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「なんとも、紅葉というものは美しいなぁ。
あれは、さっさと散ってしまうから切ないこころが讃美するものなのだろうなぁ」
憲康兄が微酔い状態で、誰とはなしに呟く。
わたしは顔を伏せる。
確かに、散り急ぐ紅葉だから、木々の紅に染まる風趣がより美しくみえる。
それは取りも直さず、美を誇るものは永らえていては、長じてからの醜さを人に曝してしまう、ということに他ならない。
かの玉造小町子(たまつくりのこまちこ)がそうであったように、美しかったものも、死しては腐り果て、醜い髑髏に変じてしまう。
女院も、華やかな半生だったが故に、残りの人生の侘しさがより痛みを強める。
「長らえるべきではない、人の世……」
季政が月を見ながら言葉を落とす。
彼も、美しかった月の晩を思い出している。雄大な川を見つめ、句を詠み合ったあの日を思い出している。
わたしも月を見、微笑んだ。
「にしても、憲康がそんなしおらしいことを言うなど、思わなかったな」
前に馬を進める憲康兄に、季政は声を掛ける。
「いやぁ、な……思えば思うほど、この世ははかないって、最近よく感じるんだよ。
月日が巡るのは早く、時に置いていかれる人間も、気が付いたら老いさばらえている。
まぁ、人はそれでも、あくせく動いて、生きていかねば仕方がないのだがな。
俺もまだ死にたくはないし」
振り返った憲康兄に、わたしは季政とともに頷く。
そう、人は皆、そこはかとなく世の無常を感じ取っている。だから紅の葉を愛でる。
ただ、常なる人は世を捨ててまでこの世を生きようとは思わない。あがいて、懸命にこの世の内を生きようと思う。
が、いつもはこのようなことを言わない憲康兄が、何故この時無常を呟いたのか、わたしは疑問であったが。
わたし達の背を押す御仏の意志だったと解るのは、後々のことである。
寝静まった我が家に物音を発てずに入ると、妻・阿古夜が起きてわたしを待っていた。
「今宵は遅くなると言っていただろう? 子達と寝ていてよかったのだぞ」
語り掛けるわたしに、未だ少女の初心さを匂わせる妻が、もじもじと膝を合わせる。
「そうしようかとも思ったのですが……やはり早く旦那さまにお知らせしようと、起きておりました」
頬を染め、言いにくそうに口籠もる妻に、わたしは訝しむ。
「……出来たようなのです……三人目が」
言わんとしていることを飲み込むのに、時間が掛かった。
やっと理解したときには、妻の上腕を掴んでいた。
「本当に? 阿古夜……」
「春頃には生まれる予定ですわ」
「そうか……」
言いつつ、喜びとともに落胆が頭をもたげる。
――あぁ、またしても遁世の夢が遠く離れてゆく……。
妻を労りながらも、わたしは内心、唇を噛んでいた。
が、運命は急速に転がるものである。
次の朝聞いた憲康兄の訃報が、わたしを後押ししてくれたのだから。
館にまろび込んできた憲康兄の家人に付いて、従兄の死を確かめにいく。
憲康兄の館には、死の気配が厚く垂れ込めていた。
物言わぬ憲康兄に取りすがる細君の号泣。主人夫婦を取り囲む悲を纏った郎党たち。
急な死であったという。夜中に苦しむ事無く、あの世に旅立ったのだという。
――ほら、別れなど突然に起こるものだ。
この世は止まらぬ。確かなものなど、何もない!
生きているこの世が、どれ程不確かなものか。人がどれ程あっけなく、その運命がどれ程不明瞭なものか、思い知らされる。
――今が期だ。別れは突然のものなのだ。あとでも今でも、同じことなのだ。
わたしはその足で、上皇様の御所に向かった。
「――出家する?!
何を突然に。朕を驚かすな、義清」
上皇様がいらっしゃる寝殿の前の白砂に座り、わたしは礼をとる。
ははは、と御簾の内で、上皇様が笑われる。
「突然のことではありませぬ。ずっと、わたしは思い定めておりました。
憲康の死を期しての出家、認めていただけませぬか」
唐突なわたしの願い出に、上皇様は興をそそらたのか、身を乗り出される気配がする。
「愁傷な心掛けだが……そなたのような若者が抹香臭いことを言うとは、思わなんだぞ。
何を思い詰めておる?」
上皇様の口振りでは、大してわたしの法心を本気がっていらっしゃらないようだ。
わたしは息を吸い込むと、初めて意趣を返した。
惜しむとも惜しまれぬべきこの世かは 身を捨ててこそ身をば助けめ
<惜しんでも、惜しみ尽くすことのできないこの世ならば、いっそのこと身を捨てたほうが生きやすくなるものです。>
言外に、この世の外にこそ生きる道を見いだしている、という意を込めた歌に、一天万乗の君は瞠目される。
僅かに御声を荒げ、上皇様は詰め寄られた。
「ならぬぞ! 義清は朕のもの。朕のもとでこそ、生きる意味があるのだ!
主人の意に背いて出家すること、まかりならぬ!」
眼差しに力を込め、わたしは上皇様とわたしを隔てる御簾を見据える。どうしても譲れぬものなのです、と目で訴える。
上皇様の言質に怒りと焦りが見える。
敬慕する主人の哀しみの交じった声に、わたしは愛惜を込めて言った。
「そう言われましても、認めていただかなくては、困ります。
わたしは今日こそ世を出る日と、意を固めてまいりました。
お許しいただけなければ、無理矢理にでも、意志を遂げるのみです――」
言って、わたしは懐刀を狩衣から取り出して抜くと、髻を掴み、根元に刄を当てる。
「や、やめよっ!――」
上皇様の焦りの御声と、お付きの女房達の悲鳴が聞こえる。
わたしは躊躇いなく、髪を一気に断った。
手には黒髪の房。肩にざんばらに切られた髪が垂れる。
手のひらの上の髪が、幾房か風に乗って飛んだ。
「…………ば、馬鹿者が……」
心なしか、上皇様の御声が震えていた。
「……折角可愛がっていただきましたのに、不忠なる臣を、お許しくださいませ――」
砂の上に額を突け、深々とお別れを申し上げる。
「……朕は知らぬ、義清など、知らぬぞ!
行きたければ、どこぞとなりと行けばよい!」
半ば混乱した上皇様の叫び。
罪は問わぬ、好きなようにしろ、と裏の意味を込められた別れの言葉に、申し訳ないと深く頭を垂れ、わたしは御所の門を潜る。
顔を上げて女院が坐す方向に身体を向け、万感の想いを込め頭を下げる。
あの御方はきっとわたしが世を捨てたといっても、気にもなさらないだろう。それを思うと切なさと寂しさが込み上げるが、これがわたしの意地と、屑くこの世を捨てよう。
世をいとふ名をだにもさはとどめおきて 数ならぬ身の思ひ出にせん
<世を厭う人だったというようにこの世に我が名を留めて、数ならぬ身の思い出にしよう。>
世の中を背きはてぬと言ひおかん 思ひしるべき人はなくとも
<わたしは世の中に背いたと言い置こう。この思いを知るべき人がここにいなくても。>
そのまま、東山の長楽寺に参り、髪を全て剃り落として頭を丸める。
衣を墨染の僧衣に替え、佐藤義清の名を捨てた。新たな名は大本房・円位(だいほんぼう・えんい)という。
乗ってきた馬を引いて大路を歩く。
澄み切った秋の空に、散る紅葉が舞っていた。
夕刻、姿を変えて帰ってきたわたしを見て、妻は絶句し、はらはらと泣きだした。
「――阿古夜……」
「酷うございます……どうして相談して下さらなかったのですか……ッ」
手で顔を覆い泣く妻の肩に掌を置き、わたしは語り掛ける。
「朝夕に思い続けていたことなのだ……。これからはこの世の内と外で、ともに生きていこう」
「子供達は……お腹の子は、どうなさるのですか?!」
きっ、と目を上げて、妻はわたしを問い詰める。
妻と子供達は一番の心残りだった。が、人の世の愛に惹かれていては、遁世することなど出来なかった。
「……弟の仲清(なかきよ)にあとのことを頼んである。
それに、これで我らの仲が終わったわけではないのだ。
否、この世の理を出て、さらに大きな蓮の台の上で広く繋がることができる。傍におらずとも、御仏の御慈悲とともに、わたしはいつも傍にいるのだよ――」
納得したのか、していないのか、妻はそれきり黙り込んだ。
わたしは明後日、再び長楽寺に戻ることにして、次の日まで我が館に留まった。
後日譚であるが、妻・阿古夜と娘の真朱は出家して紀国・高野の山の程近くにある天野に住むことになる。
高野の山で修業していたわたしは、度々妻と娘のもとに下山した。
妻が身籠っていた子は男児であり、後に慶縁(けいえん)と名乗って兄・千萱丸――法名・隆聖(りゅうせい)――とともに僧として生きていくことになる。
明くる日に東山に入るため支度をしているわたしのもとに、一人の僧侶が現われた。
わたしは僧侶を見たとき、驚愕を露にした。
「季政……ッ?!」
「今は、西住というのだ」
畳み掛けるように、季政――西住は笑顔で応えた。
「なにもおまえまで……出家することはなかったのだぞ……」
茫然自失しているわたしの前に折り目正しく座り、西住は袖を合わせた。
「なにも、おまえが出家したからではないよ。わたしが遁世願望を持っていたのを、おまえも知っていただろう?」
「あ、あぁ……」
「それに、ここだけの話だが、五の宮様には今年中に出家の御内意があられる」
それは事実だった。間を置かず本仁親王様は御室で出家なさり、仁和寺の阿闍梨(あじゃり)・覚性法親王(かくしょうほっしんのう)様となられたのだから。
何を言っても仕方がないと、嘆息を吐くわたしに、穏やかな目線で西住は問う。
「――で、おまえの今の名は?」
わたしの名は……と言いかけて、少し考え込み、口を開く。
「――――わたしの名は、円位。またの名を西行だ」
わたしの意を汲んだように、西住は微笑み頷く。
円位が正式な法名であるが、誰よりも慕わしいこころの友を偲んで、号を名付けた。
――――西行と。
その後、わたしは長楽寺に、西住は醍醐寺に入り、それぞれ修業をはじめた。
わたしは長楽寺の他に、雙林寺や法輪寺で仏道を修め、鞍馬山で苦行を行った。
陸奥の国に行脚の旅に出、ひとり歩きとおす心細さや人恋しさに喘いだ。はじめて見る絶景に言葉を失ったりした。
鈴鹿山憂き世を外に振り捨てて いかになりゆく我が身なるらむ
<憂き世を振り捨てて険峻な鈴鹿山を通ったが、どのように変わっていく我が身であろうか。>
とりわきて心もしみてさえぞわたる 衣河見にきたる今日しも
<凍りつく衣河を見た今日は、殊更に心も引き締まり冴えわたっている。>
修業の合間に、わたしは女院が籠もられている法金剛院にも訪ねている。女房殿達と世間話や歌を交わしながら、それとなく女院の近況を聞いたりした。
わたしが出家するまえから既に女院は仏に帰依なされていたが、わたしが出離して二年後に落飾された。
これは、鳥羽院様と美福門院様の策略により、體仁親王様を「皇太子」ではなく「皇太弟」の資格で即位させられたことが遠因である。
皇太子ならば、崇徳院様は上皇として政を執ることができる。が、即位なされた資格が皇太弟では、崇徳院様は治天の君にはなれない。これによって、崇徳院様の院政はまた遠くなった。
落胆のなかにあられた女院に追い打ちを掛けるように、女院が美福門院様を呪咀したという流言が宮中に蔓延し、女院は追い詰められる形で出家なされた。
が、わたしは却ってそれが女院のためになるのでは、と思った。御仏の御手に縋り、浮き世から離れて虚空を目指す。そうすれば、きっと女院は恩讐から解放されるだろう。
嵯峨に庵を構えて、わたしは女院の修業がつつがなく行われるよう願いを込め、一品経の勧進を行った。これには鳥羽院様、崇徳院様、左府・藤原頼長殿など名立たる貴顕が応じて下さった。
わたしに出来ることは、なんでもしたかった。女院の御為になるのなら、我が労苦など厭わなかった。
が、その姿を折々会う西住に
――まだまだ、現し世の煩悩に捕われているな。
と評され、わたしは大悟にはまだ遠く至らない、と悟る。
捨てたれど隠れて住まぬ人になれば なほ世にあるに似たるなりけり
<世を捨てたけれど、隠棲しないのであれば、まだこの世にあるのと同じことだ。>
世の中を捨てて捨てえぬ心地して 都離れぬわが身なりけり
<この世を捨てても捨てられていないような気がして、都から離れられない我が身であることよ。>
出離してこの世に未練はないはずなのに、未だこの世に惹かれて都に留まっている。わたしは俗世に対する愛着から抜け出すことの難しさを、ひしひしと感じていた。
女院は出家なされた次の年、疱瘡を患われ病臥された。
幸いにも一命は取り留められたが、在りし日の花の顔は病によって失われたと女房殿達から漏れ聞き、わたしは切なさと哀しみに捕らわれた。
それでも女院をお慕いし、女房殿達のお見舞いと称して参るわたしに、ある日、尼姿の堀河殿がおっしゃった。
「門院様はあなたにつれなくなされたけれど……本当は気に掛けていらっしゃったのよ。
だから、一度は退けられたのに、またあなたをお呼びになったの。
複雑な女心だけれど、解って差し上げて……お願い」
わたしは、ただ頷いた。
穏やかな境地にあって、静まっていた琴線が、心地よい振動を響かせる。わたしの苦しい物思いが報われたのを、胸に染みて感じていた。
が、喜悦はすぐさま悲愁に換わる。
落飾後四年目、女院のお弱りになられた御身体は連々と続くお熱に耐えられず、遂に薨去なされたのだから。
女院は鳥羽院様や崇徳院様、御子様方に囲まれ、眠るように息を引き取られた。
崇徳院様と、このとき雅仁親王様といわれた後白河院様は袖を交わして相哭しあい、鳥羽院様は自ら崩御を知らせる磬を打ち号泣なされた。
わたしは女院がお亡くなりになられた三条高倉第の外で慟哭した。憧れ止まない永遠の女人がこの世を去られたのを、現実のものと受け入れられなかった。
女院が法金剛院の裏山・五位山に葬られたあと、雨の中わたしは秘かに女院の墓所に詣で墓土を掴み、声を上げて泣き崩れた。蹲るわたしの身体に、非情な雨が降り注ぐ。
背後に気配がし、誰かがわたしの身体を背中から抱き締めた。が、確かめる余裕もなかった。
わたしのこころに最も近しい誰かが、わたしの悲痛を分かち合おうとしていることだけは、薄らと感じていた。
背から伝わる温みにわたしは慰められ、癒されていた――。
女院が遷去なされたあと、わたしは都に未練はないと、行脚の旅に出た。
吉野の桜を愛で、熊野を詣で、大峰での苦しい修験を体験した。
分きつる小笹の露をそぼちつつ 干しぞわづらふ墨染の袖
<分け入った大峯の小笹の泊で、辛い苦行に涙でぐっしょりと濡れてしまった墨染の袖を、干し乾かしたことよ。>
旅人のわくる夏野の草しげみ 葉ずゑに菅のを笠はづれて
<葉の先に笠の管が外れてしまい、旅人が惑う夏野の草の茂みであることよ。>
高野の山には庵をむすんで三十年ほど住んだ。
度々、西住とは高野で起居を伴にし、相伴しあって旅をしたこともあった。同じ感性で外の世を見、歌を詠み合った。
西住とともにいる心地よさは何物にも変えられず、彼が欠けると物足りなくなってしまう。わたしはその度に己を持て余し、西住の気を引いたり、大人気なく拗ねてしまって彼が困るだろう歌を送った。
山城のみづののみ草に繋がれて 駒物憂げに見ゆる旅哉
<山城の美豆の牧の草餌に繋がれてしまって、駒が物憂げに見える旅だな。(一緒に西国の旅に出るはずだったおまえなのに、山城の美豆にいる病の妻に繋がれてしまって、物憂げに見えるなぁ。)>
かへりゆく人のこころを思ふにも 離れ難きは都なりけり
<所用により都に帰っていこうとするおまえのこころを察すると、どうしても都から離れられないのだろうなぁ。(そうか、これからわたしとともに弘法大師の御跡を辿ろうというのに、おまえは都のほうが大事だというのか。)>
柴の庵の暫時みやこへ帰らじと 思はんだにもあはれなるべ
<ひとり取り残されていくわたしが哀れだ、いつか都へ帰るべきだろうとおまえはいうが、暫くの間柴の庵にしがみ付いて、都へ帰らないと思うわたしのこころこそ、哀れだろうが。>
それでも、離れていてもいつも傍にいると感じるのも、事実だった。
月のみや上の空なるかたみにて おもひも出でば心かよはん
<天上にある月だけが、わたしがおまえを想う形見だと、時には思い出して欲しい。おまえも同じように月を見てくれると、こころが身体から浮き立って互いに通いあうから。
いとどいかに西にかたぶく月影を 常よりも異に君したふらん
<西方浄土に傾く月を慕うおまえだが、現在、浄土の入り口である天王寺にいて、いつもよりもまして月影を慕っているのだろうな。(西に傾く月をいつも慕うおまえだが、今日はいつよりも増して月を慕っているのだろうな。)>
常盤三寂とも交遊を続けている。
わたしが出家したあと、三兄弟は歓心したのか、次々に遁世し、常盤の家を管理せねばならない長兄の寂念殿以外、大原に住んで数寄の道を歩んでいる。
とくに寂然は、何度も歌を贈答しあい、彼が高野に来たこともあった。
この世を離れ外から世の中を見ているが、末法の世が迫り来ているのが解る。
まず、鳥羽院様の崩御後、崇徳院様と後白河天皇様が保元の争乱を起こし、武士が台頭するようになった。
わたしは鳥羽院様にお仕えしたが、心情が通うのは崇徳院様であった。が、世を捨てた身、崇徳院様・後白河天皇様どちらにも付かず、ただ見つめるのみ。しかし、崇徳院様の乱での御立場が窮まられ、御出家なされたと聞いたとき、わたしは矢が飛び交うのを省みず、崇徳院様のもとに駆け付けた。
御姿を変えられた崇徳院様に悲しみは尽きないというのに、冴えきって美しい月を冷静に見ている我が性が疎ましい。
かかるよに影もかはらず澄む月を 見るわが身さへうらめしきかな
<辛く悲しい世に、いつもと同じように透徹とした月を見て、感動している我が身の恨めしいことよ。>
後白河天皇様側の先鋒を勤めたのは、わたしが北面の武士であった頃の同僚・平清盛だった。彼は次の平治の年の乱でも勝利し、武士にして初めて太政大臣になって平氏の栄華の礎を築く。
が、これも長くは続かない。平治の乱で敗れた源氏が蜂起し、平氏を敗退させ海の彼方に追いやるのだから。
平氏は女子供を巻き添えにして、長門国の壇ノ浦の海の藻屑となった。
死出の山越ゆる絶え間はあらじかし なくなる人の数つづきつつ
<死の苦しみに絶え間はないのだ、亡くなる人の数が多くなっている。>
血で血を洗う争いに都は機能しなくなり疲弊した。源氏が権力を握ったことにより上皇様の権勢も尽きた。
わたしは漠然と受け取っていた無常感に従い世を捨てた。が、この目で具に流転する都の運命を見るなど、想像し得なかった。
この世は止まりなきもの、という実感は、更に強まった。
常ならぬ人の運命――死も、わたしは多く見ることになる。
敬愛する主人・鳥羽院様の崩御には、葬送の列に加わり滂沱の涙を流した。
今宵こそおもひ知らるれあさからぬ 君に契りのある身なりけり
<今宵こそ思い知らされました。上皇様との深い契りがある身だったと。>
愛する女院を苦しめた美福門院様の御遺骨を高野で受け取りもした。
寂超殿の死を見送ったりもした。
が、何より魂を切り裂かれたと感じたのは、最愛の友・西住を看取らねばならなかったことだ。
西住が都で病に倒れたのを寂然からの便りで聞いたとき、わたしは高野にあった。
取るものも取り敢えず、わたしは山を降り、都に馳せ参じる。
やつれ果て、意識も疎らな西住の姿に、わたしは涙を止められなかった。
わたしといつも供にあり、離れていても近くに感じられた愛する者の衰弱した面に、久遠の別離の覚悟を迫られる。が、もとより無理な話だった。
寂然が様子を見に来、看病を代わろうというが、丁重に断り続け、ひとりで西住の命の炎が小さくなるのを見つめている。
「そんな悲しそうな顔を……してくれるな……」
時折目覚めて、西住はわたしの手を握る。
わたしは充血した目を悟られぬように、あらぬ方を見、負けず口を叩いた。若い頃のように。
「おまえの目は節穴か? 誰が悲しそうにしておるのだ」
「そうか……」
西住はほほ笑み、遠い目をする。
「わたしはなぁ……初めておまえに会うた日から、一目惚れしていたのだぞ」
え、とわたしは西住の顔を見る。
彼は蕩けるような優しい瞳――わたしを愛した過日と同じ眼差しをしていた。
「おまえは院のお気に入りで、しかも叶わぬ恋をしていた……わたしはとても悔しかったよ。
それでも、苦しげなおまえを見ると、わたしは放っておけなかった」
わたしはあの頃、西住――季政の気持ちに薄々気付きながら、知らぬふりをしていた。余つの果てには、彼の想いを利用するようなことまでしてしまった。
「なぁ、義清……知っているか?
わたしはおまえを抱けたことが……本当に嬉しかったのだ……。
おまえを慰め、接吻したとき……本当に幸せだったのだ」
一番辛かった頃の思い出。わたしは叶わぬ恋に身を焼き、吐き出せぬ情欲を鎮めるために季政に抱かれた。
今思うと、あのとき女院を見つめながら、わたしは季政にも恋慕していた。身体ごと想いをぶつけてくる彼に、わたしも同等に真摯な想いで彼を貪っていた。
確かにあの時、互いの想いが心身ともに交じり合っていた。
わたしにとっても、季政に抱かれたのは……喜びの記憶だった。
「あれから今まで……あの幸せな記憶を糧に生きてきた。
憂き世の浅ましい想いから逃れられなかったのは、わたしかもしれぬなぁ……」
そう言い目を瞑る季政の唇に、わたしは無言で口づける。あの日、季政の愛欲を誘ったように、濃く長く接吻した。
唇を離したあと、またもわたしは減らず口を叩く。
「……爺さんで悪いがな、冥途の土産にいいだろう」
呆然と見ていた季政だったが、やがてとても嬉しそうに笑った。
「……本当だな。何よりも大切な宝を……墓に持っていける」
勝手に言ってろ、とぞんざいに告げるわたしに、話し疲れたのか、西住は目を閉じた。
わたしは目蓋を手で押さえて、西住の庵を出る。
既に辺りは日暮れて、残酷なほど明るく輝く月が浮かんでいる。
季政に抱かれたのは朧月の宵だった。彼と将来のことを語ったのは望月の夜だった。
――本当に、季政はひとりで逝こうとしている。
冴え凍る氷輪が、涙で歪む。
もろともに眺め眺めて秋の月 ひとりにならんことぞ悲しき
<幾度も伴に月を眺めた。これから一人で見なければならないと思うと悲しい。>
それから暫らく経たぬうちに、西住はわたしに見守られながら、迷わず、苦しまずに蓮の台に旅立った。
弔問に来た寂然は西住の死顔を見
「綺麗な顔をしているなぁ……」
と呟く。
半ば放心しているわたしに、彼は哀感の交じった顔で歌い掛けた。
乱れずと終わり聞くこそうれしけれ さても別れは慰まねども
<彼が安らかに逝ったと聞けて、嬉しかったよ。それでも残された側は、永別の痛みを慰められないが……。>
わたしは目を伏せて詠み返す。
この世にてまた逢ふまじき悲しさに 勧めし人ぞ心乱れし
<この世で再び彼に逢えないという悲しみに、極楽往生を勧めたわたしのほうが、心乱れているよ……。>
泣き腫らしたわたしの眼に、寂然は労りの笑みを浮かべた。
「仕方がないよ……ずっと、おまえを護ってきたひとだから……愛していたのだろう?」
寂然の優しい眼差しに、飾ることなくわたしは頷いた。
わたしは西住の亡骸を荼毘に付し、夢か現か定かではないこころで高野までの最期の道行を辿り、弘法大師が眠る地に葬った。
帰りに御廟橋を渡りながら、過ぎた日を思い出す。
長く高野で共に修業していた西住が、所用が出来たために、都に帰ったことがあった。
その夜、玉川の清らかな水音を聞きながら御廟橋を渡っていると、傍らに人のいない空虚を感じ、わたしは歌を口ずさんだ。丁度、西住と出家を夢見た夜と比するくらい満月の美しい夜だった。
こととなく君恋ひわたる橋の上に あらそうものは月の影のみ
<何となくおまえに焦がれて橋を渡っていたが、ひとり立つわたしと想いの丈を争っているのは、月の影だけだよ。>
取り敢えず料紙に書き付けておいたのだが、後日帰ってきた西住が歌を見付け、わたしの知らぬ間に隣に返歌を書き散らしていた。
思ひやる心は見えで橋の上に 争ひけりな月の影のみ
<おいおいひどいな。わたしは離れていても、いつもおまえを想っているのに。見えないからといって、橋の上でおまえと争っているのは月の影だけなのか? わたしを忘れてないか?>
後で返歌を見付け、見られてはいけないものを見つけられてしまったと、臍を噛んだ。何度も西住に歌に込められた意を問われ、適当に誤魔化して逃げていた。
今は、後悔している。何故、あの時正直に想いを口にしなかったのか――。
もう遅いだろうが、虚空に解け合う愛するひとに、あの日と同じ橋の上で、わたしは語り掛ける。
「わたしも誰よりも、おまえを愛しているよ――…。おまえだけが、失えない最愛のひとだったのだ。
失った今では、遅いのだがな……」
さまざまに思ひみだるる心をば 君がもとにぞつかねあつむる
<様々に想い乱れているこころは、おまえのもとにひとつとなって集まっている。>
今日ぞしる思ひいでよと契りしは 忘れんとての情けなりけり
<今日こそ思い知った。思い出となったおまえとの契りは、終生忘れないようにとの御仏の情けだったのだ。>
わたしは杉木立の狭間から覗く澄み切った蒼い空を見上げ、溢れる涙を拭った。
それからもわたしは、旅に生き自然を愛でた。
戦火をよけて伊勢の二見ヶ浦に庵を結び、住まいした。
草花のいじらしい姿はわたしの感銘を誘い、木々を渡る風に驚き目を見張る。
四季の移り変わりに様を変えてゆくいのちの尊さに、わたしは胸を熱くした。
折々の美しさと我が内の恋慕や心象を重ね、歌を詠む。
心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ
<情趣を感じるこころを失った身でも、秋の夕暮れに沢から鴫が飛び立つ姿にあわれを誘われる。>
ふる畑のそはの立つ木にゐる鳩の 友よぶ声のすごき夕暮
<古びた里の夕暮れに、畑のそばに立つ木に居る鳩が激しく友を呼んでいる。>
はかなしやあだに命の露消えて 野邊に我身やおくりおくらん
<なんとはかないことだろう、命が空しく露に消えるのだから、我が身も野辺に置いておく事になるだろう。>
亡き人も在るをおもふも世の中は 眠りのうちの夢とこそ見れ
<亡き人を思うにしても、生きている人を思うにしても、この世の中は眠りの中の夢と見るがよい。>
晩年、わたしは東大寺復興の勧進のため、老体を押して東国に向かった。
年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけりさやの中山
<若い頃に通った小夜の中山に、老年になって来るとは思わなかった。魂の緒が切れていない証拠なのだな。>
相模国を通ったとき、噴煙をあげる富士の山の雄大さや脅威の限りなさと、高く上り詰め消えていく煙のはかなさに、確かなものをもたぬ森羅万象を歌にした。
風になびく富士のけぶりのそらに消えて ゆくゑもしらぬわが思哉
<風にゆらゆらと揺れ、空に溶け込む富士の山の煙のように、わたしの思いはどこへ行くのだろう――。>
永く続くと思っていた都の栄華、ずっとともにいられると信じていた人の死――この世は予測不可で、捉えどころがない。
我がこころも同じで、黒々とした窖が底なく穿っている。解っているようで解っていない。
生も同じで、魂の行き着く先は有か無か――。
己のこととはいえ、明日にどうなるかなど、解らないのだ。
わたしが歩いてきた軌跡や、歴々と流れてきた世の中が、確かであり、不確かだと思った一瞬だった。
道を歩くわたしの額に、美しい桜の梢が影を作る。
花びらが散り、風に撒き上がって、わたしのこころに切なさを呼び起こす。
桜のはかなさは見るたびにこころの疼きを誘う。
あくがるる心はさてもやまざくら 散りなんのちや身にかへるべき
<本当に我がこころは山桜に憧れ寄り添っている。桜が散った後に魂はこの身に返るだろう。>
眺むとて花にもいたく馴れぬれば 散る別れこそ悲しかりけれ
<眺めつくして花に馴れきってしまえば、散ってしまう別れが悲しいことだ。>
春風の花を散らすと見る夢は さめても胸のさわぐなりけり
<夢の中で春風が花を散らした。目が覚めてもまだ胸が騒いでいる。>
花に染む心のいかで残りけむ 捨てはててきと思ふ我身
<花に染まるような心がどうして残っているだろう。この世を捨てたと思った我が身だというのに。>
世の中を思へばなべて散る花の 我が身をさてもいづちかもせむ
<世の中を押し並べて散る花だと思うと、我が身は本当にどこに行くのだろう。>
わたしにとって桜は、青春……切ない恋そのものだった。
桜花のごとく妖しく美しかった、憧れの女院の後ろに、いつもわたしを見守り続けた、こころの友であり恋人である季政がいる。
桜は甘く切ない恋の形見。桜を見るたびに盛りの頃に戻りたくなる。
が、それは叶わない夢。
人の世は流れ続け、前に進むのみだから――。
わたしは桜の下で死にたかった。
今を盛りと咲く桜の根元に腰を下ろし、荒い息を整える。
死期を悟ったわたしは、見事な桜の大木がある寺を死に場所に選んだ。
もう動く体力はない。今宵は満月、桜は盛り。遥か南に、季政が眠る高野の山がある。わたしの最期に相応しい場所だ。
――わたしも桜のごとく、潔く散っていこう。
願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月のころ
<叶うなら、春・如月の望月の頃に、花のしたで死にたいものだ。>
仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば
<わたしが死んで仏になったあとには、弔う後の世の人は桜の花を奉ってほしい。>
降り注ぐ桜の花びらが、散華となって、わたしの魂を西方浄土に導く。
わたしは桜の化身である女院を目蓋の裏に浮かべ、目を閉じた。
「――義清、おまえこんなところで寝るのか?」
目を開けると、薄花桜の狩衣を纏った若かりし頃の季政が、花吹雪のなか、涼やかに立っていた。
「こんなところとはなんだ。わたしに相応しい死に場所は、桜の下以上にあるか」
いつものごとく、憎まれ口を叩くわたしに微笑んで、季政は絢爛に咲く桜を見上げる。
「確かに、おまえは桜狂いだからなぁ……」
わたしは拗ねたように腕組みして、目の前の男を睨む。
「わたしは女院がお迎えに来て下さるのを望んだのに、何でおまえが来るのだ?」
季政は手のかかる恋人を見るようにわたしに苦笑いし、手を差し伸べる。
「わたしでは不服かもしれぬが、我慢しろ。――ほら」
心のうちで密やかに、悪くはない、おまえを待っていたよ――と呟き、わたしは愛する者の手を取った。