弱さ故の美しさ


 淡色の桜は、幾重もの姿をひとの目に映し、確かなかたちを持たない。
 昼の姿は灰青色の空に輪郭を溶け合わせ、盛りの短さにあわせ、いかにも儚く弱々しい。
 が、夜の姿はたおやかでなまめかしく、著しく官能を刺激する。
 ひとはその幻想的な美しさを手にしたいと望むが、散り急ぐ美をその手に留め置くことはできない。

 が、ひとがその美しさをその身に移したとしたら、男はどうしても手に入れずにはいられないだろう。


 ――俺の不幸は、手に入れずにはいられない美に出会ったこと。それが、神の定めた運命の輪を乱すことになろうとも、手の内に納めてしまいたいと願ったことだ。


 十歳を過ぎたばかりの童女だというのに、羽依はなよやかで妖しい空気を漂わせていた。
 幼さに似つかわぬ豊麗さは、長じた後の姿を容易に彷彿とさせる。未だ綻ばぬ蕾の桜といった風情だった。
 手に入れたい、手に入れずにはおくべきか――。と、強く願った。父帝が死に、北宇を自由にする権力が俺にはあった。
 たとえ、従妹姫の運命に不吉な託宣が付き纏っていても、関係なかった。運命を変える自信があった。

 ――俺は、姫がこの男と予定通り結ばれねば悲劇に見舞われると預言された許婚・暉玲琳を彼奴の国・南遼共々滅ぼし、羽依の両親――伯母とその夫――を殺して彼女を手に入れた。
 羽依の傍に彼女の側付き侍女だった揚樹と、我が皇后・旺玉蓉を付け、見張らせた。


 玉蓉は北宇の宿敵・北康から和睦のために嫁いできた公主で、北康皇帝の妹だ。美しく淑徳、慎ましやかな女だ。
 始めの頃はその美麗さを気に入り、よく閨に召していた。他の妃達とあわせ、万遍無く寵愛していた。
 夜を重ねるうちに、玉蓉は子を身籠り、男児を生んだ。あとひとり、趙氏の女も俺の子を孕んだ。
 が、羽依を見付け、彼女を手に入れて以来、他の女に興味が湧かない。羽依の女が満ちるのを切々と待つ俺に、玉蓉は

「いかがでしょう。わたくしが羽依さまのお側でお見守り致せば、姫の変化をつぶさにお伝えすることができますが……」

 と尋ねた。
 玉蓉の申し出は、渡りに船だった。親を殺した俺に、羽依は恐れ怯えており、容易く近付けなかった。
 協力者となった玉蓉から羽依の近況を聞くため、自然と彼女を枕席に呼ぶ回数が多くなり、労いのため、彼女に第二子を授けた。
 彼女が羽依に近づいた目的が、俺の寵を一身に集めることだったと際になって判ったが、この時の俺にはどうでもよいことだった。

 玉蓉を羽依の側に置いたのは、結果として正解だった。
 羽依の身体に女の印が顕れたのを正確に把握し、玉蓉の手引きにより、過たず訪なうことができたのだから。
 それからの俺は、羽依にのめり込む一方だった。
 半ば実った柔らかな乳房は撓み、肌に唇を寄せると滴る程の瑞々しさが伝わる。若々しい肢体は弾けるがごとく芳しい。
 削がれてしまった表情だけが残念だったが、それさえも弱さ故の美しさを孕んでいた。
 俺は羽依がもたらす甘美さを味わい、激情を夜毎与え続けた。頑なな彼女が俺に愛を返してくれ、我が血を受け継ぐ者を腹に宿すのを待ち侘びていた。

 が、それが俺の独り相撲と思い知らされたときの虚しさと愛憎は計り知れない。それは愛着に反比例して激増する。
 自ら命を断とうとしてまで俺を拒もうとする意志。悲痛さを表す涙――。
 寝台に彼女を押し潰したときに目の当たりにした現実が、俺の熱情を切り裂いた。
 そのとき俺のうちを締めていたのは、悲しみと憤り、どちらが大きかったのか、今でも解らない。
 が、どちらも、羽依に恋い焦がれるための、哀しい男の性としかいえない。


 あの夜から俺は迷走し続ける。
 行き場のない羽依への情熱と愛欲を吐き出すため、無駄に女を求めた。
 佞臣・李允が勧める女をあたり構わず抱いた。
 嫌がる臣の娘を無理矢理犯し、後宮に拉したりした。
 下心があると解る、妓女・恵仙葉の手管を重宝し、後宮に入れたりした。
 その度に玉蓉は哀しげな顔をするが、逆に俺は惨めになりその面を見ないようにする。
 羽依は人形のようになったまま年月を過ごしている。表情の動きは殊更少なく、言葉が漏れるのも疎らになっている。
 愛する女のこころが枯れていけばいくほど、俺は渇えていく。俺を潤す者はただひとりしかいないのに、ひたすら遠くなる。

 ――辛い、苦しい。誰か俺を助けてくれ!

 言葉に出ない叫び。が、誰も助けてくれない。否、ひとりしか俺の渇きを満たせない。

 羽依、おまえだけが――…。


 しかし、羽依の渇きを満たせたのは、俺ではなかった。
 あの頃の俺は、心身ともに潤され、日々なまめかしく変化していく羽依を、不可思議に思いながら見守る他なかった。


 それは、妃たちを集めた宴席を開いた日から始まった。
 李允が余興のためといって、ひとりの舞姫を伴ってきたのだ。
 舞姫は艶美で激しい舞を舞う。俺は興をそそられ見入り、傍らの羽依に目を転じ、驚愕した。

 羽依は頬を染め、目を潤ませ見つめていた。――舞姫・燐佳羅を。

 こころが訳もなくざわついた。
 何故、羽依はこの舞姫を見て情動を取り戻したのか。何故、美しい面を艶やかに変化させたのか。
 訝しく思いながら、羽依の表情を取り戻した燐佳羅を羽依の傍に置くことにした。俺自身が燐佳羅の身体に興味を持ったということもあった。
 が、いつのまにか俺のこころを、暗雲が垂れ込める。
 ――不安と怖れという暗い感情が。


 羽依は燐佳羅を傍に置くようになってから、見違えるように変わっていった。
 暗々としていた面に生彩が戻り、目にも色が出てきた。笑顔を取り戻し、怒りも表すようになった。
 ――そして、羽依は艶と可憐さを身につけた。それを俺ではない他の人間が引き出した。
 俺は羽依の前で、戯れに燐佳羅の身体を所望したことがあった。
 驚くことに、このとき羽依は自らを盾にして俺に抱かれ、燐佳羅への俺の興味を逸らした。
 久方ぶりに抱く羽依の肢体の柔らかさに夢中になった。
 が、同時に侍女でしかない燐佳羅を羽依が庇った事に対する危惧が、俺の頭のなかでもたげ、膨らんだ。


 以来、俺は羽依と燐佳羅の様子を陰ながら見張り続けた。実際には、玉蓉に観察させたのだが。
 玉蓉は不審な点は何もないという。年上である燐佳羅を、羽依は姉のように思い懐いているのではないか、と。
 一応、俺は納得した。
 が、ある日後宮の回廊を渡っているとき、直に羽依と燐佳羅が連れ立っている現場を見てしまった。

 ――遠く回廊から隔たった庭院で、甘く蕩けるような艶を匂わせる羽依と、男とも女ともつかない、否、男とも女ともいえる玲瓏さをたたえた燐佳羅が身を寄せあっているのを。

 もともと、燐佳羅は中性的な魅力のある女だと思っていた。俺も彼女のそんな部分に惹かれ、手を出そうとした。
 が、今の燐佳羅は違う。
 明らかに女がかもす雰囲気ではない。隙のない、硬く張り詰めた空気は、男に相応しいものだ。硬質な佇まいながら、燐佳羅は羽依に、清洌で慈しみに溢れた眼差しを注いでいる。
 羽依はそんな燐佳羅に、俺のまえでは見せたことがない、女らしい愛らしさと和やかさを以て対している。
 ――そう、ふたりの間には、愛し合う男女が交わす磁力のようなものがある。
 確かめずにはいられない。否、引き裂かずにはいられない!
 そう思い飛び出そうとした俺を、女の柔和な声が止めた。

「陛下、決裁がまだお済みでない案件があるので戻ってほしいと、大臣が捜しておりましたよ」

 玉蓉が美麗な笑みを浮かべ、俺の背後に立っていた。
「そんなもの、後でよい!」
 反抗する俺に、表情を変えず玉蓉は突き付ける。
「いけませぬ。皇帝が自儘なことをなされると、国の規律が乱れますわ」
 そんなもの、どうでもよい! と叫ぼうとして、はっと横目で羽依たちを見たとき、庭院には既に誰もいなかった。
 チッ、と舌打ちをし、夜にでも羽依に詰問しようと決め、後宮を出る。
 が、仙葉に閨房に引きずり込まれ、足止めを食らっているうちに、嬪である陶硝珠が自害して、ふたりのことは有耶無耶になってしまった。


 硝珠の死が強い衝撃だったらしく、羽依は自らねだり俺を求めた。
 凄絶な色香を振りまき乱れる羽依に俺は溺れ、何度もその身体を貫きながら、抱いていた疑惑が溶解していくのを感じていた。

 ――羽依は俺を求めている、全身で欲している!

 俺は狂喜し、惑乱した。情欲はとめどなく沸き上がり、羽依のなかに出でる。
羽依も絶え絶えな有様で放縦に乱れ、俺を飲み込み続けた。
 それでも、歓を味わい尽くしたあと、俺に気付かれないよう、羽依は密かに涙を流す。
 何が悲しく辛いのか、解らない。泣き顔など見たくはない。――だからどうしようもなく、羽依を求める。抱いている間、羽依は悦楽に溺れ、涙を忘れる。
 ひたすら歓楽のときを過ごし、侍臣に呼ばれるまで俺は羽依との愉悦に浸った



 が、何故歯車が狂うのか――俺自身の手で羽依を殺そうとし、彼女が愛してやまぬ侍女・揚樹を斬らねばならぬとは。
 こころのどこかで、殺めてしまえば、永遠に羽依を己のものにすることが出来ると思っていたことを、否定できない。
 それでも、自分自身に歯止めを掛けていたのも確かだ。
 そうだ、羽依が唆したのだ。――親を殺した男のものになることは、生きている間は出来ない。だから、己を殺して自分のものにしてくれれば、死して俺のものになれる、と。
 それから後のことは、よく覚えていない。
 おぼろげに、羽依を庇った揚樹が俺に斬られ、血飛沫が上がったのを見た。
 羽依の魂が裂けたような絶叫が耳に届いた。
 が、これだけは忘れることが出来ない。
 ――燐佳羅が俺に激昂し、荒々しく何かを叫んだことを。
 はっきりとは覚えていないが、あのときの燐佳羅の声・仕草は――男のようだった?
 だから、羽依から燐佳羅を引き離し、確認してやろうとした。
 が、昏睡し続ける羽依を哀れに思った玉蓉が、厳しい口調で俺を咎めた。揚樹を奪っただけでは飽き足らず、その上燐佳羅とも引き裂くのか、と――。
 燐佳羅は眠り続ける羽依に、寝食を忘れ付きっきりで看病している。その様子が痛々しく、切ないとも言っていた。
 俺からすれば、羽依には俺さえいれば誰も必要ない。揚樹はどちらでもよいが、燐佳羅は邪魔者以外の何者でもなかった。
 ――燐佳羅だけは許せぬ。あれは、殺すべきだ。
 脳裏にこだまする声。その声は暗い欲求の呼び水だった。
 燐佳羅を抹殺したい――!
 そんな俺に、手を貸す存在があった。


 恵仙葉が、自身の舞姫と燐佳羅の術を競わせ、負けた者を勝った者の主人に引き渡す、という遊びを宴で行うことにしたらしい。
 進言してきた仙葉に、俺はひとつ返事で乗った。
 仙葉は自身の舞姫に対して絶対なる自信を持っている。俺は彼女に賭けた。
 燐佳羅が敗北した後には、あれが男か女か、目覚めた羽依の目の前で暴いてやる。そして、残酷に殺してやる――。
 宴席で仙葉の舞姫が舞うのを見守るなか、俺はほくそ笑んでいた。

 が、事態は思わぬ方向に転がるものである。
 あまりの愕きに、俺の息が束の間止まる。
 仙葉の舞姫の舞が、今まで見てきた燐佳羅の舞よりも、見栄え・技巧ともに劣っていたこと。
 そして、黒綸子の深衣に袴という、男としかいいようのない身形をした燐佳羅が、俺と玉蓉と仙葉、そして覚醒した羽依を除いた全ての者を眠らせ、自ら正体を曝け出したこと――。
 そのときの衝撃は、驚天動地としかいいようがなかった。


 ――舞姫・燐佳羅は俺が滅ぼした南遼の王子・暉玲琳……羽依の死んだはずの許婚だった。


 さらに続けて打撃が襲い掛かる。

 羽依は燐佳羅を愛し、燐佳羅――暉玲琳も羽依を愛していた。
 ふたりは互いにしか解らない強い絆で結ばれていた。恐らく、俺が知らないところで身もこころも愛し合ったに違いない。

 猛烈な嫉妬と怒りが込み上げてくる。

 暉玲琳は仙葉の命を、懐胎した子ともども断ち、玉蓉との間に出来たふたりの子も立て続けに斬った。
 が、命を酷薄に奪ったことに対する羽依の怒りの叫びに動揺し、彼奴は動けなくなる。
 明らかに、隙が生まれた。彼奴の弱点は羽依――。暉玲琳は仇にこころを奪われ、無様な体を晒している。
 俺はすかさず羽依を片腕で抱え込み、暉玲琳に切り掛かる。僅かに腕を擦っただくだが、手応えがあった。

 ――今更、死んだはずの貴様に羽依を渡せるか!! 俺が運命にあらがい、多くの血を流してしたことが、無駄になる!!

 たとえ何をしようと、運命は決まっていたと言いたげな成り行き。
 どれだけ先を抜きんでても、何度も肉体に愛を刻み付けても、羽依は目の前の憎い男のものに変わりはなかったのか。

 ――そんなもの、認めぬ!! 羽依は俺のものだ!!

 羽依を盾にとられ、暉玲琳は俺に刄を振るえない。
 俺は唇の端で笑い、刀を握りなおす。羽依は暉玲琳の危機を感じ、絶叫する。
 ――躊躇うな、早く己を殺せ、と。
 そう言う羽依の姿に儚げさはなく、弱さ故の美しさを見出すことが出来ない。愛する男のためなら命を投げ出す、凄艶で強かな女の面容しかなかった。
 それをすべて、俺ではなく暉玲琳がさせている。俺のなかの憎悪がいや増す。

 が、暉玲琳は羽依を殺せなかった。
 肉体が羽依を殺めるのを拒否したようだ。剣を振り上げ戦せたまま、静かに涙を流していた。
 勝機に立った――と思った。


 ――羽依が髪に挿していたかんざしで、俺の心臓を突き刺した瞬間に。


 我を失った羽依の全身に、俺の命……飛び散る鮮血が降り注ぐ。まるで呪咀のように。
 そうだ。おまえに俺の命を奪わせてやる。否、暉玲琳などにはくれてやらぬ。
 俺の血を浴び、その身に染み込ませろ。その血は俺の愛そのもの。
 全てが染み渡ったとき、おまえが俺を忘れることは不可能になる。

 ――絶対に俺を忘れさせぬ。今更、何もなかったことにはさせぬ。
 暉玲琳には……やらぬ。

 おまえは俺のものだ――出せぬ声で呟き、笑みをたたえ俺の命の炎は消えた。



 冥い闇のなかに、俺の魂は埋もれ沈む。
 神に背き、愛する女に呪いを掛け。


 ――愛されることを希求しながら。







桜と喪失の10題

トップ