幽愁の椒庭(2)へ



(3)



 聖體の御不豫(ごふよ)に、後宮が重く沈む。
 正子さまは御懐妊中でいらっしゃるが、自ら主上の看病をするとおっしゃり、不眠不休で夜の御殿に付いていらっしゃる。
 勿論、女官である緒継殿は侍医や薬師、大臣たちの取り次ぎで寝る間も惜しみ慌ただしくしておられる。
 主上の本復のため、東寺と西寺では薬師悔過(やくしかいげ)の祈祷が行われている。空海さまも、今頃護摩壇に向かわれているはずだ。
 わたくしや他の妃は軽々しく主上に触れることができないので、椒庭(しょうてい。後宮の意)で主上の容体の知らせを待つしかない。
 ――わたくしは何も出来ないのが、もどかしかった。



 皆が寝入り物音ひとつ無くなった頃合い。
 わたくしは床から抜け出し、塗籠にてこっそり用意していた丹色の襦袢と白の浄衣に着替える。
 首から御統玉を下げて弄りながら、わたくしは清涼殿の方を向き瞑想状態に入る。

 ――霊を飛ばして主上に癒しの靈氣を注ぎ込もう。
 わたくしには、それしか出来ない。

 わたくしは霊駆けし、回廊を渡って夜の御殿に入る。
 なかでは、女官や女房達が慌ただしく動いていた。水を汲んだ桶を運ぶ者と水差しを手に駆けてきた者がぶつかりそうになるなど、皆、切羽詰まっている。
 忙しいからか、誰もわたくしがいることに気付いていない。否、只人の目に今のわたくしの姿が見えるはずはなかった。
 主上の寝台の傍に、正子さまがいらっしゃる。高いお熱に吹き出る主上の汗を、手拭いで拭っていらっしゃった。
 一緒におられる緒継殿が、正子さまを案じて、止めようとしておられる。

「内親王さま、少しはお休み下さいませ。
 でないと、御子に障りがあらわれます!」

 が、正子さまは頭を振られた。

「いいえ、わたくしは主上の側におります。
 主上はわたくしの背の君。大事な御方が苦しんでいらっしゃるのに、眠ることなどできませぬ。わたくしの好きにさせて下さい」

 正子さまの毅然とした態度に、緒継殿は黙り込まれる。
 わたくしは意外な思いで正子さまを見ていた。
 先帝の内親王としてお育ちになられた正子さまは、風にも耐えぬようななよやかな御方だと思っていた。が、本当は芯の強い御方なのだ。
 そして、正子さまの主上を想うおこころは、本物なのだ。主上を見つめる正子さまの潤んだ眼差しは、熱い情感が籠もっている。
 わたくしはこころに温もりが灯ったのを感じていた。

 ――何の掛け値なく主上を愛していらっしゃる方がおられる。
 この方の周りの者はいざ知らず、正子さまご自身は純粋に主上を好いていらっしゃるのだ。

 それに、嘉智子さまによってわたくしをなぞらえるようにさせられておしまいになられたが、正子さま独自の個性をありありと認められた。
 わたくしは微笑み、寝台の横に座って主上の手を取る。
 正子さまをも意識して、お二人に癒しの波動をお送りする。天から清らかな靈氣を降ろし、頭頂から背骨添いに通る靈管を通過させ、手のひらからお二人に波動をお送りする。
 そうしながら、わたくしは意識を澄ませていく。
 ――と、何かがぴりっと神経に引っ掛かった。
 わたくしはそれに焦点を合わせる。

 ――何かが、取り憑いていた。

『コノモノニフレルハ、ナニモノゾ!』

 なにかが、悲鳴を上げながらわたくしの靈氣を弾き飛ばそうとする。
 わたくしは何かに声を掛けた。

『そなたは何者? 応えよ』

 更に、波動を強める。
 ギャアッ! と何かが叫んだ。
 が、向こうも憑いている主上の魂を握り潰そうとする。主上の面に激しい苦悶が浮かんだ。
 わたくしは主上の魂を靈氣で包み防御する。これでは、攻めることができないので、何かを主上から離せない

 ――その時、わたくしの背後に、怜悧で巨大な波動が迫ってきた。

 わたくしを害するものではない、強靱さと暖かさ、優しさを併せ持つ靈力がわたくしを覆い尽くし、波動を交じり合わせてきた。
 靈氣の余りの強大さに、わたくしの頭上から尾骨までの霊の渦がぶるりと震えた。わたくしは思わず叫喚する。

『ギャアァッ――!!』

 膨張していく靈氣の力を受け、何かが断末魔の叫びを上げ散り散りに砕けた。
 完全に波動と一体化したわたくしは、わたくし自身の霊の容量を超えた靈力に、失神してしまった。



「――――あぁっ!」

 わたくしは飛び起き、辺りを見回す。
 そこは塗籠のなかで、連子窓から月光が差し込んでいた。
 身体と魂に、どこか甘く官能的な痺れが残っている。末端までが冴々と覚醒し、靈氣が瑞々しく漲っている。――先程の余波だ。
 あれは、一体なんだったのだろうか。何故か、夜毎送られてくる波動に似ているような気がした……?
 そして、主上にとり憑いていたものは外せたのだろうか。
 気になってたまらなかったが、泥のような疲労が蝕んできて、わたくしはようよう床まで這って行きそのまま倒れこんだ。



「……で、またお妃さまは巫女の真似事をなさったのですね」

 力を使い果たし、昼になっても起き上がれないわたくしのために、和知は粥などの膳を運んできて、嫌味ともとれることを言う。
 言い訳できないわたくしは、苦笑いした。

「今日の主上のご様子は?」

 わたくしは一番気に掛かっていたことを尋ねる。
 肩を竦めて、和知は答えた。

「お熱も下がり、意識もしっかりしていらっしゃいます。
 今朝には、叔父が昨夜の祈祷の最中に障碍(しょうげ)神の存在に気付き、法力でそれを取り外したと進言したそうです」
「えっ……!」

 わたくしは瞠目する。
 昨夜の障碍神といえば、わたくしが対峙していたものだろう。それを、空海さまが法力で取り外した?
 では、あの波動は……?
 わたくしは思わず問い質す。

「それは本当なの?」

 和知は頷いた。

「何でも、障碍神の正体は稲荷社の眷属である大木の精霊で、東寺建立のため伐り倒されたのを恨みに思い主上に災いをなしたそうです。
 それを聞いた主上は、稲荷社に従五位下を授けられたとか。
 叔父も稲荷社を東寺の鎮守として丁重に祭ると申しておりました」

 わたくしは安堵し、頷いた。
 毎夜わたくしを癒しにくる波動と昨夜の波動はよく似ていた。では、あの波動は空海さまのもの……?
 空海さまに纏わることは、解らないことが多すぎる。一度、聞いたほうがよいものか。
 ――が、聞く勇気はない。
 わたくしはため息を吐き、太陽が輝く窓の外を見た。









 正月が過ぎた頃、主上はすっかり元通りに回復された。
 日差しが麗らかな昼、もうそろそろ梅が咲かないものかと、わたくしは庭に出た。まだ蕾が固く、咲きそうな気配がない。
 仕方なく、わたくしは水仙が咲いている花壇の近くの椅子に座り、翳で日光を遮った。
 その時、

「同席してもよろしい?」

 と声を掛けられ、わたくしは声の主を見る。
 はっとして、わたくしは立ち上がる。

「正子さま……!」

 跪いて礼を取ると、正子さまが手を伸ばしわたくしの掌を握られる。
 見上げると、正子さまが微笑まれた。それは何の虚飾もない、真の笑顔だった。
 辺りを見ると、誰も付き従っている者がいない。正子さまほどのお立場になれば、少なくとも五人は側に女房がいなくてはならないはずだ。わたくしは訝しむ。

「あ、あの、お付きの者は……?」

 わたくしの問いに、正子さまは楽しそうに笑われた。

「ひとりで抜け出して来ました。
 いつも大勢の者と一緒にいると気詰まりになり、たまにはひとりになりたいと思うものです」
「はぁ……」

 何と応えたらよいのか解らないわたくしに、正子さまは座りましょう、とおっしゃる。
 正子さまに従い、わたくしは隣に腰を下ろした。ちらりと盗み見ると、正子さまはてらいなく笑まれる。

「わたくし、一度あなたにお会いしたいと思っていたの。
 主上が一番お好きな女人は、あなただもの。
 今度のお悩みの最中でも、ずっとあなたの名を呼んでいらしたの」

 ぎくりとして、わたくしは固まる。
 病の只中、主上はわたくしの名を呼んでいらっしゃったのか。それを、正子さまが見ていらっしゃったのか。
 わたくしは恐る恐る正子さまを見る。が、正子さまの表情は変わらない。
 すると突然、正子さまがわたくしの手を握られた。

「主上のお熱が下がられた晩、あなたと似たような優しい気配を感じました。それ以来、ずっとお話したかったのです。
 会ってみて、真井殿が思ったとおりの素敵な方で、わたくしは嬉しかったのです」
「正子さま……」

 わたくしは正子さまに圧倒される。
 あの晩、わたくしの気配に気付いていらしたというのも驚きだが、正子さまが非常に親しみの籠もった眼差しで、わたくしを見てくださっていたということに衝撃を受けた。

「お母さまや良房は、あなたに負けてはならぬ、主上の気を引くように、あなたの真似をせよと申します。
 ですが、姿形を真似ても、きっと主上はわたくしを愛しく思って下さらないと思うのです。
 主上は、あなたという女人の本質を愛していらっしゃるのだもの」

 一々に何も言えないわたくしに、正子さまは自嘲ぎみに笑われる。
 わたくしは何から何まで正子さまに気負されていた。
 正子さまはとびきりの真珠のような方である。研いてでもそのままでも美しいのである。
 なのに、心ない者たちが、正子さまという個を押し殺そうとしていたのである。わたくしはお気の毒に思った。

「……きっと、そのままの正子さまのほうが、主上も魅せられておしまいになると思いますよ。
 あなた様はきっと、飾ることなくそのままの状態で、主上を愛されるでしょう。
 主上は欲や飾りのない愛を一番に欲していらっしゃいます。
 そのままの正子さまで、主上を包んで差し上げて下さいませ」
「真井殿……」

 嘉智子さまは強権的な御方。正子さまがお母上の呪縛から逃れられるのは難しいだろう。
 が、折角類い稀なる資質をお持ちなのである。正子さま自身の美しさを主上に見せて差し上げたかった。そうすれば……主上はわたくしが居らずとも、きっと救われなさる。
 わたくしは立ち上がり、正子さまに手を差し伸べた。

「さぁ、殿舎に入りましょう。身体が冷えると、御子さまによくありません。
 ――大事な御子さまです。どうか、ご自愛なされませ」

 そういって、正子さまの膨らんだお腹に優しく手を当てる。巫女として神の靈氣を呼び、御子さまを祝福する。
 わたくしは正子さまが回廊に入られたのを見て、微笑んだ。




 天長四年(827年)二月、正子さまは立后なされた。主上の正妃が誕生したのである。
 その三ヶ月後、正子さまは無事に親王さまを出産なされた。正子さま所生の二番目の皇子・基貞親王(もとさだしんのう)さまである。



 わたくしはまた正子さまとお話できる機会があれば、と思っていた。
 が、それは叶わず、今回の出会いが最後だったのである。









 今年の夏は、大地震が頻発する恐ろしい年だった。
 宮中の建物も幾つかは倒壊し、崩れた塀や壁、崩落した瓦の下敷きになり亡くなった者も多くいた。
 宮の内でこれだから、外はもっとひどい有様だろう。
 旱魃も収まらず、五月には主上の勅命により、空海さまはじめ百僧が大般若経を読み上げ、祈雨の御修法を行われた。
 わたくしはこの世の皆が安全無事に過ごせるよう、如意輪さまに祈願し、御統玉を握って靈氣を外に向け放った。



 後宮でも、変事が起きている。
 いつのまにか妃たちの人数が減っていた。ある者は咎により追放、またある者は急な病で退出あるいは死亡した。
 わたくしは首を傾げ、翳にてわたくしに風を送る和知に聞く。

「こんなに一気に女人方がいらっしゃらなくなるなんて、何だか不審なことね」

 和知は眉を潜める。

「どういうことなのでしょうね。
 流行り病でもないのに病の床に着かれる方が多いというのもおかしいことですが、こんなにも咎人が出るというのも解せないことですわ」

 和知の言葉に、わたくしは考え込んだ。
 変事といえば、わたくしに対する嫌がらせが再開したこともある。
 たぶん、主上の病床に侍っていた緒継殿が、主上がわたくしの名を呼ばれるのを聞いたのだろう。緒継殿や他の女官がそのことを後宮のなかで言いふらしたのかもしれない。
 お召しはないが、今だに主上の想いを受けているわたくしに、お妃方が嫉妬なされたのか、誰かがわたくしの衣に針や剃刀を仕込んだり、お膳の中身に刃物や毒を入れてきた。
 一々が煩わしく、近ごろのわたくしは憂欝を身内に飼っている。
 それでも、夜々に送られてくる波動に触れ癒されるだけ、わたくしは幸せなのかもしれない。
 主上は正子さまだけを閨に召されるため、他の女人方は淋しい日夜を噛み締めていらっしゃるのだから。
 わたくしは夜に靈氣を送って下さっているのは空海さまだと、半ば確信していた。
 空海さまは以前に、同じ海人のよしみでわたくしを助けたい、とおっしゃって下さった。それ以上の含みはなくとも、嬉しくてたまらない。
 どんなに辛いことがあろうとも、空海さまはわたくしを見て下さっている。わたくしは空海さまをお慕いするこころだけで、日々の希望を見いだしていた。
 幸い正子さまや小野町殿は主上に想いを寄せられるわたくしの存在に、不快さを持っていらっしゃらなかった。
 それが後宮にあっての、わたくしの救いだった。









 季節が流れ、底冷えする冬がやってきた。
 長々と続いた地震に復興が追い付かない京中にとって、都の冬は厳しすぎるだろう。わたくしは宮の内にて案じていた。

 そんな時、真っ青な顔で加悦がわたくしのいる御簾のなかに駆け込んできた。

「小野町さまが、お亡くなりになられました……!」

 信じられない加悦の言葉。わたくしの目の前が真っ暗になる。
 茫然自失するわたくしの代わりに、和知が問い詰める。

「本当なの?! 加悦」

 涙目で加悦が頷く。

「この一週間ほど、小野町さまは御宿下がりされていらっしゃったのですが、急な病を得て昨日……」

 あとは、声が続かない。
 わたくしは呻き声をあげる。

「嘘よ……御宿下がりされる前は、あんなにお元気だったのに……」

 俄かに信じることは出来ない。――信じたくない。
 わたくしは突っ伏して泣き始めた。いつしか、声も漏れていた。わたくしに寄り添い、和知と加悦も嘆きの涙を流していた。



 小野町殿の死以来、わたくしは悲嘆のなかに暮らしていた。仲の良いお友達の死が、思った以上の痛手になっていた。
 庭の池を見ると、わたくしの食事の毒味をさせたせいか、鯉の数が減っていた。それさえも気にならないほど、わたくしはこころ弱っていた。
 わたくしに着き従っている女房が言う。

「お妃さま、御覧ください。山茶花が美しく咲いております」

 わたくしは女房が指し示す山茶花に触れる。青みを刺した濃い紅色がしっとりとした趣を感じさせる。
 一年前の冬、わたくしは小野町殿に山茶花を差し入れしたことがあった。それは昨日のことのようなのに、もう小野町殿はいらっしゃらない――。
 わたくしの涙が、頬を伝って落ちる。
 その時――

「お、お妃さま、加悦殿がッ!」

 血相を変えた他の女房がわたくしのもとに走ってきた。
 わたくしは涙を拭い向き直る。

「加悦がどうしたの?」

 女房の口から出てきた言葉は、衝撃的なものだった。

「急に、お倒れになられました――!」

 全身の血が頭から爪先まで一気に下ったような気がする。
 わたくしは気を失い、その場で昏倒した。









 意識を取り戻すと、わたくしは寝台のうえにいた。
 窓の外を見ると、橙色に染まっている。倒れてしまってから、眠ってしまっていたのだ。小野町殿が亡くなられてから眠れぬ夜が多かったので、仕方ないだろう。
 傍らに付き添っている女房に、わたくしは問い掛ける。

「加悦は?! 加悦はどうなったの?!」

 女房が不安気に応える。

「……実は、加悦殿のお膳に毒が入っておりまして、すぐに気付いた和知殿が毒を吐かせ、東寺の大僧都(だいそうず)のもとに薬を求め走りました。
 大僧都がご協力下され、内々に護摩の御修法を行って下さるとか。
 和知殿が加悦殿にお薬を飲まして差し上げ、そのまま付き添っておられます」

 空海さまが、加悦のためにこころを砕いて下さっている。薬の知識もあり、御験力のあられる空海さまなら、きっと加悦を助けて下さるだろう。
 わたくしは心身ともに疲弊しきっていて、力が出ないのが悔しい。
 わたくしのことは構わないから、皆、加悦に付いているように言って、わたくしは再び眠りのなかに入った。



 不意に寝苦しさを感じ、わたくしは低く呻いて薄く目を開ける。
 夜なのか辺りが暗い。明かりを点けていないから、真の闇である。わたくしは身を起こそうとするが、何故か重く、起き上がれない。
 否――誰かに、押さえ付けられている?!
 わたくしは藻掻き、暴れる。手や足の爪に柔らかい感触が食い込む。

「――静かになされよ」

 耳元に甘美な男の声で低く囁かれ、わたくしは驚愕する。――今ここに、男がいる?!
 加悦の看病をさせるために人を下がらせたのがいけなかったのか。誰も来ないと思っていたが、迂闊だった。
 それよりも、声に聞き覚えがある。それも、聞きたくはないと思っていた声だ。

「…………良房殿?」

 わたくしの声に、楽しそうに相手が囁いた。

「そうですよ。わたしの声を覚えていて下さったのですね」

 改めて声の主を確認し、わたくしの全身が震える。よりによって侵入者が良房殿とは。何の目的でここに入られたのか。
 わたくしが恐怖に震えていると、良房殿はふふっと笑われた。

「わたしが、怖いですか?
 無理もないでしょうね、側近が毒を盛られた夜に、時宜よく夜這いに来るのだから」

 わたくしは目を見開く。
 加悦が毒を盛られたことは誰にも口外しないように、女房に申し付けていた。なのに、この方は知っているのだ。

「ど、どうして――?!」

 当惑したわたくしの疑問を、良房殿はふっと笑い受けとめる。

「何故、わたしが知っているのかと?
 答えは簡単だ。わたしが手の者を使い毒を盛らせたのだから。
 軽い毒なので二日ほど寝込まれるだけだ、安心されよ。
 わたしはこうして、あなたとふたりきりになる機会を持ちたかっただけなのだから」

 わたくしは息を呑む。
 この方はわたくしとふたりきりになるためだけに、加悦に毒を盛り苦しめたのか。
 余りの外道さに、猛烈な怒りが込み上げてくる。

「非道なことを! あなたは自分がしたことが何か、解っているのですか!」

 わたくしの非難に、良房殿は鼻で笑われる。彼は手首を押さえ込んでいた掌を、わたくしの胸乳の上に置く。寝衣の上から柔々と揉まれ、怒りに忘れていた現実が一気に戻ってくる。

「い、いやッ! わ、わたくしは、主上の妃です! お止めなさい!」
「だから、どうだというのです?」

 冷たい声に、びくりとしてわたくしは固まる。

「帝の妃だから何だと?
 そんなもの、わたしには関係ない。わたしの目的は、邪魔者――正子皇后の敵を排除すること。そのためには、手段を選ばぬ。
 隙を見せる女のもとに忍び入り、堕落させる。そして不貞の罪を作り、共謀する女房を目撃者に仕立て上げ、女に罪の烙印を植え付けること。
 これぞ、わたしの目的」

 わたくしは瞠目する。
 現在よく起こる妃たちの咎とは、この事? この方が全て仕組んだの?

「何しろ、わたしには橘太后が付いている。あの方のおかげで、先帝に知られず女達を排除できる。
 今上はあなた以外の女に興味はないので、ことは運びやすい。
 が、執心のあなたが裏切ったと知ったら、帝はどうなさるだろう?
 それを思うと今ことを為すのが楽しみだ」

 そういって、良房殿はわたくしの項に口付け、そうそう、と言葉を継ぐ。

「あなたの友人の小野町は一番落ちやすい女だった。
 わたしが甘い言葉を囁き接吻しただけで、陥落したのだから。
 あの女は自らわたしを求め貪った。
 わたしの甘言を信じ込み、真相を知っただけで自害するなど、馬鹿な女だ」

 一番重くて鈍い打撃が、わたくしのうちに走る。
 小野町殿がこの男の手に落ち、自害された……?
 こんな残酷なことがあるのだろうか。小野町殿はこの男を愛していた。その想い人に弄ばれ、生きた地獄に突き落とされたのだ。
 余りの悲しさに、涙が溢れて仕方がない。
 哀しい……小野町殿も、この男も。
 女を罪に突き落とし弄びながら、この男は渇いていく。自身のなかの絶大な空虚さに、この男は気付いていない。
 わたくしの抵抗が無くなったのをいいことに、良房殿はわたくしの合わせを開いて直に愛撫を施していく。
 彼の肌から直接的に伝わる彼の真実が、わたくしを遣る瀬なくさせる。わたくしは思わず、彼の背に腕を廻した。哀しく孤独な男子に、無償の愛を与えようとした。
 積極的な動きを見せたわたくしに、良房殿は辱めるよう鼻で笑った。

「――もうわたしに折れますか。以外と手応えがない」

 わたくしは涙しながら首を振る。

「……哀しいのです。あなたはご自分が孤独で淋しくて溜まらないのを、お分りでない。
 ひとを掻き分け伸し上がり、力でひとを魅了することこそを本望と思っておられる。
 それが本当の愛ではないことを、お分りでない。
 あなたに向けられていた無辜で真摯な愛に、終にはお気付きにならなかった……!」

 わたくしは余りに哀しい良房殿を包み込もうとした。
 が、突然良房殿はわたくしを突き放される。

「……おまえはわたしを愚弄し、卑下するのか……!」

 激しい怒気が、良房殿から吹き上がる。わたくしは違う、と首を振った。
 なおも彼を抱こうとするわたくしから素早く離れ、良房殿は自身の着衣の乱れを直される。

「不快だ! これ以上おまえといると、頭がおかしくなる」

 そう言い、良房殿は身を翻した。
 無明の闇のなか、足音が遠ざかっていく。辺りがしんと静まり返る。




 何もかもが苦しく辛い。そして哀しい――。
 わたくしは一晩中、声を発てずに泣いた。







幽愁の椒庭(4)へつづく
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