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第三章(1)へ


「うらあっ!!」

 ざくっと、何かを貫く音がしたかと思うと、動物の悲痛な鳴き声が聞こえた。ふぎゃあッ! と甲高い鳴き声は、猫だった。
 はっと、小綺麗な布地を手に取っていた蘭香は首を巡らせ、その方へ駆け出した。

「わっ、待てよ、蘭香!」

 だが、蘭香は止まらず、一目散に走る。
 茅鴛も必死で追い掛けるが、なかなか追い付けない。路地を全速力で走って、やっと蘭香の後ろ姿を認める。
 蘭香は固まったように動けないでいた。彼女は一点を凝視していた。

 きゅうう……ん。

 重そうに血塗れの足を引きずる子猫と、尖った目をした三人の兵卒が、たむろしていた。

「へへへ……弱り切ってやがらあ……」

 酷薄な声が、武骨な兵卒から発せられる。
 荒い息で濡れた目を向ける子猫に、たまらず、蘭香は彼らの前に飛び出した。

「やめてよッ!」

 きっ、と鋭い目で睨むと、蘭香は大きな声で非難をした。
 慌てて、茅鴛は彼女を背のうしろに庇う。
 あぁ? と柳のように細い兵卒が、小馬鹿にしたように、蘭香と茅鴛をじろじろと見た。

「何だぁ? てめえは……」

 ぎろっと睨むと、体躯の大きな男が彼女の胸ぐらを掴みあげた。彼女の身体はぎりぎりで触れられず、男物の衣装の襟を掴んだだけだった。
 それでも、蘭香は怯まず睨み返す。

「やめろっ!!」

 茅鴛がその男の太い腕にしがみ付くが、力の弱い彼は兵卒の鍛えられた膂力に軽く弾き飛ばされた。
 他の二人の男が、茅鴛を殴り回す。顔に腹筋に、拳がめり込む。何度も何度も殴られ、顔面が腫れて血だらけになる。

「卑怯者、やめなさいよ!」

 蘭香は男の腕をばんばん叩くが、適わない。

「ああ〜〜? 痛くも痒くもねえなあ、坊っちゃんよお」

 男装した蘭香を女と気付かない男たちは、非力な少女を侮り、しばらく叩かせてから軽く弾く。
 蘭香は石畳に叩き付けられる。
 その衝撃で、まとめて結わえてられていた髪が解け、灰色の地面にふさっと広がる。
 ほぉ、と男たちは面白そうにつくづくと少女を眺めた。

「――へぇ、女かあ?」

 下卑た笑みを、男は浮かべる。
 蘭香は強い目で見据える。
 が、男の目に淫らな光が過ると、ぞくっと背筋に寒気がした。
 魁偉な男は、蘭香の顎を捉え、上に向かせる。整った少女の面に、舌舐めずりする。

「けけっ……別嬪さんじゃねえか。俺様たちの気を悪くした詫びを身体で払って貰おうか」

 蘭香は瞠目する。本能的な怖じ気が身体をざわざわと駆け巡る。

「やめろっ、蘭香に手を出すな!!」

 血反吐を出した茅鴛が絶叫を上げるが、男が彼の鳩尾に蹴りを入れたので、呻いて動けなくなった。
 慌てて逃げようとする蘭香の上に、男はすかさずのしかかってくる。

「い――イヤぁッ!」

 蘭香は足掻いてもがく。が、両の手首を掴まれると、頭の上に固定されてしまった。
 それはまるで、あの周の忌まわしい日の再現のようだった

「や……やめて、やめてぇッ!!」

 他の男の手が彼女の足に延び、大きく開かせようとしたその時だった。

「やめろ!!」

 頭上に、凛とした、聞き覚えのある声が降り掛かる。
 男たちも一斉に振り向く。
 見た途端男たちの顔色が、さっと変わった。

「こ――公子ッ!!」

 馬上で苛烈な瞳で見下ろす長恭がいた。
 男たちは慌てふためく。
 組み敷いていた蘭香を離すと、長恭の前に平伏した

「そんな所で何をしている?」

 余りにも冷たい一瞥を、長恭は男らに投げ付ける。

「い…いや、ちょっと、運動を……」
「そのようには見えぬが?」

 冷ややかな面持ちで、男たちの言動を厳しく見下す。

「申し開きがあるのなら、今ここで言うてみよ。そのようなもの、あるはずがないだろうがな」

 長恭の両脇に居並ぶ将士も、馬上から刺すように睨む。
 圧倒的な威圧感に居たたまれなくなったのか、男どもはこそこそと逃げ出した。

「何だあの者等は!」

 平掩は男たちの後ろ姿に毒づいた。
 長恭はひらり、と馬を降りると、泣きじゃくる蘭香の前に跪いた。

「何故、そのような無謀なことをした」

 無感情な声音が、蘭香の耳朶に入り込む。

「許せ…なかったから……」

 衣が血で汚れるのを気にせず、子猫をぎゅうっと抱きながら蘭香は呟いた。
 長恭は蘭香の腕の中にいる子猫に、手を差し伸ばす。

「見せてみろ」

 と言い終わらないうちに、長恭は猫を彼女の腕から奪い取っていた。
 そして、自らの外套を引き裂くと、猫の患部の上や適所に止血を施した。

「やれるだけのことはした。あとは、この猫の生命力しだいだ」

 ぽかんと彼を見ていた蘭香は、彼の不審気な眼差しに気付き、そっぽを向く。
 長恭はつっけんどんに、彼女の目の前に猫を差し出した。

「そなたが抱いていてやれ」

 そう言うと、茅鴛の方に向かい、すでに手当てをし始めている部下を手伝い始めた。

「公子、我々だけで出来ます。どうか、無用に――」

 という相願の言葉を聞かずに、黙々と作業をする。
 冷たいかと思えば、優しい素振りもする長恭に、蘭香は調子が狂っていた。

 ――平掩さんが言っていたのは、この事?

 蘭香は震える子猫を抱き締め、首を傾げて長恭を見守っている。今の彼は、茅鴛を手当てすることしか考えていない。ただ無心に人を助けようとしていることが、彼の透明感のある美しい面から読み取れた。
 彼女が無茶なことをしたからといって、別に責め立てようと思ってはいないらしい。

「蘭香……」

 茅鴛の擦れた呻き声に、やっと我に返った蘭香は、彼の元に駆け付けた。

「茅鴛、大丈夫?」
「心配…するな」

 彼女を励ます言葉に、ひとまず安心し、蘭香は彼の頭を撫でる。
 手に付いた血を手斤で拭い、長恭は言う。

「当たり前だ。男たるもの、殴られたぐらいで根を上げてはやっていけぬ」

 蘭香はかちんとして、長恭をぎっ、と睨み付ける。

「あなた達武将とは違って、茅鴛は打たれ強くないのよ!」
「それくらい、解っている。
 武術の稽古もした事のないものだからな、ひ弱なのだろう」

 そう言うと、まだ何か口走りそうな蘭香を無視して馬の手綱を引く。

「平掩、そなたが茅鴛を乗せてやれ。相願が蘭香を……」

 長恭が言い置こうとする前に、

「わたしは嫌です」

 本気で嫌そうに、すかさず相願は返す。
 少し眉を上げただけで、長恭は平掩に向き直る。

「では、平掩が蘭香を乗せるか?」

 平掩は頷こうとしたが、茅鴛が否を称えた。

「嫌だっ、あんたなんかに乗せてもらうんなら、俺が蘭香を引っ張って帰るッ!!」

 余りの迫力に、平掩は唖然とする。
 未だに、茅鴛は平掩に対して警戒心を持っていた。
 出来もしないことを言う彼に、忌々しげに長恭は舌打ちする。

「怪我人の分際で、何が出来る――。仕方がない」

 そう言って、馬に跨った長恭は、馬上から身を乗り出す。
 「え?」と蘭香が感づく前に、彼女の身体は宙に浮いていた。腰を攫われ、目線から地面が遠くなる。

「きゃ……ッ」

 気が付くと、蘭香は長恭の馬に乗せられていた。彼の腕に支えられ、蘭香は当惑する。
 驚いたのは、相願もだった。

「公子っ、お馬が汚れます! わたくしが彼女を…」
「おまえは嫌なのだろう」

 間髪入れずに、長恭は言う。
 ぐっ、と相願は何も言えなくなり、詰まる。

「相願、おまえは茅鴛を乗せろ。いいな」

 有無を言わせぬ、命令だった。

「――はい」

 不承不承、相願は茅鴛を馬に跨がらせる。
 相願は不機嫌に、平掩は不安そうに、そして茅鴛は安心して先を行く二人を見ていた。



 京師から長恭の第までは、幾許か距離があった。
 その間、馬に揺られながら、蘭香は長恭の誘導尋問を受けていた。

「何故、京師なぞに来た」

 冷たい声が、蘭香に突き刺さる。なまじ怒りを含んでいるより、感情のない声のほうが打撃が大きい。
 蘭香はむっとして言い返す。
 別に、用事がなくても京師に行っても、いいじゃないか、と蘭香は思った。

「――暇だから」

 むくれて蘭香は呟く。
 彼女は束縛されるのを、何より嫌う。不必要な詮索は神経をぴりぴりさせた。
 長恭は感情の籠もらぬ声で言う。

「暇つぶしだと? 贅沢な望みだな」

 先程の諍いを引きずっていたので、蘭香は益々機嫌が悪くなった。
 思わず振り返って、長恭を睨み据える。
 が、長恭の表情は変わらない。

「京師は浮浪者の巣窟だ。それに先のような血の静まらぬ狼藉者がたむろしている。警吏の取り締まりが行き届いていないのだ。
 暇だからと、そこいらをうろうろされたのでは、わたしの身がもたぬ」
「べつにあなたに付いてきてって頼んだわけじゃないもの」

 ぶすっとした顏をして、蘭香は反抗する。
 そんな彼女に、長恭は皮肉げに笑った。

「ほう――。では、先程の事態にどう対処するつもりだったのだ。あのままでは、そなた、犯されていたぞ」

 嬲るような、無神経な問い。
 目を見開き、即座に蘭香は叫ぶ。

「思い出させないでよ!」

 周で起こったことと、先刻の出来事がだぶり、またも身の毛がよだつ。
 力ずくで身体を触られるほど、気持ち悪いものはなかった。情など何も無く、ただ、己の欲望を満たそうとするだけの無作法な手。
 それは、女の性を傷つける。
 蘭香は己を抱き締め、素直に呟いた。

「――恐かったわ」

 彼女は俯き、ぎゅっと目を瞑る。
 蘭香のか細い呟きと震えに気が付いたのか、長恭はそれ以上彼女を問い詰めるのを止めた。
 細く息を吐き、長恭は誰とはなく語りだす。

「――確かに、京師は恐ろしい所だ。そこにいる民も、宮廷のものも……。
 いや、民は宮廷の毒気に怯え、染まってしまっているだけだ」

 ――むしろ、腐敗は宮中のなかにある。

 長恭にとっては思いだしたくない事実。
 黙って彼の言葉を聞きながら、蘭香は違和感を覚えていた。

 ――あたし、この人の事、全然解らない……。嫌な人かと思ってたけど……違うの?

 何だか気持ちが悪いくらいに、今日の長恭は優しい……。
 己を支える腕や、背中から伝わってくる温もりは、普通の人のように暖かい。それが、彼の言動と反比例して蘭香を戸惑わせる。
 蘭香はそれきり黙ってしまい、長恭はただ手綱を捌いていた。


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 長恭たちに連れられて第に帰ってきた蘭香と茅鴛に、菻静の怒りは頂点に達した。。
 あれほど、己や斐蕗が出歩くなと言ったのに、蘭香たちは聞かなかったのだ。
 鬼のような形相で、菻静は怒鳴る。

「あんたたちはッ、どんだけあたし達に心配かければ気が済むんだよ!!」

 狭い蘭香の居室に、怒鳴り声がわんわんと響く。
 怒られて当然のことなので、蘭香と茅鴛はただ黙って菻静の叱責を受けていた。

「うん……」

 しょんぼりと、蘭香は俯く。
 怒りまくっている菻静ので、斐蕗は蘭香の様子を冷静に観察していた。

 ――いつもと、様子が違う。

 そういえば、蘭香は長恭の馬に乗せられて帰ってきたが、反発するでもなく、妙に大人しかった。
 それが、何日か前の蘭香の態度からすれば、不自然ではある。
 やけにしおらしい彼女の様子に、斐蕗は質問をした。

「何かあったのだろう?」

 問われて、蘭香は目を上げる。

「――兵に襲われてた子猫を助けようとして、逆に危ない目に逢っちゃったの」
「その猫かい?」

 蘭香の腕の子猫がみゃあ、と鳴く。斐蕗は手探りで猫の頭を探り、柔らかな手触りを感じると、愛しそうに撫でた。

「でもね、お寺に詣でて、たまたま通りかかった公子が助けてくれたの。猫や茅鴛の手当てまでしてくれて……」
「だから、嫌に大人しいのだね」

 斐蕗は猫を離す。
 蘭香は猫を抱きなおし、頬ずりする。
 すぅすぅと寝息を発てる猫の様子に、蘭香は溜息を吐いた。

「……あたし、解らなくなっちゃった。公子の事……」

 本当にどう判別すればよいのか解らず、蘭香は当惑しているようである。
 斐蕗は微笑んだ。

「いい人だね」

 微笑む斐蕗に、はっと我に返って、蘭香はむきになって言い立てる。
 このままでは、長恭に折れてしまう。もう少し気を強く持たなくてはいけない。
 蘭香は元に戻ろうとやっきになった。

「でも、嫌なことばかり言うわ! 今日だって……」

 が、蘭香はまた黙り込んだ。
 嫌なことを言う。でも、猫や茅鴛を助けてくれた。どんなに京師が狂っていようと、長恭は澄み切っている。
 ――嫌いになろうとしても、なりようがない。確かに、長恭は優しい人なのだ。

「どうやら、その子猫もここに置いていいようだね」

 助けたときには荒かった子猫の息も、かなり安らいできている。
 暖かな蘭香の腕の中で、猫は深い眠りに落ちていた。

「彼は行き場の無くなった者や、傷ついたものを進んで助けようとしている。
 なかなかこの斉には居ないだろうね。こんな優しい貴族は……」

 蘭香は目を落とす。

 ――確かに、公子は優しいのだ。だから、この国を憂えている。

 彼は、この国の腐敗の原因は宮中にある、と言っていた。
 戦いしか目がない、血に飢えた兵達。無為に殺戮を繰り返す皇帝。それに脅える人々――。
 この国の政に携わる人々は、街の現状を見てみぬ振りをしようとしているのかもしれない。

「この国、何だかおかしかった……。非道が罷り通っているみたいなの。
 秩序が崩れて、何もかもが野放図になってる。
 ――長安は、ここほど栄えていないけれど、まだ上昇する力を感じたもの」

 真っ直ぐ告げる蘭香に、斐蕗は耳を澄ます。
 梁に居た頃、斉の前身である東魏の様子を、斐蕗も聞いていた。その頃から東魏は揺れている国で、地盤が安定していない。そして、その頃と今は、まったく変わっていない。
 斉は魏の時代からの漢族が大勢居残っている。彼等は過去の栄光を求め、戦いの時代にあるというのに、文雅の道を重視しようとする。
 が、斉を建国に導いたのは軍部の力であり、建国の礎を築いた献武帝高歓も、もともとは鎮獄隊の一将士だった。高歓と行動を供にした武将も多く斉におり、漢族との考え方の摩擦を起こしている。
 ――斉は、不安定な国なのだ。

「斉は色々複雑な国なのだよ。軍部と文官の吊り合いが取れていないから、こうなるのだ」

 斐蕗は率直に告げる。
 蘭香は顏を上げて、感情のまま口走る。

「そんな! 周とはまだ戦いが終わってないのに!
 こんな状態で周と戦ったら、この国の人はどうなるの? 一番悲惨な目に遭うのは、誰よりも平民なのに――」

 蘭香の言葉に、斐蕗は苦い笑みを浮かべる。

「そう、斉と周の戦いはまだ終わっていない、一触即発の状態だ。
 公子と宇文瑛の様子を見てもそう感じられるだろう?」

 もっともらしい斐蕗の言葉だが、蘭香は目を伏せる。

「あたしは…こんな荒んだ世の中、いや……。
 今まで、いろんな国を巡ってきたけど、何処も行き倒れた人や、殺された人の死体が累々としていたわ……。濃い血の匂いや、腐臭――。
 ああ、今の世の中は、安らぐところなんて、無いんだって。
 だから、早く戦いが終わってほしい」

 言いながら、蘭香は涙が溢れてくるのを止められなかった。
 どうして、戦とは関係のない下々の者が、悲惨な目に遭わなければならないのだろう。
 彼らは、生きるのに必死なだけなのに。優々と快楽を貪る上ツ方の者に虐げられなければならないのだろう――。
 そんな彼女を、斐蕗はあやすように慰めた。

「――このような世の中だから、わたしたちは、楽を奏して旅を続けているんだろう?
 少しでも、それが人々の安らぎになれたら、と……」

 蘭香は涙に濡れた目を上げる。穏やかで柔らかな面持ちに癒される。
 彼自身、幾多の険しい道のりを乗り越えてここにいる。そういう人の言は、人に力を与える。

「うん……!」

 蘭香の涙がほほ笑みに変わる。
 彼女のほほ笑みは、いままでこの楽団に希望を与えていた。否、楽団を招き、楽を耳にする人々にも安らぎを与えてきた。
 それはまるで、今は亡い楽団の安らぎの星であった女人のものに似ていた。楽座の希望、慈悲を与える女人――そう言われて、人々に愛されていた。
 菻静は、そのひとの面影を思い浮べる。
 忘れようのない、彼女の憧れの女人。

 ――柊鈴(しゅうりん)姉さん……、蘭香は、やっぱり姉さんに似てるよ……。

 どんなときでも強く、また誰よりも優しかった菻静の憧れの女人。
 そのひとの娘を菻静は眩しげに見つめた。少女は女人の持っていた資質を確かに受け継いでいた。
 菻静は、蘭香の笑顔を崩したくはない。本気でそう思った。



 長恭は隣室で彼らの話に耳を澄ましていた。が、彼らの声がなくなると、そっと部屋を出た。


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 蘭香が拾ってきた子猫は、あれから順調に回復し、食欲も出てきた。
 庭先で、食堂からもらってきた肉の残り物を、子猫は無心に貪っている。
 蘭香は猫の様子を微笑ましく眺めていた。

「名前決めなきゃいけないよな」

 茅鴛も、すっかり怪我が良くなり、しゃがみ込んで猫を見ている。
 蘭香はえへへ、と笑う。

「――弥々(みみ)!」
「弥々?」

 茅鴛は目を丸くする。
 余りに、単純な名前である。

「うん! 可愛い名前でしょ?」

 確かに可愛い名前だが、これは雌の名前である。
 首を傾げると、彼は子猫を目線に抱え上げると、股の部分を見る。

「あ、確かに雌だ」
「茅鴛の助平!」

 ふざけて、蘭香は少年の腕を肘で突つき、茶化す。
 へへっと、茅鴛は頭を掻いて笑った。
 静かなひととき。子猫を眺めて、友と笑って――この幸せが続けばいいと、蘭香は思う。
 蘭香はふと思いついたことを言った。

「――でも、あれから何にも言ってこない所を見ると、この子を飼ってもいいみたいね」

 蘭香は子猫を茅鴛の手から奪い取る。
 彼女は長恭が畜生を飼うことに嫌悪を示すと思っていた。が、彼は何も言ってこない。
 それは、長恭が子猫を置く事を許している、ということである。
 う〜〜ん、と考えて、茅鴛は呟く。

「……っていうより、この猫も、おれ達と扱いが同じなのかなって……」

 茅鴛が顎に手を当てて考える。
 蘭香はむっとして問い詰める。

「何、あたしたちが弥々と同じレベルだっていうの?」
「かもな」

 茅鴛は肩を竦める。
 蘭香はふくれる。少し長恭を見直したが、やはり、前とは変わっていないということか。
 不機嫌な顏で、蘭香は子猫を目前に持ち上げる。

「あ〜〜ぁ、早く周の性悪将軍があたしを諦めてくれたらいいのにね。だったら、こんなヤなところに長く居なくてすむんだもの」

 蘭香は弥々に語り掛けた。もちろん、返事など返ってくるはずもない。
 隣で聞いていた茅鴛は苦笑いを洩らした。彼とて、愛しい蘭香が早く自由になってくれるのを望んでいる。
 衣の裾にじゃれついてくる猫をあやしながら、蘭香は懐から笛を取り出した。
 ふぅ、と息を吐いて、彼女は笛を構える。

「でも、匿ってもらっているお礼をしなくちゃいけないのはあたしでも解るわ。相手が嫌な人だからこそ、失敗なんてしたくない」

 そういって彼女は笛に息を吹き込み、湿らせた。茅鴛も、それに倣い、笙に唇を充てた。
 二人で雅びな音を奏でる。和やかな空気が一瞬にして清冽なものに変わった。
 蘭香が幼なじみと市井に遊びに出かけてから、三日経ったが、依然として彼女は思いを反芻していた。
 どうして、長恭はあんなに優しかったのだろう。あまつの果てには、畜生の手当てまでして――。
 彼女にとって、長恭は不可解な人間、そのものだった。彼女の人生の中で一度も会ったことのない、免疫のない人間といえた。
 彼は他の貴族たちとは違い、冷たいだけではなく、(己を除いて)卑しいとさえ言われる楽士に優しいのだ。
 何故、どうして――? その問いだけが、彼女の脳裏にあった。

 ――まったく、馬鹿げてる!

 蘭香は己に纏わりついて放れない思考に対し、自らそう言い聞かせるが、思考を追い払うのにいつも失敗していた。それが余計に、彼女を苛立たせた。

 ――早く、早く自由になりたい……!

 今の彼女の、偽らざる本心だ。宇文瑛さえ諦めてくれれば、長恭から離れられるし、この不快な思考から逃れられる。
 以前、この第に現われてから、将軍の放った細作は姿を見せない。彼女を匿っているのが斉の公子・長恭と知って、警戒しているのだろうか。
 だとすれば、ここに逃げ込んだのは正解だったといえる。そして、厄介だともいえる。
 宇文瑛が、何時彼女を見限るか解らないからだ。しばらく触手を延ばしてこないのに安心してここから出ると、また襲われる可能性がある。
 つまり、何時ここから出られるか解らないのだ。
 ただし、長恭に退去を命じられれば別だが。
 そんな彼女でも無心になれる時がある。一心不乱に笛を吹いているときだ。
 彼女は物心ついたときから笛を吹いており、心底笛を吹くのが好きだった。彼女の母が、同じように笛を吹いていた。いわば遺伝であり、母が彼女に残した形見といえた。だから最近、彼女が笛を吹いている時間が増えている。二週間後に長恭の前で皆で楽を披露するのだから都合がよいのだが。
 蘭香が気分よく笛を吹いているとき、唐突に弥々が彼女の腿に爪を立てた。

「い――痛いッ!」

 彼女が悲鳴を上げると音が乱れた。茅鴛も笙を止める。
 彼が心配そうに覗き込むと、蘭香は足を擦って、服をまさぐっていた。浅黄色の下裾に小さな穴が空いている。
 蘭香は猫を目線まで持ち上げ、めっ、と叱った。

「もう。お気にいりの衣装に穴、空けちゃって。どうしてくれるのよぅ」

 子猫はどうして叱られているのか見当もつかない様子で、にぃ、と鳴いた。茅鴛が吹き出す。
 仕方がないと、蘭香が肩を竦めると、視界の隅に人影が見えた。
 咄嗟に彼女は勢いよく立ち上がった。
 吹き抜けの回廊の柱に凭れて、長恭がこちらを窺っていたのだ。
 蘭香は瞬時に身構える。

「こ……こんにちは」

 ただの挨拶だというのに、どうしてこの人相手だとこんなに言いにくいのか。
 判然としないものを抱えながらも、蘭香は気合いをいっぱい篭めてそう言った。
 だが、長恭は表情一つ変えなかった。
 蘭香はむっとして、彼を睨み付ける。

「少し、静かにしてくれないか。今、部下たちと談合している」

 感情の篭もらない冷めた声で、長恭は言う。
 蘭香も負けずに、冷静さを装って言い返す。

「そう。それなら、部下をやって止めさせればよかったのに。自ら出向いて、余計に大義な事をさせてしまったわけね」

 悔しいので、蘭香は思い切り揶揄する。

「でも、あたしたちも練習しなくちゃいけないんだもの。一応ごめんなさい、と言っておくわ」

 蘭香はこれで一撃を与えられれば、と思っていた。
 が、無礼ともいえる蘭香の言葉に、長恭は顔色一つ変えなかった。
 火花が散るほど冷たく睨み合っている長恭と蘭香の間で、茅鴛は居心地が悪そうに目を反らす。恐る恐る、蘭香の裾を引っ張る。

「ら、蘭香……もう揉め事を起こすなよ……。おれ達、ここを追い出されたら、大変なことになるんだぞ。
 それに、弥々も助けてもらっただろう」

 茅鴛は小声で囁いた。跋の悪いものを感じ、蘭香は彼をちらりと見、長恭を見た。
 戸惑いと苦さを混ぜた蘭香の表情に、長恭は片眉を上げた。それだけでも、彼には大きな表情の変化だ。

「あ……この猫のこと、助けてくれて、ありがとう……」

 切れ切れに蘭香は呟いた。
 これだけのことを言うのに、なぜこんなに緊張しているのか、蘭香は解らない。
 しばらく、彼女を見ていた長恭は、柱から身を放し、彼女らから背を向けた。
 またも蘭香はかっとし、彼の後ろ姿に怒鳴り付けた。

「あなたって、お礼にも返事出来ないのね! 本っ当に最低よ!
 あたし達が虫けら以下だって、そう思っているんでしょう!?
 あたし達は虫けらではない、人間よ!」

 鋭い顔をして長恭が振り返る。
 蘭香もひるみはしなかった。ひるんでは負ける、その思いが彼女を強くしていた。

「虫けらだと? そう思っているのはそなた自身ではないのか!?
 わたしが何時、そのようなことを言った!?」
「態度で示しているでしょう! あたしのこと、眼中にないから、平気で無視できるのよ!
 大体、あたしはお礼を言おうとしたのよ。喧嘩したかったわけじゃないわ!」

 傍らで固唾を飲んでいる茅鴛が、蘭香を止めようとした。
 茅鴛は彼女の肩を強く掴む。

「茅鴛、お願いだから止めないで!
 あたし、この人のこと許せないのよ!」
「やめろよ、弥々が怯えてる!」

 その言葉に蘭香ははっとして、足元に蹲っている子猫を見た。
 子猫は小さな体をかたかたと震わせていた。慌てて蘭香は子猫を抱き締め、何度も撫でた。
 彼女が猫に気を取られているうちに、長恭は二人の前から姿を消した。
 茅鴛は長恭のいた場所を見ていたが、蘭香が肩を震わせているのに気付き、彼女を見た。

「くやしい――くやしいよ、茅鴛」

 今にも泣きそうな目で蘭香は茅鴛を見る。

「あたし……我慢出来ないかもしれない。ここにいるの……。
 解ってるのよ。彼はあたし達を虫けらのように見ていないこと。
 弥々も、茅鴛も助けてくれたでしょう?
 彼が見下しているのは――あたしだけ」

 茅鴛は無言で彼女の髪を撫でる。しっとりと艶やかな感触が、手に心地よい。

「蘭香……自分から傷つくなよ。公子が嫌なら、近寄らなければいいじゃないか。
 何も、ずっとここにいるわけじゃないんだ。宇文将軍さえ諦めてくれればまた、元の暮らしに戻れるんだ」

 蘭香は頭を振る。

「何時のことか――解らないわ。
 それに、触れなければ無事って――逃げるようなこと、あたしはもっと嫌」

 茅鴛はため息を吐いた。
 蘭香の性格は解っていたはずだ。だからこそ、男の彼でさえ恐れ戦く長恭に彼女は体当たりでぶつかっていくのだと。
 彼女のその性格は強いといえるのだろうが、反面、自分自身で生傷を作っているようなものだから、茅鴛としては見ていられない。

「あたし……矛盾してるね。逃げるのは嫌、って言っておきながら、今のあたしは何なんだろう。宇文将軍から逃げ回っているのにね」

 自嘲気味に蘭香は一人ごちた。

「あの時は……本当に恐かったけど、考えるほど宇文瑛はあたしに嫌な事しないかもしれない。
 あたしは、一時の恐怖に捕らわれて、ひとつのことしか見られなくなっているのかもしれない」
「――何が言いたいんだよ」

 蘭香の言葉を茅鴛は巧く飲み込めていなかった。彼の手のひらに汗が滲む。
 蘭香の表情が達観したように穏やかなのが異常だった。

「あたし……だめもとで、宇文将軍に身を任せてもいい。
 きっと…恐いのは初めだけよ。慣れるまでは嫌でしょうがないかもしれないけど、最期までそうかは解らないわ。
 女って……そういうものでしょ? きっと……乗り越えて……」
「駄目だッ!」

 蘭香が語り終える前に、茅鴛は彼女の告白を止めた。

「そんなこと、考えちゃいけないッ! おまえ、自分の人生を無駄にするつもりか!?
 宇文将軍が恐かったんだろ!?
 恐怖に引きずられたまま、諦めを希望にすり替えて人生間違えるつもりなのか!?」

 いつになく、茅鴛は激して言った。蘭香さえ、気負される程に。

「茅鴛……」

 蘭香は何も言えなくなる。

「おれは――お前を犠牲にしてまで自由でいたくない!
 他の皆も一緒だ!」

 蘭香は目に涙を一杯貯めて言った。

「それは……あたしも同じよ。あたしのせいで、いつまでもここに足止めなんて、耐えられない……」

 彼女が頭を振ると、雫が舞うように散る。

「――公子さえいいって言えば、おまえは納得してここに隠れているんだな?」

 緊迫感を孕んだ茅鴛の言葉に、蘭香は顔を上げる。

「茅鴛?」

 訳が解らず、蘭香は鸚鵡返しに聞いた。
 が、彼女が状況を悟るより先に茅鴛は飛び出していった。

「ち、ちょっと、待って! 茅鴛ッ!」

 が、茅鴛は言うことを聞かず、走り去っていった。

 ――どうして……どうして、こんなことになるの!?

 頼み込まれて、ここに居るほど惨めなものはない。それこそ、蘭香が耐えられないことだ。
 止めなくてはいけない。しかし、彼女が割って入っていいものか。
 己が入っていくと、多分また長恭と揉め事になる。
 そう考えて、はた、と思いついた。

 ――兄さま…兄さまに頼めば……。

 蘭香は顔を上げると、茅鴛が走っていった逆の方向に足を向けた。


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 長恭が将士と重要な会議をしている最中、茅鴛は大音声で怒鳴りこんできた。
 突然の少年に闖入に、将士は皆唖然とする。
 例のごとく、長恭の傍らに付き従っていた相願は鬼のような形相で茅鴛を睨んだ。

「あんたが――あんたが冷たすぎるから、蘭香は周に行くって言ってるんだ!
 ここにいるよりましだってな!」

 茅鴛は長恭の前に歩み寄り、彼の胸倉を掴もうとする。
 が、相願がすばやく茅鴛の腕を掴み上げた。
 痛みに、茅鴛は顏を顰める。

「何を、この下郎ッ!」

 相願はいきり立ち、ぎりぎりと少年の腕を力任せに捻る。
 茅鴛は呻き声をあげる。
 加減を知らない相願の行いに、長恭は眉間を寄せた。

「相願、止めろ」

 平掩が友を押さえにかかる。
 が、彼は相願に易く振り払われた。
 相願は茅鴛の首を絞めかねない形相で、少年を縛めた。

「無礼にも程がある! 貴様、己を何だと心得ている!」
「相願ッ!!」

 長恭が鋭く一喝する。
 びくり、と相願は我に返り、主人を見た。
 厳しく、苛烈な面持ちの長恭が、彼を睨んでいた。
 思わず、相願は茅鴛を放してしまう。
 床に落ちた茅鴛は、弛緩した身体を取り戻し、荒く息をする。

「ですが、公子ーー」

 相願はなおも言い募ろうとする。
 長恭は細く溜め息を吐く。

「いい、言わせておけ。わたしも聴く義務がある。わたしがこの者等を置くと言っているのだ」

 至極、長恭は冷静だった。それが余計に、茅鴛の燗にさわった。

「あんたはそんな風に、いつも澄ましていればいいんだろうけどな、蘭香は、そう出来ないほど、追い詰められているんだ。
 周の宇文将軍に襲われて、玩具のように扱われて――あんたに、蘭香の気持ちが解るか?!」

 長恭は沈鬱に目を伏せる。
 蘭香が宇文瑛にされそうになったことは、己が苛まれていること。解らぬわけがない。

「――よく解る」

 あまりに静かに、呟くように長恭が言う。
 何不自由なく生きてきた皇族などに、己たちの気持ちが解るはずない――。
 茅鴛はそうたかを括っていた。だから、長恭の思いがけない応えに激昂した。

「は! 綺麗事が得意なんだッ!
 やっぱり、あんたもそこらの貴族と同じなんだ!」
「茅鴛、止めろッ!」

 後から、手伝いで辿り着いた斐蕗がとめにかかった。
 今にも躍り出そうになっている茅鴛を斐蕗は羽交い締めする。

「茅鴛、おまえも、蘭香の気持ちを解っていないだろう!?」
「こいつよりは、おれの方が蘭香を知ってる!」
「公子が、蘭香の気持ちを解っていないと、どうやって断言できるのだ!?」

 斐蕗の言葉が茅鴛の心に突きささる。彼は何も言えなくなった。
 がっくりうな垂れてしまった義弟の肩を引くと、中央にいる長恭と、呆気にとられている彼の部下たちに頭を下げた。

「どうも、迷惑をかけて申し訳ない。この子も悪気があったわけではないのです。ただ、蘭香のことが心配で居ても立っても居られなかったのです。どうか、この子やわたし達の気持ちを汲んで、変わらず蘭香を守ってやって下さい」

 短く、長恭は「よい」と言う。彼は、それ以上なにかを言う気配はなかった。
 もう一度長恭の様子を観察して、斐蕗は茅鴛とともに下がった。
 ただ、明らかに変化した長恭の気配をしっかり肌にとらえながら――。



「公子、今度ばかりは、我慢なりませぬッ! あの者等を、この第から追放すべきですッ!」

 堪忍袋の尾が切れた相願は主人に直談判したが、長恭は手で制止した。

「すまぬ――…。ひとりだけにしてくれ」
「公子ッ!」

 未だ納得しない相願は、長恭に詰め寄るが、平掩に無理やり手を引かれ、引きずられていった。
 長恭は部下たちが総て退出したのを見届けると、細くため息を吐いた。

「――調子が狂う……」

 蘭香がここに来てから、彼女の勝気な顔を見るようになってから、いつもの冷静さを無くし掛けている。
 長恭にとって、それはとても怖ろしい事であり、なるべく平静を装おうと努めるが、彼女の前では上手くいかない。

 ――複雑な思いが篭もった、長恭の呟きだった。




 訳が解らないまま茅鴛を引き止めにいった斐蕗は、蘭香から総てを聞いた。

「そうか――」
「あたしは、やけっぱちな愚痴を言っているつもりだったのに、あんなに大きな騒ぎになっちゃった」

 恥ずかしそうに蘭香は髪を弄んだ。

「で――蘭香は公子に無視されている、と思っているんだね」
「そうよ」

 蘭香は顔を上げた。
 その余りに無邪気な顔に、斐蕗はゆったりと笑う。

「むしろ、わたしはその逆、に見えるのだがね」
「まさかぁ」

 彼女は咄嗟に打ち消し、あははと笑う。

「蘭香は、公子の常識の範疇を超えた女だったのだろう。
 いつもは軽く女を無視できる公子だったとしても、蘭香にはそれが出来ない」

 蘭香は仰天する。
 嘘だ、そんな風には見えない。長恭は己を邪魔だと思っているはずだ。
 そうでないと、あの態度はおかしい。

「えぇっ、あれは無視されているわ!」

 斐蕗は依然として笑みを崩さない。

「他の女なら、無視した時点で引き下がるだろうが、蘭香はそれをせずに、逆に彼の心に深く付け入ってきた。
 わたしも、公子と出自が似ているから解るのだが、貴族の女はほとんど人形のようなものだからね――。
 そこでいくと、蘭香は一筋縄ではいかない。  公子は多分――焦っているんだ」
「……そうなのかな……」

 釈然としないまま、蘭香は無理に納得しようとする。
 そうだとすれば、今の彼女の苛立ちと似ているではないか。彼女も、まったく長恭のことが理解出来ずに苦しんでいた。そのため、先程も彼に絡むようなことをした――。

「蘭香も、似たようなことで悩んでいるのじゃないかな?」

 斐蕗の質問に、蘭香はぎくり、とした。

「どうして――解ったの?」
「それは、今まで蘭香が会ってきた男の中に、公子のような人間が居なかったからだ。
 三日前、蘭香が公子を戸惑いの目で見ていたのをわたしが知らなかったと思ったのかい?」

 蘭香は目をぱちくりとさせ、斐蕗を見る。

「――兄さまって、すごいわね……」

 蘭香は呆然と呟く。
 斐蕗は庭にしつらえられた池を照らす光を眺めて言った。

「世の中には、色々な人間がいるんだ。
 よくいる貴族……その中には、わたし達を苦しめる宇文瑛のような人間もいるし、心優しい公子のような人間もいるんだ。
 勿論、精気のない姫君もいれば、蘭香や菻静のような、生きることに直向な女もいる。だから、生きていることは面白いのだ」
「何だか――難しいことね……」

 頭を悩ませて蘭香は言った。

「だからって、あたしが公子を理解できるかどうかは別だわ」
「まあ、そう慌てて応えを出すことじゃないよ」

 斐蕗は蘭香の反論を差し止めた。

「おまえたちの演奏がうるさい、と彼自身が止めにきたのだろう? かなり、焦れてきているのだろうね。視界にないどころか、ありすぎて困り切っているようだ」
「――兄さま、それは誇張しすぎなんじゃないの?」
「見ていれば、いつかわかるよ」

 こともなげに斐蕗は言い切ったが、蘭香には俄に信じられなかった。
 つい先程まで長恭に猛然と無視されていたところだ。それのどこを取って、彼が自分のことを気になって仕方がないと感じることができるのだ?

「そして、蘭香自身も何か変わるかもしれないね」
「――あたしが?」

 斐蕗の台詞に蘭香は頓狂な声を上げた。
 長恭の存在で、自分が変わる――?
 そんなこと、ありえるのだろうか。顔を見たくないほど嫌な存在だというのに?

「公子のことだけじゃない。周の宇文瑛将軍のことに関しても。
 蘭香が、どうこの困難をくぐり抜けるかによって、蘭香の人間性が決まってくるだろう」

 ただ黙って、蘭香は斐蕗を見つめた。
 この困難が、自分の人間性を決めるのだろうか――。
 判然としない思いで彼女は立ち止まっていた。
 そんな彼女を、茅鴛が不安そうに見つめていた。




第四章(1)へつづく


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