第二章 幽愁の椒庭
(1)
弘仁十四年(823年)――――。
この年はわたくしの周りが大きく動く一年であった。
そして、この年より、わたくしは苦境に立たされていくのである。
戸板から隙間風が吹き込み、凍てつく寒さが増す正月のある夜。
わたくしは遅くなるが必ず来るという皇太弟さまのお言葉のため、和知と加悦を話し相手に時を過ごしていた。
「主上は空海さまに、建築途中の東寺を下賜なされるそうね」
火桶のなかに炭を注ぎ足す和知に、わたくしは話を振る。
「そう言っておりましたわ。
ですが、東寺はなかなか工事が捗らず二十九年も放置されていたもの。お手上げだった物件を押し付けられたと見たほうが、わたくしはいいと思いますが。
まったく、ひどい話ですわね」
相変わらず歯に衣着せぬ和知の物言いに、わたくしは窘める。
「もう、口が過ぎるわよ、和知」
「はいはい、解っております。が、人払いをしておりますので」
そう言い火桶をわたくしの側に据える彼女に、わたくしは苦笑いする。
先年空海さまは南都・東大寺に灌頂道場を造られた。平城上皇さまがそこで灌頂を受けて、空海さまのお弟子になられたりと、着々と栄進なさっておられる。
東寺の下賜に関しては色々な見方はある。
が、東寺を賜ったことは、洛外にある高雄山寺以外、都に真言道場を持っていらっしゃらない空海さまにとっては、いいことに違いない。高野山の伽藍の建築も進み、空海さまの意気揚々とした姿を想像できる。
わたくしが入内して五年、空海さまとは遠く隔たれてしまった。二年前に一度奇しき夢を見たが、あれ以来空海さまに纏わる夢を見ていない。そのことに寂しさと切なさを感じるが、傍らに皇太弟さまがいらっしゃる以上、仕方のないことだった。
小さく開けた窓の外を見ると、寒いはずで、雪が深々と降っていた。都はなかなか雪の降らぬ場所なので、わたくしは見入ってしまう。
わたくしが育った丹後は雪深い場所で、雪など珍しくなかった。斎宮での修行時代、雪の降る中で滝行を行ったこともあった。
が、今は都の寒さから隔絶された宮中のなか。丹後の寒さが懐かしく、愛しい。
わたくしが一身に雪を見ていると、女房が皇太弟さまの来訪を告げに来た。
上座を空け、わたくしは下に座る。手を付いてお待ちしていると、少し顔に赤みが見受けられる皇太弟さまが入ってこられた。御酒を召されていたのかと思ったが、少し様子が違い、目元や口元に緊張があった。
「皇太弟さま……? どうなされたのですか」
和知と加悦が御酒と肴の支度をしに下がっている間、わたくしは皇太弟さまに問うてみる。
反射的に皇太弟さまはお顔を上げられ、すぐに下げられた。
とても言いにくそうにしておられるが、加悦が御酒を杯に汲む頃、観念されたのか口を開かれた。
「……兄上が、譲位なされる……」
わたくし達一同、驚きを顕にする。
「では、皇太弟さまはご即位なさるということですね」
「あぁ……四月に即位の礼が行われる」
「おめでとうございます」
わたくしは賀意を述べるが、皇太弟さまのお顔は何故か冴えず、わたくしから目を反らしたままでいらっしゃる。
何かあるのは確かだ。わたくしは皇太弟さまに問いかける。
「他に何かございますのでしょうか」
皇太弟さまはわたくしをちらり、と見、歎息を大きく吐かれる。
「……次の皇太子は、正良だ。
兄上と皇后は初めに我が子・恒世(つねよ)を皇太子にと仰ってくださった。が、本心は両人とも、ご自身の子を帝位に即けたいだろう。
わたしも、恒世を皇太子の位に即けたくはない。父上が位に即かれてから今まで、主上が崩御か譲位したあと、皇太子がそのまま即位できた例がない。大概、廃太子の憂き目にあっている。
もし恒世が皇太子になったとしても、無事に即位にまで漕ぎ着けるか疑問だ。最悪の場合、廃太子のあと謀反人として世に出られぬようになるかもしれぬ」
亡き高志内親王さまとの長子であられる恒世親王さまは、藤原氏などの有力な後援者がいらっしゃらないので、不安定な御立場であられる。皇太弟さまは、そこが不安でたまらないのだろう。
「兄上は気を使われたのか、正良の次こそ恒世を位に即けると約束された。そして、正良の妹である正子姫をわたしに下さるとおっしゃった」
「そうですか……中々難しいことでございますね。
ですが、正子さまが御入内なされることは、よろしゅうございました。正子さまが、きっと皇后になってくださいましょう。」
わたくしは安堵し、素直にそう言う。
皇太弟さまには皇族のお妃がいらっしゃらない。ご即位の暁にはどうなることかと、わたくしも案じていた。
だから、主上の内親王であられる正子さまが皇后になられれば、誰を后にするのか朝廷で争わなくてもよくなる。予め后を決めることによって、豪族の、己の娘を皇后にしようとしう野心を封じることが出来る。
が、皇太弟さまはこの事態を安泰だと思っていらっしゃらないようだ。
突然、わたくしの身体を抱きしめ、皇太弟さまはおっしゃる。
「正子姫は皇后・嘉智子の娘だ。
皇后は野心も多く、裏には藤原氏がいる。
藤原氏はどんな手でも使ってくるので、そなたの身が危うくなるかもしれぬ。
そなたに、逢い難くなるかもしれぬ」
わたくしは目を見開く。
「まさか。わたくしは一介の妃にしか過ぎません。
わたくし如きが、皇后さまと競うなど、ありえませんわ」
皇太弟さまは頭を振られる。
「そなたはそう思うかもしれぬが、藤原氏にはそのような理、通じぬ。
文武朝と聖武朝に妃が嬪に格下げした挙句、彼女たちが後宮から退出するよう仕向けたのは、藤原氏だ。
お祖父さま(光仁天皇)の皇后・井上内親王さま(聖武天皇の娘)を廃后に追い込んだのは父上だが、背後に藤原氏がいたのは確実だ。崇道天皇を廃太子にした事件の糸を引いていたのも、然り、なのだ」
「皇太弟さま……」
わたくしは皇太弟さまの追い詰められた面持ちに、言葉も出なくなる。
ずっと浄所に生き、政争渦巻く宮廷の内情に触れてこなかったわたくしは、帝の妃になるということの重い意味を、正確に理解していなかったのだ。
己が権力を握るためには、人を貶め、血を流すことも辞さない人々の存在に、わたくしは悪寒した。
が、何を思っても詮無いこと。わたくしは既に、毒気の這う後宮の一点に組み込まれているのだ。
このときのわたくしは為す術もなく、己に出来ること――皇太弟さまのお苦しみを除いて差し上げることしか出来なかった。
‡
四月二十七日、皇太弟さまは即位なされた(淳和天皇)。
先の帝は左京二条の冷然院を後院(上皇御所)とし、皇太后・嘉智子さまと入られた。が、上皇さまは今でも大きな権力を占められ、隠然と存在感を示されている。
わたくしは女御の位に辞せられ、東宮から皇居に移った。以前とは何一つ変わることなく、わたくしは新たな主上にお仕えしている。
ある日、新たに女房となる娘が、わたくしのもとに目通りしてきた。この者は新参ではなく、他所に出仕していたのを配置換えにてわたくしの房に入ることになったという。
「藤野と申します。ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします」
控え目な物腰の娘に、わたくしは頷く。
以来、藤野は和知にあれこれ五月蝿く言われながら、女房として仕えてくれている。
位に即かれて間もない主上は、新たに入ったお妃方を訪わねばならぬため、ここ数週間わたくしのもとに来られない。
独り寝を侘しいと思わぬわたくしは、頂法寺に入っていた頃と同じように、寝ずに読経をしたり、写経に勤しんだりと心静かな時間を過ごしていた。
新たなお妃方ともお会いし、わたくしは充実した日々を送っている。お妃方はまだ幼い箱入り娘という風情の方が多く、長きに渡り主上にお仕えしているわたくしは、積極的にお妃方の面倒を見て差し上げていた。
「敵であるお妃方のお相手を甲斐甲斐しくなさるなんて、うちのお妃さまは変わった方ですわね〜〜」
面白そうに笑う和知に、お妃のお一人に花を差し上げようと支度しているわたくしは肩を竦めた。
それでも、わたくしは自分らしい日常を送ることが嬉しくてならないのだ。
主上を疎んでいるわけではない、わたくしなりに真摯にお仕えしている。が、十代の頃のように心静かに勤行したい気持ちを、ずっと持ち続けていたのだから。
そう応えるわたくしに、呆れながらも和知は笑った。
夏が過ぎ秋になると、後宮のなかで様々な噂が聞こえてくるようになった。
まず、典侍(ないしのすけ)や御匣殿(みくしげどの)が、主上の御子を身籠られたという話が、確証をもって伝えられた。
そして、皇后さまとなられる正子さまが、来年の正月に入内なされるとも耳に入った。
「そなた、何も言わぬのか」
久方ぶりに、清涼殿(せいりょうでん)の夜の御殿(おとど)にて枕席に侍るわたくしに、主上がそうおっしゃる。
「まぁ、何故ですの?」
こころを揺らされず言うわたくしに、主上は哀しみを篭めた目で見つめられ、手を握られる。
「わたしは、他の女を孕ませた。……そなたに子を授けられなんだのに。
そして、正子姫の入内の日取りも決まった」
「よろしゅうございました」
そういうわたくしを掻き抱かれ、主上は苦しげに告げられた。
「そなたは、嫉妬しないのか? わたしが他の女と何をしても、どうでもいいのか?!」
わたくしは、はっとする。
主上の切羽詰った眼差しに、何もいえないのがこころに痛い。
そう……わたくしは、一度も嫉妬していなかった。主上が誰を愛されても、何も苦しまなかった。
――わたくしは、薄情なのだろうか。
わたくしは自問するが、答えがでない。愛していないわけではない。が、主上が誰を愛されても、痛む心がない……。
驚きを露にし、深く考え込んでしまったわたくしに何かを見いだされたのか、ややあって主上は自嘲的に笑われた。
「……そうだったな。わたしがそなたを一方的に望んだのだ。そなたは仏門に入ることだけを望んでいた。
それでも、そなたはわたしのもと来てくれ、わたしの愛に応えてくれたのだ。
それ以上を望むのは、我儘なことなのだろう」
わたくしは慌てて首を振る。
「いいえ、ちが……」
弁解しようとするわたくしを、主上が遮られる。
「よいのだ。わたしが多くを望みすぎたのだ。
愛してくれなくてもいい。ただ、ここにいて、わたしを拒まないでほしい」
「主上っ……」
わたくしは尚も、言葉を探そうとする。が、何も見つからない。
主上は当惑するわたくしを床に横たえ、腰帯を解いて静かに閨の行いに入られる。
集中できないこころからか、いつものように惑溺できない。女子の身体の仕組みにより受け入れる準備だけされたわたくしのなかに、主上は入り込まれた。
知らず知らずのうちに、涙が溢れてくる。それに気付かれた主上が、蠢きながらわたくしの涙を口のなかに吸い取られる。
「……ごめん…なさ…い。ごめんなさいっ……」
わたくしは懺悔しながら、主上に縋った。
何もできない。わたくしはこの身は捧げられても、主上が一番欲していらっしゃるものを差し上げられないのだ。
悲しい。が、わたくしは悲しむ資格がない。今一番悲しいのは、主上だから。
主上はただ頷かれ、わたくしを力強く抱き締められた。
悲しみを紛らわそうと、わたくしは主上の額やこめかみに何度も接吻する。身体を開き、主上を自ら飲み込み貪る。それしか、わたくしにできることはない。
口づけしあいながら、わたくしたちは果てる。悲しみと切なさを味わい、わたくしは主上の腕のなかで泣いた。
「……そなたは、優しいな」
わたくしは必死で首を振る。恋していないのに抱かれるのは優しさだろうか。それは――同情ではないだろうか。
「いいえっ、違いま……」
そう言おうとしたわたくしの口を、主上は唇で塞がれる。艶やかな口吸いのあと、主上は優しくわたくしを抱き締められた。
「そなたは女神の、如意輪観音菩薩の化身だ。情け深く、どんな男でも手を差し伸べ、惜しみなく身体を開くだろう。
そんなそなただから、恋しく、焦がれてしまう。
誰にも渡したくないと、籠のなかに閉じ込めてしまいたくなる。
そなたを強引に奪ったこころの裏に、そのような気持ちがあったのは否定できぬ」
「主上……」
主上はわたくしの項に吸い付き、胸乳のうえに手を置かれる。主上の身体に、またも愛欲が戻っているようだ。
深められていく愛撫に、今度こそわたくしの身体にも火が点き、身悶えてしまう。
「わたしの愛と同じ質でなくても、そなたがわたしを愛してくれているのは知っている。
今のままでよい。だから……いにしえの妃のように、わたしから離れて、どこかにいかないでくれ」
主上の、真剣な願い。
が、そのときのわたくしは官能に飲まれ、おぼろげながらにしか聞いていなかった。
結果的に、後々わたくしは主上に大きな悲しみを味わせてしまうことになる。
が、このときのわたくしは主上の愛に酔い意識を途切れさせてしまった――。
「オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ
オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ
オン・ハンドマ・シンダ・マニ・ジンバ・ラ・ソワカ……」
人々が寝静まった真夜中、わたくしはひとり仏間の蝋燭を点け、如意輪さまの真言を唱えていた。
そうすれば、少しはこころが静まると思ったからだ。
が、功は奏さず、こころのなかの苦しみは留まったままだ。
わたくしは溜息を吐き、蜜蝋の明かりに浮かぶ如意輪さまの像を見つめる。
――如意輪さま、こういうときはどうすればよいのですか。
わたくしは、主上のおこころにお応えしきれていないのです……。
わたくしは後宮に上がるのも、如意輪さまにお仕えするための苦行だと思っていた。だから、どんなことでも受け止める覚悟でいた。
が、恋慕の情だけはどうにもならない。自分で恋慕を抱くように仕向けることは出来ないからだ。神の化身となって、御仏の化身となって殿方を愛することは出来る。それは、女としての恋慕とは違う。
――主上が求めていらっしゃる愛とわたくしが差し上げられる愛は、根本的に違うのだ。
主上は後宮での息継ぎ場を求めてわたくしのもとに来られていたのではなく、わたくしという女を殿御として愛するため通われていたのだ……。
故に、わたくしは主上が求めていらっしゃるものを差し上げられない。わたくしは主上に恋慕していない。わたくしは、他の殿方を、恋慕している……。
苦しい、こころが苦しくてたまらない。
が、このことを、芯からお慕いしている方である空海さまに相談することはできない。
あの方は穢れない清僧でいらっしゃる。恋慕などという浅ましい感情など、お話できない。
そして、話しているうちに、わたくしのこころのうちが漏れてしまう怖れがある。今のこころ弱いわたくしは、あの方に泣いて縋ってしまいそうだ。そんなことをすれば、あの方を煩わしてしまう。
答えの出ない苦悩を抱くわたくしは、寝れぬ夜を過ごしている。
幸い、主上は近頃他の女人方を寝所に召されている。わたくしは主上に苦しげな面を晒さずにすんでいる。
今宵も、主上は他の女人の肌を愛でられたのだろう。が、わたくしのこころに嫉妬は起きない。寂しさを感じない。
――わたくしは、主上の後宮に相応しくない女。ただそこにいて抱かれるだけの女。主上のおこころを弄び、苦しみしか与えない女……。
後宮から、消えてしまいたい……。わたくしは、不意にそう思った。
今のわたくしは、何の役にも立たない女である。人に苦しみしか与えない女である。
――頂法寺に帰りたい。否、都から遠く離れた場所に行きたい!
何もかも忘れて、勤行三昧の生活に戻りたい!
ただただ、そう思う。
いっその事出家して、女身を捨ててしまいたい。そうすれば、男女の煩悶から逃れられる。
が、それは儚い夢でしかない。主上から後宮を永久退出する許可を得ねば、叶わぬことである。
――結局、いまのわたくしは、そのままの身で留まるしかない。
わたくしは手にした数珠を弄り、今一度深い瞑想状態に入っていく。
出家できぬのなら、この身のままでこの世を捨てたと思おう。我意を捨て、透明なこころに戻ろう。そうすれば、何も感じることなく主上に抱かれることが出来るかもしれない。
空海さまを忘れ、いつか主上を恋慕することが出来るかもしれない……。
わたくしは、涙が溢れていることに気付かなかった。
‡
「……皇后院で、空海さまが息災護摩の御修法をなされるのですって?」
わたくしは漱いだ顔を手ぬぐいで拭き、それを和知に手渡した。
いつものごとく寝不足で、隈の出来たわたくしの顔が、盥の水面に映っている。わたくしは気付かれぬよう細く嘆息する。
「えぇ、主上の勅命により、三日三晩の間お妃さま方の息災を祈るため、後宮において護摩壇を組み祈祷を行うようです」
そう、とわたくしは呟き、思考のなかに入っていく。
息災護摩法とは、心身の息災を求め、その身に依る鬼神等の悪しきものを除き、聡明長寿を願い解脱を図るのである。
近頃のわたくしは気鬱のごとき状態で、なにかが憑いているようにも感じられる。この護摩を機会に、苦しみから脱したいものだ。
わたくしが考え込んでいる間に、藤野は順々にわたくしの装いを整えていく。結髪し終わるとわたくしの顔に白粉を叩き、紅などを差した。
抜かりないもので、藤野はわたくしのくすんだ顔色を隠すため、一際鮮やかに頬紅を差した。
「……あら、いつの間にかわたくしの好む化粧の仕方を覚えたわね。藤野」
「はい、ここに入って四ヶ月になりますが、やっと覚えられました」
わたくしははにかむ藤野に微笑みかける。
何事にも控え目な藤野は、ともすれば存在感が隠れてしまいそうな女人だった。彼女は足音を発てず歩く癖があり、立ち居振る舞いが静か過ぎる。気配が消えているときもあり、気がつけばわたくしの背後にいるときもあった。
身支度を終え、わたくしは朝のお勤めに入る。
如意輪さまの厨子に香華を奉げ、和知と加悦、藤野とともに読経をあげる。天上に上がっていく香木の香りが、鼻腔に入って身に染みていく。こころに優しさが齎される。
わたくしにとって、朝の勤行は気持ちを切り替えるために必要不可欠なものだ。こころが苦しいときでも、如意輪さまに額づき祈ると、静穏を取り戻せた。
後宮での御修法の日。
濃く燃える紅葉が風に乗ってはらはらと散り、言いようのない雅趣を空間に齎している。
わたくしは御簾の奥深くの円座に座り、須弥壇に安置された本尊である不動明王さまと護摩壇を見入る。
他のお妃方も揃って席についている。
尚蔵(しょうぞう。尚侍とともに女官としての最高位)である緒継殿は職務の手を止めて参じ、その隣には原姫殿もいらっしゃる。
わたくしの隣には更衣である潔子殿や、女御になられた橘氏子(たちばなのうじこ)殿が座っておられる。
御懐妊中であられる典侍・大中臣安子(おおなかとみのやすこ)殿や御匣殿・大野鷹子(おおののたかこ)殿もそれぞれのお席に座っておられた。
上座三座だけが空席で、一座は主上だが、あとの二座は誰が来られるのか解らない。
中央を見ると、空海さまのお弟子だろうか、北側に向けて据えられた護摩檀上の円形炉の側に供物を用意している。いよいよ、護摩祈願の刻限が近づいてきたのだ。
ざわざわっ……。
辺りが騒々しくなってきた。
何事かと見ると、主上に手を取られ、小柄で可愛らしい女人が回廊を渡ってこられる。その後ろには、上品な姿形の女人がいらっしゃる。
潔子殿が耳元で囁かれた。
「橘太后(たちばなのおおきさき)さまと、正子内親王さまですわ」
はっとして、わたくしは入ってこられたお二方を見る。
女の盛りを匂わす、華やかな出で立ちの美しいお方が、きっと嘉智子さまだ。
もう一方の、未だ咲ききらぬ花のごとく若やいだ方が、正子内親王さまに違いない。
が、ふと違和感を感じる。
と、わたくしの背後に控えていた和知が、小さく声を上げた。
「お、お妃さまと化粧と衣の趣味が同じ……」
和知に言われ、わたくしも改めて正子さまを見る。
正子さまは化粧の色味を抑えており、柔らかな印象を与える淡色の装いをなさっておられた。黒目がちの瞳を際立たせるように、筆を使って瞼に薄い緑色の色素を入れておられる。
この化粧の仕方は、この後宮ではわたくししかしていない。
楚々として落ち着いた仕種、衣の裾の捌き方も、わたくしの仕方とよく似ている。
――これは……。
まさか、それは穿ち過ぎだろう。
正子さまが、わたくしの立ち居振る舞い、装いを真似ていらっしゃるなんて。そんなことを思うのは失礼だ。
和知も同じことを思っているようで、顔色を変えて何かを言おうとした。
わたくしは慌てて和知の袖を掴む。目で「駄目!」、と訴える。
「ですが……!」と、唇だけで和知がわたくしに言う。わたくしは首を振って、黙るよう語りかけた。
運よく、わたくし達の遣り取りは誰にも見られていない。隣にいる潔子殿や氏子殿は、主上や正子さまに気を取られている。
主上は淑やかで美しい正子さまに目を奪われており、正子さまは一身に主上に身を預けていらっしゃる。
そんなお二人を、嘉智子さまは微笑ましくご覧になり、ちらり、とわたくしの方を眺められた。その眼差しは……気のせいか、鋭かった。
わたくしは、ぞっとする。
――まさか……嘉智子さまは、わたくしを意識しておられる?
わたくしが狼狽するのを見て、嘉智子さまはにっこり微笑まれる。そして後ろに控えておられる端正な若い公達にひそひそと囁かれる。
苛立たしげに、小さく和知が言い捨てた。
「藤原良房(ふじわらのよしふさ)殿ですわ。
あの方、主上が登極なさる前から、お妃さまの女房のもとに幾度か通っているのです。
どうしてだろうと思っていたら、こういうことだったのですね……!
嘉智子太后と良房殿はぐるですわ! 前々から、嘉智子太后と良房殿はお妃さまを敵視しているのでしょう!」
「和知……」
わたくしは和知を窘めながら、居辛さに慄く。
藤原良房殿は正二位右大臣・藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)殿のご子息で、先の帝の姫・潔(きよ)姫殿を娶っておられる。
薬子の変のときに暗躍した冬嗣殿は現在の実力者。良房殿が嘉智子さまのもとについているということは、その背後には冬嗣殿もいるということである。
――恐ろしい方々が、わたくしを敵視しておられる。
なんと居辛いことか……。
恐らく、誰かにわたくしの姿形・立ち居振る舞いを盗ませ、正子さまに覚えさせたのだ。そうすることで、嘉智子さま達は正子さまに主上の好みを擬(なぞら)えさせ、主上のこころを鷲掴みにしようとしている。
それを知らない主上は、為す術もなく冬嗣殿達の目論見に嵌(はま)り、正子さまを愛でられるだろう。今、正子さまを見る主上の目線が、それを物語っている。
後宮を牛耳ろうとする人々の世知がましさに、わたくしは何もかも虚しくなった。
――あぁ、わたくしは居たくてここに居るわけではないのに。
わたくしが邪魔なら、いつでも後宮を退去するのに……。
本当に、後宮を去りたい。ここ幾日かそればかりを願っていたが、今、それがいや増す。
思わず俯きがちになったとき、ざわり、と声が立ち、和知がわたくしの肩を突いた。
わたくしは顔を上げ、目を見開く。
――空海さま……。
白い衣と袈裟を着た空海さまが、入場なされる。
わたくしがお会いしたときの空海さまは四十五歳だった。今は五十におなりになって、老いを深められたように見受けられる。が、精悍な眼差しは変わらず、却って若々しく見える。
空海さまは妃たちが居る御簾に向かって一礼し、壇に上がられる。炉のなかに入れられた壇木に火を点け、真言を唱えながら乳木や花、塗香に蘇油、御飯や五穀などの供物をくべておられる。
「オン サラバ タタギャタ ハンナ マンナノウ キャロミ
オン サラバ タタギャタ ハンナ マンナノウ キャロミ
オン サラバ タタギャタ ハンナ マンナノウ キャロミ……」
濛々と燃える火炎の熱に、空海さまの額から汗が吹き出る。
炎とともに空海さまの気迫も膨れ上がる。
あの方の目に鬼気迫る光が宿る。
これも、後宮に居るもの総ての息災を願うため。
――わたくしも、こころ弱くなっていてはいけない。
居られる限り、後宮に居なければ、わたくしを敵視する者の思う壺になる……。
わたくしは知らず知らずのうちに泣いていた。
悲しみが涙となって次から次へと流れていく。
わたくしは涙を流れるままに任せ、炎を眺め続けた。
空海さまの護摩修法は、お妃方が寝入った後も続いた。
とはいえ、わたくしは眠ることが出来ず、主上も来られないので、空海さまが下さった如意輪さまに祈り続ける。
いつしかわたくしも、空海さまが唱えておられた普礼真言(ふらいしんごん)を唱えていた。
「オン サラバ タタギャタ ハンナ マンナノウ キャロミ
オン サラバ タタギャタ ハンナ マンナノウ キャロミ
オン サラバ タタギャタ ハンナ マンナノウ キャロミ……」
わたくしの意識は神呪のなかに入り込んでいき、深い瞑想状態になる。
現在も護摩の炎は赤々と燃えているはずである。そのすぐ側で、空海さまが不眠不休で護摩を燃やし続けている。
わたくしの霊は護摩の煙に同化し、天高く舞い上がっていく。
――我が苦悩よ、護摩と一緒に燃えてしまうがいい。
我が魂を清め、浄化すればよい……。
わたくしは一心に数珠を繰り、真言を暗誦する。
この夜、わたくしは知らぬ間に如意輪さまの厨子の前で眠り込んでいた。
意識の底で、確かに空海さまの波動の籠もった呪を耳にしながら……。
三日間の御修法を終え、空海さまはお弟子達とともに後宮を下がられた。
わたくしは一度もあの方とお会いする機会を持てぬまま、人づてにあの方が禁中から退出なされたのを聞いた。
その数日後、和知が誰も居ない時を見計らって、わたくしのもとににじり寄ってきた。
「……叔父がわたくしに、お妃さまへの文を手渡しております」
「空海さまがわたくしに御文を……?」
わたくしは小首を傾げて和知から御文を受け取り、辺りに誰も居ないのをいいことにその場で丁寧に開ける。
――護摩修法を行っている間、あなたが唱える真言と霊力を確かに受け取っていた。
我が靈氣とあなたの靈氣でもって、間違いなく祈願は叶えられるだろう。
それとともに、受け取った靈氣とともに、あなたの悲しみと苦しみをともに感じた。今あなたはなにかに悩んでおられるのだろうか。
こころ苦しいことがあるのなら、和知を通じてわたしに知らせてほしい。
後宮に居づらいのならば、わたしがよいように助力させていただく――
わたくしは御文を一通り目を通して、驚愕に打ち震える。
――空海さまが、わたくしの霊力とともに、悩みと苦しみを感じ取られた?!
わたくしはあの時、護摩を焚く空海さまを思い、真言を唱えていただけである。それなのに、あの方はわたくしの真言を感じ、霊力を受け取られたのか。そして、わたくしの煩悶まで感じ取られたのか。まさか……隠しているわたくしの想いまで、感じ取られた?
わたくしは手で口を押さえ、御文を片手で握り締めたまま立ち尽くす。
暫くの間そうしていたのだろうか。わたくしは細く息を吐き、仏間の蝋燭でもって御文に火を点けた。
料紙が燃え上がるのを見届け、わたくしは和知を振り返る。
「大丈夫よ、和知。わたくしは負けませんから」
そう言って、わたくしは微笑んだ。
わたくしに示してくださった空海さまの温情が嬉しく、ありがたい。
が、今逃げては駄目だ。簡単に負けてしまってはいけない。
いざという時に逃げ道を作っておくだけで、今はそれでいい。
空海さまのおこころを感じられただけで、わたくしは頑張れる――。