待賢門院藤原璋子(たいけんもんいんたまこ)


出生


 本名・藤原璋子。康和三年(1101)生〜久安元年(1145)没。
 父は藤原氏北家の末裔、閑院流公実。藤原公実は白河院の従兄弟(公実の叔母・茂子が白河院の母)で、璋子の叔母・苡子は堀川天皇の女御となり鳥羽天皇を生みました。藤原公実は「みめも清らに、和歌など能く詠み給ひき」と形容されたように、美男子で和歌などを巧みに作り、優しい人柄をしていたようですが、政治の機を見るのに便じていたようです。
 母は堀河・鳥羽両院の乳母・藤原光子です。
 他に、璋子の姉・実子も鳥羽天皇の乳母として宮中に出仕しました。兄の通季は西園寺家の祖に、もう一人の兄・実能は徳大寺家の祖に、異父兄の実行は三条家の祖になりました。

 藤原公実が美男だったように、彼の子供達はそれぞれみな美しかったといいます。白河院の寵姫・祇園女御は美しいと聞こえ高い公実の末娘・璋子を養女として差し出すようにいいます。
 康和三年、生まれたばかりの璋子は祇園女御の養女となり、やがて、白河院の目にとまります。
 白河院はとても璋子を可愛がりました。「今鏡」によりますと、璋子は幼い頃から白河院の懐に足を差しいれて眠り、昼になっても出てこない白河院を訝しんだ藤原忠実が覗きにくると、白河院は拝謁もせずに、取り次ぎの女房を挟んで指図をしていたといいます。

入内


 璋子は、白河院の鐘愛を受けて、美しい少女に成長しました。
 そんな彼女を、いつ白河院が養女という垣を超えて寵愛したかは定かではありません。
 ですが、璋子は白河院の偏愛をよそに、危ない火遊びを好むようになりました。彼女の爭の師である藤原季通や園城寺の権律師・増賢の童子と密通していたといいます。

 白河院が寵愛を傾ける存在となった璋子ですが、院はまた、養女としての彼女の行く末を真剣に案じてもいました。
 そこで、璋子が十一才のとき(天永二年・1111年)、白河院は当時の関白・藤原忠実の長男・藤原忠通に璋子を嫁がせようとします。が、忠実は言を左右に韜晦して白河院の命令を逃れようとします。
 忠実は、璋子にまつわるただならない噂を気にしていました。彼は、自分の日記のなかで、璋子のことを「奇怪不可思議の女御か」「乱行の人」と手酷く非難しています。

 はじめの計画に失敗した白河院は、次に璋子の相手として、孫の鳥羽天皇に入内させようとします。璋子と鳥羽天皇は従姉弟同士で、彼女の母と姉は鳥羽天皇の乳母でもありました。
 永久五年(1117)、璋子は鳥羽天皇に入内し、女御の宣旨を賜ります。次の年には立后し、中宮となります。

 鳥羽天皇の後宮で一の后となりながらも、白河院と密通し続けていた璋子は、元永二年(1119)に第一皇子・顕仁親王(崇徳院)を生み、続けて鳥羽天皇との間に禧子内親王・通仁親王・君仁親王・統子内親王(上西門院)・雅仁親王(後白河院)・本仁親王(覚性法親王)を出産します。
 さらに、保安四年(1123)に崇徳院が即位すると、璋子は待賢門院の院号を賜ります。

人生の落日


 養父・白河院の在世中、璋子は女人として並びなき栄華を味わう人となりました。
 が、彼女の子のうちふたり、通仁親王は失明し、君仁親王は障害児となってしまい、早世してしまいます。璋子の苦悩は深いものでした。

 ですが、彼女の栄華は、白河院がいてこそのものでした。
 大治四年(1129)、白河院が亡くなると、璋子は後ろ楯をなくし、とたんに不幸のただなかに突き落とされてしまいます
 白河院の死によって、やっと実権を握れることとなった鳥羽院は、関白・藤原忠実の娘・泰子を入内させて皇后とし、璋子と同等の身分に引き上げます。
 さらに追い討ちをかけたのが、長承三年(1134)に藤原得子が鳥羽院の殊寵を受けることとなったことです。鳥羽院は、昼夜区別なく得子に溺れこんだといいます。
 やがて、得子は内親王を生み、続けて體仁親王を出産します。
 鳥羽院は、愛する得子が生んだ體仁親王を天皇の位につけるため、崇徳院を天皇位から引きずりおろし、體仁親王が即位、近衛天皇となります(永治元年・1141年)。これによって、得子も皇后となります。
 鳥羽院の行いは、璋子の誇りを傷つけるものでした。
 この年、璋子の乳母子・信朝が呪詛の廉で逮捕され、疑いの目を向けられた璋子は康治元年(1142)に御願寺の法金剛院において出家します。

 世を捨てた璋子は、女房の堀河局や兵衛局らに囲まれて静かに過ごします。堀河局や兵衛局は歌人で、同じ歌人である西行とも交流がありました。とくに、堀河局は百人一首のなかの、

  長からむ心も知らず黒髪の 乱れて今朝はものをこそ思へ

 で有名です。

 三年後の久安元年(1145)、璋子は三条高倉第で鳥羽院に見守られ生涯を閉じます。
 彼女の亡骸は法金剛院の背後、五位山の北の位置(現在の花園西陵)に葬られます。


*長谷川的私見*

 待賢門院は、白河院に非常に可愛がられていた女性でした。
 だから、白河院が生きている間は彼女自身が何かをしなくても、白河院が彼女を護ってくれていました。
 が、白河院が亡くなると彼女を庇護するものは何もなくなってしまい、結果、待賢門院は権謀を弄することもなく、ライバルの美福門院に敗れてしまいます。
 絢爛なイメージがある待賢門院ですが、案外、普通の女性だったのかもしれません。


待賢門院璋子にまつわる史跡



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