実を付けない花


 ――神様、結ばれたいとは思いません。わたくしの想いは所詮、実を付けない花と解っております。ただ陰ながらでも、お慕いしたいのです。わたくしのささやかな我儘を、お許し下さいませんか……?

 月明かりに照らされる、白々とした桜に祈る。
 わたくしが秘かに憧れる方は、恋してはならないひと。
 わたくしはあの方ほど美しい男の方を見たことがない。
 柔和な面差し。整った柳眉だというのに、女々しさを感じさせないすっきりした額。繊細な目鼻立ちに形よい唇。軟弱には見えない引き締まった筋肉・体躯――。
 姿の美しさだけではない。あの方はすべてに秀でている。
 文武両道を修め、ひとの言葉をよく理解し、情け深い人柄が滲み出た挙措に、傍にいるものは安心し楽々とさせられる。政にも才覚を発揮され、行く末有望と見られていた。
 そんな方だから、大和にいるすべての女人が、あの方に魅了されている。否、女だけではない。
 父上に使える臣たちも、屋敷に訪れるたび、あの方の噂話をする。わたくしは御簾ごしに嬉しく聞いている。
 父上様も並いる王子たちのなかで、あの方を殊の外お気に召され、次なる大王にお望みになっていらっしゃる。
 ――そう、わたくしがお慕いする方は、母を同じくする実の兄上様。
 すでに独り立ちされている兄上様は、月に数度しか父上様のもとに参上なさらない。わたくしは未だ乳母に養われているから、数年に一度お会いできればいいほうだ。

「そなたの身の振り方も、そろそろ考えねばならぬな、軽大郎女。長田は大草香王子の男児を生したぞ。
 そなたは妙齢で我が娘のうち最も美しい。口伝てに『衣通姫』と呼ばれているのを知っているか?」
「はぁ、少しは……」

 どう応えたらよいのか解らず、わたくしは適当に相槌を打つ。
 確かに、わたくしの耳にも入ってきていた。近頃とみに美しく艶やかになってきた大王の二の王女を、艶美さが衣を透けて輝く姫――衣通姫――と呼ぼう、と。
 しかし、わたくしにその自覚はない。まだ童女だというのに、衣通姫など、相応しくないではないか。
 そう、この世で最も美麗なのは、一の兄上様に決まっている。あの方に気付かれなくても、わたくしは陰ながら見つめているだけで陶酔してしまう。

「そなたの美は、大和で最も優れた臣にだけ与えられるものだ。いつか太子を助ける者に報いて、そなたへの通いを許す」

 父上様の言に、わたくしは眉を潜める。わたくしが将来に憂いを持ったと思われたのか、父上様は慌てて言葉を繰られた。

「いや、なにも今すぐというわけではない。いまはわしが健在だ。太子を補助する者はまだ必要ない」

 わたくしは何とか笑みを作って頷いた。
 太子を助ける者に、わたくしを訪なう許可を与える――その一言が、無性に哀しい。
 わたくしがこころのうちでそっと焦がれているのが、太子――木梨軽兄上様だから。
 叶うはずのない恋だった。秘かに想うことだけが許される恋。ならば将来、兄上様のお役に立てるように振る舞うのが、一番よいかもしれない。

「父上様のよいようになさって下さい。わたくしが兄上様のお為になるのなら、
本望です」

 にこやかに形づくった笑顔に、父上は安堵なされた。

 が、時は徒に運命を歪ませる。


「父上様が、お倒れになられたのですって?!」
 わたくしは驚きに息が止まりそうになる。取るものも取り敢えず、わたくしは髷に挿した櫛を直し、比礼を纏って屋内を出た。
 手輿に揺られ門の前に着いたとき、行きあったひとと目が合い、呼吸が震えた。

 ――兄上様……。

 久方ぶりに謁る兄上様の美麗さに、容易に目を奪われる。

「っ! ……」

 兄上様の澄んだ眼が、大きく見開かれる。鵄色の眼には、わたくししか映っていない。薄く開いた唇からかいま見える舌に色香を感じ、ぞくり、と背筋が痺れた。
 無言では怪しまれる。ようようわたくしは兄上様に頭を垂れた。

「お久ゅうございます、兄上様……」
 わたくしの言葉に、兄上様ははっと我に返る。
「あ、あぁ。軽……だね?」
「はい」

 緊張に、わたくしの胸が弾む。兄上様の眼差しはずっとわたくしに注がれ、心地よさに身体が弛みそうになる。
 ずっと陰ながらにしか見つめることが出来なかったひとと直に向き合い、同じ空気を吸うことの甘美さ。父上様が病の床にいるというのに、わたくしはいま、確かに幸せだった。
「……美しくになったね」
 ため息とともに漏れた、兄上様の低い声。どこか遣る瀬なく思えたのは気のせいだろうか。
「そんな、兄上様の端正さに比べたら――」
 言いつつ、わたくしの顔がかあっと熱くなる。急な火照りに、兄上様に変に思われないだろうか。
 気に留めなかったのか、兄上様は柔らかな笑みを浮かべ、わたくしの肩に手を添えた。
「まだ父上の見舞いを済ませていないのだろう? 行ってきなさい」
 兄上様の朗らかな声音に、わたくしはやっとここに来た目的を思い出す。慌てて頭を下げ、門を潜った。
 ――わたくしの後ろ姿を、兄上様の視線がずっと追っていることに気付かずに。


 父上様の容体は一進一退を繰り返し、わたくしは父上様の宮に通う機会が多くなった。
 兄上様もそれは同じで、以前よりずっとお側にいさせてもらえるようになった。
 一緒にいることに慣れ、易く言葉を交わせるようになって、わたくしは不謹慎ながらはしゃいでいた。疼く胸はそのままに、わたくしの密やかな想いを悟られないよう、表情を変えないで話す。
 だから、兄上様の眼差しに異様な熱が含まれ、美しい瞳が濡れたように輝いていることに気付かなかった。
 薬師がぐるりと囲む父上様の寝所に身の置き所はなく、兄上様に誘われるがまま屋敷を後にした。

「少し遠くまでいかないか?」

 馬の手綱を引き、兄上様はわたくしに手を差し伸べる。馬に同乗せよということなのだろうか。思ってもみない成り行きに、わたくしは戸惑いながら、柔らかな温もりのある手を握り返した。
 いつも輿で移動しているから、誰かの馬に乗せてもらうことは少ない。そんな滅多にない現状で、それも慕うひとの腕に支えられながら、わたくしは慣れない速さに息を止める。
 知らぬ間に恋うるひとに深くい抱かれていることを知らずに。

 飛ばした馬は飛鳥の奥、南淵で足を止めた。連なる棚田に揺れる薄。人気が少ない、草深い大地。宮処から少し離れただけで景色が一変する。わたくしはきょろきょろと辺りを見回した。
 どうして、こんな寂れたところに連れてこられたのか、兄上様の真意が解らない。惹れているひとだから、無条件に信じ付いてきた。が、今更になって少し不安になる。
「あの、兄上様……? ここには何が……」
 が、兄上様の背は何も語らない。わたくしが焦れてきた頃、兄上様はやっと口を開かれた。

「おまえは……わたしのことを……愛しているか?」

 か細く呟かれる言葉、心なしか震えていたような気がする。
「えぇ、大好きですわ」
 兄上様はさらに苦しそうに言葉を紡ぐ。
「わたしに……すべてを許してくれるか?」
 おっしゃっていることの意味がいまひとつ理解できず、わたくしは首を傾げる。
 が、兄上様になら何でも差し上げたいという気持ちはある。わたくしは頷いた。
 兄上様の面が、切なそうに歪む。
 堅い掌が肩を掴んだかと思うと、わたくしの身体は翻り、地面に押しつけられていた。

「――――ッッ!!」

 何事が起きたのか解らないわたくしの上に、兄上様の引き締まった体躯が覆いかぶさってくる。
 驚きに大きく開けた口を兄上様は唇で塞ぎ、虚に摘まれているうちに生温い舌が入り込んできた。
 ――これは、一体……まさか!!
 血を分けた兄妹が、身体を重ねて接吻する慣習があるなど、聞いたことがない。普通、愛し合う妹背が行うこと。実の兄妹がすることではない。
 それを、兄上様は今まさにわたくしに施している。
 わたくしは動転して身を起こそうとするが、兄上様は体重を掛けてわたくしをねじ伏せる。わたくしは身動きがとれず、藻掻くしかなかった。
 口吸いしたまま、兄上様は片足をわたくしの大腿の間に割り込ませる。兄上様の意思をありありと感じ、わたくしの血の気が引いた。

 ――駄目! このままでは、兄妹の関を越えてしまう!!

 が、激しくなる接吻と、衣越しに乳房を這い回る手に、胸の奥に押さえ付けている恋慕が反応し始める。

 ――もっとわたくしに触れて。衣越しなんていや、直に素肌を愛してほしい。
その手で、唇で、思う存分乳房を、隠された場所をまさぐってほしい……。

 怖ろしい欲求が、わたくしを支配しはじめる。
 畜生にもとる行為。自ら禁じ、必要以上に兄上様に近づくのを避けていた。――欲張りな己が、もっと先を望みそうになるから。
 が、兄上様が自らわたくしの肉体を求め、熱い愛撫を隈無く与えられると、情動を止められなくなる。
 身につけていた衣をすべて取り払われ、一糸纏わぬ兄上様の熱い体躯を全身で感じると、わたくしは恥知らずで愚かな女になった。兄上様の挙措ひとつひとつに敏感に反応し、あられもなく身体をのた打ち回らせる。忘我し、己がどんな姿態を取っているのかも解らない。
 そんな中でも、こころは罪を犯すことに畏れ戦のき、知らず知らずのうちに涙が勝手に溢れてくる。
 兄上様の指と唇で潤み撓まされた肉体は、兄上様の情熱の塊で占められることを希求している。

「――――ッ! ッアッ!!」

 初めて男女の道を知ったわたくしの花は、痛みを訴えながら、なおも愛するひとを飲み込もうとしていた。

「軽……軽ッ」

 少しずつわたくしのなかに身体を押し進めながら、兄上様はわたくしの名を何度も呼ぶ。

 ――兄上様……兄上様。

 わたくしも、呼び返したくなる。が、寸前で押さえた。
 禁忌を破り悦楽を貪ると、きっと神に罰せられる。兄上様は太子。父上様の病が篤い今、兄上様になにかあれば、大和は混乱してしまう。
 それでも、危険な橋を渡ってまでわたくしを求められた兄上様の意思に、わたくしの肉体は簡単にぬかるみ、兄上様をすべて身に収めた。

「愛している、愛している……ッ! ただ、おまえだけが欲しい……ッ」

 蠢きながら、兄上様は熱に浮かされたように、何度もそう繰り返される。
 愛するひとの目の端を飾るのは、涙。慕情を刻み付けるようにわたくしのなかで激しく動く。
 兄上様の熱情の波に何度となくさらわれ、わたくしは声を放つ。飛びそうになる意識に、必死で逞しい背中にしがみ付く。

 ――もっと、もっと、もっと激しくわたくしを愛して! 罪を忘れられるくらいに! あなた様なしではいられないように! もっとわたくしをあなた様の愛で染め上げて――!

 言葉にできないわたくしの恋情に応えるかのように、兄上様は狂ったように激情を小刻みに叩きつける。速くなる動き。散る汗――。何もかも、ただ愛しい。
 滅茶苦茶に狂わされ、わたくしは兄上様を煽る。白む脳裏に、身体が勝手に痙攣する。
 がくがくと震える兄上様が一声唸ったかと思うと、わたくしの内は愛するひとの愛の雫で満たされた――。


「すまない……おまえを泣かせてしまった。
 だが、謝るつもりはない。押さえられなかったのだ……おまえに対する恋慕を」

 情熱が過ぎ去ったあと、わたくしの余熱が滲む身体を抱き締め、兄上様は切々と想いを吐露なさった。
 素裸で寄り添いあい、愛するひとの力強い腕に包まれながらも、わたくしは虚空を見つめていた。
 思いがけず叶ってしまった、許されざる恋。これから、わたくしと兄上様はどうなるのだろうか。もう、もとに戻れないのではないだろうか。
 恋うるひとに抱かれる心身の愉悦を、わたくしの恋慕はきっと忘れない。まだ足りない、と次なる逢瀬を望むのではないだろうか……。
 それは兄上様も同じらしく、わたくしの額や耳たぶ、頬に唇を当てながら囁かれた。

「わたしは、他の女子に触れることができなくなってしまった。おまえと再会してから、おまえの麗しい姿しか頭に浮かばぬ。
 わたしは誰も娶れなくなった。だから、おまえしかわたしの妻になれぬ。
 軽よ、おまえが、わたしの妻だ。誰に咎められても、離さぬ」

 慕情のまま、兄上様は怖ろしいことを口走られる。わたくしは、まだ何か言おうとなさる兄上様の口元を手の平で押さえた。

「それ以上おっしゃってはなりませぬ。兄上様は大王になられる御方。わたくしとの醜聞など流してはなりませぬ」
 必死になって思い直させようとするわたくしを、兄上様は一層強く抱き締め、困惑したように掻き口説かれる。

「大王になるから、どうだというのだ。大王になるためには、おまえと別れねばならぬのか? それだけは嫌だ!
 大王位などいらぬ! わたしはおまえが欲しい」
 わたくしは兄上様の叫びに、血相を変える。

「兄上様は父上様や臣たちにも、大王にと望まれていらっしゃいます。
 それなのに、わたくしごときのために大王の位を擲つなど、してはならぬことなのです。
 わたくしも兄上様が大王として立たれる姿を見たいのです。わたくしの望みを、奪わないで下さいませ――」
 わたくしは悲しみを噛みながら、兄上様を見上げる。
 いまのままでは、陰ながら見つめ続けることさえも出来なくなる。わたくしが愛するひとを煩わせてしまうのだから。
 兄上様は途方にくれた面持ちで、哀切を眼に湛えわたくしを見られた。

「もうどうにもできないのだ、おまえと愛を交わしてしまったのだから。何も知らなかった頃と同じ思いを持てといわれても、無理だ。
 わたしは、おまえなしでは、生きていけない――。
 今わたしの愛を拒むのなら、はじめからわたしを受け入れてくれないほうがよかった。そうすれば、わたしはおまえを諦めることができたのに……」

 兄上様の苦渋に満ちた言葉に、わたくしは為す術もなくうなだれる。

 ――仕方ありませんわ……わたくしも、あなた様に抱かれたかったのですもの……。

 目の逸らしようがない事実。ただ見ているだけでよいなど、本当は嘘だったのだ。その広い胸に抱かれ、己のすべてを奪ってほしかったのだ。
 ただ見つめていられるだけで満足という、欺瞞の恋。それは始めから悲劇の種を孕み、それゆえに実を付けてはならない花だった。

 ――あぁ、わたくしと兄上様が赤の他人なら、こんなに胸が張り裂けそうな想いを味あわなかったのに。
 愛することが不幸なのだということを、幼かったわたくしはやっと思い知らされた……。

 おまえなしでは生きていけないというひとに、わたくしが出来ることは、たったひとつしかなかった。


 病床の父上様の朝餉に饗された羹が、何もしていないのに凍ったという。
 訝しんだ母上様が巫に占わせると、『身内に乱れあり、同腹の男女が戯けている』という卦が出たらしい。
 それを乳母から漏れ聞いたわたくしは激しく狼狽し、乳母たちに見咎められないよう、情熱でもって恐怖を忘れさせてもらおうと、兄上様のもとに密やかに走った。

 南淵で初めて愛されてから、わたくしは兄上様と人目を忍んで逢瀬を重ねていた。
 逃れられない運命なのだろう、身体を交わせば交わすほど互いの恋情は深くなり、離れられなくなった。
 心身ともに馴れ親しんだというのに、兄上様のふと見せる蕩けるように優しい笑顔、わたくしを労り気遣うさりげない優しさに、わたくしはときめき、益々憧れ恋心を持て余す。
 身体も、兄上様のまえでは素直になり、慕うひとの思いのままに緩み開かれ、惑溺する。まさか己がこんな悩ましい声を発するとは、と驚くほど、わたくしはつややかな喘ぎを零すようになっていた。

 兄上様の傍にあり変化したというのに、未だ残る躊躇いに、こころは溺れきることが出来ない。
 兄上様に愛され、我が妻よと呼ばれて嬉しいはずなのに、天罰を畏れ、知らず知らずのうちに涙を流してしまう。
 兄上様はある日、そんなわたくしを案じ、耳元で囁かれた。

 あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走しせ 下訪ひに   我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を こぞこそは 安く肌触れ


 ――もう、そんなに涙を流すな。今宵こそは安らかに愛し合おう。

 兄上様は初めてのときからずっと泣き続けるわたくしに、苦しみを抱いていらっしゃるのかもしれない。
 けれど、どうしようもないのだ。
 わたくしの涙は、兄上様と通じてしまった哀しみからくるものではなく、大切な背の君に厄災が降り掛かるのを怖れてのものだったから。
 そう、兄上様がわたくしを我が妻と思って下さっているように、わたくしにとっても、背の君は兄上様しかいない。
 わたくしは因習に背くことにまだ罪悪感があり、それを兄上様には言えないけれど、とうの昔に胸に定まっていたことだ。

 兄上様は既に覚悟を決めていらっしゃる。それがまた、怖ろしい。

 笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば


 ――愛しいおまえと愛を交わすことが出来るのなら、わたしはどんな目にあってもかまわない。

 熱い愛撫を浴びせながら呟かれた大胆な歌に、わたくしは冷やりとして兄上様を咎めた。兄上様のお言葉は嬉しいけれど、わたくしのために危険な目にあわれるのは嫌だった。


 濃くなまめいていくわたくしたちの逢引きを止めたのは、父上様の死だった。


 先の大王の殯の席に広まっていたのは、太子の密事の噂だった。あろうことか太子は同母妹と通じ、夫婦のごとき深い交わりをもっているという――。
 正確に広く伝わっている兄上様とわたくしの房事の伝聞に、わたくしは針の筵に座らされている錯覚がした。
 それよりも、太子である兄上様の政治生命が危ぶまれる。こんなに大きく取り沙汰されて、知らぬ者はいないだろう。兄上様の徳は疑われ、廷臣こぞって不信の眼差しを投げ掛けるだろう。
 否、すでに大和の民人すべてが、人倫にもとる行いをした太子を見限っているかもしれない――。
 薄氷を踏むような兄上様の今後に、改めてわたくしは後悔に襲われる。そして、愛する我背子の無事と安寧を祈らずにはいられない。

 ――あぁ神様、兄上様に罰を下されるなら、あの方を迷わせてしまったわたくしを、先に断罪して下さいませ!
 兄上様だけは、どうか――!!

 天高く世をしろしめす太陽に、清かに夜を照らす月に、わたくしは必死に祈る。

 が、運命はあまりに残酷だった。


 実の兄上様である穴穂王子が、我が背の君を捕えてしまわれたのだから。


 初めから示し合わせていたのだろう。
 窮地に陥った木梨軽兄上様を、物部大前宿禰が私邸に匿い、宿禰の弟である小前宿禰が背の君を、謀反を企てた罪状で穴穂兄上様に引き渡してしまった。
 このままでは兄妹相姦した咎で、互いを他者に引き裂かれ罪をかぶせられるだろう。物部大前が協力してくれるので、罪が及ぶ前に自ら事を起こし、権力を握ってしまう――。そう兄上様はわたくしに決然とおっしゃった。
 いやな予感がして引き止めるわたくしに、安心せよ、必ず誰憚ることなく逢えるようになると言葉を残し、兄上様は大前宿禰の屋敷に入られた。
 それが大前小前宿禰、ひいては穴穂兄上様の罠であったとは。
 木梨軽兄上様が捕えられた哀しい日、わたくしは乳母によって私室に閉じ込められ、見張られ動けなかった。次の日に事の顛末を乳母から聞き、滂沱の涙を流した。

 わたくしは何も出来なかった。兄上様が捕えられ、遠くに島流しになるのを、泣きながら指をくわえて見守るしかなかった。

 お見舞いに来て下さった姉上様・長田大郎女が、こっそりと兄上様が残された歌を教えて下さったのは、兄上様が去られて四日後だった。

「兄妹が通じたことを汚らわしいと思う者は多いわ。
 でも、この歌を見ると、兄上様が真摯にあなたを愛していたことがよく解ったの。
 だから、わたくしはあなた方の仲を理解してあげたい」

 叔父上であらせられる大草香王子様との間に御子を生まれた姉上様は、お幸せな夫婦生活を送っていらっしゃる。
 が、こころなしか姉上様は憂わしげで、わたくし達のことを他人事とはいえないという面持ちをなさっていらっしゃる。
 無理もないだろう。木梨軽兄上様も穴穂兄上様も、姉上様にとっては血を分けた肉親なのだから。愛する兄弟たちが互いに争いあい、断罪するのを、余所から見ているしかなかったのだから。
 わたくしも、この事実が何より哀しく、こんな事態を招いてしまった自身の容姿を恨まずにはいられない。
 とはいえ、姉上様が兄上様の恋慕の切なさを理解し、わたくし達の運命を哀しんで下さるとは思わなかったが。

 取るものも取り敢えず、わたくしは震える手つきで書簡を見つめる。

 王を 島に放らば 船余り い帰り来むぞ 我が畳斎め 言をこそ 畳と言はめ 我が妻は斎め

 天飛む 軽の嬢子 いた泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く

 天飛む 軽の嬢子 しただにも 寄り寝てとほれ 軽の嬢子ども

 天飛ぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞こえむ時は 我が名問はさね


 ――絶対に帰ってくる。だから、その時まで清く身を保って待っていてくれ。
 こころだけは、いつも寄り添っている。ひとり寝の夜も、姿はなくとも、わたしはともに添い臥ししているよ。
 それでも寂しかったら、穹を飛ぶ鶴をわたしと思ってほしい。鶴にわたしのこころを託したから。空を飛ぶ鶴を見かけたら、わたしの名を問うて欲しい。
 嘆き悲しまないで。わたしを想って余りに泣くと、今度こそ永遠に引き離されてしまうよ――。

「兄上様ッ……!」
 なんと酷いことをおっしゃるのか。
 嘆き悲しまずにはいられないのに。
 どんなに探しても、あなた様はここにはいない。鶴などにあなた様の身代わりは出来ないのに。わたくしの身体とこころが、こんなにもあなた様を求め、寂しがっているのに。
 ――誰にも、この寂しさを埋められないのに!

 こころの内の面影を偲ぶことでは物足りなくさせてしまったのは、あなた様なのに。
 傍らにある温もりでしか満足出来なくしてしまったのは、あなた様なのに。
 ――今更、面影を縁に月日を過ごせとおっしゃるのですか……!!

 簡書を胸に泣き崩れるわたくしを、姉上様は優しい腕に抱き締められた。

「どんなに道ならぬ想いでも、それが真摯で強いものならば、何より尊いのですよ。
 今のあなたは、名ばかりでなく、本当の衣通姫になりましたね。
 煌めく慕情が、身体を通して、衣越しに滲み出ている。あなたは今までよりも、より美しい――」

 姉上様はふくよかな指で、わたくしの涙を拭われた。
 実は姉上様も、姉弟のしがらみを越えた、道ならぬ想いを抱いている御方だった。それをわたくしが今生で知ることはない――。

 兄上様の約束に希望を見出だし、わたくしは微笑む。

 ――いつか、必ず帰ってくる。

 それがどんなにか細い希望だとしても、縋らずにはいられない。
 兄上様の歌にお返しをしようと、わたくしは簡に歌を書き付けた。

 夏草の あひねの浜の 蠣貝に 足踏ますな 明かして通れ


 ――どうかご無事で、お身体を大切に。生きてお逢いする日を、こころよりお待ち申しあげております。

 歌を覗き込まれた姉上様が、美しく笑まれた。


 半年経って、わたくしの不安はいや増してくる。
 本当に、兄上様は帰ってこれるのだろうか。伊予国は遠いところ。罪人として流された背の君が、容易に帰ってくることは出来ないのではないだろうか。
 ――このまま、生涯お逢いできないのではないだろうか。
 生きて兄上様にお逢いすることにだけ、生きる意味を見出だしているわたくしには、これ以上兄上様と離れて月日を重ねることは不可能だった。
 嘆き悶え日々を過ごすわたくしを、姉上様が私邸に呼ばれた。なるべくひっそりと参れ、とのことに、乳母にだまって徒歩で姉上様の屋敷に入った。

 憂い深い姉上様の口から聞いたのは、悲しすぎる現実だった。

 ――我が背の君は、こころを失い、始終呆けて過ごしている。
 美しくみずらに結わえていた髪は、整えることなく伸ばし放題で、優美なかんばせは痩け、髭を剃らず爪も切らない。
 凄惨な有様だという。

 姉上様の息の掛かった仕人が密かに伊予国に潜り込み、兄上様の様子を知らせてくれていたという。
 大和にいた頃の兄上様とは違う、荒んだ姿にわたくしは涙ぐんだ。
 今すぐ、兄上様にお逢いしたい。待ってなどいられない。無為に待ち続けていては、兄上様が朽ち果ててしまう!
 背の君は伊予国から出ることが出来ない。いつ許されるか解らない。

 ――そう、出るのは、わたくしだ。兄上様より、わたくしのほうが自由なのだから。

 涙を拭い顔を上げると、姉上様の強い眼差しにぶつかった。何かを見透かすような、怜悧で静かな瞳。わたくしは唇を引き結ぶ。

「伊予に、向かいますか?」

 はっとして、わたくしは固まる。
 姉上様はわたくし達の仲を理解して下さった。が、わたくしに自由な行動を許されるかどうかは、別の問題だ。穴穂兄上様の身内として、姉上様はわたくしを見張らねばならぬ立場のひとだから。
 わたくしもまた罪を犯した者であり、はっきりとは知らないが、身辺に監視が付いている。乳母たちも、今はそのひとりに成り果てている。
 警戒して黙り込むわたくしに、姉上様は優しく微笑まれた。

「――お行きなさい。行って、兄上様を助けて差し上げて。軽、あなたにしか無理なのよ。このままでは、兄上様が壊れてしまう。
 あなたも、今のままだと穴穂や大王家に都合のよい人形にされてしまうわ。
 穴穂は、あなたと兄上様が発てた不名誉な噂を、揉み消そうと考えているの。
最も手っ取り早い方法は、あなたが他の男子と婚して、子を生すことよ」

 わたくしは瞠目する。――わたくしが、誰かと婚する?!

「穴穂は本気よ。――すでに、誰をあなたのもとに通わすか決めてある、と言ってきたわ」

 わたくしは激しく首を振る。嫌だ――兄上様以外は嫌だ!!
 兄上様を忘れたくない。兄上様以外、欲しくない。兄上様以外の男に、抱かれたくない!!

「――死にます。他の男を迎えねばならぬのなら、今すぐ舌を噛み切って自害します!!
 兄上様以外は、嫌ッ……!!」

 わたくしは自然と、口に出していた。
 こころのどこかで、覚悟していた。
 兄上様は戻ることが叶わず、わたくしは他の男に身を許さねばならなくなるかもしれない。
 その時がきたら、自ら命を断とうと、何度となく思っていた。

 姉上様は、突っ伏したわたくしの身体を起こし、暖かな胸に抱き寄せられた。

「死んではいけないわ。少なくとも、兄上様のお為以外に、あなたは死んでは駄目。
 生きて伊予に参りなさい。手筈はすでに、わたくしが付けてあります」

 そういって、背後にあった長櫃から薄汚れた上下の衣一式と、金子を入れた小袋を取出し、わたくしに差し出された。

「伊予の小豪族が婢を求めています。
 我が下女の血縁の者が行くことになっていましたが、説き伏せてあなたを身代わりに赴かせるようにしました。
 出立は今日です。あとの始末はわたくしがしましょう。
 先の大王の王女・軽大郎女は、長田大郎女の屋敷に参ったときに賊に襲われ、命を落としたのです。――わかりますね?」

 青天の霹靂とは、まさにこのことをいうのだろう。わたくしは喜びのあまり、慎みをなくして飛び上がった。

 婢の衣裳に着替え終わると、姉上様は泥で汚れた手拭いを手に取り、わたくしの顔に擦り付ける。
 鏡に映る、すっかり真っ黒に変化したわたくしの面を覗き込んで、姉上様はふふ、と笑い声を立てられた。

「婢が『衣通姫』のような美しさを持っていてはいけないでしょう?」

 わたくしも頷き、僅かでも美麗さが残らないように、念入りに泥化粧を施した。

 姉上様が伊予に遣わせていた仕人が、わたくしを姉上様の私邸まで迎えにきた。
 少しでも訝しまれぬよう、誰も見送りに立たない。わたくしはそれでよかった。
 これで、故郷である大和とは永劫の別れになるだろう。わたくしは己のあるべき場所――我が背の君のもとに行くのだから。
 粗末な船に揺られ、わたくしは難波津から海原へ滑り出た。


 強い海風に叩かれ、波の険しさに内腑に打撃を受けながら、なんとかわたくしは二月後に伊予に辿り着いた。
 伊予の港についてから、待機していた本当の婢と入れ替わり、わたくしはひとりで兄上様がいらっしゃる伊予温湯に向かう。
 醜い装いはそのままに、過酷な徒歩で靴は擦り切れ、裳裾は破けてぼろぼろになってしまった。どう見ても、大王の王女には見えないだろう。
 潮風や土埃で肌は荒れ、唇は所々切れて腫れてしまっている。
 水面に姿を映してみても、大和で最も美しいといわれた『衣通姫』の面影は全くなく、女浮浪者にしか見えない。
 兄上様にお見せするには、かなりみっともない姿だ。穴があったら入りたい。
 が、これも道中の安全のため仕方なくしたことだ。本姿を顕せば、どこで乱暴狼藉を働かれるか解らない。
 ため息を吐きつつも、わたくしは微笑んだ。一歩一歩足を進めるにつれ、兄上様が近くなる。
 自然と、わたくしのこころは弾んでいた。


 懐かしい腕。暖かい胸板。力強い抱擁――わたくしはずっと欲しくてたまらなかったものをやっと取り戻し、背の君の腕のなかで号泣した。
 伊予温湯にようやく辿り着いたとき、おぼろげに見える兄上様の変わり果てた姿を認め、涙が止まらなくなった。
 姉上様から聞いていた姿と少しも違わなかったが、あまりの御労しさに、勝手に足が速まる。
 愛するひとの眼にわたくしの姿が入ったと解ったときには、躓き転びながらも走りに走って、広げられた腕に飛び込んでいた。

「兄上様ァッ――!!」

 泣き濡れながら、互いにい抱きあい、息が止まるような接吻を交わす。

「――――軽ッ……」

 兄上様の涙とわたくしの涙が、頬で交じりあう。
 長いようで、短い時間。この一時だけが、わたくしの一生で最も至福だったかもしれない。

 わたくしは己の有りの儘の、包み隠さないこころを、兄上様に伝える。

 君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを行かむ 待つには待たじ


 ――一瞬でも離れられないと解ったから、もう待てなかったのです。だから、わたくし自らお迎えに上がりました。

「軽――…」

 兄上様は愛しそうにわたくしに頬摺りし、感極まったように歌われた。

 隠国の 泊瀬の山の 大丘には 幡張り立て さ小丘には 幡張り立て 大小にし 仲定める 思ひ妻あはれ 槻弓の 臥る臥りも 梓弓 起てり起てりも 後もとり見る 思ひ妻あはれ


「――わたしのために、無茶をさせたな……ありがとう」

 わたくしと兄上様は、互いの顔を見交わして微笑みあい、再びくちづけを交わした――。


 兄上様にお逢いできたことから、わたくしは女浮浪者の偽装を解き、温湯で埃と汚れを落として元の姿に戻った。
 背の君も、わたくしが髪削ぎや髭剃りのお手伝いをして、憔悴した身形から回復された。
 落ちてしまった頬の肉は仕方がないが、きちんとみずらを結い衣を改めた兄上様は、やはり貴公子然としていた。
 兄上様も、汚らしい姿から戻ったわたくしを見て、同じ感慨を持ったらしい。散り際の桜を見ながら酒を飲みつつ、兄上様はおっしゃった。

「この世は何とも、不条理なことが多いな……。
 わたし達が有りのままの姿で、誰にも咎められず愛し合う場所は、この世にはないのかもしれぬ」

 兄上様の少し寂しげな瞳に、わたくしはお酌をしながら微笑んで言う。

「この世ははかなく、うたかたのものなのでしょう。だから、短い間で潔く散る桜が、何よりも尊く、美しいのかもしれません」

 ――わたくしも、あの桜のように、燃えるように一瞬で紅く染め上がり、最も美しく愛しい姿で死んでいきたい……。

 何かに煩わされるこの世に、己の生きる場所はない。わたくしが寄り添いあえるひとは、たった一方しかいらっしゃらないのだから。
 陶然と桜を見入るわたくしの手を握る、暖かい掌。見上げると、深く穏やかな瞳があった。そこから、わたくしは自身と同質のものを読み取る。

 ――兄上様、あなた様もわたくしと同じなのですか……?

 わたくしの物問いたげな目に、兄上様は頷かれ唇を開かれた。

 隠国の 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち 斎杙には 鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け 真玉なす 吾が思ふ妹 鏡なす 吾が思ふ妻 ありと言はばこそよ 家にも行かめ 国も偲はめ


 そして、兄上様は真摯に透明な眼で、わたくしを見入られる。
 わたくしは思わず兄上様に縋りつき、上気する頬を隠さず請うた。

「――抱いてください、我が背の君。わたくしにあなた様のすべてを刻み付けて下さい。
 愛しています。どこに行っても、どんなときでも、お側に居させて下さい……」

 言って、わたくしは自ら目を見開く兄上様に口付ける。わたくしの情熱を分かってもらおうと、舌を絡め、兄上様の首筋や衣から覗いている肌を愛撫した。
 接吻だけで熱くなっていく、互いの身体。求め合っていた。ずっと互いだけを求めていたのだ――。
 ゆっくりと上肢を敷布のうえに倒され、唇が離れると、背の君が熱情で煙る目をわたくしに当てられた。

「……やっと、本音を語ってくれたな、我が妻よ。
 どこにいっても、どんな場所でも、わたしに付いてきてくれるか――」

 わたくしは微笑み、兄上様の背に腕を回した。

「――どこまでも、背の君と一緒に参ります。たとえ離れてくれといわれても、勝手にあとを追いますわ」

 目を細め、わたくしは兄上様の頬に口付ける。
 あとは、言葉など邪魔なだけだった。
 互いに衣を脱がし合い、どちらともなく身体を重ねた。性急に甘露を貪り、強い衝動に駆られ奥深い処を繋げた。

 ――これが、末期の情交だというように。

 否、互いに知っていた。これが最期だということを。
 桜を見つめ、無言で胸のうちを確認したときから、こうなることは解っていた。――互いに、望んでいた。
 兄妹というしがらみがないところに。立場に捕われない空間に。
 ――ふたりともに行こう、と。
 わたくしは蠢動する我背子を胎内に感じながら、闇の中で妖しく浮き上がる桜を眺めていた。

 ――わたくしは何も実をつけない徒花だと思っていた。が、形はなくとも実ったものがある。

 それは、真摯に愛するこころ。何よりも大切な恋。
 誰に咎められても、引き離されても譲れない結実した真実だった。

 激しくなる律動に、わたくしは高く擦れた喘ぎを漏らす。兄上様の切なげな呻きも耳に届く。
 より愛を、悦喜を求めようと、放恣に動く互いの身体。刹那で悠遠の恋に、諸共に溺れ、高まり――弾ける。

 一瞬、意識が飛んだ。
 注ぎ込まれた愛するひとの命の証に、わたくしは恍惚とする。
 朦朧とする視界の端に、身体の芯を交接したまま懐刀を抜く兄上様が入る。

 わたくしは僥幸を感じ、満面の笑顔をたたえ、頷いた――。





桜と喪失の10題

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