誕生ーー叔父子と呼ばれて



 平安時代末期、元永二年(1119年)五月二十八日、鳥羽天皇の中宮・藤原璋子(待賢門院)は鳥羽天皇の第一皇子を生みます。
 さらに、第一皇子は同じ年の六月十九日に親王宣下され、顕仁親王と名付けられます。
 この頃、政治の実権を握っていたのは鳥羽天皇の祖父・白河院で、母の藤原璋子は白河院の猶子(養子)でした。
 いわば、顕仁親王ーー崇徳院は生まれた当初、父母、そして実力者・白河院の庇護のもとで恵まれた出生をしました。

 が、この世で一番幸せな赤子・顕仁親王には奇怪な噂がつきまといます。

 「待賢門院は白河院の御猶子として入内されるが、その間法皇と密通されており、人は皆これを知っていたのか、崇徳院は白河院の御胤子ということである。鳥羽院もそのことを知っておられ、叔父子と申された」(「古事談・待賢門院入内事」を一部現代訳)

 藤原璋子は鳥羽天皇に入内する前から、養父である白河院とただならぬ仲にあり、顕仁親王の実父は白河院だというのです。
 それによって、顕仁親王は間柄では父である鳥羽天皇に疎んじられます。
 白河院は「天下でままならぬ三つのことは、賀茂川の水とさいころの目と比叡山の荒法師だ」と 高々と言い放っていたといいます。女性関係も奔放なものでした。その白河院を身近に見て育った璋子からすれば、あるいは肉体関係に対する倫理観も皆無に近かったのかもしれません。
 が、鳥羽天皇からすれば、それは祖父と妻の手酷い裏切りにすぎないものです。

 崇徳院の波乱に満ちた生涯は、いわば、彼の存外のところからはじまったものでした。


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