愛しい人の面影桜
旅に生き、歌を愛した我が生命の行く先にも、やっと終わりが見えたようだ。
死ぬほど哀しいことも、泣くほど悔しいことも、悶えるほど恋しいことも、すべて味わい尽くした。
そう、わたしは桜の下で死にたかった。
桜は遠き春の頃を想う縁。わたしは我が春の象徴であるあの御方の懐にい抱かれて死んでゆく。
――愛しい、あの御方に見守られ、死出の旅に出よう。
あの御方は、雲の上の女人であった。
国母であり、治天の君の想われ人。――あの御方は女院であった。御名を、待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)様と申される。
女院は数奇な生まれ性で、運命に弄ばれて生きてこられた方だった。
あの御方は白河院様の御猶子であり、実質的には寵姫であられた。
五つの年に父・藤原公実(ふじわらのきんざね)殿のもとから離され、女院は白河院様が養育される御方になられた。
公実殿や母君・光子(みつこ)殿は美貌の御方で、わたしがお仕えした徳大寺(とくだいじ)殿――実能(さねよし)公も大層麗しい容貌をなされていた。
女院はこれらの方々よりなお美麗で、なよ竹の輝夜姫(かぐやひめ)や衣通姫に引けをとらぬ御方だった。
ふっくらと愛らしく美しい幼な姫に、白河院様は夢中になられた。
何事も女院を優先され、姫君と戯れる御簾の内から政をなされたという。腕のなかで眠る女院が寒かろうにと、御足を懐のなかに入れ、素肌で暖められたとも聞く。
片時も離れぬ仲の良い義父娘の形は、女院が馥郁とした花の香を匂わしはじめた頃に、様相が変わった。
もとから女子に目のない白河院様にとって、義理の父と娘のしがらみなど、塵ほどにも意に介すべきものではなかったのだろう。我が意の儘にならぬものは、比叡の荒法師と賽の目、賀茂川の水だけ、と常々豪語なされていたのだから。
無防備に身を寄せる姫君に自然な仕草で、白河院様は疑問を感じさせる事無く、女院を我がものとなされた。
女院はそれがどれほど不倫な行いか、お識りでなかった。
あの御方は日常的に院と女房がまぐわうのを見ていらっしゃったのだから。
――男子と女子がくなぐのは当然のことなのよ。
そのために、男子と女子に別れているのだもの。
ほら、交わっているときに、一体だと感じるでしょう?
だから、どんな場合でも咎められるいわれはないのよ。
初めて几帳のうちに引き入れられたとき、女院がおっしゃっておられた。
それがどれだけ周りの者の目に奇怪に映ったとしても、院の薫陶著しいあの御方には関係なかったのだろう。
事実、院の鍾愛を受けながらも、女院は他の男を閨に誘われていたのだから。
院の愛は徒なものではなく、真摯なものだった。あの御方と通じた男達を嫉妬とともに罰し、自身の愛欲を押さえて嫁入先を探された。
奔放で艶麗な女院を伴侶に持たれたのは院の孫君――わたしが北面の武士として近しく侍った鳥羽院様だった。あの御方は女院の叔母上の御子であられたので、女院は鳥羽院様には従姉にあたられる。
まばゆい美姫を女御として迎えられた鳥羽院様は、従姉姫に憧れに近い恋心を抱かれた。
が、女院にとっては不本意な婚姻。親とも愛人ともいえる白河院様と引き離され、泣き悶え苦しんで鳥羽院様との初夜を拒まれたという。
――わたくしはあの時、本当に嫌だったのよ。
義父上様とずっと一緒に居たかったのに。義父上様の傍にいればこのような惨めな思いをして、上皇様をお恨みすることはなかったのに。
夜の睦言に女院は過去を振り返り、わたしに嘆きを漏らされた。
夜毎激しく泣き、鳥羽院様を拒まれる女院を白河院様は殊更愛しく感じられ、頻繁に女院を御所に召された。
結果としてお生れになられたのが、崇徳院(すとくいん)様である。
老齢になって最も愛する女人が自身の子を生んでくれたことに白河院様は狂喜なされ、院は早々に赤子を東宮にされた。
が、喜び輝く空気にひとりそぐわぬ表情をなさっていたのが、鳥羽院様だった。
鳥羽院様は崇徳院様を憎々しげに「叔父子(おじご)」と呼ばれた。
普段温和で、お優しい鳥羽院様であられたが、崇徳院様のご存在だけは腹に据えかねたご様子。わずか四歳の東宮に位を追われてしまわれるのだから、尚更だろう。
それでも、鳥羽院様は女院を愛された。どれほどつれなくしても諦めなかった鳥羽院様に女院はほだされ、鳥羽院様との間に六人の御子を生された。そのなかのお一人が、後白河院様であらせられる。
鳥羽院様は女院に愛憎取り混ぜて執着なされた。だからこそ、崇徳院様を憎々しく思われたのかもしれない。
白河院様と鳥羽院様という二つの巨星に愛された女院は、ある意味幸せな御方なのだろう。
が、保元の初めの年に起こった争乱のことを思うと、女院の存在は罪深いとしかいいようがない。母を同じくする兄弟――崇徳院様と後白河院様が戦乱を起こされたのだから。
崇徳院様の罪ではなかったはずだ。院はお可哀相な御方なのだから。
わたしはいつもあの御方に同情し心を寄せていた。
戦のあとには院の讃岐の配所にお慰めの歌をお送りし、怒りに血気はやろうとなされたときは諫めもした。
院が流刑の地でお亡くなりになられたとき、わたしは血が滲みそうになるくらい墓前で慟哭した。
よしや君昔の玉のゆかとても かからむ後は何にかはせむ
<たとえ昔は玉の床にお眠りになられていたとしても、お亡くなりになられた後はどうせよといわれるのでしょうか。玉の床など関係なく、生きていなければ意味がないのです。>
この戦いの年、既に女院はこの世にいらっしゃらなかった。不幸中の幸いだ。
女院ほど幸せと不幸せを味われた御方はいらっしゃらないかもしれない。
が、女院の不幸は当然のことともいえた。――女院が縋れる御方は白河院様しかいらっしゃらなかったのだから。
白河院様なき女院は羽をもがれた小鳥のごとく、自由と力を失い哀しみに暮れていらっしゃった。
――白河院様が亡くなられ、女院がお淋しくなられたために、わたしとあの御方を結び付けたといえなくもないが。
†
わたしの在俗中の名は、佐藤義清(さとうのりきよ)という。
父は藤原氏傍流・俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)の血を引く佐藤康清(さとうやすきよ)、母は今様の名手で風流人である源清経(みなもとのきよつね)の娘である。剛毅な武人である父と、詩歌に通じる母に育まれ、わたしは成長した。
十八の年、家人としてお仕えする徳大寺殿のご推挙と絹一万疋で兵衛尉(ひょうえのじょう)を買ったことにより、北面の武士として仙洞御所(せんとうごしょ)に出仕することになった。
北面の武士は、容姿端麗、歌舞音曲に秀で、文武両道に優れた若者から選ばれる。北面の武士になれたことを、わたしは誇りに思っていた。
御簾のうちから初めて聞く鳥羽院のお声は、妙なる雲上の音色のようにわたしの耳に響いた。
御所に仕える麗しい女房たちにときめきを覚えた。なかでも、待賢門院様に側近く仕える堀河殿や中納言殿、兵衛殿という女房は、何事も気やすく受け答えしてくれた。
「最近こちらは、あちらに比べて物寂しいでしょう? あちらは本院のご寵愛目覚しいから……」
女院の御座所の守衛を勤めていたとき、檜扇で口元を隠してため息を吐き、堀河殿がおっしゃられたことがある。
あちらとは、白河院様亡きあと鳥羽院様の殊寵を浴びられた美福門院得子様のことである。
鳥羽院様は待賢門院様を愛されたが、それは強権な白河院様がおられたということもあるかもしれない。
白河院様在世中、鳥羽院様は他の女人を寵愛なされたことがあった。が、その行いが白河院様の逆鱗に触れ、女人は御所から追放の憂き目にあった。すべて、女院への白河院様の愛ゆえだった。
白河院様がお亡くなりになられたあと、重しが取れたように鳥羽院様は女人方を枕席に召された。
女院のお苦しみは、いかばかりであったろう。ご自身の権勢はすべて白河院様がいらっしゃったからと身を持って思い知らされ、淋しい独り寝を託つ事が増えられた。
それでも、国母であり一の妃である誇りが、女院を立たせていたのかもしれない。
が、それも鳥羽院様が美福門院様を後宮に入れられ、関白の姫御である高陽院泰子(かやのいんやすこ)様を皇后になされたときに打ち崩される。
院は美福門院様を殊の外寵され、昼夜関係なく閨に入り浸れた。
美福門院様は御子を身籠られ、めでたく内親王を御出産、益々鳥羽院様のご寵愛は深くなり、體仁親王(なりひとしんのう)――近衛天皇(このえてんのう)様を生された。
当時、崇徳院様に皇子はなく、鳥羽院様と美福門院様は一計を案じて體仁親王様を崇徳院様の御猶子とし、皇太子となされた。
崇徳院様は母上思いの御方である。鳥羽院様が美福門院様を入内させられたとき、崇徳院様はひどくお怒りになられ、美福門院様の御親族の出仕を差し止められた。
崇徳院様に煮え湯を飲まされたからだろうか、鳥羽院様と美福門院様は體仁親王様を崇徳院様の養子として押し付けられ、崇徳院様は要求を飲まざるをえなかった。母上に対して裏切りをおかし、崇徳院様のお心は乱されたであろう。
それから一年もしないうちに、崇徳院様の実子である重仁親王様がお生れになられたのは、運命の皮肉というべきか。
東宮を出生なされたことによって、美福門院様は初めて妃として、女御の位を賜れた。近衛天皇様ご即位により、美福門院様が皇后に冊立され、女院となられたのは、わたしが出家して一年後のことである。
鳥羽院様の殊寵を賜り、男御子を生まれた美福門院様は得意の絶頂であった。光が大きくなれば、影もまた増すもの。待賢門院様は斜陽の立場を身に染みて味わっていらっしゃったに違いない。
わたしが出家した年は、丁度近衛天皇様が崇徳院様の猶子になられた年だった。淋しさ・苦しさに苛まれた女院が痛みを解き放つ場所を探されたとしても、致し方ない。
が、それは、わたしにとっては一生に一度の重く切ない恋になった。
「義清っ!」
物思わしく夕空を眺めて歩いていたわたしを、友である源次兵衛季政(みなもとのじへえすえまさ)――後の西住(さいじゅう)が呼ぶ。
季政はわたしより十歳年上で、女院の末子であられる本仁親王(もとひとしんのう)様――後の覚性法親王(かくしょうほっしんのう)様に仕える北面の武士である。わたしと季政は何事もよく行動している。柔和な姿見に人好きする性質を持っている。
今日も警護の任務が終わったのを見計らって、季政は本仁親王様が母后とお住まいになっておられる三条高倉第から、わざわざわたしのもとにやってきた。
「今から帰るのか?」
季政は人懐こく聞いてくる。
「あぁ。おまえも今日の勤めを終えたのか?」
「そうだ。久しぶりに今宵は我が家で飲まぬか?」
少しだけ考え、わたしは頷く。
「馳走してくれるのか?」
「あぁ、よい鹿肉と鮎があるぞ。酒もたんとある」
「よいな、行くとするか」
逡巡を振り切り同意したわたしに、季政は喜色を面に満たした。
背を向け黒鹿毛の馬に跨がる彼に気付かれぬよう、わたしは自嘲の笑みを浮かべる。
――違うものに目を向けねばならぬのだ。いくら身をお許し下さったとはいえ、あの御方は手の届かぬ女人なのだから。
あの御方がわたしを御簾の内に入れてくださったのは、無聊を慰めるための気紛れだったのだ。
女院御所の宿直役の人員が足りなく、特別に警護の役に付いたわたしは深更のとき、密やかに導かれる堀河殿に連れられて、女院の閨房に入り込んだ。
清月が身に染み渡る夜、一時でもあの御方はわたしを必要として下さった。
――淋しいのよ! どこにも行かないでッ――!
狭い暗がりのなかであの方の素肌を近くに捉えたとき、わたしは怖れ多さに逃げ出そうとした。そんなわたしにあの御方は縋り付き、涙ながらにおっしゃった。
――もう、独り寝は堪えられない。このままではこころが凍え死んでしまう、と。
恐る恐る抱き締めたとき、あの御方は柔らかな肢体を震わせた。熱く滑らかな膚肌に唇を這わせたとき、熟れた果実が甘く香った。
母子ほど年が違い、幾人も御子を生まれたというのに、未だ乙女の華を思わせる若々しさと美しさ。わたしの身体にあの御方は歓びを与え、何もかもを許して下さった。
わたしが相対したのは、国母でも妃でもなく、清らかで尊い天女だった。様々な艶聞に包まれた御方だったが、わたしの胸で眠る女人は、乙女であって女であり、娼婦であって聖女であった。
天女の恩愛のまえにわたしはちっぽけ過ぎ、生まれたばかりの雛のように、牙を抜かれた獅子のように、底のない天女の深さに呑み込まれ、甘え溺れた。
あの日から、わたしはあの御方しか見えなくなった――。
おもかげの忘らるまじき別れかな 名残をひとの月にとどめて
<最愛のひとの面影を忘れられない別れだった。あの日以来、あの御方の名残を月に留めてしまった。>
知らざりき雲居のよそに見し月の かげを袂に宿すべしとは
<別世界である雲居で見た月の面影を、己の袂に宿してしまうとは……。>
朧月が揺れる苑池を釣殿から眺め、わたしは女院との切ない夜を思い返していた。
お側に召されたのは三夜程で、多いほうではない。が、女院の美しさ、熱い肢体、鈴を転がすような優しい声が、毎夜わたしを懊悩させる。
あの御方の影を忘れるために、季政との世間話に興じ、夢現つの名残から抜け出そうとしている。
「それはそうと……最近、上皇様はおまえに伽を命ぜられたか?」
探るような目で季政はわたしを見る。
世の常であるが、男は女とだけではなく、男とも契る。北面の武士は上皇や天皇に度々寵せられることがある。
鳥羽院様は殊の外わたしを気に入って下さり、肉体を愛でて頂いていた。
が、藤原得子殿が入侍してからは、鳥羽院様は政務にあたらない時間を専ら寵姫との艶事に宛てられている。
「――近頃はとんと召されぬが。おまえはどうだ?」
「いや、わたしも藤原得子殿が侍ってからお呼びが掛からぬ。
上皇様に愛されることは、出世の近道になるのだがなぁ……」
季政はそう言うが、逆にわたしはほっとしている。
女院に愛されるようになってから、お呼びが掛かると様々な仕草から女院との密事が透けて見えるかもしれぬと、わたしは秘かに怖れていた。
この情事は、だれにも明かせぬ秘密。暴かれるとわたしはおろか、女院にも害が与えられる。女院が失脚するのを、得子殿とその背後の者は狙っているのだから――。
――危険だと解っていても、止められぬのが、恋。
女院も危うさを重々承知なさっていた。
始めは女院から誘われての情交であったが、今はわたしが女院との夜を望んでいた。堀河殿に願って逢瀬の機会を作ってもらっていた。
が、わたしの熱に浮かされた態度に、女院は危惧を抱かれた。
――義清、図に乗り過ぎね。阿漕(あこぎ)の浦よ。
阿漕の浦――そう言われたとき、わたしの胸に鋭利な刄が突き刺さった。
伊勢国の阿漕の浦は大神宮の神饌を饗する地で、民がみだりに漁をしてはならぬ場であった。が、ある漁師が見つからぬのをいいことに漁を続け、発覚した後に海に沈められたという。
女院はこの故事に我らの行いを例えられ、逢引きも度が過ぎれば明るみになり、罪を問われる、と諭された。
――弧閨の悲痛に堪えられなかったのは、女院であられたのに、わたしを切り離そうとなさっておられた。
女院のおっしゃられたことはよく解る。が、女院なしではいられなくなったわたしには堪えかねることだった。
季政の話す言葉が耳にするりと通り抜ける。脳裏にあるのは、女院の美しい顔だけだった。慕わしい御方を思い浮べ、痛みと苦しみに喘ぎ、酒で忘れようとした。
「義清……そこで寝るのか?」
前後不覚に陥ったわたしは、身を崩して柱にもたれ掛かった。
「すまぬ……酔いが覚めたら、帰るから……」
そのまま、わたしは浅い眠りに引き摺られる。
「仕方ないな……」
季政はわたしを横たえ、寝具の衣を持ってくると、わたしに優しく被せようとする。
「………………」
暫らくの、間。
衣を引き掛けようとした手が、止まっている。
「………………義清」
ふわ、と柔らかな感触が唇に重なる。
薄く目を開けると、季政の目蓋が間近に迫っている。――口づけられていた。
やがて季政も少しく目を開き、わたしが覚醒しているのに気付いて驚いた。
「の、義清ッ! 起きているのなら言ってくれぬか!」
焦って顔を真っ赤にする季政に、酔いに任せて食らい付くように接吻する。舌を咥内に潜り込ませ、粘膜をまさぐる。
衝撃に固まっていた季政もだんだん生々しくなる口吸いに熱くなり、わたしを床に押し潰し狩衣に手を掛けた。
醒め帰ってきたときには、既に引き返せない状態になっていた。
季政の激しい手つきに密かに当惑したが、ままよ、とわたしはそのまま彼に身を任せる。悦楽によって女院の面影を忘れられるかも、と淡い希望を抱いた。
わたしは自ら身体を開き、積極的に彼の手から愉悦を引き出す。
肉体を激しくぶつけ合い、四肢を絡ませ熱を奪い合う。やや躊躇いながらも、季政はわたしを貫いた。
「――ずっと、義清のことが好きだったんだ……!
おまえを奪うことができる、細君や上皇様が、羨ましかったんだ……ッ!」
わたしの身体を愛撫し貪りながら、季政は情熱に駆られ口走った。
彼の想いに言葉を返すことができず、わたしは硬く瞑目し、感覚だけを研ぎ澄ませる。
北面の武士になってから、わたしを先輩として導き続ける季政に、わたしは懐慕の念を抱いていた。
彼とわたしの魂はよく似ていた。否、限りなく近いといえた。同じ呼吸で動き、同質のこころを持っていた。だから、互いに惹きあっていた。
心服する上拝者とこころを深く理解しあい、魂ごと繋がることができて、わたしは幸甚を味わっていた。――女院の寵を受ける前までは。
それ故に、自ら引き出した思わぬ事態に、わたしは哀歓しながらも余すところなく彼を享受していた。
――わたしは、ただ女院の影を払いたかっただけだ。なのに、今の状況に喜びを感じている。なんと浅ましいことか……。
季政の為すが儘になり、愉悦に押し迫られ逞しい背に縋りつく。
輪郭を曖昧にする月が、ぶれ続けるわたし自身のようで、哀しかった。
嘆けとて月やはものを思はする かこち顔なるわが涙かな
<月がわたしに嘆けといっている……否、そうではない。わたしは自ら嘆きの涙を面に浮かべているのだ。>
「……義清は、想う相手がいるのだろう?」
気怠くむき出しの胸板を床に預けたまま、わたしは季政の切なげな声を聞く。
僅かに目を向けると、直向きな眼差しがわたしを絡め取った。
「おまえは最近、切なく苦しげに物思いに耽っている。……誰かに恋慕しているな?」
わたしは目を逸らし口を開いた。
「……想い人がありながら、おまえに抱かれたわたしを罵りたいか」
意外にも、季政は首を横に振る。
「…………いや。
欝屈しているものを吐き出したくて、わたしのもとに来たのだろう。酔い潰れていく様を見て、そうだと確信した」
「…………解っていてわたしを抱いたのか。おまえもなかなかの悪だな」
ははは、とわたしは何気なく笑い、寝返りを打って季政と向き直る。
揺るぎない季政の瞳が、強い意志を持ってわたしを見る。
「わたしは、おまえが熱を冷ます必要があるのなら、いつでも抱いてやる。
だから……わたしにだけでも、誰にも告げられぬ想い人を明かしてくれぬか」
季政の真剣な問いに、わたしは目を伏せる。
言えるわけがない。季政は確かに口が堅い。が、これは女院や主上の政治生命に関わること。迂闊には他言できない。
無音の空間に、さらさらと流れる遣り水の音色だけが響く。
重厚な沈黙に何かを悟り、季政はため息を吐いた。
「……障りの多い御方か。解った、もう聞かぬ。……何となく、誰か判った」
言って、季政はふっと笑った。
わたしも苦笑いし、彼を見つめる。
誰よりも信頼する、愛する友。――わたしは彼を傷つけたかもしれない。
豪儀で無鉄砲なわたしを、いつも彼は優しく包み込むように見守る。甘えているのはわたしかもしれない。
「わたしは役得だな。おまえを抱けるのだから、想われ人になれなくとも、構わぬよ」
季政の言葉に、わたしは身を起こし彼を真っすぐ見た。
「――わたしは、何も思う所なく身を投げ出すような人間ではない。
上皇様は主人ゆえ仕方のないことだが、そうでなければ身体を許さぬ。
激情をおまえに捧げることはできぬが、また違う形でおまえを愛している。これは嘘ではない」
わたしの告白に季政は目を見開き、ややあって赤面した。
「……そ、そうか。ま、全くの片恋というわけではないのだな……」
照れる彼の目を覗き込み、わたしはひたぶるに見つめる。
「……いいのか? おまえにすべての愛をやるわけにはいかぬのだぞ」
一縷の望みと一片の不安。わたしは季政に見離されたくなかった。純粋な愛を弄ぶ下衆と思われたくなかった。
そんなわたしに、季政は優しいが強い瞳で頷き、今一度わたしの背を床に押しつけた。
「おまえが馬鹿正直者だということは、わたしが一番よく判っているよ。
ふたつのものを欲しがることを、卑しいと責めているのだろう? いいさ、両方手に入れれば。わたしはそれで構わぬよ。
わたしはおまえが好きなんだ。だから――わたしはおまえと、こうしたいんだ……」
生まれたままの体躯を密着されて、わたしは季政の意思をありありと感じた。
もとより拒むはずもなく、彼の意思に濃厚な接吻で応えて、二度目の愛歓に自らのめり込んでいく。
季政――否、西住。わたしは本当におまえを愛していたよ。
絢爛な桜の花に目を眩まされ、見えなかった青竹の存在の重さが染み入ったときには、遅かったのだ。
いまは、おまえがただ懐かしく愛しい――…。
それからわたしは、幾度も季政と身体を結んだ。
わたしが愛されるだけではなく、わたしから彼を愛しもした。
悦楽に女院の面影を忘れ、季政の無償の愛に満たされぬ想いを慰められる。
が、女院の御座所の護りをしているとき、堀河殿に呼び止められ、御簾の内にまた招きたいとの女院の御意向を伝えられ戸惑った。
夕刻、灰青の空に星が浮かぶのを呆と見ていると、季政がわたしを探してやってきた。
「どうしたのだ? なかなか厩に来ぬから心配したぞ」
はっとして、わたしは季政を振り返る。
口に手を当て震えているわたしに気付き、季政は眉をあげた。
「……今宵は我が館に来れぬか?」
「…………あぁ」
「久々の逢瀬だな」
その言葉には何も応えない。
ひとりで帰る季政を見送り、わたしは唇を噛み締めた。
――また、あの御方を腕に抱ける。
だというのに、今、わたしは怖い、と思っている。
季政のおかげで、女院を忘れていられた。なのに、あの御方は再び甘い痛みを抉られ、わたしを遊びの具になさろうとする。
わたしは怖しさとともに、喜びも感じている。それがまた、怖しい。
一度館に帰ってから、深夜わたしは女院の御所に忍び込んだ。
「こちらでございます」
堀河殿と中納言殿がわたしを女院の寝所に密やかに導かれる。
何度も通った小暗い廂の内を横切り、身舎(もや)に入る。
聞き慣れた、甘い香。女院の肌を介するとまた違った趣きを感じさせる香が、几帳の奥からくゆらされる。
「……来たのね? 義清」
わたしは愛しい御方の艶やかな声に、びくりと身体を弾ませた。
自ら几帳を捲り、女院はわたしの傍にいざり寄ってこられる。
ごくり、と唾を飲んで、わたしは口を開いた。
「阿漕の浦と申されましたのは、門院様ではありませぬか」
わたしの細やかな拒絶に、女院はにっこりと笑まれる。
「ふたりだけの合間は、璋子と呼んでと言ったでしょう。
嫌なら来なくてもよかったのよ?」
何もかも見透かした言葉。
誰よりも美麗な面が、何よりも残酷に見える。冷酷さが、美貌に彩りを添えている。
「……あなた様は、酷い御方です」
うっふふふ、と女院は愉しそうに笑われた。
「あら、わたくしは優しいわよ? 本来ならあなたなどの手に届かぬこの身体を、抱かせてやっているのだもの」
「……このわたしを、虫けらのようにお思いですか」
強く唇を噛み、わたしは今更ながらに思い知る。
わたしが愛した御方は、生粋の雲上人なのだ。高みから民種を玩弄し、愉しまれる。
――所詮、わたしは身の程を知らぬ虫けら。この御方は虫けらに自由を与えて下さらない。
それでも、抗わずにはいられないのは、わたしという個の性か。
膝を折ると、深々と礼をし、口を開いた。
「逢瀬も度重なれば明るみになり、罪を問われるとおっしゃったのは門院様です。
その御自身が意思を曲げられるのは、如何なことかと存じます。
案じ事が正事にならぬよう、わたくしは退散させていただきます」
そういって立ち上がったわたしに、女院は血相を変えて縋られた。
華の顔貌が恐怖に引きつれ、ゆがんでいる。
「いや、行っては駄目! わたくしを一人にしないで!」
「しかし門院様、阿漕の浦なのでしょう?」
「独りはいや! 淋しいのはいや! 置いていかないで!」
袖に縋る女院の手を解き、ゆっくりと離れる。
黒真珠の瞳からぼろぼろと零れる涙が、女院の美しさを際立たせ、わたしのこころに哀切を呼び起こす。
「行ってはいや! 淋しいのはいや! ――御義父様ッ――!!」
混乱し、幼い頃の姿が勃然と出てくる。
わたしは眉を寄せ、女院を力任せに抱き締めた。
「……いうことを聞きますから……いやだなんていいませんから……ここに居て下さい……御義父様……」
女院を御帳台に寝かせ、単衣の帯を解きながら、わたしは絶大な悲しみに襲われた。
権高に育ったのは、誰のせいか。淫蕩に育ったのは誰のせいか。誰かに抱かれねば眠れなくなったのは、誰のせいか。淋しさに耐えられなくなったのは、誰のせいか――。
確かに巨きく、何事も許される御方だった。が、ひとりの幼気な女人を歪ませた罪は大きすぎる。
この御方は、もっと幸せになれたはずなのだ。平凡でも人柄のよい男に嫁ぎ、誰一人子に死なれることなく生きる楽しみを見付け、嫉みや孤立を味わうことなく生きていけたはずなのだ。
ひとりの女人の人生を狂わせ、人格を歪ませた。その罪を問うべき人はこの世にいない。いたとしても、わたしは物申せる身分ではない。
それでも、怒りと嫉妬は沸き上がる。死してなお女人に苦しみを与え、喜びを与える男に、わたしは歯軋りした。生きて愛する人に地獄を味わせる主人にも、忸怩たる思いを抱いた。
わたしに出来ることは、孤独を恐れ震える女人を労り、愛欲に染めて差し上げることだけだった。
「義…清……もっと、もっと……強く抱いて……」
狂乱が過ぎたのか、女院は正しくわたしの名を呼ばれる。
蕩けそうな白脂の肌に唇を這わせ、隙間を全てわたしで埋めてしまう。
こうしないと、女院は不安がられる。僅かな溝からでも木枯らしが吹き荒び、こころを凍えさせると、女院は怯えられる。わたしは女院の望みを唯々諾々と叶える。
が、わたしでなくとも、女院の孤独を埋めることが出来るのだ。
――また阿漕の浦と、突き放されるかもしれぬ。
わたしのなかの恐怖。季政のおかげで忘れていられたのに、またも女院の肌を味わってしまった。今度こそ、忘れられなくなるかもしれない――。
思へども思う甲斐こそなかりけれ 思も知らぬ人と思へば
<どんなに想っても、想う甲斐などないのだ。情けを知らぬ御方だと思えば……。>
痛め付けられ、血の涙を流しても焦がれることを止められぬ。たったひとりの我が桜の君。
上皇様が女院の御願寺・法金剛院に女院とともに御幸なされたとき、わたしは近しくお護り申し上げた。
薄紅紫色の糸桜が可憐に、なまめかしく風に揺れていた。
後々御簾の内で御顔を拝したとき、法金剛院の糸桜と女院の顔貌が重なった。
あれ以来、桜を見ると悩ましくなる。
――わたしはこれから桜を見る度、美麗さを恨みがましく眺めるのだろうか。
密やかに苦笑を洩らし、わたしは女院に導かれて情熱を解放した。
夜空に浮かぶ望月が、所在ないわたしの姿を全て曝け出す。
白々と照り輝き、神秘的な美しさを持つそれが、いまはただ忌々しい。月にさえ放っておいてくれ、と言いたくなる。
心をば見る人ごとに苦しめて 何かは月のとりどころなる
<見るたびにそれぞれ人を苦しめて、月のなにがよいというのだ。>
栗毛の馬にゆったりと揺られ、わたしは家路を辿る。
呼ばれて突き放され、また呼ばれる――わたしはこれから、終りなく女院に弄ばれ続けるのだろうか。
ひたすら麗しく愛らしい女院。薹の立った女人だというのに、少女のごとく若やぎ天衣無縫であられる。それでいて、あの御方は誰よりも女の匂いを漂わせていられる。
断ち切ろうとしても引き寄せられてしまう。蜘蛛の巣に掛かった蝶のように、逃れられず貪り食われるのを待つのみ。
そして、あの御方の内にある傷を見過ごすこともできず、さりとて何もできない。
あの御方をお助けしたい……。が、男のままであれば、あの御方は弧愁を埋めるための都合のよい手管としか見なされないだろう。
あの御方を苦しめるこの世は、わたしにとっても凍土でしかない。
否、四季彩を目に映せば、生き生きとした美と活気がある。
この世を構成する自然の美しさと、人間世界の醜さの、ひとつでありながら乖離する相。
どちらも真実でありながら、片方は拒否してしまう。さりながら、全てにおいて人の世の流れを嫌悪できない。
――いっそ、出家してしまえたら楽だろうに。
この世の成り立ちを具に見てしまうから、嫌気が差してしまうのかもかもしれない。
栄華の裏には苦界があり、止まる事無く両方を行きつ戻りつ転がり続ける――この世は無常である。
どちらにも属さず、中庸に生きる――理想を適えるには、この世の仕組みから外れてしまうのが一番だ。
沈思しながら馬を操り、路を曲がったとき、待ち構えているような馬上の影があった。
わたしは微かに目を見開く。
「季政……おまえ、こんな時間に何をやっているのだ?」
曖昧に笑い、季政はわたしと馬を並べる。土塀にゆるりと動くふたつの影ができた。
「何か、おまえが腐っているような気がしたので、来てみたのだ」
「…………わざわざ?」
「おぅよ。悪かったか?」
胸を張り、悪びれもせずに告げる季政に、わたしは吹き出した。
「悪くはない。少し付き合わぬか?」
「ん? どこかに行くのか、こんな夜更けに」
「夜更けだからいいのだ。誰かに知られぬほうがいい」
微笑み言うと、季政はふざけて返す。
「いいな、秘密の逢引きみたいではないか」
「…………ぬかせ」
口だけで揶揄し、馬に鞭をくれてさっさと走りだす。
後を追ってくる蹄の音に、わたしはありがたい、と心の友の存在に感謝した。
わたし達は馬を飛ばして、嵯峨野の法輪寺に辿り着いた。
二年前、季政とともにこの寺に籠もっている空仁法師を訪ねた。桜の美しい、天が霞んだ日だった。
空仁法師と三人で、山の端が橙色になるまで話尽くした。あの日、初めてわたしはこの世の外への憧れを抱いた。
そらになる心は春の霞にて 世にあらじと思ひ立つかな
<春の霞のように虚空になりたいこころは漂っている。わたしはこの世を出ようと思い立ったよ。>
芽吹いたものは、今様々な運命に揉まれて更に膨らんでいる。
眼下に流れる川面を眺め、自然と句が口を吐いて出た。
「……大井川舟にのりえて渡るかな……」
隣に竚む季政が間を置くことなく、大井川を見つめて続ける。
「流に棹をさすここちして――」
ふたりで顔を見合わせ、わたしたちは微笑みあう。
二年前、嵯峨野からの帰りに季政と舟の上で詠みあった歌だ。重なり合い和した句に、あの日わたしたちは目を見交わし、同じように笑った。
今、また同じこころで水面を見、感性が重なる。
「――あの日よりも、出離の願いが増しているな?」
季政が穏やかな声で聞いてくる。その声質と笑みに、全く動じている色はない。
「――こころは既に、虚空(そら)に向かっている。
だが、佐藤の家に阿古夜(あこや)と真朱(まそほ)・千萱丸(ちがやまる)、郎党のことを考えると……」
妻の阿古夜との間に、娘の真朱と息子の千萱丸がいる。
わたしは彼らを養わねばならぬ上に、一族の長として郎党の面倒を見ねばならぬ立場だ。そのために、佐藤の支族が資金を出してわたしを官職に付けたのだから。
季政は頷き、慰めるようにわたしの肩に手を置く。
「穢土から、なかなか離れられぬな。……この世は柵が多すぎる」
滔々と流れる川を見つつ、わたしは肩に置かれた掌を握った。
既に、出家の意思は固まりつつある。季政はそれを薄々感じながらも、何も言わない。
この世を捨て、恋を捨てる……季政との肉の関係を捨てることにもなる。それをも、彼は承知している。
わたしも季政のこころを近しく感じられるから、よく解っている。
句を詠み交わしたあの日、季政もこの世の外への憧れを抱いていた。何物をも捕らえられない虚空なる高みへ、羽搏こうとしていた。
彼だけが、わたしを理解し得る者。わたしだけが、彼を理解し得る者。それ故に――強く惹かれあっている。
虚空と同化したとき、今よりも互いを深く繋げることができると、互いに知っている。
そして女院とも、男女の法を超えて繋がることができる。
ただそれだけを望みつつ、わたしは季政とともに馬を都に向けた。
わたしは解脱の折りを計りながらも、なかなか外に出ることが出来ないでいる。凡夫として人の世をはい回り、女院に対する煩悩に焼かれている。
が、期は思いもよらないところから、自ら歩み寄ってくるものだ。
秋の宵、わたしは歌詠みの修業仲間である藤原頼業(ふじわらのよりなり)――後の寂然(じゃくぜん)――の兄・為業(ためなり)殿――後の寂念(じゃくねん)殿――の館での紅葉の宴に呼ばれた。
酒宴には他に、頼業の兄で為業殿の弟・為経(ためつね)殿――寂超(じゃくちょう)殿――、そして季政とわたしの従兄である佐藤憲康(さとうのりやす)兄が呼ばれていた。
わたしは季政・憲康兄と連れ立って為業殿の常盤の館に行く。
憲康兄も、わたしや季政と同じく北面の武士をしている。
季政と憲康兄は同年で、もともと憲康兄が新たに院の衛士となったわたしに、頼みになる先輩として季政を紹介した。色々面倒見がよく、わたしは何かと憲康兄を頼りにしている。
「相変わらず忙しそうだな」
憲康兄が破顔してわたしに尋ねる。
「近ごろのわたしは専ら、上皇様に召されて御幸のお供をしているのですよ」
季政が腕組みして頷く。
「義清は華があるからな。連れていて見栄えがするのだ。
わたしは五の宮様(本仁親王)をお護りせねばならぬ立場ゆえ、義清の映えある姿をなかなか見られぬ」
おどけた季政の言葉に、気恥ずかしくなり、わたしは勝手に言ってろ、と独りごちる。憲康兄は豪快に笑った。
常盤にある為業殿の屋敷には、すでに為経殿と頼業が揃っていた。
この三人は仲のよい兄弟で、後々に法名の一字を分け合い、「常盤(大原)三寂」と呼ばれるようになる。
わたしは一時期、三兄弟の父上・藤原為忠殿に師事していた。その折りに三人と交流し、なかでも同い年の頼業を親しい友としている。
「お、義清、来たか。
まぁ〜まぁ〜季政も仲良く一緒で。お熱いことだなぁ」
顔を出したわたし達を、頼業は茶化す。不機嫌な顔を作るわたしの頭を、いなすように叩き、憲康兄が身を乗り出す。
「俺もいるぞ。忘れていたのか?」
いえいえ、と頼業は調子よくにっこり笑う。
「忘れるわけないじゃないですか。義清をからかうと面白いから、ついつい遊んじゃっただけです」
「解っているよ、おまえの考えていることくらい」
「ひどいなぁ〜〜」
憲康兄と頼業の、聞き捨てならない会話。わたしは面白くなくて、そっぽを向く。くっくっ、と季政はひたすら笑っていた。
呑気な空気を打ち破ったのは、長兄でこの屋敷の主人である為業殿である。
ぱんぱん、と手を叩き、女房達に酒肴を運ばせると、庭にある紅葉の帳を指差した。
「ほらほら、そんなところで立ち話していないで、ゆっくり座って酒を酌み交わそうではないか」
広廂に並べられた円座を為業殿が勧め、皆が席に着いたとき、女房が酌をして廻る。
篝火の灯りに助けられ闇のなかに浮かび上がる紅葉が、美しくわたしを誘う。
朧長けた楓の朽ち葉色が、芳醇な色香を漂揺している。
少女さびた風情と、成熟した女のあざとさが同居する女院の不均衡な魅力が、わたしをいつも戸惑わせている。桜があの御方の清らかな見目だとすれば、紅葉の熟れた情趣は女院の年相応な心奥に至当するだろう。
わたしにとって、四季を彩る全てが女院を想起する縁由である。
満月の夜に愛されて以来、女院のお呼びは掛かっていない。きっと、夜毎違う男があの御方の肌を愛でているのだろう。それを思うだけで、喉が焼け付く。
額に汗が吹き出かけたとき、隣に座る季政がわたしの拳を掴んだ。
はっと我に返り彼を見ると、落ち着いた柔らかな顔が、宥めるような笑みを刷いていた。
焦りを隠し皆を見ると、誰も不審さを抱かず、紅葉と酒に酔っている。いつもわたしを見ている季政だけが、わたしの変調に気付いた。
わたしは何もないように取り繕い、高坏の上に並べられた肴を摘んだ。
今宵も照らす望月と、風に揺れる紅葉の錦、そしてこころの友だけが、わたしの切ない胸のうちを知っていた。