(2)
天長元年(824年)正月、先帝の姫である正子内親王さまが、主上の後宮に女御として入内なされた。
それに伴って、妃たちに仕える女房の人事異動が大々的に行われ、わたくし付きになっている女房の数が大幅に減らされた。
今わたくしに仕えているのは、和知と加悦、そして我が家が遣わしてきた侍女達である。
藤野は正子さま側近の女房になった。――否、彼女は元から正子さまに仕えるために宮廷に入ったのだ。
彼女は、藤原良房殿の情人だったのだ。真夜中に忍んで来た良房殿にしな垂れかかっている藤野を、和知が見つけ咎めたという。
そのとき、今までにない冷たい表情で藤野は言い放った。
「わたくしは、初めから正子内親王さまにお仕えするために後宮にあがったのです。
真井御前さまの衣やお化粧の趣味、細かな仕草や立ち居振る舞いを盗むために、こちらに入り込んだのです。
わたくしのこちらでの役目は、終わりました」
その日の朝、和知から藤野の言葉を聞いたわたくしは、終日塞ぎ込んでしまった。
わたくしに接してきたときの藤野は偽りだったのか。人見知りでありながらも甲斐甲斐しく仕えてくれた。控え目だったが細部にまで気が付く娘だった。その姿が、すべて嘘だったというのか……。
この世のときめきが、皆正子さまのところに行ってしまったような気がする。後宮は二極化され、力のある場所に人が集まってゆく。
わたくしはほとほと、この場所に居るのに嫌気が差してしまった。
――ここは醜い、権力で牛耳れる穢所なのだ。実力者にとって、邪魔になるものは踏み躙って、潰しさるのみなのだ。
嘉智子さま達の奸計を知らないのか、主上は入内なさって以来、正子さまのもとに日を空けることなく通い詰めていらっしゃる。主上は正子さまの若々しさ、瑞々しさを愛で、酔い痴れていらっしゃるのだろうか。
わたくしは主上の有様を思うにつけ、暗澹としてしまう。が、主上が欲していらっしゃるものを差し上げられないわたくしは、どうすることも出来ない。
すっかり寂れて、陰りを負った私室で、わたくしはしがな溜息を吐いた。
‡
わたくしが後宮にあって憂いに沈んでいる間、外の世では先年よりの全国的な大旱魃で、水源が枯渇し、不作続きのため餓死者が続出していた。
空海さまは主上の勅命により、二月に禁苑である神泉苑で、大雲輪請雨経による御修法を行われることになった。
わたくしは和知に、
「空海さまは、まだ潮満・潮干の玉をお持ちなのよね?
祈雨の法を行われるとき、是非ともお使いくださいと伝えてほしいの。
あの玉は、雨を降らせる力があります。海部族はこの玉でもって、天候を操ってきました。だから、雨を降らせられるはずです」
と言付けた。
わたくしは如意輪さまに額づき、毎朝毎晩空海さまに助力していただくよう、希(こいねが)っている。
丹後や天川の方角に礼拝し、水神である弁才天女に伏し願う。
――我が母神・弁才天女よ。どうか、あなた様のお力によって、空海さまに御加護をお与え下さいませ。
空海さまはあなた様と縁のあるお方です。どうか……!
わたくしも、巫女の修行を行った身である。わたくしにも、何か出来ることがあるかもしれない。水霊と交感したことは、幾度かあった。
わたくしも、巫女としての感を取り戻すべく、御修法の日に向かって神経を研ぎ澄ませて瞑想し、意識を集中していった。
祈雨の御修法の日がやってきた。
この日の何日か前になって、天台の寺院である西寺の僧都・守敏さまから異議が上がり、雨乞いにて東寺・西寺の優越を競おうと試みることになった。
二年前に最澄さまが亡くなられ、近頃頓に空海さまの勢力が大きくなっていた。天台の高僧である守敏僧都は、空海さまが建立指揮していらっしゃる東寺が西寺の勢いを覆うのではないかと、常々危惧しておられたという。
守敏僧都はこれを期に、空海さまを法力でもって退け、東寺の勢いを抑えようとなされたのだろう。
主上はそれをお許しになり、神泉苑では空海さまと守敏僧都の法力合戦を見守ろうと貴族たちが見物をしに行くという。
わたくしは思い立ってから、海部族の先祖である出雲族が祈りに使っていた、碧玉の勾玉と赤瑪瑙の管玉・白瑪瑙の丸玉を用いた御統玉(みほぎだま)を取り寄せ、変わらず雨乞祝詞を唱え続けている。
まず初めの七日は守敏僧都が請雨の祈祷を行われたという。次の日になって雨が降り出した。が、降ったのは十七日間。都だけを潤し、他の地域には及ばなかったという。
その翌日から今日まで、空海さまは四方に青色の幕で覆って結界とし、干上がってしまった大地の上に青幡を十三流立てた仮谷を設けられた。青色の五壇を置き、本尊の釈迦如来を中心に観音や龍王とその眷属らを配した曼荼羅を祭られ、青色で揃えた供物を奉げながら御修法を行われている。
大雲輪請雨経を読み上げながら、空海さまは祈念し続けられる。
ところが、七日間御修法を行われようと、一向に雨が降りそうになかった。
わたくしは訝り、和知を詰問する。
「和知、ちゃんと空海さまに潮満・潮干の玉のことを伝えてくれたのよね?
どうして、雨が降らないの?!」
「わ、わたくしは、きちんと叔父に言伝てしました!」
困惑した和知の面に、知らない間に檄していたことに気付き、わたくしは謝る。
「ごめんなさい。どうかしていたわ……」
いいえ、と首を振り、和知は何かを探るようにわたくしを見る。
わたくしはそんなことも気にならないくらい、焦っていた。
――どうしよう、このまま守敏僧都に負けてしまったら、空海さまは……東寺は……。
せっかく、ここまで栄達された空海さまである。ここで守敏僧都に負けてしまえば、今までの努力が無駄になる。
わたくしは御統玉を握り締め、考える。
――わたくしは、潮満・潮干の玉を長く所持していたから、玉の霊力を霊感で探ることは出来る。
ここからでも、空海さまが玉の力を引き出されるのをお手伝いできるかもしれない。
わたくしは予てから用意していた巫女としての装束――魔除の意味がある丹色の襦を身に付け、上から白の浄衣を纏う。首から御統玉を掛けて塗籠(ぬりごめ)のなかに御幣を立てた祭壇を設けて入り、結跏趺坐する。
両手で御統玉を弄り、石の波動を引き出して、わたくしの霊力の補助にする。
「掛まくも畏き 伊那佐の龍神の御前に白さく
遠つ神笑み給え 祓え給い浄め給え
守り給え 幸え給え――」
祝詞を唱えて心身を清浄にし、瞑想状態に入る。意識を後宮から外に広げて透視(えんみ)する。
霊(たま)は一気に空に駆け上り、辺りを見回す。そして、わたくしは瞠目した。
――何てこと……! 水神さまや龍神さまが、ひとりもいらっしゃらない……!
意識を潮満・潮干の玉に飛ばすと、空海さまが経文を上げながら一心に潮満玉の霊力を引き出されていた。確かに、わたくしも玉の波動を感じる。
――玉はちゃんと働いているけれど、水神さまがいらっしゃらないから、雨が齎されないのだわ……。
潮満・潮干の玉――如意宝珠は龍神さま由来のものである。この玉を使えば、その靈氣はすぐさま龍神に届くはずである。が、龍神さまが見当たらないので、靈氣が届かない。
――わたくしからも、龍神さまに働きかけてみよう……。
わたくしは意識の上で手に印を組み、龍神祝詞を唱える。
『高天原に坐し坐して天と地に御働きを現し給う龍王は
大宇宙根元の御祖の御使いにして一切を産み一切を育て
萬物を御支配あらせ給う王神なれば
一二三四五六七八九十の
十種の御寶を己がすがたと変じ給いて
自在自由に天界地界人界を治め給う
龍王神をなるを尊み敬いて
眞の六根一筋に御仕え申すことの由を受け引き給いて
愚かなる心の数々を戒め給いて
一切衆生の罪穢れの衣を脱ぎさらしめ給いて
萬物の病災をも立所に祓い清め給い
萬世界も御親のもとに治めしめ給へと
祈願奉ることの由をきこしめして
六根の内に念じ申す大願を成就なさしめ給へと
恐み恐み白す――』
わたくしは龍神祝詞を何度も詠む。
暫く後、都の上に微かに光を感応し、わたくしは驚愕する。
そこには、偉大なる龍神さま……八人の龍王が火の神の炎に押さえ込まれ呻いていた。
――非道(ひど)い……! 誰がこんな……!
それぞれの炎は光の糸で繋がっており、その出元を目で辿ると、空海さまの対岸に一団のなかに高僧の姿が見えた。あのお方が、守敏僧都なのだろう。確かに、守敏僧都のもとに、光は集まっている。
連日連夜に渡る御修法で疲れが見える空海さまの様に、守敏僧都はにやりとほくそ笑んでいた。
――守敏僧都が、龍神さまを押さえ込んでいるのだわ……。
わたくしは彼の法力を破らねば雨を降らせられぬという事実に、焦燥する。
その時、神泉苑から極々小さな声の真言が聞こえてきた。それは次第に大きくなり、わたくしを足元からじわじわと包んでいった。
「オン・ソラソバテイエイ・ソワカ
オン・ソラソバテイエイ・ソワカ
オン・ソラソバテイエイ・ソワカ――」
大音声の陀羅尼が、わたくしに絡みつき頭のなかに鳴り響く。
あまりの五月蝿さと頭痛にしゃがみこんだ時、なにかがわたくしを鷲掴みにした。
わたくしは悲鳴をあげ、そのまま引っ張られていく。
辛うじて目を開けると、座したままの空海さまがそこにいらっしゃった。
どういうことか、空海さまの霊体は立ち上がり、印契を組んで請雨経ではない神呪を唱えておられるように見えた。
みるみるうちに、わたくしは空海さまのもとに引き摺り下ろされる。
――空海さまが、霊駆けしていたわたくしを真言でもって呼び寄せられたのだ。
空海さまは手を伸ばされ、わたくしの腕を掴まれた。
辺りに、閃光が走った。
そのまま、わたくしは意識を失った――。
‡
「――お妃さま、お妃さま!」
誰かに呼ばれ、わたくしは目を開ける。
心配そうな和知と涙ぐんだ加悦が、わたくしを見下ろしていた。
「よかった……お妃さま、目を覚ましてくださいましたわね」
和知が安堵の吐息をはく。
何が起こったか解らないわたくしは、身体を起こそうとする。が、何故か重く、身を起こすことが出来ない。
この状態は覚えがある。巫女の修行をしていたときに霊駆けを行った後は、いつも身体がだるかった。
「……わたくし、眠っていたの?」
加悦が頷く。
「はい……お妃さま、塗籠に入られた後に急にお倒れになられて、そのまま二日間お眠りになっていらっしゃったのです……」
「そう……」
わたくしは合点がいく。
これは、疲労感だ。わたくしは霊駆けを行って、靈氣か何かを発したのだ。
不意にわたくしは思い出す。
「和知、空海さまは?! 雨はどうなったの?!」
少し呆れながらも、起き上がろうとするわたくしを助けて、和知は背を支える。
「……成就いたしましたよ。今も、雨が降っています。
都どころか、全国で雨が降り続いています。
叔父が言うには、龍王は総て封じられていたが、天竺にいる善女龍王だけが封印の手を免れていたと言っておりました。
叔父が善女龍王をお呼びしたとき、大きな雷鳴が鳴り、豪雨が降りだしたのです」
「では、善女龍王を召喚なされたのね……」
わたくしは呟くが、合点がいかなかった。
あのとき、空海さまはわたくしを呼び寄せられた。引き寄せられたわたくしはあの後意識を失い、眠っている間に雨が降りだしたのだ。
――どういうことかしら。空海さまに腕を掴まれた時、確かに発光したのよ。
そして、空海さまは、弁才天女の真言を唱えておられた……。
夢の中で、天川にて空海さまと弁才天女が会われたとき、あの方は弁才天女の陀羅尼を唱えておられた。その時と同じ神呪だから、先日のあれは弁才天女の真言に違いない。
けれど、どうしてわたくしは弁才天女の真言でもって引き寄せられたのだろう……。
謎が多すぎる。
空海さまに、このことを聞いてみたいような気がする。
が、これはわたくしの夢かもしれないので、一々に聞くことは出来ない。今まで、霊賭けしているように思っていても、実は眠っていたということが多々あった。
このことはわたくしの胸に閉まっておくのが無難なような気がした。
わたくしは何もなかったような顔をして、その日を過ごした。
その夜、わたくしが仏間にて写経を行っていると、突然廊下が騒々しくなった。何やら、外の空気がひどく殺伐としている。
「お、主上! どうか、今はお止しあそばせ!
主上は随分と御酒を過ごしていらっしゃいます!」
和知の叫び声が聞こえてくる。
何があったのかと筆を置いたとき、荒々しく襖を開け、憤怒の相も露な主上が仏間に踏み込んでいらっしゃった。後ろには、何とか止めようとしている和知がいた。
「お、主上?! どうなされたのです?!」
わたくしは慌てて立ち上がる。
不意に主上はわたくしの腕を掴み、板敷きの上に乱暴に押し倒された。
背中を打ちつけた痛みとあまりの強引さに、わたくしは息が止まりそうになる。
「そなたは、わたしより他の男がよいのか!!」
びくり、とわたくしは肩をそばだたせ、目を見開く。
わたくしが怯んだ隙に、主上はわたくしの寝衣の襟を無理やりに開かれた。過剰な力のおかげで、甲高い音を響かせて襟が破ける。
驚愕に、わたくしは抗う。
「主上?!」
「そなたは後宮での息災護摩のとき、空海を見ながら泣いていた!
今回も空海の修法が成就するよう、巫女としての術を使おうとしていた!
そなたは、空海に惚れているのか?!」
わたくしの身体から、血の気が引く。
どうして、お分かりになったのか。わたくしは後宮での護摩法のとき、空海さまを見つめ泣いていただけだった。今回も、後宮にいて巫女の真似事をしていただけだ。巫女の出で立ちをしていただけで、即主上は空海さまとわたくしを、感でもって結び付けられたのか。
しかしそれは嘘ではない。嘘ではないだけに、状況が苦しい。この状態を切り開く手が全くない。
わたくしは震える声で言い訳しようとする。
「そ、そんな……どうして、そう思われるのでしょうか。
わたくしは個人的な悩みで、後宮での御修法のとき涙しましたのに。
それに、雨乞いでのことも、雨を請う祈祷を巫女が行うのは、当然のことでございましょうに」
「嘘をつけ!!」
大喝され、わたくしは恐ろしさに震える。
「抜けぬけと、よく言うわ!
そなたは空海を見ながら、切なそうな目をしていた!
雨乞いの祈祷をするなら、空海の修法の日でなくとも、よかろう!」
わたくしは、何もいえなくなる。
確かにそうだ。偶然で、というには、余りにも符合が合いすぎる。――言い訳など、できない……。
わたくしは主上のお顔をまともに見られず、顔を背ける。
主上は無言になったわたくしに構わず、腰帯を解きわたくしを素裸にされた。露になった乳房を鷲掴みにし、肩に歯を立てられた。痛みにわたくしは眉を潜める。
俄かに、わたくしの鎖骨の上に、雫が落ちた。
何かと見ると、主上が泣いていらっしゃった。
わたくしは震撼する。この国の主である尊いお方が、ひとりの女の前で涙していらっしゃる。
「お、主上……」
主上は涙を拭われ、わたくしを抱き締められた。
「わたしは、そなたに愛されたい。ただ、愛されたいだけだ……。
なのに、どうして願いは叶わぬのだ……そなたを側に置き愛したかったのに、思うようにならぬ……。
権力でもって隔てられ、その間にそなたが遠ざかってしまった。
もう、戻れぬのか? そなたのこころは、他の男のもとに行ってしまったのか? それとも初めから……」
涙ながらに掻き口説き、主上はわたくしの胸に頬ずりされる。
即位なされて以来、主上のお越しが間遠になった。それは権力でもってわたくしが滅ぼされないようにとの、主上なりのお心遣いだったのかもしれない。
わたくしは至上の君を哀しませた罪に慄き、主上の背に腕を廻し摩る。
「わたくしは主上の後宮の者です。
ここに参るとこころに決めたときから、主上だけにお仕えしようと思っておりました。それは今も変わりませぬ」
わたくしは必死になって主上を元気付けようとする。
が、主上は首を振られる。
「そなたは、後宮に入ったからわたしを愛そうとしてくれただけだ。
それは、恋慕ではない。恋慕しているのは、わたしだけだ……」
「お、主上……」
涙を拭われると、主上は立ち上がられた。その手で、引き攣れたわたくしの衣をわたくしの上に被せられた。
「……すまぬ、見苦しいところを見せてしまった。
今宵は、緒継のもとに行っていたのだが、ひどく酔ってしまい、理性を忘れここに来たくて堪らなくなった。
邪魔をしたな」
「主上!」
わたくしは主上の衣の裾を掴む。
主上はわたくしを見下ろし、悲しげに微笑まれた。
「無理をせずともよい。
そなたが自分を殺して抱かれなくても、よいのだ」
嘆きの色の濃い主上の面に、わたくしは居ても立ってもいられなくなった。
すぐさま立ち上がり、主上の唇に接吻する。主上の首に腕を絡ませ、身体を摺り寄せた。
「ご無理をなさっているのは、主上です。
わたくしをお抱きくださいませ。
わたくしは主上に抱かれるのを、嫌とは思っておりませぬ。むしろ、望んでおります。
――抱いてくださいませ!」
無理強いに主上の身体を引き摺り倒し、わたくしは上から被さった。
救いがないのは、主上も同じなのだ。ならば、わたくしが主上を慰めて差し上げたい。
自ら主上を胎内に招き、わたくしは乱れる。主上に接吻し、抱き付く。そうすることで、わたくしの想いを解っていただきたかった。
「わたくしは主上をお慰めするため、ここにいるのです。
今の主上は、とても孤独です。
だから、わたくしをお抱きくださいませ。
わたくしは主上に抱かれることによって、和みと癒しを齎すことに喜びを感じているのです。
わたくしは、きっとそのために生まれたのです……!」
空海さまに恋焦がれる想いとはまた違う。が、確かにわたくしは主上を愛している。主上を包み込んで差し上げたい。――主上を、愛したい。
いつしか、主上もわたくしの下で交歓に応じてくださっていた。わたくしを抱き締め、口づけなされていた。
「厳子…厳子……! 愛している……!」
涙ながらに、主上はわたくしを掻き抱き、何度も想いを遂げられた。
わたくし達は夜が明けるまで、御仏が坐す聖なる空間で愛を交わした。
如意輪さまが愛おしむように、労わるように絡みあうわたくし達を見守ってくださっていた――。
鮮やかな紅色に色付く椿が、重そうに揺れている。摘んだ椿の花を籠に入れながら、今にも雪が降りそうな曇天を見上げ、わたくしは吐息した。
きりきりと染み入る寒さに、肩に掛けた領布で首筋まで覆う。
「美しい花でございますね。
これならば、如意輪観音さまもお喜び下さいましょう」
加悦が花籠を受け取りつつ言う。
わたくしは頷き、朝の勤行の支度のため殿舎に入った。
女御として入内した正子さまは、昨年末に男御子さま――恒貞親王(つねさだしんのう)さまを出産なされた。
これによって、正子さまが皇后になるのは確実となり、前にも増して主上の寵愛が深くなっている。
朝廷では、恒貞親王さまが将来皇太子になられると確実視されている。
第一子であられる恒世親王さまのお立場は微妙なものになった。お母君である高志内親王さまの後見・藤原式家は薬子の変の呷りを受けて力を失っている。
恒貞親王さまの後見には、祖母君・嘉智子さまの後ろ盾である藤原冬嗣殿がついている。飛ぶ鳥を落とす勢いの冬嗣殿は、新たな駒を手に入れられたことになる。
次の北家の長になるだろう良房殿は先帝の皇女・潔姫さまを娶とり、冬嗣殿自身の息女である順子姫は皇太子・正良親王さまに入内されている。
冬嗣殿には、順子さまからの男御子誕生への希望と、その御子を即位させることにより、外戚として朝廷を牛耳ろうという算段があるはずだ。
確たる後見を持たぬ恒世さまの前途に、主上は絶大な不安を抱いていらっしゃるだろう。時流は、皮肉な運命を匂わせている。
わたくしは後宮にありながら、世の流れとは別の意識で生きている。主上がわたくしを召されるのは、せいぜい二ヵ月に一度くらいの頻度で、妃としては軽い扱いであるが、わたくしはそれでよかった。
間遠であるが、主上のおこころは手に取るように解る。主上はわたくしに負担を掛けぬために、わざとわたくしを閨に召されぬのだ。
わたくしに苦しみを負わせぬように、とのお気持ちには、少なからず哀しみが込み上げるが、微妙にすれ違ってしまった互いのこころを思うと、どうしようもないのかもしれない。
わたくしは静かなこころ持ちで、宮中にありながら御仏にお仕えしている。今のわたくしは、頂法寺に居た頃とまったく変わらず、澄み切って波ひとつない。
それは、政争の圏外に身を置いていることもあるかもしれないが、夜、寝付く頃に誰かから送られてくる癒しの波動のお陰かもしれなかった。
ある深夜、後宮の歪んだ空気、嫉みや憎悪の感情に干渉され寝付きが悪くなって、衾のなかでまんじりとしていたわたくしを、暖かく力強い、優しい気配が包み込んだのだ。
以来、わたくしは寝付きがよくなり、朝までぐっすり眠れるようになった。
それだけではない、朝起きても、波動の残滓が身体に染み付いており、鋭気となってわたくしを元気づけている。
目下の悩みもなく、わたくしは平穏無事に過ごしていた。
後宮にも、新たな動きがあった。
主上が即位されてから、続々と豪族の姫が入宮されている。幾人かは、すでに御子をお生みでいらっしゃる。正子さま以外、主上は女人方を万遍無く寵され、偏りがないように工夫されていた。
わたくしは禁中の姫君たちのお相手を、よくさせていただいている。行儀作法を教えて差し上げたり、香や花を差し入れしている。
以前はいざ知らず、近ごろは主上の寵が薄いわたくしであるので、お妃方も安心してわたくしに接していらした。
わたくしが特にこころに掛けている女人は小野氏の姫君で、更衣として入内された比子(ならぶこ)殿である。更衣は大きな局を区切って町と呼んで住まうので、比子殿は小野町殿と愛称されていた。
小野町殿は未だ幼気なところがある御方で、少し頼りな気な風情があられる。そういうところが、放っておけない気分にさせる。
ある日、わたくしは見事な桜を見に小野町殿をお誘いした。
「後宮には慣れましたか?」
わたくしの問いに、小野町殿はもじもじしながら応えられる。
「はい……主上も、わたくしを気遣って、優しく労って下さいます」
「そうですか。それはよろしゅうございました」
わたくしは微笑み言う。
主上は小野町殿をよく枕席に召されている。主上ははかなげな小野町殿に、男としてこころ惹かれる部分があられるのかもしれない。
わたくしはそう思ったが、小野町殿は思わぬことを仰られた。
「主上はわたくしを召されるとき、いつも真井御前さまのことを尋ねられます。
真井御前さまを偲ぶようにわたくしをお呼びになられるのに、どうして主上はもっと真井御前さまを召されないのでしょうか」
わたくしはどきりとし、口をつぐんでしまった。
主上は小野町殿との夜に、わたくしを探られているのだ。
となれば、罪深いとしかいいようがない。小野町殿からすれば、折角寵愛を受けられているというのに、わたくしという影が邪魔をして欝陶しい思いをなされているだろう。
それなのに、わたくしは小野町殿に付き纏って……。わたくしは居たたまれなくなった。
黙り込んでしまったわたくしに、小野町殿は笑みつつ、わたくしの手を取られた。
「何かご事情がおありなのだと思います。
わたくしは、それで構わぬのです。だって、主上も真井御前さまも大好きですもの」
「小野町殿……」
わたくしは胸が熱くなる。いとけなく可愛らしい御方と思っていたが、柔和で優しい御方でもあられるのだ。だから、わたくしは小野町殿が好きなのである。
桜の花びらが、春風に乗ってふわりと舞い上がる。
砂埃が吹き付けてきたので袖で顔を庇ったとき、小野町殿の領布が腕から外れ、羽衣のように風に飛ばされた。
「あっ……!」
わたくし達は慌てて追い掛ける。が、領布は女の背では届かない桜の枝に引っ掛かった。
「ど、どうしましょう……」
小野町殿が泣き声を零される。
わたくしは身を翻した。
「お待ちください、今、男手を……!」
そういって走りだしかけたとき、
「その必要はありませんよ、わたしが取りましょう」
と優美な男の声が回廊からした。
わたくし達は、声の主を見る。
「!…………」
声の主は――藤原良房殿だった。
わたくしは戦慄し、小野町殿はわたくしの背後に隠れられる。
洗練された物腰で、良房殿は領布とともに桜の枝を二枝折られる。一際美しい一枝をわたくしに、もう一枝を領布と一緒に、
「久しぶりですね、三年前に伏見の稲荷社でお会いしたきりだ」
と一言つけて、小野町殿に手渡された。
わたくしは振り向いて小野町殿を見る。小野町殿は滲むように赤面していた。その様は薄紅の八重桜が可憐に綻んだ姿を思わせた。
「は、はい……っ」
わたくしは小野町殿の恥じらいに、違和感を覚える。小野町殿は主上の妃である。が、今の小野町殿の瞳を熱く潤ませた面は……乙女が殿方に恋うるに似ていた。
良房殿は小野町殿に微笑み、わたくしに向き直る。
「どうして、あなたは後宮に?」
わたくしは警戒して言う。
そんなわたくしに、良房殿は妖艶に笑った。彼の整った容貌が、笑みを冷たく見せる。
「これは異なことを。
わたしは蔵人(くろうど)、主上に近侍する者として、後宮などいくらでも自由に入れる立場にあるのですよ、真井御前」
良房殿の不敵な物言いに、わたくしはぞっとする。彼は己の言葉で人が一喜一憂するのが楽しいのだ。
思わず桜の枝を強く握り締めたわたくしに、良房殿は心底楽しいといった様子で口を開いた。
「桜に罪はありますまい。
わたしが憎いのはわかりますが、そう強く握り締めては、桜が可哀相だ。
折角だから、あなたがたったひとつの拠り所にしている御仏への供物にしていただきたい」
そういって、良房殿は身を翻して回廊に戻っていった。
大嵐に吹き荒らされたあとのような静寂を噛み締めていると、うしろから小野町殿が手を引かれた。
後ろを見ると、小野町殿は哀しげな目で、わたくしをまっすぐに見られる。
「真井御前さまは、あの方がお嫌いなのですか……?」
わたくしは目を見開き、小野町殿の憂いを帯びた顔を凝視する。すると、小野町殿は怯えたように肩を竦められた。
「あの方……良房さまは、稲荷社でならず者に襲われかけたわたくしを助けてくださいました。
兄もあの方を忘れよと言います。が、わたくしは決して忘れられませぬ」
「小野町殿……」
目尻に涙を溜め告げる小野町殿に、わたくしは恋する女子を見る。
良房殿はこころの奥底が見えぬ恐ろしい方である。小野町殿の兄君もそれを察しているから、妹御の恋路を反対なされたのだろう。
が、女子にはそれは関係ないことだ。相手がどんな非道な男でも恋うることを止められない。危険を冒してでも、恋の炎に飛び込まずにはいられない。周りがどんなに反対しても、耳を貸しはしない。
わたくしはため息を吐き、小野町殿の手を握った。
「……わたくしには、小野町殿に何かを言う資格はありません。
けれど、これだけは言わせてください。
……決して、早まった真似だけはして下さいますな……」
真摯に告げるわたくしに、戸惑いながら小野町殿は頷かれた。
次の年の五月、数少ない者に見守られて、恒世親王さまがお亡くなりになられた。
主上にとって、恒世親王さまは誰よりも愛しい御子であった。
ゆえに、主上は深い悲嘆のなかに沈まれ、日々泣き暮し朝政をお執りになれなくなった。
御位にお即きになってから地震や旱魃、疫病の蔓延など、主上にはお気がやすまることはなかった。
古来から天変地異や不作、疱の流行は天子の徳がないから起こるとされている。そのことも、主上には重圧であっただろう。
すっかり意気消沈し、主上から覇気が消えてしまった。
同年八月、藤原北家の礎を築いた藤原冬嗣どのが卒された。
いくら蔵人であるとはいえ、わたくしより二歳下の良房殿は若輩である。先帝の姫の――未来の主上の妹の婿であるので、立身出世に不安はないだろう。その上、皇太子妃・順子さまは現在御懐妊中である。
が、どんなに良房殿に善い条件が揃っていても、きっとこころ細くなっておられるはずだ。
冬嗣殿の死で、少しは嘉智子さまや良房殿の力が弱るかもしれない。
そして師走の晦日、様々な要因からか、ついに主上はお倒れになり、病の床にお着きになった。
わたくしの力の源である御統玉を握り締め、一心に波動を集め天に祈る。御仏の前にあっては、精神を集中して如意輪さまの真言を唱える。
――主上、どうかご無事で……!
わたくしは祈りと癒しの靈氣を後宮からお送りすることしかできなかった。