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招魂の香




 左大臣の二の姫・美子(よしこ)は近頃、憂鬱な溜め息ばかりつく。
 頃は平安のなかば。世には華やかなる雰囲気に溢れ、雅びで官能的かつ退廃的な絵物語が繰り広げられていた。美子も、間違いなく世の空気を吸っている。が、愁眉はひらくことなく物憂げである。

「ねえさま、お祝い事を控えているのに、なんて顔してるの」

 三の姫・薔子(そうこ)が呆れた口調で姉のまえに座った。
 薔子は十七歳になる美子よりふたつ下の十五歳である。背格好はそう変わらないが、姉が清楚で儚げな美しさを供えているのに対して、妹は目鼻立ちのはっきりした姫である。
 印象の強さは薔子が勝るが、美子は穏やかで柔和という長所を持っている。笑えば天女が舞い降りたかという錯覚を相手に与え、哀しげな面持ちをすると人は放っておけなくなる。かというと美子は艶やかさを匂わせることもある。勝ち気でさっぱりとした質の薔子は色香とは程遠かった。
 ゆえに、男達はどこからか伝わる噂だけで薔子よりも美子に懸想した。美子は男心をくすぐる姫なのである。
 薔子の侍女が慌てて脇息を主人の傍に置く。薔子はゆったりともたれかかった。笑顔のない姉の面を見、その手許にある冊子に眼を止めた。

「……伊勢物語? ほんとにすきねぇ」

 咄嗟に美子は本を閉じ、恥ずかしそうに俯いた。

「ねえさまは、在五中将(ざいごちゅうじょう)に憧れているんでしょ」

 在五中将とは、平安初期の歌人・在原業平のことである。
 在原業平は当代きっての美男としてもてはやされ、歌の才にも秀でていた。
 が、在原業平は天皇の孫であったため、権力者・藤原氏に目をつけられ、数々の受難を強いられた。そのなかに、藤原氏の姫である藤原高子(ふじわらのたかいこ)との恋がある。
 はじめは憎き藤原氏の女を篭絡するのが目的であったが、予想に違え、ふたりは恋仲となった。ところが高子はのちの天皇である東宮の妃候補だったのである。ふたりは駆け落ちを決行したが、途中で高子は連れ戻された。業平としても如何ともしがたく、高子は東宮の後宮に入内した。
 傷心の業平は高子を忘れるために東国に下っていったのである。伊勢物語は在原業平を主人公とし、彼を巡る恋物語である。

「高貴な血筋で美しい在五中将のような男が、高子姫と同じ立場にいる自分を攫ってくれないかと考えているんでしょ」

 妹の鋭い指摘に、美子は言葉をなくす。
 薔子の言う祝い事とは、東宮に入内することをさしている。
 東宮は美子の歳の離れた異母姉・透子(とうこ)が天皇のもとに入内してもうけた子である。美子には甥にあたり、歳は七つ離れていた。
 二ヶ月後に美子は東宮に入内することとなっているが、正直、美子は嫌でしょうがなかった。十七の自分が、十の少年と婚姻するのである、夢も希望もない。美子には、歌集や物語を通して恋に憧れる心があった。

 ――歌集や物語に出てくる女人は、だれもが激しい恋をしているわ。みな自分の心に素直に、勇気を持って殿方の胸に飛び込んでいる。わたくしも、愛する男がいれば、今すぐ迷わず飛び込むのに。

 そう思うと、美子は悔しく、哀しくてたまらない。間もなくのことなので、嫁入道具の調度や季節のかさねが出来上がってきているが、見る気もしない。憂い心を、物語で紛らわしていた。
 薔子は、美子とまったく意見が違う。

「在五中将なんてねぇ、大昔の人なのよ。お話の中でしか美しくない男なのよ。今の世の中見渡してみなさいよ、素晴らしい男なんて、どこにもいないんだから。
 今、一番素晴らしい男はね、主上なのよ。主上ならなんでもできるんだから。東宮様もいずれは主上でしょ。ねえさまは、この世で一番恵まれている女なのよ。それを、在五中将がいいなんて……贅沢すぎるわ」
「なら、あなたが入内すればいいでしょう」

 腹立たしく、美子は一言告げた。薔子は口をあんぐり開け、ものも言えない。なにか言おうと唇をぱくぱくしている薔子を無視して、美子は文台に顔を伏せた。

 ――そうよ、そんなに主上がいいのなら、薔子が入内すればいいじゃない。なにもわたくしでなくとも……。

 美子は唇を噛んだ。
 ことを決めたのは父・左大臣である。
 当代一の実力者で、東宮の外祖父である。長女は天皇の后になり、野望は更に膨らんでいた。次代の天皇の后を自身の娘にするために、天皇の外戚になるために、左大臣は強行的に次女・美子の入内話を進めた。美子に否やと言う自由は、ない。
 が、美子は妹・薔子が入内してもいいのではないかと本気で考えている。歳もふたつしか違わず、東宮も自分より明るい薔子に懐いていた。
 それを、どうして自分が……と父を恨めしく思っている。
 知らず知らずに泣きそうになる美子の頬を、そよ風が撫でていく。面をあげると、簾を揺り動かす初秋の風が美子を慰めていた。


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 婚礼の日を一日一日と数える身には時の流れが速い。物思いに耽っているうちに夜の帳が下りた。
 御帳台の廻りに、香しい薫りが漂い始めた。侍女・佐穂(さほ)が香炉に香をくべたのである。佐穂は美子の乳姉妹にあたる。
 几帳から顔を覗かせて、美子は佐穂に声をかけた。

「気がつくわね、ありがとう。今宵の香は不思議な香りね」

 他の侍女に寝間着を着せてもらいながら香のくゆりを聞く。沈香(じんこう)を根底にしているが、えもいわれぬ匂いが含まれている。どこか異国の風情がした。
 美子の問いに佐穂は間をおいて応えた。なぜか不自然に感じられた。

「はい。唐渡(からわた)りの品だとか……」

 どうりで……と美子は心のなかで相槌を打った。
 侍女達が下がると、まだ眠る気にもなれない美子は、寝間着のうえに袿を引きかけて文台に向かう。
 今の美子には物語がせめてもの慰めだ。伊勢物語や源氏物語、万葉集におのおのの歌の家集……。すべて主人の憂鬱を悟った佐穂が取り寄せてくれた。
 幼い頃から一緒に育っただけあって、佐穂は察しがよい。美子も佐穂になら本心を打ち明けられ、佐穂も美子相手にならふざけたりもする。
 半年ほどまえ、佐穂は誰からのものか解らない文を美子に届けた。中身は縷々と想いを綴った恋文で、読んでいる美子までもが煽られるほどの激しさだった。差出人が誰か佐穂に問いつめると、いわくありげに笑って、

『姫さまは本当に幸せな方。こんなに熱烈な想いを寄せておられる殿方がいらっしゃるのだもの』

 いたずらっぽく言った。
 差出人不明の恋文など怪しいものだが、それでも徒然を凌ぐのには格好だった。その恋文も今は届かない。

 ――すべて、東宮さまに入内するため父さまが払い除けてしまわれた……。

 本心では、あの恋文が誰のものなのか今でも気になる。美子が自分の目で見た唯一の恋文だったから……。
 それ以外にも文は届いていた。それは、父が仲立ちになっていたものだった。届いていることを知らされるだけで実際見せてもらえることはなかった。
 それらが、美子の外聞を造るために父が企てた策謀だといまなら解る。男達の高嶺の花を手に入れる愉悦を東宮に与えるためだろう。

 ――結局、父さまにとってわたくしは政争の具でしかなかったのか……。

 美子の心に絶望と諦観が吹き荒ぶ。物語のなかにでも逃げ込むしか救いはなかった。

 ――今からでは、恋することなんてできはしない。ましてや、殿方にさらってもらうなんて……。入内する当日があっという間にきてわたくしは一生逃れられぬ牢獄に送られるのだわ。

 頬杖をつき溜め息を吐く。燈台の芯がじりじりと焦げる音が、まるで自分の心の軋みのようだと思えた。両の手を組み額を臥せる。目を瞑ると香の薫りに身体が包まれているようだ。眠りも揺りかごのごとく押し寄せてくる。
 美子は眠りたくなかった。眠ってしまえば、また一日が終わってしまう。入内の日が近付く。
 夜の静寂と眠りの足が、美子の感覚を朦朧とさせる。
 風が壁代をかき分けたのさえ気がつかなかった。心無しか、香が咽せるほど濃くなったような気がする。美子が口元に手を充てたのと、異変の到来は同時だった。




「――――ッ!」

 力強い腕に後ろから抱き竦められ、美子は戦慄した。
 身を竦ませ、恐怖を露にするが、腕の力は弱まるどころか増々強くなる。香が身に迫ってくるほど近くに聞こえた。
 あらん限りの力で抗い、身を捩ると、勢いで振り上げた腕が相手の胸に当たった。堅い弾力で弾き返され、自由になった手を掴まれた。
 男、男だ。
 今ある事態に美子は愕然とした。自分の部屋に男が忍び込んでいる。忍び込んだだけではなく美子を強く抱き締めている。これは、どういうことか、まさか……。

「いやッ、いや……!」

 大声で叫ぼうとしたが、男の大きな手の平に口を塞がれた。もうひとつの手で男は美子の頬に触れ、向き直らせた。否応もなく、美子の目に男の面が入ってくる。
 哀しい瞳が揺れている。
 なにより、美子の頭にその言葉が過った。切れ長の黒瞳は理性をたたえながらも哀切に揺れ、真摯に美子を見入っていた。整った目鼻立ちは気品があり、貴種の公達さながらだった。色合いのよい狩衣を纏い、風趣がある。まさに、美子が想い描いていた端整な青年がいた。
 美子が固唾を呑むと、男は手を離した。代わりに薄い唇が美子の桜色の唇に近づいてきた。軽く重ねられ、少し乾いた唇の暖かさが美子の心に染み入った。震える息を止めるのがやっとだった。心ならずも唇を奪われたのに、美子の理性に背いてときめきが身を走る。思わず目を閉じてしまった。
 長く感じられたが、瞬時の口づけだった。淡い温もりが離れ、自分の心が名残りを惜しんでいることに気づき美子は動揺した。許したわけではないのに、どうして……美子はうろたえて目を臥せる。心の戦きに驚愕し、つい警戒を解いてしまう。
 うつむいたのを許したと錯覚したのか、男は愛しそうに美子の長い髪を撫で、接吻した。片方の手でいまだに頬を撫で続け、流れるように項に触れた。
 さらに強い震えが美子の身に走った。うっと声を詰まらせると男は微笑み、項に唇を這わせてくる。まるでなめくじが這っているかのようにぬめぬめと湿りがある。背筋に痺れが走り、美子は本能的に身を反らそうとしたが、男の腕がしっかりと捕まえていて逃れられない。髪を弄んでいた手がいつのまにか寝間着ごしに乳房をまさぐっている。覆い被さるようにして男は美子の身体を倒した。

 ――犯される……!

 やっとのことで思考がそこまで辿り着いた。このまま男の腕の中に甘んじていてはいけない。美子は必死で暴れ、抵抗した。それとて、男の心を煽るだけである。
 女のか弱い力が男の膂力に適うはずがなく、美子はあっさりと手足の自由を封じられてしまった。女を閉じ込めながら、男の唇は項から鎖骨を、素肌をなぞっている。
 美子は暴れるのに疲れ、諦めとともに身体を横たえていた。男の腕が腰紐に延びても、どうすることもできなかった。涙だけが自由を許され滔々と流れ続ける。
 ふと、男は手を止め美子の泣き顔を見つめた。恥も外聞もなくしゃくりあげる美子に、男はどうしたらよいのか解らないように溜め息をつき、堅い指で涙を拭った。その感触があまりに優しく暖かで、美子は男を見入ってしまう。
 目があうと男は柔和な笑みを浮かべた。笑顔だけで、心ばかりか身体まで溶けそうになるのを美子は不思議な思いで受け止めていた。溢れ続ける涙に、男は頬に唇をつけ吸い取った。両の目から涙を吸い取り、下りてきた唇が自然と唇に触れた。

 ――拒めない……。

 男の寂しげな瞳に、甘く優しい笑みに魅せられ、美子の女心が疼いていた。何故か、いたずら心ではなく本当に男に愛されているような気がした。信じてみてもいいように思え、美子は自分から男の腕に背を廻す。
 優しい愛撫と熱情の滲む瞳にほだされた美子は、入内前という大事な身にも関わらず、男に身体を許した。
 事の重大さは理解していた。が、何故か男にどうしようもなく惹かれた。
 美子には何の躊躇いもなかった。



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