蘭陵王と北斉王朝



誕生と明暗



 蘭陵王・高長恭はまたの名を孝瓘、あるいは粛といいます。
 どれが諱か字かは、判然としていません。

 蘭陵王は、高澄の第四子にあたります。
 高澄には、男児が六人いました。高澄が北斉が建国してのち、文襄帝と諡されたので、彼らをひっくるめて「文襄六王」と言ったりもします。
 蘭陵王の兄弟は、上から
  長兄……河南王・高孝瑜
  次兄……広寧王・高孝珩
  三兄……河間王・高孝琬
  五弟……安徳王・高延宗
  六弟……漁陽王・高紹信
 とあります。彼らはすべて異腹の兄弟です。ちなみに、蘭陵王はなぜか、史書に母親の姓名が書かれていません。他の兄弟達は、ちゃんと母親の姓名が解っているのに、です。何故でしょうか?

 蘭陵王は、生年が不明です。
 ですから、これは推測でしか言えないのですが、七〜八才位の頃に父親を亡くしています。彼の父親は、生きていれば必ず高氏の王朝の皇帝になった人でした。
 さらに、蘭陵王は幼少から青年期の記録が記載されていないので、彼が前半生をどのように送ったかは定かでありません。
 本当に、解らないづくしの蘭陵王です。


 彼が青春時代を送った頃、北斉を治めていたのは、文宣帝・高洋でした。
 彼は、非常に才能のある人で、戦闘に強く、落ち着き払って大度ある君主でしたが、即位してから六・七年後、手が付けられないくらいの酒乱に変貌しました。酔っては血を見るのを好み、自分に逆らった異母弟を牢に閉じ込め焼き殺したり、東魏の皇族達を凄惨なまでに虐殺したりしました。
 宇文泰に戦闘の才を褒めそやされた位の人物なのに、です。

 ですが、文宣帝・高洋は即位して十年後に突然崩御してしまいます。

 文宣帝の後を継いだのは、彼の息子でした。
 高長恭は、この皇帝のときに、蘭陵郡の郡王に封ぜられます。この頃から、彼は蘭陵王と呼ばれるようになります。


 が、皇帝は叔父の高演に位から引き摺り下ろされ、あまつの果てに殺されてしまいます。
 高演は孝昭帝となります。
 彼は比較的有能な君主だったと伝えられていますが、即位して一年後に落馬して死んでしまいます。
 そのとき、孝昭帝は皇太子である自分の息子を廃し、弟・高湛に位を譲ります。
 自分自身が兄の子を殺して皇帝になったので、それを危ぶんでのことでした。


栄光と挫折と



 高湛は即位し、武成帝となります。
 武成帝の時代から、北斉の歴史は決定的に暗転します。武成帝は佞臣やへつらい者を側に置き享楽的な生活をします。文宣帝の皇后を犯したり、皇族を殺したりしました。頽廃を極めた皇帝が君臨して、北斉は凋落の一歩を辿ります。


 北斉の河清三年(564年)、長城に至近している北斉の副都・晋陽に騎馬民族・突厥が攻め入ってきます。
 この頃、蘭陵王は晋陽のある并州の刺史(州の長官)の役に就いていました。
 彼は晋陽の危機に自ら兵を率いて突厥を打ち破ります。
 その年の十二月、北斉と北周の境目にある洛陽城が北周の軍に攻められ、包囲されてしまいます。
 武成帝は北斉の名将・斛律光とともに、蘭陵王を洛陽に向かわせました。が、中々北周の軍を崩すことはできません。
 そこで、知将・段韶が洛陽に到着、彼の策により、北周の軍を三方から叩こう、いうことになります。蘭陵王は中軍五百を預かります。これにより、北斉軍は好転、中軍を率いている蘭陵王は正面から北周軍に激突し、これを破ります。
 蘭陵王は真っ先に洛陽城の一部・金庸城に下に辿り着きます。が、防戦に精一杯な城内の兵は辿り着いた軍がどこの軍が判別しません。
 そこで、蘭陵王は美しいことで有名な自分の顔を見せるため、兜を脱ぎました。それにより、城内の兵は軍がどこのものか解り、北斉軍は大勝を博しました。

 洛陽での蘭陵王の奮戦ぶりは人々の憧れを買い、歌曲「蘭陵王入陣曲」が作られました。これが、舞楽「蘭陵王」のもとになった曲です。

 が、蘭陵王が国のためを思っての勇猛ぶりも、仇になってしまいます。

 洛陽での戦いの数カ月後、武成帝は健在なまま、息子・高緯に位を譲ってしまいます。高緯もまた、暗愚なる君主でした。父親にも増して猜疑心が強く、宮廷は奸臣ばかりがはびこるようになります。彼は子孫に諡を送ってもらえず、後主と呼ばれています。
 武成帝の死後、蘭陵王は位が上がり、宰相クラスにまでなりますが、朝廷の彼への扱いは冷ややかなものがありました。後主の取り巻き達が、彼を貶める言葉を後主に耳打ちしていたのです。

 失望のなか、蘭陵王は保身のために、戦場での敵軍の物資の残りを貪るようになりました。本来なら、朝廷に接収されるものを、です。
 彼は、そうでもして身を汚さなければ朝廷に足場が無くなると思ったのです。


終焉



 武平二年(571年)汾州・定陽で北周軍と戦いがあります。蘭陵王は病に倒れた段韶の後を受けて、北斉軍を率います。段韶から授けられた策により北斉軍は勝利します。
 そこでも、蘭陵王は残りものを漁るようなことをしました。それを、軍中にいた将・尉相願が見咎め、詰ります。
「あなたは身の安全を思って汚れようとなさっておられるのでしょうが、もし、朝廷があなたを忌んでいたとすれば、これを速やかに仇となって帰って来ましょう」
 青ざめた蘭陵王は尉相願にどうすればよいのかと問い、尉相願は引退するしかない、と言います。

 蘭陵王は尉相願の忠告どおり引退しようとしますが、武平三年(572年)、折悪しく、北斉軍を束ねていた武将・斛律光が誅殺されてしまいます。これは、北周が北斉軍の現状を見切って、北斉軍を統率する斛律光さえ死ねば、北斉を簡単に倒せると思って行った謀略でした。
 せっかく引き蘢っていた蘭陵王ですが、斛律光の死により、またも中央に嫌々引き戻されるのでした。

 武平四年(573年)、斛律光を失った北斉軍は弱体化し、南朝・陳と交戦しますが、大敗します。
 この年、蘭陵王は後主から死を賜ります。
 死の目前、蘭陵王は妃・鄭氏に、
「わたしは忠義でもって皇上に仕えてきたというのに、皇上は何を罪として鴆毒を遣わされるのだろうか」
 と漏します。妃がどうして皇上に会おうとしないのか、と問うと、蘭陵王は皇上はどんな理由だったらあってくれよう、と絶望します。
 そして、自分が持っていた債券をすべて焼き捨て、鴆毒を飲み薨じます。

 斛律光の死後、北斉の朝廷だけではとても北周軍と対決する力を持ってはいませんでした。
 徳昌元年(577年)、北周軍がギョウを攻め、後主は責任から逃れるために自分の子に位を譲り逃げ出します。
 蘭陵王の兄弟、広寧王・孝コウと安徳王・延宗が必死で応戦しますが適わず、北斉の皇族達は捕らえられ、北周の都・長安に送られます。
 北斉が陥落したのち、皇族達は粛正されてしまいます。
 ここにおいて、北朝は統一されました。

 華北を統一した北周ですが、楊堅による纂奪にあい、結局、大陸を統一は楊氏の隋が成し遂げました。

 蘭陵王は史書に、「貌柔心壮、音容兼美」(容貌は柔和で心は勇壮、声も姿もともに美しかった)とあります。
 美味しいものが手に入ると、たとえそれが一個だけだったとしても、部下と分け合って食し、些細な罪ならあえて罰しないという優しさも持っています。洛陽での戦いのあと、武成帝から褒美として美女二十人を貰っても、そのなかからただ一人だけを受け取ったともあります。

 優しく、美しかった蘭陵王だからこそ、短命に終わってしまったのかもしれません。


北斉史を彩る人物



蘭陵王のページへ