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(1)



 熱く熟んだ一時を過ごし隣に横たわった男に、美子は陶酔を残す身体を積極的に擦り寄らせた。
 ことが成ったからには、もう他人とはいえない。男が見せた情熱に、戯れの色はなかった。だから、美子は男と女男(めおと)となると思っていた。

「こうなったからには、もうわたくしたちは夫婦と思ってもよろしいのですね?
 どうか、わたくしにあなたのお名を教えては下さいませんか。わたくしの背の君となる方のお名を知りとうございます」

 が、美子の申し出に、男は哀しい笑みを見せたのみだった。美子にはそれが男の拒絶に見えた。
 慈しみ溢れた態度に、嘘があったのか……。美子は悄然として男から離れ、起き上がって寝間着を身につける。

 ――東宮妃になる女への興味だけで、わたくしを抱かれたのだわ……。初めから、添い遂げるつもりなど……なかったのだわ。

 してみると、自分はあの笑みに騙されていたのか……。
 結婚を迫る自分から逃れるための方便として哀しい笑みを浮かべているのか……。美子は情けなく、哀しくなってきた。

「……よく解りましたわ。もうご無理は言いません。あなたにとってはひと夜の遊び……わたくしも、もうすぐ嫁ぐ身です。あやまちと思って、ふたりだけの胸に締まっておきましょう」

 それで、あなたの気がすむのなら……。
 心の中でだけ恨み言を告げる。そうでもしなければやりきれなかった。自分で決着をつけようとするが、涙が溢れて止まらない。この男の前でだけは涙をみせたくなかった。
 嗚咽で肩を震わせているのを悟られないように単を引き被る。
 男の動く気配が背後でする。と、最初のときのように背中から抱き締められた。美子ははじめよりもかたくなに拒む。

「やめて……くださいませんか」

 言うが、男は力ずくで美子を自分に向き直らせた。
 咄嗟に涙を隠せず、美子は袖で面を隠す。
 が、男は美子の手を素早く捕らえた。驚いて見る美子に、哀しい笑みを変えないまま、男は首を横に振った。
 違う、と言葉にせずに言っているようだった。
 美子はそれだけでは信じられない。
 隠しようもなく泣く美子を男は情熱的に抱き締めた。抱き潰されるかと思うような強さだった。微かに、男の腕が震えているようだった。まるで泣いているかのようだった。
 立場が逆になってしまい、美子は困惑する。泣きたいのはこちらのほうだ。
 それでも肌を交わした男を愛しいと思う心がある。美子も無言で抱き締めた。男の身体がぴくり、と峻慄した。怯えるように身体を震わせ、戸惑いがちに女を抱き締める。

「解りました……わたくしを愛しておられるのなら、明日の宵も来ては下さいませんか。それなら……信じられるかもしれません」

 男は何度も頷いた。その様子が、子供のようだった。
 東の空が白みかける前まで、男は美子の部屋に留まった。何することなく、美子を抱き締めていた。時折、心に刻み込むように美子の顔を食い入るように見つめ、接吻した。

「もう……朝ですわ。早くお帰りにならないと」

 女のもとに通ってきた男が日が昇る前に帰るのはこの頃の慣習である。名残惜しい気持ちはあるものの、美子は出立を促す。
 男は、またも哀しい笑みを浮かべると、すっくと立ち上がり狩衣を纏った。美子も涙がちに見上げる。すると……。

「ッ!」

 美子は息を呑んだ。
 男の身体が、身に纏っている狩衣がみるみるうちに透けていくからだ。

「あなたッ!」

 驚いて美子は男に手を差し延ばす。が、男は掻き消え、美子の手は空を掻いただけだった。

「あなた……」

 幻夢か、妖異か……。
 わけが解らず取り残された美子は茫然と座り込む。
 あの沈香だけが、男の存在した証しとしてあたりに揺らめいていた。


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 明朝、心中の鬱がきれいさっぱり晴れた美子に、侍女達はそろって驚喜した。
 が、鬱の靄を感じさせなくなった代わりに、惚けたように座り込んでいる主人に気づき、侍女等は浮かれるのをやめる。
 うつろな面持ちで空を見つめ、重い溜め息を吐く。かと思うとそわそわと落ち着かずに頬を染めたりしている。どう見ても、美子の様子はおかしい。
 すわ、薬師か祈祷かと慌てふためいた侍女をとどめたのは、姉の変心を聞きつけた薔子だった。
 妹の目から見ても美子に異変があったのは明らかで、薔子は小首を傾げる。
 今日の姉は、いつもは見られないなまめかしさを醸している。肌や頬の色はつやつやと血色よく、紅色を含んでいる。何も塗っていないのに唇は濡れたように輝いて、潤んだ瞳とともに色香を放っていた。気怠げに脇息に凭れる姿は、大輪の花がしおれそうになっている様と似ていた。

「……ねえさま?」

 恐る恐る薔子は姉を覗き込む。
 急に我に帰ったように、美子は妹に目を止めた。

「どうしたの?」

 まったくあたりの雰囲気に捕われていない美子に、仰々しく薔子は嘆息した。

「どうしたの、じゃないわよ。思わず物の怪に魂を抜かれたのかと思ったじゃない」
「物の怪に、魂を……?」

 小さく、美子は呟く。そしてまた脇息に凭れ考え込んだ。

「ちょっと、ねえさま! 東宮妃となられる方がそれでよろしいの!?」

 薔子が喚き立てるが美子は聞いていない。

 ……あの方は、物の怪の類いなのかしら……。

 明け方にはかなく消えてしまったあの男は、傍から見れば物の怪としか言いようがない。
 が、抱き締めた腕の感触も、伝わってくる肌の温もりも暖かく、生々しかった。物の怪とは、言い切れない。
 実際、美子は戸惑いの極地にいる。
 昨夜の情交はどうにも説明がつき難かった。
 眠気に蝕まれていたとはいえ、男が現われたとき美子には気配を感じられなかった。音もなく忍び寄ってきて、うしろから抱き竦められてしまったのだ。
 その後の成り行きも、美子には解せない。無理強いに犯されたわけではなかった。男の哀しい瞳を、諦観に捕われた微笑みを見つめるとせつなくなり、気がつくと自ずから積極的に身を与えていたのだ。
 男が消えたあとでも、美子の胸の熱さ、震えは消えない。どこの誰かも解らない、物の怪かもしれない男だというのに、美子は彼を求めている。
 そして、あの沈香の薫りを、佐穂が焚く前から知っていたような気がするのだ。ただの錯覚かもしれないが……。
 見渡すと、侍女達が心配そうに美子を見つめている。視線の数々が痛く、いたたまれずに美子は顔を背けた。
 ふと、佐穂の姿が目に飛び込んできて、美子は不可解さを覚えた。

 ――佐穂……?

 他の侍女とは違い、佐穂は心配そうな表情をまったく見せていない。それどころか、いまの美子の焦燥を穏やかな眼差しで見守っていた。




「では、おやすみなさいませ」

 夜、香炉に香を焼べると、佐穂はそう言って下がっていった。昨夜と同じ沈香の薫りが御帳台に充満してくる。

 ――佐穂は、どうしてみなと同じように驚かないの?

 寝台のうえに脇息を置いて、美子は身を寄りかからせる。
 この沈香は、佐穂が手に入れたものなのだろう。昨夜美子が聞くと、出所を教えてくれた。
 そして、あの男から強く薫ってきたのが、この沈香……。はたして、偶然なのか?

 ――もしや、佐穂はなにかを知っている?

 今朝の自分の様子は、よほど他人の目に奇異に映ったのだろう。みなが同じような案じ顔を浮かべていた。が、佐穂はそんな素振りはなかった。それどころか、美子が寝不足のあまりあくびをすると、理解しているかのように几帳を立て廻して眠れるようにしてくれた。そのかげに、すべてを見すかした微笑みがあった。

 ――明日、問い質してみようか。

 そう結論づけて美子は壁代をすこし開けてみた。
 別れ際、男と今夜もあうことを約束した。この香を聞いていると、男の足音が聞こえてくるかのようだった。弾む心を押さえて、美子は帳を下ろす。

 ――この心は、恋なのかしら……?

 陶然とした溜め息を漏らし、美子は脇息に頬をつけた。
 不意に、膨張したように香の薫りがむせ返った。はっと美子は頭を起こし、御帳台からいざり出る。
 戸惑いと熱情を湛えた瞳をした昨夜の男が、御簾をかき分けて入ってきたのだ。

「来て下さったのですね……!」

 そう言うと美子は男の胸に飛び込んだ。濃い沈香の薫りがあたりに飛び散った。
 男はしがみついてくる美子を愛しそうに抱き締める。熱情のまま、どちらからともなく激しく唇を貪った。
 昨夜とは違う積極さで、美子は男を御帳台のなかに導き入れた。脇息を几帳の陰に置くと、美子はもういちど男に身を寄せた。
 熱い素肌を接し合い、濃い口づけと愛撫を交し合いながら、ふたりは縺れ合った。床のなかでほたえる美子に、男は情熱を注ぎ込んだ。
 汗の滲む腕を美子の身体に絡め、潤んだ瞳に目を当てると、男は耳元に囁いた。

「愛している……」

 初めて聞く男の声は、低く澄んでいた。
 男の言葉に嬉しくなり、甘く狂おしい想いに促されて美子は自分から男に接吻した。



 情を交わしたあとも、素肌の温もりが名残惜しく離れられない。
 男の腕を枕にして、美子は陶然と寄り添っていた。

「あなたと夫婦になりたいとは申しません。それでも、わたくしはあなたのお名が知りたいのです。どうしても教えていただけないのですか?」

 男は少し身を起こすと、哀しみに面を歪め口を開いた。
 が、話す形で口を数度開けるだけで言葉は聞こえてこなかった。
 美子は目を見張る。

 ――先ほど声を聞いたのは、錯覚なの……?

 その割には、はっきり聞こえたような気がする。それとも、あの瞬間に聞きたかったから空耳として聞こえたのか……。
 気落ちしつつも、美子は男の胸に顔を埋める。

「わたくしは、二ヶ月後に東宮さまの後宮に入内する身です。
 わたくしにその気がなくとも、きっとそうなってしまいましょう。 ――あなたは、それに耐えられるのですか?」

 美子の言葉に、男は強く抱き締めてくる。男の心の震えが、伝わってくる。

「わたくしは、とても耐えられそうにありません。
 あなたに想いをかけられたからこそ、こうやって深く交われたと思っていますもの。
 だからこそ……この交わりが、とても哀しいのです。
 こんなに深く繋がれたのに、二ヶ月後には別々になっているのです。
 こんな想いを引き摺ったままお別れするなんて、わたくしにはできそうもない」

 涙で凝って、声が途切れる。
 こんなことを言っても仕方がないと、美子も頭の中では解っている。
 何も言ってくれない、この先の誓いもない相手に期待をしても、ひどく空しいだけだ。愚かだと解っていても、言わずにはいられない。実りのない契りは、結局、あやまちでしかないのだ。
 が、そんな美子の心が伝わったらしい。
 男は美子の涙を拭うと、唇を重ねてきた。啄むように吸い、美子の顔を覗き込む。
 哀切な瞳が、さざ波のように揺れて美子を絡め取る。同じ想いを、美子は相手から感じ取った。
 哀しみと愛しさが溢れ、美子は男に強く抱きつく。彼女が落ち着くまで、男は静かに抱き締めていた。
 心の昂りが治まってくると、美子のなかにある引っ掛かりが浮かんだ。

「どうして、あなたは消えるように去ってしまわれたのですか?
 あなたは……もうこの世の者ではないのですか?」

 慌てて、男は首を振る。眉を寄せ、困惑を顕にしている。
 男自身、彼女の質問の意味が解っていないようだ。首を傾げて考え込んでいる。
 美子は呆気にとられた。

「物の怪では……ないのですね? 生きて……いらっしゃるのですね?」

 男が頷くと、美子はくすり、と笑った。

「そうでしたの……。わたくし、昨日の朝のこと、訳が解らなかったのです。だから、物の怪ではないかと……物の怪ならば、名乗れないのも道理ですものね。
 ですが、あなた様が物の怪ならば、わたくしも苦しまずにすんだかもしれません」

 男が物問いたげに見つめる。

「わたくしも物の怪になれば、そい遂げることができるかもしれませんもの」

 美子がそう答えると、男はきつい眦で彼女の肩を掴んできた。美子の言葉を咎めているようであった。
 こうしてみると、この男は物の怪というより、まったく人間くさい。確実に、生きているのだろう。
 納得して、美子は微笑んだ。心の中は重くうち沈みながら……。
 朝がきて、男が消えかかると、美子は訪ねずにはいられなかった。

「また、今宵も会って下さいますよね!?」

 空気に溶け込みながら、男は哀切な笑みを浮かべ頷いた。
 辺りが明るくなるまで、美子は人知れず泣き続けた。


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 ――ああ、わたくしは、あの方を、愛している……。

 ひとしきり泣いて、美子はやっと思い当たった。
 男が物の怪でないと解っても、生きている限り添い遂げられない。
 その上、男はなにも教えてはくれない。自分の身の上も、姓も名も……。
 男の目から愛情を感じ取れるのに、肝心のところが掴み取れない。何も知らなければ、相手の胸に飛び込もうにも飛び込めない。男の実体を探しようがない。
 物の怪でないのなら彼は生き霊なのだろう。現し身から抜け出た魂が美子のもとに通い、想いを遂げている。そうとしか考えられない。

 ――ならば、わたくしはどうすればいいの……?

 このまま手をこまねいて、なにも出来ずに時を過ごしているうちに、入内の日が来るだろう。男の実体と会えないままに、後宮という牢獄に連れ去られてしまう。
 募る思いは美子の心身を斬り付け、ぼろぼろにした。うち拉がれた心に、ひとつの記憶が浮かび上がる。

 ――いまのわたくしはまるで、あの恋文の主のよう……。恋い焦がれる想いをどうすることもできずに、恋文に想いを激しくぶつけてきたあの殿方の……。

 ただひとえに、逢いたいと綴られていた。あなたの姿を見たい。目に焼きつけたいと……。その香りを聞くだけで、死んでしまってもいいと、ままならない恋を嘆いていた。その言葉の数々は、いまの自分の心情に重なる。
 そう、わたくしも、あの沈香に包まれているだけで……。
 そう思ったとき、美子は愕然とした。

 ――沈…香……。あの、恋文に焚きしめられていた薫りとまったく同じ香……。

 当時、文に自分の好みの香を焚きしめるのが雅びであった。香によって、文の送り主がすぐに解るほど、それは定着していた。
 唐渡りの成分が邪魔しているものの、底辺の沈香は同じ種類のものだ。つまり、恋文の主と、あの男の香が同じ……。
 到達した事実に、美子は震える息を噛み殺す。恋文の主と、男が同一人物だったら……?
 昼最中、人目の多いなかでも美子の震えは止まらなかった。なるべく几帳の陰に隠れて動揺を見せないようにしているが、やはり目立ってしまう。が、気にしている余裕は美子になかった。
 はじめて目にした恋文は、怪しく不気味と思えた。どうして見たこともない女にこれほど情熱を傾けられるのか不審だった。
 が、回を重ねるうちに印象は変わってきた。それほどまでに愛される魅力がある女かと、自問自答したりした。それほどに、飽きもせずこまめに男は文を送ってきた。恋文の内容に、せつない歌に、ときめきを覚えるようにもなった。
 一度、返事をしてみようか……? そう思った頃、父に恋文のことが発覚してしまったのだ。父は溜まった恋文を見るなり、灯台に焼べてしまった。

『ふうむ……内容は素晴らしいが、あのお方はよくない。我が家にとっては最悪の相手だ。この文のことは早く忘れなさい』

 すべての恋文が燃やされたとき、忘れなければいけないのだな、と思った。思いながらも、内容が朧になっても恋文のことをずっと覚えていた。
 考えてみれば、恋文を通して美子もまた見たこともない相手に淡い思慕を抱いていたのだ。
 恋文の仲立ちをしていた佐穂が父に咎められたのか、恋文はあれきり来なくなった。内心、美子は寂しかった。
 恋文の主と、男が同一人物だということは、佐穂を通して充分考えられる。
 気分の悪そうな主人を気にして、当の佐穂が几帳を立て廻して場所を隔絶してくれた。案じて佐穂は美子の顔色を見てみる。

「姫さま、お加減が悪いのですか?」
「そうじゃないけれど……丁度、おまえに色々聞きたいことがあったの」

 ぎくり、とはっきり解るほど佐穂の顔色が変わった。

「な……なんのことでございましょうか」
「――おまえ、いまでも恋文の方と連絡をとっているの?」
「え……」

 言葉少なになる佐穂に、美子は切り込む。

「この二日ほど、わたくしのまわりに怪異が起きているのよ。それも、おまえがあの沈香を焚くようになってから……。
 ある殿方の生き霊が、わたくしのもとに夜な夜な忍んでくるのよ。それで、嫁ぐ前のわたくしに――」
「お、お許し下さいませ……!」

 美子の言葉が終わる前に、佐穂は蒼白になって目の前に額づいた。

「わたくしが、ついつい誘惑に乗ってしまったせいで……!」
「……え?」

 真実を吐かせるつもりで切り出したのに、思いもしない科白が飛び出す。

「……誘惑? どういうこと? まさかあの方と!?」

 気色ばんで美子は問いつめる。佐穂は否といった。

「……いいえ。わたくしの相手は主上の一の宮さま・朝道親王(あさみちしんのう)さまにお仕えする家人で……」

 主上の一の宮・朝道親王……。思い至りもしない高貴な人の名に、美子は目を白黒させた。



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