えた表情をなされていた。
 だから、母が太后さまに近しくお仕えするようになってから、孝瑜さまは母に甘えるようになられた。
 が、ある時を境に孝瑜さまは急に母から距離をとられるようになられた。――考えてみれば、それは母の閨に高澄さまが通われているのを僕が目撃したのと同じ頃だった。
 ゆえに、孝瑜さまも僕と同じように、母に対するわだかまりを持っていらっしゃるのかと思っていた。
 だから、孝瑜さまが母の名を親しく呼び、僕を自身の側近にするよう言っていた事が驚きであった。――孝瑜さまが母を嫌っていると思っていたから。
 母は目を伏せる。

「わたくしは士隆の母。この子に悲しい思いをさせたくなかったのです。
 孝琬さまのお母君さまとは書簡を交わす間柄で、孝琬さまとも一度面識を持っておりました。
 わたしくは孝琬さまなら士隆をお預けできると思い、婁太后さまにお願いいたしました」
「……おまえは、士隆が俺に仕えると不幸になると思っていたのか。どうして」

 僕も、孝瑜さまと同感だった。
 どうして、孝瑜さまにお仕えすると僕は不幸になるのだろう。それに、どうして母は僕が孝瑜さまにお仕えすると不幸になると解っているのだろう。
 僕の隣にいらっしゃる孝琬さまも、興味津々に聞き耳立てていらっしゃる。
 孝瑜さまの問いに対して、母は感情の見えない眼をしている。

「……あの、今はそんなことを話している場合ではないと思います。兄上」

 声に振り向くと、孝珩さまが僕たちを見ていらっしゃった。
 孝珩さまは高澄さまの生前から、何度か母君の王太妃(おうたいひ)さまに連れられ太后さまのもとに遊びに来られていた。
 王太妃さまは気さくな御方で、母に対し敵対視することなく親んでくださっていた。
 その御子である孝珩さまも、少し変わったところがおありだが、機転が利き大層頭の良い御方だ。

「ここは淯叔父上の御霊前です。
 言い争っていると、叔父上が悲しまれます」

 孝珩さまと並んでいらっしゃる長恭さまが頷かれる。
 言葉少ななこの公子さまは、孝琬さまと同い年の弟君である。孝琬さまは数あるご兄弟たちのなか、特にこの弟君を意識しておられる。
 が、美しい長恭さまのお顔は、どこか虚ろに見える。
 ほっとしたように、母は孝珩さまに応えた。

「そうですね、淯さまのご冥福をお祈りせねばなりませぬね」
「えぇ、淯叔父上は沢山いらっしゃる叔父上のなかで、一番お話のあう御方でした。
 その御方がお亡くなりになられるのは、寂しく悲しいです」

 孝珩さまのお言葉で、一同がしんみりしてしまった。
 淯さまは太后さまの御子のなかで、妹君・洸さまとともに僕たちに最も心安く接してくださった御方だ。本を沢山収集なされており、僕や姉は淯さまから様々な国の逸話や文物を教えていただいた。
 美しく優しい淯さまだからこそ、洸さま亡き後、姉は淯さまにお仕えすることに決めたのだ。
 それが急にお亡くなりになり、姉の悲しみはいかばかりかと思える。
 僕は太后さまと一緒に嘆く姉と、柔らかな眠り顔をしていらっしゃる淯さまを見つめた。



 淯さまの喪礼は粛々と過ぎ、主上の指図により厚く葬送が執り行われた。
 主を亡くした姉・英釵は太后さまのもとに戻り、母とともにお仕えしている。
 あの日の孝瑜さまと母の遣り取りは、僕のなかにしこりを残した。孝瑜さまと母の様子は、只ならないものだった。きっとふたりの間に、何かあるのだろう。
 いつまでも考えていても仕方ない。僕は仕事に打ち込むことにした。

「もしかすると、李昌儀は義兄におまえを渡さぬよう、お祖母さまに掛け合ったのかもしれぬな」

 孝琬さまの秋物の衣服の点検をしているとき、わざわざ僕のもとにやってこられた孝琬さまはとんでもないことをおっしゃった。
 ぎょっとして仕事の手を止め、僕は孝琬さまを見る。

「宣訓宮に入り込んでいる内通者に聞いたのだが、義兄はおまえの姉を妾妃として欲しいと言っているらしい」
「姉を、孝瑜さまの妾妃に?」

 さらに僕は驚愕する。
 孝瑜さまが姉を妾妃にお望みになった――。それは、どういうことだろう。
 封爵されてすぐに、孝瑜さまは盧氏(ろし)の姫君を正妻としてお迎えになられた。ご結婚なされてからまだ一年である。それなのに、もう妾妃をお求めになられるのか。

「姉はまだ十三歳ですよ?」
「十三歳なら、女子の月も満ちておろう。
 まだだとしても、おまえの姉の月が満ちればすぐに手を出せる。
 他の者に獲られる前に、我がものとしてしまおうという算段なのだろう」

 姉を、我がものに……あまりに生々しい話に、僕は惑った。
 ただの侍女としてではなく、妾妃にするという。それは、尋常な話ではなかった。――母が僕を孝瑜さまにお仕えさせる事を拒んだ事と関係があるのだろうか?

「李昌儀は娘を義兄に遣わすことを、頑なに拒んでいるらしいがな」
「そうですか……」

 やはり、僕を孝瑜さまに遣わさなかったことと関係あるかもしれない。
 一体、母が何を考えているのか――孝瑜さまと母の間に何があったのか、未だ闇のなかだった。

 
 どんなに孝瑜さまが頼み込んでも、母は婁太后さまを通じて断り続けた。
 が、話は思わぬほうに転ぶものである。

 姉・英釵は主上の勅命により、常山王演さまの妾妃になることとなったのである。
 


「士隆、来てくれたのね」

 激しく悲嘆する姉の様子を孝琬さまから聞き、僕は孝琬さまの名代として宣訓宮に飛んできた。
 出迎えた母は僕を奥宮に連れ込んだ。

「姉上の様子は、どうなのですか」

 母は見るからに困り果てた顏をした。

「絶対に演さまにはお仕えしないと言ってきかないのよ。
 どうやら、英釵は淯さまをお慕いしていたらくして……」
「姉上が、淯さまを?」

 姉が淯さまをお慕いしていた――。淯さまが亡くなられて数ヶ月、姉のこころの傷はまだ深いはずだ。だというのに、主上は姉を演さまの妾妃にしようというのか。
 姉の籠もっている部屋に入っていくと、婁太后さまが寝台に突っ伏する姉を抱き起こそうとしていた。

「おぉ、士隆。そなたからも姉を説得してやっておくれ」
「太后さま、ですが――」

 僕の応えに、姉は涙に塗れた顏を上げた。長い髪を結わえずに乱れさせた姉は、弱々しかった。

「わ、わたくしは、淯さまに操を捧げております。
 淯さまは、わたくしが大人になったら、お妾にしてくださると仰ってくださいました。
 それなのに、淯さまはお亡くなりになってしまわれ……。
 わたくしはずっと喪に服しているつもりでしたのに、淯さまが亡くなられて間もなく常山王さまの枕席に侍れとは、あんまりでございます……!」

 そう言って、姉は太后さまに取り縋った。

「英釵、淯に劣らず演はいい子なのだよ。あれは妾の自慢の息子じゃ。
 その演に仕えるのが、そなたは嫌なのかえ?」

 確かに、太后さまは数あるご自身の御子のなかでも、演さまを特別に可愛がっていらっしゃった。
 でも、太后さまも女人である。淯さまを慕う姉の気持ちを痛いほど解っていらっしゃるのか、尽きることなく涙を流していらっしゃった。
 姉はかぶりを振った。

「侍女としてお仕えするだけならよいのです。
 でも、お妾になるのは嫌です……!」

 声を発てて姉は泣き崩れる。
 そのとき、である。

「そなたは朕の言う事が聞けぬか?」

 驚愕して僕たちは顔を上げる。
 ――主上・高洋さまがいらっしゃった。

「洋、そなた……!」
「謀反人の娘が、誰の温情で今まで生きてこられたと思っている!
 朕の命に逆らうのならば、命を賭して抗うがよい!」

 僕は戦慄する。このままでは、姉が――!
 主上が姉に向けて一歩を踏み出されたとき、姉を庇って跪拝する者があった。

「どうか、それだけはお止めくださいませ!
 わたくしの名誉を掛けて、我が娘を常山王さまに侍らせます!
 だから、命だけは……!」

 母が主上の足元に平伏し、姉の無礼を詫びている。
 姉は顔をあげて緊迫する場を凝視していた。

「そなたの名誉など、既になかろう。
 何を以って信じよというのか。早、命を奪ってしまうのが最良のことじゃ!」
「お待ち下さい!」

 母の隣に姉が飛び出てくる。同じように主上を拝しながら、姉は言った。

「御命に従います。だから、母と弟の命だけはお助けくださいまし!」

 姉は深々と頭を下げる。細い身体が小刻みに震えている。
 主上は傲然と姉たちを見下ろした。

「初めからそう言っておれば、朕の手を煩わすこともなかろうに、愚か者がッ!」

 そう言い置き、主上は部屋を退出される。
 脱力した姉を抱き締め、母は咽び泣いた。

「英釵、ごめんね、母の力が無いばかりに……」

 姉はかぶりを振る。

「いいえ……お母さまと士隆のためなら、わたくしの身など、惜しくはありません……」

 そう言って見つめてきた姉に、母は瞠目した。
 太后さまも、目を見開かれる。

「そなたにまで、わたくしの苦しみを味わせてしまうとは……。この母を、どうか許して」

 母は言うなり号泣した。
 僕は母と姉を呆然と見ていた。
 太后さまは哀しみの籠もった声で、静かに仰った。

「英釵は、雪華と同じことを言って演に侍るのか……我が息子たちの、何と罪深きことか」

 僕は太后さまを瞠視する。太后さまは悲哀を湛えた笑みを見せられた。

「女子は男の恣意で如何様にも扱われる。それがこの世の理とはいえ、不条理なことじゃ……」

 しみじみとした太后さまの呟きを聞き、僕は悄然とした。
 庶人に落とされた僕には、男として何の力も無い。それが、歯痒くてならなかった。


 それから一ヶ月後、姉・英釵は常山王府に妾妃として入った。
 『同姓不婚』の原理に則り、王府に入る前に主上に命じられ、姉は「桑氏」と改姓した。
 僕は表情を消した面に化粧を施し、まるで戦に赴くように着飾った姉の姿を、何も出来ず見送った。


 が、これは魏の皇族・元氏に対する主上の弾圧の前哨戦でしかなかった。
 それから二ヵ月後に、主上は魏の皇帝であった中山王さまを毒殺なされたのだから。
 主上の姉である元魏皇后・太原公主(たいげんこうしゅ)さまの目を盗んでの凶行だった。いつ魔の手が及んでもおかしくないと警戒していた公主さまは、己の非力さに激しく泣哭なされた。
 中山王さまの死は、静徳宮や河間王府にも陰を落とした。

「おのれ逆賊、尊貴なる御方を手に掛けるとは……!」

 橦瑳殿の嗟嘆が静徳宮に激越に響く。
 静徳皇后さまは涕しながらも、橦瑳殿を近しく宥められる。

「橦瑳およし。こうなることが我が弟の運命だったのじゃ。
 これ以上悲しむのは……」

 そう言って、皇后さまも慟哭なされた。
 母上をお慰めするため、宮に出向かれた孝琬さまにお供した僕は、静徳皇后さまと橦瑳殿の愁嘆場を見ていられなかった。
 姉・英釵が演さまの妾妃となったのも、演さまの正妻である魏の皇族・元妃を除くためだったのだ。

 ――これから主上により、きっと魏皇族に対する弾圧が激しくなる。


 僕はそう強く予感していた。




(3)に続く
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