Part2・アルテミス




 愛と美の女神アプロディテには気に食わぬ女神がひとりいた。
「ねぇエロス、あの突っ張って、あたしのことを馬鹿にするあの小娘に痛い目を合わせる方法はないかしら」
 アプロディテは手にした真紅のバラの花を握り潰す。
 エロスは少し気圧される。
 睫毛の濃い、艶めかしい眼差しをきつくして眺めてくるときは、大抵無理難題を吹っかけられるときだ。
 匂いやかで優雅な物腰に似合わず、この母の気性は激しく、享楽的だ。
 何しろ野蛮で血なまぐさい軍神アレスを、平気で愛人にするくらいだから。
 エロスは溜め息を吐いた。
「……で、何だよ」
「アルテミスとオリオンに金の矢を打ち込みなさい!」
「えっ!」
 エロスは目を剥いた。
 月の女神アルテミスは狩りと純潔の女神でもある。彼女に信奉を捧げる者もまた、純潔の誓いをたてる。
 また、汚れを知らない女神は、己を汚そうとする者には容赦しない。一度、偶然に彼女の裸身を見てしまった猟師・アクタイオンを男鹿に変化させ、彼は飼っていた猟犬に食い殺された。
 一方のオリオンは、海神ポセイドンの子で狩りをよくする偉丈夫である。父から受け継いだ能力を生かして、海のうえを歩き、なかでは息が途切れることがない。
 また彼は恋の狩人でもある。神・人問わず女を射落としてきた。
 今は暁の女神エオスに愛され、彼女の東の果ての城で蜜月を過ごしている。
 そんな男と雄々しい女神を、母は結ばせようというのだ。
 アルテミスは、恋の矢で人を惑わすエロスを忌み嫌っていた。
 エロスは頭痛がしてきた。
「ムチャクチャだよ母上。
 それに、あのふたりには接点がないよ」
 野原で駆け回っているアルテミスと、エオスの城にいるオリオンでは顔を合わせる可能性が低い。
 エロスの矢は射たれた直後にふたりが互いに顔を合わせなければ効果が発揮されない。
 が、アプロディテは引かなかった。
「あら、そんなのひらひら蝶々にさせればいいじゃない。あの蝶々にはそれくらいしか取り柄がないんだから。
 まぁ、アルテミスは知ってるかもしれないから、あたしが他の方法を考えるけれど」
 蝶々とは息子エロスの妻・プシュケのことである。彼女は人の形から蝶に変化できる。
 エロスは顔色を変える。
「プシュケにそんなことさせたくない!」
 とたん、母の目は鋭くなった。
「あんた、あたしよりあの女の方がいいってわけ?」
 殺気さえ帯びる語調。
 まだ、プシュケと美しさを争ったことを根に持っているのだ。
 これ以上逆らうとややこしくなるのが目に見えている。
 エロスは嘆息した。
「……わかったよ。
 プシュケにも協力させるから、母上が段取りして」
 まったく母にあらがえない自分が、エロスは情けなかった。

「本当に、お義母さまの悪い癖よね。
 自分の気に食わない人間を懲らしめないといられないんだから」
 プシュケは娘の喜びの女神・ヴォルプタスをあやしながら言う。
彼女もかつて、アプロディテに散々いじめられた。
 それを何度も助けたのが、エロスだった。
 が、基本的にエロスは母に逆らうことができなかった。
「ごめんよ、君に変なことをさせて」
 心底すまなそうな夫の顔に、プシュケはかぶりを振った。

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 オリオンはこの単調な毎日に飽き飽きしていた。
 暁の女神エオスは彼が外に出ないように釘を刺し、役目を果たして水平線を朱に染めるまで帰ってこない。
 狩人の彼には耐えられない毎日だった。エオスのいない空白のあいだに、獲物を追い掛けられたらどれだけいいか。
 あのことがなければ、万にひとつもこんな所に止まっていなかったはずだ。
(メロペ……)
 彼女さえ手に入っていれば。
 酒の神ディオニソスとクレタ王ミノスの娘・アリアドネの孫娘である彼女をオリオンは愛した。
 が、メロペの父はふたりの結婚を許さず、彼は傷を負わされ逃げてきた。
 幸いにも傷は治ったが、心の傷までは治せなかった。
 そこに現われたのが、エオスだった。
(確かに、エオスには助けられたが……)
 いかんせん、独占欲が強すぎる。
 内心辟易していた。
 今日も彼は、大理石の輝かしい城のなかで長椅子に寝そべりながら、窓の外に流れる雲を眺めている。
 と……。
 どこから迷い込んだのか、宝石のような煌めきを湛える蝶が入り込んできた。
 オリオンは目を見張る。
 虹色の輝きに魔法を思わせる鱗粉。
(−−捕らえたい!)
 その一念に刈られたオリオンは跳ね起きた。
 見届けたように門から出る蝶。
 オリオンは弓矢を手に走りだす。


(−−近頃のエオスはだらしがない!)
 決められた刻限よりも早く城に帰り、囲った男と甘い時間を過ごすエオスが、アルテミスには許せなかった。
(それもこれも、オリオンという男のせいだ。
 あの男さえいなくなれば、エオスは元にもどるだろう)
 アルテミスは険しい面持ちで彼女の物の具を背負い行く。
 オリオンを殺すために。
 純潔をよしとする彼女には解らない。恋をするこころが。
 どうして人は恋に狂うのか、彼女は忌々しく思う。
 彼女の忠実な侍女だったカリストや、愛する兄・太陽神アポロンは自ら愛のなかに飛び込んでいった。
 そんな彼等の気持ちが、アルテミスには解らない。
 兄・アポロンは、そんな彼女が好きだというが。
 陰っていた森に光が差し込んだとき−−
 ふたりの狩人は出会った。
 一時、眼差しが交ざりあう。
 が、ふたりは交互に鋭い痛みを感じ、倒れ臥した。

「アポロン、居ますか!」
 流麗な調べを竪琴に乗せているアポロンにエオスは詰め寄る。
「あなたの妹をどうにかしてちょうだい!
 わたしの居ない隙に、オリオンを奪ってしまったわ!」
 ぴくり、と肩を聳えさせ、アポロンはエオスに振り返る。
 エオスはひっ、と息を呑んだ。
「何だと……?」
 燃える目付きで暁の女神を睨むと、アポロンは手をかざす。
 手の平から炎が生まれる。
 炎のなかに、仲良く寄り添うオリオンとアルテミスがいた。
 楽しげに狩りをし、同じ獲物を手に手を取って追い詰める。
 誰も入る隙がなかった。
 アポロンは炎を握り潰す。
 彼の苛烈な眼差しに、エオスは震えた。


 恋を否定した純潔の女神が、恋にのめり込んでいる−−。
 アプロディテは己の勝利に喜悦し、甲高い笑いをあげた。
「母上は余程嬉しいみたいだよ」
 居心地悪くエロスは洩らす。
 プシュケも同様の面持ちだ。
「当人同士がよければそれでいいのかもしれないけれど−−傷ついた人もいるのだから、可哀想だわ」
 プシュケはエロスの空の杯にネクタルを注ぐ。
「エオスには借りができたし、またいつか返すさ」
 眉根を寄せて彼は木の実を摘んだ。
 その時−−
 神殿のなかに突風が吹き荒れたかと思うと、光り輝く青年がエロスの首を掴んでいた。
「ア、アポロンさまっ!」
 プシュケが悲鳴をあげる。
「−−また貴様か!」
 ポイボス・アポロンは灼熱の太陽そのものの激しさでエロスを凝視した。アルテミスの件だろう。エロスも負けずに睨み返す。
「勘違いしないでくれよ。
 確かに前は僕が自分から射掛けたけどね。
 今回は母上の命令さ。
 喧嘩を仕掛けるなら、母上にしてくれよ」
 エロスはニヤリ、と笑う。
 過去、まだエロスが童形だったころ、アポロンに嘲笑れ彼はアポロンに金の矢を射、河の神の娘ダプネに鉛の矢を射た。
 結果、アポロンは狂おしい恋に身を刈られ、ダプネはアポロンを恐れ月桂樹に変化した。アポロンの初めての、悲しい恋である。
 アポロンのダプネを想うこころは今でも糸を引き、彼とエロスの間に因縁を残している。
 が、今回はアポロンも引き下がらざるをえなかった。エロスを害すれば、アプロディテを敵に回すことになる。
 アポロンはエロスを放すと、呆気にとられているプシュケの手を取った。
 プシュケの頬に朱が差す。
「恐い思いをさせたね。美しい蝶々よ……」
 そう言って、アポロンはプシュケの手の甲に口付けした。
「は、はいっ……!」
 ぽうっとして、プシュケはアポロンを見つめた。何しろ、神々のなかでも並ぶ者のない美男子だ。どんな女でもこうなる。
 そんな彼女をエロスが睨む。
「くそっ!」
 アポロンが消えた入り口に向かって、エロスは杯を投げ付けた。

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 この甘美な想いは何なのだろう。
 獲物を追うときの幸福感。
 ともに杯を傾けるときの充足感。
 逞しい胸に身体を預けるときの陶酔感。
 これが、恋なのか。
 アルテミスは安らいだ面持ちで目を瞑る。
「アルテミス、こんなところにおられたのか」
 篝火に導かれて、森のなかの恋人に辿り着くオリオン。
 アルテミスは薪を火にくべる。
 長い髪を頭上でひとつに纏めているため顕になっている項が、炎で照らされているだけではない火照りを見せている。
 ふたりは森のなかで隠れて逢う。
 恋人ができても、彼女は純潔を守る者の守護者。
 それが、彼女を後ろめたくさせ、未だ公然と恋人と逢うことをできなくさせている。
 オリオンはそんな女神を可愛く思う。
 恋に不慣れで、真っすぐで、融通がきかない。
 男のように振る舞う女神の恥じらう様が、彼には愛しかった。
「アルテミス……」
 オリオンは彼女の隣に座り、処女神の肩を抱こうとする。
 とたん、アルテミスは顔を真っ赤にし、オリオンから離れる。
 これも、処女の護り神ゆえか。
 恋人になってから数日経っているのに、ふたりは身体ごと愛し合っていない。
 彼がアルテミスを抱こうとすると、彼女は肢体を強ばらせる。
 きっと、時間がふたりを結ばせてくれるだろう−−オリオンはそう思っていた。
 心ではひかれ合いながらも、寄り添うことしかできない恋人たちを、艶やかな光を放つ蝶が眺めていた。


「アルテミス、いい加減に目を覚ませ」
 明るい日差しが差し込む白亜の神殿に、まばゆい男神が尋ねてくる。
 アルテミスは兄を欝陶しく見る。
 彼女がオリオンを愛してから、一日も欠かさずアポロンは会いにくる。
「恋に捕われるなど、おまえらしくない」
 アポロンは妹の肩を掴んだ。
 アルテミスは頭を振る。
「兄上、それ以上言わないでください。
 純潔の神と突っ張ったところで、わたしも万人の逃れることのない物思いから目を背けることができなかったのです」
「何を言う!」
 アポロンは背後から妹を抱き締める。
「こんなことで、我を忘れないでくれ。
 おまえを信奉する者のことはどうする。
 テセウスの子、ヒッポリュトスなど、特に純潔の神としてのおまえに想いを捧げている」
 兄は熱く妹を抱き締める。
(オリオンにも、こんなにすんなりと抱かれることができればいいのに……)
 アルテミスは哀しげに目を伏せる。
 彼女はアポロンの腕から逃れた。
「もうわたしのことは放っておいてください。
 どんな汚名でも着ます。わたしはそれで構わないのだから」
「アルテミス……!」
 アポロンは怒りに目を剥く。
 いつも己に従順だった妹が、初めて己の腕を拒んだのだ。
 アポロンは嫉妬に胸を燃え立たせた。


「ああ、いい気味……!
 純潔の女神の面子も丸潰れね……!」
 アッハハハ、と嬌声に似た笑い声をアプロディテを発てた。
 エロスはそんな母を苦々しく眺める。
「さて、と。
 もうそろそろ仕上げといきましょうか」
「えっ、まだやるの!?」
 エロスは抗議する。
 アプロディテはちらり、と息子を見やる。
「何、文句あるの?
 あんた、あたしに歯向かう気?」
 エロスはぐっ、と言葉を堪える。
 ふふん、と美の女神は嗤う。
「今度はね、テセウスの妻パイドラに金の矢を射、義子のヒッポリュトスに鉛の矢を射なさい。
 アルテミスに貞潔を捧げるヒッポリュトスに、義母のパイドラが迫るの。
 面白いでしょ?」
 テセウスの妻パイドラは彼の初めの妻・アリアドネの妹で、ミノス王の娘である。
 彼は彼女と結婚する前、アマゾンの女王アンティオペとの間にヒッポリュトスを儲けている。
 ヒッポリュトスはアルテミスの信奉者だけあって、狩りを好み、野原で駆け回るのを日課としていた。
 そんな彼だから、女から言い寄られても振り向きもしないだろう。
 ましてや、義母である。
「母上って、そういうややこしいのが好きだよね」
 半ば呆れて、エロスは言う。
「うふふ、楽しいでしょ。
 で、やってくれるの?」
 咲き乱れる桃金嬢を愛でながら、アプロディテは息子に艶めいた流し目を送る。
 有無を言わせぬ強引さが、目の端々に漂っている。
 口をへの字に曲げたまま、エロスは長椅子から立ち上がった。

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(アルテミスさま……)
 ヒッポリュトスはいつもより長く感じられる新月を物思わしげに見つめる。
 彼は、女神そのものの、冴え冴えとした月の光を慕っている。凛然とした光を身に受けられない現在が不安だった。
 父・アテナイ王テセウスは現在トロイゼンに旅行中で、彼は留守を守るためアテナイに残っている。
(彼って余程、アルテミスさまに傾倒しているのね)
 柘榴の木に隠れて、エロスは好機を狙っている。横で蝶の形をしたプシュケが呟いていた。
(にしても、今回、母上は何を考えているんだろう)
 指の先に蝶を留まらせ、エロスは話した。
 その時、
「ヒッポリュトス、夜露は身体に毒よ」
 黒髪の巻き毛にヴェールを被った王妃・パイドラがシルクの外套を手に歩み寄ってきた。
 義子は眉を潜める。
 エロスは身を乗り出した。
(−−今だ!)
 素早く金の矢をつがえ、パイドラに打ち込み、続けて鉛の矢をヒッポリュトスに射掛ける。
 痛みが突き刺さった感触に強く目を瞑り、ヒッポリュトスは目蓋を開ける。
(え……!?)
 不意に、義母の微笑みが生臭く見えた。あわてて目を擦る。
 が、パイドラは漆黒の瞳を艶めかしく濡らしている。
(−−!)
 悪寒が身体内を走る。
「い……いえっ、もう中に入りますので……」
 ヒッポリュトスは足早に宮殿に入る。
 パイドラは胸の疼痛と、不意に沸き上がってきた陶酔に、唇を震わせた。


 ヒッポリュトスがエロスの矢によって呪いを掛けられたその頃、オリオンは恋人のいない淋しさに胸を押さえていた。
 アルテミスは兄の宴に呼ばれて、ここにはいない。
 彼女とアポロンは双子の兄妹として、深い絆がある。
 オリオンにはそれが嫉ましい。
 こんな想いは初めてだった。
 身体より何より、こころが欲しい。そんな恋だった。
 気を紛らすよう、オリオンは飼い犬のシリウスを撫でようとする。
 と、シリウスは森の闇に向かって唸り声をあげた。
「シリウス……?」
 訝しげに猟犬に声をかける。
 が、異様な気配にオリオンは顔を上げた。
「……っ!」
 オリオンの身体より大きい蠍が、猛毒を仕込んでいる鋭い尾をもたげている。
 咄嗟に彼は矢を構え、放つ。
 弓鳴りをとどろかせ、矢は蠍に突っ込む。
 しかし、頑丈な甲が矢を弾き返した。
 主人を護るため、シリウスは立ち向かう。
 が、蠍の尾で身体を抉られ、弾き飛ばされる。
 シリウスはうめき声をあげ、痙攣する。
 オリオンはあとずさった。強者の彼が、初めて身の危険を感じた。
 シリウスの震えは弱まってきている。
 額に汗を浮かべ蠍を見ると、オリオンは一目散に逃げ出した。
 森を突っ切り、海岸に出ると、コバルトブルーの波に身を沈めた。


 神々を集めた酒宴の最中、アポロンは群がっている美女の腕を振り払い、庭に出る。
 噴水の近くに来ると、神力で火を起こし、事の次第を眺める。
 すべて、彼の思い通りになっていた。
 アポロンは唇の端をあげる。
「兄上、こんなところにおられたのですか。
 主催者がこんなところにいたら、皆が退屈がります」
 アルテミスが二人分の酒杯を手に近づいてきた。アポロンは手を振る。
「いや、いい。少し飲みすぎた。
 それより、夜が明けたら、久しぶりに狩りに行かないか」
「でも、兄上……」
 アルテミスは一刻も早くオリオンのもとに戻りたかった。
 アポロンがふっ、と笑う。
「それとも、わたしとは狩りをする楽しみがなくなったのか?」
 彼の目に否を言わせぬ強い輝きがあった。
「……いえ、行きます」


 アポロンが狩場に選んだのは、海沿いの草原だった。
 鹿をめがけ、彼は銀弓を引き絞る。
 金の矢が放たれると、弓の手練れらしく、あやまたず命中する。
「今日はよく獲物が捕れるな」
「ええ……」
 上の空で答えるアルテミス。
 アポロンは溜め息を吐く。
「すっかり腑抜けだな。
 狩りの女神の名が泣くぞ」
「そんな……」
 アルテミスは反発する。
 アポロンの目が妖しく光る。
「だったら……」
 彼は海原を指差す。
「あれを射てみろ」
 そこには球形のものが、たゆたうように浮かんでいた。
 それこそ、アポロンの誘導だった。
 アルテミスは矢筒から銀の矢を取り出すと、金の弓につがえ、弓弦を引く。
『駄目−−っ!』
 えっ、とアルテミスは振り返る。
 女の声を聞いたような気がした。
 が、矢は弓から離れ、球体に突き刺さる。
 丸いものは、海のなかに沈んでいった。


 アルテミスが、幾日経っても姿を見せないオリオンの変わり果てた姿を海岸で見つけたのは、数日後だった。
 彼の脳天には、銀の矢が刺さっていた。

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「……これで満足なわけ? 母上」
 後味悪く、エロスはアプロディテに問う。
 愛の女神は冷たい視線で息子を見た。
「このあたしを、愛を侮った報いよ。
 確かに、アポロンがあんな行動をするとは思わなかったわね。
 まぁ、あの娘にはもう少し痛い目に合ってもらうけれど」
 女神らしい酷薄さでアプロディテは言う。
 出来事を一部始終眺めていたプシュケは涙ながらに夫に報告した。
 アポロンが放った大蠍から逃れるため海に入ったオリオンを、アルテミスは射殺してしまった。
 オリオンの亡骸に取りすがり、ひとしきり慟哭したアルテミスは、神々の王たる父神ゼウスに懇願し、恋人を夜空の住人にさせた。
 余談であるが、アポロンは死してなお妹に愛されるオリオンに嫉妬し、彼を追い詰めた蠍を夜空に遣わした。
 こうして星となっても、オリオンは蠍に苦しめられることになる。
 オリオンの死後、アルテミスは自分の宮殿に籠もったまま、涙に暮れている。
「わたくしは、今回のことで十分だと思うわ」
 帰ってきた夫に、プシュケが溢す。エロスも頷く。
「でも、動きだしたものは止まらないんだ」
 アプロディテが仕組んだ次なる報復は、もう始まっていた。


 何故かいつもより、月光の切れが感じられない。
 毎夜、満ちる月を不安に眺めるヒッポリュトス。女神の影の薄さが、彼を落ち着きなくさせた。
 ふと、人の気配を感じ、彼は燈を向ける。
 火明かりのなかに、身体を目深くヴェールで覆っている人影があった。
「ヒッポリュトスさまですな。
 我が主人が男手がなくて困っておりまする。
 どうかお助けくださいませ」
 老婆の声だ。小さな身体を曲げて礼を取っている。
「あ、あぁ……」
 もとより正義感の強い青年なので、拒むことはない。
 灯りを手に取ると、ヒッポリュトスは老婆に付いて闇に紛れた。

 案内されたのは、町外れにある旧い屋敷の一番奥の部屋だった。
 燈明が少ないので解り辛いが、ひび割れた大甕や艶のない調度類が、この屋敷が長い間手入れされていないことを物語っている。
 このような所に老婆の主人がいるという。
 なるほど、これほどに荒れているのだから、仕人がいないというのも頷ける。
 が、どうして己が呼び出されたのか、という疑問が出てこないのが、彼らしいところか。
「ここです。お入りください」
 老婆が軋むドアを開ける。
 何の疑いもなく、ヒッポリュトスは室内に入る。
 と、彼が入ったとたんに、ドアが締められ、鍵が掛けられた。
 慌てて振り向き、ドアノブを捻る彼の背中に、柔らかなものがぶつかってくる。
「ヒッポリュトス……!」
 びくり、と彼は身体を引きつらせる。
 聞き慣れた、義母の声だった。
「抱いて! わたしを……」
 パイドラの手が、彼の胸板を、首筋をゆっくりなぞる。背に、熱い吐息を感じる。
 ぞくり、と悪寒が走った。
「いやだ!」
 ヒッポリュトスは義母を突き飛ばす。
 パイドラは悲鳴をあげて倒れた。
「姫さまっ!」
 外から老婆の叫びが聞こえた。
「どういうことですか、義母上!
 あなたは我が父の妻ではありませんか!」
 義子が義母を詰る。
 パイドラの湿った喘ぎが彼の耳を汚す。
「いや……義母上なんて呼ばないで、パイドラと言って。
 あなたしか目に入らないの……っ」
 なおも、パイドラは彼にしなだれかかり、頬に胸にキスを浴びせ、しなやかな指が腰から下腹部に伝っていく。
 嫌悪から、ヒッポリュトスは義母を引き剥がしす。
 が、彼女は彼の脛に縋り付いた。泣き声が大きくなり、物狂おしく響く。
 ドアの外からも涙声が聞こえる。
「どうか、姫さまの想いを受けとめてあげてくださいたせ!
 でないと、姫さまは死んでしまわれます!」
 女達は錯乱している。
 かまわず、ヒッポリュトスはドアを蹴破り、部屋から飛び出した。
 アルテミスの信徒ヒッポリュトスにとって、彼らは汚らわしいものだった。ぬめりを帯びた動物にしか見えなかった。
 ヒッポリュトスは義母を残し、夜の森を駆ける。
 そんな彼を眉月が見下ろしていた。


 薔薇の香の薫る水鏡で下界を覗き見し、アプロディテは真紅の唇を形よく曲げた。
「うっふふふ、上手くいってるじゃない。あたしの目論み通りになってるわ」
「目論み通りって……大概悪趣味だね」
 母の後ろから、エロスは言葉を投げる。
「何とでもおっしゃい。
 鉛の矢を打ち込まれたあの男は、欲望を抱くことができないわ。
 だから、可哀想なパイドラは自分の想いを遂げることができないの。
 この後どうなるかしらね……。
 自分の恋に捕われているアルテミスは、自分の信徒を助けることができないのよ」
 ブロンドの巻き毛をいじりながら、嬉しそうに言う。
 エロスの恋の矢は、解呪することができない。
 金の矢を射られた者は想いを遂げるまで灼熱の苦しみを味わい、鉛の矢を射られた者は恋うる充足感を知らずに生きなければならない。
(あの感覚は半端じゃないからなぁ……パイドラは耐えられるか?)
 エロスは何も起こらないことを祈るのみだった。


 が、事はすぐに起こった。
 遺書を残してパイドラが自殺したのだ。
 彼女は遺書に、ヒッポリュトスに辱められた、と書き留めていた。


 パイドラの死に一番ショックを受けていたのは、ヒッポリュトスだった。
 己が拒まなければ、義母は死ななかったかもしれない、そう思うと胸が締め付けられた。
 旅先にいる父・テセウスに義母の死の知らせと遺書を送り、彼は先に葬送の用意をし始めた。
 ヒッポリュトスは遺書の中身を見ていなかった。

「あなた、大変なことになったわね」
 プシュケは眉を潜めた。
 彼女は何度かふたりの偵察をしている。
 事態が最悪の方向に転がりつつあるのに、傍観者でいることを余儀なくされているのがもどかしい。
 エロスもことが母の意向なので表だって動けないのが遣る瀬なかった。


 数日後、アテナイ王テセウスが旅先から戻ってきた。
 彼は海神ポセイドンの子である。父から己の願望を三つ叶えることを約束されていた。
 過去はクレタで牛頭人ミノタウロスを倒すなど武勇に優れていたが、今は年を重ね、猜疑がこころに芽生えていた。
 城門の前まで、ヒッポリュトスと臣下等が迎えに出る。
「父上、お帰りなさいませ……」
 そう言い終わらないうちに、ヒッポリュトスは息を呑む。
 父の目が憎しみで燃えていたからだ。
「父上……!?」
 彼は我が目を疑う。
 が、テセウスは息子の横を擦り抜けていった。

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