北斉が出来る以前



北斉建国前夜



 中国の南北朝時代は、血で血を洗う戦いの時代でした。
 三国時代のあと、曹魏の後を受けた司馬氏が「晋(西晋)」を建国したのは有名な話です。

 王朝を建てたあとの司馬氏は頽廃し、淀んだ朝廷に嫌気がさした諸王が相争います。彼らは、実戦部隊に遊牧民族(騎馬民族)を使いますが、それが、後々の禍いになりました。

 「コップのなかの嵐」を続ける皇族達に、「今が機」と見た遊牧民族達は乱を引き起こします。

 脆弱した晋の王朝では、戦いに秀でた遊牧民族と戦うのは明らかに不利です。晋の王朝は南方に逃れました。ここにおいて、中国大陸は南北に分裂します。

 「北朝」の遊牧民族は数多の部族が競い合い、沢山の国が屹立しましたが、それぞれが短命に終わっていきます。最後に北朝を征したのが、鮮卑族・拓跋氏の「北魏」でした。

 血気盛んだった北魏は、王朝を支えていくのに漢人の知恵を借り、漢人の思考に染まっていきます。
 やがて、北魏の皇帝は姓名や風習を漢人風に改め、都を中国大陸の真中・洛陽に置きます。

 北魏の頃も、また新しい遊牧民族が現れ、決して安穏が約束されていたわけではありませんでした。
 そこで、万里の長城付近に前線を置き、罪を犯した人々や、北魏建国以前から存在した様々な遊牧民族を鎮護の役に当たらせます。これが、「六鎮」です。

 都は遠い彼方に移され、皇帝達は享楽的な生活をします。

 北魏時代末期、実権を女性が握ります。この女性は皇帝の生母で、母権を強力に発揮して皇帝を意のままに操ります。その女性は自らを「霊太后」と名乗り、奢侈の限りを尽くします。
 これに怒ったのが、都にいる将校達でした。
 彼らは、もともとは遊牧民族の出身で、「軍部は卑しいもの」とされて、立身の道を閉ざされていました。これに将校達は反発、実権を握る貴族に暴動を加えます。
 この事件は鎮圧されたものの、北方でくすぐっている六鎮の反乱の火種になりました。


高歓の台頭



 六鎮のひとつ・懐朔鎮に高歓という兵卒がいました。
 彼は、祖父の代に罪を得たことから北辺に流謫され、生まれながらに鮮卑族の環境に根付いていました。
 豪族の娘を娶った高歓は得た財力で馬を買い、懐朔鎮と都の伝達役を買ってでましたが、辿り着いた洛陽で将校達の乱を目の当たりにします。
 高歓は世相を感じると自分の財産をすべて開け放って食客を抱え込み、いずれ来る日に備えます。

 やがて、六鎮の将達は相次いで反乱を起こします。
 高歓はこれに従わず、反乱を鎮圧しようとした遊牧民族の別流・爾朱栄の幕下になります。
 反乱を鎮圧した爾朱栄は都に招かれますが、頽廃しきった朝廷のもとである霊皇后を殺し、朝廷で実権を握ります。爾朱栄は権力を欲しいままにし、これに怒った皇帝は爾朱栄を暗殺します。

 爾朱栄の死後、彼の一族が爾朱栄の後を継ぎますが、密かに実権を握っていた高歓は見切りを付け、爾朱栄の幕下で能力のあるものを引き抜いて離反します。それを怨んだ爾朱一族と高歓達は激突、高歓は見事に勝利を収めます。

 朝廷で実力をつけ、皇帝の挿げ替えまでできるようになった高歓に、北魏の皇帝は危機感を抱き、洛陽から逃げ出そうとします。
 皇帝が逃げ込んだのは、長安に本拠を構える元・爾朱栄の幕下、宇文泰のもとでした。
 高歓は新しい皇帝・孝静帝を頂き、「東魏」を業(+オオザト扁)に建て、宇文泰は長安に「西魏」を建国、ここにおいて、南北朝末期の様相が現れます。


そして、北斉の時代へ



 東魏を建国した高歓ですが、やがて病を得て床につきます。
 高歓が後を託したのは、彼の長子である高澄でした。
 高澄は頭脳明晰で有能、父とともに東魏の朝廷を采配する人物でしたが、この頃、僅かに二十七才でした。が、卓越した力量で東魏を仕切り、東魏のから禅譲を受ける前段階まで持っていきます。

 しかし、高澄は一方で酒癖が悪く、孝静帝との酒席で、皇帝を蔑んだ挙げ句、部下に孝静帝を殴らせたりします。そんな高澄ですから、恨みを買うことも甚だでした。
 高澄は、南朝・梁からの降人・蘭京を召し使いとして扱き使い、恨まれて殺されてしまいます。

 若くして暗殺された高澄の後を継いだのが、彼の次弟・高洋です。
 高洋が孝静帝から禅譲を受け、「北斉」を建国しました。北斉初代・文宣帝です。


 蘭陵王・高長恭は、高澄の息子です。
 彼がまだ幼少の頃に父は暗殺され、彼の人生は狂わされました。
 これが、悲劇の始まりだったのです。


蘭陵王と北斉王朝



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