アルテミス(1)へ


 テセウスは棺のなかで花に埋もれて横たわる妻パイドラを見るなり慟哭した。
 冷たくなっていても、繊細な造作の際立ちは変わらない。彼の初めての妻アリアドネとよく似ている。
 長い戦いの末、クレタを我がものにしたテセウスが望んだのは、ミノス王の娘パイドラを妻にすることだった。
 ミノタウロスを退治するときに協力し、初めて愛し合ったアリアドネは、酒の神ディオニソスに奪われてしまった。パイドラをめとったのは、彼女の面影を求めてのことだった。
 それでもテセウスはパイドラを愛していた。
「パイドラっ……!」
 身も世もなく、テセウスは嘆き悲しむ。
 か弱いパイドラは、息子ヒッポリュトスに犯され、恥を忍んで自ら命を断ったのだ。
 そう思うと、憎悪がいや増してくる。
「父上……」
 威厳ある父の震える背中にヒッポリュトスは声を掛ける。
「おまえが、パイドラを殺したのだ……!」
「!?」
 彼は耳を疑った。
 パイドラの死に、慚愧にたえない思いでいる。
 が、それは彼のこころのうちだけであって、表だって現われているわけではない。
「おまえが、汚れた情欲でパイドラを犯したのだ!
 義母に欲情するとは、乱倫の輩め!」
「−−!」
 ヒッポリュトスには父の言っている意味が解らない。どうしてこんな誤解を受けているのか。
 咄嗟に彼はパイドラの乳母に振り返る。
 乳母の恨みがましい眼差しが、ヒッポリュトスに突き刺さる。彼女が父に間違った事実を告げたのだろうか。
 が、糾してしまえば、義母の名誉を傷つけてしまう。
 ヒッポリュトスは口をつぐんだ。
 それが、テセウスの怒りの炎に油を注ぐ。弁解もなく、ただ無言で通そうとしている息子の態度が気に食わなかった。
 父の心に残忍な魔物がはびこった。

 ヒッポリュトスは欝屈したこころを抱いて、御車を駆る。思うに任せて海岸を走る。
 父にあらぬ疑いを掛けられ、哀しみに押し潰されそうになる。
(父上にはわたしがそんな人間に見えますか……?)
 彼はこころのなかで父に問う。
 涙が溢れて止まらない。
 そんな彼を上空から見下ろしている蝶の姿のプシュケは、同情を禁じえない。
(彼−−何とか救けられないかしら)
 アルテミスを苦しめるためだけに、何の関係もない信奉者が害を遭う。
 いくら何でも、やりすぎているような気がした。
 思案しているとき、ただならぬ気を感じる。
(−−え?)
 プシュケはそこに目を遣る。
 浪合から、巨大な海獣が現われた。ずんぐりとした体に鋭い牙を持った獣だ。
 それが、ヒッポリュトスに襲い掛かる。
 混乱した馬が暴れる。
「うわあぁぁぁッ!」
 振り落とされたヒッポリュトスは固い岩に身体を打ち付けられる。骨が砕ける鈍い音と大量の血が空に散った。
『ヒッポリュトス……!』
 プシュケは動転した。
 ヒッポリュトスは痙攣している。危険な状態だった。
(何とかしなくちゃ……!)
 プシュケは天空に向かって羽をはばたかせた。

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 妹をオリオンに奪われてから、アポロンは荒れていた。
 昼間からデルポイの神殿で神酒に溺れている。
 と、中空の気が動き、虹色の蝶が現われた。
 蝶は形を崩し、乙女の姿になる。
 アポロンは目を見張る。
「やぁ、美しい蝶々。
 今日は何しに来たんだい?」
 プシュケはアポロンににじり寄った。
「唐突ですがアポロンさま、アルテミスさまのところに行って頂きたいんです」
「本当に唐突だねぇ。
 残念だけれど、今のアルテミスはわたしの言うことなど聞かないよ」
 鷹揚に言う。
「急いでいるんです。ヒッポリュトスの命が架かっているんですから」
 アポロンは片眉を上げる。
「解せないね。どうして君がヒッポリュトスのことを気にするんだい?」
「アプロディテさまがアルテミスさまを苦しめるために、ヒッポリュトスを巻き込まれたのですわ」
「アプロディテが?」
 アポロンは一瞬で理解したらしい。
 椅子から身を起こすと、手のひらから炎の玉を作り出した。
 なかには、ヒッポリュトスが映っている。
 未来を読みする託宣神アポロンには、全てが解ってしまったようだ。
「……残念だが、ヒッポリュトスは助からん」
 プシュケは唇を噛む。あの様子では、助かる見込みなど低かった。
「彼を襲った獣は、テセウスがポセイドンに願って現われたのだな。
 ヒッポリュトスは死ぬが、魂は不信と哀しみで、肉体から離れなくなってしまっている」
 プシュケは目を見開き、アポロンの腕に取りすがった。
「アポロンさま! 彼を救けてあげて下さい!」
 アポロンは冷たい笑みを見せた。
「おかしいな、君がわたしに頼むなんて。君には愛の神エロスがいるじゃないか」
 プシュケは頭を振る。
「アポロンさま、彼の絶望を解くには、アルテミスさまでなくてはいけないんです。
 彼が誰よりもこころを寄せているのは、アルテミスさまなんです。
 それに、アルテミスさまも、このままではいけないんです」
 アポロンは、プシュケを測るように眺めている。
 そして、ふっと笑った。
「そんなにも言うのなら、君の覚悟を試させてもらおうか、美しい蝶々よ。
 君の宝石のような美しさを一晩独り占めさせてもらおうか」
「−−!」
 プシュケは凍り付く。
 そんなことをしてしまえば、エロスを裏切ってしまうことになる。
 そこまで考えて、ふと気付いた。
 自然に笑みが零れてくる。
 アポロンはそんな彼女に眉を寄せた。
「何が可笑しい」
「だってアポロンさま、好きな食物は後に取っておいて、他の食物を食べる人みたい。
 それとも、本当に食べたいものを食べられないから、他のものを沢山食べるのかしら?」
「君は何が言いたいんだ?」
 彼の目に、怒りが煌めく。
 プシュケは吐息した。
「本当に解らないんですか?
 じゃあどうして、アルテミスさまをオリオンに奪われて、そんなに苛立っていらっしゃるの?
 どうして他のお妃方よりアルテミスさまを大事にされるのですか?
 それとも、とぼけていらっしゃるのかしら」
「チッ……!」
 プシュケの問いに、アポロンは舌打ちした。
 とっくの昔に、彼自身自覚していることだった。
「お願いです、ヒッポリュトスを、あなたが愛するアルテミスさまを救けてあげて!」
 プシュケは言い募る。
 アポロンは孤空を見た。

 夜、アルテミスは星になった恋人と逢う。
 雄々しい男だった。優しくしてくれた。彼が己の全てだった−−。
 アルテミスは涙を流す。
「アルテミス」
 呼ばれ、彼女は振り返る。
 夜の闇を明るく照らしている兄アポロンと、虹色の蝶の羽持つ娘だ。
「兄上……わたしのことは放っておいてくださいと言ったはず」
 アポロンは妹の言葉を遮る。
「そうはいかん。
 女神であるおまえが、信奉する者の危機を見過ごすのは怠慢に値する」
「え……?」
 心得のない彼女に、アポロンは幻視の炎を見せる。
「ヒッポリュトス−−!
 これは、どうして……」
 プシュケは唇を開く。
「オリオンのことも、彼のことも、すべてアプロディテさまの思し召しだったのです。
 愛を侮辱した報いだと……」
 アルテミスは瞠目する。
「では、わたしがオリオンを愛したのは……?」
 プシュケは頷く。
「エロスさまの金の矢によるものです。
夫は、アプロディテさまに命じられて止むなくそうしましたが、罪悪感からわたくしに様子を見させたのです」
「そうか……そうだったのか」
 アルテミスは呟く。
 長い微睡みから覚めた心地だった。
「解ったか。
 だったら、もう哀しみに浸らずに、女神としての役目を果たせ。
 いつもの凛としたおまえに戻れ」
 アルテミスは空中のオリオンを見、目を瞑ると、涙を拭い、凛冽とした瞳をアポロンに向けた。

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 全身を包帯で巻かれたヒッポリュトスは寝台に横たわっていた。
 物言わぬ息子に、テセウスは痛罵を投げ付ける。臣達は王の狂態をただ見つめていた。
「思い知ったか、親不孝者!
 おまえなど、もうわしの息子ではない!
 冥府でハデスに裁かれるがよい!」
 父の呪いの言葉に帰ってくるものはない。
 その時−−。
 満月から光瀑が降りたかと思うと、清冽な女神がヒッポリュトスの頭を抱えていた。
 豊かな銀の髪を頭上で束ね、切れ長の銀の瞳が涼しく見せる。
 その瞳がテセウスを氷の眼差しで見ていた。
「アルテミスさま……ッ!」
 冷たい一瞥をくれたあと、アルテミスは天空に向かって叫んだ。
「アプロディテよ、わたしはあなたの言いたいことがよく解った。
 わたしが無知だったのだ。
 これからは、愛するこころを抱きつつ、純潔の女神としての使命を全うする。
 この者に罪はない、だから解放してやってくれ−−!」
 女神の声は大気を振動させ、テセウスや臣のこころに衝撃を与えた。
 天から聞こえてくる声が。
「もういいわよ、飽きちゃったから。
 あんたの好きなようにすれば?」
 艶めいた、美しい声だった。
 地上に降りた女神は、天空に向かって礼をすると、テセウスに向き直った。
 怜悧な目が、彼に突き刺さる。
「ヒッポリュトスはわたしの従順な信奉者。おまえがそれを知らなかったはずがあるまい?
 それとも、息子に対する嫉妬で目が狂ったか?」
 あ……と呟き、テセウスは崩折れる。
「おまえがどれほど悔やもうが、この者の命は尽きようとしている。
 が……最期に会わせてやる」
 そう言うと、アルテミスはヒッポリュトスの蒼白な面に手をかざし、語りかける。
「もうよい、ヒッポリュトス。おまえに罪がないことはこのアルテミスが一番よく解っている。
 さぁ、その姿を見せよ」
 女神は何かを手に取った。それは透き通っていた。ヒッポリュトスの姿だった。
 霊体となったヒッポリュトスは父テセウスを静かに見ている。
 その目に、恨みはなかった。
「すまん……わしを許してくれっ……!」
 涙塗れの顔で見上げる父に、穏やかな面持ちで息子は頷いた。
「……行こう、ヒッポリュトス」
 アルテミスはヒッポリュトスの手を引く。
 女神と供に、彼の魂は天に舞い上がった。
 あとには、哀しみの聲が響いた。

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 乱気流を潜り抜け、暖かな空気を感じると、ヒッポリュトスは恐る恐る目を開けた。
 壮麗な宮殿に常盤木、たわわに実った果実……理想郷がそこにあった。「ここは……?」
 アルテミスに導かれるまま昇天した彼には、ここがどこか解らなかった。
「オリュンポスだ」
 女神の答えにヒッポリュトスは焦る。
 ここは、神々の世界なのだ。
「本当に? 冥府ではないのですか?」
「おまえには、この姿がハデスに見えるか?」
 背後の声に、ヒッポリュトスは驚く。
 陽の眩しさを纏った青年神がいた。
「アポロンさま……?
 どうして僕はここに……?」
「特別に、おまえを神の世界に住まわせる。
 大神ゼウスの許しも得た。
 おまえはわたしを目覚めさせてくれた恩人だ。
 こころから礼を言う」
 アルテミスが言った。
 ヒッポリュトスには解らない。
「それは、この母親べったりなガキが母親の命令でやったんだ」
 アポロンはちらり、と後方に飛んできたエロスとプシュケを見やる。
 エロスの顔は引きつっていた。
 アルテミスが彼の前に進み出る。
 エロスは身構えた。
 彼はアルテミスに嫌われている。何をされるかとひやひやした。
 が、彼女は静かな面で言い出した。
「アプロディテの命でやったそうだな。
 ……何も恨んでいない。
 人を愛することが出来た。結ばれることがなくとも、それで十分だ」
 ぽかん、とエロスは呆ける。
 恐い印象の女神の、しおらしい言葉が以外だった。
「ヒッポリュトス、わたしは恋に溺れ、我を忘れていた。
 そのわたしを現実に引き戻してくれたのが、おまえだ。
 これからも、わたしは狩りと純潔の守護神として生きていく。
 おまえは二ンフたちとともに、狩りの列に加わるがよい」
 アルテミスは、神の仲間入りした己の信奉者の肩を叩いた。
「……はいっ!」
 ヒッポリュトスは顔を輝かせた。

「……何とか、これで円く納まったかな」
 エロスは大きく嘆息した。
「本当に、今回のお義母さまには困ったわね」
 プシュケも疲れた面持ちで言う。
 そんな彼女の髪に、傍らから指を絡めてくる者が。
 エロスが目を剥く。
 にやり、と微笑んで、アポロンは巻き毛に口付けた。
「もぅ、言ったじゃないですか。
 アポロンさまが好きなのは、アルテミスさまなんでしょう?」
 アルテミスは聞いていない。
 アポロンは楽しそうに言う。
「君は男というものを知らないね。
 男という生き物は、美味しそうな女がいたら、例え本命でなくても、食べてしまいたくなるものなのさ」
 言ってプシュケの頬にキスをすると、怒りで顔を真っ赤にしているエロスを覗き見して笑い、妹たちのもとに向かう。
「なんだあいつ……本当に嫌な野郎だな。
 あれは絶対僕に対する嫌がらせだ」
 エロスは文句を垂れる。
 クスクス笑い、プシュケは言う。
「でも、そんな男、女は願い下げよ」
 眉を寄せ、エロスは違うと手を振った。
「そうとは言えないさ。
 そんな男でも擦り寄っていく母上みたいな女もいるんだから」
 プシュケは声を発てて笑った。
「でも、わたくしはそんな女ではないもの」
 口を曲げていたエロスは、ふっと微笑んだ。


 オリュンポスにも、夜明けが近づいていた。


 fin

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